ステージおきたま

無農薬百姓33年
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コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

感情を学ぶ

2008-11-04 23:44:18 | 演劇
 感情を学ぶって、どういうことだ?
 
 高校演劇県大会に向けて、今、演技の質を上げるべく稽古の真っ最中だ。課題は何か?それは、役になりきること。なーんだ、そんなこと!って言わないでほしい。なりきる役ってのが生半可じゃないんだから。時代は終戦直後、1946年だ。一人は、身を持ち崩しアメリカ兵相手に体を売って暮らしている女。一人は日系二世の青年。今日は、この二人のシーンばっかり徹底的に稽古した。
 
 どっちの役も、およそ今時の高校生とははるか隔たった存在、思い描こうにも手がかりさえない役柄だ。売春での身過ぎ世過ぎ、僕だってわからない。差別され侮蔑され、どん底の屈辱に耐える青春、これだって想像つかない。まして、経験の乏しい部員たちだ。できっこないよ!
 
 たしかに、経験しなくちゃわからないことってある。でも、それがすべてってことではないと思うんだ。人間17年も生きてくれば、結構いらんな体験を積んできているものだ。悲しみや憎しみや苦痛や喜びや嘆きや・・・・そりゃ、その原因は、身売りでもなければ、人種差別でもないかもしれない。でも、どこまでも深い悲しみとか、激しい憎悪とか、自己蔑視とか、心のひだをたどっていけば、きっとどこから隠されている感情に違いないんだと思う。
 
 問題は、こういった特殊な感情は日常的に馴染みのあるものではないので、よくよく心の底を探し回らないと見つからないってことなんだ。そんな日頃縁のない感情を身近に引き寄せること、役者たちの下意識の世界から探し出すこと、これが、結局、演出の仕事ってことなんじゃないだろうか。
 
 今日は、わずか数分のシーンを1時間半かけて作り直しをした。たった一つのせりふを何十回と繰り返した。演じる役柄について何度も説明し、そのせりふに隠れる感情をとことん解説した。時には、僕が演じてみせながら、彼らの感情世界から狙いのものを引き出すべく、稽古を続けた。

 で、1946年の深く傷ついた青春にたどり着けたのか?答えは、・・・難しい!たしかに、これまでの表現から一歩深まった。でも、やはり、まだまだなんだ。終戦直後の青春にはまだまだ隔たりがある。いや、どこまで行っても、最後の深い溝は埋まらないかもしれない。でも、その深淵がほの見える瞬間がきっと来ると思うんだ。その黒々とした闇を役者たちがのぞき見た時、演技は、観客の心に響くものを持ち得ることになるに違いない。

コメント (2)
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