人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思うだけで...

2022-03-21 10:51:07 | 意識、照明
“パッと、意識を向ければ、パッと開く”...という無為的な神的現臨にある状態というのは、何かの回路みたいなものが開かれるようなもので、一度開くと、意識するだけで自動的に作動する感じになります。
これが、一個人の思いや能力を超えたもの、ということを物語っている訳ですが、初めに何に意識が向けられたか、ということが重要なんですね。
私の場合、それは神的なものだったということでして...説明するだけヤボな感じなんですが...
神のことが知りたい!、という心の奥からの根強い要求がある...しかし、それは人が言葉によって説明し、それを頭の概念で分かっただけでは到底満足出来るものではなかったのです。
これは、例えば聖霊であるとか、霊妙なる何かの力のことでも同じであり、つまりそういうものの総称を神的なもの、と言ってもいいのです。
そのことを思うだけで、何かこちらの心の状態が一変してしまうような何か(私は実際にそうなる前からその何がしかを感じていた!)思うだけで、ヒタヒタと何かが迫ってくるのが感じられる...もう、ヤボな説明は要らない!
本当に神を知るということは、思いを超えたものを知るということに他ならないのです!
神についてのアレコレ、見てきたような所謂霊界についての、前世や前前前世についてのただのお話...それを知っても何一つこちらに直接触れてきません。
”スゴイ!...この人は超能力者だ~!”...バカ言ってんじゃない!...
そうやって、無批判に感化されるということは、覚醒どころか、催眠にかけられるということにも気が付かないのだろうか? 
意識が向けられるものにより、心持ちがどう反対するのか?
自然に、広がってくる、あるいは深まってくる感じがあるか...それは心の奥からやみ難くもたらされてくるものなのか...そして、愛、平安...
あなたの本心に尋ねてみられよ!
本心に意識を向けられる人にはもう説明は要りません!
本心を持たない人間など居るでしょうか?...本心へと開かれた通路を閉ざしている人間が居るばかりなのでしょう。
自然に...ということは何の苦も、努力も無く、自ずと開かれてしまうということなのです。
それを思うだけで、何かが開かれてくる感じがしてこないでしょうか?
この場合、その思いの中に既に、純粋意識に根付いているものがあるからであり、それは誰にも自然な状態で開かれているものでしょう。
とにかく、一度そういう理屈抜きに意識が向いてしまうものに出くわしちゃえばいいのです!
いや、出くわす前からそのもののことは分かるのではないですか?
意識がそちらに動いているのだから...
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祈りから開かれる

2022-03-20 09:55:10 | 祈りと瞑想
私は、精神的な道において特別な方法に依拠してこなかったけれど、強いて祈りというものに親しんで来た、ということは何度も述べています。
具体的に言えば...求道の最初の頃身についていたのは、神、守護霊(言うまでもなく五井先生の影響です)への感謝と”み心のままに導きたまえ“、といったニュアンスが込められた祈りなのでした。。
勿論その頃は、思考とそれを超えた領域の区別など分かるはずもなく、ただ“思うがままに”祈っていた訳です。
しかしながら、そうやって祈っているうちに段々分かって来たことがありました。
祈っている時の意識状態というものは、ただ思考している時のそれとは微妙に違うものだ、ということが...
これがきわめて重要なことで、祈るということは、もうすでに自分の思いを超えたものに意識が向けられている、ということなのです。
それは、祈りという形を取らなくても、祈り心(言い変えれば、敬虔な心)とも言うべき意識状態にある時、そうなっていると言えるでしょう。
そして、この思いとそれを超えたものとの明らかな違いは、神的なものの現臨をはっきり感じた時に分からされたのは言うまでもないことですが、その萌芽のようなものは既に感じられていたのでした。
この祈りを何かの行といった感覚でする場合、注意しなければならないことは、自分が行じている、自分の祈りで...という思いに囚われないことです。
祈りの文句は、形はこうでなければならない...数多く称えなければ...何時間しなければならない...
これは自分の思念、力に頼っているのであり、神的なものに意識が向けられ、開かれてゆくことがありません。
だから...私は特別な方法に馴染むことは無かった、と言っているのです!((特別な方法を否定している訳じゃなくて、ここでは思いに囚われないことを言っているのです)
そうなのです!...あの御方無しでは何一つ開かれることが無かったのです!
最初は、漠然と、”じゃあ、祈ってみようかなあ...”なんてところから始まったのかもしれません。
しかし、その”祈ってみよう”といった一瞬の思いに、あの御方の本願がかけられていたのか、というようなことを感じずにおれません!...
これを思うと、もう随喜の涙が...
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ただ、このことだけを!

