書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

犬。

2011年03月28日 23時44分23秒 | 意識論関連
 先程、NHK教育で「犬学。」という番組をやっていた。「犬。」である「大。」ではない。

 イヌは飼い主や、他者からの視線に敏感であるという。

 一般的に言われる「自意識。」という概念は、他者からに視線に対する反射的な無意識のことである。

 「他人からの見た目。」こそが自分の意識の本質で、それ以外は自分の意識ではないという理屈は。要するに自発的な自律判断が存在しない者だけに特有の概念である。

 イヌの場合、他者からの視線なしに自制することが困難であるという。逆に言うと、他者からの視線に執着するということでもある。


 飼い主との信頼関係において。双方の大脳辺縁系の一部である「視床下部。」から分泌される「オキシトシン。」という物質によって、双方の情動的な信頼関係が結ばれるというのである。

 イヌにおける信頼関係というものは、基本的に盲目である。特定の対象に対する異常なまでの執着によって、必死になって媚び従い。疑うことをしない。そのため爆弾を背負わせて敵の車両に「特攻。」させることも可能である。

 ヤクザに見られる「鉄砲玉。」や、テロリズムに見られる「自爆。」なども、「特攻。」の一種であろう。

 太平洋戦争において、日本は英米からの迫害を受けていたわけではない。従って、パレスチナ人の自爆攻撃と同列に扱うのも、事情が異なる。にも関わらず、盲目的に自爆特攻を受け入れた日本人の民族性とは、現実には特に迫害などを受けてもいない相手に対して、言葉だけで洗脳されて盲目化する程の従順さを持っている。

 「言葉の力。」などという話を、文系の人間は好む。あらゆる「力。」は、その使途、方向性を制御する意思なくして意味を持たない。ルワンダの虐殺も、ラジオ放送による「言葉の力。」の暴走によって引き起こされたのである。

 「力。」それ自体を信仰するのは、何も考えたくない文系の人間特有の観念である。

 「勇気がわく。」だの「元気が出る。」などの気分の問題にすりかえたがるのが文系の特徴である。気分が乗らないと何もしたくないケダモノみたいな奴らが文系というものである。

 文系の人間というのは、物理学への理解はしたがらないのだが。生物学に関しては「わかる。」と言う。それは従来の生物学における結果と目的を混同した観念との親和性によるものである。

 何も考えずに、無為無策な情動行動の結果に対し。事後追認的なこじつけを正当化できる従来の生物学のパラダイムというものが。理論的に考えることの苦手な文系の人間にとって感情的に「楽。」なのである。





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出川哲朗。

2011年03月28日 21時18分25秒 | 日記
 サイという動物は非常に危険な生物である。本気になればトラックの一台くらい、簡単に転覆させられる。

 以前、故あって長時間檻にいれておかなければならないことがあった後。檻から放した時に、余程ストレスが溜まっていたのだろう、檻をド突き回して暴れた映像を見たことがある。

 物凄かった。

 もはや「天災。」である。

 動物を甘くみて、危険なロケにエスカレートするのはやめて欲しい。

 以前にも、「日曜の夕食後に、あまり厳しい映像など見たくはない。」と言ったが。度を越すと単なる残虐性にしかならない。

 悲惨な状況というのは東北北陸の沿岸だけで充分である。もう5年くらいは見たくない。うんざりだ。それこそバラエティー番組なら「空気読めよ。」って話である。

 バラエティー番組というのは、どちらかといえば芸術に分類されるものであり。科学的な検証に供するものではない。宮崎駿の映画とか、金子みすずの詩と同じで、「気晴らし。」なのである。だから「空気を読む。」ことは、むしろ必要なことである。
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自発的。

2011年03月28日 19時36分15秒 | 意識論関連
 チンパンジーが、実験室において、他者に道具の提供を行う。

 これを東大とか京大のバカ学者達は「自発的。」であると言い張る。

 自分が逆の立場になったとき、相手から道具の提供を得られるように予め道具を渡しておくことにしている場合。これはギブアンドテイクの関係が成り立つ。

 自発的とはいっても、相手との取り引き関係が成立する場合には、これは本質的な自発性である証明にはならない。

 利他行動自体の抽出が人間としての社会性を証明し得ないことは、既に述べた。どうやら自発性に関する錯誤が生物学者にはあるようだ。


 あらゆる犯罪類は、一般的に「自発的。」行動であるとされる。しかし、殺人犯が自己の行った犯行の理由について、論理的な説明をすることはできない。大抵は「ムシャクシャしたから。」とか「ムカついたから。」であって、そこに合理性のある行動選択は存在しない。

 本質的自発性というものは、環境に左右されずに自律的に行う行動のことであり。特定環境下において限定的に抽出される行動であるならば、それは環境依存性の行動「結果。」でしかないのである。

 他者からの評価報酬といったものとは無関係に、何の見返りも求めず行って、初めて本質的自発性ということができる。しかし、実験においては特定時間内での限定的行動抽出であるから。別の実験場面において、逆の立場になる可能性を予測するくらいなら、チンパンジーにでもできるとしても、何ら不思議でも何でもない。

 そもそも、道具は提供しても。その道具によって得たエサ自体は、道具を提供した個体に対して「お礼。」とか「おすそわけ。」は一切行わないのである。一説には、親であっても子供には与えないという。

 そもそも、エサに関わるあらゆる実験においては。常にエサという報酬に対する行動しか観測することは構造的にできない。そこでどんなに限定的な特定行動を抽出しても、それがチンパンジーの自発性の証明になどならない。

 既に周知された、チンパンジーの残虐行動は。もはや如何なる断片的行動抽出を行っても、反証することが不可能であることを忘れては困る。

 一切見返りが受け取れない状況におかれたとして、当人(当サル)もそれを理解していることが確実でも。なをかつ利他的行動を採ったとするなら、それを「自発的。」と言っても間違いではなかろう。

 何を行っても一切エサが与えられない状況で、餓死するまで利他行動を続けることができれば、それは自発性といっても間違いではなかろう。

 サルとはいえ、それは残虐なので、実行して欲しくはない。それこそサルの自発性を立証するために、実験者の非人間性を立証したのでは本末転倒であるからだ。

 たとえ、特定環境下においてサルの自発性を立証したとしても。既に実証されている残虐性の反証には一切ならないのであるから。被験者(被験サル)は全くの無駄死にである。それこそ単に「その個体だけ。」が自発的に利他行動を採ったことを証明したことにしかならない。個体の個性に依存する話であるなら、タクシーのフロントガラスをぶち壊して運転手を引きずり出し、指の爪を剥がして顔を喰うチンパンジーもいるのである。それがサルの「個性。」というものであろう。

 ゲームがうまくできなくて、自動車のワイパーを折りまくったバカの行動であっても。その行動は一般にいう「自発的。」である。自律も何にも働かないまま「個性。」を振り回してしまうから迷惑なのである。

 「個性は身体だ、だから安心して同じを求めれば良い。」などと称して、既に存在する本能のおもむくままに「個性。」を振り回すから、社会的に迷惑となるのである。

 自分自身の「個性。」を知ることによって、自分自身の感情の制御ができれば、自分の「個性。」の出し方、扱い方も制御できるということである。

 その意味において、都合よく「個性を出せ。」などというのは身勝手な話であることに間違いはない。この点においてのみ養老にも「一理。」はあろう。

 もちろん「一理。」以外の一切は存在しない。

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ケーキ。

2011年03月28日 13時06分30秒 | 意識論関連
 元暴走族だったというケーキ職人がいるという。

 暴走族でありながら、ケーキを作るのが好きというのは。外見的にはキャラクターがちぐはぐで、何となく格好悪い。そのため、長い間、彼はケーキ作りが好きだということを隠していたという。

 ある日、ふと、暴走族仲間に「俺、実はケーキ作るの好きなんだ。」と、打ち明けたところ、偶然にも相手もケーキ作りが好きだったという。

 結局、その仲間と一緒にケーキ作りを始めてからは、暴走族とは無縁になってしまったという。現在、プロのパティシエとして働いているという。


 大脳辺縁系の活動が活発な者というのは、どうしても本能的に他人からの見た目、一般に言う「自意識。」の促す強迫観念によって、外見上の同一性に執着してしまうため。他人から「格好悪い。」とか「そんなことして、何になる。」とか言われると、脊髄反射的に自分の個人的に好きなこと、純粋行為から遠ざかってしまうのである。

 脊髄反射とは熱いものに触れたときとかに、「あちっ。」っと手を離す行動のようなものである。

 多数他人からの評価に、自分の行動が流されてしまうというのは。生物学上の「社会性。」であるところの社会形成習性に因るものである。つまり、本能的に多数とか他人の顔色をうかがってしまう習性があるのだ。

 「暴走族がケーキ作り。」このことに対する一般大衆的な評価は「格好悪い。」ではないだろうか。しかし、ケーキを作ることによって迷惑行為をやめることができたのであるから、むしろ社会的には歓迎すべきことである。

 大衆観念というのは、どうしても表面的な「格好。」にばかり目がいってしまい。本質的な社会性には意識が働かない。「人は、見た目が9割。」なのである。


 便所掃除をさせて更正させた例もあるが、これは便所掃除を一緒にやらせている社長さんの人格に依存したものであり。何らかの理由でこの社長さんがいなくなれば、簡単に暴走族に逆戻りであろう。

 実際、更正したといいながら、外見的には悪人を装っていなければならないというのは。本質的には更正していないのである。「今更格好悪くて、やめられない。」のである。

 タマゴ屋とかいう弁当屋も同じ構造である。結局は社長の采配が上手なだけであり、服従対象として「安心。」なだけである。

 偶然服従対象が人格者であった場合にのみ、その社会形成習性は「社会的。」であるが。この「社会性。」とは統率者の人格に依存したものでしかないので、「甘え。」が転移しただけのことであることに変わりはない。

 「折角更正したんだから、今更蒸し返すんじゃねえよ。」と思うかも知れないが、本質的な自律ができなければ、当人が不幸な人生を歩むことになるので、ここはあえて隠さず公表するべきである。水道水に放射性物質が含まれている可能性を公表するのと同じで、パニックになるから隠蔽するという卑怯なことはするべきではない。

 自分が何をしていると楽しいと思えるのか。満足できるのか。それは他人の誰も保障などしてはくれない。少しくらい可愛い顔の少女に「格好悪い。」と言われようとも、「上等。」くらいに無視する気概が欲しいものである。

 そもそも、あなた自身が他人の評価を行う時に、相手の人生についての保障などしないではないか。そんなに深く考えて他人を評価しているだろうか。

 つまり、多数他人にとって、あなたの人生など、どうでもよい他人事に過ぎない。それなら多数他人の上っ面な評価に惑わされることに意味があるだろうか。

 「一人で学食で飯が食えない大学生。」同様、なぜか「考え。」が浅いのである。

 なぜか、それは他人から評価報酬的な「エサ。」を与えられないと自発的には何も考えることができないように育ってきてしまっているからである。

 自分からは考えていないのである。

 こうした自発的思考というものは、マイケル:サンデルの講義を受けても出来ないものであろう。サンデルの講義は、一種のゲームでしかない。特殊な条件による「縛り。」の下に考えを求められているだけであり。その「縛り。」方が学生の脳を酔わせるだけのものでしかないからである。

 構造的に自発的思考を促すようにできていない。

 しかし、本質的自発性を持った、純粋行為には。創意工夫といったものが必ず伴う。伴わない場合には、それはむしろ環境に流されているだけの行為である可能性が高い。

 格好良さに憧れて路上でスケボーをやっている少年を時折見かけるが。外見上の格好良さを求めている限り、それは迷惑行為にしかならない。だから上達もしない。当然、誰からも評価されることはない。

 本当にあなたがやっていて楽しいことが何かは、当人にもなかなか判別できないものである。他人からなら、なをさらである。

 ゲーセンで格闘ゲームを散々やったが、勝てなくてムシャクシャしたから自動車のワイパーを折りまくったバカがいた。こいつは格闘ゲーム自体が楽しいのではなく。格闘ゲームで目立っている他人に憧れているだけである。途中で気付け、バカが。

 どんなにA-ha体験ゲームをやっても、「気付く。」ことの全てが鍛えられるわけではない。そもそも、ゲーム類というのは、どんなにやっても、そのゲームに対する能力向上は見られても、それ以外の能力は一切向上することはない。

 それは実は学力においても同様である。どんなに教えられたことを正確にこなしたとしても、それ以外の事柄に対して、たとえば論理的な精密検証性や、それに伴う批判精神も養われることはない。

 それは東大生物学部を見れば明らかである。

 養老孟司が名誉教授であるから、キチガイしかいないのも必然である。





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撹乱。

2011年03月28日 10時44分17秒 | 意識論関連
 養老の著作を読み返して見たが、基本的に論理的根拠のない仮説に基づき、自分の観念を正当化する形式である。

 一般大衆的には、あたかも論理的根拠のように見えることであっても。実際には根拠ではなく、仮説であったり、或はそれ自体が観念であることも少なくない。

 いくつか前の記事でも書いたが、嘘つきというのは嘘だけを言う訳ではない。ポパーを取り上げ「反証主義。」だとか言っているが。「皆さん、そうでしょ。」的な論証は少なくない。

 あたかも科学的な論証のような風味を醸しているだけであって、実際には論理整合性の欠けた実証不能の観念でしかないのである。

 養老の言っていることは、兎に角「徒に胡乱。」であるため。多くのヒトは読み進めるうちに理論的な検証性を失ってしまい、「何となく、わかったような気分。」に陥るらしいのである。むしろ「わからなかった。」ことが恥ずかしいとか勝手に思い込み、外見上の「自意識。」によって、いわば認知症の初期症状のごとく「取り繕って。」いるだけなのではないだろうか。

 養老の「理論。」からは、実際には何ら実用的な具体策などは一切出てこない。北大の澤口俊之が唯脳論の解説をしていたが、結局彼も理解できなかったことを述べている。

 理論が理解できない場合、それが単純に理論的に難解であるために理解できない場合というのがあるが。養老の「理論。」は初めから論理整合性が欠落しているのであるから、これは理解できないのは必然である。


 EQという基準がある。これは理論的な根拠を伴うものではなく、IQと同じで単なる基準でしかない。「適切な感情を発する。」などとして、対象者を数値化、ランク付けしているだけであり。「適切な感情。」の基準自体に理論的根拠がないのである。

 ヒトは、感情それ自体によって行動の全てが決定するわけではない。本質的意識によって自律的に感情抑制をすることによって。また、それを行い続けることによって、より自律的に感情を抑制できるようにもなるのである。

 それこそ、本当に耐えられない感情であるならば、他の行動へと「逃避。」あるいは「昇華。」させることも可能である。連続殺人型と言われる大脳辺縁系の活動の活発なヒトであれば、芸術などの「気晴らし。」自体を生業とすることが「向いている。」とも言われる。こういうタイプのヒトは、他人からの評価に敏感であるため、多数他人からの評価を受けることに対しての執着があり。それが結果的に社会的成功につながることが多いようである。

 本質的意識を喚起すると、一時的には精神的恐慌をきたすこともある。だが、それは今まで何も考えず、無意識に環境に流されるままに生きて来た、意識の怠慢に由来するものである。

 養老などのペテンに騙されても、考え自体が一変することはなく。むしろ固定観念のまどろみに誘われるのがオチである。そもそも誰も理解してなどいないのであるから、思考に影響などあるわけがない。むしろ、ゾロアスター教と同じように読み手の都合の良いような勝手な解釈が可能であるため、固定観念のまどろみに浸って満足できるのである。

 断片的に養老を正当化することは可能である。嘘つきというのは本当のことも言うからである。

 唯脳論というのは、生物学では常識とされた「社会生物学。」ソシアルバイオロジーに基づいたものである。何でもこの社会生物学というのは、発表当初は袋だたきにあっていたらしいのだが。まともに反論できる人間がいなかったために、なし崩し的に常識化してしまっていたらしい。

 東京大学生物学部が、「動物の行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」などという戯言を公表している以上、もはや社会生物学は否定されたのである。

 にも関わらず、私の話を誰も取り上げないというのは、意図的な無視以外の何物でもない。生物学の呪縛を解いたのであるから、それこそナンタラ賞の類を貰ってもおかしくはないと思うのだが。あらゆる学界が沈黙してしまった。

 沈黙したということも、反応のひとつではあろうから、それなりに浸透しているのかも知れないが。後になって急に取り上げられても、もはや誰も信用できない。

 ブログ版の意識論を発表する何年も前から、各界にCD-R版を送付してあり。その中において、「私の指摘、受け売りによって、ジジイの吊るし上げをすることは許さない。」と書いているので、たとえ今更養老の反論ができたとしても、全く価値がない。

 私は多数からの同意とか、内容を共有する味方が欲しいわけではない。論理的に理解しろと述べているだけである。

 むしろ反論があるならコメント欄に書き込んで構わない。単純にわからないことがあれば質問も受け付ける。特に専門知識などなくて構わない、私自身大脳生理学的なことに関しては素人同然である。「恥ずかしい。」などという恐怖心に惑わされず、議論を戦わすだけの批判精神を忘れたから、ペテンを鵜呑みにしてしまったのである。

 私の言うことは、決して理論的に難解であるとは思えない。むしろ単純過ぎるゆえの拒絶反応なのかも知れない。




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違法改造。

2011年03月28日 09時44分01秒 | 意識論関連
 違法に改造した車両などを乗り回し、近隣住民に迷惑をかける者というのが時折いる。

 他人に迷惑をかけることによって、「自分の方が、自由だ。」と思い込みたいがゆえの行動であるため。非常にひつこい。

 こうした行動というのは、根本的に自発性によるものではなく。単に他人との比較によって「自分の方が。」優位に立ったような錯覚に陥りたいから行っているので。全く建設性が存在せず、結局当人の脳は満たされないため。エスカレートすることはあっても、自制することは全くない。

 本当は、それをやりたいのではなく。それをやることによって、他人からの見た目上、すなはち一般論としての「自意識。」を満たすための行動であるため。本質的には自発性が伴わず、全く当人の脳は満足できないのである。

 他人からの見た目に執着するというのは、要するに強迫観念的に行われているだけなので。端的に言って、脳がバカになっているだけなのである。

 何せ、無意識的な強迫観念に従って行動しているだけなので。本質的自発性も、それに伴う自律判断も養われることはない。

 「自己中心的な者に、自己はない。」という言葉があるが。これは「自己。」という概念において、本質的な自己と既に存在しているだけの自己との区別がされていないために、一見すると自己矛盾風味に見えるだけである。

 「自己中心的な。」自己とは、既に存在している無意識習性行動としての自己のことであり。その後に続く「自己はない。」における「自己。」とは、自律的に自己を抑制できるだけの本質的自己、本質的意識行動選択のことである。


 年功序列体質というものは、それを構成している個人が体制に対して従順なばかりで、全く無批判に服従する無責任性によって作り出されるものである。

 こうした年功序列体質から作り出される組織とは、基本的に封建的で、「閉じた。」組織である。

 科学などの分野というのは、本来権威性に依らず、常に自由で、社会に「開かれて。」いなければならない。科学というのは、より多くの人達による、検証に曝されなければならないものであり。検証における基準というのは多数決によるものではなく、あくまで論理的検証に基づくものでなければならない。在野か、或は一流大学に所属しているか、といった、権威性に依らず。常に理論的な検証に基づかなければならないのである。

 暴力団とか暴走族が「閉じて。」いるのは、むしろ必然というものであるが。東京大学だとか、マスコミが「閉じて。」いるというのは、責任放棄の怠慢に他ならない。





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繁殖。

2011年03月28日 00時36分55秒 | 意識論関連
 大脳辺縁系の活動が活発な者程、生殖行動も活発である。

 そのため、ヒトという種の生物というのは、大脳辺縁系の活動が活発な人間へと「淘汰。」が働く。結果、自制心の欠けた酔っ払いみたいなバカが増えることになる。

 生物学は、こうした「結果。」に対して、どのような「目的。」をこじつけるであろうか。


 意思としての「子供を作る。」ことと。生物の結果としての繁殖には直接的な関係はない。レイプであっても子供はできるし、円満な夫婦であっても不妊はある。

 ヒトの先祖が、欲望のおもむくままに、レイプを繰り返した個体の遺伝子が遺されたとしても。それは大脳が肥大する以前の結果的な行動の「結果。」に過ぎない。そもそもネズミ程度の脳にとって、レイプなどという概念自体存在しないであろう。

 レイプという行動に対する、本能的な興奮性というものが存在するとしても。そもそも大脳辺縁系の促す情動行動自体が、自分の意識的選択ではないのである。従って、レイプされて性的な快楽を感じてしまったとしても、それは「意思。」とは無関係の本能的なものでしかない。

 何に対して快楽を感じるか、それ自体は自己選択不可能なものである。


 幼女性愛犯罪者は、再犯率が非常に高いという。大脳肥大という結果への要因の一つとして、ネオテニー(幼形成熟)というのがあり。ヒトの祖先が、より幼い外見の個体に対して繁殖行動を採った結果として、大脳が肥大したという説もある。

 そのため、結果的には幼い子供に性的興奮をしてしまっても、それ自体は何ら異常なものであるとは言えないのである。

 問題なのは、本能的な行動を自律的に抑制できない意思の弱さによる、自制心の欠落である。

 大脳辺縁系の活動が生れつき活発な者の場合、そもそも自制心が弱い傾向というのが露呈しやすい。構造的に「ブレーキ。」が効かないからである。

 しかし、「ブレーキ。」としての意思の弱さがあるとしても。「ハンドル。」としての欲望のコントロールは可能である。それが、「何に対して、貪欲さを発揮するか。」である。

 個人的な純粋行為としての研究などに対して、自分の興味、好奇心といった貪欲さを発揮することができれば。結果的には社会的な禁欲性を持つことも可能なのである。

 あるMRI(核磁気共鳴画像化装置)の研究者は。物体の内部の詳細構造を、非破壊で見ることのできる装置の存在を初めて知った時、「ガーン。」となったという。こうした「ガーン。」という精神的ショックというのは、実は大脳辺縁系の活動の弱い私には、よくわからないものなのである。

 大脳辺縁系の活動が活発であるからといって、バカになる以外の選択肢が存在しないわけではないのである。自分が何に燃えるか、あるいは何に萌えるか、それを知ることができれば単なる本能的な行動への機械的条件反射として犯罪に手を染めなくても済むようになるのである。

 小柴昌俊は、「これなら自分は一生続けられる。そういうものを見つけなさい。」と勧める。まあ、それによって社会的成功が約束されるわけではないのであるが。無為無策に本能のシーケンスに流され、バカげた人生を送らなくて済むのであれば、結局は個人の人生において重要な意味を持つことになるのである。

 それが別に科学的な研究でなくても構わない。幼女の身体に興味があるならば、粘土細工でこさえてもよかろう。絵を描いてもよかろう。それで当人が楽しくて、満足しているのであれば、別に多数の「世間。」から嫌われても、自律的に自分の行動が制御できているのであれば、本質的には社会に迷惑をかけていないのであれば、それは自由というものである。

 養老とかは、「誰が解剖なんて、辛気臭いことするんですか。」などと言うが。そんなことは養老が心配しなくても、自発的興味のある研究者というのはいるものなのである。人というのはそれぞれで、多くの人が嫌がることでも興味を持つ人というのがいるものである。別にやる気のない人間が、それを憂いてとやかく論じることではないのである。

 重要なのは、当人の本質的自発性である。それによって自分の欲望を充たすことができれば、結果的には人畜無害な行動を選択することができるようになる。何に萌えるのかを選択できるのであえば、養老のようなルサンチマン(恨み)をぶちまけて、支離滅裂な観念のまどろみに誘うようなオカルトジジイにはならずに済むのである。

 個人において、社会的成功には意味はない。「社会的に成功して、それで。」と、某有名俳優が述べたTVCMがあったが、社会的成功というものは、他人からみて羨ましいだけであって、実際には社会的成功をしたからといって、自分のケツの穴は自分で拭くものなのであり、何ら日常生活に変わりなどないのである。食い物であっても、一日に食える量にさしたる違いがあるわけでなし。好き嫌いを言っていれば病気になるのである。

 見方によっては、社会的認知などされることによって、裸で公園に寝転んでいただけで全国ニュースにされてしまうのである。別に酔っ払いが裸で寝ているくらいで全国ニュースになることなど、普通は有り得ないことである。

 酔っ払っていながらも、服がキチンと畳まれていたというから、育ちの良さが滲み出てしまったようである。汚い中年オヤジとは異なり、鍛えられた青年の裸であれば、それ程社会的な制裁を必要とするものでもないと思うのであるが。

 酔っ払いはさておき、TBSの人気アナウンサーが突然自殺したという話もある。社会的な成功をしても、当人の精神が満たされるとは限らないのである。なにせベンツの中で練炭自殺だというから、なんとも贅沢な自殺である。何が気に入らなかったのか、もはや誰にもわからない。

 個人にとって、最終的に重要なのは。社会的な成功ではなく、個人の純粋行為に集中できるということである。他人からの評価がなくても、個人が楽しいと思える行為に熱中していることができれば、個人にとっては最も重要なものなのである。




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