避難などでやむを得ず外出する際は、傘やレインコート、マスクなどで身を守り、屋内に戻ったらシャワーで体を洗い流すなどして、放射性物質の体内への吸収を避けることが重要という。同情報室は「雨にぬれたコートなどは玄関などの決められた場所に置き、不用意に屋内に持ち込まないことも大切だ」としている。 時事通信 3月15日(火)13時38分配信
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概要
原子爆弾が投下された広島市及び長崎市の両方で、黒い雨の記録が残っている。また、フランスの核実験場であったムルロア環礁や[1]、ソ連の核実験場であったセミパラチンスク周辺でも[2]、原子爆弾投下後の降雨の記録が残っている。
広島市では、主に北西部(下記参照)を中心に大雨となって激しく降り注いだ。この黒い雨は強い放射能を帯びているため、この雨に直接打たれた者は、二次的な被爆(被曝)が原因で、頭髪の脱毛や、歯ぐきからの大量の出血、血便、急性白血病による大量の吐血などの急性放射線障害をきたした。大火傷・大怪我をおった被爆者達はこの雨が有害なものと知らず、喉の渇きから口にするものも多かったという。原爆被災後、他の地域から救護・救援に駆けつけた者も含め、今まで何の異常もなく元気であったにもかかわらず、突然死亡する者が多かった。水は汚染され、川の魚はことごとく死んで浮き上がり、この地域の井戸水を飲用した者の中では、下痢をする事が非常に多かったという。
長崎でも、黒い雨の降雨記録が残っている。黒い雨は爆風や熱線の被害を受けなかった地域に降り注ぎ、広範囲に深刻な放射能汚染をもたらした。
主成分
広島県高須地区にある民家の応接間の壁裏に残っていた黒い雨の跡(白壁に上から墨滴を流したような黒い線)を分析した結果、炭素・珪素・鉄、そして原爆由来のウランが主な成分として検出されたことが、1986年1月17日に日本放送協会(NHK)が放映(製作:NHK長崎放送局)した番組[3]の中で報告された。番組内では特に鉄分について、爆発時の熱によって蒸発した広島市内の鉄構造物によるものだけではなく、爆弾そのものの鉄分である可能性についても言及している。なお、この雨の跡からは、セシウム137(半減期30年)が微量検出されている。
放射線の作用として水が黒くなる訳ではないため、原子爆弾が投下された地域の建造物にアスファルトやコンクリートが多用されていた場合、それらの粉塵によって雨が白く見える可能性もある。
広島における降雨地域
従来、広島において黒い雨の降った範囲は、当時の気象技師の調査などに基づき、爆心地の北西部に1時間以上降った「大雨地域」(南北19km、東西11km)と1時間未満の「小雨地域」(南北29km、東西15km)だとされ、国はそれに基づき「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断やがんなどの特定疾患発病時の被爆者健康手帳の交付を行ってきた。だが、実際にはその地域よりはるかに遠い地域でも降雨が報告されており、この基準に対する批判が多かった。近年になって降雨範囲が従来よりはるかに広いことが広島市による被爆者の聞き取り調査により判明した。さらに、広島大学原爆放射線医科学研究所の星正治教授らが爆心地から8km離れた「小雨地域」の土よりセシウム137を検出し、黒い雨の降雨範囲を始めて科学的に立証した。これらの事実を受け、広島市では2010年度から2年かけて改めて原爆投下当日の気象状況を元に黒い雨の降雨範囲のシミュレーションを行うことを発表した。
関連作品
広島での被爆をテーマにした井伏鱒二の『黒い雨』という小説が知られる。1965年『新潮』で連載された。当初は『姪の結婚』という題であったが、連載途中で『黒い雨』に変わった。この作品は重松静馬著『重松日記』を原資料とし創作を加えたもので、今村昌平監督のもと1989年に同名の『黒い雨』として映画化された。
脚注
- ^ 核実験 - 機密にされた軍の文書館 フランスが決して告白しようとしなかったこと ヴァンサン・ジョーヴェール、『ル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥール』1998年2月5日-11日号
- ^ 核は大地に刻まれていた~“死の灰” 消えぬ脅威~(NHKスペシャル)、日本放送協会、2009年8月6日放送
- ^ 黒い雨~広島・長崎原爆の謎~(NHK特集名作100選#6) なお、この番組のディレクターは後に著名になった山登義明である。