昭和30年代半ば、地元の高校を卒業するまで、M男は、北陸の山村で、祖父母、父母、弟、妹 7人家族で過ごした。東西が山稜の狭い盆地で、その真ん中を日本海に向かって1本の川が流れ下っている、そんな、童謡「ふるさと」を絵に書いたような田舎風景の農村だった。
当時、村落の中心には、1学年1クラスの小学校中学校併設の小さな学校が有り、M男も、9年間、同じクラスメイトと過した。
テレビの無い時代、塾や習い事等無関係な山村だった。子供達は、学校から帰ると、子供達にとって、居心地のいい近所の家の庭等に集合し、遊びまくったものだが、遊びと言っても、かくれんぼ、チャンバラごっこ、ゲンゲンパッパ、オハジキ国取り遊び、ビー玉、メンコ、程度しかなかった。にも拘らず、大きい子から幼児まで、男の子、女の子、一緒になって、飽きもせず、暗くなるまで遊んだものだ。
雪が積もれば積もったで、子供の世界が有り、ソリ遊び、カマクラ造り、等々。
「カッカー、呼んどるそい、帰るっちゃ」
夕方、従兄弟で同級生のT男が、そう言い出す頃には、皆も夫々、引き上げていくのだったが、妙に、「カッカー」という響きが、脳裏に焼き付いている。
T男の家は、M男の父親の実家ですぐ近くに有ったが、昔流に言えば、本家の家で、当時は、藁葺の屋根の大きな家だった。T男は、何故か、父親のことを、「トンチャ」、母親のことを、「カッカー」と呼んでいたのだ。
近所の他の家でも、微妙に父母祖父母の呼び方が違っていて、T男の隣りの家では、「トンチャ」、「カンチャ」、少し離れた家では 「トットー」、「カッカー」と、いう具合だった。
M男の家は、根っからの地元の家ではなく、父親の実家を頼って東京から疎開し、そのまま定住した家で、当時はまだ、家族は、ほとんど東京言葉だったが、「おとうさん」、「おかあさん」等という言葉使いが出来ない雰囲気が有ったのだろうか、郷に入っては郷に従え、だったのだろうか、父親のことを、「トウチャ」、母親のことを、「カアチャ」、祖父のことを、「ジイチャ」、祖母のことを、「バアチャ」と呼んでいた気がする。
村落の大人同士の会話等からは、「トッサマ」「カッサマ」「ジッサマ」「バッサマ」「ジッチャ」「バッチャ」「ジッサ」「バッサ」等々、いろいろな呼び方が聞こえていたような気がするが、記憶は曖昧になっている。
わずか70年程前の話であるが、遠い昔話をするような感有りだ。
当時の実家の近くの冬の風景
村落で自動車を保有している家等無かった時代、
当然、現在のような除雪車両等無く、
根雪になると、雪解け時期までは、
雪上をカンジキで踏み固めた一本道を
長靴でズブズブ埋まりながら往来、登校したものだった。