脳化とは何か。それは実際には説明のしようがない。なぜなら、論理整合性が全く存在しない「実証不能の観念。」であるからだ。
深沢七郎という人物がいた、この人物がある日、近所の子供の手にイボを感染させたと誤解され。子供の親に酷く咎められた際。「大切なのは、自分の身体だけで。他人の身体など大切だとは、ちいとも思わなかった。」と書き記している。
この記述の中の、「大切なのは、自分の身体だけ。」という部分を抽出し。これを「中世の自然観。」であると規定し。あたかもそれこそが人間として正しいありかたであるかのような錯覚を抱かせるように、あれこれこじつけたものが「脳化。」という実証不能の観念の起源である。
それが何かの役に立つのかといえば、全く役に立たないのであるが。頭の悪い人間にとっては意識の撹乱を促し、思考停止に陥れ、最終的には相手のご機嫌取りをして煙りに巻く。
ここまで酷くはないが、サンデルの講義も似たような構造があり。あたかも頭が良くなったような錯覚を促すことで、聞き手がバカになるのである。
マスコミも含めて文系の人間にとっては、こうした論理性の欠落した観念が大好きなようで。何の検証も行わず、結果的に何の批判も出来ないのである。
聞き手の気分が満足するように意識誘導(この場合の「意識」とは無意識のことである。)を促し、大量の知識のひけらかしをすることで、相手の思考容量をオーバーさせることによって。相手の思考を停止に追い込むのである。
占い師がまくし立てるのも、相手の記憶容量をオーバーフローさせることによって、思考停止に陥れるための手法である。相手が詳しく説明を求めても、面倒臭いふりをすることによって。説明を回避するのである。この時聞き手は占い師の気分を損ねることを嫌い、詳しい説明を断念するのである。
ヒトは相手の気分を損ねることを、観念的に回避する習性がある。そのため、面倒臭いかのように振る舞うことによって、相手からの説明要請を拒絶することが、多くの場合可能なのである。感情的に強く言うことによって、あたかも論理的な根拠や、科学的証明が存在するかのような錯覚を促すのである。
従って、占い師とか養老とか茂木というのは、直接対話に異常な執着をするのである。口頭で話をすれば、相手を丸め込めるという自信があるからだ。
これは脳科学の悪用である。私は口頭で話をするのが嫌いである。充分に考えを巡らす余裕のない状況で説明することが嫌だからである。丸め込まれることも嫌いだが、丸め込むのも嫌いだからである。精密検証を行うのであれば、文章という形で残した方が確実である。それが「動かぬ証拠。」になるからだ。だが、口頭ではそうはいかない。無責任な話をまくし立てても、記録には残りにくいからである。
私の意識に関する話は、大抵の人にとっては不愉快なものである。直接的な言い方をすれば、「お前さんの頭はイカれているよ。」と言っているのと同義であるからだ。イカれたままで満足なのか。それともイカれていない状態になりたいのか。それは私の選択ではなく、あなたの選択である。私は臨床の心理学者ではないから、あなたが精神的に不安定に陥っても一切感知しない。カルト宗教の信者が、自分の信じていた宗教が異常であったことを認識して精神を病んでも。殺人犯が自分の犯したことの重大さに気付いて精神を病んでも。そんなことは私の知ったことではない。事実を認識するということは、時に過酷であることが存在するのである。
アイヒマン実験の被験者が、自らの自律判断の欠落に気付き、精神的に嫌な気分に陥っても、それこそが、これからの行動選択に影響を及ぼす大切な「気付き。」なのである。
脳トレ類を強迫観念的にやっても、限られた条件下での気付きしか促すことはない。だからこそ「楽しい。」のである。サンデルの講義で「頭が良くなった。」ような錯覚に陥るのである。ハーバード大学はサンデルの無責任さに対して、何ら保障するつもりはない。帝京大学が安部英の無責任さに責任を一切負わなかったように。東京大学も養老孟司や生物学部、哲学科の無責任さに何の責任を負うことはないのである。それを「そういうものである。」と諦めるか、それとも改革を促し、「教訓として再発防止。」につなげるか。それは皆さんの「意識。」次第であり、私の知ったことではない。以上。
