時は戦乱の時代で有る。
全国の大名達は国の統一を目指し、しのぎを削っていた。
勢力を得て常に近隣地へ侵攻し、領土を拡大し、やがては天下国家の支
配をと虎視眈々と狙い野望をメラメラと燃やしていた。
永禄3(1560)年、満を持して上洛を目指す駿河の今川義元は、遠江・
三河の兵、二万五千の大軍を率いて尾張に攻め込んできた。
5月19日朝、五千の兵で沓掛城を出た義元は、大高城に向けて進軍した。
早朝この知らせを聞いた尾張の織田信長は、僅か六騎で清須城を出る。
途中、熱田神宮に立ち寄り戦勝祈願を行う頃には、ようやく追いついた
家臣で1000人ほどになっていた。
尾張方の先方隊300騎は、早くも善照寺砦から出陣し、当日昼頃今川
軍と刃を交えるものの、多勢に無勢で勝負は明らか、今川軍の一方的な
勝利に終わる。
田楽狭間(ここから南西1キロほど離れた豊明に有る)で勝利を聞い
た義元は、輿から降り松林を本陣として勝利の宴を始めた。
一方大将ケ根で、人数待ち待機をする信長軍は、ようやく3000人ほど
に膨らんでいた。
折しも西北の空には暗雲が巻起こり、激しい雷雨となる。
これに乗じて進軍した信長軍は、雨上がりの午後2時、すっかり寛い
で緊張感も緩くなった今川本陣を急襲した。
油断していた今川軍も応戦するが周辺の深田に足を取られ力尽き、逃げ
ることもままならず総崩れ、大将・義元は首を取られてしまう。
それから幾星霜の後の世の事。
この地に供養の七石表(七本の供養のための石塔)が建てられたのは、
明和8(1771)年の事と言う。
一号碑には「今川上総介義元戦死所」と刻まれ、義元の戦死した場所を
示し、二号碑は松井宗信、三号碑以下は義元の五人の武将の戦死した場所
とされている。
このことから当地が古戦場である、と言う根拠とされたらしい。(続)
こちらもどうぞ
にほんブログ村
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます