教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

サンミュージック波乱の50年 引きずった岡田有希子の死「お父さんの一言に救われた」

2018年11月18日 14時56分17秒 | 芸能ネタ
ミュージック波乱の50年 引きずった岡田有希子の死「お父さんの一言に救われた」



08:40


創業者の故・相澤秀禎さんと二人三脚でサンミュージックプロダクションを設立した元専務、福田時雄名誉顧問 (C)oricon ME inc.

(ORICON NEWS)

 老舗芸能プロダクション「サンミュージックプロダクション」が11月27日、創業50周年を迎える。タレント第1号の森田健作氏をはじめ、都はるみ、松田聖子、岡田有希子、酒井法子、ベッキー…その系譜を辿れば“芸能界の歴史”そのものとも言える。そこで今回、創業者の故・相澤秀禎さんと二人三脚でサンミュージックプロダクションを設立した元専務、福田時雄名誉顧問に、栄光と波乱の50年について聞いた。

■松田聖子は押しかけ上京で“ポスト百恵”に「聖子は自分で運を掴んだ」

――サンミュージックの第1号タレントは森田健作さんだとお聞きしました。

【福田時雄】初めて自分で探してきたタレントが森田健作でした。本人は芸能界に興味がなかったけれど、なんとか説得し、当時人気絶頂だった黛ジュンさんの映画『夕月』の相手役募集に応募させたところ、見事合格。それが1969年の11月25日で、撮影がスタートしたのが2日後の11月27日。その日がサンミュージックの創立記念日なんです。

――その後、森田さんは主演映画、歌手デビューと順調なスタートを切ったわけですね。

【福田時雄】そして、相澤(秀禎)が2人目として連れてきたのが野村将希(デビュー時・野村真樹)。その年の新人賞を取り紅白歌合戦に出場しました。そのころ事務所も手狭になり新宿三光町から四谷4丁目に引っ越したのですが、森田が撮影用のライトが頭に当たって入院、野村も雑誌の取材中に落馬して入院と最悪の出来事が続きました。

――好転するきっかけというのは?

【福田時雄】新宿三光町の事務所は昼間でも電気をつけないと暗いような部屋でしたが、日当たりの良い四谷4丁目に引っ越して、不思議と良くなったんです(笑)。そんなときに現れたのが桜田淳子でした。『スター誕生(スタ誕)』(日本テレビ系)の秋田大会をみて、ぜひこの子だと思い手をあげました。

――『スタ誕』からはたくさんのスターが生まれました。

【福田時雄】森昌子、山口百恵、ピンクレディー、小泉今日子、中森明菜など。うちも桜田淳子をはじめ渋谷哲平、岡田有希子など『スタ誕』から9人入りました。この番組は日テレがバックアップしてくれて歌番組やドラマに出られるというメリットもあったんです。

――80年代のスターと言えば松田聖子さんは外せません。聖子さんとはどんな出会いだったのでしょうか。

【福田時雄】CBSソニーの若松宗雄ディレクターが連れてきたのですが、当初は断るつもりでした。ただ彼女の声を聴いたらとても良い声だったので、来年高校を“卒業”したら東京に出てくるように言ったんです。ただご両親が芸能界入りに反対していたので、僕が福岡まで説得にいき許諾を頂きました。そしたら聖子はなんと高3の夏休みに東京に出てきました。仕方がないので相澤の自宅に下宿させレッスンを開始しましたが、秋には『おだいじに』(日本テレビ系)というドラマに出演しまして、その役名が「松田聖子」なんです。翌年の春、資生堂のCMソング「裸足の季節」で歌手デビューしましたが、そのタイミングで山口百恵さんが引退を発表し、いきなり聖子が“ポスト百恵”と言われて注目されました。

――タイミングも味方したわけですね。

【福田時雄】高校を卒業してから東京に出てきていたら、そんなことはなかったわけで、聖子は自分で運を掴んだんです。さらに聖子が成功したのは、歌声が良いこと、そして負けず嫌いってことですね。ご両親を説得にいったときも、聖子がお盆でお茶を運んできて、そのお盆を胸に抱いたまま廊下に正座して、父親が「うん」と言うまで動かないという強い意志を感じました。

――聖子さんがデビューしたころは、歌番組もたくさんあって、歌謡曲がすごく盛り上がっていました。

【福田時雄】都はるみさんの「大阪しぐれ」がミリオンセラーになりその年のレコード大賞最優秀歌唱賞を受賞したり、牧村三枝子も「みちづれ」が大ヒット、聖子もヒット曲連発。とにかくいい時期でしたね。

