書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

書き込み炎上。

2011年03月23日 15時04分41秒 | 意識論関連
 意識とかとは無関係な話だったのだが。とある書き込みサイトに迷い込んでしまったので、何となく読んで見たのだが、若干炎上気味だった。

 しかし、こうした書き込みの議論というのは。実際には議論にはなっておらず。「お前の言っていることは薄い。」だとか、「十年早い。」だのといった、単なるその場限りの勝ち負けとか、格好良さばかりに終始していて。何だか議論には一切なっていなかった。

 そもそも勝ったつもりになっている人も、あまり独創性のあるような自発的意見ではなくて。どっかで聞いたような話をひけらかしているだけにしか見えなかった。内容的には栄養学的な話だったと思う。

 大量の知識をひけらかしていると、大衆の観念的にはそれを知能であると錯覚する傾向がある。これは記憶力=知能という観念的な方程式に由来するものであって、この方程式に論理的根拠はない。

 単に暗記能力だけを論ずれば、HDDに較べればヒトのそれは些細なものであろう。それならHDDの容量に比例する「知能。」が存在することの論証があろうか。

 暗記を競技としたイベントがあるそうだが。これは単なる競技っであって、どんなに大量の記憶をしても、そこからノーベル賞級の発見とか発明がでてくるわけではない。そもそも記憶する内容自体が論理的な内容ではなく、支離滅裂なランダム情報の機械的記憶能力を競うだけのものであり。たとえどんなに大量の情報を記憶していても、その論理整合性の有無を発見できなければ、単に覚えたというだけのテープレコーダー的な能力でしかないのである。

 実際、暗記コンテストの優勝者というのは。かなりイタい(+。+)人だったりする。一種の軽いサウ゛ァンなのではないか。

 記憶術の類を習得すれば、大衆観念的には「自分は頭が良くなった。」と勝手に思い込むらしいのだが。誰一人として養老孟司の「脳化。」云々の話に論理整合性がないことには気付くことはない。茂木健一郎とかの脳科学者達は、暗記術の類を開陳して「ほら、皆さんの脳は良くなった。」なんて言われて、大衆は本気にしている。これは私から見ていると一種の軽い統合失調症なのではないかと思う。

 こんなこと言われて気分的に嫌になるのは必然であろう。だが、おいらは読者の大脳辺縁系に組み込まれた機械的条件反射としての嫌悪感には一切感知しない。多少はするけど。

 ごめんね。おいらはあんまり生物的な社会形成性がないので、気分的に当たり障りのない言い方が苦手なんだと思う。

 気分的に嫌になっても。内容さえ論理的に理解してもらえればいいので、おいらのことを個人的に嫌いになっても構わないから、内容だけキチンと理解しておいてね。

 嫌いな人間が正しいことを言うこともあれば。逆に好きな人間がトンデモ発言をしていることもあるんだよね。カルト宗教なんて、大好きな教祖様が地下鉄に毒ガス撒いて来なさいって命令されているでしょ。

 個人的な好き嫌いなんていうのは、要するに生物学者が論ずる「潜在知。」であって、そんなものが本当の知能であるなんて話はオカルトでしかない。大脳辺縁系の構造とか、それが促す行動とかが、個人が個人である論証とか。あるいは人間としての知能であることの論証にもならないんだけどね。

 だって、あなたの大脳辺縁系の構造っていうのは、結局は遺伝的なものでしょ。その遺伝子を、あなた並べた記憶なんてないでしょ。だったらあなたの大脳辺縁系ってあなた自身の選択によって作られたものではないのよ。大脳自体に記憶された潜在的な好き嫌いであっても、それも結局は育った社会とか時代に依存するものであって、時代とか社会自体もあなたの選択によるものじゃないでしょうが。

 んで、養老とかの場合は、こっから「意識に意味はない。」とか「自分の自律などない。」とか「倫理、倫理の大合唱、いつからヒトはスズムシになったんだ。」なんて話に丸め込む。「客観的事実などない。」ってのもあったな。多分こいつ本気で言ってるぞ。

 ヒトは、感情を揺さぶられると理性的な判断を失う性質があって。理性判断が失ったところで、上手に安心感を与えるような観念のまどろみに誘うと簡単にペテンに引っ掛かるようになる。「お金さえ振り込んで頂ければ、全ては丸く納まるんですがね。」なんつって。

