Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【追悼ミサ説教】シスターアグネス笹川が秋田の聖母像から受けた、全人類に関わる非常に深刻で重大なメッセージ

2024年08月22日 | お説教・霊的講話

2024年8月20日 シスター笹川追悼ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

シスターアグネス笹川は、秋田で、1973年7月6日、8月3日、そして10月13日の三回にわたって、木彫りのマリア像から、全人類に関わる非常に深刻で重大なメッセージを受けました。

このメッセージが本当のことであるということを確認するかのように、この木彫りの木像のマリアさまから101回の涙が流れました。1975年1月4日から1981年9月15日までのことでした。多くの人々が延べ二千名の方が、その客観的事実を目撃しています。秋田の聖母に関する出来事については、これを公式に調査した当時の新潟教区長ヨハネ伊藤庄治郎司教様によって、1984年に認可されました。

マリアさまは、シスター笹川を通して、もしも人々が罪を悔い改めないならば、全人類の上に、ノエの洪水のときよりも重い、いままでにない罰があるだろうと警告されました。しかしマリアさまは同時に、ロザリオの祈りを毎日祈ることによって、そして祈りと償いの業をすることによって、私たちは迫っている災難から助けられること、この災難から助けることができるのはマリアさまだけであることを、そして聖母に寄りすがる者はすべて助けられるということを、約束されました。

では、シスターアグネス笹川の生涯は、いったいどのようなものであったか、そしてそのメッセージの核心は何だったのか、どのようにその生涯の最後をとげられたのかを少し見て、そして最後に選善の決心をたてましょう。そして、シスターのためにお祈りいたしましょう。

【生まれ】
シスター笹川は、1931年の5月28日に、笹川セイイチと笹川シズの間の三番目の子供として、生まれました。五人兄弟のうちの次女でした。病弱ではありましたが、あたたかい家族の愛情にかこまれて、非常に健やかに育っていきました。
シスター笹川のお父さん、笹川セイイチは、八千浦(やちほ)村の村長でした。後に八千浦村というのは直江津(なおえつ)市の一部になります。【直江津市は後に上越市になりました。】このお父さんは、のちに、安田神父様が1974年の9月に、ヨアキムという名前で、笹川セイイチさんが77歳のときに、洗礼を授けています。
お母さま、笹川シズは、やはり、1965年にアンナという名前で、洗礼を受けています。またシスター笹川のお姉さんも妹も弟もみなカトリックの洗礼をうけています。

【洗礼】
シスター笹川は、確かに熱心な仏教の家で生まれましたが、なぜカトリックになったのでしょうか? それは、十九歳の時――1950年のことでした――戦後間もない時で、【地元の病院で】盲腸の手術をしました。しかし、手術は失敗でした。【麻酔の手術の失敗で】中枢神経が麻痺して、十六年の間、寝たきりの闘病生活を余儀なくされました。【治療】するために、はるばる東京の有名な大学病院まで来【たこともあり】ました。そのとき、家族の一部からはこのような失敗をおかした病院の先生たちを訴えるべきだと出ましたが、シスター笹川のお父さんも またシスター笹川自身も、いや先生は一所懸命やったのだからわたしたちは感謝している、といって、寛大にこの病院をそして先生を赦しました。

そのうちに、病院を転々とし、再三の手術入院を繰り返したのですが、ついに妙高病院で入院中、熱心なカトリック信者の看護婦さん、渡辺ハルさんと出会って、そして、その献身的な看護で病状は回復に向かい、そしてカトリックの信仰も得ました。1960年の復活祭に、アグネスという名前で洗礼を受けました。

【修道生活】
そののちにシスターアグネスは天主へのそして隣人への奉仕の愛に燃えて、修道生活を行おうと望み、一度は長崎の純心聖母会修道院に入会しますが、しかし病気が再発して、ふたたび妙高病院に入院します。

しかし、シスター笹川は、それでも、病気の身になったとしても、修道生活を非常に望んでいたのですが、その時に、ちょうど、高田教会の主任司祭から、新築された妙高教会の教会の番をやったらどうかと受付の係にお願いされて、そしてこれを引き受けることになりました。

また同時に、在俗でありながら修道生活を送ることができるという聖体奉仕会のことを知り、1969年に妙高教会に奉仕しながら、聖体奉仕会の外部会員として入会しました。

【聖体奉仕会】
教会守り同時にカテキスタの奉仕役をしていたのですけれども、1973年3月突然、その妙高教会で受付をやっていた時に電話を取ったところ、何も音が聴こえなくなりました。そしてすぐに入院すると、耳の機能はすべていいのだけれど、本当は聞こえていなければならないはずだけれども、しかしまったく音が聴こえなくなりました。これはきっと極度の疲労からきたものであろうとみられる、神経の麻痺によるものだとみられる、そしてそこですべての仕事をやめるようにと言われました。

そうする間に、聖体奉仕会のほうからお見舞の連絡が来て、そして、もしも妙高教会で教会守りができないならば一緒に修道生活をしないか、秋田に来ないか、と誘われて、そして1973年の5月、秋田に到着することになります。

【秋田の聖母の出来事】
到着するや否や、その翌月から、ご聖体のある御聖櫃の中に光が輝くのを見出だしたことから始まり、無数の天使たち、あるいは守護の天使のメッセージを聴くこと、またマリアさまの御出現、あるいは出血の現象、発汗現象、芳香現象、あるいはまたマリアさまが涙を流されること、など、また耳の特別な奇跡的治癒の恵みなどによって、ご聖体に始まった奇跡的な現象がご聖体に終わるということで、秋田のマリアさまの御出現の一連の出来事がありました。

では マリアさまはいったいシスター笹川に、いったい何を言われようとしていたのでしょうか。

一つは、ご聖体がイエズス・キリストの真(まこと)の御体であるということです。ご聖体が安置されている御聖櫃が光輝いていたことや、天使たちがそれを礼拝していたこと、のみならず、マリアさまが「御聖体のうちにまことにまします」という、‟まことに″という言葉をお祈りに付け加えるように命令されたりしたことから、ご聖体のことが強調されました。また、マリアさまは、シスターアグネスを通して、「教皇・司教・司祭のために、たくさん祈るように」と訴えられました。

第二の点は、それは罪という超自然的な現実についてのことをわたしたちに思い出させることでした。

罪というのは、あたかも忘れられてしまって、わたしたちにとって、大切なことはこの地上での平和であったり、地上でのこの目に見える生活のことだけであるかのように、人々は錯覚しています。

しかし、聖母は、そうではなくて、もっとも大切なのは天主とわたしたちとの間の平和の関係であって、それは罪のない状態である、罪ということこそが本当の悪であって、最大のわたしたちにおける不幸である、と訴えます。

マリアさまはこうおっしゃいます。
「世の多くの人々は、主を悲しませております。わたしは主を慰める者を望んでおります。天のおん父のお怒りをやわらげるために、罪びとや忘恩者に代わって苦しみ、貧しさをもってこれを償う霊魂を、おん子とともに望んでいます。」

マリアさまは、第二、第三のメッセージにおいて、このもしも罪の償いがなければ何があるかということを警告します。それは、御父がこの世に対して怒り給うておられる、ということです。そのために全人類の上に大いなる罰があるだろうということです。

聖母は御子とともに、何とかその怒りを宥めるようにしてきたけれども、しかし、もっと宥める霊魂が必要である、と訴えます。

もしも人類が悔い改めないならば、もしも宥める霊魂が、祈りが、犠牲が足りないならば、御父は全人類の上に大きな罰を下そうとしており、それは大洪水の時よりも重い、いままでにない重い罰である、とおっしゃいます。
マリアさまの言葉は非常に恐ろしいものもあります、「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人々が死ぬでしょう。よい人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。」

しかしマリアさまは同時に私たちに、武器も教えてくださいます。「その時に何をしたらよいか、それはロザリオと御子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教・司祭のために祈ってください。」

御子の残された印とは何か‥‥安田神父様とそしてシスター笹川は、これはご聖体のことである、と考えています。イエズス様が制定されたミサ聖祭とそして御聖体の秘跡、のことでしょう。つまり、ドン・ボスコが夢の中で見た、最後に教会の勝利をおこすためにやった二つの柱、それには聖母とそして御聖体があったということが、わたしたちに知らされています。おそらく秋田のマリアさまも、ロザリオと御子の残されたしるし――つまり聖伝のミサについて話していたに違いありません。

そしてマリアさまは、さらに、教会における信仰の危機について話します。
「悪魔の働きが、教会の中まで入り込み、カルジナルはカルジナルに――すなわち枢機卿は枢機卿に、司教は司教に対立するでしょう。わたしを敬う司祭は、同僚から軽蔑され、攻撃されるでしょう。祭壇や教会が荒らされて、教会は妥協する者でいっぱいになり、悪魔の誘惑によって、多くの司祭、修道者がやめるでしょう。特に悪魔は、おん父に捧げられた霊魂に働きかけております。たくさんの霊魂が失われることがわたしの悲しみです。これ以上罪が続くなら、もはや罪の赦しはなくなるでしょう。」
いま、カトリック教会を襲う信仰の危機について、マリアさまはすでに警告されたと考えられます。

マリアさまはもう一度言います。
「ロザリオの祈りをたくさん祈ってください。迫っている災難から助けることができるのは、わたしだけです。わたしに寄りすがる者は、助けられるでしょう」。

こののち、シスター笹川は、そのマリアさまの御像が101回の涙を流すことを体験します。101回すべてシスターが見たわけではないのですけれども、その御像から101回の涙が流れたことを、目撃者たちが証言しています。

この101回には意味があって、守護の天使の説明によれば、
「アダムとエワのエワによってこの世に罪が入ったように、イエズス・キリストとマリアさまのマリアさまによって救いの恵みがこの世にきたことを象るものである。つまりマリアさまは、イエズス・キリストとともにこの世の罪を贖った、共贖者であるということを意味している」
と天使は伝えています。

その後、シスター笹川は、非常に苦しい人生を、生涯最後の最後まで経験されました。それについて詳しいことをいま述べることはできませんが、マリアさまの御悲しみに沿えた人生だったといえると思います。

いま、シスター笹川は、聖母の被昇天の日に帰天されて、おそらくマリアさまの姿をご覧になっていると思いますが、それでもシスター笹川のためにお祈りいたしましょう。
そしてシスターが、わたしたちのために取り次いでくださることを、お祈りいたしましょう。

シスターの取り次ぎによって、多くの人々がマリアさまのメッセージに耳を傾けますように、そして、ロザリオとご聖体を大切にすることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖水とその清めの効果について

2024年08月19日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十三の主日―聖水について

ワリエ神父 2024年8月18日


親愛なる兄弟の皆さま、

今日の福音では、らい病人たちが、私たちの主によって(治癒されて)清められました。今日、主は、おもに秘跡と準秘跡を通して、私たちに対する癒やしの使命を続けておられます。

聖水とその清めの効果についてお話ししましょう。

********************************************************

準秘跡

聖水は準秘跡のひとつです。

キリストが秘跡を制定され、教会が準秘跡を制定しました。準秘跡は、教会によって聖別された宗教の外的な行為(祝別されたもの、祈り、儀式)であり、超自然の効果を生み出す力を持っています。準秘跡と呼ばれるのは、それらがすべて、贖い主の無限の功徳を特別に私たちに適用することによって、何らかの形で、秘跡の力にあずかっているからです。準秘跡により、その行為を行う人の信心の度合いに応じて、恩寵が授けられます。

旧約の聖水と新約の聖水

旧約において、聖水はすでに使われていました。

・ モーゼは、主がご自分の民に与えられた最も素晴らしい賜物である、2枚の律法の板を携えて、山から下りました。この聖なる律法を受けるために、選ばれた民は聖化されなければなりませんでした。この目的のために、モーゼは、聖水にいけにえの血を混ぜて、民の上に振りかけました。

・ モーゼは、アアロンとアアロンの息子たちを、司祭として聖別しなければなりません。彼らを聖別するのにふさわしい者とするために、天主はモーゼに、彼らを水で清めるように命じられました。この聖別の後、初めて、彼らは、聖なる祭服と司祭としての塗油を受けることが許されることになるのです。

・ 赦し、清めは、モーゼの律法で繰り返されるテーマです。らい病で苦しんでいる者、特定の動物の死骸を運んだ者、法的な汚れにかかった者は誰でも、水で自らの身を清めるように命じられています。

新約では、聖水を作る最初の人物は、贖い主ご自身です。これは、彼の公生涯の最初の行為でさえありました。彼はヨルダン川の中に降りられました。その愛すべきお体に触れることで、水は特別な祝別を受けました。水は、このときより、洗礼の秘跡と聖水の準秘跡に用いられることになるのです。

2世紀に、聖ペトロの5代目の後継者である殉教者教皇聖アレキサンデルは、聖水について、それを、すでに確立し、一般的に使用されているものとして、こう語りました。「余は、塩を混ぜた水で祝福するが、それは、この水を振りかけることによって、すべての人が聖化され清められるようにするためである。余は、すべての司祭に同じくするよう命じる。実際、血を混ぜて民に振りかけられた牝牛の灰が、民を聖別して清めたとすれば、塩を混ぜて天主への祈りによって聖別された水は、どれほどより強い、聖化して清める力を持つことであろうか」。

