書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

脳化とは。

2011年03月08日 23時04分08秒 | 意識論関連
 脳化とは何か。それは実際には説明のしようがない。なぜなら、論理整合性が全く存在しない「実証不能の観念。」であるからだ。

 深沢七郎という人物がいた、この人物がある日、近所の子供の手にイボを感染させたと誤解され。子供の親に酷く咎められた際。「大切なのは、自分の身体だけで。他人の身体など大切だとは、ちいとも思わなかった。」と書き記している。

 この記述の中の、「大切なのは、自分の身体だけ。」という部分を抽出し。これを「中世の自然観。」であると規定し。あたかもそれこそが人間として正しいありかたであるかのような錯覚を抱かせるように、あれこれこじつけたものが「脳化。」という実証不能の観念の起源である。

 それが何かの役に立つのかといえば、全く役に立たないのであるが。頭の悪い人間にとっては意識の撹乱を促し、思考停止に陥れ、最終的には相手のご機嫌取りをして煙りに巻く。

 ここまで酷くはないが、サンデルの講義も似たような構造があり。あたかも頭が良くなったような錯覚を促すことで、聞き手がバカになるのである。

 マスコミも含めて文系の人間にとっては、こうした論理性の欠落した観念が大好きなようで。何の検証も行わず、結果的に何の批判も出来ないのである。

 聞き手の気分が満足するように意識誘導(この場合の「意識」とは無意識のことである。)を促し、大量の知識のひけらかしをすることで、相手の思考容量をオーバーさせることによって。相手の思考を停止に追い込むのである。

 占い師がまくし立てるのも、相手の記憶容量をオーバーフローさせることによって、思考停止に陥れるための手法である。相手が詳しく説明を求めても、面倒臭いふりをすることによって。説明を回避するのである。この時聞き手は占い師の気分を損ねることを嫌い、詳しい説明を断念するのである。

 ヒトは相手の気分を損ねることを、観念的に回避する習性がある。そのため、面倒臭いかのように振る舞うことによって、相手からの説明要請を拒絶することが、多くの場合可能なのである。感情的に強く言うことによって、あたかも論理的な根拠や、科学的証明が存在するかのような錯覚を促すのである。

 従って、占い師とか養老とか茂木というのは、直接対話に異常な執着をするのである。口頭で話をすれば、相手を丸め込めるという自信があるからだ。

 これは脳科学の悪用である。私は口頭で話をするのが嫌いである。充分に考えを巡らす余裕のない状況で説明することが嫌だからである。丸め込まれることも嫌いだが、丸め込むのも嫌いだからである。精密検証を行うのであれば、文章という形で残した方が確実である。それが「動かぬ証拠。」になるからだ。だが、口頭ではそうはいかない。無責任な話をまくし立てても、記録には残りにくいからである。

 私の意識に関する話は、大抵の人にとっては不愉快なものである。直接的な言い方をすれば、「お前さんの頭はイカれているよ。」と言っているのと同義であるからだ。イカれたままで満足なのか。それともイカれていない状態になりたいのか。それは私の選択ではなく、あなたの選択である。私は臨床の心理学者ではないから、あなたが精神的に不安定に陥っても一切感知しない。カルト宗教の信者が、自分の信じていた宗教が異常であったことを認識して精神を病んでも。殺人犯が自分の犯したことの重大さに気付いて精神を病んでも。そんなことは私の知ったことではない。事実を認識するということは、時に過酷であることが存在するのである。

 アイヒマン実験の被験者が、自らの自律判断の欠落に気付き、精神的に嫌な気分に陥っても、それこそが、これからの行動選択に影響を及ぼす大切な「気付き。」なのである。

 脳トレ類を強迫観念的にやっても、限られた条件下での気付きしか促すことはない。だからこそ「楽しい。」のである。サンデルの講義で「頭が良くなった。」ような錯覚に陥るのである。ハーバード大学はサンデルの無責任さに対して、何ら保障するつもりはない。帝京大学が安部英の無責任さに責任を一切負わなかったように。東京大学も養老孟司や生物学部、哲学科の無責任さに何の責任を負うことはないのである。それを「そういうものである。」と諦めるか、それとも改革を促し、「教訓として再発防止。」につなげるか。それは皆さんの「意識。」次第であり、私の知ったことではない。以上。





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外見上の自己。

2011年03月08日 21時59分15秒 | 意識論関連
 哲学とかで語られることの多い「自己。」であるが、頭の悪い哲学者達はなぜか他人から見た自己こそが本当の自己だって言い張る。

 それこそ自意識過剰なのであるが、この場合の自意識というのは本質的な自己の意識ではなく、単なる外見上の自己のことを指している。

 こういう頭の悪い哲学者達というのは、自律的な判断というものが存在しない単なるバカであるため。こういった意味のわからないことを平気で主張したがる。多数他人からの観念的な「理解。」を得ることにしか意識が働いておらず、その意識とは本質的意識ではなく、単なる他人からの外見上の自己を取り繕うための、強迫観念的な意識でしかない。

 だから、既に一定の評価がある哲学者に対して全く批判精神が働かない。多くの他人が評価するニーチェやプラトンの述べていることが、論理整合性のないペテンであるということには自律的には全く気づくことがないのである。

 ヒトにおいて、本質的意識や理性といったものは希薄である。その傾向性は確かである。だからといって、本質的意識というものは常に希薄であり続けることの論理的な証明になど全くなっていないのである。

