書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

脳科学。

2011年03月19日 20時42分33秒 | 意識論関連
 黒木玄の書き込みページで茂木の言い訳を発見したので一部転載する。

「 科学は、システムの属性を、ある視点から切って、そこに法則性を 見いだすという形で進んできた。この方法論を脳科学に当てはめる こと自体は問題がない(というか、それ以外の方法は今のところない)。
  しかし、その結果だけに基づいて、脳、人間について単純な 「割り切り」をすることは多くの場合間違った結論を導く。 」

 これは科学的には正しい内容である。それなら、クボタ式に対して「その手があったか。」と称賛することはどうなんだ。脳トレ類を推奨しておいて、「これが脳に良いんですよ。」などと断言することが科学的なのか。人生相談と称して大衆相手にテキトーな丸め込みをするのが科学的なのか。「間違った結論。」ではないというのか。

 養老にせよ、茂木にせよ。科学者相手に論ずる時だけ科学者面をしておきながら。一般大衆相手にはテキトーなことを言っているのである。

 こうした二面性というものは、いわば分裂症と同じものである。大脳辺縁系は、その場限りに「取り繕い。」を行う。認知症の初期症状がそうであるように、言っている内容の論理整合性の欠落を、単にその場限りに外見を取り繕うことによって気分的に安心するのである。大脳辺縁系にとって、自律的に論理整合性を担保する「意思。」はなく、他人から見た自己同一性さえ確保されていれば「安心。」なのである。

 大脳辺縁系は、刷り込まれた条件反射的な固定的行動しか促さない。従って、言っている内容に論理整合性がなくても、茂木の大脳辺縁系にとってはどうでもよいことなのである。

 大脳新皮質というのは、特定の「領野。」というマッピングができることが多いのだが。これは、あくまで無意識的な機械手続き的条件反射行動に「整理。」された結果であり。定型的に同じ処理を行うことによって高速処理を可能にした無意識機能なのである。

 機械手続き的な条件反射行動であるから、別に行動や言動に論理整合性など要らない。論理的思考ができる人間相手のときと、できない大衆相手で発言内容がころころ変わっても構わないのである。だから養老にとって「意識に意味などない。」ことにしておかないと困るのである。

 大脳辺縁系自体は、論理整合性を担保しない。嘘であろうと無責任であろうと、外見上ばれなければ構わないのである。動物的な情動行動としては、感情的に安心でありさえすれば平気で嘘が言えるし、また、嘘を放置することもできる。


 養老は倫理の話を持ち出すと、必ず「環境の所為である。」という論理を持ち出す。それならアイヒマン実験のような条件環境において、環境が悪いから自律判断できないという話になってしまい、結局「自律。」などという本質的意識の存在は「なかったこと。」にしてしまうのである。

 これは責任の「たらい回し。」をしているだけであり、結局は環境を作り出した誰かの「自律。」判断がなければ問題は解決しないのである。

 多くの人は、自分では責任を負いたくないし、負うことに自信がない。その「多数。」意見を利用して、「誰も責任負いたくないでしょ。」と多数派の気分的な安心を誘うのである。

 ヒトは、基本的には動物である。従って気分的な安心ばかりを追求してしまい、論理的安全性を追求することをやめてしまう。そういう傾向性がある。だからといって、その傾向性に無為無作為に流される以外の行動選択が不可能である論証などない。

 虐待を受けて育った人であっても、虐待の連鎖を止める意思を発揮することが可能なのである。自分の中に刷り込み「学習。」してしまった無意識的な固定観念以外に、考えることが不可能、あるいは可能性が低いから無意味などというのは。単なる怠惰でしかない。

 ヒトの意識の9割は無意識であるとされる。単に割合だけを言えば無意識の方が大きい。だがそれは結果論であって、目的論とは無関係である。単なる結果論だけを枚挙しているから「ヒトとは、そういうものである。」などといわれて無批判に鵜呑みにすることになるのだ。

 私の説明は別に難解ではない。論理的には中学生でもわかるようなことしか言っていないし、また、専門用語も特に難解なものを使ってもいない。私から言わせれば、なんでこんなに簡単なことが大多数の人間には理解できないのか、そのことの方が「不思議。」なのである。

 文系の人間というのは、気分的な安心を促される文章のことを「素晴らしい。」などと称賛する。そこに具体的内容や論理整合性がなくても、単に気分的に満足できれば、彼らにとっては「素晴らしい。」のである。

 芸術なら、それでも構わない。芸術とは大脳辺縁系の「気晴らし。」でしかないからである。気晴らしであるなら、単に主観的に「素晴らしい。」と形容しておけばよろしい。そこに他人からの同意も、共鳴も、普遍性も、論理整合性も必要ないからだ。

