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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味

2024年09月06日 | お説教・霊的講話

ナイムの寡婦の涙と教会の涙、聖母の涙の意味

2024年9月1日 聖霊降臨後第15主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日、福音では、一人息子を失って涙を流す寡婦・やもめのお母さんが登場します。今日は、この涙から、教会が超自然の命を失った子どもたちについて嘆いていること、そしてマリアさまの涙について、一緒に黙想いたしましょう。

【ナイム:一人息子を失って涙をながす寡婦】
今日の福音を見ると、主はナイムという町に行かれます。ナイムというのは、語源によると、美しいとか、喜ばしいという意味です。

すると、町の門に近づくと、主は葬式の行列に出会います。誰が死んだのでしょうか。若い一人息子が担ぎだされてきました。お母さんは泣いています。やもめです。つまり、たった一人の、支えの一人息子を失ってしまった、もうこれからいったいどうしていけばいいのだろうか、と途方に暮れて涙を流しているお母さんです。

イエズス様は、このお母さんを見て非常にあわれに思ったに違いありません。きっとマリアさまのことを思ったに違いありません。なぜかという、マリアさまも聖ヨゼフ様を失ったやもめであり、そして私たちの霊魂の救いのために御一人子であるイエズス様を失うであろう、からです。そのことをよく知っていたイエズス様は、このやもめのこととマリアさまを重ね合わせたに違いありません。

イエズス様は、マリアさまにはご自分の復活をもって慰めを与えますから、ナイムのやもめにはこの子供の復活をもって慰めようと思われました。

【罪人の霊魂をおもって涙を流すカトリック教会】
この史実は、歴史上の出来事は、今でも霊的に起こっています。どういうことかというと、教父たちによると、霊的な意味では、美しい町…成聖の恩寵の状態の町から担ぎだされる死人というのは、大罪を犯したことによって天主の聖寵(gratia)を失った私たちの霊魂のことだといいます。罪こそが、私たち人類にとって最大の問題です。そして最大の不幸であり、最大の悲しみです。

天主は、すべてを尽くしてわたしたちを愛し、永遠の命に導こうとしておられます。それにもかかわらず、人類は自由を乱用して、与えられた自由をいいように使って、罪を犯し続けているからです。そして罪を犯すことによって、永遠の死に向かっているからです。これこそが、人類にとっても天主にとっても、最も悲しい出来事です。

教会の使命というのはなんでしょうか。教会の使命のこの本質、その核心というのは、この霊的に死んだ子どもたちが、超自然の命に生き返るようにと祈ることです。教会は、私たちにとって超自然の命の霊的なお母さんです。母なる教会というのはこのためです。なぜかというと、教会の懐でわたしたちは洗礼を受けて、超自然の命である天主の聖寵・成聖の恩寵を受けたからです。

この聖寵こそが、わたしたちの将来の栄光の種(semen gloriae)となるものです。これなくては、わたしたちは将来永遠の命を受けることができないからです。

私たちは霊魂を一つしか持っていません。ですからいわば一人息子です。人生はたった一回限りです。霊魂もたった一つです。これを失ってしまうと、もう取り返しがつきません。これを失ってしまうということはどういうことかというと、地獄に落ちてしまうということです。永遠の死に落ちてしまうということです。ですから、イエズス様はなんとかしてこの最大の不幸、永遠の死から、地獄の火から、わたしたちを救いたい、永遠の命へと導きたいと思われています。

カトリック教会は、キリストの花嫁です。キリストが頭であり、教会はその体です。一体となっています。ですから教会は、花婿であるキリストと同じ心・同じ願いを持っています。それは私たちの永遠の救いです。

イエズス様は十字架の死をもって私たちを贖いました。ですから花嫁である教会は、いわばやもめであるともいえます。ですから教会は、ちょうど今日の福音のナイムのやもめのように寡婦のように、わたしたちがあるいは罪人が、罪の状態から霊的に復活することができるようにと、いつも祈っています。罪を犯して霊的に死んでいる子どもたちが、罪を捨てて超自然の命に生き返るように祈っています。

ですから教会は、二千年間、罪こそが最大の悪である、と言い続けてきました。たとえこの世でどんなに不幸があったとしても病気だったとしても、貧乏だったとしても、あるいは事故にあったとしても、五体不満足だったとしても、しかし、天国に行ければ、永遠の至福を受ければ、すべては解決できます。しかし、この世でどれほどお金があってどれほど幸せで美味しいものを食べて何でもできたとしても、永遠の命を失ったならば、いったいそれが何の利益になるでしょうか。

ではどうしたらわたしたちは永遠の命を失ってしまうのでしょうか。それは罪です。たったひとつ、罪だけが、わたしたちをして永遠の命を失わせてしまうのです。

ですから教会は、罪を犯さないように、罪から立ち直るように、罪を棄てるように、聖なる生涯を送るようにと、いつも祈ってきました。償いと祈りと償いの涙を捧げてきました。特に、この「教会が超自然の命のために祈っている」ということを、今日は皆さんに訴えたいと思います。

【永遠の命】
教会は、いつも使徒信経で言います。「終わりなき命を信じ奉る」。

終わりなき命、つまり永遠の命 vita aeterna、これはわたしたちの究極の目的です。これは、ただ比喩ではありません。文字通りの本当の意味で、永遠の命をわたしたちが受けることになっています。

えっ!なぜ?どうやって? わたしたちは限りある人間なのにもかかわらず、なんで終わりなき命を受けることができるのか?

それは、限りあるわたしたちですけれども、無限の天主の超越的な絶対の至福にあずかることができるように、主がわたしたちに特別の光を与えてくれるからです。

もちろん、創造主である天主と被造物である人間との間には、無限の隔たりがあります。いわば、断絶があります。ですから、わたしたちがいくら永遠の命を持ったからといって、有限であるものが無限であるものになるわけではありません。被造物が創造主になるわけではなりません。しかし、天主は天主、人間は人間として区別されながらも、天主の光によって栄光の光によって、わたしたちは天主の永遠の至福に与ることができるようになります。

どういうことかというと、たとえでいうと、たとえばここに鉄の塊があります…硬い鉄の塊で冷たい鉄の塊ですけれども、これを竈(かまど)の中に轟々(ごうごう)と燃やしてしまうと、炎の中に入れられたこの鉄の塊は熱を帯びて、あたかも火の塊であるかのように真っ赤になって、そしてトロトロと溶け出して、そしてもっともっと熱を加えたら、もしかしたら気体になってしまうかもしれません。

それと同じように、もしもわたしたちも、天主の栄光の光の中に入ってそれにあずかると、その天主の栄光に光によってわたしたちの霊魂は沁みとおり、あたかも天主であるかのように変化してしまいます。あたかも天主の栄光に入った人は主の愛に燃やされて、自分は自分であることはやめませんが、この地上にいる人々とはまったく違ったものになります。そうしてわたしたちは、主の栄光、喜び、楽しみに満たされて、心の思いはすべてかなえられ、そしてあたかも天主であるかのようになるんです。

イエズス様はこう言いました。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ることにあります」(ヨハネ17:3)。

聖ヨハネはこう言います。「愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子であるが、のちにどうなるかは、まだ現われていない。それが現われるとき、私たちは天主に似たものとなることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから」(1ヨハネ3:2)。

聖パウロはこう言います。「今私たちは、鏡を見るようにぼんやりと見ている――つまり信仰を通してみている――、しかし、その時には――つまり天国の栄光では――顔と顔とを合わせて見るであろう。今私は、不完全に知っているが、しかし、その時には、私が知られているとおり知るであろう。」(コリント前13:12)

「天主を目の当たりにして、天主を見る」――これを、至福直感と言います。そうすると、天主が、このあまりにも愛に満ちた方であり、無限の善であり、最高の完全さをもっている方であることを深く理解して、天主を所有し天主とあたかも一つになるかのようになります。もちろんわたしたちは 天主とわたしたちは区別しますが、主を所有するように、そして幸福で欠けたものは全くないような幸せに満たされます。なぜならばわたしたちはすべてを持っているからです。これができるのは、栄光の光(lumen gloriae)のおかげです。そのとき、天主はわたしたちを栄光の光で照らして、その中で主を見るからです(詩26:10参照)。

この至福を、最高の宝であるわたしたちの究極の目的である永遠の至福を奪うものは、何でしょうか。たった一つあります。それは罪です。大罪です。ですから、教会はわたしたちが罪を犯すことがないように、罪を犯したらそれから超自然の命に回復するように、成聖の恩寵の状態に立ち戻るように、息を吹き返すように、いつも涙を流し、嘆き、祈っています。

【罪人の霊魂をおもって涙を流す聖母】
では最後に、つい最近秋田のマリアさまのメッセージを聴いたシスター笹川が亡くなられたので、マリアさまが涙を流したことについても一緒に黙想して、少し話をしたいと思います。

秋田でも、101回の涙を流されました。なぜ流されたのでしょうか。マリアさまの話によると、それは「世の多くの人々は、主を悲しませて」【第二のメッセージ】いるからです。罪を犯しているからです。主がそれによって悲しんでいるので、マリアさまも涙を流しています。

またマリアさまはこうも言われます。
「たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。」【第三のメッセージ】

霊魂が失われるというのはどういうことでしょうか。これは天国へ行くことができなくなってしまう、罪を犯したがために、成聖の状態にいることができなくて、失われてしまう――地獄に失われてしまうということです。「それがわたしの悲しみです。」

守護の天使は、マリアさまの涙をこう説明しています。「聖母は、いつも、一人でも多くの人が改心して祈り、聖母を通してイエズス様と御父に献げられる霊魂を望んで、涙を流しておられます。」

ですから秋田の聖母の涙、この核心は、わたしたちが罪を犯さないように、あるいは罪を犯したらそれが回心するようにという、その涙です。この地上で、たとえば、‟天から火が来るから”ということが、マリアさまのメッセージの核心ではありません。

ファチマでも、やはり同じことをおっしゃいました。わたしたちにロザリオの時に、こう祈るようにいわれたからです。「ああイエズスよ、われらの罪をゆるし給え、われらを地獄の火より守り給え。」

マリアさまのお考えはいつも来世のことです。彼岸のことです。

ある時ルルドでは、聖ベルナデッタに こう言いました。「わたしはあなたにこの世では幸せを約束しません。しかし、来世ではします、来世の幸せを約束します」と。

ですから、こういわなければなりません。マリアさまが涙を流されているのは、わたしたちの永遠の命のためだ、と。

ですから、もしも秋田のメッセージの核心が何かというと、火が天から降ることではありません。‟マリアさまだけがわたしたちを助けることができる“というのは、そのような大天罰が来るときにマリアさまが物理的にそういう被害を与えないように守ってくださる、ということではありません。

もちろんマリアさまはわたしたちの優しいお母さまですから、わたしたちがこの世で苦しむことがないようにと、思っておられます。わたしたちがこの世で苦しむことを悲しまれます。できれば苦しませたくないと思われます。しかし、人類が罪を犯し続けるので、人類はどうしても受けなければならない罰がある、と。それを何とか避けさせるために、マリアさまはイエズス様とともに、御父にお祈りをして、それを慰めようとしてきた、宥めようとしてきた。しかしそれでも足りないので、多くの人々の祈りと犠牲が必要だ。だからマリアさまは、「助けてほしい」とわたしたちに訴えています。

ですから、マリアさまがおっしゃる警告というのは、脅迫ではありません。脅迫というのは、さあさあと言って、恐怖におとしいれて、嫌なことでもやれ、と…そういうことを要求することではありません。そうではなくて、わたしたちが永遠の命を受けるために、いまから厳しいことがあるかもしれない、とそれを予告します。心の準備をさせます。

特に、永遠の命を受けるために最も必要であるはずの枢機卿があるいは司教様たちが互いに対立してわたしたちを上手く天国まで導くことができないかもしれない…教会は荒らされる…司祭・修道者も辞めてしまう…悪魔が聖職者たちに働きかけている…わたしたちが正しい教えを聴くことができないようにさせてしまっている…そのために多くの霊魂が失われてしまっている――それが悲しい。

ですから、マリアさまは、わたしたちが悔い改めるように、罪を犯し続けるのを止めるように、と訴えています。 

【遷善の決心】
では最後に選善の決心を立てましょう。
マリアさまは罪を避けるように、つまり、天主の十戒を愛をこめて守るように、そして天主を愛するがために隣人を我が身のように愛するように、祈りという天主との愛の会話をするように、わたしたちの日頃の義務を身分上の務めを愛をこめて償いとして天主に捧げるように、と招いています。そして、イエズス様とともにマリアさまとともに、わたしたちの日頃の生活を祈りと償いをもって捧げるように、と招いています。

そうすると、そのようなわたしたちを見た、マリアさまと一緒に死人を担いで出てくるその行列をするわたしたちを見たイエズス様は、きっと十字架の木に手をかけて、罪人たちにこう命じられることに違いありません。「青年よ、私はいう。起きよ!」と。

すると、罪人は、多くの人々は、霊的なよみがえりをするに違いありません。教会とマリアさまの涙をごらんになって、罪人を憐れみに思ったイエズス様が、超自然の命をわたしたちにくださるのです。

これこそが教会の存在理由であって、教会の使命の核心であり、本質です。「超自然の命を与える」。そして、これこそが、マリアさまが涙を流される理由です。

では、今日この福音を黙想しつつ、わたしたちもマリアさまの涙に教会の嘆きに合わせて、日々の生活をお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2024年9月4日は、9月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2024年09月04日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2024年9月4日は、九月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

また、聖ヨゼフに、東京に聖伝のミサの聖堂が与えられたことを感謝しましょう!

