書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

差益還元。

2011年03月03日 21時31分10秒 | 日記
 大型スーパーマーケットで、スペイン製のビスケットを買ってきた。「ギュロン。」とかいうウルトラ怪獣みたいな名前のブランドで、¥78-だった。

 景気は悪くても円は強いままなので、こういったものだけは異常に安い。あまりの安さに味はどうなのかと疑ったが、意外と普通においしい。若干パサついた感じなので、ヘルシーかも知れないが、飲み物がないとちょと食べにくい。お茶請けには良いかも知れない。

 輸入者が、「有限会社 輸入促進販売。」っつう、どストライクなネーミングなのが潔くていいね。一体いくらで仕入れているんだろうね。自転車操業感全開だね。チェーンの外れそうな自転車操業。カラカラカラカラ。いや、うちもそうなんだけどね。

 欠点としては、開封すると湿気そうなのだが、デフォルトの包装では封ができないこと。海苔の缶に乾燥剤と一緒にいれているが、何らかの密封容器が必要だろう。湿気たら不味そうである。

 そういえば、以前NHKの料理番組でシフォンケーキを作っているのを見たことがあるだけど、レシピの中に「サラダ油、120cc。」って書いてあって仰天した。シフォンケーキを丸ごと食べると、サラダ油を120cc飲んだのと同じってことになるのだ。こうなると揚げ物の油がどうこうなんていうのは論外である。

 シフォンケーキっていうのはしっとりしておいしいケーキだから好きだったんだけど、そのしっとり感はサラダ油によって実現されていたのである。ショック。まあ、サラダ油っていうのは植物油だからラードとかバターよりもヘルシーなのかも知れないけど、最近はあんまりしっとりしたケーキは食欲が湧かなくなってしまった。げんなり。

 以前、池袋西口の外れにあるケーキ屋のシフォンケーキが、妙にパサついていて残念だったのだが、そこのシフォンケーキは油分が抑えているのかも知れない。

 J-WAVEの番組で西沢なんとか君が「コレステロールがおいしいんです。」って言ってたけど、あながち嘘ではないらしい。人生いろいろだー。
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笑い。

2011年03月03日 20時15分17秒 | 意識論関連
 「笑い。」とは何かについて、オニギリ頭で有名な南伸坊氏が核心をついたアイデアを提案している。

 「人が笑うっていうのは、脳がコマッタ状態になっている。」

 というものである。

 ヒトの脳では、固定観念などの無意識機能と。記憶学習過程における意識機能の二つがあり。この二つの間に乖離があると、笑いが発生する。

 笑いの状態には二つの状態があり。一つは意識が固定観念を笑う状態と、もう一つは固定観念が意識を笑う状態である。

 前者は「良い笑い。」であり、後者は「悪い笑い。」である。

 アイヒマン実験の際にヘラヘラ笑いながら電気ショックのボタンを押す状態での笑いとは、
「権威者が命令していることだから、何をしても自分の責任にはならないものである。」という固定観念に基づいた行動が、意識上の自分の良心を笑ってしまっているのである。

 自分がにやけている時、その笑いがどのような笑いであるかを考える人は少ない。おそらく、そんなことは考えずに大脳辺縁系のシーケンスに従って、反射的に笑っていれば当人は快楽なのかも知れない。固定観念などの無意識的な情動に従っていた方が、生物的には健康なのかも知れない。しかし、それは本質的には自由ではない。

 一般感覚的には、自分の好き嫌いは自分の選択であると錯覚する。しかし、それは嘘である。

 自分の好き嫌いとは、脳の大脳辺縁系に組み込まれた情動によって決定するものである。しかし、その大脳辺縁系自体を自分で作ったわけではない。

 遺伝情報自体は自分では選択不可能なものであり、脳それ自体は自分の望んだものではない。しかも、自分が育った環境である時代や社会といったものも、自分で選んだものではないのである。となると、後天的に刷り込まれた価値観や固定観念といった無意識的な好き嫌いは自分自身で選択したものではないということである。

 「それは、理屈だよ。」と大抵の人は拒絶する。だが、理論的には誰も反論できないのであり。厳然と存在する事実でもある。

 普通のヒトが平凡な生活をしている限り、こうした事実は知らなくても概ね問題なく生活可能である。しかし、それは「概ね問題ない。」だけであって、「全て問題ない。」わけではない。

