「村社 熊野神社」の境内前には、「鎌倉街道遺跡」、「尾崎の一里
塚」などの案内板も建てられている。
鎌倉に幕府が開かれると、京都と鎌倉の間に63駅を定めた鎌倉街道が
設置され、その古道がこの神社の森を通り抜けていたという。
そこから数百メートルほど西進した宇頭町は、嘗て大浜茶屋村と呼ば
れた地で、昔上り下りの立場が有った所だ。
江戸(東京)行幸される明治天皇も、ここで休憩された。
その先に、永安寺と言う寺院があり、境内に見事な松が見えたので、
見学がてら、ここで水分補給の一休みをさせて頂くことにした。
この村の庄屋であった柴田助太夫の旧宅跡に、草庵として建立され、
彼の死後、本人とその妻の戒名から、「本然山 永安寺」と名付けられ、
曹洞宗に属したのがこのお寺だそうだ。
松は県の天然記念物に指定された、樹齢350年の「雲龍の松」である。
珍しい事に、幹が垂直に延びず背丈ほどのところから、地面に沿うよう
に枝を伸ばしている。
その昔当地では、「助郷制度」が民の生活を苦しめていた。
見かねた庄屋の助太夫は、農民の窮状を訴え、制度の免除を願い出たが、
藩はお上にたてつくは不届きとして彼を死罪とした。
やがて村の助郷役は免除になり、救済される事になったので、領主の
交替毎に助太夫の一件を説明し、幕末期まで免除を続ける事が出来た。
農民がそんな庄屋の厚恩に感謝し、建立したのがこの草庵と言われている。
この「助郷制度」というのは、大名などの対応で多くの人馬を必要とする
場合、宿場だけでは不足することが有り、周辺の村から基準数に満たない不
足分を雇い入れる制度である。
雇い入れると言えば体は良いが、支払われる賃銀は安かった。
助郷の村々に取っては、使役ばかりが負担と成り、宿場の困窮を転嫁される
だけの制度と思われ、不評であったと伝えられている。(続)
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