人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

現臨と燃える柴

2022-03-15 11:56:02 | 現臨、ハタラキ
神的な現臨ということに触れると、どうしても旧約聖書、出エジプト記にある、モーセが燃える柴の中で神の臨在に与った、という記事のことが思い起こされます。
燃える柴というのには、色々な解釈があるのでしょうが、“火が燃えているのに燃え尽きることがない”というのは、わが国でも古来より火が霊的なものを象徴していることと同様に捉えてもいいでしょう。
ユダヤ教では、この神の臨在のことを“シェキナー”と呼んで、雲に象徴されるそうです。
火が燃えると、その周囲が揺らいで見え、雲が立ち込めて来ると、やはり周囲の輪郭がぼやけてきます。これは、おそらく思考機能が後退してゆくことを言い表しているのでしょう。
そして、神は「モーセよ、モーセよ!(お前はどこに居るのか?)」、と尋ねる...「私はここに居ます」と、答えるモーセ...
これは、実にモーセが神に対して「あなたはどなたですか?」と尋ねたことに対応しています。
「我は在りて在るものなり」
“私はここに在る”...あなたが在られるから私が在らしめられる...
神と実存は切り離すことは出来ない!...もう、このことがヒシヒシと伝わってこざるを得ません!
この在りて在るものーヤハウェは、イスラエルの民族神とされていますが、こうした実存関係をもたない神というものは存在しないでしょう。
民族の支配神だろうと、宇宙の支配神だろうと、それは自己と別在しているはずだから...
又、先の柴というのは、たき火などに使う木のことの由。
それは、あるいは生命の樹のようなものを象徴しているのでしょうか?
時間、空間を超えたシェキナーのような状態の中に見えるのは、あるいは、燃えない木のような人形を帯びたもの...もう一人の、永遠(神)の相にある自己のことかもしれません。
そして、燃え尽きる、消えゆくものとは、諸々の思念かもしれません。
神のことは、考えても分からない...ただ、想像、空想するしかないのです。
それが何かは分からないが、我々の思いを超えて、ご自体がここに臨むことによって、頭だけで無く、この全存在と一つに顕わとなるのです。
現臨、現存というもの無しに神は無い...神無くして、私の真実も無い!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

常に新しい道

2022-03-13 08:32:42 | 祈りと瞑想
私は毎日寝る前、祈りとも瞑想ともつかないことをやる習慣があります。
時間にして、そう...5分とかからないと思います。
こんな程度でさえ、いや、だからかマンネリ化したりします。
習慣というものには、これがつきものとも言えそうですが...
こんなだからその他の時間は、もう仕事とか世俗のこととかばっかしで、埋め尽くされちゃってる状態でして...って、んな訳ないでしょう!
おバカなこととかヒマなこととかしてますよ、そりゃ...
だけど、ここんとこの私の日々は、その根底に常に“じんじん”と、神的なものと共にある、という感覚を覚えているのです。
これは、多分常に耳鳴りがしていることと関係があると思うのですが、なにしろ、ちょっと意識を神的なものに向けたらそんなことになってしまう訳でして...
これはもう、ほとんど自分が何かを思ったり、やったりするという感じではないのです。
私が思い、やる何かでそうなるんじゃない...実に神的なものに依るのです!
だから何分やろうとか、そういう状態になる手順とかは一切関係ありません。
と言っても、全く勝手にそうなる、って訳じゃなく意識するということはあるのですが...
こうした無為的な事態にあっては、マンネリだとかスランプのようなものなどあろうはずがありますせん!
神的なものが現臨する、それが通られるということはそういうことなのです!
起こること自体は毎回同じかもしれませんが、それを受ける感じはいつも新しい!...いつもそこには、愛、平安、リアリティがあるのは言うまでもありません。
日常で表向きどんな無意味な、バカなことをしていても、奥の方で祈らされている、という感じかします。
これが本当にラク~なことなのです!...自分でやってることじゃないってことが!...
別にそういうことを思わなくても、日々感じていることは、神的なものと段々一つになってゆくようなのです。これはしかし、私の思いとは別にあることなので、それにゆだねるより他ありません。
私は実は、昔から毎回一定の時間、ルーティンのように祈りや瞑想に当てたりするのが苦手だったのですが、どうも“やらなければ!”という余計な力みとか、先の意識とは別のヘンな自意識みたいなのが入ったりして...
又、習慣化、マンネリ化することが嫌だったのかもしれません。いやいや、ただズボラ、イイカゲンだっただけなのでしょう?
とはいえ、そうした形で入っても、いつの間にか無為的になって時間が経つのを忘れてしまうこともままあります。
祈りでも瞑想でも、本質的には、祈らされている、瞑想させられている、ということなのでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

