書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

西研。

2011年03月30日 22時40分19秒 | 意識論関連
 文字数が少なすぎて、名前であることが認識できなかった。

 にし けん。と読むらしい。

 NHK教育で、ゾロアスター教の番組をやっていた。このブログの読者であれば、ニーチェが論理整合性のない観念をぶちまけているだけのオカルト宗教であることは、既に「理解。」しているはずである。

 してないか?。

 結局、ニーチェはキリストに憧れて、代用としての超人をでっちあげなければならなかったのである。こうした、服従対象としての何者かを定義する形式は、マルクスの資本論にまで続くものであり。マルクスですら「なぜ、ヒトは封建社会に陥るのか。」までは理解していなかったのである。

 ニーチェの著作は、無能な人間の気分的高揚を促し、本能のおもむくままの盲目性を加速させることになる。

 ルサンチマンから脱するのではなく、無能であることを認識することから「逃避。」しただけである。だからナチスを支えた。無能な酔っ払いに使命を与え、600万人のユダヤ人を死体に変換する計画書を作成することに対し気分的高揚を与えた。

 以前に、「自らの愚かさを知るものは、愚かではない。自らの愚かさを知らずに、自己満足のまどろみに浸っていることこそが、本当の愚かさであるからだ。」って言ったんだけど。

 ニーチェの場合、自己満足のまどろみに誘うことで読み手を満足させるのである。

 「気分的。」にね、大脳辺縁系的にね。


 多分、文系の論理的思考の壊れたバカの場合。ニーチェとか養老とかを読んで気分的にスッキリするんだろう。それは何も「考え。」ずに済むようになるからである。

 瞑想とか座禅を行うと、意識的論理思考を停止させる前頭核がある前頭前野内側部だけが活性するという。それが気分的には「楽。」になるのは、本質的意識を抑制し、論理的思考から逃避できるからであろう。

 簡単に言おう。「酔っ払って。」いるのである。

 なんでも、ニーチェっつうのは学生時代に学力が高かったらしい。その学力という基準自体が本質的な知能を証明しないのである。認知科学的にね。

 宇治原なんとかみたいに、クイズの正解を連発していれば「自分は頭が良いんだ。」と思い込むのと一緒で。どんなに大量の知識を「知って。」いても、知識内部における論理的検証性が伴わなければ、単なる暗記マニアでしかない。

 「知っているだけ。何が正しいのかは判断できませーん。」ってこと。

 東大の佐倉統とかと一緒だな。「学界内部で、大勢を占めてない。」ってね。

 ゾロアスター教っつうのは、読み手が勝手な解釈をすることが可能な観念でしかないので、誤解も何も、最初から論理的になんて「理解。」できないのでーした。

 養老と一緒。

 だから大衆からの「人気。」がある。

 何やら格言めいた決めつけをすることによって、読み手の脳を酔わせるのである。

 「出来そうにないことを、自分に要求するな。」って、「出来そう。」かどうかは気分の問題であって、論理的に可能か否かの論証にはなってない。この時点で読み手の勝手な解釈が可能となるのである。

 放送大学の「技術者倫理。」と一緒だな。気分的な「元気が出る。勇気がわく。」なんていう観念論にすりかえる。文系の人間っておしなべてこういうことを言い出す。

 理論的な基礎があやふやな話というものは、工学理論みたいに具体的な解決策がないもんだから。最後は観念論でごまかさないといけなくなる。

 ヒトという種の生物には、これこれこういう傾向性とか習性がありますよ。だから、それを踏まえて、間違った判断を回避しましょうね。それが本質的意識の役割。

 哲学っつうのは、芸術類に供するものではなく。本来は科学とかと一緒で普遍的事実を探求する学問。だから、「気晴らし。」で満足しているのは精神の怠慢でしかない。

 だから、本来なら文系の範疇ではなく。理工系に属するべき。事実上、カール:R:ポパー以外は哲学ではなくて、お伽話。

 つまり、「気晴らし。」

 「ポニョ。」とかと一緒。

 だから信じ込んだら、ただのオカルト宗教。

 実際、ゾロアスター教。って明言している。

 二十代で大学教授になったからって、それが本当に知能であることの論証になんてなってないからね。養老みたいなキチガイでも東大名誉教授だし、安部英でも「血液製剤の権威。」なんだからね。

 きっとニーチェとか養老ってのはEQが高いんだろうね。金儲けとか、世渡りに長けている。あ、ニーチェは生前評価されてなかった。まあ、いろいろだな。

 よっぽど哲学界ってのは人材が薄いんだろうな。全く論理的検証がされていない。日本人なんて、元来宗教心なんて、その場限りのいい加減なものだから。ニーチェでも鰯の頭でも何でも拝んじゃうんだな。

