Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖母の無原罪の御宿りとは何か?原罪とは何か?無原罪の御宿りは私たちにどのような意味があるのか?

2024年09月13日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十六主日 大阪でのミサ 説教

トマス小野田圭志神父 2024年9月8日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、今日はマリアさまのお誕生日の祝日でもありますから、マリアさまの誕生の神秘について、特にマリアさまが無原罪であるということについて黙想することを提案します。

何故このことを提案するかというと、実はつい最近ある日本人の神父様の本を読んだときにこの神父様は「無原罪の御宿り」の神秘について疑問を提示していて、よくわかっておられなかったからです。ですから、ぜひ皆さんには「無原罪の御宿り」について深い理解をお願いしたいと思っています。そして、もしも何か質問を受けたという場合には、正しく答えることができるようになさってください。

まず無原罪を語るために、原罪とはいったい何なのか、また無原罪とはではどういうことなのか、それから無原罪がわたしたちにとってどんな意味があるのか、ということを黙想して、そして最後に選善の決心をたてましょう。

【原罪とは何か】
では「無原罪の御宿り」を理解するために、「原罪」について少し確認いたします。皆さんよく知っていることです。

アダムとエワは無原罪において創造されました。これは何を意味するかというと、天主は人祖を創造したときに、最初の瞬間から、まったく無償で、果てしない愛と憐みによって、人間に成聖の聖寵を与えました。成聖の聖寵、つまり、人間はその本性以上の境地に高められたのです。地上においての幸せな生活を受けたというそれに加えて、天使たちが招かれたのと同じような高い身分に、つまり天主の生命そのものに与る・参与するというものと高められたのです。ですから、最初の瞬間から――人間が創造されたその最初から――、“罪が犯されない限り常に留まり続ける聖寵”の状態において、天主の子どもとなり、天主の生ける神殿となって、この世の生活の後には、天主の永遠なる福楽そのものを楽しむことさえできる――天主を至福直感で見るという幸福を受ける――、という特別の特権を受けました。これによって人間は、人間であることを失わずに天主のように――あたかも天主であるかのように――なり、そして天主の生命を生きる――それに到達することができる、という特別な地位をいただきました。このような状態を、原初の義――義というのは義人の義です――原初の義の状態と言います。

天主の生命というのは、この世の有限の世界に現れている命とは全く次元の異なるものです。天主はこの世をこの世界をすべて有らしめて存在させていますけれども、同時にこの世界を本性においては遥かに超越するお方です。ちょうど動物の命と植物の命を比べたときに、動物の命のほうが遥かに優れています。それと同じように―いやそんな感じで、天主の生命は、被造の生命を絶対的に―動物と植物の生命と比較にならないほど絶対的に、無限に凌駕しています―超越しています。

それにもかかわらず、人間が人間であるまま、人間が天主の生命に与ることができるのは、これは人間の本性に基づく当然のことでは決してありませんでした。そうではなくて、天主の愛が生み出した奇跡でした。有限な人間が、無限の天主の生命のこれに与るのです。与るといいますのは、なぜかというと、人間が天主の命をわがものにして、天主そのものになることはできないからです。そうではなくて、卑しいしもべであって―卑しい身分でありながら、天主の無限の寵愛をこうむって、そしてもともとの本当に卑賎な身分から天主の家督を相続する特別に恵まれた者とあげられました。これがアダムとエワが最初に創られた状態でした。

しかし、残念なことに不幸なことに、わたしたちの祖先、人祖アダムとエワは罪を犯します。そしてこのアダムとエワが犯した罪によって、原初の義の状態というこの贈り物は失われました。パーになりました。超自然の遺産であったはずの贈り物は、アダムが、これを捨ててしまったのです。ですからアダムのすべての子孫たちは、子供たちは、この遺産を受けることができなくなってしまいました。この意味でアダムの罪がわたしたちアダムの子孫に伝えられたのです。

アダムの犯したのはあくまでも個人の罪です。しかしアダムの自罪―自分の犯した罪が、子どもたちに子孫に伝えられる限りでこれを「原罪」と言います。アダムは原罪を犯したのではありません。アダムは「自罪」を、自分の罪を犯しました。が、その罪の結果、わたしたちは「天主から退けられた状態」に陥ってしまいました。アダムの子孫は、つまり「聖徳と義の欠如」の状態で生まれるようになってしまいました。いいかえると「天国の家督相続の権利を剥奪」されて生まれてきたのです。裏からいうと「天主が最初に人類に対して持っていたとてつもない愛に対立する状態」で生れて来ました。ですから、これは、わたしたちにとっては「原罪」として伝えられてきました。ですからこの原罪というのは、欠陥がある状態なのです。ですからわたしたちは、天主の御前に汚れのある者として生まれてきたのです。聖トマス・アクィナスは、原罪の本質というのは何かというと「原初の義の欠如である defectus originalis justitiae」と言っています(I.IIae, q.83, a.3)。

天主が定めた法則によって、アダムの子孫であれば当然のごとくこの遺産はわたしたちに伝えられなかったはずです。当然の如くすべての子孫は、原罪の汚れに感染します。そしてわたしたちすべてにとって、超自然の命――つまり成聖の聖寵――を回復することができるのは、たった一つの手段しかありません。イエズス・キリストだけです。イエズス・キリストだけが、聖パウロが言うとおりに、「すべての人、とくに信じるものの救い主」であります。ティモテオの前書4章10節に書いてあります。ですから、救われる人すべては、例外なくたった一つの例外なくイエズス・キリストの功徳によって贖われて、救われました。