 だけど、おいらの意識に関する話には、そういったペテン的な逃げ道がないので、徹底的に理論的に追求するために。多くのヒトは逃げ出しちゃう。「ヒトはそれ程までに弱いもの。」なのかも知れないね。いや、突然急に理解できなくてもいいんだ。少しずつ、一つ一つを積み重ねることが大事。だからこうして断片的に説明しているんだから。前にも言ったけど、慣れることも大切。慣れないことは急にはできないものだからね。

 だから、今日はこの辺までにしておくね。でわまた。






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大脳辺縁系。

2011年03月23日 12時56分13秒 | 意識論関連
 現在の脳科学界においては、大脳辺縁系の働きこそが人間としての対処対応能力であると言い張る。

 たとえば、以下の文章である。

  大脳辺縁系では、恐怖や怒り、嫌悪、愛着、喜び、悲しみなどの情動といわれる、動物でも 持っている感情をつかさどっています。 たとえば、空腹のときには空腹の情動を感じます。 近くで大きな音がすれば、恐怖を感じます。 自分のなわばりを侵犯されれば、怒りを感じます。 大脳辺縁系のコントロールがあると、いつも決まりきった行動とはなりません。 さまざまな状況に応じて行動に変化が生まれます。 空腹のときには、まず空腹の情動が発生します。そして、そのときの状況に応じた方法で、 餌を探し始めます。


 これらの条件反射的行動はイヌでも可能な行動である。チンパンジーでも可能であろう。さて、これらの行動が人間であることの論理的な証明になるであろうか。

 通り魔の犯行動機とは、「ムシャクシャしたから。」といった感情論でしかありません。その「ムシャクシャ。」とは何か、これこそ大脳辺縁系の促す情動行動に他なりません。

 ネットでチンパンジーをググったら、共食いなどの狂暴行動が山ほどヒットしました。NHKの番組で放送したらしいのですが、現在の生物学に基づく脳科学的な「実証。」というものは、基本的にチンパンジーでもヒトでも同列に考えた、行動習性の結果論だけに基づいた事後追認的なこじつけでしかありません。

 アイヒマン実験において、被験者の多くが行った残虐行為であっても。これらは無意識的な情動行動に基づく行動結果であり。ミルグラムもまた、「サイバネティクスの観点から。」などと称して生物学的なこじつけをしています。こうしたこじつけというのは、偶発的にうまくいったこと「も。」あるから、そこには一定の意味があると言い張る詭弁でしかありません。

 振り込め詐欺に引っ掛かる人の脳においても、感情が理性を押し潰して行動を促すから引っ掛かるのであって。大脳辺縁系が促す情動行動というものは人間としての理性的行動や、意識の広さ、明瞭さを不具にしてしまうものでもあるのです。

 情動の全てが悪いわけではありませんが、単に情動行動だけを人間性であるとするのは乱暴過ぎる勝手な実証不能の観念でしかありません。情動というものは様々なものがあり、暴力的な感情や、利己的な感情も存在することは確かなのです。

 理性は、それ自体人畜無害なものであり。あくまで情動によってのみ行動が促されるのですが。しかし、その情動を選択することによって、自律的に自己の行動を制御することができるという、統合的な意識。本質的な意識の働きによって、より高い人間性として公益倫理的な自律判断行動が選択できるわけです。

 気分だけを論ずれば、こんな記事を書いて多数の大衆から嫌われるよりも。多数の世間に迎合しておいた方が、気分的にはどんなに楽であるか。それでも、本当の意味における社会的要請として考えれば、現在の嘘だらけの生物学や脳科学は批判するべきであると判断して、これを書いているのである。

 大脳辺縁系が促す情動行動というものは、あくまで環境に対する機械的条件反射行動でしかありません。どんなに「多くの場面。」において、それが生存価につながったとしても、それ自体が「人間としての社会性。」の証明にはならないのです。

 シエラレオネで生まれ育ったからとか、ナチス政権下で育ったからとか。そういった環境依存的な言い訳の全ては、自律判断の欠落を証明するものでしかありません。

 環境に依存せず、他人からの評価が得られなくても。たとえ迫害されてでも。何が正しいのかを自律的に判断できなければ、人間としての行動選択はできないものなのです。

 過去の偉人と言われる人達の多くは、こうした世間多数の観念と闘った話が残されています。脳外科医の福島孝徳さんだってそうでしょう。コーヒー豆でもないのに火炙りにされそうになっても「それでも地球は回っている。」とガリレオは言ったといいます。