 権威っぽいのに弱いんだな。

 すぐに、ひれ伏しちゃう。

 暴力団でもね。

 「わかった、わかった。そんなに言うなら。」って、「そんなに言う。」っていう程度問題に対して論理的理解なんか伴うわけがないからな。

 それが「観念。」するっていうこと。

 「諦めて。」しまえば、もはや何も考えなくて済むので、気分的に楽だー。っつう話。

 だから瞑想とか座禅が好きなんだな。

 現実逃避が大好き。


 「人類に最大の贈り物をするのだー。」バカボンのパパなのだー。

 「これでいいのだ。」

 良いわけないだろ。



YouTubeWiget。

2011年03月30日 21時32分54秒 | 日記
 東芝アンドロイドのYouTubeウイジットが、何曲か再生すると急にヘソを曲げることがある。いくら読み込んでも再生されなくなる。

 原因はわからないけど、マシン自体を再起動すると復活する。

 何かがオーバーフローしている?。まあメモりだろうけど。

 あ、雨が降ってきた。予報だと一時的に大荒れになって、落雷もあるかも知れないって言ってたので、恐いのでマシンを落とそうと思う。でわまた。




世代。

2011年03月30日 14時26分53秒 | 意識論関連
 養老孟司でググっていたら、何でも養老の世代だけに見られる異常性が統計的に見られるのだという。

 養老の世代というのは、養老自身も述べているが。「教科書に墨を塗らされた。」世代である。幼少期の多感な年齢に、こうした社会環境の無責任さを押し付けられてしまうと、精神的に病んでしまうのかも知れない。

 一種の虐待の後遺症なのではないか。

 養老の頭がイカれているとは言っているが、だからといってジジイの吊るし上げは許さないとも言っている。それは、イカれたジジイの言っていることを真に受けている多数の人間にも責任があるからである。

 養老はヒゲボソゾウムシのケツの穴をのぞいているのが楽しいのである。遠くから見守ってやれ。それが「心。」というものである。

情報。

2011年03月30日 13時15分59秒 | 意識論関連
 情報=知識=知能という方程式は、一般大衆的な観念の産物である。

 どんなに大量の知識情報を正確に「知って。」いても、その情報の論理的整合性が理解できておらず、一体何が正しいのかさっぱり自分ではわからないのでは。これは知能でもなんでもなく、単なる暗記マニアでしかない。

 大量の知識情報を「知って。」いることをひけらかしていると。大衆観念的には「知性的だ。」と勝手に勘違いしたがる。

 ある編集者は、「引用の使い方に、厭味を感じない。」などという、主観的な「感じ。」を述べていた。文系の人間というのは、自分の「感じ。」が絶対的な基準なのである。

 自分の主観的な「感じ。」が絶対というのは、自分の観念に疑いを持つつもりが全くないということである。こういう人物に理論的な話をいくらしても「糠に釘。」である。

 自分の観念の殻の中に閉じこもって、自分の都合の良いように他人の話をねじまげてしまうからである。

 認知症患者の初期症状に見られる「取り繕い。」というのは、単なる外見上の取り繕いだけではなく。実は自分の思考自体の間違いまでも自分自身に取り繕っているため、自分自身の間違いを認識することを拒絶してしまうのである。

 認知症患者に自覚症状がないのは、そのためであり。また、自覚させると反って気分的な抑鬱によって、さらに観念の殻の中に閉じ篭ろうとするため、症状が悪化したりもする。

 自分の、その場限りの気分的に「楽。」なようにしか認識が働かないため。感情的に気に入らない話、嫌な話は意識から外そうとするのである。

 気分的に認識したくない話、理解したくない話を意識から外し、無視する。これがアスペクト盲などの盲目性の原因である。

 既に脳に刷り込まれた価値観に基づく、機械手続き的条件反射としての「好き嫌い。」に基づき、ほとんど脊髄反射的なまでに論理的話を拒絶するため。盲目のスパイラルに陥るのである。

 以前にもこうしたスパイラルの話をしたような気がする。その時は「何スパイラル。」と名付けたか忘れたが。まあ、何でもいいや、「バカスパイラル。」とでも呼んでおこう。

 ヒトであっても、所詮は動物であるため。大脳辺縁系というのは、別に論理的に考えるように作られているわけではない。むしろ観念の殻の中に閉じ篭って、何も認識しないでいた方が大脳辺縁系は「楽。」なのである。

