書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

停電計画に思う。

2011年03月14日 18時33分40秒 | 日記
 東京都の計画停電について、東京電力からロードしたPDFファイルから抜粋してみたが。三鷹市が三つのグループに含まれていたり、23区内も中央、千代田、文京、港、新宿などはどのグループにも含まれていない。

 結構地域によって、エコ贔屓があるようだ。実際には計画された地域においても一部しか停電していないとのこと、できる限りは停電させないようにしているらしい。午後10:00以降は停電計画がないので、据え置きパソコンは夜中にしか使えそうにない。

 東京電力の配布しているPDFファイルによっては、当初、全部で55枚にものぼり、グループ分けも複雑奇っ怪で、「大字通称。」などという地域表記をしているので、一般には理解できないものもあった。

 前の記事に掲載したのは、一般向けに書き直されたPDFファイルから抜粋した。当初配布していたPDFファイルでは、足立区内などでグループ分けが複雑に入り組んでいたため、とても記事にできるものではなかった。

 病院などによっては、都市ガスを用いて緊急発電をするところもあるとのこと、NHKではガスの使用も控えるようにとの報道もある。何だかあらゆるものがギリギリ状態である。

 電気を使わないようにするためにはテレビも出来るだけ見ないようにしているのだが。そうすると今度は情報が入らなくなって、面倒なことになる。この記事を書いているマシンは東芝アンドロイド端末なので、消費電力は極めて少ないので、情報はネットから仕入れることにしている。ネットの場合、こちらから検索などをして探しに行かないと何にも出てこないので、テレビのザッピングなどと異なり自由度はあるのだが、検索するワードが思いつかないと何にも見ることができない。

 現在発売されているようなLED電球とは異なる、熱も出ない代わりに薄ら暗いLED電球を、昔東急ハンズで買ってあったので。それを今使っている。豆電球くらいの明るさしかないのだが、キーボードは一応見えるので、充分だとも言える。

 福島の原発が実質廃棄となった現状、これから電力をどう確保してゆくつもりなんだろう。これから先も、ずっと計画停電をしてゆくのだろうか。私の住む所は第三グループに属するので、昼間から夕方4時まで、いつ停電してもおかしくないらしい。据え置きパソコンの場合はバッテリーがないので停電されるとHDDが破損する恐れもあるので、事実上、昼間は使えない。

 以前から考えていたのだが、人力で発電することも本気で考えた方が良いのではないだろうか。消費電力の小さな機器の場合は、きちんと発電機を作ればそれなりに使えるはずなのだが。携帯電話などの場合は実用化されているようだが、足漕ぎ発電でLED照明を作れば結構な明るさが確保できそうだと思うのだが。


 スーパーに行ったら商品がほとんどなくなってしまっていた。仕入れが滞っているとは言っていたが、時折物凄い買い溜めをしているおばちゃんを見かけるので、一時的なパニックではないかと、まだ楽観している。牛乳は「岩手酪農。」というブランドのものが美味しくてよく買っていたのだが。当然店頭からは姿を消した。被害は津波中心らしいので、海岸沿いに集中しているはずなので、もしかすると牛乳は思った以上に早く復旧するかも知れないが。しばらくは入手不能である。

 パン類の棚が空っぽなのは、製パン工場というのは火を使うために地震が起きるとラインが自動的に停止してしまうからだという。たとえ復旧しても被災地への配送で手一杯で、都内では入手できなくなっているらしい。

 東京と、その近郊は特に被災したわけではないので、品薄状態もそれほど長く続くとは思えない。単なるヒステリーおばちゃんの買い溜めの影響が強いのではないだろうか。

 大脳辺縁系の活動というのは、男性の場合は二十歳前後、女性の場合は四十歳前後にピークとなる。そのため、動物的な行動というのはこうした年齢の人に多く見られる行動である。あまり若い女性がオバタリアン的行動をしないのは、大脳辺縁系の活動が弱いことからくる傾向性である。

