人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神はすべての道

2017-09-11 17:02:15 | 
「宗教帰一は各宗教を一宗教に統合するの意ではない。各々の意志想念が違っているように各々の宗教も違っているのであるから、大きな目で見た場合名称は神だろうが、佛だろうが、キリストだろうが何でもよいのである。すべての宗教団体や思想界が宗教の本質、すなわち信真と愛善に帰一したならば、回教でもキリスト教でも精神と精神とは宗派、民族、国境を越えて統一結合されたことになるのである」(出口王仁三郎)

宗教とは人々に安心立命を与えるものです。
自分の内部にそうしたものが無ければ勿論のこと、他者との関わりに相対立するもの、不調和なものがあれば、安心というものはありません。
宗教とは、何教であれ神仏への帰依を教えているものです。
それによって自他の安心に導かれるのです。こんな分かりきった道理などありません。
無宗教、神を説かない今流のスピ界でも、大いなる意志とかワンネスとかでそのサムシングを言い表しています。
今日は難しいことは何も言いたくないですが、分かりきったことを何で言わされるのか?
こんなに蔑ろにされていることはない、と感じているからです。
空気が無ければ、内臓機能をハタラカしめるものが無ければ、寸時も私は生きていけない...否、私を在らしめるもの無くして、そもそもここに存在してなどいないのですi
何よりも真っ先に知らなければならないことが、有りや無きやの論議が起こるほど、我々に関わり無きものになっていようとはi
我々を神と遠ざけ、その計り知れない愛、命というものを伝えないものは、神を説き、信じるという人間ではないですかi
実に信じる宗教こそ神と人を、人と人を分け隔てる障壁をなしてきたのです。
神とは人から教えられなければ分からず、信じなければならないものでしょうか?
だったら、信じる宗教とは神ならぬ人間を信じているのです。
神は、感じなければ分からないのではないですか? 感じられない?
他人が言っている抽象的な神などに何が感じられるでしょうかi
愛、命...人から何を教えられても、自分が感じなければ絶対に分かりません。
そして人間として生まれてきている者として、それが感じられないということはあり得ないことです。
私は物心ついた時から、多分に母親の影響でしょうけど、"神...何とも有りがたくなるもの"、愛、命というものと共にあるもの..."ということがボンヤリと感じられたのでした。
人の手になる如何なる宗教も、私に根付くことはありませんでしたが、このものはずっと息づいているのです。
今、"神(何の神ということでなしに)..."と、パッと意識するだけで愛と命が心身に浸透してきます。
特別な神でなくとも、感じられる限りの最愛、最善のものに意識を向ければその一端は感じられないでしょうか?
神とは漠然としたものでしょうか? 感じられるものほど具体的なものなどありません。
観念的信仰から始めるのでなく、愛にある、包まれるところから本当に信じるということ、信じざるを得ないことが生まれるのではないでしょうか?
末葉末節に囚われた宗派信仰から、宗教の原点に立ち帰ることでどれだけ自他に平安がもたらされることでしょう。
神は万能なのかどうかは分かりません。
しかじ、神に帰るところ、神への帰依の道からあらゆる道は開けるでしょう。神は我々のすべてであるから...全一のものに和合せざるを得ません。
そこから神が顕現してくるのです。






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真偽の二道

2017-09-10 12:09:45 | スピリチュアル
"太陽フレアの動きが活発になっている...磁気嵐が地球に迫ってくる ..."という報道を久しぶりに聞いた気がします。
私は、個人的にも夏の終わりから秋の訪れという、この時節が一年のうちでもっとも何かの変節が起こりやすい、という印象を持っています。
これは夏の暑さで思考がくたびれ、弱まっている状態に、その薄くなった思考のバリアの合間から、その奥に隠れていた意識を活性化させるような涼風(表向きには分からない風もある)が吹き込んでくることと関係があると思います。
この時節で著しく現臨に捉えられたことは二度ありました(特に初めのは爆発的でした)し、それに近いことも数回ありました。
そして、こうした変節を促すような状況は、この時節に限らず年々促進されてきている、と感じているのは私だけではないでしょう。
それに加えて太陽の動きというのも無関係である訳が無いはずです。
つまり、我々の思いという働きは、年々弱まってきており、内なる霊性を呼び覚まされてきているのを覚えざるを得ないのです。
超進化論者ティヤール.ド.シャルダン(人類進化を促すものとして思考圏というものを唱えた)とは、違った意味での思考圏に風穴が開けられ、そこから聖霊の火のごとき不可視の光線が差し込んできているのでしょうか?
しかし、物事が活発になってきていることの一方では、その反動というか、それを押し止めようとする動きも又活発になってくるものです。
それは我々に諸々の想念、思いの働きをより強め、思念によって作られた世界に閉じ込めようと益々促すことでしょう。
我々は今、かつて無いほど事の真偽というものが別たれてゆくのを、目の当たりにしているのではないでしょうか?
一体、何が真実で、何が虚偽、幻想なのでしょうか?
私はここで敢えてそのことを言おうとは思いません。
ま、そこを敢えて言うなら、"これが真実ですよi、真実はこれしかないですよi"と扇動するようなものにこそ注意を要するということでしょう。
自分自身が本当にそう感じたものでなければ真実などどこにもないのです。
覚者先生が何を語ろうと、経典に何が書かれていようと、科学者が何を立証しようと、あなた自身を離れて真実などないのです。

