書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

証明書。

2011年03月02日 21時32分24秒 | 日記
 ソネットブログにログインしようとした際に表示された警告です。




 これはソネットブログ的には公表されたくないかも知れないけど。怖くてもう入る気になりません。

 一応ブログ自体は無事に閲覧できます。

 もしクラッキングだとすれば、IDとパスワードがないとブログ自体は安全なのかも知れないです。ソネットブログさん、どうにかなりませんかね。見てないかな。まあいいや。(しゅん。↓)

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aicezuki。

2011年03月02日 19時39分15秒 | 日記
 入学試験中の携帯電話とかって、通信会社の方で使用停止にできないのかね。試験官だって神様じゃないんだから全ての受験生の行動を把握できるわけじゃないからね。

 そもそも、自分の携帯電話を使って不正を行えば、IPアドレスから個人の携帯電話を特定可能だってことを知らないからやるわけでしょ。それは誰も教えないのかな。

 ヤフー知恵袋の方でも、試験中は一時的に回答を休止するとか、何か防止策はあると思うけどね。まあ、紙封筒に入れとくようにするのが効果的かもしれないけど。果たして携帯電話が一台だけとも限らないんだけどね。封筒にダミー携帯電話を入れといて、闇サイトで入手した出所不明の携帯電話でカンニングとか。携帯電話だって、分解してカメラだけ袖から出しておくとか、考えたらキリがないね。受験生は全裸で試験するとか。うひひ。

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 マイケル:サンデルの講義が知能にとって無効であるって説が途中だったんで、もう少し話しておこうと思う。

 サンデルの講義では、生徒はサンデルの投げかける質問に対してだけ考える。この時点で既に生徒本人の本質的自発性が全く働いていない。促された質問に対してだけしか意識が働いていないわけだから、これは本質的には自発的に物事を追求する姿勢は養われない。

 「質問を投げかけられる。」という環境下における特定能力をどんなに発揮しても、それはチンパンジーの瞬間記憶能力と構造的には同じものなわけです。

 サンデルの講義では「エサ。」がないと思うかもしれないけど。実は成績とか、他人からの評価といったものも、ヒトの場合は成立する。

 成績とか評価、報酬といった、いわば抽象化された「エサ。」を用いて思考を誘導している場合というのがある。抽象化、シンボルを扱うことが人間だけだとか思ったら大間違いで、角大きさだとか、飾り羽根の鮮やかさだとかいった抽象化された基準を扱う動物は決して少なくはない。特に鳥類はシンボルを基準にする行動が多数見られる。

 たとえ、ヒト固有の特徴を抽出したとしても、それが短絡的に「人間だけが持ちうる性質。」などという話にはならない。それはあくまで動物種としての「ヒトの特徴。」でしかないわけさ。

 「シンボルを扱う=人間。」などというのは論理的な根拠が全くない観念であって。文系の人間というのは結果と目的の区別がつかない傾向性があって、だから短絡的な結論を盲目的に信じ込んじゃう。

 文系の人間っていうのは、やっぱり論理的に考えられないから文系なのであって。論理的に考えられない人間が生物学という理科学系分野を担うのが根本的に無理がある。おいらは生物学系とか哲学系、人文諸科学の学部には、物理学とか工学系の研究者による精密検証が必要だと思っている。だって、あまりにバカ過ぎるもの。

 マスコミも結構いい加減なところがあって、夕方のニュースで携帯電話の電池の危険性について検証した番組をやっていながら、夜のバラエティー番組で芸人の携帯電話をバツゲームで壊していたりする。編成局は一体何を見てたんだって、もう手抜きもいいところ。

 話が逸れたね。サンデルの講義は、受けた生徒の脳、大脳辺縁系が気持ち良くなる。気分的に楽しくなる。頭を使ったような錯覚になる。もちろん頭は使ったんだろうけど、それは本質的な自発的思考ではないから、講義以外にはほとんど役に立たない。その点では脳トレ類と基本的には同じで、それによって本質的知能が働くようになるようには構造的になっていない。

 アイヒマン実験を一度受けた人であれば、次に類似実験を受けたときには騙されにくくなることは誰でも予測がつく。それこそ、ナチス政権下を生き延びたドイツ人にアイヒマン実験を行った場合には、明らかに他の実験群とは異なり早期に権威者の命令を拒否することが実証されている。彼等は「実験。」を受ける前に「アイヒマン体験。」をしちゃっているから、心底権威者とか、多数他人の意見に流されてはいけないことを自覚しているってこと。

 アイヒマン実験とかアイヒマン体験をすることは、サンデルの講義とか脳トレとは異なり、明らかに気分が悪いものなわけです。振り込め詐欺に引っ掛かっても気分は悪い。でも、引っ掛かったことを認識できていなければ、それは別に気分の悪いものではない。

 そんなことがあるのかって。カルト宗教に引っ掛かった信者達っていうのは、自分が騙されていることを認識したくない。或いは認識出来ないように心理的な拘束をされているため、気分的、心理的、感情的に客観的事実を認識しないように、逃避するように、思考を停止するように誘導されている。だから彼等は信者をやめない。

 サンデルに対して、今のところ誰も批判する人間がいない。多数の人間が批判しなければ、それは多数によって認証されているものであると、勝手に思い込むわけです。でも、それって脳トレ類を散々蔓延させた脳科学者達においても同じことで、反論が出る以前には誰も批判することを忘れていた。

 科学っていうのは、精密検証性と、それに伴う批判精神というものが不可欠で。単に「皆が信じているから、気分的に安心だ。」なんていうのは極めて非科学的な観念に過ぎないわけです。サンデル自身の哲学思考自体は間違っているわけではないけれど、単に「人気。」があるからといって、突然「頭が良くなる。」なんていうのはトンチンカンな話なんですよ。

 サンデルの講義をどんなに受けても、公益倫理的な自律判断ができるようになるわけではありません。それは全く別の話。

 アイヒマン実験のような自律的な公益倫理判断を必要とする場面を体験しなければ、本当は行動に影響を及ぼすことはないわけです。

 問題なのはサンデルの話は途中から論理性を失って、「生き抜く。」だとかいう気分的に都合の良い話にすりかわること。「今日は有意義な議論ができました。皆さんの人生にとって、今日の議論はきっと役に立つことでしょう。」なんて締め括る。

 「本当かい?。」って、生徒の誰も疑いを持たない。だって、褒められたもんだから気分的に良かったもんで。その時点で思考が停止しちゃっているんだもの。脳トレとかも同じだよ、「これが脳に良いんですよ。」なんて言われて、誰も疑問を持たなかった。これが、いわゆるバカになっている状態ってわけ。そりゃ振り込め詐欺にも引っ掛かるさね。