深沢七郎という人物がいた、この人物がある日、近所の子供の手にイボを感染させたと誤解され。子供の親に酷く咎められた際。「大切なのは、自分の身体だけで。他人の身体など大切だとは、ちいとも思わなかった。」と書き記している。
この記述の中の、「大切なのは、自分の身体だけ。」という部分を抽出し。これを「中世の自然観。」であると規定し。あたかもそれこそが人間として正しいありかたであるかのような錯覚を抱かせるように、あれこれこじつけたものが「脳化。」という実証不能の観念の起源である。
それが何かの役に立つのかといえば、全く役に立たないのであるが。頭の悪い人間にとっては意識の撹乱を促し、思考停止に陥れ、最終的には相手のご機嫌取りをして煙りに巻く。
ここまで酷くはないが、サンデルの講義も似たような構造があり。あたかも頭が良くなったような錯覚を促すことで、聞き手がバカになるのである。
マスコミも含めて文系の人間にとっては、こうした論理性の欠落した観念が大好きなようで。何の検証も行わず、結果的に何の批判も出来ないのである。
聞き手の気分が満足するように意識誘導(この場合の「意識」とは無意識のことである。)を促し、大量の知識のひけらかしをすることで、相手の思考容量をオーバーさせることによって。相手の思考を停止に追い込むのである。
占い師がまくし立てるのも、相手の記憶容量をオーバーフローさせることによって、思考停止に陥れるための手法である。相手が詳しく説明を求めても、面倒臭いふりをすることによって。説明を回避するのである。この時聞き手は占い師の気分を損ねることを嫌い、詳しい説明を断念するのである。
ヒトは相手の気分を損ねることを、観念的に回避する習性がある。そのため、面倒臭いかのように振る舞うことによって、相手からの説明要請を拒絶することが、多くの場合可能なのである。感情的に強く言うことによって、あたかも論理的な根拠や、科学的証明が存在するかのような錯覚を促すのである。
従って、占い師とか養老とか茂木というのは、直接対話に異常な執着をするのである。口頭で話をすれば、相手を丸め込めるという自信があるからだ。
これは脳科学の悪用である。私は口頭で話をするのが嫌いである。充分に考えを巡らす余裕のない状況で説明することが嫌だからである。丸め込まれることも嫌いだが、丸め込むのも嫌いだからである。精密検証を行うのであれば、文章という形で残した方が確実である。それが「動かぬ証拠。」になるからだ。だが、口頭ではそうはいかない。無責任な話をまくし立てても、記録には残りにくいからである。
私の意識に関する話は、大抵の人にとっては不愉快なものである。直接的な言い方をすれば、「お前さんの頭はイカれているよ。」と言っているのと同義であるからだ。イカれたままで満足なのか。それともイカれていない状態になりたいのか。それは私の選択ではなく、あなたの選択である。私は臨床の心理学者ではないから、あなたが精神的に不安定に陥っても一切感知しない。カルト宗教の信者が、自分の信じていた宗教が異常であったことを認識して精神を病んでも。殺人犯が自分の犯したことの重大さに気付いて精神を病んでも。そんなことは私の知ったことではない。事実を認識するということは、時に過酷であることが存在するのである。
アイヒマン実験の被験者が、自らの自律判断の欠落に気付き、精神的に嫌な気分に陥っても、それこそが、これからの行動選択に影響を及ぼす大切な「気付き。」なのである。
脳トレ類を強迫観念的にやっても、限られた条件下での気付きしか促すことはない。だからこそ「楽しい。」のである。サンデルの講義で「頭が良くなった。」ような錯覚に陥るのである。ハーバード大学はサンデルの無責任さに対して、何ら保障するつもりはない。帝京大学が安部英の無責任さに責任を一切負わなかったように。東京大学も養老孟司や生物学部、哲学科の無責任さに何の責任を負うことはないのである。それを「そういうものである。」と諦めるか、それとも改革を促し、「教訓として再発防止。」につなげるか。それは皆さんの「意識。」次第であり、私の知ったことではない。以上。