人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

人格

2023-03-21 08:51:41 | 詩的文章
人を好きになる
愛する...
人の何を好きに、愛するのだろう?
肉体、心?
人格!
人格が何かは分からない!
人格など無いと言う人も要る...
インドの哲学者は人を好きになったことがないのだろうか?
そういう感情を押し殺しているのだろうか?
誰でもいい人格というものはない!
あの人の人格、私の人格...
人格は個的...
人格のない人間は学的に語られる
生物的な人間
精神的な人間
歴史的な人間
宇宙的な人間...
人格のない人間は客観的に捉えられる
バラバラに出来る...
人格も人格学で語られる?
人格も客観的に捉えられる?
そんな人間を好きになれるだろうか?
私の人格を説明出来るだろうか?
顔や性格のことじゃない!
説明された人格は生きていない!
人格論なんて!...
人格が生きているから人間が生きている?
私は私の人格を見たことがない!
好きな、愛する人の人格も見たのだろうか?
何を見て、何に捉えられるのだろうか?
神にも人格はあるのだろうか?
哲学や神学のことじゃない!
説明された人格は生きていない!
神の姿も人格も見たことはない!
でも愛してしまう!
惹かれてしまう!
私の人格が惹かれてしまうのだろうか?
我と汝...
二つで一つ?
他はない!
個ですべて!
人格...
捉えられないけれど、統一されているもの!
分かったら分からなくなるもの!
永遠の謎!...

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神と人との交わり②

2023-03-19 09:31:26 | 哲学・思想
マルティン.ブーバーの神と人との関係を言い表す、”我と汝“という象徴語は、多く人間関係、人と人との交わりに適応されていたのでした。
ブーバー自身、「神は単独の”我“から生まれるのでなく、人と人との間に生まれるのである」と、その間、関係性(そのもっとも具体的なものは、人間関係に他ならない)に重きを置く言葉を残しているのです。
この点がベルジャーエフと異なるところで、彼は”如何に人間関係を有しない、形の上では孤独であり続ける者であっても、ソボールノスチ(人間の内なる霊的共同体)の実現を担っていることもあり得る”、という意味のことを述べているのです。
ブーバーに従えば、人間関係を通さなければ、神的な現臨に与ることは出来ない、ということになりそうです。彼はその”関係性”を誇張している帰来が伺えます。
ただ一つ言えることは、人と人との具体的な関係、間から立ち上るであろう神的現存は、単独の場にあって、得てして陥りがちになる、”主観的思念”の投影と区別されない曖昧さから回避され得る面がある、ということです。
こうした実存的問題は、一人一人の実存に即して明らかにされねばならないでしょう!
誰もあなたに代わってそのことを証してくれないのですよ!
人間存在は、いつもいつも誰かと関係し合って存在している訳じゃない!...”息が詰まるわ、そんなもん!、一人にさせてくれ!”
私は、あまり豊かな人間関係に恵まれなかったセイもあってか、孤独を愛している人間なのです。そりゃ、正直疎外感というものに苛まれたこともありますよ。
しかし、私に現臨感覚が芽生えてからというもの、全く孤独感というものを持ったことが無いのです。いつも言うように、私は、一個なる私のみからでは存在すら出来ないのです。
単独者のみの私というものは、幻想という他ありません。
ベルジャーエフの説くソボールノスチには、この原初的人間実存の在り様が伝わってきます。
つまりその霊的共同体とは、私という個があって、他なる個々と関わり合って形成されるものではなく、その個的な在り方自体がその表れに他ならないのです!
私はそこに一主観を全く超えたものを感じずにおれません。そしてこのことは思いを超えたものにあって、思念の限界が突破された時に明らかになるでしょう。
誰もあなたに代わって明らかにしてくれませんよ!...これは自明の理なのです!
おおっ!...それに与っているあなた!...あなたこそは、この理を私に代わって証してくれるはずだ!
えっ?
私は誰の、何の証をしているのだろう?
そ、それは...神と人との交わり!...
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神と人との交わり