 科学的、論理的な追求というのは、安全性を確保することができる。最近は安全と安心を、やたらとセット販売にしたがる傾向があるけど。気分的に安心しちゃっているから危険な行為をやっちゃうのであって。合理的な安全性確保と気分的な安心はむしろ背反するものなのです。酔っ払いが車を運転するのは何故でしょう。酔っ払いにとって車の運転なんぞ簡単だって、そんなものにビビるこたねぇって安心して運転するわけです。

 この世の全てに疑問を持っていたら生活は大変なことになっちゃいますよ。食べている米に水銀が混じっていないか。パンには遺伝子組み換え麦が使われていないか。鰻にはマラカイトグリーンが使われていないか。でもそういうことはいくら考えてわからないでしょ。考えてもわからないことは、専門家にお任せしておくしかないでしょう。そうじゃないんですよ、私が言っているのは、考えればわかることの話をしているんです。考えるのが嫌ですか。そうですか、それなら認知症になっても文句は言えないですね。だって大脳新皮質を使うのが嫌なら、萎縮したって仕方ないじゃないですか。違いますか。

 嫌な話かもしれませんよ、小言かもしれませんね。でもね、科学的な思考としての精密検証性というのは、「理屈。」であって「小言。」なんですよ。それに伴う批判精神というものだって、そこに「嫌味。」が含まれても仕方ないんです。

 ガリレオが地動説を唱えたとき、教会にとってそれは「嫌な話。」だったんです。だから火炙りっていうヒステリックな解決方法を採った。気分的に「嫌。」だったからこそ気分的にスッキリするようなヒステリックな解決策を採ったんですよ。意味がわかりますか、理論的には反論できなかったってことなんですよ。

 正直いって、こういう話をするのは私も好きじゃありません。嫌われたくてこんなこと書いているわけじゃないですからね。

 意識論をネット上に出してから、どうも不穏な動きがあるように思えます。まさか火炙りにされるとは思いませんけど、単なる取り越し苦労かも知れないですけど。もはや「ルビコン川。」を渡ってしまったんですよ。今更引き返せないんです。

 でわまた。




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ジオラマ効果。

2011年03月02日 14時53分59秒 | 日記
 ソネットブログの方で、「東京写真。」っつうタイトルのブログもやってたんだけど。結構ジオラマ効果とかミニチュア効果で検索してくる人が多かったから。結構要望があるんだと思う。自作ソフトがあるんだけど、まだウインドウズ95用しかなくて、しかも配布の仕方もわからないので、どうしていいかわからない。アンドロイド開発とか始めようと思っている会社さんで、興味があったら連絡欲しいです。でもメアドをまだ公開していないので、連絡しずらいのかな。そのことも含めてコメント下さい。

 東京写真

 ジオラマ効果に関するページです。でわまた。
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閲覧数。

2011年03月02日 14時21分06秒 | 日記
 昨夜の夜中からgooブログに逃げてきたんだけど、2時20分現在で58人ものIPアクセスがあった。ソネットブログの場合はこんなにはなかったような気がするけど、gooブログの方が閲覧する人自体が多いのかな。

 ソネットブログの場合はアクセス解析が無料だったんだけど、gooの場合はあんまり詳しいことまで解析するにはお金がかかるので、貧乏なおいらはできないけど。ソネットブログのアクセス解析を見てた時には、ほとんどが「不明。」で、これは多分携帯電話からのアクセスなんだろうと思う。日本ではまだ携帯電話でWebを閲覧する人の方が多いのかも知れない。だからNTTのgooブログは閲覧者自体が多い可能性がある。そういうことかな。

 そういえば、ソネットブログの新しいログイン画面でログインできた人はいるのかな。いなかったら完全にフィッシング詐欺なんだけど。誰かソネットブログで書いている人、この記事見てたらログインできかたどうかだけでもコメントしてもらえるとうれしい。

 これが新しいログイン画面。あれ、もしかしてこの画面って他のマシンからは出てこないのかな。そうだったら恐い。誰か教えて。そういえば「いっぷく。」さんにniceもらったことがあったけど、見てるかな。どうかな。

 実は他の人のブログにniceを入れようと思ったことがあったんだけど、出来なかった。おいらの東芝アンドロイドが原因なのかどうなのか。なんだか面倒くさいな。

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言い訳。

2011年03月02日 13時46分45秒 | 意識論関連
 前回掲載した「意識論。」は、あまり万人に推奨できる内容ではないので。できれば別ブログにしたかったのだが、gooブログでは単一ブログしか許されないので一連のブログ内に掲載しました。

 いわばソネットブログ版意識論の保険なので、あまり気軽に読まない方が良いかも知れない。ソネットブログ版意識論は、一度URLの変更を余儀なくされたので、検索しても以前のURLに飛んでしまい、閲覧できないこともある。一応このブログの以前の記事にリンクを設けているので、興味のある人はそこから入って頂くと良いでしょう。

 ここにも掲載しておこうかな。

 意識論

 でわまた。
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意識論。

2011年03月02日 11時25分36秒 | 意識論関連
 ソネットブログに載せている「意識論。」のミラーコピーを掲載します。二万文字で足りるかどうかわかりませんが、やってみます。ソネットブログに掲載した際も、サーバーの不具合によってブログタイトルや記事タイトルまでは表示されても、肝心の記事内容が全く表示されないというトラブルに巻き込まれ、ブログ自体を一度削除したところ、URLが再度取得することができず。URLの変更を余儀なくされた。検索で「意識論。」と打ち込むと以前のURLへのジャンプになっていることがあり。閲覧できないことがある。

 このブログはNTTのgooブログなので、セキュリティ的にはソネットブログよりも信頼性が高いかも知れないが、所詮は無料ブログなので、あまり過剰な期待もかけるべきではないだろう。できれば以下の本文を丸ごとコピペして保存して頂くことを推奨する。

 因みに、17000文字以下で済んだので、一応核となる部分はコピーできた。はずである。



 また、意識論は読んだ人が情緒的に不安定に陥り、日常生活に支障をきたす場合もあるので、万人に推奨できるものではありません。



 はじめに。

 意識論では、一般的、日常的には意識しない本質的な自己存在について理詰めで論じてゆくので。慣れない人は読んでから数日後、数週間後に情緒不安定に陥り、パニック障害のような症状に陥ることがあるため。精神的に脆弱な人や、理論的に考えることが苦手な人には読むことをお勧めできない。本論を読むには安物の哲学で満足しているような文系哲学マニア程度の人間には「重い。」ようである。
 永井均は「なぜ、自分だけが自分なのか。それが不思議。」などと言っているが、単に脳神経回路が他人とは繋がっていないだけのことで。それは理論的には不思議なのではなく、単なる気分的な違和感でしかなく、全く無意味なことに疑問を持っているのである。頭部結合児にとって、自分だけが自分なのではない。こうした気分的、観念的な違和感と、論理的な謎としての「不思議。」の区別もつかない時点で、哲学者としてはポンコツである。

