本質的な自発性というものは、その思考過程において環境依存性の影響を受けにくい。
田中耕一が質量分析計の研究をしていたとき、多くの研究者は諦めてしまった。どんなにたくさんの実験をしても、全く手掛かりさえ見つからなかった為。どうせ続けても評価なんぞ得られそうにないって「思って。」、諦めてしまった方が気分的に楽だった。だから多くの研究者は質量分析計の研究から手を引いてしまった。
田中が研究を続けたのは、「できるかどうかがわからない。」から続けたのであり。それは同時に「できないことの証明もない。」から続けたということでもある。こういった執念にも似た熱心さというのは、本質的自発性がなければ発揮されることはない。
田中はいわゆる研究バカである。研究室に閉じこもって、朝から晩まで実験機械に囲まれているのが楽しくて仕方ないという「変人。」である。だからノーベル賞を獲っても実験をやめる気は一切ない。
成績評価を抽象化した「エサ。」として獲得した学力だけでは、成績評価をおこなう他者の存在が不可欠であり。この他者の存在なくしてそれ以上のいかなる能力も発揮されることはない。教えられたことが間違っていても、間違ったまま憶えなければ成績評価にならないからである。たとえ間違っていることに気付いたとしても、その間違いを指摘しても評価されそうにないと決め付け、多数他人の意見に迎合して、一切精密検証性も発揮されることはないし。また、それに伴う批判精神も発揮されえない。
チンパンジー同様に、与えられて発揮される能力以外の何も発揮されることはないが。逆に与えられて発揮される能力は異常に高いのである。
チンパンジーの瞬間記憶能力が異常に高いのは。エサに対する異常なまでの固執と、それ以外への意識の働きが全く存在しないことによる異常なまでの集中性によるものである。
千住鎮夫の教育方針として、「脳にとって最も重要なのは集中である。」という部分がある。だが、千住の教育方針の最も重要なのは、「集中を最も促すのは、好きなことである。」という部分なのである。
自分の本当に好きなこと、本当に自発的にやりたいことでなければ、本当の集中力というものは発揮されない。
この話になると必ず出てくる話が「褒められることが大好き。」という話である。こうなると先天的にバカなんじゃないかと思うのだが、大乗仏教よろしくバカの一言で片付けてしまうのは慈悲に欠けるので、一応話を続ける。
千住一家の一番バカなのが長男の博である。千住博は子供の時、壁に落書きをしていた時に父親に見つかり、その時落書きをやめたという。
「落書きを見つかれば、叱られるものである。」と、わかっていながら落書きをしていたからに他ならないのだが。父親の鎮夫は「なぜ、描くことをやめた。」と言ったそうである。そしてこう続けた、「自分が良いと思うことであれば、他人の目を気にせず全うしなさい。」と。
この話をNTVのバラエティー番組で取り上げたとき、司会の島田伸□は「こんなんは、天才一家のやることであって。俺ら凡人には関係ない。」と言った。聞き慣れない話、難しそうな話、自分ができなかった、しなかった事柄に対して、既にやらなかった自分の行動を事後正当化する形式で、論理的根拠もなく観念的に否定することで気分的に安心するのである。
「褒められないとできない。」というのは、要するに「甘え。」ているだけである。哺乳類などの養育の必要な生物の習性として、他者からの認証、他者からの評価といったものへの本能的な快楽、固執というものは。いわば運命論的な呪縛である。
運命であるなら、もはや抗うことは不可能であると、バカな哲学マニアはいうであろう。先天的に組み込まれた行動であるなら、もはやそれ以外の一切の行動選択は不可能であると言うであろう。だが、それらの「言い訳。」の類には一切の論理的根拠はない。
先天的に組み込まれた行動習性、本能が促す行動というものは、それらは自己自身が意識的に選択したものではない。だが、選択したものではないからこそ、習性や本能というものを自律的に抑制し、本質的合理性判断を行って、初めて本質的「自己。」ということができるのである。それで初めて「人間。」としての意識、知能であるということができるのである。