【無原罪の御宿り】
では、聖母の「無原罪の御宿り」とはいったい何なのでしょうか?
福者ピオ九世は1854年12月8日の大勅令「イネファビリス・デウス」でこう言います。引用します。
「童貞聖マリアは、その受精(受胎)の最初の瞬間に in primo instanti suae conceptionis 全能の天主の特別の聖寵と特権とによって、人類の救い主イエズス・キリストの功徳を予見して、原罪の全ての汚れから前もって保護されていた praeservata immunis 。この教えは、天主によって啓示されたのであり、全ての信者によって固く常に信じられなければならないことを宣言し、発表し、定義する。」これで引用を終わります。

マリアさまに贖いが適応されたというのは、なぜかというと、人類が一般的に持っている原罪の法則があったからです。つまりマリアさまは一般的な法則によれば、お恵みがない状態で生まれなければならないはずでした。マリアさまにも本来ならばこの原罪の法則が適用されるべきところでした。しかしマリアさまの場合には特別に、それから「前もって保護されていた praeservata immunis」のです。先行的に保全されていたのです(redemptio praeservativa)。贖いの業が適用されて、マリアさまが存在しようとするその最初の瞬間に―受精の瞬間に、イエズス・キリストの贖いの功徳によって、成聖の恩寵が与えられました。罪の汚れ―原罪の汚れなく受胎されたのです。マリアさまが原罪の汚れから「前もって守られた」というのは、つまり、聖寵の状態でマリアさまのお母さま聖アンナの胎内に宿り始めたということです。

そればかりではありません。なぜかというと、確かにわたしたちも同じような効果を、洗礼を受けることによって受けることができるからです。なぜかというと、洗礼を受けると原罪を赦され、そして「罪の責務」reatus culpaeあるいは「罰の責務」reatus poenae、すべての罰を免れることができます。が、しかし、洗礼を受けたとしても、わたしたちは原罪に由来する乱れた情欲や無知というものは、癒されることはできません。

しかし教皇様の発表した信仰箇条によれば―そして聖伝の教えによれば―啓示された教えによれば、「聖母はその受胎の最初の瞬間から原罪のすべての汚れから守られたab omni originalis culpae labe praeservatam immunem」とあります。つまり「無原罪の御宿り」によって、マリアさまは、そのような心の悪への傾きや欠陥あるいは情欲や無知などという不幸からも、免れていました。ですからマリアさまは生涯、最初の瞬間から終わりまで罪がなく、汚れなく、聖寵に満ちみてる方として留まられました。これが「無原罪の御宿り」です。

【無原罪の御宿りの意義】
では「無原罪の御宿り」ということは、いったいわたしたちにとってどんな意味があるのでしょうか。どれだけの意味があるのでしょうか?

1)まず第一に、原罪ということが事実である―現実であることをわたしたちに教えています。
これについて聖ピオ十世教皇様は1904年にこう書いています。教皇様の言葉を引用します。
「カトリックの宗教の敵が、多くの人々の信仰を揺るがすような重大な誤りを種蒔く出発点は、いったい何だろうか。彼らはまず、人間が罪によって堕落し、そしてその地位から投げ落とされたことを否定することから始める。つまり彼らは、原罪とその結果である悪を単なる寓話だおとぎ話だと見なしている。原罪によって汚された人間性は、その原罪の結果、人間という種(しゅ)をすべて汚した。こうして人間の間に悪がもたらされ、救い主の必要性が生じた。しかしもしもこのようなことが否定されれば、キリスト、教会、聖寵、あるいは自然を超えて、自然を超えるために残された場所がないということは容易に理解できる。人々がマリアさまの受胎の最初の瞬間からあらゆる汚れから守られたことを信じ、信仰告白するかぎり、すでに原罪があること、イエズス・キリストの必要、そして福音、教会、そして苦しみの法則による人類の救いのすべてを認める必要が生じてくる。これによって、合理主義と唯物論は根こそぎに破壊されて、キリスト教の知恵は、真理を守り抜くという栄光が残される。」聖ピオ十世教皇様の引用を終わります。

「無原罪の御宿り」は、つまり、原罪というものが確実にあるということ、そしてそのためにキリストの救いが必要であるということを断言する、ということです。

2)第二に、マリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、イエズス・キリストがまことの天主であるということを確認します―明らかにします。もしもイエズス様が単なる人間だったとしたら――非常に優れた罪のない高徳の立派なお方だったとしても人類の最高の方だったとしてもしかし天主ではなかったとしたら――ただの人間だったとしたら――、どんなに素晴らしくてもマリアさまは原罪の汚れから守られる必要はありませんでした。しかし、イエズス・キリストが――マリアさまから生まれる方が――、まことの天主であったので、その御母となる方には、罪の汚れが一瞬たりともあってはならなかったのです。天主の御母はその地位にふさわしい方でなければならなかったからです。悪魔の支配下に一瞬たりともあってはならなかったからです。

