古代律令国家では、中央と地方を結ぶ官道が整備され、主要な官道で
は凡そ30里毎に、荷物を運搬する馬や人夫を置き、旅人を泊める家を用
意した。これを「駅馬」、「駅家」と呼び、国司の管理下に置き事務を
司る「駅長」が置かれていた。
こうして馬や人夫を、その場所でリレーして繋ぎ、物や情報(手紙)
を伝達した。所謂「駅伝制」と言われるものだ。
しかしこの制度は平安時代の終焉と供に衰退し、武家の幕府が成立す
ると「駅」や「駅家」という言葉も、「宿」や「宿場」などに置き換え
られることになる。
「宿」が歴史の資料に登場するのは、鎌倉幕府の成立以後に多くなる
らしい。最もこの時代の「宿」は、『在地の領主の館に付属して立地し、
家臣たちの集住する(中略)麓集落、いわゆる軍営』のことらしい。
(中世の東海道を行く2008年4月 榎原雅治 中央公論新社)
鎌倉幕府が成立すると、直ちに「駅路の法」を定め、公の使節の往来
にあたっては、沿道の荘園から馬やその飼料、人夫や食料などが徴用出
来ることとした。こうして国家的な備えとしての交通路の整備が始まる
ものの、当初は通路や路面の整備までは手が回ら無かったようだ。
当時は、茫漠として広がる草原の中に開かれた道の目印として、僅か
に「柳」が植えられていたに過ぎないらしく、道造りよりも、もっぱら
連絡のための馬継ぎや、渡渉のための拠点作りに重点が置かれていた。
その役割を担ったのが軍営で、そこには幕府が派遣する軍団や公用旅
行者などの宿営地としての機能も期待されていた。
これが「宿」の起こりという。
(写真:津山市 出雲街道 玉琳追分)
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