「此の宿大に繁花なり 家並みも美々しく遊女も海道第一にして
少しく江戸の風まねぶ」
精神川に架かる裁断橋を越えると伝馬町で、直ぐ左手に姥堂があり、
ここから宮宿に入る。この「宮」は熱田神宮を省略した言い方で、宿場
の発展はこの神社に負うところが大きい。
その為熱田宿とも呼ばれる宮宿は熱田神宮の門前町で、宿場町でもあり、
七里の渡しを控えた湊町でもあった。
当時は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠の数は248軒を数え、戸数3,000軒、
人口は10,000人を越す東海道でも最大規模の町であった。
伝馬町の通りには旅篭、料理屋・茶屋や商家が立ち並びその間に、本陣・
脇本陣や問屋場が入り交じり、賑やかに連なっていた。
伝馬町の西の外れは三叉路である。
ここを右に取れば熱田神宮前を経由し、名古屋城下へは1里半の道程だ。
又途中今日の金山辺りから西に向かうと岩塚、万場、神守、佐屋の宿を経
る6里の佐屋街道で、佐屋から桑名迄は3里の木曽三川を下る舟渡しだ。
船酔いを避ける者や、船内の治安を気にする女性などが、七里の渡しの
迂回路として利用した陸路だが、ここも最後は船渡しが待っている。
伝馬町の通りの突き当りに源大夫社があった。
源大夫は、ヤマトタケルが東征の折家に泊め、我が娘である宮簀姫を娶
らした地主神である。
後に東海道の守護神として、熱田の摂社に祀られることになる。
そこを左に折れると神戸町で、宿場の町並は七里の渡し場へと続き、
その一番先に熱田神宮の一の鳥居が立っていた。
これは広重の描く五十三次の天保版の宮宿図の通りである。
この通りには飛脚問屋、奉行屋敷、尾州藩の西御殿や東御殿が威容を
誇り、舟会所、高札場があり、行き止まりが波止場であった。(続)
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少しく江戸の風まねぶ」
精神川に架かる裁断橋を越えると伝馬町で、直ぐ左手に姥堂があり、
ここから宮宿に入る。この「宮」は熱田神宮を省略した言い方で、宿場
の発展はこの神社に負うところが大きい。
その為熱田宿とも呼ばれる宮宿は熱田神宮の門前町で、宿場町でもあり、
七里の渡しを控えた湊町でもあった。
当時は本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠の数は248軒を数え、戸数3,000軒、
人口は10,000人を越す東海道でも最大規模の町であった。
伝馬町の通りには旅篭、料理屋・茶屋や商家が立ち並びその間に、本陣・
脇本陣や問屋場が入り交じり、賑やかに連なっていた。
伝馬町の西の外れは三叉路である。
ここを右に取れば熱田神宮前を経由し、名古屋城下へは1里半の道程だ。
又途中今日の金山辺りから西に向かうと岩塚、万場、神守、佐屋の宿を経
る6里の佐屋街道で、佐屋から桑名迄は3里の木曽三川を下る舟渡しだ。
船酔いを避ける者や、船内の治安を気にする女性などが、七里の渡しの
迂回路として利用した陸路だが、ここも最後は船渡しが待っている。
伝馬町の通りの突き当りに源大夫社があった。
源大夫は、ヤマトタケルが東征の折家に泊め、我が娘である宮簀姫を娶
らした地主神である。
後に東海道の守護神として、熱田の摂社に祀られることになる。
そこを左に折れると神戸町で、宿場の町並は七里の渡し場へと続き、
その一番先に熱田神宮の一の鳥居が立っていた。
これは広重の描く五十三次の天保版の宮宿図の通りである。
この通りには飛脚問屋、奉行屋敷、尾州藩の西御殿や東御殿が威容を
誇り、舟会所、高札場があり、行き止まりが波止場であった。(続)
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