 仲間と一緒に居酒屋で酒を呑み、さて、家に帰ろうかとなった際。酔っ払った仲間が自動車を運転して帰ろうとする。それを止めるか、それとも放置するか。

 ここでは、その解答を求めない。そんな問題を与えてどのような答を出したとしても、それは架空の話でしかないし、また、公益倫理的には答に選択の余地など最初からない。

 マイケル:サンデルの講義において、どんなに正義らしい「解答。」をしても、それが実際の現場でできるかどうかは全く別の話である。

 「それでも、考えたことがあるかどうかで、行動に差があるのではないか。」などということを言い出すバカもいるかも知れない。数行前に書きましたよね、「公益倫理的には答に選択の余地など最初からない。」って。

 サンデルの講義では、「一人の生命と、多数の生命とを天秤にかける。」といった条件を提示することによって、単に話をややこしくすることによって、受講生に考えを促す。

 現実には絶対的正義など存在しない。アイロン男みたいにゲリラを虐殺してしまえば、気分的にはスッキリするであろう。目の前で子供が頭をナタで切り落とされそうになっているときに、ナタを振り上げている奴を殺す以外に選択の余地がないと判断できる場合。ナタ男を殺すことは現場の判断であろう。

 だが、それは現場の一面的な正義でしかない。だから、私が論じている意識論とは、子供の頭をナタで切り落とそうとするような人間がなぜでてくるのか。同じ「ヒト。」でありながらどうして「人間。」として自律的に自分の行動を選択できないのか。それを考えるための基礎を論じているのである。

 サンデルの論ずる正義は、あくまで現場の正義でしかなく。普遍的な正義とは何かを全く論じていないのである。

 「選択の余地のない状態。」という「縛り。」を加えることによって、その「縛り。」の中だけでしか考えが及ばないようにしている時点で、それは脳トレ類と同じように、与えられた条件範囲内でしか考えておらず。自発的に何かを考えることとは全く異なるものなのである。

 特定環境下においての限定的能力をどんなに先鋭化させても、そんなものは「チンパンジーの瞬間記憶。」と構造的には全く同じものなのである。

 わかったか、このボンクラ野郎。でわまた。(炎上。)



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虫2。

2011年03月03日 19時42分44秒 | 日記
 ソネットブログの「落書きAndroid」に、「虫。」っつう記事を書いたことがあるんだけど、その時アンドロイドOSのキャラクターキモいけど、警告表示とかにしか現れないのでキャプチャするのがやりにくくて、なかなか載せられなかったんだけど。捕まえたので載せる。


 これはどう見ても虫だよね。

 それから、コスプレイヤーさん達がたくさん登録している「Cure」っつう所でログイン取得をしようとしたんだけど。結局メアドを入れる度にメールが送られてくるばかりで、一向にログインできなかった。これは何かバグっているとしか考えられないんだけど、虫が虫にアクセスしてるってのは、なんだか哺乳類のおいらには理解不能である。


 虫とは無関係だけど、オリンパス光学の新型PENのサイトの画像で、宮崎あおいちゃんが持ってるカメラのケースが一般市販のケースじゃなくて、なんだかカッコイイやつがついている。これは一種の嘘に相当するのでわないでせうか。言い過ぎかな。



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笑う。

2011年03月03日 13時27分59秒 | 意識論関連
 意識論関連の話をしていると、時折ヘラヘラ笑っている人がいます。でも、こういう人は、なぜ自分が笑っているのか何て考えたこともないでしょう。

 何が「おかしい。」んだと思います?。それは笑っている人の頭が「おかしい。」からなんですよ。

 アイヒマン実験においても時折ヘラヘラ笑いながら電気ショックのスイッチを押す被験者がいるそうです。こういう人は最高電圧のスイッチでも躊躇なく平気で押すことができるんです。

 それでいいんですか?。って問い詰めると、こういう人っていうのは「運が悪かった。」とか、「ついてなかった。」なんて言って、何が何でも自律的な判断を放棄しようとします。

 さらに、そのことを問い詰めると、今度は気分的に鬱状態に陥って、感情的に「凹む。」ことで自己嫌悪するだけで。結局は「あいつは嫌な奴だ、あんな奴は他にいないから。自分は平均的で普通の人間だから、あんな奴のいうことなんか無視しても安心だ。」って勝手に自己洗脳しておいて。翌日にはすっかり忘れているんですよ。