 だが、振り込め詐欺に騙されることは嫌がりながら、一方で論理的思考はしたくないというのは、言っていることがその場限りで支離滅裂なのである。

 ヒトが詐欺に引っ掛かるメカニズムがどこにあるか。それは脳にしかない。脳の意識機能による論理的行動判断が阻害されるから引っ掛かるのである。詐欺に引っ掛けるための手順というものがあって、その手順に従って詐欺は詐欺をシステマチックに行うことができる。

 詐欺に引っ掛けるための「手法。」や「技法。」が存在し、メカニズムが存在するのである。

 しかし、詐欺師は別にメカニズム自体は知らなくて良い。単に経験則的に「こうすれば引っかけられる。」ことだけを知っていれば可能であるからだ。のべつまくなし、あれこれやってみて、偶然上手くいけば、それが経験則として「学習。」されるのである。こうした無意識的な学習の動機とは、金銭という短絡的な「エサ。」である。だからこそ生物学的な社会形成習性に従って、システマチックに統率のとれた封建的集団として行動可能なのである。

 私の論ずる本質的意識とは、理論的、かつ工学的なアプローチによって、このメカニズムを解明しようという試みである。理論的、工学的アプローチを採用するからには、固定観念的な無意識性を徹底排除しなければならない。その無意識性の中に感情や本能といった気分や人気に関わる要素が入るため、むしろ多数からの人気が得られない。

 私の論ずる本質的意識論とは、最初から大衆には迎合できない原理的構造というものを持っている。むしろ、大衆迎合して、無為無策な無意識的な自己満足のまどろみに誘った方が人気が出るという事実は認識して頂きたい。

 大衆の観念というものは理科系論理思考よりも、オカルトやペテンとの親和性が高いのである。

 本質的意識論というものは、心理的な自己分析が必要不可欠である。自分自身の本能や感情というものの「動作。」がどういうものであるかを客観的にみるものでもあるからだ。その過程において、気分的な嫌悪感を伴うのはほとんど不可避である。

 例えれば、腹を切り裂いて内蔵を引っ張り出し、「お前の構造とは、こういうものである。」と見せているようなものでもあるからだ。だから見たくないのであれば見なくて結構である。問題なのは見たこともないのに「見た。」つもりになっている傲慢さである。









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意識障害。

2011年03月19日 15時08分33秒 | 意識論関連
 一般に意識障害っていうと、医学上の意識障害のことを指すんだけど。本質的意識の障害については適切な表現がまだない。


 本質的な自発性のない研究者の中には、自律的には論理思考が成立しない科学者というのが少なからずいる。こういうヒトには論理的な話が全く通じない。これは一種の自閉症なのではないかと思う。

 感情的な拒絶反応によって、論理性とか客観性といった機能が阻害されているため。自分達の観念の殻の中に逃げ込んで、取り繕いばかりしようとする。

 自閉症と診断されていなくても、単に多数の人間を丸め込んで、騙しておければ。それは臨床医学的には自閉症とは診断されない。社会生活上において「支障。」がないからだね。こういうことっていうのは珍しいことではなくて、帝京大学の安部英とかも、よくよく調べたら「自律的には善悪の判断がつかない。」ことが判明した。

 北朝鮮の労働党体制とかも、一種の自閉症。いわば集団自閉症。集団内部において生物学的な「社会性。」を発揮していれば、その社会内部においては「支障。」がない。

 認知症の初期症状などでも、「取り繕い。」というのは見られ。そのため認知症というのは進行を周囲の人が認識しずらい。

 東京大学生物学部とか、養老孟司とか、茂木健一郎とかも、言い訳が凄くて、周囲の人間は簡単に丸め込まれてしまう。言い訳の内容が「知的。」だったりするので、まさか論理整合性がないとは誰も思わない。注意しなくてはならないのは、この場合の「知的。」とは、あくまで大衆観念的な「知能。」観に由来するものであるってこと。

 なにやら、よく解らない学術用語とか使っていると。まさか論理的思考が成立していないなんて思わなくなってしまう。だから言っている内容を論理的には誰も検証しなくなる。

 こうして盲目的な権威への信頼というものが生じることになる。

 本質的な自発性のない研究者というのは、そもそも研究内容自体に興味なんぞなくて。世間多数からの評価、報酬といったものにしか興味がない。こういうヒトっていうのは、本当に社会に役立つ研究なんぞ、最初から全く興味がないから。とにかく効率よく評価報酬を得られることに飛びついてしまう。

 その結果、業績のねつ造などの無責任行為を平気でする。彼らにとって、研究内容なんかどうでも良くて、とにかく評価されたい、報酬を貰いたい。それしか「意識。」が働いていない。もちろんこの「意識。」とは、利己的欲望に染まった本能であり、無意識なもの。