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て疑問に思った方々に

2024年09月03日 | カトリックとは

「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

―――ミュージカル「ジーザス・クライスト=スーパースター」を見て疑問に思った方々に―――

カトリック教会の伝えるままのイエズス・キリストとはどのようなお方か?

 

劇団四季ジーザス・クライスト=スーパースターが公演されている。これはイエズス・キリストのエルサレム入城から十字架上でのご死去までを、主にキリストを裏切ったユダ・イスカリオトの観点から描いたロック・オペラだ。

【本論の意図と目的】

これは、作曲家A・ロイド=ウェバーと作詞家ティム・ライスが20代の時に生み出した出世作であり、旧約聖書の預言と福音書に記述された事実に基づく実像とは全く関係のない、想像の人物ジーザス・クライスト=スーパースターを作り上げ、教会の解釈とは異なる人物像としてエンターテイメントに仕立て上げた作品だ。 聖書に題材を借りた想像の作品で、ここで示されたイエズス・キリスト像は事実ともカトリック教会の解釈とも全く異なる。

劇団四季の「ジーザス・クライスト=スーパースター」はその日本語バージョンである。

しかし、これを見た人の中で善意の人は、イエズス・キリストについて誤解をするかもしれない。イエズス・キリストを、アリウス派の異端説によるような「ただの人間」、あるいは「スーパーマン」「スーパースター」にすぎないと思うかもしれない。

あるいはイエズス・キリストについて、本当はいったいどのような方だったのか知りたいと思うかもしれない。しかし、本当のイエズス・キリストが誰かを提示してくれる人が、周りをさがしてもいないかもしれない。

そこで、本論では、本当のイエズス・キリストのことを伝えることを目的として、劇中でユダの役を通して投げかけられる疑問に答えたい。

【ユダ・イスカリオトの投げかける問題提起】

このミュージカルは、ユダ・イスカリオトの歌から始まる。ユダ・イスカリオトは、十二使徒の一人でイエズスをお金で売った裏切り者だ。「ジーザス!あなたまでが自分の事を神の子だと信じるとは・・・生まれた町であなたは父と同じ大工をしてたら、群衆たちを惑わすようなこんなことにはならない・・・」

最後も、ジーザスが十字架のご受難の最中に、ユダの次のような歌で締めくくられる。「いつも不思議に思っていた。どうしてこんなにややこしいことにした? もっとうまくやれたはずだろう。なぜ古代のあんなへんぴな場所だったんだ? 現代なら全世界を相手に出来たのに、BC4年のイスラエルにはマスコミも無かったぜ。悪く思わないでくれ。知りたいだけなんだ。ジーザス・クライスト。お前は誰だ。何を犠牲にした? 天上の友人はどうだい? お前は別として、イケてるのは誰だい?仏陀はどうだい? そこにいる? マホメットは本当に山を動かしたのか?それともPRか? あの死に方は計画どおり? 派手に死んで有名になる狙いだったのか?・・」

メインの問い:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

1)なぜ古代のユダヤで生まれてきたのか?

2)自分の事を神だと思ったのか?

3)なぜ抵抗もせずに十字架の上で死んだのか?逃げることもできたではないか?

4)現代ならインターネットで全世界を相手に出来たのに、なぜ21世紀の現代に生まれてこなかったのか?

5)何のために?何を求めて自分の命を犠牲にしたのか?有名になるためだったのか?

ここで叫ばれているユダの声は、現代の日本に住む方々の疑問に通じるとも思われる。そこで歴史事実に基づいて、当惑しているユダのこれらの問いに答えたい。

 

論点1:【旧約の預言の成就】

1)なぜ古代のユダヤで生まれてきたのか?

イエズス・キリストは、古代のユダヤでお生まれになり、苦しみを受けて死去された。それは、旧約聖書には来るべきメシアに関するあらゆる預言があり、その全ての預言がキリストにおいて成し遂げられるためだった。

旧約聖書は、キリスト誕生のずっと以前から存在しており、さまざまな場所で、さまざまな著者によって書かれた。キリストの前のことを旧約という。天主と人間との古い契約という意味だ。キリストの誕生以後は新約だ。新しい契約だからだ。

ユダヤ人の宗教とはメシアを待望する宗教だった。この宗教の中心教義は来たるべき救世主、メシアへの希望をうちに秘めていた。その儀式と組織、律法と預言は来るべき救い主を予告する影だった。救世主に関して預言されていたことは、すべてキリストにおいて正確に成就された。例を少しあげる。たとえば、こうだ。

彼はダヴィドの後裔で(イザヤ書 11-1,2)、ベトレヘムに誕生し(ミケア 5:2)、童貞女なる母より生まれ(イザヤ書 7:14)、天主の子と言われる(詩編 2:7)、ナザレト人と称せられ、(イザヤ書 11:1)、その王国は栄える(イザヤ書 9:7)。彼の王国は攻撃を受けるであろうが、永遠に滅びない(詩編 2:1,4)。彼は、悲しみの人であり、誹謗され、清貧に甘んじ(イザヤ書 8:10)、銀貨30枚で売られ、銀貨は焼物師の畑を買うに使われる(ザカリア書 11:12,13)、自ら望んで犠牲となり口を開かない羊が屠所に連れていかれるように、毛刈り込み人の手の中にある羊のように口を閉ざしている(イザヤ書 58:7)。彼の四肢は貫かれ、その上衣は分けられ、その衣は籤引きにされる(詩編 21:17,19

以上は預言の一部に過ぎない。しかし、ありとあらゆる預言が全て一個人において成就されているという事実は、単なる偶然でも、また人間的技巧でもありえない。

全ての預言がキリストにおいて成就していることを考えると、99.99%以上の確率でキリストが約束された救世主であるという結論にならざるを得ない。

イエズス・キリストは、十字架での死刑と言う極刑を受けつつ、いや、まさにそうすることで、旧約の預言を全て成就した。

しかも、お金でもなくマスコミでもなく真理だけが持つ力によって、異教のローマ帝国でさえもキリスト教に改宗した。全世界の人々は、この真理を吟味して、真理を信じるように招かれている。

論点1を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

歴史はこう答える。イエズス・キリストは、旧約の預言をことごとく全て成就した方だ、つまり約束された救い主だ。

 

論点2:【イエズス・キリストは自分を天主であると主張した】

2)自分の事を神だと思ったのか?

