生物学者、長谷川真理子が提唱したユニバーサルカーブというものがあり。これはヒトの性別における殺人の数を年齢でプロットすると、男性の場合は20歳前後、女性の場合は40歳前後をピークとした曲線(カーブ)を描くということが、普遍的に民族地域に拠らず同じ傾向を示していることを業績とされている。
しかし、これは脳科学的には、ヒトの大脳辺縁系の活動が、男性では20歳、女性では40歳付近をピークとすることは、以前から知られていることである。
このことから考えても、大脳辺縁系の活動というものが、「ヒト。」を「人間。」としての存在から逸脱させる要因であることの証明でもある。
にも関わらず、単に虐待を受けて育った人の大脳辺縁系の萎縮を根拠に、大脳辺縁系の活動こそが人間性であるかのように決め付ける現代の脳科学者達は、頭がおかしいとしか言いようがない。
長谷川が言うように、殺人の動機というのはほとんど全て「他愛もない理由。」である。殺人というヒステリックな解決方法を選択するのは理性ではなく、感情的な興奮によるものであり。「理由。」として挙げれば非常に他愛もないことになるのである。
通り魔の動機に「誰も認めてくれない。」などという「理由。」がほとんど必ず出てくる。世間が個人を「認め。」なくてはならない理由とはなんであろう。それは既に社会的に認知された「人気。」のある人物に、自分もなれるはずであるという錯覚が前提にあるからだ。
多くの人は、社会的成功を求める。そういう傾向はある。だからといって、それが人間としての公益倫理的な行動選択であることの理由になど一切ならない。それが「人間である。」ことの理由にはならないのである。
人は「多くの人が求めること。」は自分も求めて当然である、求めるものであると気分的に安心し。また、そうしないことに対しての強迫観念的な錯覚をしたりする。倉田真由美の作品では、自分が下らないことをしていたとしても「みんな、そうなんだ。」と気分的に安心するという感情論ばかりが枚挙されている。そういう話に多くの人は感情的に共感して満足するのである。
気分のままに行動していれば、気分的に安心するのは当然である。しかし、それが人間として正しい行動判断、思考であることの証明にはなっていない。アイヒマン実験の被験者は気分のままに行動していることによって、権威者の命令に服従し、他人に多大な迷惑をかけることになるのである。気分に従って行動するということは、大脳辺縁系の促す本能のままに行動するということである。
ヒトは生物学的に社会を形成する習性を持っているため、大脳辺縁系のおもむくままに行動することで、当人の「意図。」する自律的行動判断を簡単に無能化することができるのである。そしてそれは気分的に「安心。」でもある。
カルト宗教に引っ掛かる信者達というのは、引っ掛かっていた方が「安心。」だからに他ならない。くらたま的な気分優先の洗脳を、無批判に鵜呑みにしていた方が「安心。」なのである。行き当たり場当たりに気分が良くなれば、それで大衆凡人は満足するのである。満足しているのは大脳辺縁系であり、気分である。気分的に満足するからこそ人は馬鹿になるのである。
意識の重要性というものを認識するには、自分の気分的な好き嫌いを無視する必要性がある。気分的に嫌な話であっても、それが人間としての公益倫理的な判断に必要であるならば、それは無視するべきことではないのである。
他人には公益倫理的な自律判断を求めておきながら、自分は気分的な満足をして思考停止に陥っているというのは、極めて身勝手な「自己中心的。」な行動、あるいは思考である。
私の論ずる
意識論は、多数の気分的な満足を得ることはできない。それはむしろ気分的な満足を脱構築するための徹底的な理性による反逆であるからだ。
ユニバーサルカーブに従って、本能習性のおもむくままに殺人を犯さないようにするためには、自分の気分的な満足のまどろみから脱する必要性がある。こうした「教訓性。」といったものは生物学的な結果論からは導き出されることはない。現在の生物学の文法からは結果と、意識的な目的行動選択の区別はされることはない。それが「文系」理化学者や大衆の気分的満足を充足させるからである。だからこそ全く効果の存在しない脳トレ類の流布に対して、ほとんど誰も反論しないばかりか、脳科学者のほとんど全員が脳トレ類の「柳の下のどぜう。」ばかりを狙っているのである。
このように既にペテンの片棒を担いでいる脳科学者ばかりであるため、もはや真実は隠蔽され続けるしかないのである。馬鹿げた話である。でわまた。