秋田市内、通町と秋田中央郵便局の間、保戸野鉄砲町の裏通りにお寺が3つ並んでいるが、その西端が「蓮住寺(れんじゅうじ)」。西暦1590年頃の開山で佐竹藩とも関わりのある由緒あるお寺で、境内には大黒様にごま油をひしゃくで掛けて願掛けする珍しい「油掛大黒天」もある。
2006年の春まだ浅い頃、このお寺が全焼してしまった(大黒様は無事だったはず)。個人的に思い出のある場所でもあるのでショックだったが、新しいお寺(本堂・位牌堂・寺務所)の新築工事が始まり、数か月前には、赤く輝く銅版が屋根に葺かれていた。
現場の看板によれば、青森県むつ市の業者の施工、昨年6月末着手、今年4月10日着工、11月30日完成とあり、建物としてはもう出来上がったようだ。完成の式典というか法要を今後行うのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/c2/b12bb5fb8ae65f09813d67298fe04536.jpg)
以前と同じ位置にほぼ同じ規模のようだが、銅葺き屋根が美しい。(寒冷地の秋田では瓦葺きはほとんどなく、トタン葺きが多い)
お寺の前の道路は、秋田駅・通町方向から来ると、地口灯篭祭りが有名な勝平神社付近の新国道(という名の県道)まで約350メートルの一直線だが、途中の蓮住寺を過ぎた通町側から約200メートル地点で不規則な形で道が分岐している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/f1/44a6abb4b08399aa9ea95eb62b78a6da.jpg)
新国道へまっすぐの道は幅が急に狭くなり、一方通行になる。右にカーブする道はほとんど幅が変わらず、すぐに保戸野保育所、そこを左折して中央郵便局へ至る。
直進して一方通行部分に入り、通町方向を振り返る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f2/68f59f4991acc48ca36eef0d8fedf060.jpg)
お寺の前の道路はかなり広い。分かりにくいが、通町側の末端近くでは再び少し道幅が狭くなっている。
子供の頃から、この道幅の変化と裏道としては異様に広い部分があるのが、何か不思議な雰囲気をかもし出す道だと思っていた。
数年前、この理由が分かった。
かつてお寺の前付近に路面電車(市電)の電停(電車停留所)があったらしいのだ。秋田の市電といえば、旧秋田市交通局が1965年末まで秋田駅-土崎間で運行していたものだけだと思いがちだが、この事情を説明するには、それ以外の少し込み入った経緯がからんでくる。
簡単に説明すると、
1889(明治22年)市電のルーツである民営の馬車鉄道として、秋田-土崎間が開業したが、その当時の「秋田」は秋田駅前でなく、ここが起点―つまりここがターミナルだったらしい。
その後、1922年の電車化、昭和初期から終戦直後にかけて、秋田駅前までの延長(今でいう鉄砲町-山王十字路-二丁目橋-広小路-秋田駅)、秋田市への事業譲渡などを経て、ここは「新大工町」という停留所名になったようだ。しかし、線路の配線上、新大工町から秋田駅へは直通運転ができず、現在の新国道にあると思われる表鉄砲町から新大工町までの短い区間は1951年に支線扱いになってしまい、本線に先立って1959年に廃止されてしまった。
そしてその支線の跡が、現在のお寺の前から右折する保育所付近までの道路ということのようだ。(※間違いがあればご指摘ください)
現在の保戸野保育所・中央郵便局のある場所は、電車廃止後の1980年代まで交通局の庁舎やバスの車庫があり(その後寺内に移転。現在の中央交通臨海営業所)、僕にもおぼろげながら記憶があるが、さらにさかのぼれば、このお寺の周辺=新大工町電停付近に車庫があった時代もあるらしい。
そんな経緯を知れば、道路の線形や幅の不自然さもなんとなく理解できる。