心の奥から沸き上がって来るもの

2022-03-10 09:56:44 | 
あなたは自分が信じたままを、感じたままを生きていますか?
本当に心の奥から沸き上がって来るものを感じて...
あるいは、そう感じるものがあったとしても、それを押し殺し、覆い隠してしまったりしてはいないでしょうか?
あなた以外の人の、周りの、世の中の、"いいや、それは違うi、あなたは間違っているi、みんな違うと言っているよi、どうしてみんなと同じ正しい方に向かないの?、それじゃあダメなんだよi、悪い人間になるよi、死んだら地獄へ行っても知らないよi、さあ、そんなことはヤメて、心を入れ替えなさいi"、という声に従わされて...
実際にそう感じているのはあなたなのに...
あなたは、あなたの人生を生きているのに...
私が昔、ある宗教に入っていた頃、少なからずそんな思いにさせられました。
"私は神を信じたい、神が本当はどういうものかを知りたい、感じられるものなら感じてみたい...それはもしかして、この心の奥から沸き上がって来るようなものと同じものなのだろうか?"
しかし、その現実では、ある種の同調圧力が支配しており、私が自由に感じることは引っ込められ、その信者らが信じている神に従うように仕向けられていたのでした。
私はその神にまるで使役されていたようだったのです。
これは、その宗教を、かく在るように信じられている社会、世の中に置き換えても同じことでしょう。
しかし、私はどうしても、この心の奥から沸き上がって来るものを包み隠し、否定し去ることは出来なかったのですi
だから、その宗教から離れることも出来たのです。
私はずっと、私自身が感じている神に祈り、問い続けていました。
"どうか、神よi、あなたの真実を示して下さいi、それが私が感じている真実と違うのでしたら、どうか、あなたの声でそれをはっきり示して下さいi、私が実際に感じてもいない神でなく、あなたの真実なら私はどこまでも従いますi"、と...
それこそは、心の奥に息づいているものに他ならないものでしょう。
ある時、その私の神から声なき声でこのように告げられました...
"私はここに居る...
私以外は何ものも居ない...
お前に指図するものも居ない...
お前は何を感じているか?
しかと感じるがいいi
自由に...何ものもお前を妨げるものはない...
感じたままをお前は生きている
それでいい...それでいいんだi..."
自由。...自由ということがどういう意味かは知っていましたが、こんなにもそれを強烈に感じたことはありませんでした。
逆説的にも、その時思考する、為そうとする力を奪われ、不自由な状態になっていたのですが...
私の神は何ら私を使役するものではなかったのです。
使役、支配されるような神を信じているのなら、これほど不幸なことはありません。
自由に、感じたままを生きることほど幸福なことは無いのだから...
それはあなたの、私の神が望んでいることなのだから...
それで、たとえ、死んで地獄に落ちたとしても本望ではないか?i
心の奥に感じているものを、表のなんや、かんやの思いでどうこう出来るものじゃありません。
それは自ずと沸き上がって来るものなのだから...
私にはある人生の節目で、そのことをはっきり示されたことはあるけれど...
ずーっと前から感じていたことです。心の奥で...。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ありのままを神に

2022-03-08 09:58:20 | 求道、探究
いつも言うように、私が人に対して批判的なことを書く場合、多く私が個人的に知っている、反面教師を念頭に入れているのでして、誰彼なしに、ああいう言葉を投げかけたりはしないのです。
彼とは五井先生絡みの因縁とか、色々あるのですけど、よくもまあ、いつも分かりやすく反面教師ぶりを見せつけられるものだなあ、とヘンに感心させられたりします。
おかげで実に分かりやすく、"ああならんようにしないとi"、という例が次々示されるようで、有難いと思っている次第なのです。
ああいうこと書いていて、手のひらを返すみたいですが、つくづく感じるのは、"人間は何て中途半端な生き物なんだi"、ということです。
"全身全霊をかけて..."、なんて言うけど、人間は、なかなかそんなに真っ直ぐ、心を一つに...なんて出来ません。
元来が中途半端なんだから...本当の自分が何だか分からない...それは、人間のことが分かってないに等しいです。
心は一方はあっち向いて、別な方はこっち向いてロンパリ状態..."中途半端やなあi"(古いi)
私だって人のことをエラそうに言えたもんじゃない...分かってますよ。
違う思いが分裂してる、葛藤。...迷っているんだけど、自分でその思いをどうすることも出来ません。
だけど、迷っている、分裂している、それが何ともシンドイ、ということが分かっているとしたら...自覚していること...これが実に大きいことだと思うのです。
内省的になってる人のことを、"どやこや"言える訳がありません。それこそが人間らしいことなんじゃないか?..それに引き換え、あの厚顔無恥の徒と来たらi(主たる矛先は、これに向けられている)...
自覚出来るということは、その思いから離れられるということです。自分の力で...そうじゃないi
それだけで、自分の思いを超えたものが直感されてきやしないでしょうか?
即ち、そっちに意識を向けることが出来るのです。まして、そこに神的なものが意識に息づいているとしたら...
ここからが肝心なことです。迷っている、心が分裂しているのなら、そのまま、ありのままをそっちにぶつけてしまう、投げ入れてしまう、ということです。
そうすると、自ずと意識は、専一に、全一的になって行かざるを得なくなり、神的な現臨に合い見えることになるのです。
これは五井先生が常々言われていた、言葉や形を超えた、祈りの奥義みたいなものです。
そこを自分の力で、自分の思いで何とかしようとする...だからいつまでも迷い続け、どこにたどり着くのか分からない、無駄な努力をし続けることになるのです。
迷っている、苦しい、しかし、自分ではどうともならない...それで自分の力の限界が分からされるのではないですか?
これはウソ、誤魔化しなく、ありのままの自分に向き合うことと言ってもいいでしょう。これを置いて神、最愛のものとの出会いなどあり得ません。
出来ると思っている人間は、いつまでたっても出来ない...
出来ない人間は、自分は出来ないが、出来てしまう世界に住むことが出来る...
人間は何とも逆説的な生き物だi...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

