慶長6(1601)年江戸に幕府が開かれると、家康は江戸と京都の情
報伝達の迅速化を目指した。
伝馬の定めにより、「道筋」を定め、「宿」を整備し、宿に馬36疋を
置き運輸伝達に責任を持つことを命じている。
この折発した『伝馬定・伝馬朱印状は写しを含めかなり確認できるが、
(中略)桑名宛の伝馬定には「上口者四日市、下ハ宮へ船路之事」と明
記されている』(「中世の東海道を行く」榎原雅治 2008年・中央公論
新社)ので、これにより熱田の宮から四日市までの舟渡しが東海道の正
式なルートとして定められた事が解る。
その後七里の渡しは宮宿と桑名宿を結ぶ東海道で唯一の海路となった。
距離が凡七里有りこう呼ばれているが、実際の航路は、潮の干満により
大きく異なり、干潮による外回りのコースを取ると距離は十里にも及ん
だと言う。
標準的な所要時間は4時間と言われている。
しかし干満による距離の相違、潮の流れ、風の具合にも作用され2時間と
も、或は7時間も要したとも伝えられている。
宮宿の七里の渡し渡船場には、大きな常夜灯が立ち、舟番所や浜御殿、
本陣、舟奉行所などが軒を連ねていた。
湊には大名向けの豪華な御座船から、庶民の乗る帆掛け船まで、大小様々
な渡し船が75艘用意されていて、渡船は夜明けから日没前(午後4時頃と
いう)にかけて運行されていたと言う。
嘗ては、「何時でも舟を出しければ・・・」であったが、由井正雪の
乱以降は幕府のお触れにより夜間の運航は禁止された。
又、舟番所では桑名へ渡る乗客の名を控えていたと言うから、関所改
めの役割と同時に、今日で言う乗船名簿を扱っていて、これが日本で最
初のことでは(「海上交通」愛知県史)と言われている。(続)
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