 精神的、或いは情緒的に不安定に陥るとしても、脳科学的に見れば副腎皮質ホルモンである、コルチゾールやカテコールアミンといった、いわゆる不安物質の働きに過ぎず、単なる大脳辺縁系のシーケンスであると客観視できなければ、本論を読み進めることも、何より論理的に理解することも困難である。



  §  常習性とは

 脳内物質であるドーパミンは、その常習性によって行動や思考を整理する。「慣れる」、「ハマる。」、「癖になる。」、といった情動行動は、全てこの常習性によって作り出 される。ドーパミンは別名「安心物質。」とも呼ばれるが、生物生存の基本用件の一つであ る定常安定を求める情動行動を促す脳の基本情動として進化的に「獲得。」したものである

  ここでは一般的な生物学的な言い回しを用いて「獲得。」と用いたが、これは自然淘汰の 結果。」として獲得「してしまった。」ものであり。そこには何ら当人、あるいは「その 生物。」の意識的選択や目的意識などは存在してはいないことは明確にしておかなければならない。
話を戻す。

  人は誰しも、この世に産まれてずっと「生きて。」いるので、「生きて。」いることが安 心である。それと同時に、その安心こそが「生きて。」いない状態である死への不安や恐怖 も作り出している。従って「死にたくない。」という生物本能的な情動というものは、自己 自身の意識的選択によるものではなく、単なる自然淘汰の結果として組み込まれただけの シーケンシャルな機械的反応に過ぎず。それ自体には自己が自己であることの論理的証明な ど存在しないのである 論理的思考のできない文系の安物インテリは、多数決的な「実証。」を持ち出してくる場 合が多いが、それは単に「だって皆が。」という子供の屁理屈でしかない。科学哲学者の カール:ライムンド:ポパーは、「どんなに沢山のスワンを集めて来ても、この世のスワン の全てが白いことの論理的証明にはならない。」と論じた。所謂「白いスワン。」の例え話 である。

 人は誰一人として自らの意思でこの世に産まれてきた者などいない。自分の遺伝子を自分で選択していない以上、肌の色や瞳の色同様に、自らの大脳辺縁系の構造から生ずるあらゆる情動も、自分で選択したものではない。
 安物の脳科学者であれば、育った環境により後天的に組み込まれた好き嫌いを「潜在知。」などと称して、あたかもそれこそが個人を個人と規定するものであるかの如く論じようとするが。これもまた単なる非論理的屁理屈であり、単なる思考停止による気分的満足、すなはち大脳辺縁系が楽になるように論理的思考からの逃避をしているだけのことである。虐待を受けて育った人が自分の子供にまで虐待を連鎖する行動を指して、「潜在的な知能。」だと言えるわけがないのである。

 産まれ育った時代や環境、或いは養育者の人格といったものも、自己の大脳辺縁系同様自己選択不可能な要素であり、これらは何ら自己が自己足りうる論理的証明にはならないのである。その意味において、虐待を連鎖する人が自己を嫌いになることは無意味である。なぜなら「つい、うっかり暴力を振るってしまう。」という無意識的行為自体は、自己自身で選択した本質的自己ではないからである。「虐待をやめたい。」と思う自己が存在し、振り上げた手を降ろして自分の子供を抱きしめる「意思。」こそが、本質的自己存在証明であり。それこそが「意識的。」に選択した行動だからである。そこに個人的な好き嫌いなんぞ全く無意味である。

 しかし、一般的、或いは平均的な人間の場合、こうした本質的意識を働かせなくても概ね問題なく社会生活ができるため、いわば何も考えずに無意識にいられるので、通り魔と共感していても「思想信条の自由。」と称してバカのままで気分的に安心していられるのである。
 ヒトは基本的には動物であるため、どうしても動物的な目先の情動行動が優先してしまいがちであり、意識的に広い視野で本質的合理性を追求することを忌避する。また、カントの勘違いによる「純粋理性批判。」によって、合理性追求というものへの観念的嫌悪が働き、何が何でも「情動こそが人間性。」ということにしておきたいのである。「EQ」などというものも、単なる結果論を並べているだけであり、論理的な根拠に基づいて組み立てられた基準ではないのである。澤口俊之は「心理学は現象論で、脳科学は実証だ。」などと論じていたが、虐待によって大脳辺縁系が萎縮することがあることであっても、それは医学的、発生学的な現象論でしかない。ナチス政権下のドイツ人の多くが大脳辺縁系の萎縮があったなどとは考えられないし、通り魔や振り込め詐欺、あるいは天下り役人の脳まで調べたというような裏付けが全くされていないのである。科学というのは単なる一面的現象論を基に勝手に観念をでっちあげるものではなく、論理的な精密検証性や、それに基づく批判精神が不可欠なのである。現在の生物学、脳科学にはそうしたものが絶対的に欠如しているのである。
 大脳辺縁系が萎縮しているからといって、それが短絡的に非人間性の立証になどならないのである。むしろ、こうした短絡的な観念を振り回し。他人が話している最中でもベルを鳴らし続ける脳科学研究者の脳の方がよっぽどおかしいのである。単に脳科学に携わり、大衆迎合的な人気取りをし、マスコミに露出してさえいれば権威者であると一般には錯覚される。
 マスコミは単に視聴率さえ採れれば、科学的検証など一切せずに、単なる大衆人気だけでも垂れ流しを平気で行うものである。マスコミは「メディアリテラシー。」などと称し、放送内容の責任など一切取るつもりはない。おそらくは「視聴者様からの要望。」と称して自分達の判断責任を放棄するつもりである。

 脳科学界では瞑想だの座禅といった現実逃避の快楽ばかりに興味が向けられているが。これらの現実逃避から導き出された現象とは、大脳全体が鎮静化する代わりに、前頭前野内側部だけの活性化が観測されたという。前頭前野内側部に何があるかといえば、振り込め詐欺に引っ掛かる時に活性化する前頭核があるのだ。すなはち、座禅だの瞑想をすることによって論理的思考を失い、かつ、世界を認識する意識を狭窄化させる可能性が充分にある。カルト宗教においてもこうした「修業。」は行われており、関連性も充分に考えられるのだが、こうした世間的に気分の悪い領域には脳科学者の誰も興味すら持たないのである。これは脳科学者のほとんど全員が、脳トレなどの世間的なウケ狙いばかりを求めているからであろう。

