たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

従兄弟のタッコ(再)

2021年09月21日 17時46分46秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

時々、何年も前に書き込んでいたブログ記事にアクセスが有ったことに気付くことがある。すっかり忘れてしまっている記事も有り、なんだか気になってクリックして、改めて読み返してみることもある。どうしてそんな古い記事にアクセスされたのかは不明だが、そのお陰で記憶が蘇ったりして、記憶力減退爺さんには有難いことだと思っている。クリックひとつで、振り返りが出来る等、でアナログでは、あり得ない、デジタルのメリットだと思っている。コロナ禍、旅行も山行も自粛して早2年近く、ますますブログネタも限られてきた後期高齢者、そんな古い記事を、コピペ、リメイク(再編集)していこう等とも思っているところだ。


6年も前にブログに書き込んでいた記事、「従兄弟のタッコ」
コピペ、リメイク(再編集)してみた。


「従兄弟のタッコ」

昔のことを 懐かしがり 語りたがるのは 老人の 最も老人たるところだと 自嘲もしている。
ただ 今 ふっと 思い出せた記憶も やがては 思い出すことも 語ることも出来なくなるに 違いないと思い 記憶の欠片を ブログ・カテゴリー 「M男のあの日あの頃」に 書き留めることにしている。

昭和20年代から30年代、M男は 北陸の山村で 幼年期、少年期を過ごした。



M男の家は 村はずれの わずか数件の集落に有ったが 同じ集落には 昔流に言えば 本家にあたる T男の家も有った。M男の父親の生家であった。
T男とM男は 従兄弟であり しかも 同い年、1学年1学級の小さな小学校、中学校の同級生でも あった。
勝手知ったる両家は 何事も共同、協力して暮らしていたが 特に 子供達は お互いの家への出入り自由、双方の家で 家族の一員のように 扱われていた。
当時 T男は 父母から 「タッコ」と呼ばれていたが その呼び方は 近所隣り、親戚縁者にまで及び 皆から 「タッコ」「タッコチャ」と 呼ばれていた。
M男の方は 父母からは そのまま「M男」と呼ばれていたものの 近所隣り、親戚縁者からは やはり 愛称で 「ミッチャ」と 呼ばれていた。



その呼ばれ方は 後期高齢者に至らんとする昨今でも 法事等で 親戚縁者が集まると 「・・・さん」等と 姓で呼ばれることは無く あっちからもこっちからも 「ミッチャ」、「ミッチャン」と 声を掛けられ なんとも 面映ゆい思いをしている。

タッコとM男は 中学卒業まで 登校下校はもちろん、遊び、家の手伝い等々、いつでも、どこでも 一緒だった。周辺からは 双子の兄弟の如くに 見られていたに違いなく なにかに付けて 「タッコ と 「ミッチャ」と セットで 呼ばれたりしていた
ただ タッコは 勉強は得意でなく 成績は あまり良くなかったことから 「デキナイ タッコ?」というレッテルが貼られ、「デキル ミッチャ?」と、差別視されていたように思う。しかし タッコとM男は そんな周囲の偏見には まるで 頓着なく 気が合って 無二の親友として 過ごしていた。

農閑期の日曜日、タッコの家で 遊びに夢中になっていて 柱時計が 12時を告げることにも気が付かないでいると 家の人から 「ミッチャ オラウチデ マンマ 食べてイキナイヤ」等と 声が掛かる。M男の家からも 「昼だから 早く帰って来い」と 迎えにくるのだが 逆に 「イイワネ、タッコと一緒に 食べてるソイ。オマンも 上がって 一緒に 食べてイカンカネ」等と 誘い入れたりする。そんな のんびりした 情景が 両家では 繰り返されていた。

そんな風にして育った二人だったが、中学卒業で進路が分かれ、それぞれの人生を歩み始めたのである。
集団就職が盛んな時代だった。わずか数人の高校進学組と、農家の後継者等として、地元に残る者以外、大半は、関東圏、関西圏、中京圏へ就職していった。
そんな中、タッコは 農家の後継者として、地元に残った。タッコの家は 村落の中では、「大百姓」の部類だったのである。
タッコは、夜間の定時制高校に通いながら、農業に従事していたが、卒業後は、隣り町の燃料販売店に就職し、兼業農家となった。「大百姓」と言えども 専業農家では、厳しい時代に差し掛かっていたのだ。


勤務先でも、地元村落でも、人柄の良さ、面倒見の良さは、評判だったようで、まもなく、さらに山奥の村落出身の女性と結婚し、一男一女をもうけた。その息子、娘が 小学生の一時期には 「PTAの会長」まで、務めたという。
昭和から平成に変わる頃、M男の実家では、父親が死去、母親の一人暮らしが始まったが、タッコは、それまで以上に、M男達子供に成り代わって、母親の面倒を見てくれた。打算等微塵もなく、 骨身を惜しまず尽くしてくれ、ある種、仏のような存在にさえ感じていたものだ。
3世代同居、大きな家(昭和30年代までは 黒光りする太い大黒柱が印象的な 藁葺きだったが)、米の供出量でも、村落一、二番、順風満帆に見えたタッコの家だったが、40才半ば頃からだったのだろうか、糖尿病を患い、その後、肺がんとなり、52才の若さで急逝してしまったのである。最愛の妻子と父母を遺して、先立った、タッコの悔しさを、M男は、分身の如くの我が身に映して、感じとっていた。その時の大きなショックと無常感を、今も忘れはしない。
わずかに残っているセピア色化した、幼い頃のタッコとミッチャの写真がアルバムに貼って有り、写真をみると、あの日あの頃の記憶が炙り出されてくる。


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