人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

無類のモンスター

2019-05-20 11:49:59 | 雑記
"今回のボクシング、バンタム級最強を決めるトーナメント(WBSS)は、実力伯仲で誰が優勝するか分からない...優勝候補の一角ゾラニ.テテの離脱は何とも残念だが、その代役に古豪ノニト.ドネアが勝った試合以外は接戦ばかりで、ヤッパリ、このクラスの強豪が集結したトーナメントらしい展開になっているようだ..."

...以上は、そんな他のボクサーを尻目に圧倒的な強さを見せつけて、これまでの三試合に要したラウンドがたったの四回と、一日で(昨日で三人抜きをしたような形です)頂点に立つんじゃないかという勢いで勝ち続けるこの男が居なかったら...と仮定しての感想です。
(同じ仮定で亀田和毅あたりが出ていれば、結構いい線いくのではないでしょうか?)
井上尚弥。彼の存在でこのトーナメントの様相は一変してしまうのです。
彼がシードされていて、挑戦者決定戦をやっているようにも思えてきます。
同じ体重で戦っているのに何故こんなにケタ違いに強いのかi
過去にも"怪物"と言われたボクサーは何人か居たけど、彼の強さはほんとに人間離れしています。
これまで随分とボクシングを観てきましたが、ハードパンチャーというのは居るけど、そういうボクサーは大体スピードが無く、又スピードのあるヤツってのは、あまりパワーが無いのが普通なのです。
強豪と言われるのは、両方兼ね備えているボクサーと言えそうですが、井上の場合、パワーもスピードも段違いなのですi それでさらに防御も抜きん出ているときてるから手の着けようがありません。こんなボクサー観たことありませんi
M.タイソンにしろ、長谷川穂積にしろ、一時鬼神の如き強さを発揮する選手も居ましたが、そういうピークは、そんなに永続きするものじゃありません。せいぜい2、3年くらいです。
しかし、井上が不倒のO.ナルバエスをバッタバッタ倒して、我々を驚愕させてから4年半も経っているのですi
この時は私も井上の評価はもう少し観てみないと...という気持ちもありました。
現役の選手をオールタイムで評価するのは難しいですけど、もう何試合も日本いや世界の、その最強と言われるに値する試合を見てきました。
それでも、私はまだ(おそらく数多のボクシング識者も)ほんとの井上の実力というのを、測りかねているところがあるのです。
これが中々パウンド.フォー.パウンド(体重超越したランキング)で堂々一位にならない要因があると考えられるのですが、要するに彼の死力を尽くした、底を覗かせるよう試合というのを我々はまだ見ていないのです。
言い換えると、どこまで強いのか分からないということです。
昨日は何年振りかで、1R彼がクリーンヒットこそ許してないけど、攻め込まれるシーンがありました。
ここ数試合は、皆相手は井上の強打を警戒して、距離を取って戦ってましたが、身長が10センチ以上もある相手も、強力なステップ.インで苦もなく掴まえてしまいました(考えられんi)。
おそらくロドリゲスはそれを踏まえて、その驚異の踏み込みを封じるために至近距離を保つべく前に出てきたのでしょう。
これは得策...と思う間もなく、ショートレンジからのフックを浴びてしまいました。ヤッパリ打ち合えばそうなってしまう...どの道マットに沈むことになってしまうんだ...もはや、どうしようもない強さi
まだ決勝が残っていて、ボクシングは何が起こるか分からないものだけど、かつての戦慄のKOアーチスト、ノニト.ドネアはその後継者にふさわしいこの男と差し合いをして...戦いに敗れた侍のようにグローブを下ろすことになるように思えてなりません。
井上尚弥の強さは全く私の思いを超えています。過去の世界のどの名王者と呼ばれたボクサーと比べてみても、一寸無類という感じです。
(名王者には決まって、好敵手という存在が居て、名勝負というものがあるものですが、これまで強すぎてそれに与ることがない、これが不満と言えば不満でしょうか?)
今まで観てきたボクシングというものが幻想にも思えてくるではないかi
しかし、このリアルタイムで観ている現実もいつかは幻想になるのか...リングの神様だけが知っているのでしょう。