福音書には、イエズス・キリストが、さまざまな機会に、自分が世界の創造主、つまり天主であることを主張したことが記載されている。

一例をあげると、イエズスがユダヤ衆議所(サンヘドリン)に出廷した時、大司祭は公式に尋ねた。「おまえは祝すべき天主の子キリストなのか?」イエズスこれに答えて、「そうだ。あなたたちは人の子(=イエズス)が全能にまします天主の右に坐して空の雲に乗り来るを見るだろう」といった。そこで大司祭は、自分の衣服を裂いて、冒涜の言を聞いた!というと、一同は、イエズスを罪死に当たると定めた(マルコ 14:61-64)。つまり、イエズスは、天主と同じ本性を有すると主張したと理解されたので「冒涜」だと断罪された。この「冒涜」のゆえに衆議所はイエズスを死刑に処断し、イエズスはこれを甘受した。

イエズスは、自分を天主であると主張したのみならず、多くの奇跡を行って自分の主張が真理であることを証明した。

イエズスは「民衆の期待と自己の無力さとの狭間で苦悩したこと」など一度もなかった。史実はその反対だった。人々の期待を遥かに超えた奇跡を行い、例えばパンを増加させて数千人の人々を養い、生まれつきの目の見えない人に視力を与え、死者をよみがえらせた。死者をよみがえらせたことが三回あることが福音書に記録されている。

たとえば、キリストが生まれつきの盲者を癒した時、キリストはその盲者に尋ねた。「あなたは人の子を信じるか?」と。彼が「主よ、それはだれのことですか?私がその方を信じますように」というと、イエズスは「あなたはそれを見ている。あなたに話しているのがそれだ」とおおせられた。すると彼は、「主よ、私は信じます」といって、イエズスのみ前にひれ伏して礼拝した(ヨハネ 9:35-38)。

人の罪を赦すのは天主だけにできることである。しかしイエズスは自分が罪を赦す権能さえも持っていることを証明しようとしてこう言った。「人の子が、地上で罪をゆるす権力をもっていることをあなたたちに知らせよう!」。そして中風の人に向かい、「私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ!」とおおせられるや、病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目のまえを出ていった(マルコ 2:5-12)。つまり奇跡を行って自分が自然界に対して絶対の権力を持っていることを証明した。

 

論点3:【イエズスは、預言通り十字架につけられて復活した】

3)なぜ抵抗もせずに十字架の上で死んだのか?逃げることもできたではないか?

イエズスは、自分が天主であることを証明するために、自分が苦しみを受けること、死者の中より復活することを何度も預言した。

果たしてイエズスは抵抗もせずに十字架に付けられた。逃げることもできたが、屈辱と苦痛の死を受け入れた。そしてイエズスは自分が宣言した通り復活した。

イエズスの受けた精神的苦悶、鞭刑、茨の冠、十字架の刑、心臓への槍の貫通は、いずれも致命的なものだった。そのことを見てもイエズスが死んだのは確実である。弟子たちは、聖母マリアと少数をのぞいて、イエズスを捨てて逃げた。しかし、イエズスは三日目に復活して、裏切った弟子たちのところに何度も現れ、体を触れさせ、食事をし、自分が本当に復活したことを証明した。

不信の弱い弟子たちはイエズスを見て、彼が本当に復活したことを確信した。つまり、イエズス・キリストこそ本当のメシアであり、天主であると確認した。

復活したイエズスを見て触れた使徒たちはがらりと態度を変えた。その後の彼らの人生は、命がけでキリストの復活を宣教することに変わった。こうして彼らは、迫害と困苦と殉教の生涯へと進んで行った。使徒たちの宣教で、キリストを信じる人々はその数を増加させた。彼らもまた、キリストを信仰することによって、困苦と死とを得たのみであった。彼らは皆、使徒の宣教の真実性を絶対的に認めていた。

聖アウグスチヌスは、もしもキリストの復活が事実でなかったとするなら、数人のガレリアの漁夫によって、ローマ帝国全体が改宗してキリストを信じるようになったのは、キリストの復活に勝る大いなる奇跡でなければならないと言っている。

論点2・3を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト、お前は誰だ?」

史実はこう答える。イエズス・キリストは自身を天主であると主張し、この主張を証明するために、無数の奇跡を行い、さらには、死者の中より復活することを明言して予告通りに復活した。したがって、イエズスの主張は真理である。つまり、イエズス・キリストは天主だ。

 

論点4:【なぜ現代の即効力のある手段を選ばなかったのか?】

4)現代ならインターネットで全世界を相手に出来たのに、なぜ21世紀の現代に生まれてこなかったのか?もしも本当の天主ならば、生まれるべき時代を選んで効果的に影響をおよぼすべきだったのではないか?