3)またマリアさまが「無原罪の御宿り」であるということは、同時にイエズス・キリストが第二のアダムつまり約束された贖い主であり、聖母が第二のエワであるということを明らかにします。
【1】なぜかというと、第二のエワは悪魔に対して完全な勝利を治める方でなければなりませんでした。「私はおまえと女との間に、おまえの子孫と彼女の子孫との間に敵対を置く。彼女はおまえのかしらを踏み砕くだろう。」(創世記3:15)創世記の預言です。
【2】またマリアさまが第二のエワであるということを確認するその第二の理由は、第一のエワが創られた当初、童貞として無原罪の状態で第一のアダムの伴侶として、創られました。ですから、第二のエワであるマリアさまも、第二のアダムであるイエズスの伴侶としてそれにふさわしいように汚れなき童貞として与えられるのが非常にふさわしいからです。

4)それから、第四には「罪」というのが何かということを私たちに教えてくれます。
マリアさまは、天主によって先どって「先行的に」守られました。「無原罪」で存在をはじめました。そうすることによってごくわずかな罪の陰さえなかった。またいかなる不完全さもありませんでした。マリアさまは、地上のいかなるものにも愛着を持たずに離脱して、天主だけを愛していました。聖霊の息吹に完全に導かれていました。天主の御旨を果たすことだけを求めて生きていました。こうすることによって、わたしたちに、愛によって生きることが何かを教えています。

罪というのは、天主の御旨に背くことです。
わたしが先ほど申し上げたある日本人の神父様は、こんなことを書いておりました。人間が食べ物を食べて、いわば「他者を犠牲として生存を続ける」とか、人間が「殺生せずには生きていられない」ということを、「罪深い」ことだ、だから人間はどうしても罪深い。
(曰く「聖母マリアが人間である限り、被造物の一つである限り有限性と自己不充足性とは存在論的に無縁ではありえなく【もちろんそうです!】、従って神の御旨に従った人間の理想像から…程遠い方ではなかったか。【ここに論理の破綻があります。被造物は有限の存在としてあることが天主の御旨です。人間は、たとえ「究極的完成態、すわなち終末的約束の実現」がおこったとしても有限な存在ens finitumとして留まります。人間が天主に依存する存在であることは「怠りの罪」を構成しません。「怠りの罪」とは、為すことができ為すべきことを故意にしないことです。】) 
でもわたしたちがものを食べて生きるということは、これは天主の御旨です。これは、罪ではありません。そういうことを罪というのではありません。そうではなくて、天主のみ旨に反することを罪と言います。

聖母は、自分のために生きたのではありませんでした。天主のために生き、人類の贖いのために、御子とともに苦しみました。マリアさまはすべてを与え尽くしました。これが罪のない生活であり、愛の生活でした。

ですからマリアさまは、御生涯の間、愛の功徳によって聖寵をますます増加させて完成させて、そして天主に完璧に一致したものとなり、最高の被造物となりました。これこそ、天主の聖寵の創りあげた最高傑作でした。マリアさまは、被造物への愛ではなくて天主への愛によって生き、聖霊の「浄配」として一生を過ごされました。

その結果何が起こったかというと、無原罪の御宿りのマリアさまの生涯は、十字架の生涯でした。つまりマリアさまは「十字架の御母」であり「悲しみの御母」でした。「贖い主の御母」Redemptoris Mater となるべく生まれてきたマリアさまは、贖い主に一致して、ご自分も贖いとしてお捧げになりました。つまり、罪のない被造物であったマリアさまは、罪の贖いのために苦しみを受けることによって、贖いに完璧に協力されたのでした。この贖いの神秘については、来週皆さんにお話ししたいと思っております。

【遷善の決心】
では最後に選善の決心をたてましょう。
天主はわたしたちのためにこの世に来るときに、ご自分の母となるべきお方を完璧で完成された聖人の状態での清い童貞女を創りあげて無から創造して、その方からお生まれになろうとすればそれもすることが出来ました。しかし、天主は、その永遠の愛によって、永遠の智恵によって、アダムの子孫からお生まれになることを選ばれました。それを欲しました。

今日、マリアさまがお生まれになったのは、天主の母となるべき方であり、そして、特別に無原罪の御宿りという特権を受けたお方です。わたしたちの人類の同胞として特別の御方が、今日お生まれになりました。わたしたちの母となるべく方、また、天の元后となるべき方、そして私たちに救い主を与えるべきお方が、今日お生まれになります。この途轍もないお恵みを、イエズス様に感謝いたしましょう。

そして今日お生まれになられた汚れなきマリアさまにお祈りいたしましょう。マリアさまの汚れなさはわたしたちには真似することはできませんが、しかし、マリアさまの子どもとして―愛された子供として、罪を憎み、罪の機会を避けるお恵みをこい求めましょう。そしてマリアさまに倣って、イエズス・キリストをすべてに越えて愛し続けることができるように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


カトリック大学 第1回 ミニシンポジウム開催のお知らせ

2024年09月11日 | カトリック・ニュースなど

カトリック大学 第1回 ミニシンポジウム開催のお知らせ

日時:2024年9月23日(月・祝)
9:20 AM - 1:00PM (開場9:00AM)

会場 :さいたま市大宮区東町2-256-8 林ビル2F (大宮駅東口徒歩10分)

「カトリック大学」とは >
日本におけるカトリック的な学問の推進のために貢献し、多くのカトリック学者、あるいはカトリックに興味を持つ学者を集め、キリシタン史、神学をはじめ、カトリック的な視点から多岐にわたる学問を究め、得られた知識を伝え広げることを目的としている。