■デビューに反対だった岡田有希子の父親「立派に成長させる」と約束した

――聖子さんの後もアイドルがたくさんでました。
【福田時雄】次は早見優ですね。ハワイの明るい太陽の下で育ったなんとも言えない明るさがありました。彼女がデビューした1982年は、花の82年組と言われて、シブがき隊、中森明菜、小泉今日子、松本伊代、堀ちえみ、石川秀美、三田寛子…たくさんいて大変でした。

――当時は賞レースが盛んでした。

【福田時雄】優もいろんな賞にノミネートされるんですけど、いつも同じ7組が入賞していて。優もそこに入ってたんですけど、横浜音楽祭では落選。それで落胆していると思って焼き肉に連れていったら、優がトイレに行って出てこない。しばらくして目を真っ赤にして出てきて「スピーチさせてください」っていうんですよ。さすがハワイから来ただけあるなと思って聞いたら、「トイレで悔しくて泣いていて、ふと鏡を見たら、自分の顔が醜くて、自分が思いあがってことに気づきました。明日からまた頑張ります!」と言ったんです。17歳でその発言はすごいなと思って、それからはみんなで本当に全国を駆けずり回って頑張りました。

――次が岡田有希子さんですね。

【福田時雄】有希子も『スタ誕』出身です。ここも父親が大反対でいくつか彼女に条件をつけたんです。それを彼女は頑張って全てクリアしたんです。そこで私は「彼女を3年だけ私に預けてください。必ずスターにするとはお約束できませんが、不幸にして売れなくてお返しする時には立派に成長させてお返しします」と、父親にお話をしてお許しを頂きました。

――岡田さんとのエピソードを教えてください。

【福田時雄】北海道にキャンペーンで行ったとき、彼女が雪で転んだんです。でもなかなか起き上がらない。みんながのぞき込むと寝転がったまま「星がきれい」って言ったんです。負けず嫌いですよね(笑)。

――聖子さんも岡田さんも、スターになる人は負けず嫌いなんですね。その後には酒井法子さんが頭角を現しました。

【福田時雄】酒井法子のデビューは1986年。デビュー早々「のりピー語」が大流行し、シングル「夢冒険」が選抜高校野球大会の行進曲になったりしました。一方で、平成になり音楽番組や賞レースが減りはじめ、タレントをどう売り出すか色々考える時になりました。そうしている内にドラマの時代になったんです。清水美沙は朝ドラの『青春家族』(NHK総合)のヒロイン、安達祐実は『家なき子』(日本テレビ系)が大ヒット、そして酒井も『星の金貨』(同)の大ヒットで女優としても認めていただけるようになりました。

■“お笑い”を見出した慧眼「スターはここぞのタイミングを逃さない」

――サンミュージックでは、苦しい時代に、必ず“次の担い手”が現れているように思います。そして次はバラエティ、お笑いの時代ですね。

【福田時雄】最初はゲッツのダンディ坂野だけだったけどね。

――今もダンディさんはCMなどにもたくさん出演されていますね。

【福田時雄】あれで10年以上続けているから凄いね(笑)。今の社長の相澤正久は、アメリカに留学していて、1970年代にはすでにコメディアンが芸能界の中心にいるのを見ていた。だから、日本でもお笑いタレントを育てようということになったんです。その後カンニング竹山、小島よしお、スギちゃん他多くの人気者が出ました。そして、私は新人開発部門で色々なタレントを発掘しようと。そこからベッキー、塚本高史、小野真弓などが出てきました。

――ベッキーさんといえばバラエティというイメージです。

【福田時雄】ベッキーはバラエティが好きでね。頭の回転が速いし本当に勉強しています。

――お話を聞いていると、スターになるタレントさんは、頭が良くて、負けず嫌いというのが共通している気がします。

【福田時雄】今はコメント力など頭の回転が重要ですね。カズレーザーも物知りで大したもんです。竹山はああ見えて努力家で、新聞を読んだり勉強してますよ。あと大事なのは、男でも女でも華があることですね。桜田淳子の秋田予選の映像はすごいですよ。彼女にだけ光が当たっているように見えます。森田健作も彼がいるだけで回りが明るくなります。スターは作ろうと思っても作れません。我々は機会を与えることはできるけど、後は本人次第。すごい素材でも、タイミングが悪いとうまくいかないこともある。淳子や聖子のように「ここぞ」ってところをきっちり掴んだ人は、一気に駆け上りますね。

■芸能界に導くということは、相手の“人生を変えること”

――サンミュージックは50周年を迎えました。今の事務所のスタッフさんやタレントさんたちにどんなことを伝えたいですか。

【福田時雄】相澤(秀禎)が築いたスタッフとタレントの関係性です。

――創業者の相澤秀禎さんは業界内でも人格者として有名でした。

【福田時雄】相澤を悪くいう人はいなかったです。サンミュージックの3人目のタレントは、相澤が佐渡から連れきた中森重樹です。でも、彼はなかなか売れなくて、今は芸能界を引退して自動車のエンジニアをしています。彼が相澤が亡くなる直前病院に見舞いにきたんです。2人きりで喋っていたから重樹に「何を喋ってたんだ?」て聞いたら、相澤は彼に「幸せだったか?」と尋ねたそうです。40年前に佐渡から無理やり連れてきたことを、相澤は死ぬ直前になっても気にしていたと。それに対して重樹は「幸せだからここに来たんだ」って言ったそうです。

――才能を見出して芸能界に導くということは、相手の“人生を変える”ことだという認識が頭にあるんですね。

【福田時雄】そうですね。無理やり誰かの運命を変えることだから、僕も有希子のことはずっとひっかかってるし、あのときは本当に辞めようと思いました。でも、有希子のお父さんがお葬式のときに「有希子早く亡くなったけれど、人生の縮図のように生きたから幸せでした」って一言言ってくれて、それでただただ救われました。今思えば、楽しくて同時につらい仕事だったけどね、芸能界の歴史を作っていくような仕事をやってきたから、それはよかったと思います。』

創業者の故・相澤秀禎さんと二人三脚でサンミュージックプロダクションを設立した元専務、福田時雄名誉顧問のお話、人間味有る芸能人と一緒に歩まれた人生論です。


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斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の質問と下村定・陸軍大臣の答弁から主権者国民が学べる事

2018年11月18日 14時41分02秒 | 国際・政治

私のブログの読者で、『つれづれなるままに心痛むあれこれ』から転載させて頂きました。
知る事は幸福度を高める




斎藤隆夫の第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)の質問と下村定・陸軍大臣の答弁から主権者国民が学べる事
2018-11-18 07:32:05 | 安倍政治
 斎藤隆夫は第89回帝国議会衆院本会議(1945年11月28日)で下村定・陸軍大臣に「我が国に於ける軍国主義の発達」について質問している。このやり取りから主権者国民が教訓として知っておくべき事を以下に紹介しよう。

「軍国主義は既に亡びてしまった、「ポツダム」宣言の一撃に遇って根本から亡びてしまった、我々は国家の為にこれ程痛快な事はないのである。唯しかし我々の力に依って軍国主義を打破する事ができず、「ポツダム」宣言、即ち外国の力に依って初めてこれを打破する事ができたという事は、何と弁解致したところで我々政治家、日本政治家の無力を語るものである、しかしこれは仕方がないとしても、元来我が国に於いてはかの満州事変当時より軍人が政治に干渉し、軍国主義者が漸次に勢力を得て、実際に於いては国家の政治に瀝るまで彼等によって左右せらるるに至った事は、これは争う事のできない事実である、而して、この弊害は積もり積もって停止する所なく、遂に今回の戦争を巻き起こし国を挙げて戦争の渦中に投じ、国を挙げて敗戦のどん底に蹴落として我が国今日の惨状を来した、今回の敗戦に依って軍備は悉く撤廃され、軍国主義者は悉く葬り去られる、これがために軍部を統轄する陸海両省も近く廃しせられて国民に別れを告げねばならぬ事になる、それ故にこの際に当たって、苟も軍の代表者たるものは、わが国においてどうしてこういう軍国主義が生まれ出たのか、又どうしてこれを未然に防ぐ事ができなかったのか、どうしてこれを抑圧する事ができなかったのか、そうしてどうして今回の戦争を導いたのか、これらの事について、全国民に一切の真情を説明せらるる必要がある、軍部大臣と相見る事は今回が最後と思うから、あえてこの質問をする……」

 これに対する下村定・陸軍大臣の答弁。「軍国主義の発生については、陸軍としては、陸軍内の者が、軍人としての正しき物の考え方を誤った事、特に指導の地位にある者がやり方が悪かった事、これが根本であると信じます、この事が中外の色々な情勢と、複雑な因果関係を生じて、ある者は軍の力を背景とし、ある者は勢いに乗じて、いわゆる独善的な横暴な処置を執った者があると信じます、殊に許すべからざる事は、軍の不当な政治干渉です、かような事が重大な原因となり、今回の如き悲痛な状態を国家にもたらした事は何とも申し訳がありません、私は陸軍の最後に当たって、議会を通じてこの点について全国民諸君に衷心からお詫び申し上げます、陸軍は解体をします、過去の罪責に対しても私共は今後事実を以てお詫びを申し上げる事、事実を以て罪を償う事ができません、誠に残念ですが、どうか従来からの国民各位のご同情に訴えて、この陸軍の過去における罪悪のために、純忠な軍人の功績を抹殺し去らない事、殊に幾多戦没の英霊に対して深きご同情を賜らん事を、切にお願いします、軍国主義の発生の経緯ならびにそれを抑制し得なかった理由などについて、この議会に開陳せよという斎藤君のご希望、誠に御もっともです、これには慎重の検討を要する事でして、私共もとよりその必要を感じていますが、今議会中に於て、斎藤君のご満足のいくように、具体的に詳細に申し上げられるかどうかはお約束できません」

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解散30年超のおニャン子クラブ なぜ今もファンを魅了する?

2018年11月18日 14時23分24秒 | 芸能ネタ


エンタメ 解散30年超のおニャン子クラブ なぜ今もファンを魅了する?
"おニャン子クラブファイナルコンサート メンバー1人1人が最後の挨拶" を YouTube で見る


解散30年超のおニャン子クラブ なぜ今もファンを魅了する?

07:00



会員番号40番、生稲晃子の水玉ビキニ

(NEWSポストセブン)

 1985年に誕生し、わずか2年半の活動期間で解散した「おニャン子クラブ」。このアイドルグループは、1985年4月から放送された番組『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)から誕生した。デビューシングル『セーラー服を脱がさないで』のヒットからブレイクし、当時のアイドルシーンを席巻するが、1987年8月の番組終了とともに突如解散する。

 解散から30年以上経つが、解散コンサートが行なわれた9月20日には、毎年有志らの手でイベントが開催されている。今もファンを魅了する理由はどこにあるのか。自身も熱烈なファンだった『モーニング娘。のDNA─おニャン子クラブは2度解散する…』の著者・永田一八氏が分析する。

「少々つまらない言い方かもしれませんが、結局、当時を生きた世代にとっての“青春の象徴”なのだと思います。わずか2年半で解散してしまったことで、“まだまだ”と望む感情が強く、なかなか吹っ切れなかった人が多い。

 平日夕方の番組で、生活に深く入り込んでいたにもかかわらず、自分たちの意に反して急に終わらされてしまった。ファンが、さながらおニャン子クラブの“死”を現実のものとして即座には認識できなかった、あるいは認識したくなかったという要素が、今も執念を生んでいるのだと思います」

※週刊ポスト2018年11月23日号

おニャン子クラブの名前、仮名とカタカナ表記にしたところが、斬新でしたね。

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ニュース 地域 嵐の中、消防車4台に緊急給油 沖縄・読谷 ガソリンスタンドに感謝状

2018年11月18日 14時13分55秒 | 119番


09:33沖縄タイムス

 【読谷】ニライ消防本部は9日、台風時の給油に貢献したとして古堅給油所を運営する有限会社ふるげん(嘉手川繁正社長)に感謝状を贈った。ふるげんは同消防本部と災害時消防協力事業所協定を結んでおり、台風24号が接近した9月29日、臨時休業中にもかかわらず災害対応する消防車両に給油した。協定を結んだ事業所で感謝状を受けたのは初めて。

 同給油所の嘉手川彦(ひこし)所長は「災害時に役に立って良かった。今後も地域のために要請があればぜひ協力したい」と話した。

 災害時消防協力事業所制度は、消防本部だけでは対応が困難な大規模災害時に民間事業所に協力を要請する制度で、同消防本部は土木やドローンなど38事業所と協定を結んでいる。今回、ニライ管内で制度を活用した初めてのケースとなった。

