書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

赤外線。

2011年03月09日 13時30分59秒 | 日記
 以前、上野駅の近くの路地で、紫色の花を写真で撮ったら、見た目と全く異なる青色にしか写らなかったことがある。

 これが、その時の写真。肉眼で見た目にはシベの部分の紫色とほとんど同じ色の花びらだったのだけど。写真ではほとんど青にしか見えない。

 なんでも赤外線の影響があるとのことで、赤外線をカットする特殊なフィルターを用いることによって見た目同様の色で撮影することも可能だそうである。

 赤外線というと、よく盗撮とかに使われることがあって、カメラに真っ黒なフィルターを付けて真夏の浜辺を歩いている人とかいたら警戒した方が良い。ビデオカメラの場合は最初から赤外線撮影機能がついているものもあって、赤外線だけを透過するフィルターを付けることによって、黒い水着とかがスケスケに写るらしいのである。それこそ録画せずにただ見ているだけなら証拠も残らないので、警察的にも取締が困難なようである。

 赤外線カメラの場合、白い布は透けないらしいので。怪しい人を見つけたら白い布で隠すと良いらしい。だから競泳用の黒い水着はスケスケ画像が流出するらしい。

 スケスケで思い出したのだが、ボブスレーの女子選手がスタートの時におケツが破けて丸出しになった映像をテレビで垂れ流していたが。あれは本人の了承をとっているのだろうか。いくら公の場であっても、ハプニングをあんまり大々的に何度も録画で流すというのは倫理的におかしいと思うのだが。

 ライブ映像であるなら、それは不可抗力であろうが。当人の許可もなしに録画で何度も再生するというのは気の毒だ。

 えっと、赤外線の話だった。携帯とかデジカメに赤外線撮影機能がなくても、多少は赤外線の影響が写り込むらしく。テレビのリモコンの赤外線は肉眼では全く見えないのだが、カメラを通して見ると白く光って見えたりする。これでリモコンが故障しているかどうかを確認できるのだが、不思議がって子供が覗き込むのは、あまり目に良くないのでやめさせた方が良い。

 どんなに覗き込んでも絶対にヒトには見えないものなのであるが。網膜には悪影響があるので覗き込んではいけない。もちろん普通に生活している分には何の問題もないので、むやみに怖がる必要はないのだが。知っていて損はない。豆電球だって覗いたら目には良くないのである。
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東芝アンドロイドのブラウザ。

2011年03月09日 12時38分26秒 | 日記
 東芝dynabookのアンドロイド版であるAZ/05Mを使っているのだが、標準ブラウザが時折表示不良を起こすことがあり。アフロフォトのサイトがスクロールできないため、見ることができない。

 こうしたスクロール不良は時折あるのだが、カーソルキーを使っても全く無反応なので、諦めるしかない。

 以前、Android.Ver2.1のときはブログの画像をアップすること自体が標準ブラウザではできなかったのだが。それはVer2.2にアップグレードされて出来るようになり、フラッシュプレイヤーまでサポートされたのでシュフーとかのチラシサイトも見られるようになった。

 もしかすると、現在表示できないページであっても、そのうちサポートしてくれるかもしれないので。期待して待つことにしよう。

 Android2.2にアップグレードするときに、「AZ/05MGのみの機能。」という但し書きがあったのだが。果たして既に発売されているのであろうか。何でも3Gの通信機能を本体に内蔵しているらしくて、無線ルーターを別途持ち歩かなくても良いらしいのである。3G通信の場合の通信費用がいくらなのか知らないのだが。便利さと引き換えにあんまり高いのは嫌だな。

 UQワイマックスの無線ルーターはバッテリーが3時間程度しか持たないのだが、アンドロイドの内蔵バッテリーは結構でかい上に本体と共用できれば、かなり長時間電線なしで使えそうである。でも本体もそれなりにデカイので、あまり携帯する気にはならないのだが。特に自転車の場合。