イエズスが生まれた当時は、当然、テレビも新聞もインターネットも無かった。イエズスが生まれたイスラエルは、ローマ帝国の属国であり、神々を信じていた首都ローマから軽蔑されていた貧しい地方だった。人間的な考えによれば、ローマ皇帝の子供として生まれ、権力と軍事力と富と報酬で、人々に影響を及ぼした方がより効果的だったと思われるかもしれない。

しかし、イエズスは、古代に生まれ、マスコミも使わなったのみならず「宣教の愚かさをもって信じる者を救おうと」した。

キリスト教を迫害していたが、後に回心してイエズスを信じる側についた使徒聖パウロはこう言う。「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。それはユダヤ人にとって躓きであり、異邦人にとって愚かであるが、しかし召された人々にとっては、ユダヤ人にもギリシァ人にも、天主の力、そして天主の知恵キリストである。天主の愚かさは人間よりも賢く、天主の弱さは人間よりも強いものだからである。」(コリント前12325

使徒たちは、貪欲と傲慢、色欲と迷信の底に沈んでいたローマ帝国の人々に、イエズスの教えである清貧と従順、貞潔と愛徳、自己犠牲とこの世の軽視を説いた。使徒たちの説教の中心は、この世の娯楽の代わりに来世の天国を希望すること、十字架にはりつけられたイエズスを礼拝することだった。

ローマ帝国の強大な国家権力は、生まれたばかりキリスト教撲滅のために力を尽くした。十回の過酷な迫害が起こった。皇帝の迫害行為は3世紀の間絶えることなく行われた。幼少年をも加えた多くのあらゆる階級の信者の人々がこの迫害、苛酷な拷問を甘んじて受けた。彼らは、死の激痛のなかで死と苦痛を甘受し、自分を拷問する人々の救いを心から希求しつつ、自らの血で染めた手をもって彼らを祝福して殉教していった。こうしてイエズスへの信仰の前に、いかな権力も富も、ローマ帝国さえも、敗北した。

イエズスが人間の救いのために選んだ手段は、この世の知恵では説明がつかない。

聖パウロはこう言葉を続ける。「天主は、知恵者を辱しめるために世の愚かな者を選び、強い者を辱しめるために世の弱い者を選ばれた。天主は、あると誇る者を空しくするために世の賎しいもの、軽んぜられた者、この、無きにひとしいものを選ばれた。それは、天主のみ前で、だれにも誇らせないためである。」(コリント前12729

 

論点5:【イエズスは派手に死んで有名になる狙いだったのか?】

5)イエズスが十字架の上で死んだのは何のためだったのか?

イエズスの十字架上の死は、旧約と自分の預言を成就するためだったことは既に述べた。ここでの質問の意味はこうだ。

イエズスが旧約の預言を成就させながら十字架の上で死ぬことによって、何を成し遂げたのか?その意味で、イエズス・キリストの十字架の死は何のためだったのか?

旧約に預言されたメシアとは、そもそも何なのか?

人類の祖先アダムとエワが最初に罪を犯した時、罪によって人類は天国という至福に至る権利を失ってしまった。旧約の預言は、人祖がこの最初の罪を犯して天主に背いた後に、天主が人間にメシアが送ると約束された時から始まった。メシアつまり救い主とは、人間を罪の負債から解放する者のことだ。

人祖アダムとエワは、自分の力だけで神々のようになろうと欲した。傲慢によって不従順となり天主の掟に背いて罪を犯した。罪のために、この世に苦しみと死が入った。

来るべき救い主は、謙遜で、天主に従順であり、苦しみと死を通して、罪による罰の負債を贖うべきであった。

アダムは木の果実を盗み食べる罪によって、地上の楽園という王国を失った。イエズスは人類を代表する救い主として十字架の木に自分を付けることによって天国の門を開くべきだった。アベルの捧げた小羊の犠牲だけが天主に嘉されて来るべき完成された犠牲が予告されたように、イエズスの十字架の犠牲だけが天主に嘉された。

旧約のノエが「天主が彼に命じたことを全て行った」(創世記6:22, 7:5)ように、イエズスは父なる天主が命じたことを全て死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順に行った。ノエがブドウ酒によって裸になったように、イエズスは人類の罪の贖いを熱望して、赤裸々の姿で十字架につけられた。

アブラハムの一人子のイサアクがいけにえとして屠られようとしたように、天主の御一人子のイエズスはいけにえとして十字架で屠られた。イスラエルの子たちがエジプトからの脱出の記念としてささげられた旧約の過越し(出エジプト記121以下)の儀式がモーゼを通してイスラエルに命じられた。この過越しはイエズスの十字架の犠牲を予告するシルエットであった。

イエズスの狙いは、王として十字架の上で死んで人類の全ての罪を贖うことだった。そうすることによって預言を全て成就させようとした。だからイエズスは茨の冠と言う王冠をかぶった。ローマ帝国がイエズスに与えた公式の罪は「ナザレトのイエズス、ユダヤ人たちの王」だった。

論点4・5を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

歴史はこう答える。イエズス・キリストは真の救い主だ。イエズス・キリストは真の天主だ。イエズス・キリストは、贖なわれた人類の真の王だ。

 

論点6:【イエズスをよく知っていた者の証言】

イエズスをよく知っていた者の証言を聞いてみよう。ある時「イエズス・キリストは、ペトロとヤコボとその兄弟ヨハネとをつれて、人里はなれた高い山にお登りになった。そして、かれらの前でお姿がかわり、お顔は太陽のようにかがやき、お服は雪のように白くなった。そのとき、モイゼとエリアとが、かれらにあらわれ、イエズスと語りあった。…光る雲があらわれ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」とお声があった。」(マテオ1715

この時、イエズス・キリストから選ばれた三人の目撃者のうちの一人であり、キリストからペトロという名前を与えられたヨナの子シモンは、自分の見聞きしたことを次のように証言している。

「私たちはそのみいつの目撃者であった。おごそかな光栄の中から「これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする」と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた。」(ペトロ後書11618

論点6を踏まえた、メインの問いに対する答え:「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

天主なる父はこう答える。イエズス・キリストは、父なる天主の愛する子である。「彼の言うことを聞け!」

 

論点7:【イエズス・キリスト自身の主張】

では、最後に、イエズス・キリスト自身は、自分のことを何といっているだろうか?