 9月29日は台風の影響で出動が多かった上に、給油所が軒並み休業していたため消防車両の燃料が不足。同消防本部はふるげんに給油の協力を要請した。

 古堅給油所も臨時休業していたが、風雨が弱まった時期を見計らって消防車両4台に給油した。また翌30日にも消防署の発電機などに給油した。

 感謝状の贈呈式で、同消防本部嘉手納消防署の古見哲也署長は「大変な時に協力してもらいありがたい」と礼を述べた。』
 
古堅給油所も臨時休業していたが、風雨が弱まった時期を見計らって消防車両4台に給油した。また翌30日にも消防署の発電機などに給油した同給油所の嘉手川彦(ひこし)所長も機転の効いた状況判断で、ご立派でした。

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本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」日本外務省の北方領土返還の主流は、「4島一括返還論」である。安倍晋三首相の「2島先行返還論」には、プーチン大統領の狡猾な陰謀を許してしまう危うさがある。

2018年11月18日 14時01分16秒 | 国際・政治


板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」

~ニュースにブログ~

日本外務省の北方領土返還の主流は、「4島一括返還論」である。安倍晋三首相の「2島先行返還論」には、プーチン大統領の狡猾な陰謀を許してしまう危うさがある。

2018年11月18日 08時25分41秒 | 歴史

本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
日本外務省の北方領土返還の主流は、「4島一括返還論」である。安倍晋三首相の「2島先行返還論」には、プーチン大統領の狡猾な陰謀を許してしまう危うさがある。

◆〔特別情報1〕
 日本の最北端にある稚内-ロシア連邦のサハリンを結ぶ架橋・海底トンネル建設構想がある。これについて、日本国内には、「ロシア軍が、架橋・海底トンネルを通って、突然、電撃的に侵攻してきたらどうするか」という懸念がある。ソ連軍が1945年8月9日、日ソ不可侵条約を破棄して、満州に侵攻、北海道侵略を目指して、海から猛攻撃を仕掛けて、北方領土4島を奪い取ったという「悪夢」は、未だにトラウマになっている。この状況下、日本国内には、北方領土返還をめぐり、「2島返還論」「2島返還+α論」「2島先行返還、後に2島返還論」「4島一括返還論」が渦巻いている。

つづきはこちら→「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」*有料サイト(申し込み日から月額1000円)
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HOME天木直人のブログ安倍首相を苦しめる事になる2020年の東京五輪問題

2018年11月18日 13時51分48秒 | ポイント


安倍首相を苦しめる事になる2020年の東京五輪

2018-11-18



 原発事故はコントロールされた、という嘘までついて招致に成功した2020年の東京五輪だ。

 みずから首相として迎えたい2020年の東京五輪だ。

 しかし、その2020年の東京五輪が、安倍首相を苦しめる事になりそうな雲行きになって来た。

 台湾の東京五輪参加を巡って、その呼称をどうするかという問題が急浮上してきた。

 すなわち、これまで台湾の五輪参加で認められてきたチャイニーズタイペイという呼称を、台湾という呼称に戻すべきだという要求が台湾世論に起こり、ついに住民投票が行われる事になった。

 しかし、住民投票の結果がどうであれ、習近平の中国が台湾という呼称を認めることはない。

 下手をすれば中国が東京五輪をボイコットする事態もあり得る。

 そして、もうひとつ、北朝鮮と韓国の統一参加だ。

 こちらのほうは統一チームでほぼ決まっている。

 しかし、その時までに北朝鮮の核を巡って米朝関係が改善している保証はない。

 そして北朝鮮の核や南北融和について、足を引っ張り続けているのが安倍首相だ。

 安倍首相の強硬な北朝鮮や韓国に対する外交に反発して、両国がこぞって不参加と言う事もあり得る。

 しかも、台湾問題といい、朝鮮半島の融和問題といい、米国と中国、ロシアとの間で立場の隔たりは大きい。

 それが2020年までに解消する保証はない。

 間違いなく2020年の東京五輪は政治問題化する。

 安倍首相は、2020年の東京五輪を成功させるためには、自らの間違った歴史認識を封印し、対米従属一辺倒の外交をあらためなければいけない。

 さもなくば、2020年の東京五輪の前に日本の首相を辞めるべきだ。

 その決断をしなければいけない時期が、来年必ずやってくるだろう(了)

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HOME天木直人のブログ今度ばかりは笑えない安倍首相の立ち話外交