 ここまで論ずると、理論的な逃げ場が無くなるので読者の大脳辺縁系が気持ち悪くなってくるかも知れないが、それこそ単に「今まで考えてこなかった。」ことのツケが回ってきただけのことである。科学的論理思考によって本質的自己とは何かを追求するためには、こうした自己自身の「気分的な嫌悪感。」というものと論理的証明を切り離して考える自己客観性が必要不可欠である。本論を読んで情緒不安定に陥り生活に支障をきたしたとしても、私は一切感知しない。本論はゾロアスター教のように読み手の都合の良い話だけを抜粋して気分的に満足させ、思考停止のまどろみに陥ることを許さない。
 カルト宗教の信者に対して、「お前さんが信じている話はペテンだよ。」と諭しても、拒絶することと同じで、ヒトは既に信じ込んでしまった既成事実的な自己判断を事後正当化しようとする性質がある。それは、信じ込んでいた時間とか、多数が信じているからとか、権威が言っているからといった条件によって、更に悪化する傾向がある。これらの「習性。」というのは本質的な意識による自己判断ではなく、漫然と信じ込んでしまっていた無意識的な自己であり、既に存在していただけの自己「既存在。」であって。本質的意識による、今現在の選択可能性を伴った合理的判断ではない。

 スタンレー:ミルグラムらによる社会心理学服従実験、通称「アイヒマン実験。」では、普段平穏に社会生活を送っている「普通の人。」の無意識が作り出す危険性や凶暴性を暴き出している。それを他人事だと思うのであれば、単なる日和見主義者、或いは無関心に過ぎない。
 日常生活の中で概ね問題がないとしても、問題が生ずるような状況、あるいは心境に陥った際に、自己の情動行動に流されず、論理的、客観的な自己選択行動が可能かどうかが問われる。それができるかどうかが自己が自己である、或いは個人が個人である証明の一つなのである。

 その場限りの社会に従順なだけの大衆迎合をしていたいのであれば、本論は「馬の耳に念仏。」である。多くのヒト、誰でも陥り易い習性的な行動しかできないのであれば、それは生物としの「ヒト。」ではあっても、行動責任を担保できる自律的な個人であることの証明にはならない。それなら個人と、それ以外の他人との互換可能な単なる動物と同じではないか。




 § 迎合という習性。

 ヒトという生物の習性、傾向性として。多数や権威といった「空気。」に迎合しておいた方が気分的、つまり動物的行動的に安心である。
 それに対して多数や権威に対して論理的な精密検証に基づき反論することは精神的には不安なものである。

 近年流行の脳トレ類に対して反論する人間は脳科学界には皆無である。川島隆太は当初、「強いて勉めるのが勉強だ、脳を鍛えないと認知症になる。」などと強迫観念的に勧めていたが。実際にはトレーニングした内容以外への応用的な能力向上が見られず、振り込め詐欺などへの耐性も得られないことが発覚すると一転して「限定的であっても、効果があるなら社会に提供したい。」などと言い出したのである。
 脳科学者の多くは、あたかも脳の全てを知り尽くしたように「これさえやっておけば、脳に良い。」的な事を論ずるが。都合が悪くなると一転して「脳のことは1パーセントもわかっていない。」などと平気で日和るのである。これは単なるペテンに過ぎない。
 既得権益としての脳トレ類が持つ視聴率や人気、あるいは著作権を失いたくないために、利己的な理性的判断としてこれらの事実は心ない脳科学者達によって隠蔽されているのである。
 科学とは本来権威性などに依らない平等で自由でなくてはならず。かつ、論理整合性が伴わなければならないはずの分野である。しかし、現在の脳科学は非論理的で極めて閉鎖的である。東京大学は校内の観光ツアーをやっておけば「開かれた大学。」であるとごまかしているのである。

 脳科学というのは生物学の一部に分類されるが、その生物学自体が目的と結果を区別できない非論理的な観念に囚われており、こうした間違った大前提を元に脳科学界は大衆迎合的なペテンを放置しているのである。

 生物学では、「生物の目的は、生存である。」とする。しかしこれは理論的に間違いであり。科学論理的には「結果的に生存していたものを生物と分類している。」のであって、分類されたものの結果が目的であるなどというのは支離滅裂なのである。
 目的とは、意識範囲内においての行動選択であり。意識を持たない生物にまで目的があると論ずるのは極めて非科学的な話なのである。
 たとえイヌやサルなどの「高度な認知能力。」を持った生物であっても、その意識には医学的、あるいは生物学的な無意識しか存在せず、極論すればヒトであっても本質的意識が働かなければ人間としては出来損ないなのである。

 ただ、ここで留意しなければならないのは、学習障害などの認知能力が一般的な人より低い人を糾弾するものではなく。先天的、あるいは後天的に認知能力に問題が無いにも関わらず、それを発揮することが気分的に嫌だから拒否するという卑怯な人間について論じているのであって。例えば一級建築士の免許を持っているにも関わらず、その責任を果たさない人間を私は「出来損ない。」と論じているのであり。最初から責任を持つことが困難な人を糾弾、あるいは誹謗中傷するつもりは一切ない。

 現在の生物学界というのは、充分な理解能力があるにも関わらず、それを気分的に受け入れたくないという怠惰によって本論を黙殺するつもりである。こんな基本的な理論さえ誰も気付かなかったという愚かさを受け入れることを気分的、或いは情動的に拒否しているのである。

 ヒトは無意識的に鵜呑みにしてしまった事柄であっても、自分が間違った判断をしたという事実を認識することが気分的に嫌なので。嫌なことは「なかったこと。」にしておきたいのである。もちろんこれは動物的な情動による傾向性、習性である。

 大脳辺縁系をアクセル、それに対して大脳新皮質の前頭連合野をブレーキと例えることがある。だが、これはあくまで比喩であり、大脳辺縁系が思考停止をしたがることを停止せずに論理的に追求するということも存在する。アイヒマン実験であれば権威が促す行動に、何の反論もせずに従順に従っておいたほうが気分的、大脳辺縁系的に楽であり。権威の命令が人道に反している可能性があると思わしき場合に、権威者の命令に背き、実験を中座するだけの意識がなければ、無意識的な習性に従って他人に多大な迷惑をかけてしまう可能性が、誰にでもある。

