本質的な「人間としての知能。」、すなはち公益倫理的自律行動判断というものは。社会的な報酬や評価といった表面的な成功とは無関係なものである。
浅薄な大衆迎合的意識、いわば漠然とした怠惰な一般大衆の観念的意識、無意識にとって。公益倫理的自律行動選択というものは、無意識的な気分、情動を満たすことのできない評価の低いものである。
しかし、公益倫理的自律行動選択を誰も行わない社会というものは。実際には誰も望まない社会でもある。大衆の茫漠とした意識、観念の上においては。社会的責任を負った人だけが公益倫理的自律行動判断を行えば良いと、勝手に思い込んでいる。
アイヒマン実験において、騙されたことを自分の意識の低さが原因ではないと主張する被験者は。「権威に従っておきさえすれば、自分の行動責任など無用である。」とアプリオリに信じ込んでいるからである。このアプリオリな観念は、ヒトの生物学的な社会形成習性に由来する盲目性によって生み出されるものである。
自己の感情を自己自身で制御できないヒトの場合。論証が気分的に気に入らない場合に、論理性を無視して、感情のおもむくままに固定的観念の殻の中に逃げてしまうため。非合理的な観念から抜け出すことができなくなってしまうのである。
アスペクト盲などの盲目性の発生には、ヒトの大脳辺縁系に組み込まれたシーケンシャルな習性、傾向性による。思考を過剰に整理するスパイラルが存在するからである。
心理臨床においては、凝り固まった固定観念のヒステリーから患者を救い出すために。相手との感情的な信頼関係を必要とする。だが、これは自律的には回復の見込みのない「患者。」すなはち「病人。」に対する処置であって。科学的理論において、こうした気分的な「丸め込み。」をする必要性はない。
私の意識論を苦々しく思っている脳科学者や生物学者、哲学者達というのは。こうした病人であるが故に受け入れることができないばかりか、観念的な反論風味の言い訳、取り繕いを繰り返すのである。
認知症の初期段階においても、こうした「取り繕い。」が、しばしば見られる。本質的意識を感情的に拒絶するというのは、いわば大脳新皮質を使うことを拒絶していることと同じであるから。大脳が萎縮することも当然の帰結なのである。
養老孟司や茂木健一郎には、これといった業績はない。単に大衆のご機嫌をとったか、あるいは大衆観念的な知能論に基づく暗記術などの「コツ。」を並べて人気を得ているだけである。どんなに大量の知識を暗記しても、本質的知能は養われない。むしろ知識の「量。」を増やすことに意識を奪われ、本質的意識による「気付き。」は失われることになる。その結果が大人気でありながら殆ど効果のない脳トレ類の蔓延を許したのである。
誰一人として公益倫理的自律判断をしない、誰も自分の行動責任を取らない社会など。誰一人として望まないはずでありながら、なぜ、大衆は自分達の行動責任を放棄しようとするのか。
この話をすると、大抵出てくる話が、「自分一人だけが自律的に責任感を持って行動しても、社会にさして影響はない。」というものである。
もちろん、たった一人だけが自律的に行動責任を行っても。それは社会全体にとっての影響はごく僅かであろう。しかし、より多くの人が自律的に行動責任を行わなければ、社会はいずれ崩壊の一徒を辿ることに異論はなかろう。
それならば、選択の余地など最初からないのである。
無責任な人間は、社会の中に少なからず存在する。だからといって、社会全ての人が無責任であることの証明にはならない。むしろ、多くの人が無責任ではないからこそ、社会は安定しているのである。
怠惰な人間というのは、その他人の責任性の上にあぐらをかいているのと同じである。
それを土居健朗は「甘え。」と言った。それは哺乳類などに普遍的に見られる行動習性の結果である。
無意識的な習性に流されていると、結果的に自己に対する嫌悪によって、良心が痛むのである。悪人と善人の脳に、容積や構造の違いは存在しない。それなら、悪人にも善人と同様の良心が存在しても、おかしくはない。ただ、大脳辺縁系のシーケンスがそれを阻害しているだけのことである。
これを読んだからといって、悪人が翌日から突然善人になるとは思わない。むしろ悪人というのは感情を刺激すると、ますます悪人の殻の中に逃げ込むものである。それは病気だからである。
何度も言うが、私は心理臨床の人間ではない。従って病人の世話をするつもりは一切ない。自分で自分の行動を制御できずに、それを「自由。」だと勘違いするのは簡単である。だがそれは実際には、脳内麻薬の奴隷、ドーパミンに躍らされるだけの憐れなヒトでしかない。
「それで構わない、上等だ。」というのならば、私の知ったことではない。だが、そうした殻の中に閉じ篭っていれば、必ず精神を病んで心療内科に駆け込むことになる。だが、残念なことに心理臨床において本質的意識を取り戻すためのマニュアルは存在しない。精々表面的な感情を抑制するために向精神薬などを処方されるだけであろう。それは根本的な治療にはならないのである。
虐待を連鎖する人が、自分の行動を自律的に抑制することが困難なのと同様。長い間の人生で刷り込み「学習。」されてしまった無意識的行動習性に抗うことは、精神的困難が伴う。しかし、最終的に自分を救うのは自分だけなのである。