 こうした脳の構造原理的なディレンマであっても、別に誰も望んでそうなっているわけではなく。あくまで「結果。」的なものでしかない。

 自閉症患者というのは、生れつき感情的な好き嫌いが激しく、他人とのコミュニケーションが「嫌。」であるために、言語すら覚えようとはしないのであろう。どんなに話かけても無視するのはそのためであると考えられる。

 要は、好き嫌いの程度が一般的なヒトとは少し異なるだけのことであって、一般的な多くのヒトであっても盲目性は存在するのであり。程度問題でしかないのである。

 「自閉症。」なんて病名を付けてしまうと、おそらく認知症同様に反って自閉症が悪化するのではないだろうか。自閉症と診断された人であれば、一般的な学習による学力順位付けのような、実際には論理的根拠のない知能論に基づく「学習障害。」などと定義せず。自発的に行えるような純粋行為を見つけられるように、幅広く様々な情報を与えてみることの方が良いのではないか。

 「なぜ、他人と話をしなければならないのか。」その論理的根拠もなしに、ただ「話をしろ。」と強制するから、話すことが嫌になるのであろう。

 おそらく、言語学習の速度が相対的に遅いだけなのかも知れない。自閉症の子供の行動を見ていると、決して知能が劣っているようには見えないからである。自発的に伝えたいこと、話たいことがあれば、自ずと話はするようになるはずである。それを「他人と比べて、うちの子は。」的な順位に執着するから、自発性を失うのである。

 自閉症というのは、実際には親の方が固定観念に囚われているから、子供が拒絶してしまうのである。


 暴走族だの暴力団といったものも、盲目性が存在する。しかし、臨床的にはそれを病気であると診断する基準がないだけであって。人畜無害な学習障害よりも、こちらの方がよっぽど悪辣で「病的。」あるが。そちらはほったらかしなのはなぜであろう。

 それは大衆観念的な知能の基準自体が根本から間違っているからである。

 震災に巻き込まれた途端に、「他人のためになる人になって下さい。」的に。あたかも「人間にとって最も重要な資質。」を急に思い出したように言い出す教育関係者と同じで。多くのヒト達は根本的な価値観自体を意識から外して生きているのである。

 それで世の中良くなるわけねーだろ。的な話である。






ジャンル。

2011年03月30日 11時12分21秒 | 日記
 gooブログには、記事に「ジャンル。」っつう分類選択肢があるんだけど、これの選択肢があまりに多すぎて、どうにも使いようがない。

 これを使っている人っているのかね。よくわからん。

 一応、「カテゴリー。」分類で「意識論関連。」と「日記。」は別けてみた。いつの間にか150近くの記事を書いていた。まだgooブログに引っ越して一月くらいなんだけどね。

 あまりに多すぎて、読者の皆さんには読み切れないかな。自分でもあまり文章が上手いとは思えないので、わかり難い場合はコメントしてもらっても構わない。

 プログラムとか組んだりしているから、ハッキングとかされるんじゃないかと思っているかも知れないけど、知識はあってもネットワーク関連のプログラミングはやったこともないので、文字化けしたメールすら読めない感じ。

 多分、ブログは書けてもHTMLとかは無理。多少の画像処理くらいしかできない。んま、無理に書かなくてもいいけどね。


 今日は随分暖かくなったけど、ウエザーニュース社が一般家庭に付けさせてる「ポールン。」とかっていう観測装置の情報からは、そんなに大量の花粉情報は出て来ない。性能が低いのか、ポールン。温度、湿度、気圧の情報は地域ごとに揃っているので信頼できそうだけど、気象庁の花粉情報に較べて、ポールンの検出する花粉って、何か少なくないかな。

 ユキヤナギが満開でした。東京はもう春です。

困惑。

2011年03月30日 11時03分20秒 | 日記
 以前にもNHKからのメールが文字化けして読めない旨の記事を書いたのだが。今回もやはり読めなかった。

 文字コードを変更できれば読めるはずなのだが。東芝アンドロイドの場合、何をどうしたらいいのか不明。東芝さん、どうにかなりません?。やっぱ「文字化けボタン。」みたいのつけましょうよ。ちょっと格好悪いけど、使えないんじゃ意味ないので。

 大抵のメールは読めるんだけどね。宣伝メールばっかなんで意味はない。「700万円までのカードローン。」とかって、借金漬けにさせたいのかね。それともウイルスに感染させて盗み出そうっつう魂胆かね。こわいわー。ネット上でカードなんて作るもんじゃないよね。そこまでの信頼性なんかまだないんだからね。

