書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

混乱。

2011年03月27日 23時45分47秒 | 意識論関連
 買い占めなどの利己的な行動によって、社会に混乱を招くと。あたかも社会の大人の大半が利己的な人間であると勝手に決めつけ、影響されるバカな者が少なからずいる。

 自律のない者というのは、とかく環境に影響されやすく。メディアで取り上げた情報を、この世の全てか何かと勝手に勘違いして、「みんなが無責任であるなら、俺も。」的な観念を振り回すのである。

 マスメディアで取り上げる事象というのは、実際にはレアケース、稀な出来事であり。珍しい出来事であるから取り上げることがほとんどである。

 また、買い占めなどの社会的事象についても、決して大多数の人間の行動によって引き起こされているのではなく。むしろ一部の人間の行動によるものである。

 私が見る限り、買い占めをしているのはごく一部のヒステリー中年女性だけである。

 バカな者に限って、こうした冷静な判断を全くせず。また、統計的な根拠もなしに、勝手に社会全体を知り尽くしたかのような錯覚に陥るのである。

 たとえ統計的に大多数の人間が公益倫理的行動を採らないとしても、それが自分自身の公益倫理的行動を放棄していよい理由にはならないのである。

 バカというのは、すぐに「空気。」に流される。

 自分の自律的判断がなく、環境に流され、迎合する。

 少なくとも、このブログを読んでいる人なら、これくらいのことなら最初から理解しているはずなので、あまり意味はないだろう。

 学生のくせに、あたかも酔っ払っているとしか思えない者を、時折見かける。余程大脳辺縁系の活動が活発で、理性が働かないのであろう。

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教育。

2011年03月27日 22時01分27秒 | 意識論関連
 現在の教育システムにおいて、自己の感情を自律的に制御できるようになるための教育上の指針なり方法論はほとんどない。

 そもそも、教育関係者の誰もが、こうした教育を受けておらず。自己制御自体ができないのであるから生徒達に対してもできないのも必然というものかも知れない。

 養老とかが、「教わっていないことは、教えられない。」などと言っているのも、一理あるとも言える。もちろん「一理。」しかないのであるが。

 親や教師などの大人からの評価を、強迫観念的に欲した結果。成績評価だけにしか意識が働かないチンパンジー的な高い能力を獲得しても、それは成績評価という「エサ。」と引き換えにしか発揮することのできない、極めて限定的な能力でしかなく。また、途中で評価の得られそうにない行為には一切興味を持たず、大多数の意見に流されるだけなので。結局は新しい発見や発明の全くできない単なる「学力の高い凡人。」にしかならないのである。

 東京大学生物学部などは、こうした高学力な凡人しかいないので。体制に迎合するだけで自律的には何も判断しない従順な年功序列体質の歯車の一人に成り下がるのである。

 その結果、生物学的な社会形成習性を無意識的に発揮し、体制に迎合しない人間の意見を徹底的に排除する「閉じた。」体制を作り出すのである。生物学であるから、生物の習性に従うのは必然であろうか。それなら「学。」ではなく、単なる「生物。」でしかないではないか。

 東大というのは、学内の観光ツアーを行いさえすれば、「開かれた大学。」であると言い張るのである。

 北朝鮮や、暴力団、テロリスト集団などに見られる「閉じた。」体制というものは。無意識的な服従性によって、漫然と作り出される封建的集団特有の盲目性である。

 もし、自浄効果が働いているのならば、帝京大学の安部英のような「権威。」に対する精密検証と、それに伴う批判精神によって。自ずと排除されていたはずである。

 養老の言葉に、「論理整合性がないだけ、開かれているではないか。」というのがある。マトモな科学者であれば、この時点で「こいつは頭がイカれている。」と排除しているはずであるが。脳科学者の誰も養老を批判せず、大衆人気のあるペテンにあやかることしかしていないのである。

 「論理整合性を開く。」とは、言っている内容が支離滅裂であるということである。理論的にツジツマの合わない話にしなくてはならないのは、その話が理論的な根拠がなく、単なる観念でしかないからこそ。その観念を「閉じる。」ために論理整合性を「開いて。」いなければならないのである。

 自分勝手な観念の殻の中に閉じ篭るために、論理整合性は「開かなければならない。」のである。

 養老ほど支離滅裂な話をする者も珍しいのだが。こうした支離滅裂な話を真に受けてしまう者しかいない現状が、私は気持ち悪くて仕方がない。養老の観念と共鳴できるようなルサンチマン全開の人間しか、日本にはいないのではないかと思うと吐き気しかしないのだが。恐らく体制から睨まれずにいることを優先し、理解しながらも保身のために沈黙しているのであろう。「学界内部で大勢を占める。」までは、黙って推移を見守っていた方が危険ではないからであろう。非常に「理性的。」でもあるが。その根本動機は極めて利己的でもあり、公益倫理に反する行動選択でもある。