 放送大学では、「技術者倫理。」と称して倫理性を技術者だけに求める。倫理というものは技術者に限らず、人間の行動選択において多かれ少なかれ誰にも必要な「ヒトが人間足りうる所以。」である。魚の腐ったような目をして「元気が出る。」だの「勇気が湧く。」だのと大脳辺縁系の気分の問題にすりかえるのはとんでもない大間違いである。
 倫理性や安全性を担保するのは大脳辺縁系の気分の問題ではなく、論理性や合理性を追求する大脳新皮質の前頭連合野の本質的意識の働きである。どんなに気分的に嫌な目に遭っても、倫理性や安全性を追求する頑なな意思とは、元気だの勇気だのといった、その場の気分の問題ではなく。非合理性を徹底排除するのは最終的には理性なのである。

 カントは純粋理性を批判した。彼が論じたかったのは倫理であり、純粋理性とは何かまでは追求していなかったのである。理性が純粋状態の場合、それは人畜無害の単なる論理である。害を為すのは理性自体ではなく、特定の利己的な情動に染まった「理性的。」判断、或いは無意識的に条件反射的に服従、迎合してしまうことによる意識狭窄性の方なのである。
 カントの純粋理性批判自体は論理整合性がなく、論として形を成していない。カントは動物的な目的行動としての合理性追求こそが悪であることを論じたかったのであって。人間としての意識の広さに由来する個人の統合的な精神の平穏を求める為の合理性追求を批判しているわけではない。カントはそもそも目的論自体を間違えているのである。

 例えば、振り込め詐欺の行動は合理性の追求であると世間一般的には言われる。だが、これは俗説であって、他人を騙して物質的な豊かさを追求した結果、自己自身の心の平穏を失い自己自身を嫌悪し、精神的に荒んでしまうことを無視した、極めて限定的な合理性追求であり。実際には非合理的な行動なのである。
 人はいつか必ず死ぬ。ヒトの死亡率は100%である。死に臨して物質的豊かさに一体何の意味があろうか。
 診療内科には、無意識に他人を傷付けてしまう人が、その自己嫌悪によって精神を病んで鬱に陥る患者が少なからずいるのである。自分で自分を抑制できず、無意識的、機械手続き的条件反射で情動行動の赴くままに「流されて。」おいて、勝手に自己嫌悪に陥っているような都合の良い鬱病患者のご機嫌とりをする気はない。そんな奴は死ねば良いと、私に限らず思うはずであろう。だが、現在の哲学というのは「ドストエフスキーは素晴らしい。」などと、単に研究者の主観的な感想だけしか論じていない。「精神的救い。」などというものに意味などないのである。通り魔が自分の罪を悔やみ、精神的に救われて一体社会的に何の利益があるのか。これは単なる自己満足に過ぎないのである。巷ではニーチェが流行しているようであるが、ニーチェの論ずるゾロアスター教というのは論理性がなく、読み手が都合の良いように勝手にこじつけることで気分的に満足感を得るだけのペテンに過ぎない。
 例えば、「自分に出来そうにないことを、自分に要求するな。」などと偉そうな格言風味に断言するが。「出来そう。」かどうかは気分の問題っであって、論理的に出来ないことであることの証明も何もないのである。それを「出来ないこと。」にしておけば気分的に満足することができるのである。しかし、一方でこうも言う、「自分を度外視することも必要だ。」と。
 ニーチェを読んで頭が良くなったと思っているのは、むしろ自らの愚かさを意識から外すことによって気分的に満足したり安心しているだけなのである。
 ニーチェは理性と本能をバランス問題だと論ずる。このようにバランス問題にしておく手法は養老孟司の「脳化。」の観念などにも見られるもので、その場限りにどちらにでも言い逃れが出来るので、理論的な根拠のない観念を流布するのに都合が良い。バランス問題であると言われると、多くの文系の人間は思考停止に陥り、「なぜバランス問題なのか。」を考えなくなるらしい。
 ニーチェや養老のように「途に胡乱。」な話に対して、一般的な文系の人間というのは自分の考えを発揮する余地を失うため、否定することができなくなる。その代わりに格言風味の断言をすることによって、大脳辺縁系を満足させられるため、簡単にペテンに引っ掛かるのである。一応言っておくが、「脳化。」というのは理論としての形を成しておらず、初めから理論ではないのである。馬鹿な学生はこれを実証しようと試みるが、全く無意味なオカルトに引っ掛かっているだけなのである。

 ニーチェもプラトンもドストエフスキーも、それ自体は単なる気分的な救済であり、現実逃避を促すだけであり。社会的には糞の役にも立たない無益な屁理屈なのである。
 哲学者の多くは「哲学には好き嫌いがある。」という。それは当たり前の話で、異性であろうが食い物であろうが好き嫌いがあるのは当たり前である。嫌いだからといってそれが間違いであることを論理的合理的に証明する訳でも何でもなく、好きだからといってそれが人道的に正しいことを証明するわけでもない。現在の哲学界というのは単なる気分的な自己満足を充足させるだけのオカルトでしかないのである。こうした、社会的には無益な研究に公費を用いているのは民主党の議員がバカで、単に金額の大きいスパコンやハヤブサ2の予算削減が効率的であるという短絡的な「仕分け。」しかできないからである。

 東大生物学部は、「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」などと言い張り、それをマスコミも無批判に垂れ流した。

 たとえば、シエラレオネの少年ゲリラをチンパンジーの代わりに鋼鉄とポリカーボネートのケージに閉じ込めておいて、彼等が一体どのような行動を行えば、既に行われた残虐行為を反証できるのであろうか。
 どんなにチンパンジーに利他的行動をさせたとしても。それは実験室の中の特定環境下だけに見られる限定的な現象論上の「実証。」であって。単なる利他行動は「人間としての社会性。」を証明し得ない。
 振り込め詐欺が仲間に食事を驕っても、集団レイプで仲間に性行為を譲っても、利他行動なのである。限定的環境において、特定集団内部における利他行動をどんなにたくさん抽出してきても、そこから「人間としての社会性。」など論理的に立証することはできないのである。

 そもそも「人間として社会性。」というものは立証してどうなるようなものではなく、一人一人の個人の意識によって個人自身が担保するべきものなのである。ある特定環境において「人間としての社会性。」を立証したところで、それが戦争や犯罪を無くすための何らかの役に立つわけではないからだ。刑務所で何十年と従順に生活できても、それが再犯率とは無関係であることからも、特定環境下における限定的な立証は無意味なのである。



