書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

本能。

2011年03月24日 23時40分16秒 | 意識論関連
 大脳辺縁系が促す情動行動というものは、動物的な本能によって行動を促す。これは祖先における結果的な生存につながった行動習性が受け継がれたものである。

 従って、誰かれ構わずヤリまくった祖先の行動の結果的な「種の保存。」の結果としての本能として、過剰なまでの性的欲望が組み込まれているとしても。それは当人の「意思。」ではない。さらにいえば、女性がレイプによって快楽を感じてしまったとしても、それもまた当人の「意思。」ではない。

 生物として保存された種としてのあらゆる本能自体は全て当人の「意思。」すなはち本質的意識的選択ではない。

 ご先祖様がどのような利己的な行動によって結果的生存につながったのかを。我々子孫は選択できないのである。野生における動物の行動というものに、人間としての倫理とか自律などというものは意味を成さず。全く無関係である。

 従って本能的行動を促す大脳辺縁系の構造自体に、人間としての社会性など存在する論理的な根拠はない。

 単なる本能的な行動結果に基づく生存と、人間としての目的意識に基づく行動とは無関係である。

 「お前ら、どんだけ説明したら理解できるんだよ。」的に投げやりな気分に陥るのだが、それは私の個人的感情論なので、「勝手にムカついていろ。」と無視して構わない。読者の感情論に私が一切関知しないのであるから。皆さんも私の個人的感情も無視して構わない。(んじゃ、書くなよ。)

 本能のままに行動するチンパンジーの結果に対し、如何なる生物学的な追認的なこじつけを行っても、そこから「人間としての社会性。」を証明することは理論的に不可能である。

 野生における動物の行動習性というものは、ある程度の狂暴性や利己性を持たなければ過酷な自然界において生存には結び付きにくい。だが、それは全て結果論である。本能的な行動習性の結果としての生存自体はあくまで結果であって、目的ではない。目的とは、意識によって導き出されるものであり。その意識の広さ、明瞭さに依存する。泥酔者の意識による目的に意味がないのと同様に、本質的意識を持たない者の目的意識などというのは、要するにサルの目的でしかない。

 従って、私の論ずる本質的意識論とは。本質的目的論でもある。

 目的とは、意識によって、認識の範囲内において鑑みることの可能な暫定的な目的のことである。

 絶対的な目的などというものは、有限の認識、有限の記憶容量、有限の思考能力しかないヒトには、原理的に認識不可能なものである。

 たとえば、温室効果ガスの排出が環境破壊に繋がるという認識があるからこそ、排出規制という行動が導き出されるのであり。それ以前の認識がない時点では導き出されることはないことからも。あらゆる行動目的は常に暫定的なものなのである。

 従って、人間は常に新しい認識に基づいて行動目的を更新し続けなければならない。それをできなければ本当の意味においての「人間。」ではないからである。これはあくまで理想に基づく論証であるから、全てのヒトが神経症的にあらゆる認識をしなければならないということではない。現実的には自分の行動責任の範囲内において、認識をすればよい。むしろ問題なのは新たな認識を得たにも関わらず、それが目的行動に反映されない精神的な怠惰なのである。

 人はそれぞれ自分に課された責任というものがあり。それは人それぞれ程度が異なって然りである。重大な責任に関わる人だけが公益倫理的な自律的判断をしなければならないわけではなく。全ての人に、それぞれの責任において、自律判断を行わなければならないのである。

 人は誰も神ではない。完全なる人など実存しえないからである。神が人の理想であるならば、それは目指すべき「方向。」ではあるが、誰もその行く先を認識することはできない。人は神ではないので、有限の認識能力しか持ち得ないからである。







