およそ800m南下し、国道250号線に接する県道を横切ると旧山陽道
に行き当たる。ここで線路跡は大きくU字カーブし旧道上を北上する。
暫く行くと右手にバスの車庫が見えてくるが、ここが「森下」駅の跡地
である。
ここは先行開業した長岡から、更に延伸した当時の終着駅だ。
当初の計画では、このまま旧山陽道に沿って南下し、市内の門田屋敷に
向かい市内電車や、翌年開通が予定されていた三蟠軽便鉄道(桜橋~三
蟠)などとの接続を目指していた。
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用地の買収や資金繰りなどの問題も多く、現行ルートの後楽園終点に
落ち着いたようだ。
この不自然な大きなU字カーブが、その延伸計画の挫折を物語っている。
ところでこの旧山陽道だが、岡山を開府した宇喜多直家時代より以前
には、今の中心市街地を大きく外れた北の方を通り抜けていた。
直家はそれを南下させ、城の近くを通すルートに変更し、更に後を継い
だ秀家は、旭川に橋を架け、城を迂回するようなルートに改めている。
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結果旅人は、城を見ながら城下を一回りすることになり、この事で城
下町に人が集まり繁栄をもたらした一因と、今日では評価されている。
とは言え江戸中期に、はや100万人の人口を要していた江戸の町に比べ
れば、ここ岡山の城下町は武家が約23,000人、町人が約30,000人程度の
規模で有ったと言う。
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旧西大寺鉄道は、岡山市街地に乗り入れるに当り、ルートをこの旧山
陽道の道筋に目を付けた。
すでに踏み固められた街道筋を使うことで、新たに堤を築く等、経費の
削減を目論んでいたのであろうがそれでも資金が足りなかったようだ。(続)
コロナ禍は お家でトラベル こちらへどうぞ 
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に行き当たる。ここで線路跡は大きくU字カーブし旧道上を北上する。
暫く行くと右手にバスの車庫が見えてくるが、ここが「森下」駅の跡地
である。
ここは先行開業した長岡から、更に延伸した当時の終着駅だ。
当初の計画では、このまま旧山陽道に沿って南下し、市内の門田屋敷に
向かい市内電車や、翌年開通が予定されていた三蟠軽便鉄道(桜橋~三
蟠)などとの接続を目指していた。
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用地の買収や資金繰りなどの問題も多く、現行ルートの後楽園終点に
落ち着いたようだ。
この不自然な大きなU字カーブが、その延伸計画の挫折を物語っている。
ところでこの旧山陽道だが、岡山を開府した宇喜多直家時代より以前
には、今の中心市街地を大きく外れた北の方を通り抜けていた。
直家はそれを南下させ、城の近くを通すルートに変更し、更に後を継い
だ秀家は、旭川に橋を架け、城を迂回するようなルートに改めている。
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結果旅人は、城を見ながら城下を一回りすることになり、この事で城
下町に人が集まり繁栄をもたらした一因と、今日では評価されている。
とは言え江戸中期に、はや100万人の人口を要していた江戸の町に比べ
れば、ここ岡山の城下町は武家が約23,000人、町人が約30,000人程度の
規模で有ったと言う。
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旧西大寺鉄道は、岡山市街地に乗り入れるに当り、ルートをこの旧山
陽道の道筋に目を付けた。
すでに踏み固められた街道筋を使うことで、新たに堤を築く等、経費の
削減を目論んでいたのであろうがそれでも資金が足りなかったようだ。(続)
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