それはノーベル賞だとかの社会的評価とは全く関係のないものであり。無名の人であっても自律的に公益倫理的判断を行えれば、それは「人間としての知能。」を持っているということなのである。
社会の大多数は無名の人である。その大多数の人によって社会というものは成立していることを、多くのヒトは忘れている。社会はノーベル賞受賞者などの社会的に評価を得た者によって作られているのではなく、無名の大多数の民衆の自律によって成立しているのである。
こうした社会を破壊するのは、社会的評価や報酬にしか興味を持たない自律のない人間である。
養老孟司がやたらと「世間が。」云々持ち出すのは、本質的には自発的な選択をほとんどしなかったことに対する恨み、ルサンチマンをぶちまけているからである。また、そうした恨みに共鳴しているバカが少なからずいることも事実である。
こうしたバカが、社会の半数を超えているなら、もはや本質的意識云々という話は無意味であろう。「猫の耳に念仏。」であるからだ。
しかし、養老だのニーチェだのといった自己満足のまどろみに浸る快楽を促すオカルトを、オカルトであると認識できれば、その限りではない。
残念ながら、私はキリスト様でもお釈迦様でもないので。この世のバカのいちいちを面倒看るつもりはない。自分のことは自分でなんとかするための意識論である。私は私のこと以外の誰も面倒看るつもりはない。
何の話だったか、本質的自発性の話だった。
それならなぜ、この記事冒頭で田中耕一を挙げたのか。それはノーベル賞のような画期的発見や発明というものは、自発的な研究でなければ成しうることが極めて稀であるからである。
環境依存的に評価報酬ばかりを「目的。」とする限り、そこには本質的自発性も、それに伴う本質的集中力も発揮されない。そこには研究自体に目的意識が存在しないからである。
業績のねつ造などの、嘘が生じるのは。研究内容自体が目的なのではなく、研究に成功して評価されることが目的であるからだ。
これらは環境依存性の結果であるが、田中の業績は非環境依存性の目的の結果である。
社会的な評価というのは、どちらにせよ結果論でしかないので。それ自体に意味があるわけではない。
ねつ造やペテンというのは、公費を用いて研究する上において損失、無駄にしかならない。社会的には「お荷物。」でしかないのである。原発の事故など大損害ではないか。
「絶対に安全。」と標榜していたのであるから、セシウム137をばら撒いた時点で嘘ペテンなのである。「想定外。」などというのも、全く言い訳にはなっていない。あらゆる想定に基づいて安全性を確保しても、安全性に「絶対。」などということは原理的に不可能なのであり、嘘以外の何物でもないのである。
こうした嘘を平気で言い張れるような、本質的自発性のない人間というのは、脳が常に「餓えて。」いるため。他人からの評価に「餓えて。」いるため。過剰な利益を要求する傾向がある。それゆえ利己的な行動を採るのである。
それに対して、自発的に研究に没頭する者であれば、研究自体で脳が満たされているため、外見上禁欲的に見えるし、事実、社会的には禁欲的なのである。
自発的研究であれば、研究自体への貪欲さを発揮出来ることによって。それ以外の社会的な成功とか、評価報酬といった結果論には興味が薄いため。ねつ造やペテンといった嘘をつくことがないのである。
さらに、評価報酬や社会的認知などに興味がないので、評価されない領域であっても怯まず研究に没頭するのである。その結果、多くの凡人が成し得ない先端の研究成果にまで到達することがあるのだ。
研究職のように、評価が重要な職業でなくても。例えばパン屋が、安全で美味しいパンを毎日作り続けることには。社会的な評価はさして得られることはない。多少売上が多くても、パン屋の収入には限度がある。従って、無名の一般人にとって、社会的成功とか過剰な評価というものは無縁であり。こうした無名の人達の日々の地道な積み重ねによって、社会というものが成立しているのである。