プログラム

■ 9:30 AM-
Tobias Bartneck
(京都大学)
「西谷啓治におけるキリスト教と近代の問題」

■ 10:40 AM-
Kevin Doak
(ジョージタウン大学)
「吉満義彦と近代 の超克」

■ 11:50 AM-
Paul de Lacvivier
(國學院大學)
「島原の乱は信仰のための戦いか」

参加費は自由会費制となっています。
みなさまの温かいご支援をお願いいたします。


聖マリアの七つの御苦しみのミサ(羅和対訳テキスト)をご紹介いたします

2024年09月11日 | ミサ聖祭
Ant. ad Introitum. Ioann. 19, 25. 入祭文 ヨハネ 19ノ25
Stabant iuxta Crucem Iesu Mater eius, et soror Matris eius, María Cléophæ, et Salóme et María Magdaléne. イエズスの十字架の傍らには、その母と、母の姉妹、クレオファのマリアと、サロメと、マグダラのマリアとが立っていた。
Ibid., 26-27. ヨハネ 10ノ26-27
Múlier, ecce fílius tuus : dixit Iesus ; ad discípulum autem : Ecce Mater tua. イエズスは、「婦人よ、あなたの子を見よ」、そして弟子には「あなたの母を見よ」とおおせられた。
V/. Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。
Stabant iuxta Crucem Iesu Mater eius, et ・・・・ イエズスの十字架の傍らには、その母と、母の姉妹、・・・
Oratio. 集祷文
Deus, in cuius passióne, secúndum Simeónis prophétiam, dulcíssimam ánimam gloriósæ Vírginis et Matris Maríæ dolóris gladius pertransívit : concéde propítius ; ut, qui transfixiónem eius et passiónem venerándo recólimus, gloriósis méritis et précibus ómnium Sanctórum Cruci fidéliter astántium intercedéntibus, passiónis tuæ efféctum felícem consequámur : Qui vivis. 天主よ、シメオンの預言の通り、主の御受難のとき、苦しみの劔(つるぎ)は、光栄ある童貞にして御母なるマリアのいとやさしき霊魂を貫きたり。願わくは、御憐れみにより、その刺し貫きと御苦しみを敬いつつ記念するわれらが、忠実に十字架のもとに立つ全ての聖人らの栄光ある功徳と祈りとの御取次によって、御身のご苦難のしあわせな実を結ばせ給え。聖父なる天主とともに(…)。
Léctio libri Iudith. ユディット書の朗読        ユディット13ノ22, 23-25
Benedíxit te Dóminus in virtúte sua, quia per te ad níhilum redégit inimícos nostros. Benedícta es tu, fília, a Dómino, Deo excélso, præ ómnibus muliéribus super terram. Benedíctus Dóminus, qui creávit cælum et terram : quia hódie nomen tuum ita magnificávit, ut non recédat laus tua de ore hóminum, qui mémores fúerint virtútis Dómini in ætérnum, pro quibus non pepercísti ánimæ tuæ propter angústias et tribulatiónem géneris tui, sed subvenísti ruínæ ante conspéctum Dei nostri. 主は、その勢力をもって、あなたを祝し給うた。主は、あなたを通して、われらの敵を打ち滅ぼし給うた。娘よ、あなたは、地上のすべての女たちにまさって、いと高き天主なる主によって祝された。天地をつくり給うた主は、祝されんことを。今日、 主は、あなたの名を高め給えり、そは、人々の口からあなたへの賛美が無くならず、人々が永久に主の御力を記憶し、彼らのために、あなたの民の苦悩と艱難とのために、あなたは御自分の命を惜しみ給わず、われらの天主の御前で、亡びに助けに来給えり。
Graduale. 昇階誦
Dolorósa et lacrimábilis es, Virgo María, stans iuxta Crucem Dómini Iesu, Fílii tui, Redemptóris. 童貞女マリアよ、御身は苦しみに満ちた涙にくれて、御子、われらの贖い主、主イエズスの十字架の下に立ち給う。
V/. Virgo Dei Génetrix, quem totus non capit orbis, hoc crucis fert supplícium, auctor vitæ factus homo. V/. 童貞女、天主の御母よ、全宇宙も容れえない御者、人間となった生命のつくり主は、この十字架の拷問を忍び給う。
Allelúia, allelúia. V/. Stabat sancta María, cæli Regína et mundi Dómina, iuxta Crucem Dómini nostri Iesu Christi dolorósa. Allelúia. アレルヤ、アレルヤ。V/. 聖なるマリア、天の元后、世界の主なる女(かた)は、悲しみに満ちて、われらの主イエズス・キリストの⼗字架のもとに⽴ち給うていた。アレルヤ。
[Post Septuagesimam, ommissis Allelúia et versu sequenti, dicitur Tractus.] 【七旬節後に随意ミサを捧げる場合、アレルヤを省略し、次の節を唱えて、詠誦を祈る。】
Stabat sancta María, cæli Regína et mundi Dómina, iuxta Crucem Dómini nostri Iesu Christi dolorósa. 聖なるマリア、天の元后、世界の主なる女(かた)は、悲しみに満ちて、われらの主イエズス・キリストの⼗字架のもとに⽴ち給うていた。
V/. Thren. 1, 12. O vos omnes, qui tránsitis per viam, atténdite et vidéte, si est dolor sicut dolor meus. V/. 哀歌,1ノ12 おお、あなた方、道行く全ての人々よ、立ち止まって、私の悲しみ程の悲しみがあるかを見ておくれ。
Sequentia (in Missis votivis ommittenda) 続誦 (随意ミサには、続誦はとなえない)
Stabat Mater dolorosa Iuxta Crucem lacrimósa,
Dum pendébat Fílius.
悲しみの御母は、涙にむせびつつ、御子のかかり給いし間十字架のもとに佇み給ていた。
Cuius ánimam geméntem, Contristátam et doléntem Pertransívit gládius. なげき、悲しみ、苦しみ給うその御魂は、劔(つるぎ)でつらぬかれ給うた。
O quam tristis et afflícta Fuit illa benedícta 
Mater Unigéniti !
おお、天主の御独子のかの祝福された御母は、いかばかり悲しく、苦しみ給うたことぞ。
Quæ mærébat et dolébat, Pia Mater, dum vidébat
Nati poenas íncliti.
慈愛深い御母は、尊い御子の御苦しみを見ていて、悲しみ苦しみ給うていた。
Quis est homo, qui non fleret, Matrem Christi si vidéret In tanto supplício ? キリストの御母がかくも悩み給うを見て、一体どのような人間が泣かないであろうか。
Quis non posset contristári, Christi Matrem contemplári Doléntem cum Fílio ? キリストの御母が、御子とともに苦しみ給うを見て、一体だれがともに悲しまないことができるであろうか。
Pro peccátis suæ gentis Vidit Iesum in torméntis
Et flagéllis súbditum.
【御母は】 御民の罪のために、イエズスが苦しみのうちにむち打たれ給うのを見給うた。
Vidit suum dulcem Natum Moriéndo desolátum,
Dum emísit spíritum.
【御母は】 最愛の御子が、慰めなく死去され息絶え給うを見給うた。
Eia, Mater, fons amóris, Me sentíre vim dolóris
Fac, ut tecum lúgeam.
愛の泉なる御母よ、私にも御悲しみを感じる力を与え、御身とともに泣かせ給え。