 それは保身が目的であって、研究内容自体は目的ではないということの現れであり。研究者としての素養の欠落をも意味する。


 こと程左様に、自発性のない者の行動というものは。旧来の体制維持、実力を排除する年功序列主義の脱構築性を失わせるものであり。内実を伴わない表面的な権威性を維持するだけの組織の形骸化が生ずるのである。

 こうした集団から、原発の安全性なんぞ確保できるわけがないのである。東大の原子力関係の研究者達が、テレビで偉そうに解説しているが。こいつら原発の設計にも関与しているはずである。何で今更こいつらの言うことを信用しなければならないのか、訳がわからぬ話である。マスコミも頭がおかしいとしか思えない。

 都合の良いように「国民に冷静な態度。」を要求しておいて、都合が悪いことには目を潰れというのは、もはやご都合主義というレベルではなく。頭がイカれているとしか思えない。

 本質的意識に関する話を散々隠蔽しておきながら、都合の良い時だけ理性的で冷静な対応を求めること自体、支離滅裂である。個人的感情としては「東大なんぞ焼き討ちにでも遭えばいい。」と思うくらいである。一体何が「国家最高学府。」であろうか、ふざけているとしか言いようがない。

 もちろん、この記事を読んでいる人であるなら、個人的感情論に意味がないことは充分に承知しているであろう。偶然初めて読んだ人がいて、ヒステリックな行動に出たとしても、もはや止める気にもならない。


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品不足。

2011年03月27日 20時21分19秒 | 日記
 商店の品不足が少しずつ治まってきているようである。しかし、時折しか入荷されない商品であると、買い溜めしておかないことには、入手できないままになってしまうので、買い占めるつもりがなくても、どうしても大量に買っておこうとしてしまうらしい。

 まだ、時折大量に買い物をしている人がいる。

 既に品不足に陥っているため、ある程度は量を買っておかないと、無くなってしまうので、なんとなく買い占め状態に陥っているらしい。

 実際に商品によっては供給が滞っているものもあるので、品不足がなかなか解消しない。

 必要以上に買い占めをするつもりがなくても、必要な分は買い溜めをしている状態といった風情である。

 お米などは、産地には充分にあるそうで。これは必要以上な買い占めの影響があるらしい。納豆やヨーグルトなどの発酵食品は、製造工程で停電があると途中廃棄しなくてはならないこともあるため、どうしても供給が間に合わないらしい。

 牛乳や卵は、生産者が被災しているという割には、お店によってある程度供給が間に合っているお店もある。

 パン類は震災以前に戻ったようにも見える。

 豆乳類は震災直後もずっと供給がある。価格も安定している。

 以前にも書いたが、視覚障害者とか高齢者にとって、こうした品不足は生活を直撃する。ペットボトルの水などは、妊婦や乳幼児を抱える親にとっては切実な問題である。小児癌は年齢が低い程進行が早く、致死率が高いからだ。

 「子供は社会の宝である。」という考えは、目先の恐怖心の前には紙屑同然のようである。私は水道水を飲んでいる。政府が隠さず公表しているデータに対し、過剰に反応してパニック的にペットボトルの水を買い占めてしまうと。政府にデータを隠蔽させる口実を作ってしまうことにもなりかねない。

 今回のようなパニックがあったからといって、政府もデータを隠蔽するようなことをするべきではないが。民衆としても冷静さを欠いたヒステリックな反応をすべきではない。国民の一人として、責任ある行動を採らないと、民主主義自体が崩壊しかねないのである。

 なんとなく放射能が恐いという「感覚。」はわからなくはないが。産婦人科医師や、放射線治療医師の多くが「長期に渡って摂取しなければ、発癌率が増えることもない。」と述べている。東大は信用ならないが、東北大は信用してよかろう。東北大で非科学的なペテンを蔓延させた研究者の話はでてこないからだ。そもそも被災地だしね。

 水に放射能が含まれていると、内部被爆になってしまうのであるが。三ヶ月もすればなくなる放射性物質で、なをかつ極めて微量であるから。神経症的にペットボトルの水を買い占めるのは国民としてあるまじき行動である。そもそも東京の場合は極めて一時的で、風向きとか降雨に依存するものであるから、普段から水道水をある程度溜めておくことで、一時的な放射能汚染も回避することもできるのである。

 浄水場も雨水が混入しないようにできないのかね。取水の段階で放射能が検出されたら一時的に取水を停止するとか。供給が不足するとしても、放射能が原因であるなら仕方がないと思うのだが、いかがであろう。食品とは無関係の工場が困るとか、そういった事情があるのだろうか。東京というのは構造が複雑過ぎて、何をやっても何らかの副作用が生じてしまうので厄介である。