 私のようにガリガリ文章を書き込む人間でないと、あまりキーボード付きアンドロイドというのは扱い易いとは言えないと思うのだが。ツイッターとかでもキーボードの需要というのはそれなりにあるようで、価格が安くなったこともあってそれなりに売れているようである。あんまり普及するとクラッカーから狙われ易くなるので、できれば程々に普及しておいて欲しいのだが、それは私の勝手な願望である。普及しないと東芝的にもあんまりアップグレードする気にならないだろうし、何とも言い難い。

 私の場合、マシンの調子が悪くなるとすぐに初期化をしてしまうし、また、重要な情報はこのマシンにはいれておかないようにしている。さらに他のマシンからはSDカードを書き込み禁止スイッチを入れてから挿すようにしているので、他のマシンに何かを感染させることもないはずである。OSのアップグレードが可能ということは、ハッカーからの書き換えも可能なのかと思ったが、OSだけは書き換え手順が異なるので、多分できないのであろう。そもそもマシン容量が小さいので、日本語システム自体がマシンの動作をおかしくすることもあり。あまりウイルスの入り込む余地はなさそうである。

 YouTubeウイジットで動画を見ていると、時折「カメラの準備ができていない。」とかいうトンチンカンな警告が出ることがあった。もしかしたら、動画サイトで動画を見ることによって自分のマシンのカメラの画像を垂れ流しにするウイルスが侵入するのかも知れない。私の場合は最初からカメラをテープで塞いでいるので、画像自体は機械的に流出することはない。問題は音声である。これもテープで塞いでいるのだが、音声の場合は完全に塞ぐことはできないからだ。なので、基本的には使わない時はマシンの電源を落とすようにしている。その方が省エネだしね。

 何だか、以前書いた内容と重複してるような気がする。なんだかボケかかった爺さんみたいな気分である。あんまり思い詰めると頭がおかしくなりそうなので、腹を立てるのも程々にしておくべきだろうね。でわまた。
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適性。

2011年03月09日 10時56分56秒 | 意識論関連
 私の意識についての話が理解できない場合、それは単に最初から科学的思考に興味がないだけであるかも知れない。従って、どんなに読んでも意識が変わらないとか、むつかしくてわからないというのであれば、それは適性がないだけのことである。

 私の意識論は万人が理解しなくてはならないものであるとは思わない。高所恐怖症の人を高い場所に吊り上げて、地上の状態を理解しろと強制すれば、それは単なる虐待である。

 しかし、高所恐怖症で、本当は高い所から地上の状態など見たこともない人間が、「俺は地上の状態を知っている。」と述べるのは、単なる嘘、ペテンである。

 高所恐怖症のペテン師が嘘を言っているかどうかは、高所からの地上の状態を知っているかどうかが重要である。地上の状態を誰も知らないのであれば、嘘が嘘であることなど誰も認識できないからである。

 多くのヒトは、多数他人と同じ観点からの見解を共有して安心する。それがペテン師の嘘を共有することになれば、誰も嘘を見抜けなくなる。できればより多くの人に理解して頂くのが理想であるが、この際無理強いはしない。

 自分にとって無理なことをするべきではない。公益倫理的な自律判断にとって、本質的自発性というものは必要不可欠なものである。別に万人が私の意識論を理解できなくても、鍵となる人物が理解できれば問題は解決する場合もある。それが誰なのかは私の知るところではない。私は神ではないので、この社会の構造の全てを熟知しているわけではないからだ。

 わからないことは他人にお任せするしかないのである。私が論じているのは、わかりようのないことではなく。わかることが可能なことを論じているだけなのである。

 別に私の意識論を理解できなくても、人間として出来損ないであることの証明にはならない。自律的に公益倫理的判断ができるのであれば、別に理解する必要性など全くないのである。だが、観念的に拒絶することで自らの自律判断を放棄し、ペテンに乗っかって満足し続けるというのであれば、これはペテンの片棒を担いでいるのと同じである。

