池上彰が「量子物理学が、一体何の役に立つのか。」って言ってたから、ちょっと一言。
何の役に立つのかはわからないけど、わからないことを研究する途中で何かがわかるかも知れないじゃない。だから「わからないことは、やってみなくちゃ、わからない。」っていうのが科学の存在価値なのさ。
物質というものが、一体どうなっているのか。それがわかれば、今原発で苦労している放射能汚染も解消できるかも知れないのさ。できるかどうかは知らないよ。でも、できないかどうか、わからないことなら研究する意味はある。原理的にできないってことが立証されるまでは研究し続ける必要性がある。だから、どっかの研究者が言ってたような「哲学的な領域。」だとかっていう議論回避をする必要はないし。池上さんが「文系の人間だから。」とかって言い訳する必要もない。
発光クラゲの研究だって、まさかそれが医療での重要な大発見だなんて誰も思わなかったでしょ。質量分析計だって同じ。本当にできるかどうかなんてわからなかった。
だから、わからないことであれば、研究する意味はある。
だけど、東大生物学部がやっている「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」なんて話は、単なる嘘だから無意味。そもそも「人間としての社会性。」というものは、行動習性なんていう「傾向性の枚挙。」から立証なんてできないことが論理的に立証されているんだからね。
哲学においても、「自分だけが自分なのが不思議。」なんてのも、これは主観的な違和感としての「不思議。」であって、論理的には「脳神経回路の結合がない。」の一言で済む話であって、科学的には「不思議。」でも何でもない。だからいくら考えても答なんぞない。
でも東大って、そんなバカが平気で教授面している。これこそ税金の無駄。
だけど学力が高い人間を権威と「見なす。」習性がヒトにはあるので、こういった無駄は平気で放置されるのさ。
ツイッターに関しては、私は懐疑的。だって相手次第だもの。バカ同士で共鳴しあっている間に入っても、炎上するだけ無駄なのさ。
カルト宗教の信者達の中に入って、「お前らの言ってることには論理的根拠などない。」って言ったって無駄だからね。
科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは、「プラトンの呪文。」を激しく糾弾する。権威に対する無批判性というものが、科学的論証を不具にしてしまうから。
実際、東大生物学部の「暴走。」を誰も止めないじゃない。
ツイッターっていうのは、結局同じ人間同士で固定観念を共有しあうことで安心したいから流行しているだけであって。それが「力。」を持っているとしても、その力を「どう使う。」のかが重要なのであって。単なる力の大きさだけを論じても意味はない。
力や道具を「どう使う。」のかを決めるのが意識の働き。それこそ無意識的集団心理にあやつられてホロコーストに使ってしまうことだってある。だから無意識ではない本質的意識について論じているのさ。
だけど、本質的意識について論じるには、必ず感情論との対立が生じることになって、大衆からの「人気。」が得られない。「人気。」ってのは感情論と同義だからね。
ヒトという種の生物は、成育環境によって刷り込まれた固定観念を覆されると、過剰な拒絶反応を示してヒステリックな行動に走ってしまう。そういう「習性。」があって、それこそが無意識的な行動であるんだけど。そこが一般には理解の困難な所らしい。
かつて地動説を唱えたガリレオ:ガリレイを。当時の社会は感情的に拒絶して「火炙り。」っていうヒステリックな最終解決に走った。なぜか、それは論理的反論が誰もできなかったから。
カール:ライムンド:ポパーみたいな偉人が、どんなにプラトンを批判しても、社会や哲学界はそれを拒絶して、無視し続ける。だから未だに科学的思考が誰もできなくて、占いだのオカルトの類がなくならない。
オカルト類の場合、わからないことであっても、「わかる。」って言い張る。だから人気が得られる。だけど、本当の科学的思考に基づいた話の場合、むしろ「わからない。」ことの方が圧倒的に多いから、「なんだ、わからないのか。」って気分的にスッキリできないからこそ人気が得られない。科学離れの原因っていうのは、算数みたいに答が出ないことによる、気分的な嫌悪感によるもの。
では、何でまともな科学者達は科学的思考ができるのか。それはひとえに好奇心によるもの。
科学的好奇心というのは、「わからない。」ことが何でわからないのかを知ろうとする自発的なもの。
だけど、本質的自発性のないヒトにとって、学力っていうのは、いわば抽象化された「エサ。」でしかなくて。こういった高学力なバカにとっては「エサ。」が得られるかどうかわからないことになんて興味がないから、常に評価や報酬の得られそうなことしか興味を持たない。