 アイヒマン実験や、スペースシャトルチャレンジャー号の技術者の体験を聞けば、自律的に判断することの重要性というものを知ることも可能である。それによって今後の自律的な行動判断に影響を及ぼすことが可能になる。しかし、頭が悪すぎて、その重要性を認識できないバカであれば、行動に影響を及ぼさない。

 バカにとっては、バカであることが全ての基準であるため。バカ以外の基準が全く理解できないのである。

 バカによる、バカのための、バカの基準。である。

 行動に影響を及ぼさないというのは、そこに意識が働いていないからこそ、それまでの無意識的な行動からの脱構築性が働かないからである。

 変わらない意識とは、無意識である。漫然と怠惰な繰り返しを行っていれば気分的に安心できる。それは機械手続き的な条件反射である。カルト宗教の信者が、それをやめることができないのと同様、バカな哲学者達は無益な堂々巡りを繰り返して安心する。

 「XはAと言っていた。」「YはBと論じてた。」「ZはCと断言する。」そんな話ばかりをひけらかして、「自分はたくさんのことを知っている頭の良い人間だ。」と勝手に思い込んでいるだけで。一体何が正しいのかなど一切自律的には判断しないし、また、出来ないのである。

 何せ、当人は自分がバカであることを認識できないばかりか。恐ろしいことに「自分はたくさんのことを知っている頭の良い人間である。」と錯覚しているので。自己満足のまどろみに溺れたまま、それ以外のことを全く知ろうともしないのである。

 IT系の技術者が難解な専門用語を用いて説明するとしても、一般人がわからないことであれば、わかるように説明するものである。しかし、哲学マニアの類というのは、あえて一般人が知らない言葉を乱用し、自分の知識をひけらかすことしかしないのは、彼等が単なるオカルトに洗脳されているだけだからである。

 「哲学には好き嫌いがある。」などというのは、単なる詭弁である。個人的な好き嫌いに普遍性など存在し得ない。たとえどんなに多数の好みを抽出サンプリングしたところで、その多数の好みが絶対的普遍性を持ったものであることの論理的証明になどならないのである。そこにあるのは普遍性自体ではなく、単なる普遍風味な多数決に過ぎない。

 単なる多数抽出というのは、結果であって。どんなに沢山の結果を枚挙したところで、それが意識的な選択としての目的であることの証明にはならない。

 養老孟司は「ヒトとは、いままで実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけてきた。」と称し、その多数抽出を根拠に「ヒトとは、そういうものである。」と断定する。つまり、「ヒトとは、実証不能の観念を振り回すものであり。かつ、それによって他人に多大な迷惑をかける以外の一切の選択は不可能である。」と論じているのである。

 養老本人にそれを問うても無駄である。養老はペテンにかけては天才的な能力を発揮するキチガイであるから。呈よく煙りに巻かれるのがオチである。養老の異常性を検証するのであるなら、既に存在する著作物から検証する方が堅実である。

 ついでにいえば、養老に何ら反論をしなかった茂木健一郎や澤口俊之などの脳科学者達の頭も、相当やられていると認識すべきである。でわまた。


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アクセス数。

2011年03月08日 17時01分30秒 | 日記
 3月になってgooブログに逃げて来たんだけど、それからのアクセスIPが91から104くらいで推移していて、ほとんど変化がない。

 まあ、人気取りとか世間ウケを狙っているわけでもなく。むしろウケの悪いことばっかり書いているから当然のことかも知れない。

 しかし、東京大学生物学部とかの研究費の無駄遣いとかに関しては、もう少し世間的な反応があっても良さそうなものだが。読者が単に理解できていないのか、それとも従来の生物学のパラダイムの方が居心地がいいのか。何かコメントでも貰えれば対処出来るかも知れないのだが、ソネットブログの頃から意識論には無反応が続いている。

 相変わらずソネットブログのログイン画面は「証明書が一致しない。」状態が続いていて、入る気が起こらないのだが。ソネットさんは対処する気が全くないのだろうか。

 そもそも「証明書。」っていうもののシステム自体がよくわからない。あ、そうかググってみればいいのか。どうもネットというものの使い方がいまいち把握できていないな。でわまた。

 追加

 はてなキーワードだったかに、以下の一文が載っていた。

 「信頼できる認証機関」というのは通常はウェブブラウザが知っている(ブラウザの製造元が信頼している)認証機関のことであり、ウェブブラウザは 自分の知らない認証機関が署名したサーバ証明書が送られてくると、信頼性を検証できないという警告を出す。そのような証明書は通信に割り込ん だ盗聴者が偽造したものと区別がつかないからである。 このような証明書が(広義の)「オレオレ証明書」である。

 公開鍵暗号がどうのとかも書いてあったので、PGPとかを利用したページの証明らしい。ソネットブログのログインページが認証されないというのは困ったものである。しかし「オレオレ証明書。」が添付されているというのは、添付した人物は何を考えているんだろう。まあ、なんらかの事情で一致しないこともあるらしいのだが、一週間以上放置されているというのはどういうことなんだろう。

 もしかすると、意識論が掲載されていることによって、茂木健一郎監修の「アハ体験。」のゲームの売上の方が、「意識論。」を掲載していることによる広告宣伝費よりも多いことによる「理性的。」判断によって、意識論を排除することが優先されているとか、そういうことなのかね。どうなのよ、ソニーグループさん。残念ながら、おいらはログインページの証明書が一致しない限りログインするつもりはないからね。でわまた。



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