それにしても、この道に線路が敷かれていて、大きな電車がカーブを曲がってやって来てお寺の前をかすめて行き交っていて、土崎からの大勢の乗客が乗り降りしていたというのは、現在の静かな裏通りからはちょっと信じられないが、さぞかしにぎやかだったのだろう。
2006年の春まだ浅い頃、このお寺が全焼してしまった(大黒様は無事だったはず)。個人的に思い出のある場所でもあるのでショックだったが、新しいお寺(本堂・位牌堂・寺務所)の新築工事が始まり、数か月前には、赤く輝く銅版が屋根に葺かれていた。
現場の看板によれば、青森県むつ市の業者の施工、昨年6月末着手、今年4月10日着工、11月30日完成とあり、建物としてはもう出来上がったようだ。完成の式典というか法要を今後行うのだろうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/c2/b12bb5fb8ae65f09813d67298fe04536.jpg)
以前と同じ位置にほぼ同じ規模のようだが、銅葺き屋根が美しい。(寒冷地の秋田では瓦葺きはほとんどなく、トタン葺きが多い)
お寺の前の道路は、秋田駅・通町方向から来ると、地口灯篭祭りが有名な勝平神社付近の新国道(という名の県道)まで約350メートルの一直線だが、途中の蓮住寺を過ぎた通町側から約200メートル地点で不規則な形で道が分岐している。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/f1/44a6abb4b08399aa9ea95eb62b78a6da.jpg)
新国道へまっすぐの道は幅が急に狭くなり、一方通行になる。右にカーブする道はほとんど幅が変わらず、すぐに保戸野保育所、そこを左折して中央郵便局へ至る。
直進して一方通行部分に入り、通町方向を振り返る。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/f2/68f59f4991acc48ca36eef0d8fedf060.jpg)
お寺の前の道路はかなり広い。分かりにくいが、通町側の末端近くでは再び少し道幅が狭くなっている。
子供の頃から、この道幅の変化と裏道としては異様に広い部分があるのが、何か不思議な雰囲気をかもし出す道だと思っていた。
数年前、この理由が分かった。
かつてお寺の前付近に路面電車(市電)の電停(電車停留所)があったらしいのだ。秋田の市電といえば、旧秋田市交通局が1965年末まで秋田駅-土崎間で運行していたものだけだと思いがちだが、この事情を説明するには、それ以外の少し込み入った経緯がからんでくる。
簡単に説明すると、
1889(明治22年)市電のルーツである民営の馬車鉄道として、秋田-土崎間が開業したが、その当時の「秋田」は秋田駅前でなく、ここが起点―つまりここがターミナルだったらしい。
その後、1922年の電車化、昭和初期から終戦直後にかけて、秋田駅前までの延長(今でいう鉄砲町-山王十字路-二丁目橋-広小路-秋田駅)、秋田市への事業譲渡などを経て、ここは「新大工町」という停留所名になったようだ。しかし、線路の配線上、新大工町から秋田駅へは直通運転ができず、現在の新国道にあると思われる表鉄砲町から新大工町までの短い区間は1951年に支線扱いになってしまい、本線に先立って1959年に廃止されてしまった。
そしてその支線の跡が、現在のお寺の前から右折する保育所付近までの道路ということのようだ。(※間違いがあればご指摘ください)
現在の保戸野保育所・中央郵便局のある場所は、電車廃止後の1980年代まで交通局の庁舎やバスの車庫があり(その後寺内に移転。現在の中央交通臨海営業所)、僕にもおぼろげながら記憶があるが、さらにさかのぼれば、このお寺の周辺=新大工町電停付近に車庫があった時代もあるらしい。
そんな経緯を知れば、道路の線形や幅の不自然さもなんとなく理解できる。
それにしても、この道に線路が敷かれていて、大きな電車がカーブを曲がってやって来てお寺の前をかすめて行き交っていて、土崎からの大勢の乗客が乗り降りしていたというのは、現在の静かな裏通りからはちょっと信じられないが、さぞかしにぎやかだったのだろう。