だから科学離れが起こる。
本質的な自発性のない人間ばっかりだから、自発的思考も一切成立しない。その結果、大衆からのウケばかり狙って効果もない脳トレを蔓延させたり。できもしない「人間としての社会性の立証。」だとかいう嘘を言い張るバカ学者が大量に出てくる。
養老孟司みたいに「私は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃ、やってられないじゃないですか。」なんて言われて、簡単に丸めこまれてしまうバカが大量生産された。
なんで簡単に丸め込まれてしまうのか。それは同じ観念を共有しているから。
養老の著作は600万部も売れたそうである。それが社会にとって何かの役に立ったかといえば、むしろバカが増えただけ。養老は「意識に意味などない。」って言い張ったんだからね。その呪縛は未だに東大生物学部に動体保存されている。
「養老の呪文。」というのは、本質的意識による論理的な思考を阻害し、固定観念のまどろみに大衆を誘う。その結果、糞の役にも立たない「脳化。」とかいう実証不能の観念に誰も反論できなくなっているのである。
論理整合性のない話は、論理的には反証しきれない。何せどうにでも言い訳できるからね。
「ああ言えば、上祐。」じゃないけど、観念的に丸め込まれるのがヒトは得意なわけ。考えが及ばないくらいたくさんのことを「徒に胡乱。」に言われると、多くのヒトは、どこから反論すればいいのかすら見失う。これは振り込め詐欺の手法と全く同じ。
論理的思考が不能になってしまうと、後は感情に基づく思考や行動しかできなくなる。
たとえ一時的に陥っても、ひつこく論理的思考を維持するには、本質的自発性が不可欠。だけど、他人からの評価報酬しか興味のない人間であれば、どんなに学力が高くても本質的自発性なんて最初からないから、誰も養老に反論しない。
むしろ、感情的に共感する人間だけで体制維持ばかりに固執する。
原発の暴走っていうのは、実際に原子炉が暴走する前から組織自体が暴走していた。
ミルグラムの「アイヒマン実験。」っていう「教訓。」がありながら、それを活用できなかったのは。そこに意識が働かなかったからに他ならない。
東大生物学部にとって、意識に意味があっては困る。なぜなら、自分達の無責任さが明らかになってしまうから。
散々養老の観念を放置した責任を、誰も取りたくないんだろうね。
何の役に立つのかはわからないけど、わからないことを研究する途中で何かがわかるかも知れないじゃない。だから「わからないことは、やってみなくちゃ、わからない。」っていうのが科学の存在価値なのさ。
物質というものが、一体どうなっているのか。それがわかれば、今原発で苦労している放射能汚染も解消できるかも知れないのさ。できるかどうかは知らないよ。でも、できないかどうか、わからないことなら研究する意味はある。原理的にできないってことが立証されるまでは研究し続ける必要性がある。だから、どっかの研究者が言ってたような「哲学的な領域。」だとかっていう議論回避をする必要はないし。池上さんが「文系の人間だから。」とかって言い訳する必要もない。
発光クラゲの研究だって、まさかそれが医療での重要な大発見だなんて誰も思わなかったでしょ。質量分析計だって同じ。本当にできるかどうかなんてわからなかった。
だから、わからないことであれば、研究する意味はある。
だけど、東大生物学部がやっている「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」なんて話は、単なる嘘だから無意味。そもそも「人間としての社会性。」というものは、行動習性なんていう「傾向性の枚挙。」から立証なんてできないことが論理的に立証されているんだからね。
哲学においても、「自分だけが自分なのが不思議。」なんてのも、これは主観的な違和感としての「不思議。」であって、論理的には「脳神経回路の結合がない。」の一言で済む話であって、科学的には「不思議。」でも何でもない。だからいくら考えても答なんぞない。
でも東大って、そんなバカが平気で教授面している。これこそ税金の無駄。
だけど学力が高い人間を権威と「見なす。」習性がヒトにはあるので、こういった無駄は平気で放置されるのさ。
ツイッターに関しては、私は懐疑的。だって相手次第だもの。バカ同士で共鳴しあっている間に入っても、炎上するだけ無駄なのさ。
カルト宗教の信者達の中に入って、「お前らの言ってることには論理的根拠などない。」って言ったって無駄だからね。
科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは、「プラトンの呪文。」を激しく糾弾する。権威に対する無批判性というものが、科学的論証を不具にしてしまうから。
