書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

量子物理学の社会的価値。

2011年03月18日 19時55分39秒 | 意識論関連
 池上彰が「量子物理学が、一体何の役に立つのか。」って言ってたから、ちょっと一言。

 何の役に立つのかはわからないけど、わからないことを研究する途中で何かがわかるかも知れないじゃない。だから「わからないことは、やってみなくちゃ、わからない。」っていうのが科学の存在価値なのさ。

 物質というものが、一体どうなっているのか。それがわかれば、今原発で苦労している放射能汚染も解消できるかも知れないのさ。できるかどうかは知らないよ。でも、できないかどうか、わからないことなら研究する意味はある。原理的にできないってことが立証されるまでは研究し続ける必要性がある。だから、どっかの研究者が言ってたような「哲学的な領域。」だとかっていう議論回避をする必要はないし。池上さんが「文系の人間だから。」とかって言い訳する必要もない。

 発光クラゲの研究だって、まさかそれが医療での重要な大発見だなんて誰も思わなかったでしょ。質量分析計だって同じ。本当にできるかどうかなんてわからなかった。

 だから、わからないことであれば、研究する意味はある。

 だけど、東大生物学部がやっている「チンパンジーの行動習性から、人間としての社会性を立証出来るかも知れない。」なんて話は、単なる嘘だから無意味。そもそも「人間としての社会性。」というものは、行動習性なんていう「傾向性の枚挙。」から立証なんてできないことが論理的に立証されているんだからね。

 哲学においても、「自分だけが自分なのが不思議。」なんてのも、これは主観的な違和感としての「不思議。」であって、論理的には「脳神経回路の結合がない。」の一言で済む話であって、科学的には「不思議。」でも何でもない。だからいくら考えても答なんぞない。

 でも東大って、そんなバカが平気で教授面している。これこそ税金の無駄。

 だけど学力が高い人間を権威と「見なす。」習性がヒトにはあるので、こういった無駄は平気で放置されるのさ。



 ツイッターに関しては、私は懐疑的。だって相手次第だもの。バカ同士で共鳴しあっている間に入っても、炎上するだけ無駄なのさ。

 カルト宗教の信者達の中に入って、「お前らの言ってることには論理的根拠などない。」って言ったって無駄だからね。

 科学哲学者のカール:ライムンド:ポパーは、「プラトンの呪文。」を激しく糾弾する。権威に対する無批判性というものが、科学的論証を不具にしてしまうから。

 実際、東大生物学部の「暴走。」を誰も止めないじゃない。

 ツイッターっていうのは、結局同じ人間同士で固定観念を共有しあうことで安心したいから流行しているだけであって。それが「力。」を持っているとしても、その力を「どう使う。」のかが重要なのであって。単なる力の大きさだけを論じても意味はない。

 力や道具を「どう使う。」のかを決めるのが意識の働き。それこそ無意識的集団心理にあやつられてホロコーストに使ってしまうことだってある。だから無意識ではない本質的意識について論じているのさ。

 だけど、本質的意識について論じるには、必ず感情論との対立が生じることになって、大衆からの「人気。」が得られない。「人気。」ってのは感情論と同義だからね。

 ヒトという種の生物は、成育環境によって刷り込まれた固定観念を覆されると、過剰な拒絶反応を示してヒステリックな行動に走ってしまう。そういう「習性。」があって、それこそが無意識的な行動であるんだけど。そこが一般には理解の困難な所らしい。

 かつて地動説を唱えたガリレオ:ガリレイを。当時の社会は感情的に拒絶して「火炙り。」っていうヒステリックな最終解決に走った。なぜか、それは論理的反論が誰もできなかったから。

 カール:ライムンド:ポパーみたいな偉人が、どんなにプラトンを批判しても、社会や哲学界はそれを拒絶して、無視し続ける。だから未だに科学的思考が誰もできなくて、占いだのオカルトの類がなくならない。

 オカルト類の場合、わからないことであっても、「わかる。」って言い張る。だから人気が得られる。だけど、本当の科学的思考に基づいた話の場合、むしろ「わからない。」ことの方が圧倒的に多いから、「なんだ、わからないのか。」って気分的にスッキリできないからこそ人気が得られない。科学離れの原因っていうのは、算数みたいに答が出ないことによる、気分的な嫌悪感によるもの。