 「騒音おばさん。」とかもやはり四十歳前後である。いわゆる暴走族というのは、行動原理的には「騒音おばさん。」と同じものなのである。要するに単なる「騒音お兄ちゃん。」ということであり。大脳辺縁系の活動が活発であるために、「何かしていないと、不安で仕方ない。」のだが、何をして良いのか自分ではわからないので、無意味で非建設的行動に無意識に「整理。」されてしまうのである。

 こうした行動「整理。」というものは、ドーパミンが作り出す常習性のシーケンスによるものであり。一度こうしたシーケンスに囚われると、いつまでも固執することに陥るのである。

 ヒトというのは、自分が既に行ってしまった行動というものを事後正当化しようとする習性があり。また、外見上の自己同一性に対する強迫観念的な固執もあるため。一度こういった「キャラクター。」として行動してしまうと、恐怖心からやめることが出来なくなってしまうのである。

 ヤクザがヤクザをやめられないのも、結局は「自分は今までそういう生き方しかしたことがないから。」などという「理屈。」しか出てこないのである。その「理屈。」に論理的根拠が存在するかと言えば、そんなことは全く存在しない。

 「それ以外の生き方。」が論理的に「出来ない。」のではなく、単に「恐くてしたくない。」というケツの穴の小ささを露呈しているだけなのだが。そこに気付くことが出来るほど、ヤクザは頭が良くないのである。

 大抵の場合、ヒステリックに怒鳴り散らせば、その場限りには主張が通ることが多いため。暴力団のようなバカの集団に対して迎合してしまう傾向というものが、ヒトにはあるのだ。

 「わかった、わかった。そんなに言うなら。」と言っている時、本当は論理的には「理解。」などしておらず、単に面倒臭いから「観念。」しているだけであって。こうした気分、感情を主体とした行動をとっているから、社会が良くならないのである。

 人間が起こす諸問題というのは、ほとんど全部がこうした「観念。」によって引き起こされるのである。危険学や失敗学といった工学的なアプローチというのは、こうした気分的な「観念。」を客観的に排除することによって行動を論理的に改善することが可能なのである。

 心理臨床の認知行動療法などにおいても、自分の思い込みを理論的、客観的に意識化することによって抑鬱状態を改善することができるのである。

 私が提唱する刑法排除論とは、犯罪においても工学的アプローチによって犯罪を科学的に検証し、再発防止を優先する考えなのである。

 ヒトは間違える。間違えるものであることを前提に考えなければならないのである。間違いを間違いであると認識していないから、同じ間違いを何度も繰り返すのである。それはもはや認知症の症状そのものに他ならない。

 日本人は努力根性辛抱といった、精神論が大好きで。「偉いわね。」とか「頑張ったわね。」といった他人への評価をしていれば、自分を謙虚であると勝手に錯覚する人間が非常に多い。

 生きているのが辛い人に対して脊髄反射で「頑張ってね。」などと簡単に言ってはいけないのである。むしろ頑張ってしまっているから辛いのであるから、「肩の力を抜け。」と言うのが本当の「心。」というものである。自発的に何かに打ち込んでいる人に対して「頑張れ。」というのが正しい使い方なのであるが、変わったことをしている人を見ると、反射的に「つまらないことをするな。」と言ってしまうのである。

 日本人というのは生育環境からの刷り込み学習によって、脊髄反射的に逆のことを言ってしまうのである。これは一種の虐待の連鎖であると考えてよい。

 日本の自殺者が今年も三万人を超えたという。今回の地震によって、この数字はさらに増える可能性が高い。自分の身内が自殺しないようにするためには、まず、自分が他人を自殺に追い込むようなことを言わないことである。