フィニアス:ゲイジ

2011年03月30日 08時11分20秒 | 意識論関連
 フィニアス:ゲイジに関する話は、脳に関わる話としては有名なはずなのだが。ググっても出て来ない。

 確か、フィニアス:ゲイジという人物は、真面目な技術者で、何かの爆発事故に巻き込まれて、左頬から脳の前頭葉に向かって、巨大な鉄の杭が刺さってしまい。奇跡的に一命は取り留めたのだが、それから以降、ゲイジは人が変わって、ケダモノのような性格に変わってしまった。そんな話である。

 大脳の前頭葉に「意識。」の座があるらしいことの、一つの左証として挙げられる事象として有名なはずであるが。検索では見つからなかった。

 ゲイジは、事故直後、顔面に杭が刺さったまま、左目が飛び出した状態で起き上がり、「一体、何があったんだ。」と話したという。

 意識というと、一般的に言われる意識なら、医学的意識とか、生物学的意識のことであろう。しかし、大脳の前頭葉を失ってなを起き上がって言葉を話すとはどういうことか。

 ゲイジが失った「意識。」とは、一般的にいう医学、生物学上の意識ではなく。「ヒトが人間たりうる所以。」としての理性に関わる意識だけが失われたのである。

 最近はあまり「前頭連合野。」という言い回しが用いられないようだが、何か作為的に使用を忌避しているのだろうか。

 私の論ずる本質的意識とは、より統合的な判断を行う論理的思考としての意識機能のことであり。それによってヒトは人間として行動すること、自律的に判断することが可能となるのである。

 ゲイジは事故後、性格が一変し、嘘も平気でつくようになったという。このことからも、相手を騙すための理性は残されたということになる。

 振り込め詐欺師であっても、他人を騙す程度の理性はある。ただ、嘘つきの理性というものは統合的な、本質的自己判断、自律判断といったものが欠落しているのである。

 目先の欲望だけに支配された理性といっても良いだろう。つまり、理性と欲望の主従関係が逆転しているのである。

 頭に血が上って、興奮状態に陥ると、ヒトは理性を失う。しかし、殺人犯が相手を殺傷する行動には、それなりの論理性は必要である。どうすれば殺せるか、その手順とか手法に関しては最低限の論理的思考は必要である。

 その程度の論理思考であればチンパンジーでもイヌでもネズミでもできる。それを「知性。」だと言い張るのは生物学者の寝言しとか言いようがない。

 統合的な視点から、「その行動の結果。」が、自分の人生においてどの程度の重要度を持つのかを判断するだけの、客観性、統合的な判断をできて。初めて人間としての知能、人間としての意識であると言える。

 サルとかバカにはこれができない。

 単に大脳容積があれば可能な訳ではなく、そこに自発的意思が伴わなければ、自律も客観性も働かないのである。

 どうも、こうした本質的自発性というものが欠落している者からすると、その意味、重要性が認識できないらしい。多分、認識「したくない。」だけのことであろうとは思うのであるが、余程ヒステリックに拒絶するらしい。

 私の意識に関する話は、理解できるかどうかが真っ二つに別れるらしい。いわば、生物種としての「ヒト。」であるだけか、あるいは「人間。」としての理性、意識が働くかどうかの分水嶺、判定基準となるようである。



ゾロアスター。

2011年03月30日 00時32分20秒 | 意識論関連
 「前向きに生きる。」と称して、NHKの番組でゾロアスター教を取り上げるらしい。

 「前向きに生きる。」とは、気分の問題である。それによって人間としての正当な行動選択が可能になるわけではない。

 ゾロアスター教というのは、ツァラトゥストラ教とも発音するが。ナチスを支えたとも言われる論理整合性のない観念の羅列である。

 NHKって、相当アタマがイタいらしい。

 哲学というのは文系の範疇に入るのだが。論理整合性がないということは、普遍性もないということであり。同時に安全性もないのである。

 ナチスの吏官が「前向きに生きた。」ために、一体何人のユダヤ人が死体に変換されたと思っているのであろうか。

 哲学界というのは、とにかく「気分。」が優先するので、気分的に楽になれる話に大衆人気があれば、簡単に大衆迎合するのである。

 「ニーチェが好き。」なんて言ってると、あたかも知的であるかのような錯覚に陥るらしいが。実際には頭が悪いことを露呈しているだけである。

 NHKの編成局は、意図的に私の発言を無視しているようだ。