簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

猿飛佐助(東海道歩き旅・近江の国)

2024-02-19 | Weblog


 右手にはほぼJR草津線が併走し、その向こう側を野洲川が流れている。
反対側は、吉永山など標高数百メートルほどの山並みが続き、間近まで
迫っていて旧街道はそれらに挟まれた地をやや頭を北に向けながら進路
は西に向けて延びている。
旧道らしく広くは無い道幅で、曲がりくねった道が続いている。



 吉永地区に入るとこの辺りでは至る所で「猿飛佐助のふるさと 三雲
城址」の幟旗を目にするようになる。
 道路脇に「吉見神社」の石柱があり、その先右側には、「きずな街道
休憩所」があった。
三雲城址に登る観光客向けの、休憩時兼駐車場の様な施設だ。



 壁に貼られた説明によると猿飛佐助は講談や立川文庫の小説、ゲーム
などに登場し、真田幸村に仕え、真田十勇士の一人として活躍した。
大坂夏の陣で徳川方に敗れた後、幸村と共に薩摩に落ち延びたとされる。



 架空の忍者との説が一般的で、モデルとされる人物はいたらしいが、
作家の司馬遼太郎は、小説「風神の門」の中で猿飛佐助の実在説を支
持している。

 それによると、甲賀五十三家で、吉永山に城館を構え三雲庄(吉永村、
三雲村、妙感寺村)を治めた三雲新左衛門賢持が、近江の守護職・佐々
木家に仕え、間忍(忍術)の事を司った。



 その後、三雲家は新太夫賢方の代になり、三人の子供が生まれた。
その頃主家の佐々木氏は織田信長に滅ぼされたが、兄二人は忍者として
上杉氏と筒井氏に仕えさせた。
 末子の佐助賢春だけは手元で大事に育てたが、これが後の猿飛佐助と
されている。賢春は賢方の死後甲賀の山を下り、大坂の豊臣家に仕えた
と言う。(続)





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