書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

崩壊。

2011年03月07日 22時47分30秒 | 意識論関連
 アイヒマン実験というキーワードで検索しまくっていたら、ある人がこう述べていた。

 「権威者への服従が存在しない社会は、崩壊へ向かう。」と。

 しかし、これは大きな間違いである。ナチス政権そのものが権威への服従性によって崩壊を招いたことを、すっかり忘れている。

 科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは、こうした権威への服従性を説いた「プラトンの呪文。」を激しく糾弾している。権威者の発言や行動に対して、盲目的に服従してしまうことこそが、社会を崩壊へと導く最短の近道である。

 ヒトは権威に服従していることが安心である。ヒトの持つ社会形成習性によって、権威者に何もかもお任せ「パターナリズム。」を発揮していた方が、気分的に安心なようにできているからだ。

 ヒトは安心を求めるようにできている。だが、その「安心。」が論理性を失って、単なる強迫的な観念だけで行動が選択されると。「ヒト。」ではあっても「人。」ではなくなるのである。2行目に書いた「実証不能の観念。」こそが、ヒトという種の生物に課せらえれた業というものである。

 こうした実証不能の観念の方が、多くの大衆にとっては「説得力。」があるらしい。だが、私に言わせれば単なるバカである。そんなことで「自分は振り込め詐欺に引っ掛からない。」などと思っているなら、それはとんでもない大誤解である。気分的な安心を植え付ける観念に感じる「説得力。」こそが、論理的理解力を喪失させる最も効果的なペテンなのである。

 酔っ払いが「俺は酔っ払っていない。」と主張するのと同じように。意識の浅いバカほど「自分は大丈夫。」と錯覚するのである。哲学系のツイッターを読んでいると、そういうバカ達が、下らない知識にひけらかし合いをして満足している。

 呆れて参加する気にもならない。現在の哲学界は完全に腐敗している。でわまた。

MAILER DAEMONさんからの初メール。

2011年03月07日 22時23分01秒 | 日記
 「めいらーでーもん。」というふ人からメイルが届きました。

 いきなり英語で「Hi」とかって始まる文章が全文英語なので、外人さんにメイルを送った記憶のないわたくしには、さっぱりわかりませんでした。

 よくわからないのでググってみたところ、送ったメイル先が存在しない時とかに「めいらーでーもん。」というメイル配信ソフトさんからメイルが来るとのこと。「脊髄反射で返信しないように。」と書かれていたのですが、メイルを脊髄反射で返信することなんてよっぽどネットに習熟された、羽生善治並に無意識「学習。」された方の話なんでしょうね。わたくしには真似のできない芸当です。でわまた。

イジメ。

2011年03月07日 21時24分03秒 | 意識論関連

 イジメを行う人の心理というものは、基本的には本質的な意識が欠落しているからであると言える。だからこそ「悪いと知って。」いながら漫然と無意識に行ってしまうのである。

 個人を攻撃している時、多数という権威性に逆らうことによって、攻撃の矛先が自分に向かうことを恐れ。またさらに、攻撃に参加しないことによる集団からの遊離を恐れて、強迫観念的にイジメに参加することに陥る。

 ヒトという種の生物は、生物学的な社会形成習性を持っているために。どうしても多数というものへの批判精神を失う傾向、すなはち迎合性を持っている。大脳辺縁系は、その習性を促すように気分を生ずるように出来ている。集団の行っていることは気分的には「安心。」なのである。

 ヒトは気分的に「安心。」であることを求める。だが、一方では本質的な意識の働きによって、安心とは異なる理性的な判断との間に心理的な「葛藤。」を生ずることがある。

 所謂「天使と悪魔。」である。悪魔とは何か、それは動物的な行動を促す「気分。」であり情動であり、大脳辺縁系の促す機械的な反射である。この反射が活発な年齢の人間の殺人を犯す率が高いことは長谷川真理子の提唱する「ユニバーサルカーブ。」によって証明されている。

 その場の気分に左右されずに、自律的に行動判断を行うのが大脳新皮質の前頭連合野の機能である本質的な意識である。一般に「何々意識。」というと、ほとんど全てが無意識的な傾向を論じたものばかりで、その無意識や気分を制御するのが本質的意識、有意識とも呼べるものである。