イエズスの言葉をいくつか引用しよう。

「私は世の光である。私にしたがう人はやみの中を歩かず、命の光をもつであろう」(ヨハネ812

「私は門である。私を通って入る人は救われ、出入りして牧草を見つけるだろう。しかし、盗人は、盗み、殺し、ほろぼすためにだけくる。私は、羊たちに命を、豊かな命をあたえるために来た。私は良い牧者で、良い牧者は羊のために命を捨てる。牧者でもなく、自分の羊をもたないやとい人は、狼が来るのを見ると、羊をすてて逃げ、羊は狼にうばわれ、散らされる。」(ヨハネ10712

「私は復活であり、命である。私を信じる人は、死んでも生きる。生きて、私を信じる人は、永久に死なない。あなたはこのことを信じるか」(ヨハネ112526

「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人父のみもとにはいけない。」(ヨハネ146

「私は王である。私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く。」(ヨハネ1837

「私は門の外に立って叩いている。私の声をきいて戸を開くなら、私はその人のところにはいって、かれとともに食事し、かれも私とともに食事するであろう。勝つ者は、私とともに王座に坐らせよう。私が勝って父とともにその玉座に坐ったと同様に。」(黙示録320

「私はアルファとオメガ、初めと終わりである。渇く者には、無償で命の水の泉を飲ませる。勝つ者は、そのすべてを受ける。私はかれの天主となり、かれは私の子となる。しかし、臆病者、不信仰者、厭うべき者、殺害者、淫行者、魔術者、偶像崇拝者、すべてうそをつく者は、火と硫黄とのもえる池、すなわち第二の死をうける。」(黙示録2168

以上の論点を踏まえた、メインの問いに対する答え(結論):「ジーザス・クライスト=スーパースター、お前は誰だ?」

歴史事実と、父なる天主と、イエズス・キリスト自身は、こう確認する。イエズス・キリストは真の救い主だ。イエズス・キリストは真の天主だ。イエズス・キリストは、贖なわれた人類の真の王だ。

そうして初めて全てに説明がつく。

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司祭はまさに御聖体のよう。司祭とは一体どのような存在なのか?司祭とはいったい何なのか?

2024年09月02日 | お説教・霊的講話

司祭はまさに御聖体のよう。――司祭とは一体どのような存在なのか?司祭とはいったい何なのか?

トマス小野田圭志神父 2024年8月25日(主日)東京 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

キム・ミンジェ・ノンジーノ神父様、愛する兄弟姉妹の皆様、今日は、神父様の日本での初ミサを行っています。聖ピオ十世会に所属する最初の韓国人司祭の誕生を心からお祝いいたしましょう。この新司祭の誕生を機会に、カトリック司祭について一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音でも、私たちの主は「人は、二人の主人に仕えるわけにはいかない。一人を憎んでもう一人を愛するか、一人に従ってもう一人をうとんじるかである。あなたたちは、天主とマンモンとにともに仕えることはできない」と教えてくださっています。天主に仕えることを望んだ究極の人というのは司祭です。では司祭とは一体どのような存在なのでしょうか?司祭とはいったい何なのでしょうか?

【選択】
司祭というのは、いけにえを捧げるために天主から選ばれて、そして世俗からまったく切り離された人間、もっと正確にいうと、その男性のことです。天主にいけにえを捧げるために、天主への奉仕を選んだ人のことです。

聖パウロはヘブレオ人への手紙の中でこう言っています。
「大司祭はすべて、人間の中から選ばれ、天主に関することについて、人間のために任命されている。それは、罪をあがなうそなえものと生贄とをささげるためである。」(ヘブレオ5:1)

【いけにえの必要性】
ここに司祭の定義の核心があります。罪を贖う供え物といけにえを捧げる必要が人間にはあるからです。全被造の世界の大問題があります。それは、人間人祖アダムとエワが、罪を犯してしまったということです。それ以来、人間は罪を犯し続けているという問題です。つまり、“あるべき天主と人間との友情関係”が崩れてしまった、人間と天主とは対立している、敵対関係に陥ってしまった、という究極の問題が生じてしまったからです。人類の歴史の最初から、天主の御国とサタンの国とのあいだで、人間の霊魂の永遠の救いということにかかって、その問題のために、死闘が、つまり永遠に生きるか死ぬかの戦いが始まりました。

これは永遠の大問題であって、天主の創造の究極の目的を達成することができるか否かの、究極の問いなのです。人間は、本当の幸福(しあわせ)を得なければなりません。これが天主の創造の目的です。しかしそのためには、どうしても罪が赦され罪を償わなければなりません。その罪を償うためには、どうしてもいけにえを捧げなければなりません。罪によって、この世に死が入ってしまいました。従って、罪の赦しを受けるためには、聖パウロの言葉によれば、血を流す必要があります。「血を流すことなしに罪が赦されることはない。et sine sanguinis effusione non fit remissio.」(ヘブレオ9:22)と。

罪の赦しのために、罪の贖いのためには、いけにえであれば何でもよいわけではありません。天主の御心にかなうほんとうのこころよいいけにえと、そして天主が受け取るのを拒否するいけにえとがあります。嘉するものと、嘉されないものがあります。

アダムとエワのその最初の子どもたちが捧げたそのいけにえを見てください。カインとアベルのいけにえです。アベルの捧げた小羊のいけにえは、天主によって非常に嘉され、天主はこれを受け入れました。しかし、カインの捧げた大地の恵み・労働の実り…これについては 天主はこころよしとおもわずこれを拒否されました。カインはこれを見て非常に嫉妬して、アベルを迫害します。ついには最初の兄弟殺しが起こってしまいます。

【旧約の成就・完成】
天主の御国とサタンの国とのあいだで始まった霊魂の救いのための戦い、これは、人間が究極のいけにえを捧げることができるか否かにかかっています。なぜ天主のみことばが人間となったのでしょうか?ご托身されたのでしょうか。それは、この戦いのためでした。この戦いに勝利をおさめるためでした。もしも天主を御ひとり子が人間となって、しかも十字架にかけられていけにえとなったとされたらば、それは、罪によって破壊された秩序を立てなおすためです。罪によって秩序は破壊されました。区別は破壊されました。

まことの天主と被造物の区別、超自然と自然の区別、真理と誤謬の区別、善と悪の区別、美しいものと醜いものの区別、これが滅茶苦茶になりました。これをもう一度はっきりとさせて、創造の秩序のすべてをキリストにおいて回復させる、このために天主の御子はいけにえとなりました。大司祭となり、そして同時にいけにえとなりました。

ですから、天主の御国とサタンの国のあいだのこの究極の戦いは、カルワリオにおいて、主の十字架の勝利によって最高潮に達しました。天主の望む秩序を再建するために それを実現することの出来る最高の手段が 十字架のいけにえです。罪を赦すことのできる本当の憐みと聖寵は、イエズス・キリストの流された御血から そして十字架のいけにえの贖いの業によるしかありません。これこそが天主御父の嘉する唯一のいけにえであり、唯一の贖いです。

旧約聖書を見ると、そのすべてが、十字架、カルワリオのいけにえに向かって集中していることが分かります。ユダヤ人が捧げたさまざまないけにえ、いろいろな形でのいけにえそして前兆は、十字架の犠牲の前兆でした。