2018年11月18日 13時44分44秒 | 国際・政治


今度ばかりは笑えない安倍首相の立ち話外交

2018-11-18


 シンガポールでの東アジアサミットやパプアニューギニアでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議に出席した安倍首相がまもなく帰国する。

 今度の安倍首相の外遊でニュースになったのは、やはりなんといってもプーチン大統領との首脳会談後に明らかにされた北方領土2島先行返還の合意だ。

 しかし、その陰に隠れてほとんど報じられなかった日韓首脳の立ち話会談のほうに私は注目した。

 私が外務省にいた時は、およそ立ち話首脳会談などと言う言葉はなかった。

 いやしくも、日本の首相が首脳会談をする時は、事前に十分に準備され、外相などが同席する公式会談と相場が決まっていたからだ。

 ところが安倍首相になってから立ち話首脳会談が頻繁に行われるようになった。

 その最大の理由は、歴史認識問題で悪化した中国や韓国との首脳との会談で、苦肉の策として国際会議を利用した短時間の顔合わせが必要になったからだ。

 「首脳会談をした」というアリバイ作りの立ち話会談だ。

 私はそんな立ち話首脳会談を、ごまかしの首脳会談だと笑い飛ばして来た。

 しかし、今度ばかりは違う。

 笑い飛ばすにはあまりにも深刻な立ち話会談だったからだ。

 何度も席を同じくし、話せる機会があったにもかかわらず、握手さえもしないほど冷え切った接触に終始した安倍首相は、本当にそれでよかったと思っているのだろうか。

 そんな安倍首相に対し、さすがの文在寅大統領も、文大統領の方から歩み寄ることは出来なかったのだろう。

 それは国内向けの顔ではなく本音だろう。

 映像に映し出された文大統領の姿は、笑顔どころか、険悪とも思える衝撃的な表情だった。

 ここまで日韓関係が悪化してしまったのだ。

 戦後70年余りがたって、紆余曲折はあったが、常に関係改善に腐心して来た日本の対韓外交だった。

 それをすべて安倍首相はぶち壊してしまったのだ。

 2島返還先行で、これまでの北方領土交渉をぶち壊そうとしている安倍首相だが、北方領土問題の方は、歴史に名を残す可能性はある。

 2島でも、返還されれば間違いなく成果であり、ましてや在日米軍を置かない事で米国を説得出来れば、あの「ダレスの恫喝」という呪縛を断ち切る事ができる。

 しかし、日韓関係のぶち壊しは、いいことは何一つない。

 その修復には時間をかけた多大な努力が必要になるだろう。

 日韓両国の国民はもとより、日韓経済関係にも及ぶ戦後の日韓関係を、ひとりの首相がここまで悪化させてしまったのだ。

 安倍外交の間違いの中でも一番深刻な間違いである。

 それを象徴した今度の立ち話首脳会談だったのである(了)

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HOME天木直人のブログ殺害はムハンマド皇太子の指示だと断定したCIAの...

2018年11月18日 13時39分03秒 | 国際・政治


殺害はムハンマド皇太子の指示だと断定したCIAの衝撃

2018-11-18


 これには、さすがの私も驚いた。

 ムハンマド皇太子がカショギ記者の殺害を指示したと米中央情報局(CIA)が断定したというのだ。

 ワシントンポスト紙が16日の電子版で複数の関係者の話としてスクープ報道したという。

 はたしてワシントンポスト紙が報じた事を、CIAは正式に公表する事になるのだろうか。

 それをトランプ大統領は認めるのだろうか。

 私は、まだ、そうならない可能性があると思っている。

 つまりトランプ大統領はCIAにそう断定させないだろうと思う。

 もし、ムハンマド皇太子の責任が問われるようになると、ムハンマド皇太子は権力の座から降りなければならなくなる。

 そうなれば、皇位継承をめぐってサウジアラビアの王制にまで、その影響が及ぶ。

 サウジアラビアが不安定化すれば、その影響はひろく中東全域に及ぶことになる。

 なによりもトランプ大統領は、みずからが進める中東政策の最大の協力国を失う事になる。

 おりからトランプ大統領はイランへの制裁再開に踏み切って、イランとの関係を悪化させている。

 はたして、トランプ大統領は、カショギ記者殺害の指示をムハンマド皇太子が行ったことを公式に認めるだろうか。

 サウジアラビアの動向から目が離せなくなった。

 中東情勢から目が離せなくなった(了)

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11月17日(土)のつぶやき

2018年11月18日 05時21分53秒 | 受験・学校・学問
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