ある日、他の如何なるものにも、寄りかかることが出来なくなる事態にもなるかも分からない...
それが思考が機能しなくなるということを意味しています。
全ての拠り所を失わんとする思考の集合体は、"ここぞ"とばかりに、ギリギリ残された思考ばかりで固められたゾーンへと我々を誘導するのに躍起になるだろう...
して、その精神的牢獄に閉じ込められた我々の運命や如何に?...

というような、ストーリーも一方は光の霊団、一方は闇の勢力に見立てて、盛んに妄想に掻き立ててくるものもあるから、敵も油断も隙もあったものでありません。
敵ってーのは? 闇の勢力? その真実も又自分自身にしか存在しないでしょう。
"何でいつまでたっても自分には魂の平安を見出だすことが出来ないのか?" そいつは、自分の中の"そうなることをもっとも恐れている"悪の黒幕に聞いてみりゃ分かることでしょう。
真偽の二道は、いよいよ退っ引きならぬ方向に進む ...
私はこの事を意識していたか、しないでか最近の記事では、その事に関連したことばかりを書いてか、書かされてきたかしてきたのです。
彼方に夏の入道雲、此方に秋の雲を望みながら...
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自由をめぐりて

2017-09-08 16:21:41 | 雑感
人は皆、何を思い、何を感じ、どう生きていくかは全く自由ですよね。
逆説的に言うと 何に囚われ、どう不自由な生き方をしていようと自由な訳です。
自由というものほど、有り難く、厳しいものは無いのではないでしょうか?
"何をどう書こうと自由だーっ!"をモットー?として、こうして書いていて、手前勝手なことを言うようですが、あまり書かれていることに捕らわれないで頂きたいと思っているのです。
時には、読む側にトラワレをもたせてしまうような、シンラツなことを書いたりしますが、人によっては"あれは私のことを言っているんだろうか?"と考えすぎる向きもおられるかも分かりません。そう、それは図星かも...しかし多くの人にはそうでないかも...ああいうのは、ある人のことが念頭にあって書いてたりするのですi(いつも何も確証の無いオカルト的観念にハマってしまう、その人はある時、"こういうことはもう止めなければなりませんね"、と洩らしていましたが、止められないようです)
個別のイロイロな人のことは分からないですから...同じ言葉を違う人には向けられなかったりするのです。
自由な感性で読んで頂きたいと思っているのです。
何であれ、他人が何を言おうと、あなた自身が思い、感じたものこそがもっとも尊ばれるべきものですi
例えば、私自身が感じ、経験してきたことから"ある教え、教師、メソッドなどに無批判に迎合したりすべきでない"、などと言ったりしますが、別の面で絶対的帰依というか、それらに無条件に惹き付けられてしまう運命の人もおられることでしょう。
内なる魂がそれに赴くというのは、もうどうあっても、こうあっても、そうなってしまうということなのであり、他人の出る幕などありません。
それで、ずっとその道を深めていくこともあるだろうし、自分に不都合なこと、不自由なものを感じたら新たに学ぶことも、気づくこともあるでしょう。
後者については、他人が何を言おうと、自分がマイナスなものとして、間違いと感じなければ、そう自覚しなければ意味がありません。
一般論のような抽象的なものでなく、自分自身のこととして理解されなければ、本当の学びにはならないでしょう。
何を思い、感じ、信じ、道を歩む、生きていく...それは自分がしている...当たり前の真実ですよね。
確信を得たい、目覚めに預かりたい...自分が本当にそう望まなくして開かれる道理などありません。
表向きの自分には分からなくても、何か内側にそう促しているものを感じないでしょうか?
(逆に頭の中では知識的にそう思ってはいても、内心ちっとも望んでいない場合など宗教信者には多いものです。どこか他人事になっているからでしょう)
魂が何に赴くかは人それぞれのもの..."この教えを信じましょう"、とか"このやり方でなら悟れます"、"高次元の神からの..."といった言辞が如何に大きなお世話であることでしょう。
意識の表層をくすぐり、やたらと、予見、固定観念ばかり植え付けるばかりの言葉からは、自己の内奥が開かれることがありません。
本当の自分の感性から精神の深みへと自由に赴くということがないからです。
宗教、スピにはかえってトラワレの元になってしまうものが多いですね。そうした思いに慣れてくると、そもそも自由とはどういうことかすら分からなくなってしまいかねません。
私はつくづく感じます。自由であることとは、実に幸福なものであるということを...
それは本当の自分から来るものであるとは、一応言えることではありますが、真我であろうと、エゴだろうと自分自身を受け入れなければ、自分の世界は何一つ始まってきません。自分がそう感じなければいかなる幸福もあり得ないのです。
この事を伝えたいがため、つい私も余計なお世話を呟いてしまう次第なのです。
でも、あなたの本当の真実はどこまでもあなた自身にゆだねられているのです。