 では、何でまともな科学者達は科学的思考ができるのか。それはひとえに好奇心によるもの。

 科学的好奇心というのは、「わからない。」ことが何でわからないのかを知ろうとする自発的なもの。

 だけど、本質的自発性のないヒトにとって、学力っていうのは、いわば抽象化された「エサ。」でしかなくて。こういった高学力なバカにとっては「エサ。」が得られるかどうかわからないことになんて興味がないから、常に評価や報酬の得られそうなことしか興味を持たない。

 だから科学離れが起こる。

 本質的な自発性のない人間ばっかりだから、自発的思考も一切成立しない。その結果、大衆からのウケばかり狙って効果もない脳トレを蔓延させたり。できもしない「人間としての社会性の立証。」だとかいう嘘を言い張るバカ学者が大量に出てくる。

 養老孟司みたいに「私は30年間安月給で働いた、そこには意味があったんだ。そう思わなきゃ、やってられないじゃないですか。」なんて言われて、簡単に丸めこまれてしまうバカが大量生産された。

 なんで簡単に丸め込まれてしまうのか。それは同じ観念を共有しているから。

 養老の著作は600万部も売れたそうである。それが社会にとって何かの役に立ったかといえば、むしろバカが増えただけ。養老は「意識に意味などない。」って言い張ったんだからね。その呪縛は未だに東大生物学部に動体保存されている。

 「養老の呪文。」というのは、本質的意識による論理的な思考を阻害し、固定観念のまどろみに大衆を誘う。その結果、糞の役にも立たない「脳化。」とかいう実証不能の観念に誰も反論できなくなっているのである。

 論理整合性のない話は、論理的には反証しきれない。何せどうにでも言い訳できるからね。

 「ああ言えば、上祐。」じゃないけど、観念的に丸め込まれるのがヒトは得意なわけ。考えが及ばないくらいたくさんのことを「徒に胡乱。」に言われると、多くのヒトは、どこから反論すればいいのかすら見失う。これは振り込め詐欺の手法と全く同じ。

 論理的思考が不能になってしまうと、後は感情に基づく思考や行動しかできなくなる。


 たとえ一時的に陥っても、ひつこく論理的思考を維持するには、本質的自発性が不可欠。だけど、他人からの評価報酬しか興味のない人間であれば、どんなに学力が高くても本質的自発性なんて最初からないから、誰も養老に反論しない。

 むしろ、感情的に共感する人間だけで体制維持ばかりに固執する。

 原発の暴走っていうのは、実際に原子炉が暴走する前から組織自体が暴走していた。

 ミルグラムの「アイヒマン実験。」っていう「教訓。」がありながら、それを活用できなかったのは。そこに意識が働かなかったからに他ならない。

 東大生物学部にとって、意識に意味があっては困る。なぜなら、自分達の無責任さが明らかになってしまうから。

 散々養老の観念を放置した責任を、誰も取りたくないんだろうね。




ぼやき。

2011年03月18日 19時08分19秒 | 意識論関連
 NHKオンラインの記事をブログに載せようと思ったんだけど、サイトの下に「無断転載を禁ず。」って書いてあったんで、NHKにメールで「載せていいの?。」って聞いてみた。

 で、本当にNHKから返事があったんだけど、おいらのマシンでは文字化けして読めなかったので、掲載を見送った。他の人のブログ見ると、NHKの記事をコピペしているらしいんだけど、許可とか取ってるのかな。

 今日は昨日みたいに大規模停電の話が出ないみたい。明朝の最低気温予想が6度とか言ってるから、今日は昨日みたいには寒くならないみたい。実際そんなに寒くない。だけど昨日と同じ体制で暗闇ブログ。いつまで続くんだろう、計画停電。

 被災地の学校では、「他人の役に立つ人になって下さい。」なんて言ってたけど。そんなの被災する前は誰も言わなかった。汚いな、教育関係者って。

 今まで散々学力を伸ばすことばっかり論じてたのに、被災した途端に「他人の役に立つ。」なんて言い出しやがって。都合が良すぎる。

 原発が「絶対に安全。」って言ってた人間は、きっと学力が高かったんだろうな。学力の高い人間が言うことだからこそ、論理的根拠もなく鵜呑みにしたんだろうからな。

 言っていることに一貫性がないっていうことは、要するに無責任な嘘つきってことだからな。おいらの言っていることを一体何人の人間が論理的に理解しているんだろうな。うんざりするわ。

 気分はサルトル。

 まあ、気分は気分だから、そんなものはおいらの主観的感情論だからどうでもいいんだが。論理的理解の出来ない人間に論理的説明をし続ける徒労感は、論理的理解の出来ない人間には理解できないものだから。これは絶望的。吐き気もするわな。

 地震があってから、急にアクセスIPが増えたから、昔書いた記事を知らない人もいるかも知れないので、一応昔書いた記事へのリンクも載せておく。

 意識論

 このブログの昔の記事でも扱っている部分もある。長文になっている記事は大抵そうだから、興味があったら読んでみそ。けど、読んだために情緒不安定になっても私は一切知らないので、覚悟して読むこと。これは無責任なんじゃなくて、何にも考えずに漫然と生きてきた自分自信の無責任性に由来するものだから勘違いして頂いては困る。




責任。

2011年03月18日 16時54分29秒 | 日記
 原子炉は絶対安全って言ってた奴がいるよね。そいつにホース持たして原子炉まで水撒いて来させりゃ良いじゃん。それが「責任。」持つってことじゃねえのかね。

 責任者が「辞める。」っていうのは、全く無責任だよね。責任を持つってことは最後までなんとかしてもらわないとね。面倒臭いことになったからって急に自衛隊とか消防とかにお任せするっていうのはおかしい。

 「気分。」的にはそれが「スッキリ。」するな。水戸黄門とか暴れん坊将軍とかって、そういう気分的な「スッキリ。」を促すから大衆人気があるんだ。だからこういうこと書いていればきっとアクセスIPも増えるんだ。

 昨夜の大規模停電危機の時、9時頃に3050万キロワットって報道があってから、みんな気が抜けたらしくて、9時以降に3170万キロワットまで増えたそうだ。まあ、3400万キロワットまで供給ができたらしいからいいものの、気を抜くのやめようね。

 基本的には大規模停電がなくても、計画停電は実施されているんだから、足りないことに変わりはない。病院以外でも自宅で生命維持装置を使っている家庭もあるんだそうだ。万一予期せぬ停電になったりすると、エレベーターも使えなければ電話も使えない、何にも出来ずに死ぬのを待つだけになっちゃうんだそうだ。

 「一つのパンを十人で分けると、全員死んでしまう。」状況ってのがある。こういう時に、「俺だけ助かれば。」なんて考える奴は「ヒト。」であっても「人間。」ではない。生存自体に意味があるっつうんなら、ゴキブリと一緒だからな。

 本当に「人間。」であるなら、「一つのパンを十人で分けて、仲良く死ぬ。」のが正しい。

 寝る時に足が冷たくて眠れないくらいは我慢してでも、必要な電力は確保しなくちゃね。そうでなくても計画停電地域は命懸けなんだから。

 「人を殺してはいけない。」論理的理由が存在しないって話があるけど、だったら「人が人を殺すような社会に生き続ける。」ことの論証だってないんだからな。真面目に生きるのが嫌だったら、とっとと死んでくれ。被災地でレイプとかやってる糞野郎に、生きていて頂く必要性なんぞ一切存在しないからな。

 生物学っていうのは、単なる結果的な「生存。」を何が何でも「目的。」だって言い張ろうとする。こんなものは「サルの正義。」であって、人間の正義ではない。人間として正当なことが言えないなら、公費を使って研究する必要性なんぞ全く存在しないんだけどね。本当に研究したいなら、自分で稼いで研究すればいいんだ。多分東大生物学部の誰もそこまではやらないだろうね。






電池。

2011年03月18日 14時00分41秒 | 日記
 相変わらず、単1から単3電池までは店頭にないんだけれど、リチウム電池のCR2とか2CR5とかが残っていた。

 CR2は電圧が3Vなので、秋葉原とかで売ってる高輝度LEDとかで使える。一般的にLEDの場合は定電流ダイオードっつうのを電池との間に挟むんだけど、確か20mAの奴は値段が高くて、10mA の奴を二本並列に使うと安上がりだっつう話。あんまり詳しくないので、秋葉原の部品屋さんに聞いてね。

 リチウム電池は値段が高めだけど、低温に強いとか、保存性が良いとか、利点もあるので、非常用ランプとしてはアリかもです。

 昨日の晩は節電のために懐中電灯を改造してLEDで点くようにして使っていたんだけど。そのLEDは古いやつで、2.4Vのタイプなので、使い古しの単1電池で使っていた。