 § 社会形成習性。

 ここで「人間としての社会性。」とは何かを前方参照してしまったので、解説しておこう。

 生物学において、集団で社会を形成する習性を指して「社会性。」とか「ソシアリティ。」と言う。しかしこれは単なる無意識的に、他人との関係性を持たないといられないという情動行動の結果的に形成されるものであり。それ自体は人道的、或いは倫理的判断を伴った、本質的な「人間としての社会性。」ではないのである。
 習性として予め大脳辺縁系に組み込まれたシーケンスに従って社会を形成しても、それが必ずしも公益倫理性を伴う訳ではなく。たとえば暴力団や暴走族、或いは振り込め詐欺の類による動物的な封建制度社会を形成するのは、そこに自律的な本質的自己の行動選択判断が伴わないからである。
 子供達が大人の関与なしに「自発的。」にリーダーや役割分担を行うことがある。しかし、この場合の「自発性。」とは、本質的な自己選択に因るものではなく、本能習性に従って無意識的に行われたものであり。ゆえに子供は徒党を組んで同級生のイジメを組織的、封建的に行い、また、それは非常に残酷なのである。

 イヌは哺乳類である。哺乳類は産まれて来ると初期的に「子。」であり、「親。」に服従するものである。つまり、哺乳類などの親に育てられる動物の場合は、自分以上の何がしかに対して服従することが半ば後天的に刷り込まれるため。服従対象を畏れ敬い盲目的に信じ込もうとするようになる。これは産まれてからずっと服従しているので、生存本能と等価程度に刷り込まれる。
 イヌの場合、ある程度の年齢に達すると、血縁続柄を持った「親。」を超えた超「親。」として、群れのリーダーに服従信頼対象の転移が生ずる。その結果、群れの殆ど全ての個体がリーダーへの服従をすることになり。結果的に封建制度社会が形成されることになる。これが生物学上の社会形成習性である。
 ただ、リーダーだけは特異に服従対象を喪失することになるため、暴力性を発揮したり、交尾を行ったりするのである。性的欲望というものは心理的には暴力性と結び付きがあるため、リーダーだけが結果的に繁殖するのであって。生物学が論ずるような「優秀な遺伝子を遺すため。」などという目的論のこじつけには全く意味がない。
 イヌにとって服従は阿片である。「宗教は阿片である。」と論じた社会主義が、盲目的な服従封建社会を形成するのは。マルクスが「何故、人は封建的な社会に陥るのか。」を理解していなかったからである。
 理論的な思考の苦手な文系の人間というのは、ドーキンスのお伽話のような無為無策な観念に陥ることによって思考停止して気分的に満足することが大好きなのである。ニーチェが言う「超人。」なる観念も、自分自身で考えることをやめて、無責任に「超人。」任せにすることによって気分的に満足させるためのものなのである。自分以外の、自分を超えた何者かを規定することによって本能的に安心し、同時にそれが思考停止をも促すのである。マスコミは基本的に論理思考の苦手な文系の人間しかい
ないので、本論を理解することも、その重要性も把握することはできない。

 「神。」というものも、いうなれば生物学的な社会形成習性における服従対象の一つではある。しかし、それは暴力団やテロリストのボスとは異なる、人間としての服従対象の理想として想像したものであり。暴力団やテロリストのような暴力的な服従対象とは異なる、人間性を伴った自律的な行動規範を持った人の神は、人道的であり、かつ、倫理的でもある。
 いわば神にはニ種類あり。自分の行動責任をなすりつけるための都合の良い服従対象としての神と。自らの行動規範の理想としての神があり。前者は単なるテロリストや通り魔であるが、後者は本質的な有神論者である。
 私は神の存在自体を立証不能であると考えるが。本質的な有神論者は立証可能であると考える。

 北欧の新聞社がムハンマドの風刺画を掲載し、激怒したイスラム教徒が大使館を焼き討ちにした事件があったが。暴徒と化した人達に対して説得を試みる人物がいたことを、私は見逃していない。猛り狂った暴徒に対して説得を試みる行為は、真に「命を懸けて、平和を求める。」人の姿であろう。
 暴動に加わって興奮状態に陥るのは簡単である。だが、それは神を信じていない人間のヒステリーである。神が実存するのであるならば、ムハンマドを冒涜するような人間は地獄に堕ちるのは当然であり、神の代行として暴動を起こしている時点で、神を信じていないことを露呈しているのである。こういう人間は、私に言わせれば「エセ有神論者。」に過ぎない。

 理想というものは実存しない、しかし、理想なくして「目的。」など規定できないのである。理想的な状態に少しでも近づくためには、何が理想であるのかを知らなければならない。単に現状の現実に迎合するだけであれば、理想などどうでもよい。単に目先の問題さえ無くなれば満足できるからだ。それはその場限りに気分的な満足を得るための行動であり、意図的に自分の意識を狭窄化させて、本当の現実から逃避しているのである。だが、意図的な意識狭窄化は、その「意図。」という作為性による意識の極めて表層の満足しか得ることはできない。そのため深層心理が促す「良心の呵責。」にさいなまされ、結果的に自己嫌悪に陥ることになり。また、本質的な心の平穏も喪失するのである。

 善人と悪人に大脳容積の著しい違いなど立証できない。同じ容積がある限り善人に認識できて悪人に認識することができない論理的な証明などない。単に気分的、情動的、大脳辺縁系的に認識したくないだけの怠慢である。
 私自身は別に聖人君子ではない。欲望、煩悩もある普通のヒトであり、悪いことを考えることもある。しかし、頭の中で考える分には人畜無害であり、現実的な公益倫理性に抵触するわけではないのである。映画や絵画などの芸術分野において非倫理的な表現や、非科学的な内容であっても構わない。芸術というものは「作り話。」「お伽話。」に過ぎないからである。しかし、「脳科学。」と称して脳トレ類で満足したり。「哲学。」と称してニーチェ類で満足したりするのはとんでもない錯誤である。思考停止しておいて科学も哲学もへったくれもあったものではないからである。



 § 言語は意識ではない。

 ニーチェだの養老だのといった論理整合性のない話を鵜呑みにしていて、それが本質的意識であるなどというのはとんでもない間違いである。
 「脳化。」を理論であると言い張るのであれば、一体「脳化されていない状態。」とはどのような状態で、それが一体何の意味があるのか。論理的に説明すればよろしい。所詮はゾロアスター教同様、その場限りに自分の気分を満足させるため、思考停止に陥っているだけのオカルトに過ぎないのである。

 脳科学者の誰も養老をオカルトだとは論じない。この時点で現在の脳科学者達の無能ぶりを露呈しているのである。
 酔っ払いの戯言や、夢遊病者の譫言が意識によるものだとは到底いうことができない。論理性がないだけでなく、当人が何を話したのかすら記憶に残っていないというのは、意識が医学的にすら働かなくても言語を話すことが可能であることを証明する。振り込め詐欺師の利己的欲望に支配されたペテンには、人間としての本質的意識が働いていないため、動物的、機械的に金を振り込ませること以外に何も意識できていないし、また、引っ掛かっている被害者もまた、強迫観念に基づいた機械反射的な行動しかできなくなっているのである。