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思いのクセと意識付け

2017-09-06 17:34:32 | 意識、照明
人間には誰しも思いのクセ、パターンというものがあり、それに引きずられるように行動に駆り立てられていくものですね。
それがより強く即物的なものに転化されてくると、アルコール、ニコチン、過食、拒食、バカ買いなど依存症と結び付くことにもなります。
大体において身心にマイナスなものとして捉えられているものです。
それは、「分かっちゃいるけど、止められない」ものです。
"こういうことを繰り返していても良いわけはない...何だか空しい..."ということは何となく分かる。けど止めようとしてもそう出来ないのがカルマなんでしょうか...
"分かっている"というのは、自覚意識の表れな訳で、これが無いというのは、救いようがありません。
もっとも本人は、それでいいと思っているんでしょうから、端の者が何を言おうと、人生は全く人の好き好きです。
精神的な方面では、どうしても異次元とか前世、予言など何らの確証もないことにやたらとハマってしまう人がいます。長年そうなっていて思いのクセから離れられないのでしょう。(これは実際にそうした世界と交渉している所謂霊能者とは別です)
こういうことにいくら思いを巡らし、信じ込んでいても(信じなければならないような気がするのでしょうか?)魂の平安にはつながらないことは、おそらく当人には内心分かっているのでしょう。
又ある知人で、やたらといつも違う教会(キリスト教がほとんどのようでした)を渡り歩いている人が居ました。
自分の魂のピッタリ合うところを求めているのでしょう。いい加減な気持ちで納得など出来ないようです。(一体、誰のことだろう?)
この人がある日「ある教会の人の話に私は心底共感した」と言っていたのですが、今度は又"別の新しい教会へ行ってみる"、と言います。
私は「教会廻りも楽しくて良いだろうけど、どうしてその共感したところでじっくりとそれを深めてみようとしないのですか?」と聞いてみたのですが、「別のところへ行けば、別の共感が得られるかもわからない」とか言って、この人は"どうも違う、いろんな教会を遍歴することが思いのクセになっている"ということが感じられました。
この二つの例というのは、何を隠そう私自身の思いのクセ、傾向としてある時期、ハッキリ有ったものなのです。
ただ私には、そうした思いに囚われている時でも、"こういうことを繰り返していても、心の底からの確信も平安も得られない..."という自覚意識はありました。(後者の場合、宗教遍歴ということで無しに、自分の魂にガツンと響くものに廻り会いたいという思いはぬぐい去り難く、根強くありましたが...)
この思いのクセは、私がある邪教集団に迂闊に近付いてしまい、恐ろしいメに合ってしまったことで、"宗教的世界には、興味本位、軽い中途半端な気持ちで近づくもんじゃない"ということが肝に命じて知らされ、離れられることが出来たのです。
そして一時的な意識障害のような状態を経て、何とも言えない平安に包まれるような感覚が意識に根付くようになったのです。
それからというもの、この免疫が出来たことにより、肝を据えて探究に勤しむこととなりました。(笑) 内的な促し無しに、軽い気持ちで道を求めることはなくなりました。
これは自ずと意識が、その内なる平安をもたらすものに向かわせられることでそうなるのです。
この自然的な意識付けのようなものによって、いたずらにトラワレの元になるものに思いが馳せて行くことが無くなりました。
逆に言えば、これが根付いていないために、皮相的なものに囚われてしまうのでしょう。
いつも思いのクセで、落ち着きなく心をさ迷せ、何かの観念に囚われているより、内なる平安に捉えられていたいものです。
それで"これでいいんだろうか?"という思いになるわけでなく、"これでいいi"という意識になります。
そこには、外向きに依存的な心的状態と自由で主体的なそれとの違いがあります。
まあ、自分の内なる声に得心いくまで尋ねてみることですね。
他人はともかく自分の魂は誤魔化せないもの...心底から"これでいいi"というまで...。




