簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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薩摩義士の墓(東海道歩き旅・伊勢の国)

2023-01-13 | Weblog
 宮と桑名の七里の渡しは、潮位や風の影響を受け、何時間も要した。
標準的には4時間、潮の流れや風向き、風の強弱で、時にはその倍の時
間を要することも有ったと言う。
 深刻な困り毎はトイレで、男は竹筒を使えるが、女はそうも行かない。
これを心配して陸路の佐屋街道を選ぶ女性が多かったらしい。


 
 現在では、木曽三川の下流域に鉄橋が何本もかけられ、JR線や近鉄
線、国道や高速道路と様々なインフラが整っている。
関西本線を走るJRの快速・みえなら20分程で駆け抜ける。

 東海道五十三次歩きの再開である。
桑名駅東口を出て、七里の渡しの終点、桑名の渡し場跡を目指す。



 駅前からの通りを東に向けて700m程行くと、左側に「法性山海蔵寺」
という曹洞宗の寺がある。天正2(1574)年創建の古刹で、「薩摩義士
を祀る寺」として知られている。

 宝暦の治水工事は、凄惨を極める中僅か1年と言う短期間で完成した。
しかし、その間の代償は余りにも大きく、幕府への義憤から抗議の自害は
51名に及んだが、その死は全て「腰の物(刀)にて怪我」と届けられた。
病死も33名を数え、薩摩藩は財政も人材でも多くの犠牲を払う事になる。



 死者を弔う筈の近隣の寺々は、幕府を憚り、係わりを避け、供養の埋
葬さえままならなかったらしい。

 それらを決着させ、鎮魂の思いを込めた工事奉行の家老・平田勒負は、
労苦を共にしながら、半ばで逝った多くの藩士と共にこの地に眠る事を
決意し、終には自裁する。
しかしその死すら「持病による病死」と、幕府には届けられている。



 藩士の供養先が見付からぬ中、海蔵寺には当初割腹した14名の藩士が
葬られた。後に廃寺となる安龍院に葬られた10名の藩士もここに改葬さ
れ、今では平田靭負を中心に24名の墓が現存し市指定史跡となっている。



 毎年、平田靱負の命日の5月25日には「薩摩義士追悼特別法要」が挙
行され、薩摩義士の子孫や関係者など多くの方々が参列すると言う。

 後に成り、工事現場の締め切り堤防には、「治水神社」も建立された。
今では義士の墓所は、岐阜県下に10ケ寺、三重県下に3ヶ寺、京都伏見に
1ヶ寺あると言う。(続)





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