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人生の教師と見えざる導師⑥

2019-05-19 12:04:23 | 人生の教師
昭和52年晩秋からほぼ一年間、私は市川にあった白光会に毎月のように通っていたのですが、集会中で聞かれる例えば「五井先生は今世紀最大の聖者ですi」「これ以上の教えに勝るものは無い」といったような、やたらと五井先生、会を持ち上げる言辞が鼻についてしょうがありませんでした。
もし、先生がよく言っていたように、宗教の目的が"本心を開くこと"、"神仏との一体化"ということにあるのなら、そのこととは何の関係も無いことと言わねばなりません。いや、そういうことに囚われていたら、かえって神的なものとつながる道の妨げになってしまうでしょう。
思念から離れねばならないのに、その団体を取り巻く、集合的思念を強めてしまうことになるからです。
どこまでも神的なものに心を開き、その臨在を受け入れることを主眼にしなければなりません。
そのことが思念から離れるということであり、自己と対象であった神仏との乖離が段々無くなって行くことになるのです。
集合的思念に囚われていては、いつまでも二元性、相対性を超えることが出来ません。

...というようなことは、現在の私が書いているのであって、当時の私は、"人間教祖(見える導師)に囚われるからダメなので、霊なる教祖?(見えざる導師)につながらなければならないのだi"、なんてことを漠然と考えていたのです。
そこで、五井先生もメンバーだった「道院紅卍字会」や、兵庫の豊岡にあった「光の道」といった、共に神示を伝えている、教祖を置かない団体に関心を寄せていたのでした。これは、そういう団体をこれから探すということでなしに、私にすでに備えられていたのです。
思い返せば、こうして"見えざる導師"なんてことを、言い表す度に何とも奇しき導きというものを感じざるを得ません。
実際には、相対を超えることを目指したそれらの団体にあっても、思念に囚われ、数多の団体と変わらないような様態もあったりするのですが、私にはとてもシンボリックに当時の私の心象を映し出しているように感じているのです。
そして、それからすぐ(それが意識の深部に浸透し、捉えられてしまうようなことは数年先でしたが)、初めて思いを超えたハタラキを身に覚えるようになったのです。
見えないということは、見ている私がここに居て、こちらから対象的に眺めているようなことではありません。
これが二元性を超えた直接性ということなのですが、どの先生が上とか、どの教えが唯一正しいもヘッタクレも無い、比較対象というものが消えてしまう..."無相、無双"なのです。
それでもこの見える現実に照らして、あなたにとって無上の教えとは何かと問われれば、もう分かりきった話です。
最愛のものからくるものに決まっているでしょi 誰かを介したものでなく、自己と相即したものであり、相対を絶した絶対的なものなのだから。
それはあくまで私にとって、ということなので、あなたにとっては、それは絶対的にあなたの最愛のものであるはずです。
世の中のどっかに唯一絶対の真理なんてものがある訳じゃない...自己のうちに、又自己を超えたもの(これは矛盾した言い方のようで、同じことです)に心を開かれなければ、見つけることが出来ないでしょう。
結局、本心を開くことは、自己信頼から生まれるということではないでしょうか。それを欠く時に集団的思念に覆われるようになります。
"自分を愛し..."なんてことを教えていたのは五井先生が最初でしょう。
最近の私は、諸々の思いを超えて、五井先生が本当に伝えたかったことが、すっと入ってくるのです。
かつて見ていた先生も、何だか見えない感じになってきたようです。