 ナチス政権下において、ナチスが間違っていることを言えば。それがスイス山中での自害に追い詰められることにもなるんです。


 世間一般の人達というのは、漠然と「社会的に成功している人というのは、知能が高いものであり。また、盲目的に信頼して構わない権威である。」と思い込む傾向があります。「多数の人達に認められているから、間違いなどない。」と、錯覚するのです。

 しかし、現実には多数の人間が疑わないという一面的事実だけに基づき、単に気分的に安心して、思考停止に陥っているだけの場合がほとんどです。

 帝京大学の「血液製剤の権威。」に対して、当時の厚生省の役人の誰も疑うことをしなかったのは何故でしょう。マスコミは、たまたま失敗した役人の悪口をひけらかして正義になった気分を煽るだけで。自分達の間違いは自律的には訂正するつもりは一切ありません。「ヒトとは、そういうもの。」なのです。これは大きな組織になる程体制維持ばかりに固執する傾向があります。北朝鮮などが典型的でしょう。

 組織が大きい程、その組織に対する従順性を発揮していないと不安であるという習性は。生物学的な社会形成習性に由来するものです。組織が大きい程安心し、同時にマイノリティを排除するという情動行動を促すものであり。これは組織の大きさを権威性と見なす観念からくる行動なのです。

 これは子供のイジメなどにも見られる行動原理です。イジメをする側の多数集団を権威として見なし。閉じられた社会の内部における少数派の排除を行う本能的な情動行動であり。その行動は極めてパターン性が強く、普遍的に見られる行動習性なのです。

 何せ、本能的な行動ですから。その行動が先鋭的であるため、イジメはより虐待性が強く反映されることになるわけです。

 暴動などにおいても、その人数というのは狂暴性との比例関係があります。恐らく人数の何乗かに比例するのではないでしょうか。あまり社会心理学的な実験はして欲しくはないのですが。フランスとかではアイヒマン実験をテレビ番組で再現したそうですから。ヨーロッパ人だとやりかねないですね。白人というのはそういうところはシニカルな民族性があります。

 集団心理といわれる、一連の行動習性というものも。要するに本能的に集団で行動することが気分的に安心であることから生ずるものであり。逆にいえば、集団に迎合していないと反って不安に陥ることから、強迫観念的に迎合してしまうわけです。

 日本人というのは、根本的に共同体意識が強い臆病な民族ですから。権威とか多数に対して非常に無批判的であり、同時に迎合的でもある。幼少期にイジメなどを間近で経験していると、余計に迎合性が強くなり、同時に批判精神を失うことになるわけです。

 ヒトという種の生物は、服従する者と、統率する者に分かれる傾向性があります。しかし、これはあくまで本能習性的な結果論であって、それ自体は目的意識があって分かれるわけではありません。単に統率したがる者と、服従してしまう者がいるというだけのことであって、それが必ずしも正しい結果を導くとは限らないのです。

 単に多数の人間から人気があるからといって。それが本当に信頼に値すべき人物であるかどうかは、言っている内容の論理整合性とか、責任性とかで判断すべきことなのであって。何となく無意識的に「マスコミが責任持っているはずだ。」などと思い込むのは、あまりに短絡的で、無防備なのです。

 テレビのCMで流しているからといって、それが短絡的に信用してよいというものではないのです。だからマスコミは「メディアリテラシー。」を視聴者に要求する。これはマスコミの責任逃れの言い訳でしかないのです。金さえ払えば誰でもTVCMは流せるんです。広告収入なしに民放なんて成立しませんから、広告主の批判なんてするわけないでしょ。民放なんて資本主義の奴隷でしかないんですよ。

 恐ろしいことにNHKであっても、大衆に人気が得られそうにない話は無視するんですよ。「視聴者の皆様から、要望がなかったから。」ってね。漫画家の「くらたま。」とかいう観念の塊みたいな人間を審査委員会だかに雇っているでしょ。あれは明らかに大衆からのウケ狙いですよ。香山リカを雇っている大学とかも同じです。大学だって生徒を入れなきゃやってられない。だから学者としてはE級であっても世間的にウケの良い人間を教授に祭り上げておく。さかなクンは実力派らしいけど。



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