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江戸幕府は宝暦3(1753)年12月、お手伝い普請として木曽三川の
分流工事を薩摩藩に命じた。
剣では後れを取らぬ薩摩隼人でも、土木作業は全くの素人集団である。
幕府には絶対服従の時代、異を唱えることも叶わず、翌年1月総奉
行・平田勒負(ひらたゆきえ)を初めとする薩摩藩士947名は美濃の地
に派遣されることに成る。
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「輪中」地帯の尾張側には「お囲い堤」が聳え建っていたが、美濃側
はそれよりは一段と低い堤しか築く事を許されなかった。
徳川御三家の領地・尾張を守るためである。
元々木曽三川は各川の水面の高さが違うため、ひとたび豪雨に見舞われ
ると、大水害から逃れることが出来ず、洪水の常襲地帯となっていた。
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流石に幕府も、度々の大水害を見捨ててもおけず川普請に着手するが、
その工事を当時の有力な大名、薩摩藩77万石に下命したのだ。
外様大名であり、苦しい藩財政を琉球との交易で支える薩摩藩の勢力
を更に衰えさせるため、幕府が工事資金を出さないお手伝い普請とする、
所謂外様潰しの方策で有る。
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土木工事の素人集団が立ち向かうには、自然の猛威は余りにも大きく、
その工事は凄惨を極めることになる。
工事が始まって僅か一ヶ月半、ついに最初の犠牲者が出た。
幕府への反抗心から自害したらしいが、「腰の物(刀)にて怪我」と届
けられ、命を賭した抗議は無念にも闇に葬られた。
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過酷な飯場での生活、工事も難渋を極め、事故や病で多くの藩士の死
亡も相次いだ。度重なる設計変更や工事費の増額など、不条理な幕府の
対応に藩士の義憤も募っていく。
前代未聞の大工事は、藩に多額の借財を残し、有能な藩士をも失う結果
となってしまった。(写真:治水神社)(続)
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