 臨床心理の場合、気分的な抑鬱状態によって日常生活に支障をきたすことを回避することだけが目的ですから。患者の自律的な公益倫理的な判断能力があるかどうかなんて、どうでもいいことなんです。

 心療内科での「治療。」ってのは、その場限りの気分的な悪さを解消することだけが目的で、当人の頭がおかしいかどうかなんて関係ないんです。

 精神衛生的に楽であれば、生物的な「ヒト。」としては健康だと言えるでしょう。でも、アイヒマン実験で気楽に最高電圧のスイッチを押せることが、「人間。」として健康だとかいう話に意味なんかないでしょ。スペースシャトルチャレンジャー号の技術者が、上司の言いなりに、何の疑問も持たずにヘラヘラ笑いながら事故が起こるかどうかを楽しみにしていたら、それが社会的に許されると思うんですか?。

 長谷川真理子は、殺人事件の件数が今後どのように変化するのかを「楽しみ。」にしているそうですよ。生物学っていうのはそういう異常なものなんです。

 将来殺人事件が増えるのか、減るのか。同じ「人間。」であるなら、原因を究明して減らせるように研究するのが学者の使命でしょうが。それを放棄して「増えるかどうか、楽しみ。」だなんて言っているのは頭がおかしいんですよ。

 航空機の研究をしている工学者が、「将来航空機事故が増えるか、減るか。楽しみだ。」なんて言いますか。なんで生物学だけが特権的に頭のおかしい学者が大学院大学の教授をやってられるんでしょうね。

 このことを指摘すると、大抵の場合は、「科学というものは、メタ認知といって。一段高い視野から物事を観察する姿勢が必要なんですよ。」なんて言い出します。何ですか、生物学者っていうのは自分達を「人間。」以上の何者かだとでも言うんですかね。自分達を神か何かと錯覚しているんですかね。これはもはや科学ではなくて、単なる宗教ですよ。だからドーキンスのお伽話なんかで満足しているんです。

 東大生物学部も「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証できるかも知れない。」なんて、理論的に立証不能な観念に基づいた研究に何億と税金を投入しているんですよ。民主党のバカ議員は、それを鵜呑みにする。公益倫理的に無駄な研究をしたいというのならば、公費を使わず自分達でお金を稼いで研究費用に充てれば良い。立証不能の観念に基づいた非科学的な研究に国民の血税を投入する必要性など一切ないのである。

 生物学者であるなら、チンパンジーの遊園地みたいな箱物をでっちあげていないで。フィールドで実地研究をすべきである。ヒトがでっちあげた特定環境での観察をするならチンパンジーではなく、ヒトで行えば良いことであり。凶悪殺人犯などいくらでもいるのである。それが嫌で、どうしてもサルが良いというのならば、なぜ「人間としての社会性。」に言及するのであろうか。それは単に世間多数からのウケ狙いでしかないのである。

 東大生物学部が「人間としての社会性。」に言及しだしたのは、私が生物学上の「社会性形成習性。」と、人間が自律的に公益倫理判断をする「人間としての社会性。」が、全く異なるものであることを指摘したからなんですよ。彼等は従来の生物学のパラダイムを否定されると自分達がバカであったことが露見するのを嫌って、さらにバカげた観念を持ち出したんです。

 マスコミもそれに加担したもんだから、今更訂正することもしない。

 きっと彼等はこの文章を読みながら、ヘラヘラ笑っていることでしょうね。でわまた。




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コントラスト再現率。

2011年03月03日 10時46分14秒 | 日記
 よく、ディスプレーのスペックでコントラスト再現率っていうのがあるでしょ。で、そのコントラストの比率を売り文句にしたりする。

 でもさ、表示している画像とか自体はそんなに大きな比率で記録されてるわけじゃないのよね。だから、ディスプレーのコントラスト再現率がそんなに大きくても、単に見辛いだけなのね。

 たとえば、スチルカメラの画像データっていうのは、大体適正露出から上下に3段くらいの明暗を再現している。一段階っていうのは、要するに光の量で二倍に相当するので、全部で6段ってことは、2の6乗だから、えーっと。64か。ってことは、コントラストで1:64までしか画像として記録されていないってこと。