 東京の水道水の放射能汚染というものは、今のところ極めて限定的で、微量であるから、それこそ公表しなくてもよいのではないかなどと、役所の人間が考えそうである。

 あらゆる情報が隠蔽された、役人天国にしないためにも。民衆が自律的に自制することが重要である。「自分一人くらい、大勢に影響ないだろう。」と多くの者が無責任な行動を採るから、世の中おかしくなるのである。

 自律のない者というのは、とかく社会環境からの影響を受けやすい。精神年齢が低いといっても良いだろう。感情の制御ができず、ヒステリックでパニクりやすい。行動や思考がその場限りで、一貫した考えというものがない。

 ケダモノじみた行動を採る人間ほど、外見だけは取り繕うので、「見た目。」では判断できないものである。

 ペットボトルの水を買い占めるということは、自分の気分的な満足や安心と引き換えに、胎児や乳幼児を危険に曝しているのと同じことである。

 「なんで、あたしが他人のガキのことなんか考えなくちゃいけないのよ。」

 それなら、あなたは社会全体にとって、必要のない存在ということになるのである。一時的にはそうやってヒステリーを振り回して満足できるであろう。しかし、同じ大脳容積がある以上、良心や無意識的な「超自我。」にさいなまされて、結果的には自己嫌悪に陥るものなのである。臨床も、こういうバカは治療しなければいいのにね。「死にたきゃ死ね。」っつってほったらかせばいいのにね。心が広すぎるのも考え物かもね。


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安心、安全。

2011年03月27日 13時22分41秒 | 意識論関連
 巷では、安心と安全をセット販売する傾向がある。

 だが、現実には気分的な安心と、工学理論的な安全とは同じものではない。

 振り込め詐欺に騙されて、「詐欺でもいいから、振り込ませてくれ。」とヒステリーに陥っている状態とは、振り込むという行動に対する異常なまでの執着を促す情動行動に支配されているのであり。振り込まなければいられない、振り込みさえすれば「安心。」で振り込まないと「不安。」である状態に陥っているからである。

 これは買い占めなどの行動においても、同じことが言える。「皆が大量に買い占めているから、自分も買い占めないと不安であり、買い占めると安心なのである。

 振り込め詐欺の言いなりに振り込むことというのは、結局は暴力団などの資金源になってしまうし。買い占めによって流通を撹乱することになり、結果的には不便を招くのである。

 買い占めは、多数の者が行うから問題になるのであり。より多くの者が行わなければ終息するものである。


 買い占めに対する具体策は簡単である。恐怖心に煽られることなく、自分で自分を律すれば買い占めによる流通撹乱は終息する。理論的には簡単だが、簡単でないのは各々個人の自律的な感情制御である。

 従来の教育システムの中には、自分の感情とか情動を抑制、制御するための対策というものがほとんど一切成されていなかったため。短絡的に学力さえ上がれば良いという大衆観念に基づいた、大衆迎合的な知能論だけで教育の質が評価されてきため。誰も感情のコントロールができない状態なのである。

 教育関係者であって、所詮は大衆迎合的に学力だけが上がれば良しとする体制が構築されてしまっているため。学力向上=評価、報酬といった構造に迎合するだけの、封建的な体制維持にしか意識が働いていないのである。

 これはマスコミなどと同じで、多数の人間からの要望に応える形の大衆迎合しかしていないのである。

 「それが、民主主義というものである。」などという下らない固定観念など聞きたくはない。「民衆。」がバカであるから「民主主義。」が「バカ主義。」になってしまうのである。

 「誰にも教わっていないから。」などというのも、厳密には泣き言に過ぎない。理解可能な理論であるならば、理解可能な誰にでも「思いつく。」ことは可能である。可能でありながら、自分では思い付かないというのは、思い付いた者からすれば大多数の人間がバカなだけにしか見えないからである。まあ、この話は後述するとして、話を戻そう。

 教育を行うのは、基本的には一定の適性基準に基づいた認可を受けた者が行っている。しかし、従来のあらゆる基準においては、一定の学力、一定の知識に基づいた限定的な能力の測定しかしておらず。一級建築士が強度偽装をしないことなど、国家試験では一切保証しないのである。

 教育に関わる関係者であっても、取り立てて認知科学的な知識や理論に基づいて教育のシステムを構築しているわけではなく。単に従来の教育システムを機械手続き的に受け継ぐだけの体制維持体質から脱却、脱構築することなど、一切意識上にはないのである。

 「人間としての社会性。」となる、公益倫理的自律判断の基礎となる本質的な自発性、本質的「意思。」のない、体制迎合的で怠慢な、無意識的な人間だけで構成された、結果的な封建的な年功序列的な組織からは。自律的な自己感情制御のための教育など、一切行われることはない。

