簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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菊川坂の石畳 (東海道歩き旅・遠江の国)

2020-08-17 | Weblog


 菊川坂は、江戸は文政年間の助郷制度により、近隣12か村に割り当て
られ、助郷役の人々により敷設された380間(約690m)の石畳道である。
助郷とは、幕府が宿場周辺の村落に課した労働課役のことである。
徴発された農民たちには迷惑この上なく、その負担は相当なものであっ
たようだ。



 嘗ては林の中の薄暗い中を下る坂も、昭和の高度経済成長期に開発が
進み、木々は切り倒され、道が整備されるなどで僅か161mを残すのみ
となっていた。その後平成の発掘調査では、アスファルト舗装の下に埋
まった道が見つかり、調査の結果この道は江戸時代後期に敷設されたも
のと確認されている。



 当地では東海道400年祭りにあたり、先人の助郷制度に因み、「石畳
菊川坂助郷伝説」と銘打ち、平成の助郷事業が行われた。
町内外から集まった500名を越える人々の手で、往時の石畳道を復元す
る道普請である。これにより菊川側の登り口に残されていた古道に続く
700mほどの石畳道が整備された。
集められた石はおよそ7万個にも及んだという。



 周りの緩やかな傾斜地には、相変わらず広大な茶畑がうねる様に広が
っている。日本一の茶処である静岡県の全国シェアは4割を超えるが、
その生産量の半分以上をこの牧の原台地周辺の茶畑が担っている。
温暖な気候、長い日照時間、何よりもこの広大な平坦地が生産に大きく
寄与していると言う。



 やがて前方の視界が大きく開けると、木立の隙間から間の宿・菊川の
家並みが見えてくる。ここまでくれば厳しい坂はもはや最後である。
150年ほど前に作られた丸石の古道となり、時代を噛みしめながら下れば
街道は、間の宿・菊川の集落へと入っていく。(続)





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