イエズス様のご生涯、そのすべてが十字架とご受難に向けられていました。イエズス様はお生まれになったときから、その最後まで、十字架のいけにえを捧げるということだけを考えていました。それこそが主の時でした。主の十字架のいけにえは、あまりにも完璧であり、完成させられており、たった一度だけで全人類のすべての罪を贖うことができる力をお持ちになっています。

では、この永遠の力を持つ十字架のいけにえ、これは天主の永遠の計画によって、世の終わりまで地上で再現されることをお望みになりました。この十字架のいけにえの再現、これがミサ聖祭です。

マラキアの預言にかつてあったように、――「日の昇るところから日の沈むところまで、天主の偉大な御名に清いいけにえが捧げられている。」――つまり、時間と場所を超えて、唯一のイエズス・キリストのいけにえが全世界で捧げられなければならないことが、預言されていました。Ab ortu enim solis usque ad occasum, magnum est nomen meum in gentibus, et in omni loco sacrificatur: et offertur nomini meo oblatio munda. 」(マラキア1:11)

聖アウグスチヌスの時代のアフリカでも、グァダルーペのマリア様が出現された当時のメキシコでも、あるいは聖フランシスコ・ザベリオが到着したその日本でも、また聖金大健アンドレア神父様が捧げた朝鮮でも、また2024年8月25日のここ大宮でもまったく同じミサが 時代と場所を超えて捧げられています。カトリック教会にはたったひとつのミサしかありえません。なぜかというと贖いはたった一つしかないからです。教会には唯一の礼拝形式しかありえません。この礼拝形式が聖伝のミサです。

【聖伝のミサ聖祭】
聖伝のミサは「全時代のミサ」といわれています。なぜかというと、このミサこそ、天主の御国とサタンの国の戦い、時を超えて継続しているその戦いを、行っているものであるからです。延長戦であるからです。ですからこのミサには、衝突・対立がいまでも起きています。

そしてわたしたちカトリック信者は、すべてのカトリック信者はこの戦いに呼ばれています。主はこの「地上に剣を持って」(マテオ10章34節)やってきたと言われました。ミサ聖祭これ自体で逆らいのしるしとなっています。しかしこのミサ聖祭は、贖いと犠牲の精神によって、罪への決定的な勝利を完全にしめしています。

聖伝のミサは、この世の精神に逆らっています。そして同時に、超自然の勝利を確信しています。教会の御旗です。なぜなら、このミサ聖祭によって、天主は、罪を滅ぼし、サタンの国を滅ぼそうとご計画であるからです。

わたしたちの宗教の中心にど真ん中に、全能の天主は十字架の精神まことのいけにえの精神を植えてくださいました。十字架無くしては、このいけにえの精神・犠牲なくしては、誰も救われることはあり得ません。今この世の流行(はやり)の偽りの「愛」とか同性愛をいつくしもうとかなどということによって救われることはあり得ません。人類を救う愛にはたったひとつの愛しかありません。わたしたちを罪から清めてくださる愛はたった一つしかありません。それはイエズス様が流された十字架の愛、イエズス様が御血を流された十字架の愛、天主の贖いの愛、主が私たちに示してくださったそして伝えてくださった愛です。そしてこの愛は、本当のカトリック信仰なしにはありえません。

ですからカトリック教会の生命、生活、そしてわたしたち贖われた霊魂の生活は一つです。十字架と贖いとに一致することです。イエズス・キリストは唯一です。十字架も唯一です。そしてこの唯一の十字架を通して、私たちは全能の天主を礼拝するのです。そうすることによって、わたしたちをキリストと一致させて聖化します。

【悪魔の攻撃】
悪魔はこのいけにえをなくそうと、祭壇を廃止させようと、いけにえを廃止させようと全力を尽くして攻撃をかけています。天主とマンモンの戦いは続いています。お金がすべてだ。お金がすべてを解決する。物質が豊かになれば、平和になるし、すべては上手くいく。地上の楽園を作ればいい。--悪魔は罪という概念をこの地上から取り去ろうとして、いけにえという概念を取り払おうとして、この聖伝のミサに対して攻撃をかけています。

プロテスタントのサービスがそうです。ミサ聖祭が贖いの犠牲である、いけにえであるということを否定して、そしてマルチン・ルターは これは最後の晩餐の記念だ・兄弟たちの会食だということに置き換えてしまいました。見てください、ユダヤ教にもいけにえはありません。イスラム教にもいけにえはありません。プロテスタントにも祭壇はありません。本当の宗教だけが、このいけにえの祭壇を持っています。

【新しいミサ】
その攻撃はまだ続いています、新しいミサが出来上がってしまいました。この新しいミサ聖祭というのは、カトリックのミサ聖祭からカトリックらしいことをすべて取り去ってしまって、プロテスタントのサービスのようにさせてしまったものです。これは新しいイデオロギーのためにつくられました。エキュメニズムというイデオロギーです。ですから、この新しいミサの背後にあるのは、この世に耳を傾ける教会です。罪という概念を失ってしまった、そして贖うべきものが無くなってしまった、教会の概念です。

ですから、わたしたちは、こういうことができるかもしれません‥‥‥いけにえに対する概念の違いによって、二つのミサが作りだされた。二つのミサは二つの国を作りつつある。聖伝のミサは、キリスト教世界を打ち立てる。十字架と犠牲の上に成り立つキリスト教世界文明をうちたてた。しかし「新しいミサ」は人間中心の世俗の国を打ち立てようとしている。

【聖伝のカトリック司祭】
私たちには、特に現代世界には、イエズス・キリストが行った究極の大勝利、十字架のいけにえ、聖伝のミサがどうしても必要です。この世の存続のためにも、永遠の命のためにも、必要です。聖伝のミサの続行のために、聖伝の司祭が必要です。

カトリック司祭の存在理由、これはまさにミサ聖祭をささげるということにあります。司祭の偉大さは、これはまさに全実体変化を起こすことであります。司祭というのは「神の民の集会の座長」ではありません。

カトリック司祭は、イエズス・キリストのペルソナに代って、毎日、祭壇でこう言います。
「これは私の体である。」
「これは私の血の杯である。」
告解部屋では司祭はこう言います。
「私はあなたの罪を赦す。」

つまりまさに聖パウロが言った言葉と同じです。
「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。」(ガラチア2:20)

司祭とは、あたかも聖変化したパンとワインであるかのようです。御聖体は、見かけはただのパンとワインですが、実体はキリストのほんとうにキリストの御体とまたキリストの御血だからです。