聖水の具体的効果

• - 旧約の聖水は、〈律法〉の汚れを洗いました。
• - 新約の聖水は、〈霊魂〉の汚れを洗います。

1 聖水は、小罪を消します。

2 聖水は、罪の有限の罰を取り除きます。

3 聖水は、健康をもたらします。

12世紀、アイルランドのアーマーの大司教だった聖マラキアスは、ある修道院で時を過ごしていました。そこにいたとき、体中が恐ろしい癌に冒された一人の女性が、彼のもとへ運ばれてきました。聖人は聖水を取って、その女性の上にかけました。痛みはすぐに消え、翌日には、病気の跡はほとんど残っていませんでした。

4 聖水は、悪魔を追い出し、悪魔のあらゆる企みをくじきます。

「私はそれを何回も経験しました。悪魔を追い払い、悪魔が戻ってくるのを妨げる聖水の力に匹敵するものはありません。悪魔はまた、十字架を目にすると逃げ出しますが、また戻ってきます。ですから、この水の力は、非常に偉大なものに間違いありません」(アヴィラの聖テレジア)。

5 聖水は、あらゆる種類の伝染病や疫病を撃退します。

6 聖水は、煉獄の霊魂に利益をもたらします。

信者が棺(ひつぎ)や墓に聖水を振りかけるのは、敬虔な習慣です。これは、効果がないものではありません。第一に、聖水を振りかけることは、一つの祈りを表しています。第二に、聖水は、準秘跡の一つですから、諸聖人の通功によって、贖罪の力を持っており、それは死者に及ぶのです。

********************************************************

今日の福音では、らい病人たちが、私たちの主によって(治癒されて)清められました。今日、主は、おもに秘跡と準秘跡を通して、私たちに対する癒やしの使命を続けておられます。

エゼキエルはこう預言しました。「私はおまえたちの上に清い水を注ぐ。こうして、おまえたちは、清められる」(エゼキエル36章25節)。

教皇ピオ九世はこう宣言しました。「聖水の使用を、ほぼすべての人が怠っていたり、少なくとも、ほとんどの人が、信心や信仰の適切な精神をもって行っていなかったりするのは、嘆かわしいことである」(ピオ九世、1866年3月14日)。

親愛なる兄弟の皆さま、次の決心を固めましょう。

1 教会に入るたびに聖水を手につけ、注意深く、信心をもって、十字架のしるしをすること。そうすることで、私たちは、悪魔を撃退し、想起と祈りの精神を呼び起こすのです。

エルザレムの神殿の前庭の下には、青銅の海として知られる広大で壮大な澄んだ水の池がありました。司祭や素朴な参拝者は、祈るため、あるいは、いけにえを捧げるため神殿に入る前に、ここで、手を洗わなければならなかったのです。それは、聖パウロがこう言っているように。「民が清い手で祈るようにと、私は望む」(ティモテオ前書2章8節)。

2 主日の歌ミサの始まりに行われる〈アスペルジェス〉に遅れないように、時間通りに到着すること。この聖水を振りかける目的は、私たちを小罪から清めることによって、あるいは、洗礼の聖性と、いとも聖なる天主に近づくべき宗教的敬意の念を私たちに思い起させることによって、私たちを、聖なる神秘にあずかるのに、少しでも、よりふさわしくない者とならないようにすることにあります。

3 自宅に聖水の容器を用意し、それを適切な場所に置くこと。例えば、ベッドの近くや、家の玄関に。

4 朝起きるとき、夜寝るときに、聖水を使うこと。
(修道会では、就寝の前、終課のときに、修道者に聖水を振りかける習慣があります)。

5 誘惑、特に聖なる貞潔に反する誘惑の際に、聖水を使うこと。

6 司祭に自宅を祝別してもらうこと。


被昇天―天国には徳によってのみ到達できる

2024年08月16日 | お説教・霊的講話

ワリエ神父 2024年8月15日 説教

親愛なる兄弟の皆さま、

聖母が天国に入られたことを思い巡らすとき、私たちはこう考えようという誘惑にかられるかもしれません。「そうですね、もちろん、聖母は天主の御母でいらっしゃったのだから、それ以外はあり得なかったのでしょう」と。
しかし、私たちが天国を得ることができるのは〈功徳の報いとして〉だけである、ということを理解する必要があります。