 ヴェルニッケ野やブローカ野などの言語中枢は側頭葉を中心にした領域にあり、本質的意識を司る前頭葉にはない。それでも脳科学界は「言語=意識。」だと言い張る。そういうことにしておかないと自分達の流布してきた「理論。」が総崩れになってしまうからである。
 占い師やペテン師のいうことを鵜呑みにする時、医学的な意識や生物学的な意識は存在する。言語も話すし、論理整合性はなくても説明は可能である。本論が扱う意識とは、こうした単なる生物的な意識を論じているのではなく。その場の気分に左右されずに論理的に考え、統合的な目的意識を失わない行動選択を行えるための、より広く、また、明瞭さを持った意識について論じている。それがないから振り込め詐欺にも引っ掛かるのである。
 アイヒマン実験という環境下においても、環境に左右されずに自律的にどう行動するかを選択できなければ、それは本質的な意識ではない。人間としての公益倫理的判断を伴わない意識など、人間の意識ではないからである。
 いうなれば、あなたは公開アイヒマン実験の被験者である。東京大学名誉教授の言うことに対し、何の疑いも持たなければ安心であろう。エセ脳科学を蔓延させたままにしておいて振り込め詐欺が減らなくても、それは自分の所為ではないと思い込んでいるのである。


 § 本質的知能論

 一般的には学力と知能は等価であると思われている。そのため学力が高くなりさえすれば、頭が良くなったとされる。
 だが、これも単なる俗説であって、認知科学的には本質的知能であることの証明はない。それどころかどんなに学力成績が高くても、教えらえたこと以外何も自発的には認識できないばかりか、教えられたことが本当に正しいのかどうかも自律的には検証できなければ、単に成績という報酬「エサ。」につられた機械的条件反射としての学力でしかないのである。

 チンパンジーにタッチパネルを与え、ランダムに並んだ数字を数秒表示させたあと、数字を無地の四角に置き換え。チンパンジーが記憶した数字の順番に四角に触れればエサが貰えるようにしておくと。チンパンジーはヒトの大学生よりも高度な記憶能力を発揮するという。
 これはエサという報酬につられた反射的な「学習。」の典型である。チンパンジーの意識にはエサを貰うこと以外に何もないため、ある意味純粋に高度な学習をすることができるのである。
 大型のオウム「ヨウム。」に会話を教えた学者がいたが、これもまたエサでつった機械反射的な「学習。」結果である。これらの機械反射的な学習というものは、それを発揮させるための環境を作り出さなければならず。本質的には自発性とは言うことができない。単なる学力が高いだけのバカ学生というのは、こうして教育機関によって大量生産することができる。何せ環境さえつくれば習性や傾向性的に生産可能であり、その最も先鋭化させた手法が「クボタ式。」である。

 クボタ式の「学習。」方法というのは、子供の本質的な自発性を全く無視し、養育者、教育者の大衆的な観念的知能論に基づいて、都合の良い、親にとって扱い易い従順な子供を製造するだけのことである。
 それが子供の精神的発育において障害をもたらす可能性は高い。ある種の「猿まわし。」であり、虐待性が伴うからである。

 大衆観念に基づく短絡的知能論に基づいて、どんなに高度な特定能力を獲得しても、それによって自律的な公益倫理的判断力を養うこととは無関係であり。むしろ他人に従順なだけの人間に育てばアウシュビッツ、ビルケナウ絶滅収容所の従順な吏官、アドルフ:アイヒマンと同様、何も自律的には判断できない無責任な人間にしかならないのである。
 クボタ式の教育方法に対して、茂木健一郎は「その手があったか。」などと称賛している。茂木が言っている「その手。」とは、大衆人気を得るための手法のことであって。何ら脳科学的な根拠に基づいて検証しているわけではない。
 クボタカヨコの配偶者は脳科学者であるという。しかし、脳科学者といっても、単なる現象論的な結果を研究しているだけで、人間としての社会性や本質的知能論についての知識があるとは限らないし、また、科学的な検証をしているとも限らないのである。単に「カミさんのやってることが、世間的にウケて金が儲かって嬉しい。」だけなのかも知れないのである。そこまで狡猾でなくとも、自分の研究で頭が一杯で、カミさんのやっていることには興味がないのかも知れない。いかんせん配偶者が脳科学者であるというだけでは何の科学的検証性も担保されていないのである。

 本質的知能というものを論ずる時、それはアインシュタインが論ずるように「教えられていないことに気づくこと。」が必要である。それは単に成績という「抽象化されたエサ。」につられ、環境依存的に先鋭化させただけの学力とは異なる、本質的自発性を伴った、本質的自発的思考のことである。
 小柴昌俊は、「これなら自分は一生続けることができる。そういうものを見つけなさい。」と論ずる。それはすなはち、本質的自発性こそが個人の人生において最も重要であるからに他ならない。ただ、勘違いしてはならないのは、本質的自発的行為、純粋行為を持ったとしても、それが社会的に成功する保障など一切ないということである。
 本質的自律、自発性の欠落した安物哲学者達は、他者との関係性の中にしか自己が存在しないなどと論じたがるが。こんなものは単なる大衆迎合を促し、本質的な自律判断を失うだけのバカの論理でしかない。たとえ火炙りにされてでも真実を追求して、初めて科学なのである。論理科学的ではない哲学であるならば、それは思考停止をするための現実逃避であり、「考える。」ことを放棄しておいて哲学もへったくれもないのである。
 社会的成功には意味はない。社会的成功というのは要するに物質的な豊かさを得るということである。物質的にどんなに豊かになっても、本質的な心の平穏とは無関係なのである。ところが大衆の多くは目先の物質的な豊かさを得られる社会的成功と、本質的知能との区別がつかない。そもそも大衆にとって、本質的知能とは一体何かなど意識の俎上にはないのである。
 千住鎮雄の教育方針に対し、島田紳助は「こんなもんは、天才がやることであって。俺らには関係ない。」と言った。エセ脳科学の促す脳トレには食いつく癖に、面倒臭い教育論このとは意識から外しておくのが大衆凡民の「手口。」である。ノーベル賞受賞者がクボタ式「猿まわし。」を推奨するわけがないのである。