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現存と虚妄

2017-09-04 12:46:21 | 雑感
こうして文章を書いていて思うことは、つい色気を出して話をことさら盛ったり、飾ったり、鼻モチならないのは、実際にそういう心境になってたり、実感している訳でもないのに、高遠そうなことをつい言い表してしまいがちになることです。
プライドの虫というのは、いつ顔を出すのか分からないものですね。
つまり心に無いようなことを書いてしまう、ということです。このことは常に留意し、自戒していきたいものです。

"私が信奉する教師は、6次元いや7次元におわしまし、キリストやブッダと同等、いやそれ以上、地球の救済のために何度となく生まれ変わり、今アセンションに向けて最後に降臨したもうたのです"
6次元だろうと、7次元だろうと他人が言っていることを鵜呑みにし、無批判に迎合してしまうことは、2次元的平面思考から一歩も出ていないということでしょう。
こういう話は、どんなに言葉が高遠そうでも、観念が遠くの方へ馳せ飛んで、中有にさ迷っていくだけで、心に何も響いて来ません。
魂の平安といったこととは、何もつながらないのです。
その教師が言うには、"人は本来神と一つのもの、既に悟っている、救われているのです"と...
だから、ひたすら"自分は神と一つ、既に悟っている、救われている"と...信じるのみ。
"地球も救われる"と言っているから...信じるのみ。
そしてオウム返しに頭の中でよく内省も無しに、暗示のようにその言葉が繰り返される...
又、ご丁寧にも"こういう有難い教えは多くの人に伝えねば..."と、外に発信してしまう...
自分自身に何らかの確信、実感、腑に落ちている何かでもあるのでしょうか?
自分自身の心に何も響いてもおらず、平安を見出だしてもいないことは、自分がそうなら何を迷っていようと、その人の勝手なんでしょうけど、外には心のない、命のない言葉を投げかけているということをその人は理解しているのでしょうか?
その周囲にはどこにも導かれない思念がグルグル回り続け、真実を覆ってしまうのです。
真実というのは...(多分本人にしか分からないでしょうけど...)例えば"自分は真実のことが何も分からない"という現実だったりするのでしょう。(いや、何人にとってもこのことの他に真実、現実というのは無いのではないですか? 御同輩i)
そしてその事が本当に腑に落ちた時、蒙昧から覚めることが出来ます。
目覚めというのは、眩いような特別な体験のことでなく、けだしこういうことでしょうi
私はここで例えば、神人一体の体験のないことを、言い放つもんじゃない"と言っている訳じゃありません。
心に無いこと、現実から遊離し、真実を覆い隠す言辞のことを言っているのです。
真実は体験が有ろうと、無かろうと、誰しもの心の底に生きているものです。
それは何人をも愛と現存に導かずにおれないものです。この生まれる以前からの初めの愛あるゆえに、この矛盾、混迷の中にも人の生の花も咲くというものです。
私は、いつも妄想に走ってしまうことを飽きもぜず繰り返している人で、言葉を超えた愛に触れた体験を表明していたのを知っています(ン...体験なら誰だってしてまっしゃろi)
こういう話というのは、たとえウソっぽくっても、何か伝わるものはあるものです。初めの愛にはウソはつけないものなのでしょう。
それはどこにも消えることなく、ここに生き続けるもの...
現在は、現存と虚妄がますますくっきりとたて分けられ、写し出されてくるようです。
それは取りもなおさず現臨が示現してくる、ということを表しているのでしょう。
願わくば、この拙い試みにも、その何がしかが写り出されんことを...

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