ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

間は魔もの

2008-11-16 21:49:14 | 演劇

 今日は新しい取り組みを試みた。通しをやる前に、2分間の黙祷ならぬ、瞑想をさせてみたんだ。なんせねえ、稽古の始まる直前までべちゃらくちゃら関係ない話ししてるからね、あれで、気持ちが入った演技ができるはずがないんだ。だってそうだろ、プロじゃないんだから、そんなに瞬間的に気持ちを切り替えて役になりきるなんてできっこない。で、結局、ちょこちょこっと気持ち入った気になって適当な演技で誤魔化す、これの繰り返しなんだ。

 だいたいね、終戦直後の若者になりきるなんて、今時の高校生にはとんでもなく敷居の高いことなんだよ。それをちゃらちゃらとやったふりされるので、どうにも我慢できなくて、2分間の役作りタイム、としいうことにしてみたんだ。たった2分で当時の若者の気持ちを追体験できるとは思わないが、役に向かう意識は少しは研ぎ澄まされるんじゃないか。

 て゜、効果はどうか?これがなかなかのものだった。全体に気持ちが引き締まって、一つ一つの演技にだらけが無くなっていた。特に集団演技なんかはこれまでにない緊迫感のある稽古になった。それはいいんだが、問題は、またぞろ、間をとりすぎる演技になっちまったってことなんだ。重いせりふ、大事なせりふ、辛いせりふ、こういった見せ場の役者がやたら引っ張り始めてしまった。プラザ演劇祭では58分台だった上演時間が、なんと、60分49秒だから!あと、11秒で大会失格だよ。

 わかるんだよ。間をじっくりと取ると、緊迫した瞬間を生み出せるからね。役者の気持ちとして、なんとか深い感動を伝えたいと願うあまり、とことん間を引っ張るってことになってしまうんだ。これやると、たしかに空気は止まり、観客は圧倒されるんだ。

 でもね、これは邪道でもあると思う。本来ならせりふや表情や仕草で伝えなくちゃならないものを間で誤魔化してるってことなんだから。もちろん、間が必要な時はある。ここはどうしたって、たっぷりの間が欲しいって思うこともしばしばだ。だからって、なんでもかでも間で勝負ってのは違うと思うんだ。やはり演技でやり通さなくちゃ。間なんかとらなくても、そのせりふ一発でぐいんと引き込んでしまうようなせりふ術が必要なんだよ。つまり、せりふや表情で表現しきれない下手な役者が、やたら間で間に合わせちまうってことなんだな。

 と、いうことで、今日のダメだしはとことん、間で誤魔化すな!演技で勝負しろ!ってことだった。役者としては辛いだろう。途方にくれるだろう。だって、間っていう便利な道具を奪われるのだから。しかし、こうやって制限され限定されることが、壁を抜けるきっかけになるのだと思う。壁があるから壁が越えられる。閉じこめられるからそこを突破できる。人生も同じ!不自由こそが自由への道ってことだ、どうだ参ったか。

コメント (5)
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