意識とかとは無関係な話だったのだが。とある書き込みサイトに迷い込んでしまったので、何となく読んで見たのだが、若干炎上気味だった。
しかし、こうした書き込みの議論というのは。実際には議論にはなっておらず。「お前の言っていることは薄い。」だとか、「十年早い。」だのといった、単なるその場限りの勝ち負けとか、格好良さばかりに終始していて。何だか議論には一切なっていなかった。
そもそも勝ったつもりになっている人も、あまり独創性のあるような自発的意見ではなくて。どっかで聞いたような話をひけらかしているだけにしか見えなかった。内容的には栄養学的な話だったと思う。
大量の知識をひけらかしていると、大衆の観念的にはそれを知能であると錯覚する傾向がある。これは記憶力=知能という観念的な方程式に由来するものであって、この方程式に論理的根拠はない。
単に暗記能力だけを論ずれば、HDDに較べればヒトのそれは些細なものであろう。それならHDDの容量に比例する「知能。」が存在することの論証があろうか。
暗記を競技としたイベントがあるそうだが。これは単なる競技っであって、どんなに大量の記憶をしても、そこからノーベル賞級の発見とか発明がでてくるわけではない。そもそも記憶する内容自体が論理的な内容ではなく、支離滅裂なランダム情報の機械的記憶能力を競うだけのものであり。たとえどんなに大量の情報を記憶していても、その論理整合性の有無を発見できなければ、単に覚えたというだけのテープレコーダー的な能力でしかないのである。
実際、暗記コンテストの優勝者というのは。かなりイタい(+。+)人だったりする。一種の軽いサウ゛ァンなのではないか。
記憶術の類を習得すれば、大衆観念的には「自分は頭が良くなった。」と勝手に思い込むらしいのだが。誰一人として養老孟司の「脳化。」云々の話に論理整合性がないことには気付くことはない。茂木健一郎とかの脳科学者達は、暗記術の類を開陳して「ほら、皆さんの脳は良くなった。」なんて言われて、大衆は本気にしている。これは私から見ていると一種の軽い統合失調症なのではないかと思う。
こんなこと言われて気分的に嫌になるのは必然であろう。だが、おいらは読者の大脳辺縁系に組み込まれた機械的条件反射としての嫌悪感には一切感知しない。多少はするけど。
ごめんね。おいらはあんまり生物的な社会形成性がないので、気分的に当たり障りのない言い方が苦手なんだと思う。
気分的に嫌になっても。内容さえ論理的に理解してもらえればいいので、おいらのことを個人的に嫌いになっても構わないから、内容だけキチンと理解しておいてね。
嫌いな人間が正しいことを言うこともあれば。逆に好きな人間がトンデモ発言をしていることもあるんだよね。カルト宗教なんて、大好きな教祖様が地下鉄に毒ガス撒いて来なさいって命令されているでしょ。
個人的な好き嫌いなんていうのは、要するに生物学者が論ずる「潜在知。」であって、そんなものが本当の知能であるなんて話はオカルトでしかない。大脳辺縁系の構造とか、それが促す行動とかが、個人が個人である論証とか。あるいは人間としての知能であることの論証にもならないんだけどね。
だって、あなたの大脳辺縁系の構造っていうのは、結局は遺伝的なものでしょ。その遺伝子を、あなた並べた記憶なんてないでしょ。だったらあなたの大脳辺縁系ってあなた自身の選択によって作られたものではないのよ。大脳自体に記憶された潜在的な好き嫌いであっても、それも結局は育った社会とか時代に依存するものであって、時代とか社会自体もあなたの選択によるものじゃないでしょうが。
んで、養老とかの場合は、こっから「意識に意味はない。」とか「自分の自律などない。」とか「倫理、倫理の大合唱、いつからヒトはスズムシになったんだ。」なんて話に丸め込む。「客観的事実などない。」ってのもあったな。多分こいつ本気で言ってるぞ。
ヒトは、感情を揺さぶられると理性的な判断を失う性質があって。理性判断が失ったところで、上手に安心感を与えるような観念のまどろみに誘うと簡単にペテンに引っ掛かるようになる。「お金さえ振り込んで頂ければ、全ては丸く納まるんですがね。」なんつって。
だけど、おいらの意識に関する話には、そういったペテン的な逃げ道がないので、徹底的に理論的に追求するために。多くのヒトは逃げ出しちゃう。「ヒトはそれ程までに弱いもの。」なのかも知れないね。いや、突然急に理解できなくてもいいんだ。少しずつ、一つ一つを積み重ねることが大事。だからこうして断片的に説明しているんだから。前にも言ったけど、慣れることも大切。慣れないことは急にはできないものだからね。