卵。

2011年03月24日 23時11分27秒 | 日記
 卵がなくなったので、買いに行った。

 行きつけのスーパーにないので、少し離れたスーパーに行ったのだが、やっぱりなくて、さらに別のスーパーも回り、結局5軒回ってどこにもなかった。

 寒い中、悔しいとか思いながら、近所のコンビニでお菓子でも買おうと思って入ったら、あった。1パックだけ。

 卵に関しては、供給自体が少ないみたい。でもパンに関しては供給が乱れているみたい。今日は全くなかった。先日は山積みになってたから、供給自体はあるらしい。

 牛乳は放射能汚染だとか、パッケージの紙パック工場が壊れたとか。いろいろあって供給不足らしい。

 店舗の棚には潤沢にはないんだけど、なんだかんだで入手はできるところをみると、そんなに逼迫しているとも思えない。

 商品が入手困難なので、単価が上がってデフレが治まっているようにも見える。もしかするとこれが原因で景気が上向くかも。楽観し過ぎかな。

 ガスコンロの安全装置の単1電池が入手できなくて、何となく不安。警告ランプが点滅しているうちに入手したいところ。

いいえ、誰でも。

2011年03月24日 22時15分38秒 | 日記
 公共広告機構(早口言葉みたいだな。)金子みすずCMがかわういらしい。

 あの静かなピアノ曲は、PICNICとかいう邦画のサウンドトラックにあるらしいって、ツイッターで見た。確認はとれてない。

 理論的に見ると、(見るんじゃねぇよ。ほっとけよ。)みすずの詩は、子供の反射的な反応を述べているだけである。(身も蓋も無いな。)

 詩の最後「いいえ、誰でも。」というのは、ヒトという種の生物である以上、こうした反応は普遍的に見られる行動である。従って、「多くの場合。」において、これは間違いではない。

 別にみすずは科学的理論を追求したわけではないので、理論的厳密性は必要ない。(んじゃなんで理論的に見たんだよ。)

 世界的に有名なアニメーション映画監督の宮崎駿は、自身の作品を指して、「気晴らし。」と言った。極端な言い方をすれば「精神的な現実逃避。」のようなものである。

 震災被災者にとっての現実は、あまりに過酷なものである。家族を失った方の中には、顔から表情が失われて、全く現実を認識できていないような方もおられた。悲しみの中枢すら機能しなくなっているのかも知れない。それ程の状況なのであろう。

 あまりに悲し過ぎて、もはや何だかわからない状況なのであろう。

 「恐すぎて、笑っちゃう。」というのは時折ある。ニューヨークの9.11テロの映像でも、あまりの恐怖に、「これは本当は、何か周到に準備されたギャグとかサプライズなんじゃないか。」そう思ったのかも知れない。

 こんなふざけたブログで扱うのも間違いかも知れないが。「悲しい時は、泣くもの。」という通説も、場合によっては真ではない。




 「いいえ、誰でも。」ではないこともある。それが言いたかったのです。



挨拶。

2011年03月24日 20時22分57秒 | 意識論関連
 挨拶とは何か。挨拶をすると気分的に「安心。」だから行うのである。それは逆にいえば挨拶をしないと気分的に「不安。」であるということでもある。

 挨拶とは儀礼であり。形式である。つまり、表面的ものでしかない。

 挨拶と人格性に関連はない。連続殺人犯の多くは挨拶などの表面的な儀礼はきちんとできるものであり。よく逮捕後に「まさか、あの人が。」といった意外性に驚く話は少なくない。

 子供が元気に挨拶をすると、「元気があって、よろしい。」などと満足するオヤジがいるが。こんなものは大衆凡民の勝手な観念でしかない。大人の前でだけ調子よく挨拶をしておいて、影でコソコソ悪いことをしているクソガキを、私は幼少期にたくさん見ている。

 私のような衝動殺人型の人間は挨拶がヘタクソである。別に挨拶をするなとは言わないが、挨拶の上手下手と人格とは無関係であるということが言いたいだけである。まあ、衝動殺人型の場合、やましい部分があると挨拶である程度雰囲気に出るので、見知らぬ人の場合に挨拶をしてみるのは防犯上有効ではある。だが、連続殺人型の場合はこの限りではない。

 公共広告機構のTVCMとかで、挨拶を要求するような社会的雰囲気の強要に意味はない。挨拶などの形式的、儀礼的な行動に固執するのは、むしろ生物学的な社会形成習性に由来する本能的、感情的な強迫観念によるものに過ぎず。ヤクザや暴走族などのバカの集団ほど形式に対する要求が厳しいものなのである。

 挨拶がどんなに上手でも、それと人格性、公益倫理的な自律判断力とは無関係である。

 挨拶をしたいというのであれば、それは勝手である。しかし、挨拶をしたからといって、それによって安心したからといって、それが「安全。」であることの論理証明にはならないのである。