私が行うことが出来るのは、その道程を指し示すことだけである。進むのは私ではない。その「道。」とは、それぞれの個人におけるものであるからだ。
浅薄な大衆迎合的意識、いわば漠然とした怠惰な一般大衆の観念的意識、無意識にとって。公益倫理的自律行動選択というものは、無意識的な気分、情動を満たすことのできない評価の低いものである。
しかし、公益倫理的自律行動選択を誰も行わない社会というものは。実際には誰も望まない社会でもある。大衆の茫漠とした意識、観念の上においては。社会的責任を負った人だけが公益倫理的自律行動判断を行えば良いと、勝手に思い込んでいる。
アイヒマン実験において、騙されたことを自分の意識の低さが原因ではないと主張する被験者は。「権威に従っておきさえすれば、自分の行動責任など無用である。」とアプリオリに信じ込んでいるからである。このアプリオリな観念は、ヒトの生物学的な社会形成習性に由来する盲目性によって生み出されるものである。
自己の感情を自己自身で制御できないヒトの場合。論証が気分的に気に入らない場合に、論理性を無視して、感情のおもむくままに固定的観念の殻の中に逃げてしまうため。非合理的な観念から抜け出すことができなくなってしまうのである。
アスペクト盲などの盲目性の発生には、ヒトの大脳辺縁系に組み込まれたシーケンシャルな習性、傾向性による。思考を過剰に整理するスパイラルが存在するからである。
心理臨床においては、凝り固まった固定観念のヒステリーから患者を救い出すために。相手との感情的な信頼関係を必要とする。だが、これは自律的には回復の見込みのない「患者。」すなはち「病人。」に対する処置であって。科学的理論において、こうした気分的な「丸め込み。」をする必要性はない。
私の意識論を苦々しく思っている脳科学者や生物学者、哲学者達というのは。こうした病人であるが故に受け入れることができないばかりか、観念的な反論風味の言い訳、取り繕いを繰り返すのである。
認知症の初期段階においても、こうした「取り繕い。」が、しばしば見られる。本質的意識を感情的に拒絶するというのは、いわば大脳新皮質を使うことを拒絶していることと同じであるから。大脳が萎縮することも当然の帰結なのである。
養老孟司や茂木健一郎には、これといった業績はない。単に大衆のご機嫌をとったか、あるいは大衆観念的な知能論に基づく暗記術などの「コツ。」を並べて人気を得ているだけである。どんなに大量の知識を暗記しても、本質的知能は養われない。むしろ知識の「量。」を増やすことに意識を奪われ、本質的意識による「気付き。」は失われることになる。その結果が大人気でありながら殆ど効果のない脳トレ類の蔓延を許したのである。
誰一人として公益倫理的自律判断をしない、誰も自分の行動責任を取らない社会など。誰一人として望まないはずでありながら、なぜ、大衆は自分達の行動責任を放棄しようとするのか。
この話をすると、大抵出てくる話が、「自分一人だけが自律的に責任感を持って行動しても、社会にさして影響はない。」というものである。
もちろん、たった一人だけが自律的に行動責任を行っても。それは社会全体にとっての影響はごく僅かであろう。しかし、より多くの人が自律的に行動責任を行わなければ、社会はいずれ崩壊の一徒を辿ることに異論はなかろう。
それならば、選択の余地など最初からないのである。
無責任な人間は、社会の中に少なからず存在する。だからといって、社会全ての人が無責任であることの証明にはならない。むしろ、多くの人が無責任ではないからこそ、社会は安定しているのである。
怠惰な人間というのは、その他人の責任性の上にあぐらをかいているのと同じである。
それを土居健朗は「甘え。」と言った。それは哺乳類などに普遍的に見られる行動習性の結果である。
無意識的な習性に流されていると、結果的に自己に対する嫌悪によって、良心が痛むのである。悪人と善人の脳に、容積や構造の違いは存在しない。それなら、悪人にも善人と同様の良心が存在しても、おかしくはない。ただ、大脳辺縁系のシーケンスがそれを阻害しているだけのことである。
これを読んだからといって、悪人が翌日から突然善人になるとは思わない。むしろ悪人というのは感情を刺激すると、ますます悪人の殻の中に逃げ込むものである。それは病気だからである。
何度も言うが、私は心理臨床の人間ではない。従って病人の世話をするつもりは一切ない。自分で自分の行動を制御できずに、それを「自由。」だと勘違いするのは簡単である。だがそれは実際には、脳内麻薬の奴隷、ドーパミンに躍らされるだけの憐れなヒトでしかない。
「それで構わない、上等だ。」というのならば、私の知ったことではない。だが、そうした殻の中に閉じ篭っていれば、必ず精神を病んで心療内科に駆け込むことになる。だが、残念なことに心理臨床において本質的意識を取り戻すためのマニュアルは存在しない。精々表面的な感情を抑制するために向精神薬などを処方されるだけであろう。それは根本的な治療にはならないのである。
虐待を連鎖する人が、自分の行動を自律的に抑制することが困難なのと同様。長い間の人生で刷り込み「学習。」されてしまった無意識的行動習性に抗うことは、精神的困難が伴う。しかし、最終的に自分を救うのは自分だけなのである。
私が行うことが出来るのは、その道程を指し示すことだけである。進むのは私ではない。その「道。」とは、それぞれの個人におけるものであるからだ。