Fac, ut árdeat cor meum In amándo Christum Deum, Ut sibi compláceam. 天主なるキリストを愛するように、わが心が燃え立ち、御身に嘉されるものとならせ給え。
Sancta Mater, istud agas, Crucifixi fige plagas
Cordi meo válide.
聖なる御母よ、十字架につけられ給う御子の傷を、私の心にも印(しる)し給え。
Tui Nati vulneráti, Tam dignáti pro me pati,
Poenas mecum dívide.
私のためにかくもかたじけなくも苦しみ給う、傷つけられし御子の苦悶を、私にも分かち給え。
Fac me tecum pie flere, Crucifíxo condolére,
Donec ego víxero.
私の生きる限り、御身とともに敬虔に涙し、十字架に付けられた方【イエズス】とともに苦しませ給え。
Iuxta Crucem tecum stare Et me tibi sociáre
In planctu desídero.
私は、十字架のもとに、御身とともに立ち、悲しみにおいて御身とお供することを欲する。
Virgo vírginum præclára. Mihi iam non sis amára :
Fac me tecum plángere.
童貞女のうちで最も優れたる童貞女よ、私にたいして厳しくなさらず、私を御身とともに悲しませ給え。
Fac, ut portem Christi mortem, Passónis fac consórtem Et plagas recólere. 私をして、キリストの死を身に付け、御苦難をともに受け、御傷を考えるようにさせ給え。
Fac me plagis vulnerári, Fac me Cruce inebriári
Et cruóre Fílii.
私にも御傷を負わせ、御血を流し給える御子の十字架によって私を酔わせ給え。
Flammis ne urar succénsus, Per te, Virgo, sim defénsus In die iudícii. 童貞女よ、御身によって、私が審判の日に守まもられ、地獄の火に焼かれることのなきようにし給え。
Christe, cum sit hinc exíre. Da per Matrem me venire Ad palmam victóriæ. キリストよ、ここ【この世】から【私の霊魂が】立ち去るとき、御母によって私に勝利の報いに至る聖寵を与え給え。
Quando corpus moriétur, Fac, ut ánimæ donétur
Paradísi glória. Amen.
肉体が死ぬ時、霊魂には楽園の栄光が与えられんように為し給え。アメン。
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Ioánnem. ヨハネによる聖福音の続誦       ヨハネ 19ノ25-27
In illo témpore : Stabant iuxta Crucem Iesu Mater eius, et soror Matris eius, María Cléophæ, et María Magdaléne. Cum vidísset ergo Iesus Matrem, et discípulum stantem, quem diligébat, dicit Matri suæ : Múlier, ecce fílius tuus. Deinde dicit discípulo : Ecce Mater tua. Et ex illa hora accépit eam discípulus in sua.                  Credo そのとき、イエズスの十字架のかたわらには、その母と、母の姉妹、クレオファのマリアと、マグダラのマリアとが立っていた。イエズスは、その母と、愛する弟子とがそばに立っているのをごらんになり、母に、「婦人よ、これがあなたの子です」とおおせられ、また弟子には、「これがあなたの母です」とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。                   信経
Ant. ad Offertorium. Ier. 18, 20. 奉献文 エレミア書、18ノ20
Recordáre, Virgo Mater, in conspéctu Dei, ut loquáris pro nobis bona, et ut avértat indignatiónem suam a nobis. 童貞なる御母よ、主の御前で【われらを】思い出し、われらのために良いことを語り、われらから天主の御いかりを遠ざけ。
Secreta 密誦
Offérimus tibi preces et hóstias, Dómine Iesu Christe, humiliter supplicántes : ut, qui Transfixiónem dulcíssimi spíritus beátæ Maríæ, Matris tuæ, précibus recensémus ; suo suorúmque sub Cruce Sanctórum consórtium multiplicáto piíssimo intervéntu, méritis mortis tuæ, méritum cum beátis habeámus : Qui vivis. 主イエズス・キリストよ、われらは御身に祈りといけにえとを謙遜にささげ、祈り奉る。御母聖マリアの、甘美な霊魂がつらぬかれたことを、祈りにより思い出し奉るわれらが、願わくは、聖母の憐れみ深い御介入により、また、十字架のもとに聖母とともにいる諸聖人たちの多くのとりつぎとにより、御身の死去の功徳により、聖人らとともに報いを得るを与え給わんことを。聖父なる天主とともに、聖霊との一致において、世々に生きかつ治め給う天主よ。
Præfatio de B. Maria Virg. Et te in Transfixióne. 聖母マリアの序誦 (「御貫きにおいて」とかわる)
VERE dignum et justum est, æquum et salutáre, nos tibi semper, et ubíque grátias ágere: Dómine sancte, Pater omnípotens, ætérne Deus. Et te in Transfixióne beáte Maríæ semper Vírginis collaudáre, benedícere et prædicáre. Quæ et Unigénitum tuum Sancti Spíritus obumbratióne concépit: et virginitátis glória permanénte, lumen ætérnum mundo effúdit Jesum Christum Dóminum nostrum. Per quem majestátem tuam laudant Angeli, adórant Dominatiónes, tremunt Potestátes. Cœli, cœlorúmque Virtútes, ac beáta Séraphim, sócia exsultatióne concélebrant. Cum quibus et nostras voces, ut admítti júbeas, deprecámur, súpplici confessióne dicéntes: Sanctus, ... 聖なる主、全能の父、永遠の天主よ、われらが、いつも、どこにても、主に感謝を捧げ、又、終生童貞なる聖マリアの御貫きにおいて、御身をたたえ、祝し、宣言し奉ることは、実にふさわしく正しいことであり、われらの義務と救いである。聖母は、聖霊の能力によって、御独り子を宿し給い、童貞性の光栄を損なうことなく、永遠の光明なるわれらの主イエズス・キリストをこの世に生み給うた。彼によって、天使らは、主のみいずをほめたたえ、主天使は礼拝し、能天使はふるえおののく。天と天の力天使と、福(さいわい)なる熾天使は共に喜び、それをたたえ奉る。願わくは、彼らの声に、われらの声をも交えさせ給え。われらは深く礼拝しつつ、こう歌うであろう。 聖なるかな、…
Ant. ad Communionem. 聖体拝領誦
Felices sensus beátæ Maríæ Vírginis, qui sine morte meruérunt martýrii palmam sub Cruce Dómini. 童貞聖マリアの感覚は、福(さいわい)なものである。それは、主の十字架の下で、死なずしてなお殉教の報いを受け給うた。
Postcommunio 聖体拝領後の祈
Sacrifícia, quæ súmpsimus, Dómine Iesu Christe, Transfixiónem Matris tuæ et Vírginis devóte celebrántes : nobis ímpetrent apud cleméntiam tuam omnis boni salutáris efféctum : Qui vivis. 主イエズス・キリストよ、御母童貞マリアが劔で貫かれ給うことを信心深く祝いつつ、われらが拝領したてまつった秘蹟が、御身の慈悲により、われらに、全ての救いの良き効果を与えんことを。聖父なる天主とともに、聖霊との一致において、