 「人は、見た目が9割。」などという書籍が流行したが、ヒトの意識の9割は無意識であることに由来する結果論であり。単なる結果論自体をどんなに枚挙しても、それが意識的な目的行動としての正当性の論証にはなっていない。

 むしろ、見た目だとか、個人的な好き嫌いに関わらず、言っている内容の論理的理解に基づく意識的な判断こそが重要なのであり。それがないから振り込め詐欺に引っ掛かるのである。

 ヒトは動物であるため、どうしても行動判断に感情が優先してしまう傾向性がある。嫌いな人間の言うことを無視し、意識から外し、盲目になることで大脳辺縁系を満足させて思考停止に陥ることが気分的に「安心。」なのである。

 カルト宗教の信者などに見られる「アスペクト盲。」などの盲目性は、こうした大脳辺縁系が促す情動行動、思考によって促されるのである。

 こうした行動への「思考。」というのは、実際には「思い。」込みは存在するが。それが正しいのかどうかを「考え。」るための認識は開かれていない。

 一度大脳辺縁系に刷り込み学習されてしまった固定観念、固定的価値観に基づいた行動以外を自律的に選択するためには。それらの観念、価値観が正しいのかどうかを判断するための客観性が必要不可欠であるが。大脳辺縁系が促す行動「学習。」結果というものからは、こうした客観的な視点というものは出てこないのである。

 いわば、大脳新皮質を単なる無意識的行動を学習「された。」ストレージとしてしか使っておらず。行動の全てが大脳辺縁系によって刷り込まれた結果的好き嫌い以外に行動選択をすることが一切できなくなってしまうのである。

 大脳新皮質が、大脳辺縁系の奴隷、外部記憶としてしか使われていないのである。一度こうしたスパイラルに陥ると、もはや新しい認識など存在しないも同然なので。あらゆる事実は意識の上から排除され、無視されてしまうのである。大脳容積の優位性というものは失われ、新たに学習「する。」ことができなくなってしまうのである。

 新たに学習「する。」こと。それこそが認識を変化させ、目的行動のリフレッシュ、更新が可能となるのであるが。既に学習「された。」行動だけしか選択できないということは、機械的条件反射行動しかできないということである。前者が意識機能が働いている状態であり、後者が無意識だけの状態である。

 鳥類のヒナなどに見られる「インプリンティング。」すなはち「刷り込み。」行動というものは、鳥の脳には最初から認識更新を行う機能がほとんどないことから、こうした行動を採るのである。

 カンザシフウチョウの雌が、雄の踊りに夢中になって「酔う。」というのも。そこに目的意識などがあるのではなく、単に脳の古い領域に組み込まれた結果的行動のままに、機械的条件反射行動として組み込まれた行動結果でしかないのである。こうした無意味な行動の結果として生存に適さない場合に、現在の生物学は「進化の袋小路。」などと言い逃れをするのである。

 本能的行動の結果として、それが生存につながれば「目的。」であると言い張り。一方生存につながらなければ「進化の袋小路。」と言い逃れをする。それが現在の生物学のこじつけである。

 こんなご都合主義な言い逃ればかりしておいて、当人達はそれを科学的であると勘違いしている。何か統合失調症とかの精神疾患だとしか私には思えないのだが。東大の佐倉統(さくら おさむ)などは、「学界内部で大勢を占めていない。」などという多数決を持ち出すだけで、一切論理的検証も、また、何らかの反証も持ち出さない。こんな無能で怠慢なバカが東大で教授をやっているくらいであるから、そこからは何ら新しい発見も、また、間違いに気付くわけもないのである。東大というのはこういうバカが集団で年功序列体制維持を行っているだけであり。こうした年功序列体制の原因というものは、集団を形成する個人が体制に迎合することによる保身感情しか働いていないからである。

 これは体制内部にとっては確かに「利己的。」ではないだろうが。社会全体から見れば極めて利己的な保身行動なのである。

 特定の体制内部において利己的でなくとも、体制維持だけを目的とした体制自体の利己主義を振り回すのは、社会全体からみれば充分利己的なのである。(理解してる?。)

 養老とかが言っている集団主義、共同体主義というのは。こうした特定体制内部における利己性を正当化するための屁理屈なのである。ナショナリズムの根本的欠陥というのは、共同体内部に対する迎合性を、あたかも普遍的な意識の広さであるかのようにすり替える部分である。

 「地球の裏側の人間が何を考えているかなど、私の知ったことではない。」などと言いながら、「共同体と、心を一つにしないのは。心の狭い態度です。」などという意識狭窄性全開なことを言い出すのは、明らかに養老の脳がイカれているからに他ならない。

 占い師が「他人の言うことを信じないのは、心の狭い人間だからです。」などと言い張るのと同じことであり。自分に都合の良いことだけを信じ込ませるための詭弁でしかなく。こうしたペテンの手法を養老は取り入れているのである。

 論理的に考えられる者であれば、養老に対して「お前の言うことは、わからん。」の一言で一蹴するが。そうでない大衆は簡単に丸め込まれるのである。この「大衆。」の中に東大生物学部が含まれていることが大問題なのである。

 少しは理解出来たか、このボンクラ共め。(またそういうことをいうー。)





人肉。

2011年03月24日 14時59分57秒 | 意識論関連
 共食い云々の話になると、時折出てくるのがアンデス山中での航空機事故の話。

 でも、この事故の場合。食べられた人の同意の基に食べているので、これを共食いであるとするのはちょっとおかしい。

 チンパンジーとかの共食いの場合は、相手の同意なんぞ一切得てないし。極めて野蛮な動物の行動の結果なので。これをアンデス山中の状況と同列に扱うのは間違いだろう。

 おいらだって、致命傷を負ってしまって、もう自分は助からないとなれば。別に誰かに食べられても構わないって思う。それを野蛮だなんて一切思わない。ちょっと形式の異なる臓器移植だと思えば、別に野蛮だなんて結論にはならない。

 単に「人肉食。」云々だけを抽出して「共食い。」だなんていうのはおかしい。歌手のCoccoとかが、自分の子供が死んじゃったら、食って自分の血肉にして、ウンコにして出す。って言ってたけど、「死んじゃった。」のなら、それも間違いではないのかなって思う。そういう弔い形式もあるのかなって。だって、箱に詰めて燃やしちゃうとか、石の下に封じ込めることが残酷でないかどうかなんて、もはや個人の価値観の問題じゃん。幼い子供であるなら、母親のお腹に戻れるなら、それもまたその子供の幸福なのかも知れないって、おいらは思うのさ。

 葬儀の形式だって、いろいろあるでしょ。因習に囚われて墓石の下に封じ込められることが「正しい。」なんて言えないじゃない。おいらだったら散骨とかの方が潔くっていいなって思う。石の下に封じ込められるなんて、「俺は妖怪じゃねぇ。」って思うもの。

 幼女誘拐殺人犯の宮崎勤とかの野蛮な「共食い。」と、アンデス山中の事故と同列に語るのは間違い。別に食べたいから食べたんじゃなくて、他に生き残る手段がなくて、仕方なく食べたんだから。それを単に欲望のおもむくままに健康な少女を食っちゃったのと同じにはできないよ。

 おいらの意識論においては、「生存自体に意味はない。」って言ってるけど。それは例えば死んじゃった人から誰からも「食べていいよ。」っつう同意が得られていない場合は諦めろってことであって。何か人肉食であるということだけを論じるのは議論がトンチンカンな気がする。

 いわば物理的な「献身。」的行為は悪だって言っておいて、それじゃ原子炉冷却のために献身的に働いている消防士さんたちを評価するってのは、何かおかしいじゃない。「英雄だ。」って持ち上げておいてさえすれば、原子炉の暴走を止められるっつうのは。言うなれば消防士さん達を「食い物。」にしているのと同じじゃん。

 物理的に消防士さんの肉を食ってないから、それは良いことで。物理的に食ったから悪いことだなんて、なんか都合が良すぎる。おかしい。

 アンデス山中でヒトの肉を食べた人達のことを悪くいうのはおかしい。食べられた人からすれば、食べた人が元気に生き延びてくれることを願っていたんだから。それをいわば部外者でである他人がとやかく言うようなことではない。

 むしろ、彼らの悪口を言うっていうのは。自分の肉体を提供した人の意思に反する卑劣な言動だとさえ思う。そんなことのために提供したはずじゃないじゃんよ。提供した人がうかばれないよ。失礼だよ。違うか?。



黄色い粉。

2011年03月24日 12時42分55秒 | 日記
 黄色い粉が降り積もっているらしい。千代田区だかが放射線測定したら、全く放射線は出ていないっつう話。

 花粉だろうって話なんだけど。今まで花粉が黄色く溜まったことなんか見たことないので、何となく気持ち悪いやね。たまたま雨の後に花粉が大量に飛んだ直後に再び雨が降って固まったってことらしい。去年の猛暑で花粉の量が凄いからね。

 偶然原発事故の時期に重なったので、放射性物質なんじゃないかって疑われたようだけど。もし原発が原因なら、原発の周辺で真っ黄色に降り積もらないとおかしい。

 水道水にヨウ素131が増えちゃったっつう話。でも、あきらかに関係なさそうな奴が水を買い占めている様子。わからんけどね。孫がいるのかも知れんけど。摂取制限なのは乳幼児とか妊婦さんなので、できればそれ以外の成人はミネラルウォーターは買わないようにしとけよって思う。どうしても不安ならお茶とかにしとけ。

 でも、どうなんだろう、ペットボトル入りの水だからって、本当に放射性物質が入っていないって保障があるのかな。別にペットボトルの水を製造している工場でも、ヨウ素とかセシウムを除去しているわけではないだろうに。まあ、産地が原発から遠ければ遠いほど安全そうではあるけどね。

 疑い始めるとキリがないので、おいらは水道水を飲んでいる。金町浄水場で放射性物質を検出したって話だけど、おいらの家は違う浄水場の方が近いので、気にしなくてもいいのかなって思う。ヨウ素って除去できないのかな。浄水場で除去しちゃえば何の問題もないんだけどな。多分すんごい微量なんだろうな。

 前にも書いたけど、発癌性物質ってのは放射能だけじゃないんだろうけど。結果的に発癌性物質を放出しちゃったという「結果。」に便乗して放射能を正当化する屁理屈はウンザリする。自然界にも発癌性物質はあるけど、それは自然だから仕方ないこと。だから納得ができるけど。そこに便乗して放射能を正当化できるわけじゃないだろうよ。なんか許せないわー。

 核融合炉とかってどうなんだろうね。あれはフェイルセーフ、構造的に暴走したりしないのかね。もし何がおきても暴走しないっつうなら核融合発電が実用化するまで原子炉はやめておいて欲しいな。で、もし絶対に暴走しないっつうなら東京湾に作ろう。その方が送電損失が少ないんだからね。

 福島県のちぢみほうれん草がもったいない。おいしそうなのに。県境なんていう行政区分が危険なんじゃなくて、危険なのは放射能なんでしょ。だったら放射線量を測定して大丈夫なら市場に出荷すりゃいいじゃんか。難しいのか。それって。逆に言えば、他の原発周辺で栽培している農作物の放射能測定もして欲しい。原発に関しては北朝鮮とか何やってるかわかんないからね。もしかしたら放射能ダダ漏れなのかも知れないじゃん。

 一説によると、風力発電の方が採算性が良いって話もある。地熱発電なんて火山とかプレート境界特有のエネルギー源なんだから、地震大国としてはそっちにお金かけた方が正解なんじゃないかね。何かと採算性って話が出てくるけどさ、安全と採算性って秤にかけるようなもんじゃないだろうって思うんだけど。違うかな、違わないような気がする。工場とか工事現場って、基本的に「安全第一。」じゃない。それが結局は採算性につながるからそうしているんだよね。一般企業がそういう選択をしているんだから、国の事業としてもそういう選択をすべきだと思う。

 危険学とか失敗学といった工学系理論は、なぜ原発の危険性に言及してこなかったんだろう。畑村洋太郎とかって東電に買収されてたのかね。航空機の話ばっかりしてて、全然原発の話が出てこなかった。それとも一度重大な失敗をしなければ、その他の失敗については全く応用できないようなものなのかね。でもスリーマイル島原発事故とか、奥尻島災害とか、教訓にできる要素っていっぱいあったと思うんだけどね。

 子供向けの変な遊具とか作ってる場合だったのかね。畑村のジジイは。何か腹立つわー。腹が立ったのでこの辺で終わる。でわまた。