ステージおきたま

無農薬百姓33年
舞台作り続けて22年
がむしゃら走り6年
コントとランとご飯パンにうつつを抜かす老いの輝き

県大会が終わった!

2010-11-09 23:58:36 | 教育
県大会が終わった。残念な結果だった。
納得したか?って、それは・・・・・・・・・・・・・・!
まず出たものは事実として受け入れて次に進むしかない。
ただ、劇の批評とはどうあるべきか、それを考えた。
技術評、演技評、装置評、などの前にまず舞台そのものを評価することが大切だという当たり前のことを何度も確認したい。
①脚本を基にして役者やスタッフによって総合的に舞台上に表現された題材、テーマ、主張、方法などがまず適切なもの、見るに値するもの、考える価値のあるものかどうか。
②次にその意図されたものが十分観客伝えられたのかどうか。
これらがまず問われなくてはならないと思う。
これは言ってみれば、その批評者の演劇観、人間観、世界観を問われることだと思う。どういう題材に心惹かれるのか。どういうテーマを重要と考えるのか。どういうテーマに問題意識を感じるか、劇を見るときの一番基底にあるのはこれだと思う。簡単に言ってしまえば、何が面白くて、何がつまらないのかってことだ。人間、自分が興味のないことに心を動かされはしない。自分の中の価値基軸を離れて感動や共感など成り立たない。幅広く客観的に見る、この姿勢も大切なことには違いないが、これは本来、観劇というものの本質と矛盾している。何故なら、劇を見るということは心を動かされることだからだ。主観的な行為なのだ。心が震えない舞台に本質的な評価などできるものではない。
だから、批評を行う者は、まず、その芝居の題材やテーマをどう判断するのかから始めなくてはならない。その題材は価値がないとか、そのテーマはくだらない、とか、そのテーマは表現として成立しないとかをはっきりと声明することが必須だと思う。そして、当然何故そう言えるのかについても説明する責任があるだろう。
次にその主題やテーマがどう表現されたかの判断をすることになる。その劇団なり演出家なり脚本家なりが目指したものが成功したのかどうかの判断だ。脚本の展開、人物の魅力、人物同士の関係性、シーンの設定、せりふの善し悪しなど台本に関わる問題。さらに、舞台空間の作り方やテーマのとらえ方、人物の動きや位置取り、装置や衣装、道具など舞台美術も含め演出的な事柄。こういった問題が、主題やテーマ、主張との関わりの中で判断されなくてはならない。ここで、ようやく技術評や演技評が入り込んでくるわけだが、しかし、あくまで、その題材、主題、テーマを舞台上に表出するにあたってどうだったのかという視点を抜きにしてはならない。
例えば、照明の失敗や役者の発声などについて言及するとしても、それが劇の追い求めるものを致命的にあるいは大幅に阻害してしまった時に言われるべきものだ。それも、その失敗がどう舞台を壊したかどう邪魔だてしたかという視点を明確にして述べられなくてはならない。この時点での技術評、演技評はあくまでその舞台の目的に沿って述べられなくてはならない。技術一般、演技一般の批評は無論あるべきだが、それは、もっともっと後から出てくる事柄だし、技術的なアドバイスとしての意識を明確に持って行うことが必要だ。
この二点、テーマの是非とその表現達成度、をはっきりと意識した批評が求められる。高校演劇の審査講評が時に物足りなかったり、時に納得行かなかったりするのは、この部分に無自覚に批評が行われたり、自覚していても敢えてそれを無視して講評するからなのではないかと思う。
その題材やテーマがダメならダメとはっきり言うべきなのだと思う。何故ダメなのかも含めてしっかりと説明責任をはたすべきだと思う。それが作品を根底的に否定することであっても、心の中に芽生えてしまったことははっきり伝えるべきなのだと思う。生徒を傷つけてはいけない、顧問に失礼にあたるなどと遠慮する必要はない。自分自身の価値観をはっきりと宣言することなくして批評など成り立たないのだと思う。
批評は、自らを省みる行為だ。自分の本音をさらけ出す営為なのだと思う。
難しい事柄をあれこれ論ってみたが、要は、その舞台が面白かった、面白くなかったかってことなのだ。

以上、自戒の意味を込めて考えをまとめてみた。私も劇評を試み、それをブログを通して公にしているからには、この批評の原則をしっかり踏まえた批評をしていかなくてはならないと改めて自分自身に言い聞かせている。


コメント
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