至福以外の何ものも無いi

2022-03-07 10:18:55 | 覚醒
前回も書いたように、宗教の狂信者とかある観念に囚われている人は、中々精神的目覚めに開かれることがありません。
そっちに意識が向いていない、その気が無いのですから...だからいつまでも囚われ続けているのです。
何かを思い、信じ、やろうとする自分が居て、その信仰なり、修行を一段一段重ねて行った先に覚醒といったものがある、と信じて何かに励み続けるのでしょうが...その先にはそういったそれまでの苦労、努力はご破算になる運命が待ち受けているかもしれない、ということなど思い及んでいるのでしょうか?
いや、どっかでそのように感じているかもしれません。覚醒にはそういうものが付きまとっているということが...
だからその気が無いのです。こういう人が向いているのは別のところにあるのでしょう。
"今よりも、人よりも高い、進んだ境地に達したいi"...神の道どころか、別の魔道が開かれるのは目に見えているではないかi
こういう人は、覚醒の夢を見続けているようなもんじゃないですか? だから、さっさと目を覚ますべきなのです。
時に、こういう人から"神に至るには全託することだ"、などという、場違いな言葉も発せられるようです。全託するというのなら、それまでの努力などご破算になったとしても本望ではないか?...それが本懐ってもんじゃないのかi
きっとその努力は報われるでしょうが...それに引き換え、中途半端などっちつかずの努力などi...
思い、やろうとする自分がガンバッているか、神的なものがそこに顕現しているかどっちかしか無いのですi
これはイエスでもブッダ、老子、五井先生でも等しく伝えていることです。
神が現前している時、こちらの思いも、為そうとする力も無化されているのです。この状態においては...そう、すべてをゆだねるしかありません!
ただ、それで本当に思いや力や欲望が無くなる訳じゃなくて、覚醒の、神が現存、現臨するステージではそうなる、ってことです。
又、それまで築いて来たものがすべて無くなる、って訳でもありません。そうなるかどうかは本人次第でしょう。
はっきり言えることは、それまで思い、為して来た人生に、ある一応のピリオドが、大きな節目がもたらされるということです。
有り体に言えば、その時から自分が思っていた人生では無くなるということです。自分の思い、力というものの限界がアリアリと示される...これが大きいことなんです。
こういう風に書くと、その無の道というのは、よほど暗闇に包まれているようで、つらく、苦しいもののように感じられるかもしれません。(だからその気が無いi)
又、そういう道を通らないと、至福には導かれないと言っている例も結構あります。これは、しかし捉えようの問題でしょう。
もっと大きなスパンで、人生のつらく、苦しい経験をしたもので無ければ、そういうものに与れないのかもしれません。
そういう思いをイヤというほどしている...どんなに努力しても報われることが無い...思おう、信じようとしてもそうならない現実...(こういうことを全く感じない人間て居るか?)
すでに言い知れぬ無力感に押しつぶされている...おそらく、そういう思いをして来たという人なら..."向いて"しまうのではないでしょうか?
思いを超える、ということがどういうことなのか?、それに与る前から知らされているのではないでしょうか?
そして、思いのヴェールの向こうにあるもの...
(読み手に先入観を与えてしまうといけないので、これはあくまで私の主観と思って下さい)
神の現臨にあって、思考、能力の機能を失っている間、文字通り何もかも無いという感じです。
苦しみなんてのもありません。そうなるまでは確かに頭痛、発熱などで苦しかったのですが、それを忘れてしまうに余りあるものに出くわしたのです。
それは言うまでもなく、現前しているものから来るものです。
"至福以外の何ものも無いi"...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする