黒木玄の書き込みページで茂木の言い訳を発見したので一部転載する。
「 科学は、システムの属性を、ある視点から切って、そこに法則性を 見いだすという形で進んできた。この方法論を脳科学に当てはめる こと自体は問題がない(というか、それ以外の方法は今のところない)。
しかし、その結果だけに基づいて、脳、人間について単純な 「割り切り」をすることは多くの場合間違った結論を導く。 」
これは科学的には正しい内容である。それなら、クボタ式に対して「その手があったか。」と称賛することはどうなんだ。脳トレ類を推奨しておいて、「これが脳に良いんですよ。」などと断言することが科学的なのか。人生相談と称して大衆相手にテキトーな丸め込みをするのが科学的なのか。「間違った結論。」ではないというのか。
養老にせよ、茂木にせよ。科学者相手に論ずる時だけ科学者面をしておきながら。一般大衆相手にはテキトーなことを言っているのである。
こうした二面性というものは、いわば分裂症と同じものである。大脳辺縁系は、その場限りに「取り繕い。」を行う。認知症の初期症状がそうであるように、言っている内容の論理整合性の欠落を、単にその場限りに外見を取り繕うことによって気分的に安心するのである。大脳辺縁系にとって、自律的に論理整合性を担保する「意思。」はなく、他人から見た自己同一性さえ確保されていれば「安心。」なのである。
大脳辺縁系は、刷り込まれた条件反射的な固定的行動しか促さない。従って、言っている内容に論理整合性がなくても、茂木の大脳辺縁系にとってはどうでもよいことなのである。
大脳新皮質というのは、特定の「領野。」というマッピングができることが多いのだが。これは、あくまで無意識的な機械手続き的条件反射行動に「整理。」された結果であり。定型的に同じ処理を行うことによって高速処理を可能にした無意識機能なのである。
機械手続き的な条件反射行動であるから、別に行動や言動に論理整合性など要らない。論理的思考ができる人間相手のときと、できない大衆相手で発言内容がころころ変わっても構わないのである。だから養老にとって「意識に意味などない。」ことにしておかないと困るのである。
大脳辺縁系自体は、論理整合性を担保しない。嘘であろうと無責任であろうと、外見上ばれなければ構わないのである。動物的な情動行動としては、感情的に安心でありさえすれば平気で嘘が言えるし、また、嘘を放置することもできる。
養老は倫理の話を持ち出すと、必ず「環境の所為である。」という論理を持ち出す。それならアイヒマン実験のような条件環境において、環境が悪いから自律判断できないという話になってしまい、結局「自律。」などという本質的意識の存在は「なかったこと。」にしてしまうのである。
これは責任の「たらい回し。」をしているだけであり、結局は環境を作り出した誰かの「自律。」判断がなければ問題は解決しないのである。
多くの人は、自分では責任を負いたくないし、負うことに自信がない。その「多数。」意見を利用して、「誰も責任負いたくないでしょ。」と多数派の気分的な安心を誘うのである。
ヒトは、基本的には動物である。従って気分的な安心ばかりを追求してしまい、論理的安全性を追求することをやめてしまう。そういう傾向性がある。だからといって、その傾向性に無為無作為に流される以外の行動選択が不可能である論証などない。
虐待を受けて育った人であっても、虐待の連鎖を止める意思を発揮することが可能なのである。自分の中に刷り込み「学習。」してしまった無意識的な固定観念以外に、考えることが不可能、あるいは可能性が低いから無意味などというのは。単なる怠惰でしかない。
ヒトの意識の9割は無意識であるとされる。単に割合だけを言えば無意識の方が大きい。だがそれは結果論であって、目的論とは無関係である。単なる結果論だけを枚挙しているから「ヒトとは、そういうものである。」などといわれて無批判に鵜呑みにすることになるのだ。
私の説明は別に難解ではない。論理的には中学生でもわかるようなことしか言っていないし、また、専門用語も特に難解なものを使ってもいない。私から言わせれば、なんでこんなに簡単なことが大多数の人間には理解できないのか、そのことの方が「不思議。」なのである。
文系の人間というのは、気分的な安心を促される文章のことを「素晴らしい。」などと称賛する。そこに具体的内容や論理整合性がなくても、単に気分的に満足できれば、彼らにとっては「素晴らしい。」のである。
芸術なら、それでも構わない。芸術とは大脳辺縁系の「気晴らし。」でしかないからである。気晴らしであるなら、単に主観的に「素晴らしい。」と形容しておけばよろしい。そこに他人からの同意も、共鳴も、普遍性も、論理整合性も必要ないからだ。
だが、振り込め詐欺に騙されることは嫌がりながら、一方で論理的思考はしたくないというのは、言っていることがその場限りで支離滅裂なのである。
ヒトが詐欺に引っ掛かるメカニズムがどこにあるか。それは脳にしかない。脳の意識機能による論理的行動判断が阻害されるから引っ掛かるのである。詐欺に引っ掛けるための手順というものがあって、その手順に従って詐欺は詐欺をシステマチックに行うことができる。
詐欺に引っ掛けるための「手法。」や「技法。」が存在し、メカニズムが存在するのである。
しかし、詐欺師は別にメカニズム自体は知らなくて良い。単に経験則的に「こうすれば引っかけられる。」ことだけを知っていれば可能であるからだ。のべつまくなし、あれこれやってみて、偶然上手くいけば、それが経験則として「学習。」されるのである。こうした無意識的な学習の動機とは、金銭という短絡的な「エサ。」である。だからこそ生物学的な社会形成習性に従って、システマチックに統率のとれた封建的集団として行動可能なのである。
私の論ずる本質的意識とは、理論的、かつ工学的なアプローチによって、このメカニズムを解明しようという試みである。理論的、工学的アプローチを採用するからには、固定観念的な無意識性を徹底排除しなければならない。その無意識性の中に感情や本能といった気分や人気に関わる要素が入るため、むしろ多数からの人気が得られない。
私の論ずる本質的意識論とは、最初から大衆には迎合できない原理的構造というものを持っている。むしろ、大衆迎合して、無為無策な無意識的な自己満足のまどろみに誘った方が人気が出るという事実は認識して頂きたい。
大衆の観念というものは理科系論理思考よりも、オカルトやペテンとの親和性が高いのである。
本質的意識論というものは、心理的な自己分析が必要不可欠である。自分自身の本能や感情というものの「動作。」がどういうものであるかを客観的にみるものでもあるからだ。その過程において、気分的な嫌悪感を伴うのはほとんど不可避である。
例えれば、腹を切り裂いて内蔵を引っ張り出し、「お前の構造とは、こういうものである。」と見せているようなものでもあるからだ。だから見たくないのであれば見なくて結構である。問題なのは見たこともないのに「見た。」つもりになっている傲慢さである。
「 科学は、システムの属性を、ある視点から切って、そこに法則性を 見いだすという形で進んできた。この方法論を脳科学に当てはめる こと自体は問題がない(というか、それ以外の方法は今のところない)。
しかし、その結果だけに基づいて、脳、人間について単純な 「割り切り」をすることは多くの場合間違った結論を導く。 」
これは科学的には正しい内容である。それなら、クボタ式に対して「その手があったか。」と称賛することはどうなんだ。脳トレ類を推奨しておいて、「これが脳に良いんですよ。」などと断言することが科学的なのか。人生相談と称して大衆相手にテキトーな丸め込みをするのが科学的なのか。「間違った結論。」ではないというのか。
養老にせよ、茂木にせよ。科学者相手に論ずる時だけ科学者面をしておきながら。一般大衆相手にはテキトーなことを言っているのである。
こうした二面性というものは、いわば分裂症と同じものである。大脳辺縁系は、その場限りに「取り繕い。」を行う。認知症の初期症状がそうであるように、言っている内容の論理整合性の欠落を、単にその場限りに外見を取り繕うことによって気分的に安心するのである。大脳辺縁系にとって、自律的に論理整合性を担保する「意思。」はなく、他人から見た自己同一性さえ確保されていれば「安心。」なのである。
大脳辺縁系は、刷り込まれた条件反射的な固定的行動しか促さない。従って、言っている内容に論理整合性がなくても、茂木の大脳辺縁系にとってはどうでもよいことなのである。
大脳新皮質というのは、特定の「領野。」というマッピングができることが多いのだが。これは、あくまで無意識的な機械手続き的条件反射行動に「整理。」された結果であり。定型的に同じ処理を行うことによって高速処理を可能にした無意識機能なのである。
機械手続き的な条件反射行動であるから、別に行動や言動に論理整合性など要らない。論理的思考ができる人間相手のときと、できない大衆相手で発言内容がころころ変わっても構わないのである。だから養老にとって「意識に意味などない。」ことにしておかないと困るのである。
大脳辺縁系自体は、論理整合性を担保しない。嘘であろうと無責任であろうと、外見上ばれなければ構わないのである。動物的な情動行動としては、感情的に安心でありさえすれば平気で嘘が言えるし、また、嘘を放置することもできる。
養老は倫理の話を持ち出すと、必ず「環境の所為である。」という論理を持ち出す。それならアイヒマン実験のような条件環境において、環境が悪いから自律判断できないという話になってしまい、結局「自律。」などという本質的意識の存在は「なかったこと。」にしてしまうのである。
これは責任の「たらい回し。」をしているだけであり、結局は環境を作り出した誰かの「自律。」判断がなければ問題は解決しないのである。
多くの人は、自分では責任を負いたくないし、負うことに自信がない。その「多数。」意見を利用して、「誰も責任負いたくないでしょ。」と多数派の気分的な安心を誘うのである。
ヒトは、基本的には動物である。従って気分的な安心ばかりを追求してしまい、論理的安全性を追求することをやめてしまう。そういう傾向性がある。だからといって、その傾向性に無為無作為に流される以外の行動選択が不可能である論証などない。
虐待を受けて育った人であっても、虐待の連鎖を止める意思を発揮することが可能なのである。自分の中に刷り込み「学習。」してしまった無意識的な固定観念以外に、考えることが不可能、あるいは可能性が低いから無意味などというのは。単なる怠惰でしかない。
ヒトの意識の9割は無意識であるとされる。単に割合だけを言えば無意識の方が大きい。だがそれは結果論であって、目的論とは無関係である。単なる結果論だけを枚挙しているから「ヒトとは、そういうものである。」などといわれて無批判に鵜呑みにすることになるのだ。
私の説明は別に難解ではない。論理的には中学生でもわかるようなことしか言っていないし、また、専門用語も特に難解なものを使ってもいない。私から言わせれば、なんでこんなに簡単なことが大多数の人間には理解できないのか、そのことの方が「不思議。」なのである。
文系の人間というのは、気分的な安心を促される文章のことを「素晴らしい。」などと称賛する。そこに具体的内容や論理整合性がなくても、単に気分的に満足できれば、彼らにとっては「素晴らしい。」のである。
芸術なら、それでも構わない。芸術とは大脳辺縁系の「気晴らし。」でしかないからである。気晴らしであるなら、単に主観的に「素晴らしい。」と形容しておけばよろしい。そこに他人からの同意も、共鳴も、普遍性も、論理整合性も必要ないからだ。
だが、振り込め詐欺に騙されることは嫌がりながら、一方で論理的思考はしたくないというのは、言っていることがその場限りで支離滅裂なのである。
ヒトが詐欺に引っ掛かるメカニズムがどこにあるか。それは脳にしかない。脳の意識機能による論理的行動判断が阻害されるから引っ掛かるのである。詐欺に引っ掛けるための手順というものがあって、その手順に従って詐欺は詐欺をシステマチックに行うことができる。
詐欺に引っ掛けるための「手法。」や「技法。」が存在し、メカニズムが存在するのである。
しかし、詐欺師は別にメカニズム自体は知らなくて良い。単に経験則的に「こうすれば引っかけられる。」ことだけを知っていれば可能であるからだ。のべつまくなし、あれこれやってみて、偶然上手くいけば、それが経験則として「学習。」されるのである。こうした無意識的な学習の動機とは、金銭という短絡的な「エサ。」である。だからこそ生物学的な社会形成習性に従って、システマチックに統率のとれた封建的集団として行動可能なのである。
私の論ずる本質的意識とは、理論的、かつ工学的なアプローチによって、このメカニズムを解明しようという試みである。理論的、工学的アプローチを採用するからには、固定観念的な無意識性を徹底排除しなければならない。その無意識性の中に感情や本能といった気分や人気に関わる要素が入るため、むしろ多数からの人気が得られない。
私の論ずる本質的意識論とは、最初から大衆には迎合できない原理的構造というものを持っている。むしろ、大衆迎合して、無為無策な無意識的な自己満足のまどろみに誘った方が人気が出るという事実は認識して頂きたい。
大衆の観念というものは理科系論理思考よりも、オカルトやペテンとの親和性が高いのである。
本質的意識論というものは、心理的な自己分析が必要不可欠である。自分自身の本能や感情というものの「動作。」がどういうものであるかを客観的にみるものでもあるからだ。その過程において、気分的な嫌悪感を伴うのはほとんど不可避である。
例えれば、腹を切り裂いて内蔵を引っ張り出し、「お前の構造とは、こういうものである。」と見せているようなものでもあるからだ。だから見たくないのであれば見なくて結構である。問題なのは見たこともないのに「見た。」つもりになっている傲慢さである。