 カップ麺が100均にそれなりにあった。

 卵も買えた。

 牛乳はまだある。

 ニューコンミートとかスパムミートはなかった。

 野菜とか精肉は充分にある。

 別に困ることはない。視覚障害の人とかは、自分で火を使って作ることができないので。健常者は出来合いものを買わないようにすると良いかも。

 ニホンザルにエサを与えると、一斉に群がるでしょ。買い溜め心理っていうのは本能的な無意識による、強迫観念による行動なのさ。

 たとえ特定環境において、チンパンジーが限定的な利他的な行動を採ったといっても。それが何かの役に立つかといえば、全く役に立たない。

 種としての「ヒト。」の行動傾向、習性をどんなにたくさん抽出しても、それによって「人間。」としての公益倫理的な自律判断とは無関係。

 特定環境下の行動である限り、それらは全て環境依存性の結果的行動に過ぎないから。

 本当の本質的な「人間としての社会性。」というのは、環境には一切依存せずに自律的に行動判断することであって。それは生物種の習性として立証不可能なものである。

 どんなに多くのバカを集めてきても、「ヒトとはそういうものである。」以外の一切の行動選択が不可能であることの証明には成り得ない。

 要するにバカっていうのは、「だって、みんなバカじゃんか。」っていう気分的な安心だけで行動が決定するからバカなのさ。

 節電に関してはバカはいなかったみたい。街が真っ暗だったもん。後は街路灯だな。

 近所の自動車修理工場では、塗装の焼き付けができなくて困っていた。塗装して直ぐに焼き付けをしないと、気温が低いと塗料が垂れてきちゃうんだって。

 今日の電力は足りるのかな、予め予告しておいてもらわないと、夕方になって急に節電してくれって言われても、こっちにも準備ってものが必要なんだから。

 基本的には足りないんだろうな、だから計画停電はずっとやっているんだから。

 早めにご飯炊いておこう。お風呂はしばらく入ってないけど、入るなら昼間のうちだな。夕方になったら暖房使いたくないからな。あ、使い捨てカイロ買っておかなきゃ。あんまり使い捨てカイロって使ったことなかったから、開封してから温まるまであんなに時間がかかるとは知らなかった。使う2時間くらい前に開封しておかないとだめだね。

 父親が言うには、「戦時中よりは、ずっとマシ。」だって。被災地は戦時中みたいだけど、東京は平穏。食べ物には困っていない。ただ、選べないだけ。贅沢な悩み。

 おいらはそれなりに体力があるから、あちこちの店に買い出しに行けるけど、高齢者は近所の店に食料品がないと本当に困ってしまうみたい。視覚障害者とか高齢者といった、社会的弱者から困窮するというのが、公益倫理的な観点から正しい行動かどうか。自発的に考えて行動して欲しいね。

 野菜も精肉類も充分に店頭にあるんだから、食料品について焦る必要性はない。

 「赤信号、みんなで渡れば、恐くない。」っていうのは、感情的に「恐くない。」だけであって、それが安全性の保障になんかならないんだからね。

 逆に「みんなが赤信号を渡っているのに、自分だけ渡らないのは、何となく不安。」だからって、多くのヒトはバカ買いをしている。まあ、本当のバカはこんな文章読まないだろうから、無意味かな。でわまた。














視覚障害者は食品の品薄に困惑。

2011年03月18日 11時49分02秒 | 日記
 母親が通っているリハビリセンターのマッサージ師の方が視覚障害者なんだけれど、スーパーの食品売り場が品薄なので、食べるものに困っているそうだ。

 目が見えない人にとって、日常あるもの以外は、それが何なのかすらわからないということらしいです。スーパーでは店員さんが案内してくれるそうですが、品物自体がないので、どうにもならないらしいです。

 買い溜めによる品薄加速は、社会的弱者から被害を及ぼす。

 「皆が買い溜めしているから。」とかって、それ「理由。」じゃなくて、単なる強迫観念だからね。それこそ「くらたま。」みたいに感情のおもむくままに行動していれば気分的に安心なんていうのはケダモノの理屈だからな。

 感情のおもむくままに行動することしか出来なくて、それで「認知症にはなりたくない。」なんていうのは支離滅裂だからな。買い溜めババアから認知症になって、社会的に負担をかけるんだろうな。死ねばいんだ。くそババア。






3月18日計画停電情報更新。

2011年03月18日 10時25分18秒 | 日記
 東京23区内の停電計画に変更がありました。PDFファイルからテキストに書き換えるのが面倒臭いので、誰かやって。

 PDFファイルをスクリーンキャプチャしてJPEGにしてあるので、もしかすると携帯電話でも見れるかなと思って掲載している。本当はどうなんだ?。