 イジメというものも、観念的な「威厳。」を持った大人が見ている場所では行われない。これはいわば服従対象が威厳のある大人によって担保されているからであり。それが存在しない場所においてイジメは残虐性を発揮する。

 生物学的な社会形成習性においては、イヌなどの場合に見られるように、集団の「ボス。」だけは特異に服従対象の喪失を招くため、結果的に精神的不安に陥るために、暴力性や交尾を行うことになるのである。つまり、意識の十分に働かない集団内部においては暴力的な個体に対しての抑制が働かないために、生物習性に従って無意識的に統率が生じるが。その統率の目的自体が存在しないために無意味な残虐行為への暴走が生ずるのである。

 野犬の群れがどんなに高度な狩りを行っても、それはエサにありつくための環境依存的な限定的能力でしかない。実際、それ以上の能力は一切発達することはない。

 しつけを間違えた小型犬が、飼い主の手を噛むことがある。これは小型犬が服従対象として飼い主を認識できないことによる、結果的な習性である。暴力性を発揮する個体というのは、簡単にいえばイヌでもヒトでも服従によって安心できれば暴力性を発揮しなくなるのである。暴力性というものは、社会形成習性の純粋な結果であるとも言える。

 暴力団などの、いわゆるバカの集団においても、いや、むしろバカの集団であるほど異常なまでの統率がとれるのは。それが意識的な目的行動ではなく、単なる生物的な習性、傾向性によって無意識に行われるからなのである。ごく稀に、統率者に自律のある場合には、社会主義国家であっても権力の暴走は生じない。だが、これは統率者個人の人格性だけに依存する結果論であり、ほとんどの場合は権力の暴走を招くのである。イジメとは、小さな集団内部で生ずる権力の暴走である。特定の「ボス。」の促す暴力性に対して、多くの服従者は無批判に迎合、服従する。特に子供の場合は自律判断が未熟であるため、暴力性に歯止めがかからないのである。

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 ゴリラのボスにみられる「シルバーバック。」というのは、いわば「白髪。」であり、老化現象が進んだものであると考えられる。これもまた、集団のボスというものが心理的に不安であるための結果であるとも考えられるのである。

 鯨類による集団自殺、「ストランディング。」というものも、社会形成習性の違いによって件数に違いがあるのだという。どちらかというと集団に固執しない種の鯨類はストランディングの確率が低いという。その具体的メカニズムに関しては明確なことは言えないが、何らかの関係性がありそうなのは確かである。

 ヒトも、かつて民主主義が発達する以前は、宗教的に権威に服従する暴力の支配する時代があった。それは現在でも、イデオロギーの種類に関わらず、為政者によっては民主主義においても戦争が正当化されるように、本質的意識による選択は困難なものである。

 より多数の民衆が本質的意識を持たなければ、民主主義による多数決は全く意味を為さない。そこにいるのは意思を持った市民ではなく、単なる権威に迎合的な動物としての「ヒト。」でしかないからだ。単なる動物に何を言っても無駄である。従って、本論は理解不可能な人間が多数を占める場合、糞の役にも立たないものでもある。

 豚の耳に小判。何かごちゃまぜになっちゃっているけど、そんな感じ。でわまた。








ユニバーサルカーブ。

2011年03月07日 15時51分29秒 | 意識論関連
 生物学者、長谷川真理子が提唱したユニバーサルカーブというものがあり。これはヒトの性別における殺人の数を年齢でプロットすると、男性の場合は20歳前後、女性の場合は40歳前後をピークとした曲線(カーブ)を描くということが、普遍的に民族地域に拠らず同じ傾向を示していることを業績とされている。

 しかし、これは脳科学的には、ヒトの大脳辺縁系の活動が、男性では20歳、女性では40歳付近をピークとすることは、以前から知られていることである。

 このことから考えても、大脳辺縁系の活動というものが、「ヒト。」を「人間。」としての存在から逸脱させる要因であることの証明でもある。

 にも関わらず、単に虐待を受けて育った人の大脳辺縁系の萎縮を根拠に、大脳辺縁系の活動こそが人間性であるかのように決め付ける現代の脳科学者達は、頭がおかしいとしか言いようがない。