過剰な評価報酬を求めない禁欲さ無しに、社会は成り立たないのである。
ましてやエネルギーが有限であることが露見したこれからの社会において、過剰な欲望による社会的負担は一切必要ないのである。
自分の中の欲望というものを、一体何に注ぎ込むことが、自分にとって重要であるか。それがわかれば、自分が生きることの意味にもなり。その意味がわかれば、結果的に多数他人の生活のことも大切にすることができるようになるのである。
自分のことを大切にできなければ、他人のことも大切にはできない。
これは「定理。」である。通り魔が、「俺のような人間は、死刑になったらいいんじゃ。」などと言い張るのは、自分のことを大切に思えないからこそ通り魔という自暴自棄な行動へと駆り立てられてしまうのであり。こうした本質的自発性の欠落こそがバカへの近道なのである。
小さな子供をテーブルの前に座らせ、目の前にその子供が大好きなお菓子を置いて、「食べてはいけませんよ。」と言い付けておいて、部屋に一人で放置しておく。
こうした人体実験が行われたことがあるのだが。私個人としては子供とは言え当人に内緒でビデオ撮影を一般公開するのは失礼であると思うのだが。とにかく、この実験において、目の前のお菓子に手をつけなかった子供というのは、「一人遊び。」ができるかどうかが別れ目となった。
自分の欲望を、自分で抑えられるのは、そこに自発的な楽しみが見つけられるかどうかにかかっているのである。「子供の話でしょ。」と思うであろうが、ヒトという種の生物である以上、大人でも基本的には同じことである。
一人遊びとか、一人で研究に没頭するというと。大衆の観念的には「根が暗い。」とか「気持ち悪い。」などと勝手に想像するだろうが。そんな大衆凡民の観念など、「豚小屋の正義。」であると切り捨てる。
「みんなで仲良く集団レイプ。」が「明るい。」行動なのか。「仲間で楽しく振り込め詐欺。」が「気持ち悪くない。」とでもいうのか。
「くらたま。」などのアラサー女の多くが、こうした下らない観念を振り回すのである。大脳辺縁系の活動が活発になっているので、本能的な行動習性としての社会形成習性が促す集団行動性を正当化するために。根拠のない観念を振り回して満足したいのである。
私にしてみれば、「お前らみたいなケダモノの観念こそが気持ち悪いんじゃ。」と、言いたい。まあ、これは個人的な感情論なので無視して構わないのだが。
女性の場合、40歳前後に大脳辺縁系の活動が活発になるため。それまでの活動の活発でなかった年代には、本能のおもむくままに生きていても概ね問題が起こらなかったという経験上の無意識な「学習。」によって、本能的な行動こそが人間性であると勝手に勘違いしているのである。
女性の「オバタリアン。」的な行動というものは、三十代前半まではほとんど発揮されず。それ以降急激にケダモノ化が進むのである。従ってケダモノの論理に耳を貸してはいけない。アラサー女というのは養老とかと一緒で丸め込むことに関して天才的というか、異常なまでの執着を発揮するからである。それこそ「だって、みんなそうじゃない。」などという多数決的な安心感を用いて、それ以外の選択が絶対に不可能であるかような観念を振り回すからである。女性は若くても集団性が強く、集団でいることが観念的に安心なのである。
その意味において、養老は「フェミニスト。」なのである。養老がやたらと「世間。」を気にするのは、養老の生物学的な社会形成習性が強力であるために。「世間。」に迎合していないといられなかった自分を事後正当化するために、恨み、ルサンチマンを振り回しているのである。
養老は文系の人間としか話をしたがらない。文系の人間というのは、要するに論理的に考えられないから文系なのであり。そうでないと養老は自分の観念に丸め込むことができないことを学習したからである。
自発的研究テーマを持っている者であっても、こうした構造については認識していない人間は少なくない。そもそも自発的研究内容だけしか興味がないような人間であるために、生物学的な社会形成習性自体に興味もなく、人畜無害であると思っているらしい。脳外科医で有名な福島孝徳氏なども、そうした一人であろう。
研究というものは本来孤独なものである。大多数に迎合していれば、気分的には安心していられるだろうが。そこから新しい発見というものは出てこないのである。「ハーメルンの笛吹き。」に、大衆の多くはつられてしまう。ヒトの大脳辺縁系は、そういう風にできているからである。それを止められるのは大脳新皮質の容積に由来する。大脳新皮質を使いたくないというのならば、それが大脳の萎縮を招き、認知症に陥るのも必然というものである。
論理的反証があるなら、いくらでもかかってきなさい。コメント欄は解放してある。二度と立ち直れないくらい徹底して論破して差し上げよう。それでも挑むくらいの気概が、今の人には欠けている。
大学生の中には、学食で一人で食事を摂ることを脅迫神経症的に拒絶する人がいるという。あなたは学食で一人で食事をしている人を見て、「あの人は、一緒に食事をする人もいないような淋しい人だ。」などといちいち気にするのか。それとも仲間内でそんなことをコソコソ共有して楽しいのか。そんな他人の噂話をコソコソ共有することが陰湿であるとは思わないのか。どうなんだ。それとも、そんなことは一切考えたこともなしに、何となく強迫観念的に一人で食事を摂ることもできないのか。それが大学に合格しただけの「知能。」の結論なのか。
結局は、大学入試に合格できても、単にそれだけのことだったのである。どんなに学力成績が高くても、それは極めて限定的な能力基準でしかなく。全く自発的な思考などできない憐れな存在なのである。脳トレ類と一緒で、何の役にも立たないばかりか。むしろ封建的な年功序列制度の迎合的な歯車の一つに成り下がることしかできないのである。それこそが本当の成果というものを蔑ろにする害悪であることには、一切気付くこともできず。ただ既に存在する社会に迎合するだけの小市民でしかないのである。
それが人畜無害なものであると思ったら大間違いである。アウシュビッツ絶滅収容所のアドルフ:アイヒマン中佐の行動原理と同じものであることを、ゆめゆめ忘れてはいけない。
田中耕一が質量分析計の研究をしていたとき、多くの研究者は諦めてしまった。どんなにたくさんの実験をしても、全く手掛かりさえ見つからなかった為。どうせ続けても評価なんぞ得られそうにないって「思って。」、諦めてしまった方が気分的に楽だった。だから多くの研究者は質量分析計の研究から手を引いてしまった。
田中が研究を続けたのは、「できるかどうかがわからない。」から続けたのであり。それは同時に「できないことの証明もない。」から続けたということでもある。こういった執念にも似た熱心さというのは、本質的自発性がなければ発揮されることはない。
田中はいわゆる研究バカである。研究室に閉じこもって、朝から晩まで実験機械に囲まれているのが楽しくて仕方ないという「変人。」である。だからノーベル賞を獲っても実験をやめる気は一切ない。
成績評価を抽象化した「エサ。」として獲得した学力だけでは、成績評価をおこなう他者の存在が不可欠であり。この他者の存在なくしてそれ以上のいかなる能力も発揮されることはない。教えられたことが間違っていても、間違ったまま憶えなければ成績評価にならないからである。たとえ間違っていることに気付いたとしても、その間違いを指摘しても評価されそうにないと決め付け、多数他人の意見に迎合して、一切精密検証性も発揮されることはないし。また、それに伴う批判精神も発揮されえない。
チンパンジー同様に、与えられて発揮される能力以外の何も発揮されることはないが。逆に与えられて発揮される能力は異常に高いのである。
チンパンジーの瞬間記憶能力が異常に高いのは。エサに対する異常なまでの固執と、それ以外への意識の働きが全く存在しないことによる異常なまでの集中性によるものである。
千住鎮夫の教育方針として、「脳にとって最も重要なのは集中である。」という部分がある。だが、千住の教育方針の最も重要なのは、「集中を最も促すのは、好きなことである。」という部分なのである。
自分の本当に好きなこと、本当に自発的にやりたいことでなければ、本当の集中力というものは発揮されない。
この話になると必ず出てくる話が「褒められることが大好き。」という話である。こうなると先天的にバカなんじゃないかと思うのだが、大乗仏教よろしくバカの一言で片付けてしまうのは慈悲に欠けるので、一応話を続ける。
千住一家の一番バカなのが長男の博である。千住博は子供の時、壁に落書きをしていた時に父親に見つかり、その時落書きをやめたという。
「落書きを見つかれば、叱られるものである。」と、わかっていながら落書きをしていたからに他ならないのだが。父親の鎮夫は「なぜ、描くことをやめた。」と言ったそうである。そしてこう続けた、「自分が良いと思うことであれば、他人の目を気にせず全うしなさい。」と。
この話をNTVのバラエティー番組で取り上げたとき、司会の島田伸□は「こんなんは、天才一家のやることであって。俺ら凡人には関係ない。」と言った。聞き慣れない話、難しそうな話、自分ができなかった、しなかった事柄に対して、既にやらなかった自分の行動を事後正当化する形式で、論理的根拠もなく観念的に否定することで気分的に安心するのである。
「褒められないとできない。」というのは、要するに「甘え。」ているだけである。哺乳類などの養育の必要な生物の習性として、他者からの認証、他者からの評価といったものへの本能的な快楽、固執というものは。いわば運命論的な呪縛である。
運命であるなら、もはや抗うことは不可能であると、バカな哲学マニアはいうであろう。先天的に組み込まれた行動であるなら、もはやそれ以外の一切の行動選択は不可能であると言うであろう。だが、それらの「言い訳。」の類には一切の論理的根拠はない。
先天的に組み込まれた行動習性、本能が促す行動というものは、それらは自己自身が意識的に選択したものではない。だが、選択したものではないからこそ、習性や本能というものを自律的に抑制し、本質的合理性判断を行って、初めて本質的「自己。」ということができるのである。それで初めて「人間。」としての意識、知能であるということができるのである。
それはノーベル賞だとかの社会的評価とは全く関係のないものであり。無名の人であっても自律的に公益倫理的判断を行えれば、それは「人間としての知能。」を持っているということなのである。
社会の大多数は無名の人である。その大多数の人によって社会というものは成立していることを、多くのヒトは忘れている。社会はノーベル賞受賞者などの社会的に評価を得た者によって作られているのではなく、無名の大多数の民衆の自律によって成立しているのである。
こうした社会を破壊するのは、社会的評価や報酬にしか興味を持たない自律のない人間である。
養老孟司がやたらと「世間が。」云々持ち出すのは、本質的には自発的な選択をほとんどしなかったことに対する恨み、ルサンチマンをぶちまけているからである。また、そうした恨みに共鳴しているバカが少なからずいることも事実である。
こうしたバカが、社会の半数を超えているなら、もはや本質的意識云々という話は無意味であろう。「猫の耳に念仏。」であるからだ。
しかし、養老だのニーチェだのといった自己満足のまどろみに浸る快楽を促すオカルトを、オカルトであると認識できれば、その限りではない。
残念ながら、私はキリスト様でもお釈迦様でもないので。この世のバカのいちいちを面倒看るつもりはない。自分のことは自分でなんとかするための意識論である。私は私のこと以外の誰も面倒看るつもりはない。
何の話だったか、本質的自発性の話だった。
それならなぜ、この記事冒頭で田中耕一を挙げたのか。それはノーベル賞のような画期的発見や発明というものは、自発的な研究でなければ成しうることが極めて稀であるからである。
環境依存的に評価報酬ばかりを「目的。」とする限り、そこには本質的自発性も、それに伴う本質的集中力も発揮されない。そこには研究自体に目的意識が存在しないからである。
業績のねつ造などの、嘘が生じるのは。研究内容自体が目的なのではなく、研究に成功して評価されることが目的であるからだ。