2022-03-19 10:05:05 | 現臨、ハタラキ
「キリストのお側にとどまるよう努めている際や読書をしている時など、突然神の存在が私に迫ってきて、神が私の内においでになる、または私が神の内に完全に沈められていることをまったく疑うことが出来ませんでした。...悟性は、働いていないようですが、失われているわけではありません。つまり、働いていないのではなく、自分の見ていることに驚いているのです。なぜなら、神は悟性に、いと高き御者がお見せになるものが何も分からないことをお示しになりたいからです」(アビラの聖テレサ「神の憐れみの人生(上)」.聖母の騎士社刊)

私はもうこのことだけを綴ってゆきたいくらいです!
そうしているだけで幸せでいっばいになります!
そして、伝えたいことも...
否、私が人に何かを伝える、教えるというのはおこがましいことです。
本当に、ホント~に私の能力、思いを超えているものなのだから...
神、本当の自分、悟り、霊なるもの...自分で考えたって分かりません。
そうしても、どこまでも分かったつもりになるだけです。
分からないものは、分からなくていいのです!
ただ、あの御方が思いを超えてお示しになることがあるのです。
私が何かを思い、何かを為している、そのままで、その外でヒタヒタとそれは私に迫って来る...臨んで来る...
私の中にそれが浸透し、あるいはそれがあふれ出てくる...私の周りもそれに包まれて、私と一つにされてゆく...
神のことも、真我のことも、この聖なるものの現存、現臨によって示されるのです。
思ったり、為したりすることの外のこと、ちっぽけな自分を超えたもののことは、あの御方が面倒をみてくれているのです。
“道を示されることより先に知ろうとしても、地図の上を歩くことは出来ない!”

私は幾度こういうことを書いて、幸福に与ったことか知れません。
だったら、自分だけのノート用に書いてたらいいじゃないか?
いいや、示されているんだからしょうがない!
“これはすべての者に通じているものなのだ!”
自分だけの幸福というものは、本当の幸福ではない、ということも示されているのです。
これを読んでどのくらいの方が幸福に与かるのかどうかは...
私の思いの外のことなのですが...



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地震の前兆?

2022-03-17 11:46:14 | 雑感
昨夜の東北方面の地震...驚きましたね。
あんなにたて続けに来るものだとは!
東京でも震度4くらいはあったでしょう。深夜近くにそれ以上の激しい揺れに見舞われるとは...
被害に合われた方にはお見舞い申し上げます。