 わからないことは、わからない。これは科学的な立場でもある。わかりもしないことをわかったと言い張るから嘘なのである。

 ヒゲボソゾウムシのケツの穴を覗いているのが楽しいのであれば、別に多数世間の顔色をうかがって「人間について。」論じる必要性はない。生物学者は純粋に現象論について研究すれば良い。興味もないことに口を挟むから嘘を言うことになるのである。

 業績のねつ造というものが起こるのは、それが強迫観念的に社会的な評価を求めるという環境依存性に起因するものである。自発的に研究していれば、たとえ途中で評価が全くなくても続けることが出来るのであり、それによって結果的に他人とは異なる本当の個性として現れるのである。

 多数の人が不可能であると思っていたことが、実際には可能であったということは科学の世界では珍しくはない。多数の観念的な「諦め。」を枚挙しても、それは科学的に不可能であることの論理的証明には一切なっていないのである。

 腹が減ったので、この辺で。でわまた。


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接続不能。

2011年03月09日 09時42分57秒 | 日記
 今朝、7時半頃グーグルが一時的に接続不能に陥っていた。ヤフーは接続できたので回線の不良ではないと思われる。

 接続できなかったときに「グーグル接続不良なう。」とか書けばよかった。ツイッターではないので誰も見てないか。まあいいや。

 どうもツイッターのような短文で何かをつぶやくのは、あまり好きになれない。ツイッターの内容というのは、そのほとんどが「飲み屋のよた話。」レベルである。そういった観念の共有というものが、大衆の大脳辺縁系にとって快楽なのであろう。

 モバゲーもそうだが、どうも多くのヒトは暇なのではないか。それこそ寝て暮らしたいのであれば死ねば良いのである。そうすれば永遠に寝て過ごせるではないか。

 実証不能の観念を振り回し、他人に多大な迷惑をかけることになる可能性があるとしても、自分自身の意識を変えるつもりもなく、社会環境に流されるだけでは。他人に対しても文句を言えた義理ではない。それはいわば「自分は何の責任も負うつもりはない、しかし、他人は責任を持て。」と言っているのと同義であるからだ。

 ヒトが権威に服従してしまうのは、権威というものが多数決的に担保されていると勝手に錯覚しているためである。錯覚を錯覚であると認識していなければ当人にとってそれは錯覚ではなく現実である。錯覚を錯覚と認識するのは客観性であり、無意識ではない本質的意識による機能である。

 認知症の患者が、皿の上の模様を箸でつまんで口に運ぼうとして、それができないと憤慨することがある。それを医学的には「認知の衰え。」であるとするが。むしろ無意識的な認知機能による反射的行動だけが働いており。機能を失っているのは意識の方である。

 こうした行動というものは、無意識的な反射的行動と、感情的なヒステリーだけであり。そこに自律的な判断というものは欠落しているのである。それが認知症の正体である。

 本質的意識というものは、学習機能でもある。無意識というものは学習「されたもの。」であって、学習「するもの。」は本質的意識機能の方なのである。本質的意識が失われることによって、結果的に行動が機械手続き的反射行動だけに「整理。」されるため。間違いを犯すことが増えても、自律的に間違いを修正することは出来なくなるのである。

 このことから考えても、本質的意識としての本質的自発性がなければ。どんなに環境依存的に高度な特定能力を習得しても、それはむしろ環境依存性行動や思考を機械反射的に無意識学習してしまうだけなのである。

 公益倫理的自律判断とは、本質的自発性によってのみ育まれるものである。強迫観念的に学力を要求された学生が、どんなに高い学力成績を得ることが出来るようになったとしても。それは特定環境下で瞬間記憶能力や利他行動を行うチンパンジーと、構造的には同じものなのである。

 ノーベル賞受賞者の多くは、単なる学力の高さを問題になどしない。むしろ「夢を実現する。」とか、「一生続けられることを見つける。」ことを勧める。それはなぜか。

 自律的に公益倫理判断のできない人間が増えれば増えるほど、社会は崩壊へ向かうことになるからである。それは誰も望まない世界であることに異論はなかろう。少なくとも「衆人環視下。」においては。



 格闘技ゲームをやったが、満足できなかったからといって。他人の車のワイパーを折りまくったバカがいた。本当に自分が好きなことというのは、予め用意された環境に左右されずに、本質的に自発的行為であることが必要である。従って、ゲーセンだとかパチンコだとか、酒、タバコ、もちろん禁止薬物も。それらは全て外部から与えられる快楽である。そんなものにどんなにハマっても、本質的な自発的行為ではないのである。だからこそ「むしゃくしゃ。」という脳の飢餓状態を招くのである。

 多数他人からどのような評価を受けようとも、本当に自分が好きな行為というものは、それだけで満足できるものなのである。それをどのようにしたら見つけられるか、それはもはや「やってみるしかない。」のである。科学実験と同じで、何が自分にとって本当に楽しい純粋行為であるのかは、自分自身で試してみる以外に見つけられるものではない。

 小柴昌俊が言うように「ある程度やってみなくては、わからない。ある程度やってみれば、最初は面白そうだと思って始めてみたが、なんとなく飽きてきた。とか。他人が行っているのを見て、下らないと思っていたが、意外と楽しい。そういうことは、あれこれ探してみるしかない。」のである。

 学習塾だかのTVCMで、「やる気スイッチ。」なるものを押された学生が暴走するCMがあるが。環境依存的にやる気を促されても、それは環境を失えば暴走しか促さない。秋葉原の通り魔の学生時代の学力の高さとは、強迫観念的に促された、いわば「他発的。」な学力に過ぎず。そこから本質的な自律判断は養われることはないのである。

 チンパンジーの瞬間記憶能力であっても、エサを出さずに問題だけ出しておけば、チンパンジーは怒り狂って暴れるだけである。通り魔とは、どんなに学力が高くても、本質的にはチンパンジーと同レベルの知能しかないのである。

 別に高学歴な人間に妬みを抱いているわけではない。学力の根拠が本質的な自発性によるものでない場合、そこから何も新しいものは出てこないことを証明しているだけである。




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信頼。

2011年03月09日 08時33分06秒 | 意識論関連
 山岸俊男などが行う社会心理学というのは、あくまでヒトという種の生物の傾向性や習性を多数抽出するだけの結果論に過ぎない。

 山岸らの実験において、信頼関係が成立するのは衆人環視環境下での結果論でしかなく。どんなに沢山の特定環境下での結果論を枚挙しても、それがヒトという種の生物における普遍的な性質であることの証明にはなっていないのである。

 基本的に現在の生物学というのは、単なる無為な傾向性という結果論の多数抽出と、意識的な自律的行動選択による目的との区別が全くついていないばかりか。むしろ多数抽出の結果こそが目的であるという非論理的な観念に基づき構築されてしまっているのである。

 こうした構築性というものは、むしろ生物学的な社会形成習性によって強化されるため。北朝鮮よろしく保身のための体制維持だけが目的となるのである。

 山岸の論じる「信頼の構造。」というのは、特定環境下における結果論を並べることによって、あたかも権威を盲目的に信頼することを正当化できたかのように大衆に刷り込み学習させようとする試みである。

 要するに山岸は自分の権威性を担保するための詭弁として、権威を盲目的に信頼することを強迫観念的に強制しようとしているだけである。

 所詮は糸井重里も単なる世間からのウケ狙いが目的なだけであって。精密検証性も批判精神もない、単なる文系の観念を並べているだけなのである。



 私の論ずる意識論は、他人との共感や共鳴を求めるためのものではない。むしろ精密検証によってペテンを暴くことが目的である。それは権威性のみならず、権威に対して無批判な大衆に対しても批判的であるため。大衆人気が得られないのは当然であろう。

 それを「イタい。」だとか形容しても無意味である。「イタい。」と思っているその根拠とは、単なる大衆的な観念に過ぎないからである。どんなに多数抽出的に「イタい。」という主観を枚挙しても、そこに論理的な根拠など一切存在しないからである。









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