カトリックこそ日本人の”高潔な心”が求め続けてきた「高き所へ導く」教え|日本人は古代から心の清さを求めてきた

2024年09月10日 | お説教・霊的講話

2024年8月21日(水)マリア・アスンプタさんの葬儀ミサの説教(大阪の聖母の汚れなき御心聖堂にて)

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

マリア・アスンプタさんのご家族の皆様、そして親愛なる愛する兄弟姉妹の皆様、今日マリア・アスンプタさんの葬儀ミサを捧げながら、マリア・アスンプタさんの思い出話をするのをお許しください。

そして、一緒に、その思い出から、マリア・アスンプタさんの霊魂のためにお祈りをして、そして選善の決心を立てることにいたしましょう。

マルガリタさんのお母様は、非常に寛大で、優しくて、非常に働きものでした。愛情深くて、正義感が強い方でした。そして、いつも家族のことを思っておられました。

お母様のことを、直接は わたしは、深くお友達として付き合いさせていただいたということはないのですけれども、一度ご自宅を訪問して、一緒にお喋りをさせていただけただけなのですが、しかしこの教会のために陰で多くのことをしてくださっていました。

またマリア・アスンプタさんのことは娘さんのマルガリタを見ると、それがよくわかりました。非常に寛大で、まず他(ほか)の人の、相手のことをよく思いやって、そして非常に勤勉に働かれて、そして優しくて、思いやりのある方なのを見ていると、お母様の様子が浮かんできます。