実は、2.3日前、東北の方の空を見ていて、“これは、もしかしてヤバイかも...”と思ったことがあったのです。
そちらに帯状の雲が東西に伸びているのが目撃されたからです。そう、それは通称”地震雲“と言われていて、勿論、公的機関からは科学的根拠は認められておらず、一種の都市伝説のように扱われているものです。
だけど、私は過去に何度か予知したことがあるのです。イヤ、そうじゃなくて、私が予知能力者なんじゃなくて、地震雲研究の先例に則って、根拠はないけど、客観的見方(?)からそう思わされたまでです。(けっして、“見えない導師”のお告げなどではありません!)
2000年秋の鳥取西部地震の時は、大阪で前日の夕方アリアリと、そういう形状の雲を目撃して、その日の午後それが起きたのでした。
この雲の形状はどういうものかと言うと...困ったことに、ネットで画像を見るとマチマチなのです。
私が昔読んだ研究書(題名は忘れた)によると、それは秋頃よく見られる、学名“層積雲”、通称”むら雲“と言われているものと近いのですが、それは多くの場合、波状に幾重にも連なって現れるのに対してこっちは、ポツンと、“これだ!”とその存在を示さんばかりに切れ端状に現れるのが特徴と言えます。
それは、”なんかいつもの雲とおかしい!“と感じさせるものなのです。
それは、活断層に沿って現れるのだ、と言う...都合良すぎではないか?
いや、それは活断層から発っせられる、電磁波の粒子を多く含んで出来たものだからだ!...
な~んて、まことしやかなこと言ってるけど、アタシャ、全くの素人に過ぎません!
ただ、上記した例が私にはいくつかある、ということを申し上げているのです。
しかし、困ったことに、そういう雲を目撃しても、地震など何も起こらなかったこともあります。(イヤ、そうじゃない、起こらない方がいいに決まってる!)
そこに確証など勿論ありません。
又、余程のことがない限り、事前にそうした予知めいたことを公言することもありません。
デマにつながって、いたずらに人心に不安を掻き立てることなど...
こういうことは専門家の方々にこそ取り組んでもらいたいです。
しかし、一部の学者のように、頭ごなしに”地震雲など無い!“と、決めつけてしまうのは、科学的な態度と言えるでしょうか?
たとえば、先の電磁波の例などは、他の前兆例にも引き合いに出されていたりするのです。
可能性があるのならば、無闇に否定したりしないでどこまでも究明して欲しいです。

日本は古来より宿命のように地震と向き合わされてきました。
その前兆は、やはり古来より我々が親しんで来た自然の姿形が教えてくれるのではないでしょうか?

今朝、今年初めてウグイスのさえずりを聞きましたよ!
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わが町がわが国だったら...

2022-03-16 11:18:59 | 雑感
たった一人の権力者によって、多くの人々が戦火の犠牲になっている。
一昔前まで同じ国だったのに...
国...
国を支配する者は、その支配力を他国に、ひいては世界にも及ばさんとしている。
彼には自国に対する愛はあるのだろうか?
彼には自分が住む町というものがあるのだろうか?
そこで、人間の営みというものに触れることがあるのだろうか?
触れているのなら、多少とも民意というものがどういうものかが分かるだろう...
人間の営みが全く分からないものが国の代表というものらしい...

もし、国というものが自分の故郷とか住む町、一区のような小規模の区域だったら...
東京23区(いくつでもいいが...)は、その各々に自治権が与えられた連邦制で、その又、先に日本全土がフラクタルに連邦制になっている。
主権はあくまで自治小国家とその民。
権力というものの飽くなき増強を防ぐには、上部階層にその意識を集中させてはならない。
治世者と住民とは、距離が近いので、親しみやすく、不正も行われにくい。
何か問題が起これば、連邦委員会にかけられる。
凶悪犯罪も、自殺者も、イジメも減少するだろう...
地域住民との関わりの意識が強くなる...そのつながりを持つということは、自己、他己の尊厳につながるだろうから...
平和な営み...共に守ってゆきたい!
わが国は、わが町なのだから...

今の、この日本では考えにくいが、小国家では戦争を始めよう、という発想は生まれにくいし、まして核は勿論、大量殺戮兵器を作ろうことなどあり得ないだろう...

大昔じゃあるまいし、原始的小国家のことなど夢のようにしか思えないかもしれない...
国家という観念は、あまりにも巨大化してしまったのか?
だが、一人一人の国民からは、地域住民と共にある、という共同意識は失われてはいないだろう...
共同意識は、自立していて、しかも他とのつながりが感覚されるところに生まれる。
その局限は、各々の個人。
国家体制がどうあれ、それは変わらないのではないだろうか?
そこから遊離し、変質したまま化け物のように巨大化したものは、国家権力に纏わる思いではないだろうか?

古に小国家について説いた老子が忍ばれる...
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