2023-03-18 10:08:01 | 哲学・思想
私が”神的な現臨にある”、という時それは、一個なる私だけの単独の意識状態に無いことを言い表しています。
つまりそこでは、その神的なものとの何らかの交わりがある、ということなのです。
これはしばしば言うように、”私は私を超えたもの無しに存在出来ない、超越的なものと実存的なものは切り離すことは出来ない”、ということがこのことを如実に物語っているのです。
自己を超えた、不可知なものを認めない者からは、奇異に映ることかもしれませんが...
そして、真実に、リアルに神的なものを伝えようとするならば、それは常にかかる意識の元になされる、と言わねばなりません。
これを例えば、”神というのは、宇宙の法則、支配者であり、第?次元の存在で...”、というように、神を自分の客観に置いて、思い描いたように表現した場合、それは正に一個の私がそのように思椎したことを言っているにすぎず、そこに何らの交わりもなく、リアリティも感じることは出来ないのです。
このことは、”神認識”に関して、極めて根幹となるものにも関わらず、宗教でもスピでも案外意識されていないようです。だから極限すれば、神との交わりを欠いた言葉はすべて抽象観念と言ってもいいのです。
ユダヤ系の哲学者マルティン.ブーバーは、こうした神との関係を、”我と汝”という象徴語で言い表し、それが自己の思念に取り込まれ、交わりを欠いた状態を”それ”(英語の”IT“)と言って、神から“それる”ことを表していたのでした。
ベルジャーエフは、後者について“精神の客体化”と言い、その著書で必ずと言っていいほど、取り上げられていました。
ただ、不思議なことに、神と実存的に相まみえる、“我と汝”に当たる用語について、これといったものが見当たりません。
“ソボールノスチ“というロシア語の用語は随所に見られるのですが...これは我と汝の実存的交わりと切り離せないものには違いないのですが、我というよりも“我々”なるもの、我を含めた実存的共同体について表現されるものなのです。
しかし、ベルジャーエフのすべての哲学の根底にあるものこそは、“客体化”に対語的に言えば“主体化”...いや、これはどう考えても不適当でしょう!...もっとも根底的なものは、けっして”化“したりはしませんから!...単純に”神人の交わり”でいいのかな?...いや、“神人”の一語で凝縮される?...
いやいや、そんなことよりも、おそらくそれは、あまりにも自己に目の当たり、近すぎること、根底的でありすぎることだったので、象徴語でさえも言い表せなかったのかなあ、との感がよぎりました。
よく考えれば、この宗教、スピそして哲学...あらゆる精神的な道における、根本的な意識の在り方に関わる用語というものが無いというのは驚くばかりです。
おそらく、全く蔑ろにされているが、自分自身のことでありすぎることなのかどっちかなのでしょう?
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神を受け入れること

2023-03-16 09:58:44 | 求道、探究
”○○先生の道は、完全覚醒の境地に確実に導く唯一無二の道です!”、とか言ってる御仁に、”どうしてそういうことが言えるのですか、その根拠は何ですか?”、って向けても、何一つ答えられないでしょう。
それは、中身など何にも無い、”そう信じたい、信じさせたい”感情論にすぎないからです。
こういう虚言はすべて要らない!、大いなる無駄!...こういうものが、リアルな精神的な道をダメにするのですから!
”現実に即して”分かりきったことを言いましょう!...如何なる道においても、真摯に、意識的に向き合わなければ、ごくシンプルにその気がなければ、何一つ開かれることは無い、ということです!...ペラペラな虚言などにつき合ってられるか、ってんだ!
意識的な精神的態度とはどういうものか?...ここでは神を待ち望む、受け入れることについてなのですが...もっとも意識的でない、脱線的な在り方のことを書いた方が分かりやすいかもしれません!
もし、神があなたに直接自身のことを示そうとしているとして...”私は神のことは分かってます!、神は六次元の存在で、宇宙の霊的進化の七番目の段階で...”、など何の根拠もない、ガラクタのような虚説で頭を一杯にしてたらどうでしょうか?
又、”私はね、完全に思いも、欲望もコントロールすることが出来るんですよ~”、と自分の思い、力を誇示するような態度でいたらどうでしょうか?
こういう心的態度は、全く真摯に神を求める在り方と異なるもので、むしろ神を遠ざけている道、ということを知らねばなりません。
そういう準備が全く出来ていないのです。神の道のその入口にも立つことが出来ていない、否、ハナっからその気が無い、と言わねばならないでしょう!...(完全催眠の分際で何が完全覚醒だ!)
あらゆる先入観、固定観念、予見となるものを排して、虚心坦懐な心持ちで望む...
いや、神という言葉が先入観になるかもしれませんが、”私そのもの”を意識してみるのもいいでしょう。
”私は私の体か?、思いか?、私は私だけで成り立っているのか?...それとも私を超えたものがあるのか?”...つまるところ同じ意識状態に導かれたりして?
この、思われた私を超えたような意識状態!...何も特別な神秘体験のようなものでなくても、真摯に、意識的に在ることで、それで何十年も待ち続けないとならないとか、意識的でない、脱線的な道を迷走する...なんてことは、私的には、絶対、ゼ~ッタイ的に、あり得ないことですよ!、考えられん!
少なくとも、それで何らかの安らぎ、幸福に与ることは出来るはずなのです。
もっとも、何かを得よう、獲得しようとするのでなしに、どこまでも虚心に、ということが大事なのです。
”真摯に神を待ち望む人間は、神の方が放っとかない”、と五井先生やラマナマハルシも言っているが...これは、けだし”実言”と言わねばなりません!
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長夜の夢も一瞬で覚める