実際、東大生物学部の「暴走。」を誰も止めないじゃない。
ツイッターっていうのは、結局同じ人間同士で固定観念を共有しあうことで安心したいから流行しているだけであって。それが「力。」を持っているとしても、その力を「どう使う。」のかが重要なのであって。単なる力の大きさだけを論じても意味はない。
力や道具を「どう使う。」のかを決めるのが意識の働き。それこそ無意識的集団心理にあやつられてホロコーストに使ってしまうことだってある。だから無意識ではない本質的意識について論じているのさ。
だけど、本質的意識について論じるには、必ず感情論との対立が生じることになって、大衆からの「人気。」が得られない。「人気。」ってのは感情論と同義だからね。
ヒトという種の生物は、成育環境によって刷り込まれた固定観念を覆されると、過剰な拒絶反応を示してヒステリックな行動に走ってしまう。そういう「習性。」があって、それこそが無意識的な行動であるんだけど。そこが一般には理解の困難な所らしい。
かつて地動説を唱えたガリレオ:ガリレイを。当時の社会は感情的に拒絶して「火炙り。」っていうヒステリックな最終解決に走った。なぜか、それは論理的反論が誰もできなかったから。
カール:ライムンド:ポパーみたいな偉人が、どんなにプラトンを批判しても、社会や哲学界はそれを拒絶して、無視し続ける。だから未だに科学的思考が誰もできなくて、占いだのオカルトの類がなくならない。
オカルト類の場合、わからないことであっても、「わかる。」って言い張る。だから人気が得られる。だけど、本当の科学的思考に基づいた話の場合、むしろ「わからない。」ことの方が圧倒的に多いから、「なんだ、わからないのか。」って気分的にスッキリできないからこそ人気が得られない。科学離れの原因っていうのは、算数みたいに答が出ないことによる、気分的な嫌悪感によるもの。
では、何でまともな科学者達は科学的思考ができるのか。それはひとえに好奇心によるもの。
科学的好奇心というのは、「わからない。」ことが何でわからないのかを知ろうとする自発的なもの。
だけど、本質的自発性のないヒトにとって、学力っていうのは、いわば抽象化された「エサ。」でしかなくて。こういった高学力なバカにとっては「エサ。」が得られるかどうかわからないことになんて興味がないから、常に評価や報酬の得られそうなことしか興味を持たない。
だから科学離れが起こる。
本質的な自発性のない人間ばっかりだから、自発的思考も一切成立しない。その結果、大衆からのウケばかり狙って効果もない脳トレを蔓延させたり。できもしない「人間としての社会性の立証。」だとかいう嘘を言い張るバカ学者が大量に出てくる。
養老孟司みたいに「私は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃ、やってられないじゃないですか。」なんて言われて、簡単に丸めこまれてしまうバカが大量生産された。
なんで簡単に丸め込まれてしまうのか。それは同じ観念を共有しているから。
養老の著作は600万部も売れたそうである。それが社会にとって何かの役に立ったかといえば、むしろバカが増えただけ。養老は「意識に意味などない。」って言い張ったんだからね。その呪縛は未だに東大生物学部に動体保存されている。
「養老の呪文。」というのは、本質的意識による論理的な思考を阻害し、固定観念のまどろみに大衆を誘う。その結果、糞の役にも立たない「脳化。」とかいう実証不能の観念に誰も反論できなくなっているのである。
論理整合性のない話は、論理的には反証しきれない。何せどうにでも言い訳できるからね。
「ああ言えば、上祐。」じゃないけど、観念的に丸め込まれるのがヒトは得意なわけ。考えが及ばないくらいたくさんのことを「徒に胡乱。」に言われると、多くのヒトは、どこから反論すればいいのかすら見失う。これは振り込め詐欺の手法と全く同じ。
論理的思考が不能になってしまうと、後は感情に基づく思考や行動しかできなくなる。
たとえ一時的に陥っても、ひつこく論理的思考を維持するには、本質的自発性が不可欠。だけど、他人からの評価報酬しか興味のない人間であれば、どんなに学力が高くても本質的自発性なんて最初からないから、誰も養老に反論しない。
むしろ、感情的に共感する人間だけで体制維持ばかりに固執する。
原発の暴走っていうのは、実際に原子炉が暴走する前から組織自体が暴走していた。
ミルグラムの「アイヒマン実験。」っていう「教訓。」がありながら、それを活用できなかったのは。そこに意識が働かなかったからに他ならない。
東大生物学部にとって、意識に意味があっては困る。なぜなら、自分達の無責任さが明らかになってしまうから。
散々養老の観念を放置した責任を、誰も取りたくないんだろうね。