これらは環境依存性の結果であるが、田中の業績は非環境依存性の目的の結果である。
社会的な評価というのは、どちらにせよ結果論でしかないので。それ自体に意味があるわけではない。
ねつ造やペテンというのは、公費を用いて研究する上において損失、無駄にしかならない。社会的には「お荷物。」でしかないのである。原発の事故など大損害ではないか。
「絶対に安全。」と標榜していたのであるから、セシウム137をばら撒いた時点で嘘ペテンなのである。「想定外。」などというのも、全く言い訳にはなっていない。あらゆる想定に基づいて安全性を確保しても、安全性に「絶対。」などということは原理的に不可能なのであり、嘘以外の何物でもないのである。
こうした嘘を平気で言い張れるような、本質的自発性のない人間というのは、脳が常に「餓えて。」いるため。他人からの評価に「餓えて。」いるため。過剰な利益を要求する傾向がある。それゆえ利己的な行動を採るのである。
それに対して、自発的に研究に没頭する者であれば、研究自体で脳が満たされているため、外見上禁欲的に見えるし、事実、社会的には禁欲的なのである。
自発的研究であれば、研究自体への貪欲さを発揮出来ることによって。それ以外の社会的な成功とか、評価報酬といった結果論には興味が薄いため。ねつ造やペテンといった嘘をつくことがないのである。
さらに、評価報酬や社会的認知などに興味がないので、評価されない領域であっても怯まず研究に没頭するのである。その結果、多くの凡人が成し得ない先端の研究成果にまで到達することがあるのだ。
研究職のように、評価が重要な職業でなくても。例えばパン屋が、安全で美味しいパンを毎日作り続けることには。社会的な評価はさして得られることはない。多少売上が多くても、パン屋の収入には限度がある。従って、無名の一般人にとって、社会的成功とか過剰な評価というものは無縁であり。こうした無名の人達の日々の地道な積み重ねによって、社会というものが成立しているのである。
過剰な評価報酬を求めない禁欲さ無しに、社会は成り立たないのである。
ましてやエネルギーが有限であることが露見したこれからの社会において、過剰な欲望による社会的負担は一切必要ないのである。
自分の中の欲望というものを、一体何に注ぎ込むことが、自分にとって重要であるか。それがわかれば、自分が生きることの意味にもなり。その意味がわかれば、結果的に多数他人の生活のことも大切にすることができるようになるのである。
自分のことを大切にできなければ、他人のことも大切にはできない。
これは「定理。」である。通り魔が、「俺のような人間は、死刑になったらいいんじゃ。」などと言い張るのは、自分のことを大切に思えないからこそ通り魔という自暴自棄な行動へと駆り立てられてしまうのであり。こうした本質的自発性の欠落こそがバカへの近道なのである。
小さな子供をテーブルの前に座らせ、目の前にその子供が大好きなお菓子を置いて、「食べてはいけませんよ。」と言い付けておいて、部屋に一人で放置しておく。
こうした人体実験が行われたことがあるのだが。私個人としては子供とは言え当人に内緒でビデオ撮影を一般公開するのは失礼であると思うのだが。とにかく、この実験において、目の前のお菓子に手をつけなかった子供というのは、「一人遊び。」ができるかどうかが別れ目となった。
自分の欲望を、自分で抑えられるのは、そこに自発的な楽しみが見つけられるかどうかにかかっているのである。「子供の話でしょ。」と思うであろうが、ヒトという種の生物である以上、大人でも基本的には同じことである。
一人遊びとか、一人で研究に没頭するというと。大衆の観念的には「根が暗い。」とか「気持ち悪い。」などと勝手に想像するだろうが。そんな大衆凡民の観念など、「豚小屋の正義。」であると切り捨てる。
「みんなで仲良く集団レイプ。」が「明るい。」行動なのか。「仲間で楽しく振り込め詐欺。」が「気持ち悪くない。」とでもいうのか。
「くらたま。」などのアラサー女の多くが、こうした下らない観念を振り回すのである。大脳辺縁系の活動が活発になっているので、本能的な行動習性としての社会形成習性が促す集団行動性を正当化するために。根拠のない観念を振り回して満足したいのである。
私にしてみれば、「お前らみたいなケダモノの観念こそが気持ち悪いんじゃ。」と、言いたい。まあ、これは個人的な感情論なので無視して構わないのだが。
女性の場合、40歳前後に大脳辺縁系の活動が活発になるため。それまでの活動の活発でなかった年代には、本能のおもむくままに生きていても概ね問題が起こらなかったという経験上の無意識な「学習。」によって、本能的な行動こそが人間性であると勝手に勘違いしているのである。
女性の「オバタリアン。」的な行動というものは、三十代前半まではほとんど発揮されず。それ以降急激にケダモノ化が進むのである。従ってケダモノの論理に耳を貸してはいけない。アラサー女というのは養老とかと一緒で丸め込むことに関して天才的というか、異常なまでの執着を発揮するからである。それこそ「だって、みんなそうじゃない。」などという多数決的な安心感を用いて、それ以外の選択が絶対に不可能であるかような観念を振り回すからである。女性は若くても集団性が強く、集団でいることが観念的に安心なのである。
その意味において、養老は「フェミニスト。」なのである。養老がやたらと「世間。」を気にするのは、養老の生物学的な社会形成習性が強力であるために。「世間。」に迎合していないといられなかった自分を事後正当化するために、恨み、ルサンチマンを振り回しているのである。
養老は文系の人間としか話をしたがらない。文系の人間というのは、要するに論理的に考えられないから文系なのであり。そうでないと養老は自分の観念に丸め込むことができないことを学習したからである。
自発的研究テーマを持っている者であっても、こうした構造については認識していない人間は少なくない。そもそも自発的研究内容だけしか興味がないような人間であるために、生物学的な社会形成習性自体に興味もなく、人畜無害であると思っているらしい。脳外科医で有名な福島孝徳氏なども、そうした一人であろう。
研究というものは本来孤独なものである。大多数に迎合していれば、気分的には安心していられるだろうが。そこから新しい発見というものは出てこないのである。「ハーメルンの笛吹き。」に、大衆の多くはつられてしまう。ヒトの大脳辺縁系は、そういう風にできているからである。それを止められるのは大脳新皮質の容積に由来する。大脳新皮質を使いたくないというのならば、それが大脳の萎縮を招き、認知症に陥るのも必然というものである。
論理的反証があるなら、いくらでもかかってきなさい。コメント欄は解放してある。二度と立ち直れないくらい徹底して論破して差し上げよう。それでも挑むくらいの気概が、今の人には欠けている。
大学生の中には、学食で一人で食事を摂ることを脅迫神経症的に拒絶する人がいるという。あなたは学食で一人で食事をしている人を見て、「あの人は、一緒に食事をする人もいないような淋しい人だ。」などといちいち気にするのか。それとも仲間内でそんなことをコソコソ共有して楽しいのか。そんな他人の噂話をコソコソ共有することが陰湿であるとは思わないのか。どうなんだ。それとも、そんなことは一切考えたこともなしに、何となく強迫観念的に一人で食事を摂ることもできないのか。それが大学に合格しただけの「知能。」の結論なのか。
結局は、大学入試に合格できても、単にそれだけのことだったのである。どんなに学力成績が高くても、それは極めて限定的な能力基準でしかなく。全く自発的な思考などできない憐れな存在なのである。脳トレ類と一緒で、何の役にも立たないばかりか。むしろ封建的な年功序列制度の迎合的な歯車の一つに成り下がることしかできないのである。それこそが本当の成果というものを蔑ろにする害悪であることには、一切気付くこともできず。ただ既に存在する社会に迎合するだけの小市民でしかないのである。
それが人畜無害なものであると思ったら大間違いである。アウシュビッツ絶滅収容所のアドルフ:アイヒマン中佐の行動原理と同じものであることを、ゆめゆめ忘れてはいけない。