クランク状に曲がる道を「曲尺手」と書いて、「かねんて」と呼ぶ。
どの宿場内にも何カ所か造られていた。
幕府にとっての街道は、軍事的な目的のある道で、外敵が宿場に容易に
侵入しない為、しいては江戸に向けて容易に侵攻させない目的があった。
今なら車の為に可能な限り広く直線で、となるが当時は全く逆で、狭く
何度も曲げてが当たり前であった。
また、参勤交代が制度化されて以降は、行き交う大名同士が宿内で鉢
合わせしないようにする工夫等とも言われている。
出会えば格下の大名は駕籠を降り、頭を垂れ、道を譲らなければならな
い決まりで、こんなことになれば行列差配の藩士は、切腹もので有る。
更に街道の距離を意図的に延ばし、人を多く住まわせる効果をも狙っ
たもの等、このクランクには様々な目的が推測も交え伝えられている。
再現された東の棒鼻の左側に細い道がまっ直ぐに延びていて、そこを
直進すると、その先が曲尺手である。
右に折れ、更に左に折れて町中に入っていくが、その入口に寛政年間に
建立された秋葉山の常夜灯が残されている。
その先は真っ直ぐに宿場町らしい町並の旧街道が続いている。
「藤川のしゅくの 棒ばなみわたせば 杉のしるしと うで蛸のあし」
当時はこの棒鼻から宿内を見わたすと、店先にはうで(ゆで)た蛸の
足がぶら下がり売られていたようだ。
「杉のしるし」は酒屋の店先の杉玉のことかと思ったが、杉の木で出来た
どうやら榜示杭のことらしい。
「蛸の足」は下がる様で、当地の名物である藤の花を暗示している。
宿場には本陣、脇本陣各1軒、旅籠36軒、戸数300余軒、人口1,200人
余りと言うから、規模的には御油や赤坂と同程度の宿場町のようだ。
この宿も「遊女」が多く、相場は他の宿と同じ500文であったらしい。(続)
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