大脳辺縁系が促す情動行動というものは、動物的な本能によって行動を促す。これは祖先における結果的な生存につながった行動習性が受け継がれたものである。
従って、誰かれ構わずヤリまくった祖先の行動の結果的な「種の保存。」の結果としての本能として、過剰なまでの性的欲望が組み込まれているとしても。それは当人の「意思。」ではない。さらにいえば、女性がレイプによって快楽を感じてしまったとしても、それもまた当人の「意思。」ではない。
生物として保存された種としてのあらゆる本能自体は全て当人の「意思。」すなはち本質的意識的選択ではない。
ご先祖様がどのような利己的な行動によって結果的生存につながったのかを。我々子孫は選択できないのである。野生における動物の行動というものに、人間としての倫理とか自律などというものは意味を成さず。全く無関係である。
従って本能的行動を促す大脳辺縁系の構造自体に、人間としての社会性など存在する論理的な根拠はない。
単なる本能的な行動結果に基づく生存と、人間としての目的意識に基づく行動とは無関係である。
「お前ら、どんだけ説明したら理解できるんだよ。」的に投げやりな気分に陥るのだが、それは私の個人的感情論なので、「勝手にムカついていろ。」と無視して構わない。読者の感情論に私が一切関知しないのであるから。皆さんも私の個人的感情も無視して構わない。(んじゃ、書くなよ。)
本能のままに行動するチンパンジーの結果に対し、如何なる生物学的な追認的なこじつけを行っても、そこから「人間としての社会性。」を証明することは理論的に不可能である。
野生における動物の行動習性というものは、ある程度の狂暴性や利己性を持たなければ過酷な自然界において生存には結び付きにくい。だが、それは全て結果論である。本能的な行動習性の結果としての生存自体はあくまで結果であって、目的ではない。目的とは、意識によって導き出されるものであり。その意識の広さ、明瞭さに依存する。泥酔者の意識による目的に意味がないのと同様に、本質的意識を持たない者の目的意識などというのは、要するにサルの目的でしかない。
従って、私の論ずる本質的意識論とは。本質的目的論でもある。
目的とは、意識によって、認識の範囲内において鑑みることの可能な暫定的な目的のことである。
絶対的な目的などというものは、有限の認識、有限の記憶容量、有限の思考能力しかないヒトには、原理的に認識不可能なものである。
たとえば、温室効果ガスの排出が環境破壊に繋がるという認識があるからこそ、排出規制という行動が導き出されるのであり。それ以前の認識がない時点では導き出されることはないことからも。あらゆる行動目的は常に暫定的なものなのである。
従って、人間は常に新しい認識に基づいて行動目的を更新し続けなければならない。それをできなければ本当の意味においての「人間。」ではないからである。これはあくまで理想に基づく論証であるから、全てのヒトが神経症的にあらゆる認識をしなければならないということではない。現実的には自分の行動責任の範囲内において、認識をすればよい。むしろ問題なのは新たな認識を得たにも関わらず、それが目的行動に反映されない精神的な怠惰なのである。
人はそれぞれ自分に課された責任というものがあり。それは人それぞれ程度が異なって然りである。重大な責任に関わる人だけが公益倫理的な自律的判断をしなければならないわけではなく。全ての人に、それぞれの責任において、自律判断を行わなければならないのである。
人は誰も神ではない。完全なる人など実存しえないからである。神が人の理想であるならば、それは目指すべき「方向。」ではあるが、誰もその行く先を認識することはできない。人は神ではないので、有限の認識能力しか持ち得ないからである。
従って、誰かれ構わずヤリまくった祖先の行動の結果的な「種の保存。」の結果としての本能として、過剰なまでの性的欲望が組み込まれているとしても。それは当人の「意思。」ではない。さらにいえば、女性がレイプによって快楽を感じてしまったとしても、それもまた当人の「意思。」ではない。
生物として保存された種としてのあらゆる本能自体は全て当人の「意思。」すなはち本質的意識的選択ではない。
ご先祖様がどのような利己的な行動によって結果的生存につながったのかを。我々子孫は選択できないのである。野生における動物の行動というものに、人間としての倫理とか自律などというものは意味を成さず。全く無関係である。
従って本能的行動を促す大脳辺縁系の構造自体に、人間としての社会性など存在する論理的な根拠はない。
単なる本能的な行動結果に基づく生存と、人間としての目的意識に基づく行動とは無関係である。
「お前ら、どんだけ説明したら理解できるんだよ。」的に投げやりな気分に陥るのだが、それは私の個人的感情論なので、「勝手にムカついていろ。」と無視して構わない。読者の感情論に私が一切関知しないのであるから。皆さんも私の個人的感情も無視して構わない。(んじゃ、書くなよ。)
本能のままに行動するチンパンジーの結果に対し、如何なる生物学的な追認的なこじつけを行っても、そこから「人間としての社会性。」を証明することは理論的に不可能である。
野生における動物の行動習性というものは、ある程度の狂暴性や利己性を持たなければ過酷な自然界において生存には結び付きにくい。だが、それは全て結果論である。本能的な行動習性の結果としての生存自体はあくまで結果であって、目的ではない。目的とは、意識によって導き出されるものであり。その意識の広さ、明瞭さに依存する。泥酔者の意識による目的に意味がないのと同様に、本質的意識を持たない者の目的意識などというのは、要するにサルの目的でしかない。
従って、私の論ずる本質的意識論とは。本質的目的論でもある。
目的とは、意識によって、認識の範囲内において鑑みることの可能な暫定的な目的のことである。
絶対的な目的などというものは、有限の認識、有限の記憶容量、有限の思考能力しかないヒトには、原理的に認識不可能なものである。
たとえば、温室効果ガスの排出が環境破壊に繋がるという認識があるからこそ、排出規制という行動が導き出されるのであり。それ以前の認識がない時点では導き出されることはないことからも。あらゆる行動目的は常に暫定的なものなのである。
従って、人間は常に新しい認識に基づいて行動目的を更新し続けなければならない。それをできなければ本当の意味においての「人間。」ではないからである。これはあくまで理想に基づく論証であるから、全てのヒトが神経症的にあらゆる認識をしなければならないということではない。現実的には自分の行動責任の範囲内において、認識をすればよい。むしろ問題なのは新たな認識を得たにも関わらず、それが目的行動に反映されない精神的な怠惰なのである。
人はそれぞれ自分に課された責任というものがあり。それは人それぞれ程度が異なって然りである。重大な責任に関わる人だけが公益倫理的な自律的判断をしなければならないわけではなく。全ての人に、それぞれの責任において、自律判断を行わなければならないのである。
人は誰も神ではない。完全なる人など実存しえないからである。神が人の理想であるならば、それは目指すべき「方向。」ではあるが、誰もその行く先を認識することはできない。人は神ではないので、有限の認識能力しか持ち得ないからである。