 でもディスプレーのコントラスト再現率って最大で1:4000とかだったりするので、本当にディスプレーの明るさを最大にして、なをかつコントラストを最大にすると、もはや元の画像とはかけ離れた、単に見辛いだけになってしまうのです。

 まあ、通常はディスプレーの明るさは抑えて使うから、それなりに意味はあるんだけど。ディスプレーの方が技術的にオーバースペックになっていることは事実。でもなんか勿体ないなって思っちゃう。

 そこで、提案。カメラの方の記録データ形式自体を変更して、ディスプレーの性能を全て出し切るようにできないかなって思ったのさ。従来ピクセル当たり、カラーで24ビット記録しているでしょ、一色あたり1バイト、これを一色あたりに2バイト使って記録して、ピクセルあたり48ビット記録してはどうかなって。

 そしたら、従来の画像では白飛びして写らなかったものとか、黒潰れして写らなかったものまで再現できるんじゃぁないかなって思ったさ。


 一般の人がカメラを使うとき、実はそんなに画質性能にはこだわっていないみたい。ほんとうにこだわる人の場合はすんごい高価な機材を使っているみたいで。一般的な人の場合はブログとかに載せる程度の画質があれば、コンパクトデジカメとデジタル一眼の違いも気にしないらしい。だからあんまり画像数を増やしても、実用的には意味がないらしい。だったら、ブログとかで見る時に使うディスプレーでの表示クオリティーを向上させた方が、ユーザーには有り難いかなって思う。結構根本的な部分から大改造が必要かもしれないけど、できるだけ早期にフォーマットを策定しておかないと、普及するときに面倒なことになる可能性は高い。

 スチルデジタルカメラの方では、従来の記録データ量の中に広いコントラスト領域を画像合成して記録する方式が出はじめているみたいだけど。これはいわばデジタル処理による「覆い焼き。」みたいなものなので、実際の画像のコントラストとは乖離したものなので、リアリティに欠けてしまう。

 現在のイメージセンサーの能力的には、1:4000なんてコントラストには対応できないのかもしれないけど。従来の写真の記録方式っていうのは、元々紙焼きの写真を基準にしたものだから、ディスプレーとかの新しい再生デバイスを基準にした記録フォーマットを新しく作っても良いんじゃないかなって思うのさ。

 従来の紙焼き用の画像記録方式だと、実際のイメージセンサーのダイナミックレンジよりも狭い範囲だけを「現像。」しているそうで。デジタル一眼レフとかだと「RAW」っつうイメージセンサーからのデータを丸ごと記録しておいて、後でJPEGとかに「現像。」することが可能らしいのよ。つまり、イメージセンサーから送られて来ているデータの中から、適正露出からある程度明る過ぎる部分や、暗過ぎる部分を「捨てて。」いるってことらしい。

 夕焼けをバックに風景とか撮ると、大抵の場合は夕焼けの色を再現するには、地上の風景は真っ黒けに「潰れ。」てしまう。逆に地上の風景をある程度明るくすると、今度は夕焼けの色がすっ「飛んで。」しまう。

 「ハイダイナミックレンジ。」とかっていわれる技術っていうのは、こうした被写体コントラストの大きい画像を記録するための対策なんだけど。実際の被写体の輝き感とかを再現できているわけではないから、なんとなく「ねむい。」画像にならざるを得ない。

 おいら、ソネットに書き残したブログに東京写真ってのがあるんだけど。この中の写真に「ハイダイナミックレンジ。」とかの補正は一切おこなっていない。だから空の色が残っていてもコントラストの「ねむい。」写真はないでしょ。わかるかな。微妙かな。わかんなきゃいいや。

 日没の直後、太陽からの直接光が消えた瞬間の数十秒の間。天空からの光だけで地上が照らされる時間があって、その瞬間に撮ると空の色を残しながら、地上の風景も同時に写すことができる。これは結構天候にも左右されるので、夕暮れや日の出なら常に撮れるってわけじゃない。

 おいらは写真も撮るんだけど、絵も描くので。空の色がちゃんとのらない写真は嫌なのです。だって、絵を描くとき空の色を白で塗り潰しますか?。やっぱり色を塗りたいじゃないですか。絵って言っても女の子しか描かないけどね。



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