 短絡的にナショナリズムを振り回して、観念的に「日本人は正しい。」などと事後正当化ばかりをしていても、日本人特有の性格の悪さは改善しない。日本人の良い面も、もちろんあるだろう。だが、それはむしろ考えなくて良いことであり。意識しなくて良いことなのである。こういう話をすると、大抵は「何々人よりは良い。」などという比較論が出てくる。比較なんぞしていたら、比較対象によってどうにでも言い逃れは可能なのであり。そんな話は糞の役にも立たない。

 より「良い日本人。」であるためには。無意識的な連鎖、無意識的な反射的行動や言動を意識的にやめることが必要なのである。自殺者が多いことなど何の自慢にもならない。日本の社会を良くしたいのであれば、まず、自分の意識について考えることが大切なのである。自分が無意識に、反射的に行動していないか。発言していないか。思考していないか。そういうことに少しは神経を使って頂きたいものである。

 ヒステリックに「出来ないわよ。」などと言うのは簡単である。それが理論的に不可能であることの証明でもあるのかと言えば、単に気分的にやりたくないという強迫観念的な拒絶反応でしかないことがほとんどである。

 「やりたくない。」で済まされる話と、そうでない話というのがある。大抵の場合、済まされない話ほど、拒絶反応が強いのである。

 認知症というものは、大脳辺縁系だけが活動していて、既に学習された無意識的な反射的行動ばかりに行動や思考が「整理。」されているから、大脳新皮質が萎縮するのである。

 大脳辺縁系は「学習された反射的行動。」しか促さない。それに対して「学習する。」のが意識の働きであり、大脳新皮質の容積というものの優位性は、「生涯学習。」するという意欲、本質的自発性によって培われるのである。

 脳トレみたいなゲームだけやっときゃ認知症にならないなどというペテンに騙されることもなくなるのである。言っておくが、脳トレ類に実質的効果がないという話は、科学誌Natureに掲載される前から私が予言していた話である。この予言というのは霊的な予言なんかではなくて、論理的に学習というものの構造を考えれば導き出せるものである。まあ、そのうちマイケル:サンデルの講義も同じように立証されるであろうから、それまで待つことにしておく。サンデルの講義というものは、ある限定条件の中においてだけ考えさせるものであって。その条件の限定の仕方が「面白い。」だけなのである。従って、どんなにサンデルの講義を受けても、受講者のほとんど全員は自分から何か新しい考えを導き出すようなことは出来ないのである。サンデルの講義は単に「人気がある。」だけであって、認知科学的に「頭が良くなる。」ことの証明があるわけではない。そのことが「意識。」から抜け落ちていることに誰も気付かないのはどうしてなのか。少しは「考えて。」みてはいかがか。

 こういう話をすると、大抵アクセスIPが激減するのであるが。別に私自身も好きで小言を言っている訳ではない。面倒臭いが言わないと仕方がないから言っているのである。誰が好き好んで嫌われるようなことを言うものか。カルト宗教とか占い師みたいに大衆から好まれる話をしておけば、きっと人気を得られるであろう。そんなことに興味はない。




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何ノブイリ?。

2011年03月14日 09時44分36秒 | 日記
 福島第一原発は、当初2号炉の不具合ばかり発表していたが。1号炉や3号炉の重大な不具合を隠蔽していたということなのだろうか。

 あたかも2号炉の冷却システムだけが不具合であるかのように発表していたというのは、情報隠蔽だったようである。

 日本では、地震が多いだけに地熱発電に適した場所が少なからずあるという。地熱発電もしれなりに危険性はあるらしいが、放射線の影響がないだけに暴走したとしても放置できるだけずっと安全なのではないか。

 今それを言ってもしょうがないのだが、原発というのは面倒な代物である。

 計画停電は結局、供給できる限りは供給をやめないことにしたらしい。揚水発電の使用は最終的な調整以外に使わない方が良いのではないかと思うのだが。まあ病院とか電力が命綱の施設もあるから、そうした施設のために個人としては節電を徹底することにしよう。

 一応このマシンも電力使用にはなるので、とっとと落とすことにする。でわまた。
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