 長谷川が言うように、殺人の動機というのはほとんど全て「他愛もない理由。」である。殺人というヒステリックな解決方法を選択するのは理性ではなく、感情的な興奮によるものであり。「理由。」として挙げれば非常に他愛もないことになるのである。

 通り魔の動機に「誰も認めてくれない。」などという「理由。」がほとんど必ず出てくる。世間が個人を「認め。」なくてはならない理由とはなんであろう。それは既に社会的に認知された「人気。」のある人物に、自分もなれるはずであるという錯覚が前提にあるからだ。

 多くの人は、社会的成功を求める。そういう傾向はある。だからといって、それが人間としての公益倫理的な行動選択であることの理由になど一切ならない。それが「人間である。」ことの理由にはならないのである。

 人は「多くの人が求めること。」は自分も求めて当然である、求めるものであると気分的に安心し。また、そうしないことに対しての強迫観念的な錯覚をしたりする。倉田真由美の作品では、自分が下らないことをしていたとしても「みんな、そうなんだ。」と気分的に安心するという感情論ばかりが枚挙されている。そういう話に多くの人は感情的に共感して満足するのである。

 気分のままに行動していれば、気分的に安心するのは当然である。しかし、それが人間として正しい行動判断、思考であることの証明にはなっていない。アイヒマン実験の被験者は気分のままに行動していることによって、権威者の命令に服従し、他人に多大な迷惑をかけることになるのである。気分に従って行動するということは、大脳辺縁系の促す本能のままに行動するということである。

 ヒトは生物学的に社会を形成する習性を持っているため、大脳辺縁系のおもむくままに行動することで、当人の「意図。」する自律的行動判断を簡単に無能化することができるのである。そしてそれは気分的に「安心。」でもある。

 カルト宗教に引っ掛かる信者達というのは、引っ掛かっていた方が「安心。」だからに他ならない。くらたま的な気分優先の洗脳を、無批判に鵜呑みにしていた方が「安心。」なのである。行き当たり場当たりに気分が良くなれば、それで大衆凡人は満足するのである。満足しているのは大脳辺縁系であり、気分である。気分的に満足するからこそ人は馬鹿になるのである。

 意識の重要性というものを認識するには、自分の気分的な好き嫌いを無視する必要性がある。気分的に嫌な話であっても、それが人間としての公益倫理的な判断に必要であるならば、それは無視するべきことではないのである。

 他人には公益倫理的な自律判断を求めておきながら、自分は気分的な満足をして思考停止に陥っているというのは、極めて身勝手な「自己中心的。」な行動、あるいは思考である。

 私の論ずる意識論は、多数の気分的な満足を得ることはできない。それはむしろ気分的な満足を脱構築するための徹底的な理性による反逆であるからだ。

 ユニバーサルカーブに従って、本能習性のおもむくままに殺人を犯さないようにするためには、自分の気分的な満足のまどろみから脱する必要性がある。こうした「教訓性。」といったものは生物学的な結果論からは導き出されることはない。現在の生物学の文法からは結果と、意識的な目的行動選択の区別はされることはない。それが「文系」理化学者や大衆の気分的満足を充足させるからである。だからこそ全く効果の存在しない脳トレ類の流布に対して、ほとんど誰も反論しないばかりか、脳科学者のほとんど全員が脳トレ類の「柳の下のどぜう。」ばかりを狙っているのである。

 このように既にペテンの片棒を担いでいる脳科学者ばかりであるため、もはや真実は隠蔽され続けるしかないのである。馬鹿げた話である。でわまた。







前原大臣。

2011年03月07日 12時04分55秒 | 日記
 民主党の前原大臣が、外国人から献金受けたとかで急に辞めちゃった。なんか唐突な感じがするんだけど、野党からの嫌がらせ工作とかに引っ掛かったのかな。

 自民党時代の大臣達って、そのくらいのことでは全く辞めることなんかなかったのにね。何なんだだろうね。なんか裏がありそうな話なんじゃないかね。