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思いを超えた導き②

2019-05-17 12:16:27 | ガイダンス
昭和53年の今頃の時季、私は大学に行ってはいたけれど、授業など放りっぱなしで、図書館で宗教、精神世界的なことばかり勉強してたくらい、毎日そんなことで頭が一杯でした。
ただ、それで自分がどういう方向に歩もうとしているのかは全く分かりません。
当時ある種の導師的存在だった五井先生に倣って白光会に入るのか、いやもう、特定の団体に関わる信者生活は、その少し前に味わった、精神的呪縛を抱えることになりそうで踏み切れない...といった具合にとにかく宙に浮いている状態なのでした。
そして又、その界隈には何が現実で、何が空想なのか判然としない、エーテル状の空気が取り巻いているようで、それがさらにそういう感じをもたらしているようでした。
五井先生が唱導していた「世界平和の祈り」も思い出した時にやる程度で、あまりハッキリと心が安らぐという感じにはなりませんでしたが、真夏の頃からか、"ぐぐぐっ"(上手く言葉では伝えられない)と、"あ、これは何か違うなあ..."というものを感じるようになったのです。これは自己流の祈りに拠るものです。
自己流と言っても、言葉の通りのものでもなく、決まった祈りの文句や形がある訳でもなく、そういうもの以前の心の在り方に関わるもので、それは大体"み心のままに導きたまえ"というようなニュアンスの祈り心、心持ちで居るようなことです。
こういうのはヤッパリ自己流というのは当たらないでしょうね。しかし、誰に習ったのだろう...
思い返せば、これは全く当時の私自身の内心からの現れと言う他ありません。
そういう心持ちで居ることで仄かに"愛、平安、リアリティ"というものを覚え始めたのです。
これが、いつも言っている"意識を神的なものに向ければ、それに導かれる"というものの端緒なのです。
とにかく、祈りとか瞑想とか言いますが、五井先生が言われるように、思いを神的なものに向ける、満たしておくことが肝要なのです。
そのようにして、私は次第に混沌とした心的状態に、ある道標が与えられるようになりました。
端的に言えば"愛、平安、リアリティ"にあるものに導かれるようになった、ということです。逆に言えば、そういうものを感じないものを識別するようになったのです。
こうして私は宗教、精神世界に取り巻く、現実とも空想ともつかない、前世とか高次元世界といったオカルト的言説に容易く迎合しなくなりました。
"み心のままに"ということは、全託に通じるものなのですが、私は何となく、そのうち何かのっぴきならない事態に陥ることになるような気もしていました。
あにはからんや、それはその年の暮れに起きました。ウカツに近づいた洗脳集団への恐怖から、必死に祈っていた(これはもう、なりふり構わず"助けて下さいi"という体のもの)ところ、思考が止まったようになり、それどころか意識も飛んで行きそうになってしまったのです。
これは気休めどころでなく、本当にみ心ままに神にゆだねるしかなかったのです。
そして、このことがその翌年早々、初めて現臨に与ることとつながって行った訳です。
こうして徐々に、思いを超えたものの消息が示されて行ったと言えるでしょう。
やはり改めて思うに"見えざる、思いを超えた導き"というものを感じずにおれません。
そう考えると、自己流のような祈りも"見えざる導師"直伝だったようです。

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自己流が一番

2019-05-16 12:01:26 | 独語
世の中の信じたい人、教えたい人は言う...

"自己流はアブナイですよi、ちゃんとしたOO先生が教えているようなものに則っとったものに依らなければ..."
"ウイキに依れば...何? あんなイイカゲンなものは無いだと?...じゃあ、平凡社の百科辞典でもいい、そこに書かれているのがちゃんとしたその道のあらましなのに、あなたが言っていることは、そのどこにも書いてない、そんな自己流は異端だi 従うべきじゃない"

自己流?...
他人の自己流は知らないが、私のこの自己流って?...
いつ、どうやって覚えたんだろう...
何を参考にしたんだろう...
私は私にイニシエーションでも授けたのだろうか?
いつの間にか身についてしまった
自ずから、己に流れるように...
だから、やり方がどういうものかは知らない
この自己流は、さしずめ無刀流なのかもしれない
異端だと思いたきゃ、思ったらいい
"従うべきじゃない"って? 安心なさい、私はあなたを従わそうなど思ってない、あなたは従うべきじゃない、従えないだろう...
だから、自己流なんだ...
そうすべきじゃない、と思ったとしても、そうなってしまうよi
自ずと、惹かれるままに...そう赴かざるを得ないように...
だから、自己流が一番なのだ
それは最愛のものからくるものだから...
OO先生が言ってようと、聖書、百科辞典に書かれていようと、どんな権威が張られていようと、そこに惹かれてやまないものが無ければ、私には他流だi 異教だi
何? 信仰がぐらつき出して、その自己流に肖りたくなっただと?
教えて欲しい?...あかんi...何で関西弁なのかは分からないが...なんぼやi
いや、ゼニカネの問題でなく、それに肖りたかったら、あなたの神に聞いてみるこっちゃi
世の中の異教の神じゃなく、あなたの真の神にね...古今東西、誰にとっても、それが一番なんじゃないか?
ほんまやて...
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今ノンデュアリティchが面白いi