マルガリタが、八月十六日の朝に、お母様の様子がもうよくないということをお姉さまから聴いて、そしてテレビ電話をかけました。そしてお母さんに、以前から話をしていた「お母さんは洗礼を受けるか受けないか」ということを。「お母さんは洗礼を受けるか?」と聞いたら、「洗礼を受ける」と、「受けたい」とおっしゃいました。そこでわたしたちの姉妹である、マグダレナさんとマリア・ゴレッティさんがお母様のもとに駆け付けて、そして、まだ意識があったお母様にイエズス様のことを少しお話しされました。

それから、お母様に「いまから洗礼をお授けしますよ。イエズス様はわたしたちのために、罪の償いのために十字架の上で亡くなり、そしてわたしたちのために罪の赦しのために、洗礼の秘跡を定めてくださった…」ことをお話ししてから、「いまから洗礼を授けますよ」というと、「はい」と肯かれたとのことです。

そして、‟マリア・アスンプタ” つまり天に昇られた、被昇天を受けたマリアさまの霊名を受けて、すべての罪が赦されて、天主の子どもとなって、そして三位一体の生ける神殿となって、そしてそののちに、三時間ぐらいのちに、霊魂を天に返された、と伺いました。

マリア・アスンプタさんのことを知ると、本当に日本の典型的なすばらしい方だな、ということがわかります。

日本の方は、古事記から、あるいは日本書紀から、古代の神話の時代から、非常に心の清さを求めてきました。この世界には正しいことがある、真理がある、善がある、美しいことがあるということを…超越的な何かがあるということを、よくわかっていました。

ですから、たとえば古代の神話によると須佐之男命(スサノオノミコト)という神話上の人物が出てきますが、その彼が高い天の国に入るために条件とされたものは何かというと、高天原、高い天(あま)の国に入るためにいったい何が必要かというと……武力かあるいは権力か財産かではなくて……「明き清き直き心、罪のない品格のある清い心、真理と善と美を求める心だけが天の高いところに入るための条件だとされた」と神話によると書かれています。

もちろんこれは神話でしたが、しかし、日本の方々が昔から天の高いところに行くためにはどうしてもなければならないものがあって、それが何か、それは心の清さだ、ということを知っていました――なぜわたしはいまここにこうやって生きているのか、なぜこの苦しみにまみれてこの世で生活しているのか――天の高いところに行かなければならない――でもそのためにはどうしたらよいのか、じぶんは罪に汚れているのではないか、この汚れを取るのはどうしたらよいのか、滝に打たれて修業したらよいのではないか、水をたくさん浴びたらよいのではないか…いろんな修業をして修業をしてそれでもまだ足りない…どうしたら「明き清き直き心」を持つことができるのか――日本の方々はいろいろ悩んで来ました。

しかし、遂に、救い主が、この世を創られた方が人間となって、つまりイエズス・キリストが、わたしたちにその秘密を教えてくれます。

わたしたちが「清き直き心」を持つためには、滝の水ではなくて、洗礼の水を受けることが大切だ。これは十字架の犠牲によって流された天主の御子の御血の功徳によって、わたしたちの罪がきれいに赦される、清められる――マリア・アスンプタさんはちょうどこの洗礼の水を待っていた、清き直き心を持った日本の典型的な女性だった、と私には思えてなりません。

イエズス様はそればかりか、わたしたちに更にもっと核心を教えてくれます。なぜこの世にはその清き、明き、きれいな心をした人々が苦しんでいるのか、なぜ悪人が世に憚(はばか)っているのか?

イエズス・キリストはわたしたちに、こう言います。
「最後の日には審判がある」と。すべての人々は正義の裁きを受ける。世に住んでいたすべての人類はそのすべての秘密を全人類の前に公開されて、そして裁きがある。そして清い直い心をもった――罪を赦された――本当に罪を赦された者が天国に行き、高き天が原に、天の高い国に行き、そしてそうでないものは、永遠に地獄によって滅ぼされる。そしてそればかりでなく、わたしたちは肉体をもって善をしたので、この肉体も復活して、そして永遠のよろこびに入る。

これを、わたしたちの主イエズス・キリストは教え、そして約束して、ご自分の復活をもって本当にあるということを確認されました。

そしてマリアさまの被昇天というのも、それをわたしたちに教えています。
二千年間のカトリック教会の中で、これは常に信仰の真理でした。マリアさまの聖遺物…教会では人が亡くなるとその遺体を非常に大切にします…が、マリアさまだけはその聖なる御体がないのです。なぜかというと、天に挙げられたからです。ちょうどその日の翌日にマリア・アスンプタは霊魂を天に帰されたのは、きっとマリアさまからの特別な愛を受けておられたのだと思います。

ではわたしたちは、さいごに、このお母さんのために、お祈りをいたしましょう。

そして、おそらくわたしたちのために、天で寛大な心で、家族のために、そしてわたしたちのために、きっとマリアさまの近くで取り次いで、地上にいるわたしたちのためにお祈りしてくださるようになる、と。 

ですから、そのためにも、霊魂のためにお祈りをしつつ、このミサをお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働(2024年、大宮)

2024年09月08日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十六の主日の説教―肉体労働

ブノワ・ワリエ神父

主日と祝日を聖とすること

「安息日に人を癒やすことは合法か」

律法学士やファリザイ人は、私たちの主が安息日に病人を健康にして、愛徳のわざをなさったことを批判しましたが、彼らはその日、家畜を危険から救うことを、一瞬たりとも躊躇しませんでした。