 しかし、こうしたペテンに丸め込まれるというのも、結局は無意識であり。騙されている方にも責任はある。アイヒマン実験の被験者と同じだからね。

 だから、独裁状態っていうのは、独裁者単独で作られるものではなく。独裁者に対して何ら疑問を持たない多数の服従者達によって作り出されるもの。

 わからないことを正直に「わからない。」って言うと、大衆観念的にはスッキリできなくて、盲目的に信頼する気分にならないから。テキトーに「こうすれば良い。」的な断言をした方が大衆人気は得られやすい。

 理科離れの激しい日本において、脳科学だけが妙に人気があるのは。それが本当は科学でもなんでもない、単なるオカルトでしかないから。

 格言風味の断定というものが大衆にはウケが良い。だからニーチェなんだ。


 小柴昌俊も汚いよね。社会的評価の保証もない純粋行為を勧めるだけで。その結果として社会的に迫害されようとも「俺は知らないよ。」ってことだものね。おいらははっきり言ってるでしょ、それは大衆からはウケないのさ。

 表面的にはコシバ式の方が世間ウケは良さそうでしょ。「嫌な話は意識から外す。」ってことだからね。ヨウロウ式と一緒だな。結局は同じ糞ジジイだな。東大ってのは根底から腐っているのかね。そりゃ原発も暴走するわな。無責任なバカが運営してんだもの。




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アクセスIP。

2011年03月19日 14時25分17秒 | 日記
 360IPもアクセスがあるけど、誰がこんなブログ見ているのかね。「原発推進者にホース。」って話がウケたのかね。

 半分冗談だけど、半分本気。

 東京湾横断道路、通称アクアラインの交通量予測とか。小笠原高速船の利用者予測とかでも予測した人間の責任は誰も取ってない。

 無責任な予測に基づいて様々な公共事業に莫大な公費が注ぎ込まれているのに、計画の根拠となった予測自体は無責任でもいいんだ。

 きっと、責任者が役職を「辞めれば。」それで「責任を負った。」ってことになっているんだろうね。

 このブログのタイトルは「書き逃げアンドロイド。」だけど、「やり逃げ原発。」ってことだよね。いいな、無責任で。

 脳トレとかも「やり逃げ。」なんだけどね。全く効果のない脳トレ類を「これが脳に良いんですよ。」なんて無責任に言い張ったペテン師は放置されるんだね。いいな、気楽で。

 頭の悪い人間がたくさんいると、無責任なお気楽商売が繁盛するんだね。でも、同時に正直者はバカを見るんだね。

 一応言っておくけど、「正直者。」っていうのは、権威とか世間多数に「従順な人間。」とは全く異なるものだからね。それを混同してるヒトは多い。

 謙虚と卑屈を混同しているヒトも多い。それで満足しているから、なぁんにも考えなくて楽なんだろうな。いいな楽そうで、羨ましいな。どうやったらバカになれるんだろう。誰か教えてくれないかな。










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スマホの電池。

2011年03月19日 09時12分41秒 | 日記
 スマホっていうのは、電池の容量が少ないらしい。

 東芝アンドロイド端末は、スマホくらいの大きさのバッテリーがついているから、公称7時間くらい使えるんだそうだ。コンセントから外してそんなに使ったことないから本当かどうかは知らんが。

 あんまり電池が持たないとなると、以前考えた「スマホで集団イルミネーション。」っつうアイデアは無理そうだな。

 液晶ディスプレーってのは、どうしてもバックライトの光を半減させる構造になっているので。電力消費の割にはあんまり明るくない。だったら、外付けでLEDライトとか作ったらどうなのさ。USB給電で超高輝度LEDとか光らせたらかわいいかな。ちっちゃいのがいいな。んで、アプリで液晶消しておいてイルミネーションだけ点けておくとか。そのくらいなら安価に商品化できそうだけどな。

 そういうのがあれば、非常用照明としても使えるしね。あ、おいらのマシンはフルサイズのUSB端子だけど、アンドロイドスマホの場合ミニUSBって標準仕様なのかな。マウスコンピュータのアンドロイドスレートパソコンはミニUSBだった。電力を取り出すだけならイヤホン端子からでも取り出せるんだろうけど、間違ってイヤホンつないだままイルミネーションアプリ起動したら壊れそう。イヤホンとLEDじゃ抵抗値が違い過ぎるか。USBの方が正解かな。

 他にどんな端子がついているのか、改めて見てみたら、ミニUSB端子も付いていた。普段使わないからマスキングテープで塞いでた。

 単純に情報出力装置として作ってもいいかもね。ただ、カメラのリフレッシュレートがそんなに早くないから、転送できる情報量はかなり少ないだろうけどね。あれ、おいらの東芝アンドロイドって、赤外線通信機能ってあったっけ。Bluetoothは入っていたような。

 普通の携帯電話の場合は、ミニUSBみたいな出力端子ってあるのかな。携帯電話でできれば普及率は高そう。





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