だから、今日はこの辺までにしておくね。でわまた。
しかし、こうした書き込みの議論というのは。実際には議論にはなっておらず。「お前の言っていることは薄い。」だとか、「十年早い。」だのといった、単なるその場限りの勝ち負けとか、格好良さばかりに終始していて。何だか議論には一切なっていなかった。
そもそも勝ったつもりになっている人も、あまり独創性のあるような自発的意見ではなくて。どっかで聞いたような話をひけらかしているだけにしか見えなかった。内容的には栄養学的な話だったと思う。
大量の知識をひけらかしていると、大衆の観念的にはそれを知能であると錯覚する傾向がある。これは記憶力=知能という観念的な方程式に由来するものであって、この方程式に論理的根拠はない。
単に暗記能力だけを論ずれば、HDDに較べればヒトのそれは些細なものであろう。それならHDDの容量に比例する「知能。」が存在することの論証があろうか。
暗記を競技としたイベントがあるそうだが。これは単なる競技っであって、どんなに大量の記憶をしても、そこからノーベル賞級の発見とか発明がでてくるわけではない。そもそも記憶する内容自体が論理的な内容ではなく、支離滅裂なランダム情報の機械的記憶能力を競うだけのものであり。たとえどんなに大量の情報を記憶していても、その論理整合性の有無を発見できなければ、単に覚えたというだけのテープレコーダー的な能力でしかないのである。
実際、暗記コンテストの優勝者というのは。かなりイタい(+。+)人だったりする。一種の軽いサウ゛ァンなのではないか。
記憶術の類を習得すれば、大衆観念的には「自分は頭が良くなった。」と勝手に思い込むらしいのだが。誰一人として養老孟司の「脳化。」云々の話に論理整合性がないことには気付くことはない。茂木健一郎とかの脳科学者達は、暗記術の類を開陳して「ほら、皆さんの脳は良くなった。」なんて言われて、大衆は本気にしている。これは私から見ていると一種の軽い統合失調症なのではないかと思う。
こんなこと言われて気分的に嫌になるのは必然であろう。だが、おいらは読者の大脳辺縁系に組み込まれた機械的条件反射としての嫌悪感には一切感知しない。多少はするけど。
ごめんね。おいらはあんまり生物的な社会形成性がないので、気分的に当たり障りのない言い方が苦手なんだと思う。
気分的に嫌になっても。内容さえ論理的に理解してもらえればいいので、おいらのことを個人的に嫌いになっても構わないから、内容だけキチンと理解しておいてね。
嫌いな人間が正しいことを言うこともあれば。逆に好きな人間がトンデモ発言をしていることもあるんだよね。カルト宗教なんて、大好きな教祖様が地下鉄に毒ガス撒いて来なさいって命令されているでしょ。
個人的な好き嫌いなんていうのは、要するに生物学者が論ずる「潜在知。」であって、そんなものが本当の知能であるなんて話はオカルトでしかない。大脳辺縁系の構造とか、それが促す行動とかが、個人が個人である論証とか。あるいは人間としての知能であることの論証にもならないんだけどね。
だって、あなたの大脳辺縁系の構造っていうのは、結局は遺伝的なものでしょ。その遺伝子を、あなた並べた記憶なんてないでしょ。だったらあなたの大脳辺縁系ってあなた自身の選択によって作られたものではないのよ。大脳自体に記憶された潜在的な好き嫌いであっても、それも結局は育った社会とか時代に依存するものであって、時代とか社会自体もあなたの選択によるものじゃないでしょうが。
んで、養老とかの場合は、こっから「意識に意味はない。」とか「自分の自律などない。」とか「倫理、倫理の大合唱、いつからヒトはスズムシになったんだ。」なんて話に丸め込む。「客観的事実などない。」ってのもあったな。多分こいつ本気で言ってるぞ。
ヒトは、感情を揺さぶられると理性的な判断を失う性質があって。理性判断が失ったところで、上手に安心感を与えるような観念のまどろみに誘うと簡単にペテンに引っ掛かるようになる。「お金さえ振り込んで頂ければ、全ては丸く納まるんですがね。」なんつって。
だけど、おいらの意識に関する話には、そういったペテン的な逃げ道がないので、徹底的に理論的に追求するために。多くのヒトは逃げ出しちゃう。「ヒトはそれ程までに弱いもの。」なのかも知れないね。いや、突然急に理解できなくてもいいんだ。少しずつ、一つ一つを積み重ねることが大事。だからこうして断片的に説明しているんだから。前にも言ったけど、慣れることも大切。慣れないことは急にはできないものだからね。
だから、今日はこの辺までにしておくね。でわまた。