現代のカトリック信者の多くは、その反対に、別の極端なところにまで行っています。彼らは、主日や祝日に、罪の意識を持つことなく働き、いや、「今日は休日なのだから、少しぐらい楽しんでもいいだろう」と言いながら、罪深い楽しみにふけってさえいるのです。

古代ユダヤ人の過ちと、この現代のキリスト信者たちの欺瞞から、皆さまをお守りするために、私は今日、主日と祝日を聖とすることについてお話しし、その日には何を避け、何をすべきかについて説明するよう努めようと思います。

I.主日と守るべき祝日には、肉体労働をすべて避けなければならない。

肉体労働とは、通常、使用人、日雇い労働者、職人によって行われる、骨の折れる体を使った労働のことです。つまり、精神の能力よりも肉体の力を必要とする、あらゆる労働、あるいは、人間の永遠の幸福ではなく、この世の幸福を目的とする、あらゆる労働のことです。いわゆる芸術というものは、肉体よりも精神を使うもので、理解力の発達、あるいは、無害な娯楽や精神的なリラックスを目的とするものですから、肉体労働ではないため、主日や祝日に禁じられているわけではありません。したがって、主日と祝日に、芸術や科学を教えたり、勉強、あるいは鉛筆画、絵画、音楽という芸術に取り組んだりすることは、夢中になりすぎたり、主日の義務の遂行を妨げたりしない限り、合法なのです。

ただし、肉体労働を主日と祝日に行うことが合法である場合が四つあります。

(a)食事の準備や、皿洗い、食卓の後片付けなど、短い時間の家事や軽作業の場合。

(b)絶対的な必要性がある場合。キリストご自身がそう教えておられます。したがって、消防署が火事を消そうとするのは合法です。収穫期に雨天が長く続くなら、天候が良い場合はいつでも、主日であっても、農民が作物を穫り入れることは正当化されます。

(c)教会や祭壇の掃除や装飾など、天主をたたえるために労働を行う場合。

(d)隣人愛が私たちに義務付けている場合。今日の福音にあるように、安息日に善い行いをすることは合法です。母親が病気の子どもの世話をするために、ミサを欠席しても構いません。自分の家で大掃除をすることは許されませんが、困っている人のために大掃除をすることはできます。「まことに私は言う。あなたたちが、私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり私にしてくれたことである」(マテオ25章40節)。

これらの例外の場合でなければ、主日や祝日に3時間以上肉体労働をすれば、重い罪を犯すことになります。

2.主日と祝日には、すべての罪深い行いを避けなければなりません。

聖なるものは聖なるものに保たなければなりません。したがって、主日と祝日には、明らかに罪深いものはすべて、特別な注意を払って避けなければなりません。「特別に主に捧げられた日を、この世の愚行やむなしい快楽に費やすことは、天主に対する大いなる侮辱、一種の冒涜とさえ言えるのではないだろうか」(聖キュリロス)

II.主日と祝日には何をしなければならないか。

1.私たちは、ミサにあずからなければなりません。主日と祝日にミサを拝聴することは、教会の厳格な戒律です。私たちは、ミサの全体にあずからなければなりません。自分の過ちのせいで遅刻した人は罪を犯しています。守るべき日のミサに、奉献誦が始まってから来ることは、大罪です。

2.その日には、悔悛の秘跡とご聖体の秘跡を受けることが勧められます。教会の最初の数世紀には、すべての主日のミサでご聖体を受けることが、信者の普遍的な習慣でした。殉教者聖ユスティヌスは、病気やその他の障害のためにミサを拝聴することができないキリスト信者には、ご聖体を持って行ったと伝えています(少なくとも、月に一度は告解に行きましょう)。

3.私たちは、主日を聖としなければなりません。これは天主の掟です。全体的には、ミサにあずかれば掟を果たします。しかし、主日は、自分のため、あるいは子どものためにカテキズムを学ぶのにふさわしい日でもあります。それは主日の義務ではありませんが、私たちには、信仰を学ぶという一般的な義務があります。(今日のカトリック信者が、カテキズムの簡単な質問にさえ答える義務があるとすれば、ずいぶんと恥ずかしいことでしょう。また、私たちには、知らなければ知らないほど、カテキズムを熱心に学ぶという義務があるのです。)

4.最後に、主日と守るべき祝日には、愛徳のわざ、特に肉体的・霊的なあわれみのわざを行いましょう。聖ヤコボが、「父なる天主に対して、清く汚れのない宗教とは、こうである。貧しい孤児とやもめを見舞い、この世の汚れに染まらず、自ら清く身を保つことである」(ヤコボ1章27節)と言うようにです。

結論として、親愛なる兄弟の皆さま、私は、初期のキリスト信者の良き模範に倣い、主日と守るべき祝日を、恩寵と祝福と救いの日とするように過ごすことを、切にお勧めします。

主日は主の日です。ミサを拝聴した後、家庭で、家族と一緒に、キリスト教的な方法で主日をお祝いしましょう。カテキズムの本や信心の本を読み、世俗的で罪深い娯楽を避け、あわれみと愛徳のわざを行ってください。

きょう私たちは聖母の誕生日を祝っていますが、願わくは私たちが主日を聖とするのを守れるよう、聖母が助けてくださいますように。

要するに、願わくは、主の次の御約束が皆さまのうちに成就しますように。「安息日を汚すことを避け、私の契約をしっかり守るなら、私は彼らを聖なる山に導く」(イザヤ56章6節)。アーメン。





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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