簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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豊川に掛かる豊橋(東海道歩き旅・三河の国)

2021-12-03 | Weblog
 路面電車が通る宿場町は、豊橋駅前の賑わいに代表されるように、大
都会の様相で、お城を見なければ城下町・宿場町とは思えない程に往時
の面影は失われている。
旧街道筋にも、マンションや大小のビルを始め事務所や商店、飲食店な
どが建ち並んでいた。



 市内の松葉公園の辺りには、宿場の西口である惣門があったらしい。
そこを出ると旧東海道は、豊川に架かる「豊橋」を渡る。
「昔は今橋と云し」と伝わるように中世の頃は「今橋」、江戸時代には
「吉田」と呼ばれ、明治維新になり「豊橋」となる、当地の地名の由来
となった橋だ。



 昔から「東海道に大きな橋四つあり」と言われた。
「むさしに六ごうの橋、やはぎの橋、おうみのせたのから橋」と並び称
されたのがこの橋である。
当時は「吉田大橋」と呼ばれ、是より下流70m程の処に架かっていて、
その長さは200間(凡216m)と伝えられている。



 橋の南詰め辺りには、「船町」や「湊町」と言う地名が残されている
ように、旧吉田大橋の近くには吉田湊という川湊がり、ここから川崎や
勢州(伊勢の国)・白子への船便があったようだ。



 今では陸路の五十三次の方にスポットライトが集まり、当時の海上交
通が語られることはあまりない。
しかし、これまで見てきた街道筋の、沼津や江尻などの要所には幾つか
の湊も有り、舟便も結構発達していたらしい。
当時の幕府は海上交通にも抜かりなく目を配っていたようだ。



 しかしその船賃ともなると、どうであったのか。
今切の渡し(浜名湖)は当初、銭4枚と言われたが年々高くなっている。
現在の価値で言えば、1000~2000円位である。



 しかし近場であっても外洋を行く船賃は、庶民にとっては恐らく目の
玉が飛び出る程高く、気楽に乗れるものでは無かったのではないか。
商船に乗り込み、江戸と大坂を海路で行き来するお大尽もいたらしい。
銭を持たない庶民は、ひたすら陸路を歩くより仕方が無かったようだ。(続)



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