 本質的自発性なくして、教わったこと以外の新しい発見や、教わったことに対する論理的な精密検証などできるわけがない。本質的自発性というものは特定環境を整備しなければ発揮できないようなものではなく、あくまで当人の純粋な好奇心、興味、目的意識によって発揮されるものである。
 アインシュタインが相対性理論を書いたのは、大学の研究室ではなく、特許局勤めをしながら書いたのである。現在ではアインシュタインは天才扱いされているが、実際にはノーベル賞を受賞する前には「数学以外に何もできない。」とまで言われていたのである。
 それに対して、幼少期から学力の高い子供というのは、大抵の場合大人になる頃には「普通の人。」になってしまうのである。これは学力=知能という短絡的な大衆観念による勝手な思い込みで天才扱いしているのであって、本当に科学的な業績をあげる人というのは必ずしも幼少期に学力が高いわけでない。幼少期の学力が本質的知能とは無関係なのである。
 幼少期の子供の発育にとって必要なのは、放置しておいても勝手に自分からやろうとすることを妨げずに、むしろ応援するだけの親の方の度量である。従って「褒めて伸ばす。」ことも無意味である。褒められるという環境に依存した行動は本質的自発性ではないからである。

 そもそも学力成績というものを規定する問題自体が認知科学的な観点から作成されているわけではなく、あくまで成績を規定、比較するための基準として、暫定的に作られたものでしかないのである。従ってどんなに学力成績が高くても、何ら学術的な業績を得られる根拠には成り得ない。
 その子供、その人物が自発的に行いたいことであるならば、それは当人が自分で選択すればよいのである。当人が大学の研究室に入りたいのであれば、当人が入れるように努力すれば良いのである。アインシュタインではないが、たとえ研究室に入れなくてもノーベル賞になることもある。それならどのようなアプローチをするのかは個人の本質的自発性に任せておくのが重要なのである。

 大衆というのは短絡的な解答ばかりを求めるため、「これさえやっておけば、頭がよくなる、社会的に成功できる。」というペテンを簡単に鵜呑みにしたがる。頭が良ければ社会的に成功するなどという保障は一切ない。世間がナチス一色に染まっていた時代に、ナチスを糾弾すればスイスの山の中で死ぬことになる。それでも、間違っていたのは世間の方である。地動説を唱えたばかりに火炙りにされることもあるのだ。社会的な成功という結果論をいくら並べても、それが本質的知能や、本質的な人間としての社会性を証明するわけではない。遺伝学の草分けとなったメンデルも、生前は全く認知されなかったのである。

 公益倫理的な自律判断というものは、自発性の中にあり、他にはない。本質的知能もまた然りである。本質的な自発的行為というものは、当人にとって何より集中を促すものである。本質的意識を育てるためには当人にしか判らない純粋行為を知ることである。


 § MI理論について。

 ハーバド大学のハワード:ガードナーの提唱する「MI理論。」の一部には、

 「各方面において、天才と称される人がいるので。それも知能と見なす。」

 という部分がある。

 まず、ツッコまないといけないのは、「各方面。」の人達が認知科学的な根拠に基づいて天才と規定しているわけではないということである。
 次に、ガードナーの「見なし。」というのは、何ら論理的根拠を持たない勝手な観念でしかない。

 従って、こんなものは理論でもなんでもなく、単なる実証不能の観念に他ならない。こんな初歩的なことも判別できない人間しか、現在の脳科学界にはいないのである。無論、こうした精密検証性の欠落は、それを垂れ流すマスコミにも責任がある。

 まるでチンパンジー相手に説明しているようで、ウンザリさせられる。



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モジモジ君。

2011年03月02日 01時01分14秒 | 日記
 文字数の話の続きなんだけど、350文字制限っていうのはプレビュー表示の話で、ブログ自体は二万文字書けるってことらしい。

 試しにダラダラ書き込んでみようと思う。内容は無いようってことで、テストなので、読まなくてよいです。

 二万文字って一体どのくらいなのか、数えたことないからよくわからない。調子に乗ると結構書き込んじゃうんだけど、内容のない文章だとなかなか思いつかないもんだな。

 今のところ201文字。

 何書こう。ああ、そういえば、英国の科学雑誌ネイチャーで、脳トレの類はちぃとも頭がよくならないことが立証されていましたね。多分マイケル:サンデルの講義も同じようなもんだと思うよ。脳が気持ちいいことっていうのは、いわば麻薬性があるので。気分的に気持ち良くなってしまうことによって、むしろ何も考えが成立しなくなってしまうみたい。

 サンデルの講義とかって、いわば衆人環視環境の中においての議論であって。そこでどんなに正義ぶった発言ができたとしても、それは環境依存性の特定能力でしかないから、そんなことで本当の公益倫理的な自律判断ができるようになるわけではない。

 社会心理学的な結果論なんかも同じことが言えて、衆人環視下における結果論をどんなに枚挙しても、それは衆人環視下という環境依存性の結果論に過ぎないわけで。つまり、振り込め詐欺の集団内部において自浄作用が働かないことからも、衆人の目がない場所においては全く役に立たないってこと。ああ、説明が難しい。

 だから、サンデルの講義でどんなに正義を並べたとしても、それが本当に公益倫理的な自律判断を出来るようになるわけではなくて。単に人前で正義を論じたっていうだけのことなんだけどね。

 でも本当にこれ、ブログに載るのかな。無駄骨にならんかな。この辺にしとくか。でわまた。
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文字数。

2011年03月02日 00時38分57秒 | 日記
 gooブログの場合、記事当たりの文字数が350文字しか書き込めない。携帯電話とかで読むには丁度いい文字数かなって思うけど、本来ブログってこういうものなんだろうね。

 ソネットブログの時もアクセス解析すると携帯電話が大半だったから、あんまり調子に乗って大量に書き込んでしまうのも、読み手からするとウザいかも知れないし、これはこれで面白いかも知れないな。あ、なんだかエディタの上に「文字数について。」っていう押すところがあるな。これは一体なんじゃらほい。ポッチッとな。あれ、ヘルプが出てきて二万文字まで書けるってある。うにゃー、どっかいじると350文字以上書けるのか。どこどゎー。どこをいじると文字数が増えるのにゃー。ああ、もうデフォルト設定の350文字に達してしまう。でわまた。
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URL。

2011年03月02日 00時21分56秒 | 日記
 ソネットブログだと、記事中に直接URLを書き込めばリンクになったんだけど。gooブログの場合は手順を踏んでリンクしないとダメだそうです。

 ソネットブログに書き残したブログのリンクを書いておきます。

 東京写真

 落書きAndroid

 意識論

 これで多分リンクになっていると思う。うわぁもう文字数がない。でわまた。
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