2019-05-14 11:51:04 | スピリチュアル
ネットに2ch、5ch(掲示板)というのがあります。
これは、もうとにかく荒れることで知られるもので、マトモに読めるのは少ないのですが、最近アップされてるノンデュアリティ、ノンデュアリティ.ティーチャーに関するものは、その辺のそのテの教説を読むよりはるかに面白いし、ためになります。今のところ"荒らし"は、現れていないようです。
最近、頻繁に投稿されているのは、関西弁のオッチャンで、この人OSHOやクリシュナムルティ、五井先生と会ったことがある、というから結構年配のようです。
この人らのオーラってハンパないんですとi...他には五井先生と紛らわしい五井野某氏...へえ、そうかねえ?...後は本山博士とか...(オッチャンこの人にかなり影響受けてるようでんな...)
連休の間、このオッチャンと非二元原理主義者とおぼしき人?とのやり取りがありました。
オッチャンは双方、理解が曖昧なままの不毛なやり取りすることを避けるためか、"非二元で言う自己とは何か?"、とか話を整理しようとするのですが、相手は"その自己というのは非自己なんで..."とか、上から目線で、"話を聞きたければ、あなたが学んだことはすべて捨てなければなりませんi"とか言ってマトモに話に応じようとしません。
特に議論を吹っ掛けている訳でも無いのに...(ま、"意識の構造"とかの話もメンドクサそうやけど、共通の理解ちゅー場を見つけるちゅーことは、こうした対話の基本ちゃいまっか?)
こういう人が何でこういう場に出てくるんでしょうかねえ? "消えてもらうしかない"、と思っていたのですが、どうやら"私は居ない"境地に達したようで、退場されたようです。もっとも、誰が誰だか分からんのがこの場だし、"なりすまし"も居るかも分かりませんが...
ここ数日はオッチャンと、原理主義というほどじゃないけどバリバリ非二元論者(ラマナ.マハルシの帰依者?)と、ビギナー(不適切、エラそうな表現なんやが、敢えてそう言わしてもらいまっさ)とで展開されているようです。
ビギナーはどうも、オッチャンが紹介していた五井野氏の「瞑想したって仏になれない」という言葉に引っ掛かってるらしく、しきりに"瞑想しちゃダメなのかなあ..."と呟く...それを非二元論者が"瞑想したらダメi"とプレスする...で、ラマナの本「あるがままに」を何回も読めiと...オッチャンはマハームドラー修法が載っているOSHOの「存在の詩」を熱く推してる...(ワイはどっちも読んどるでえ...人それぞれバイブルつーのんはあるねんな...)
どうしても、"どうやったらええねん?"て話になりますね。
非二元、ラマナ.マハルシと言えば、"私は誰か?"とひたすら尋ねてゆく真我探求の道です。
私はマトモにそれに勤しんだことはありません。何か自分が自分に尋ねるみたいに、空回りしそうで、入り口で挫折しそうです。
するとオッチャン..."己でないものを識別すればいい"と...(こりゃ、ええi オッチャン神様やi)自分からは中々"私"を見つけられないのです。しかし"私でないもの"を識別しようというところには、あの"すべてを見透す、観照する目"、"照明"を誘起させるものがあります。これが立ち上ればシメたものです。
そうなると、後はサット.チット.アーナンド(アーナンダ。存在、純粋意識、至福)に導かれるのみ...
"能書きはいいから、どうしたら真我に至れるのか教えてi"
"サット、チット、アーナンドを能書き言うたらあかんよなあ"(そや、そやi)
そこには、熟達者もビギナーも無い...
"真我の探求"もよし、"守護霊、守護神に感謝"もよし、"主イエス.キリストにあって"もよし...
(分けられんさかいな...ほんま、ノンデュアリティやなi)←あんた、誰?
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