2023-03-15 09:31:53 | 独語
「本当に愚かな人間は自分のことを賢いと思っているのである」(森田正馬)

まさかこんなにも度し難い状態になっていようとは!
もはや手遅れ!、書くだけ無駄!...でも書かずに居られない私のサガ、業...
例の反面教師の画伯、よくもまあ、ヌケヌケと、”私は自分の体験で確かめたことを言い表しています!”、などと書いている...
だったら、ワクチンを接種してその是非を判断してみたらいいだろう!...フリーメーソンの本部へ行って、チャクラを開くという秘儀を受けてきてもらおう!...”地球はこれまで60?回生まれ変わっているのです!”...どうやって確かめられるのか?...
すべて他人の受け売り、観念的洗脳支配の奴隷!...自分が信じたいものしか信じようとせず、それ以外のものには全く耳を貸そうとしない!...その時々の全く知性を欠いた、子供じみた感情だけで従ってしまう!...極めて偏狭な、閉ざされた思考世界!
いつも表層の、軽薄な思いに囚われていて、熟考し、省みることが出来ないので、その思いに流されて歯止めが利かない!...ひたすら猛進、妄信するのみ!
何という自己中心性!...自分の行状には全く触れることなく、風当たりの無いところで自分は自己中でないこと、すっかり自分はエゴから解放されていることの弁明...自分からそれを言ってるというのは魔境に入ってるってことだろう?...
いつもの自分は正しい、人より進んだ人間であることへの取り繕いによるアッピール!...もう、ボロボロ!
そもそも自己中な人間でなければ、宗教的狂信やカルト思考に陥るはずなど無いではないか!
これが、40数年間(!)に渡る、信仰、修行の成果だというのか!、あり得ない!、ギネス並みだ!...大いなる無駄!
未だ迷妄から抜けられず、長夜の夢から醒められず!
自分の度し難い愚かさを自覚出来れば、一瞬で目覚められように!
愚かさ、無知さ、幼稚さ...自分の弱さを認めることは、多分、この御仁死んでも出来ないのだろう?
だから、いつまでも愚かなことを繰り返し続けるしかない!

自分を愚かで、無能で、無知で、ダメな人間だと思っている者は幸いだ!
度し難い人間だと思っている者は救われる!
そういう自分を投げ入れられるものを頂くことが出来る...それはあなたの前方に広がっている
”もう、ダメだ!”...倒れそうになったら、それに向かって倒れたらいい!
ありのままの自分を認め、受け入れるだけで長夜の夢から覚めることが出来る!
されど、思われた人間はどこまでも夢を見続けたいもの...観念地獄から抜け出すことが出来ない!
出来ないのなら、出来ないでいい!...己に負けよ!
自分は出来ないという自覚さえあれば...どんなに長い眠りであっても、自分で自分を変えることは出来なくても...目覚めたら、世界は変わっている...かもしれない?
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