 大衆が学力に執着するのは、それが社会的成功とか、個体の生存とか、金儲けにつながりそうであることから。いわば本能的、利己的な感情に基づいているが故にヒステリックに執着するのであり。そんなものが社会全体にとって公益倫理的な判断であるわけがないのである。

 震災によって生き残った学生達に対して、現地の教育者達は突然、思い出したように「他人の為になるような人になって下さい。」などと言い出す始末である。

 これは、「人間にとって、本当に大切な資質とは何か。」を忘れていたとしか言いようがない。

 アイヒマン実験についての書籍を読んでおけば、とりあえずアイヒマン実験に類似した状況には迎合しないかも知れない。しかし、スペースシャトルチャレンジャーの技術者のように、自分の地位や利権を棄ててでも公益倫理的に自律判断が可能であるかどうかは関係がない。

 放送大学などは、「技術者倫理。」と称して、技術者だけに倫理を要求しておいて、それ以外の一切には倫理が必要ないかのごとく言い張る。そして、最終的には「本講座を受けて、勇気が出る。元気が湧く。」などと感情論にすりかえるのである。完全に脳が壊れているとしか思えない。よくもまあ、何も考えずにこんな講義を公共の電波を使って放送できるものだと、呆れるばかりである。

 自分の感情を自律的に制御できない者が大半を占めている限り、民主主義はまともに機能することはない。民衆が自律的に買い占めをやめることができないのであれば、もはや政府による配給制限でもしなければならなくなる。それは極めて非効率的で、無駄の多い、役人天国であろう。

 政府の方から金町浄水場から大人には影響のないレベルのヨウ素131が検出されたことをきちんと公表しているのであるから。ここで「民衆。」が採るべき行動とは、妊婦や乳幼児の健康のためにペットボトルの水を、自主的に買わないようにすることである。それができないというのならば、もはや社会主義でも振り回さなければならなくなる。

 民衆がバカであるなら、バカの行動の全てを統率する「誰か。」としての権威にお任せしておくしかないと、大衆観念的には「思う。」であろう。しかし、その統率を行う基準自体が単なる学力成績だけであるなら、結局は北朝鮮のような年功序列体質による、封建的な体制維持に陥るのは必然というものである。結局は利己的な社会的成功に執着する人間が、「チンパンジーの瞬間記憶。」よろしく異常な学力を発揮して、統率側に就くことになるからである。

 天下り役人の言い訳である、「私は30年間も、安月給で働いた。だから、少しくらい甘い汁を吸ってもよかろう。」とか、「何で俺だけ。」といったルサンチマンの類というのは、結局は養老孟司のそれと全く同根なのである。

 日本の社会において、どの程度の人間が養老のルサンチマンに共鳴して満足しているのかは私の知るところではない。養老の著作の販売部数から類推して大多数を占めている可能性は高いであろう。それなら、私がどんなに本質的意識について論じても全ては徒労に終わる可能性は充分に高い。

 諦めてしまえば簡単である。諦めてしまえば何も「考え。」なくて済むので、私の大脳辺縁系は現実逃避できるので楽になれる。「嫌な話は、意識から外す。無視する。」ことによってバカになることが可能であろう。

 認知症患者は不幸であろうか。否、認知症患者に不幸だの幸福だのといった基準は意味を成さない。その場限りに行動して、気に入らなければ暴れて、大脳辺縁系のおもむくままに、何も迷わず短絡的に行動しておくことが出来ることを、果たして「不幸。」であると言えるであろうか。


 目先の感情、情動のおもむくままに行動しておけば。とりあえず意識の表層は「楽。」になれる。そうした目先の感情を自分で制御することを全くしたことのない者からすれば、私の意識に関する話は理解し難い「屁理屈。」でしかなかろう。自分にとって都合よく解釈をでっちあげて、勝手に観念のまどろみ、自己満足のまどろみに浸って「安心。」するのであろう。

 冷静に考えれば、この記事を注意深く読んでいる人であれば。自己満足のまどろみに浸って満足しているような人ではなかろう。アクセスIPはますます激減しているが、閲覧数は増える傾向が見られる。これは一種の「淘汰。」が生じているのであろう。それなら私も不安に陥ることもなく、冷静に論じていれば良いのであろう。

 ただ、一体何が原因で一般周知が行われないのか、理解が進まないのか。そのポイントというか「ツボ。」のようなものが見えないので、どう説明すれば良いのかすら見えない状態である。とりあえず、思い付くまま説明をしているのだが、全くコメント類も入らないので、「糠に釘。」的な気分である。まあ、気分であるからどうでも良いのだが。




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