司祭も、見かけはただの人間です。しかし、キリストのペルソナにおいて、全実体変化を起こし、罪の赦しを与えることができます。

司祭は、まさに御聖体のようです。御聖体のようにすべての人々に与えられますが、すべての人々の上に立っています。なぜかというと、司祭は、イエズス・キリストの代理者であり、イエズス・キリストと同じく、いけにえでもあるからです。司祭は天主からすべての祝福と恵みを受けて、それをすべての人々に分かち与える存在であるからです。

【最後に】
では、最後にマリアさまにお祈りいたしましょう。
最高永遠の司祭、イエズス・キリストの御母であるマリアさまに、私たちにも多くの聖伝カトリック信仰をまもる聖伝のミサを守る聖なる司祭を与えてくださいますように。
日本からも韓国からも世界中から多くの司祭たちが、わたしたちに与えられますように お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十五の主日の説教―怠りの罪(2024年、大阪)

2024年09月01日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十五の主日の説教―怠りの罪

ブノワ・ワリエ神父 2024年9月1日(日)大阪

 

 

「もしある人に過失をみつけたら、霊の人であるあなたたちは、柔和な心をもって、その人を改めさせよ」―今日の書簡【ガラツィア6章1節】

信者に信仰と道徳を教えることは、司祭の重大な使命です。ですから今日は、私たちが見落としがちな、怠りの罪についてお話ししましょう。

親愛なる兄弟の皆さま、

今、世界のある場所では飢えている人がいるかもしれませんし、別の場所では、重大な罪を犯している人がいるかもしれません。しかし、皆さまは、この2人の人物とは何の関係もなく、したがってまったく責任も負っておられません。

怠りの罪とは、私たちの身分に応じた義務に従って、善をなすべきときにそれを怠り、また、悪を避けかつ防ぐべきときにそれを怠ることを意味します。

1.一般的な義務

私たち全員に、天主の掟と教会の戒律を守る義務があります。

天主の愛に関連して、一つの例を挙げてみましょう。成聖の恩寵の状態にある人は皆、聖霊の七つの賜物を持っています。そのうちの四つは知性を完全にし、三つは意志を完全にします。しかし、怠惰な状態にある人は、天主の聖霊のこれらの賜物の光と指示に従って行動することをやめてしまいます。ですから、その人の永遠の命の道における前進は遅れているのです。

「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ、あなたたちは、ハッカ、ウイキョウ、イノンドの十分の一を納めながら、律法の中でもっと重大なもの、正義と慈悲と忠実を無視している。先のことをも無視することなく、後のことをこそ行わねばならぬ」(マテオ23章23-24節)

司祭とレビ人が、エルザレムとエリコの間の道で傷ついた人を見たとき、彼らの罪はどんなものだったでしょうか(ルカ10章参照)。司祭はその道をやって来て、その人を見ながら通り過ぎました。レビ人もやって来て、その人を見ながら通り過ぎました。彼らは、自分たちの隣人に対してなすべき愛徳に関して、怠りの罪を犯したのです。

2.特別な義務

しかし、私たちは、身分に応じた義務に基づいた、特別な義務も負っています。配偶者、両親、子ども、雇い人、雇われ人、司教、司祭、信者など、すべての人が何らかの義務を負っていますが、それは同じ義務ではありません。例えば、配偶者は結婚の法を守り、互いを思いやる必要があります。おそらく、仕事での義務を怠らなくても、家庭を顧みない人がいるかもしれません。一方で、仕事で時間を浪費する人もいるかもしれません。他にも多くの例を挙げることができるでしょう。

3.断罪されるべき無知

怠りの罪が、告解で最もよく…忘れられてしまう罪です! 人はしばしば、自分の身分に応じた義務に関連する特定の義務のことを忘れ、この怠りの罪について、自らを告発しないのです。

「自分の罪に気づく者があろうか。天主よ、知らずに犯したわが罪を赦し、われを清め給え」―詩篇18篇13節

天主がいま皆さまをご覧になっているのと同じように、皆さまが自分で自分を見る光を天主が与えてくださるように、また、皆さまがいま自分では見られない、知らずに犯した罪を天主が見せてくださるように、生涯にわたって毎日、天主に祈ってください。

天主は、怠りの罪が起こり得るだけでなく、あまりにも一般的であることを明らかにしておられます。
聖ヤコボは言います。「しなければならぬ善を知りながら、それをしない者は、罪を犯したことになる」(ヤコボ4章17節)。
聖パウロも同じ趣旨で、こう言います。「私は自分の望む善をしていない」(ローマ7章19節)。

4.実を結ばない木

「悪を避け、善を行え」―詩篇36篇27節

子どもたちは、親に詮索されるとき、こう答えることがよくあります。「何も悪いことしてないよ。」
そうです、でも、皆さまがすべきであるとされている善についてはいかがでしょうか。

天主の似姿に創造された霊魂が、罪は犯さないが、実を結ばないとしましょう。これはまさに、実を結ばないイチジクの木のたとえで説明されている状態です。その木は生きていて、根は強くて地中にあり、枝は葉で覆われていました。しかし、毎年、実を探しても、見つかりませんでした。これは、たとえ話であり、霊魂の説明です。霊魂は確かに生きているのですが、その創造の目的を果たしていません。霊魂は、どんな目的のために創造されたのでしょうか。天主を知り、天主を愛し、天主に仕え、天主を礼拝し、天主に似た者となるためです。しかし、その創造の目的を果たさず、天主を知らず、天主を愛さず、天主に仕えず、天主を礼拝しない霊魂は、創造主にしてその原像である天主に似た者、天主と一体化した者にはなりません。その霊魂は、その創造の目的を果たさないがゆえに、滅びの状態にあるのであり、たとえ話の次の言葉は、真実であり正しいものなのです。「切り倒せ! なぜ土地を無駄に使うのか」(ルカ13章7節)。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

ほとんどすべての罪の一番最初の原因は、私たちがなすべきことを怠ることにあります。天主の目から見た〈怠り〉の罪は、〈行い〉の罪よりも大きなものです。その罪は、終わりの日の裁きの基礎となるでしょう。「あなたたちは、私が飢えていたのに食べさせなかった」(マテオ25章42節)。

私たちの生活からさらに確実に罪を根絶し、さらに忠実にキリストに従うために、良心をよく調べましょう。
そして、聖パウロが述べているように、「私たちにまだ時のある間に、すべての人に、特に信仰における家族に善を行おう」。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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