1.特権によってではない

天主の御母であるということは、実際、崇高で高貴な特権ですが、それは天主が、天使には天使の本性を、人間には人間の本性を授けようと決心されたのと同じように、天主によって寛大に授けられた尊厳なのです。ですから、童貞聖マリアが天主の御母であるということには、〈名誉はあっても功徳はありません〉。
さて、ナザレトのマリアが、天主の御母となることによって天国の栄誉を得られたのではないとすれば、どのようにしてその功徳を得られたのでしょうか。答えは簡単です。〈聖母のこの世での徳のある生活によって〉です。

かつて、キリストが群衆に説いておられたとき、キリストの知恵の言葉を聞いたある女性がこう叫びました。「幸せなこと、あなたを生んだ胎、あなたが吸った乳房は」。しかし、イエズスは即座にこう答えられました。「幸せなのはむしろ、天主のみ言葉を聞いて、それを守る人だ」(ルカ11章27、28節)。私たちの主は、「あなたは私の母を、私の母であるがゆえにほめたたえるが、私は母を、その聖性のゆえにほめたたえるのである」という意味で言われたのです。

同様に、別の機会に、主の周りに大群衆がいたとき、だれかがこう言いました。「あなたの母と兄弟が外であなたを待っています」。キリストはこう答えられました。「『私の母、私の兄弟とはだれか』。また周りにいる人々を見回し、『これが私の母、私の兄弟である。天にまします私の父の御旨を行う者はすべて、私の兄弟、姉妹、母である』と言われた」(マルコ3章32-35節)。外的な特権がいかに大きなものであっても、たとえそれがメシアとその祝された御母とを結びつける血の絆であっても、天主の御旨への従順に比べれば、無意味なものなのです。

おそらく、これが、カナの婚礼における私たちの主の不可解な言葉の説明でもあるのでしょう。主は、聖母の母としての権威に対しても拒まれたことを、聖母の徳と聖性に対しては与えられ、「(主の)時はまだ来ていない」という事実にもかかわらず、すぐにお望みの奇跡を起こされたのです。

童貞聖マリアの被昇天に話を戻すと、こう考える人がいるかもしれません。「聖母は、いとも簡単に、求めるものを手に入れられます! 聖母は、ただ求められるだけで、それが実現するのです。聖母は、高貴な相続人が、血のつながりがあるという肩書だけで父親の大邸宅に入るように、天国に入られるのです。それは単なる家族優遇にすぎません!」。
しかし、そうではありません。私たちの救い主はこう言っておられます。「私の右や左に座ることは、私が決めることではなく、私の父によって用意された人々のものである」(マテオ20章23節)。

2.功徳によって

ナザレトのマリアが天国を得るに値するお方になられたのは、天主の御母となることによってではなく、〈この世での徳のある生活によって〉でした。マリアが天主の恩寵に完璧にお応えにならなかったことは、決してありませんでした。
「マリアの信仰は、すべての人間とすべての天使の信仰にまさっていた。彼女は、ベトレヘムの馬小屋で御子を見て、御子がこの世の創造主であると信じた。彼女は、御子がヘロデから逃げるのを見ても、御子が王の中の王であるという信仰を揺るがすことはなかった。彼女は、御子が生まれるのを見て、御子が永遠のお方であると信じた。彼女は、御子が貧しく、基本的な生活必需品さえないのを見ても、それでも御子が宇宙の支配者であると信じた。彼女は、御子が藁の上に横たわるのを見て、自分の信仰から、御子が全能者であると信じた。(…)そして最後には、彼女は、御子が十字架にかけられ、あらゆる侮辱にさらされながら死のうとするのを見て、他のすべての人々の信仰が揺らいだにもかかわらず、御子が天主であるという揺るぎない信念を持ち続けた」(聖アルフォンソ・リグオーリ)。

このように、天主への忠実で忍耐強い愛以外に秘訣のなかった身分の卑しいユダヤの少女は、今、御子と永遠に住み給う天国の輝く大邸宅を、ご自分のために準備しておられたのです。
「あなたはエルザレムの栄光、イスラエルの喜び、われらの民のほまれ!」【ユディット15章9節】。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちは、マリアのように罪がないわけではありません。しかし、私たちには洗礼の恩寵があり、それによって、私たちは天主の子、天国の相続人とされており、それによって、私たちは罪に打ち勝つことができるのです。
私たちには、聖母のように、私たちの主の現存が目に見える形であるわけではありません。しかし、私たちには、主の現存が、見えない形で、私たちの心の中に、また聖体拝領によって秘跡的に私たちの中に、あるのです。
私たちは、聖母のように恩寵に満ちているわけではありません。しかし、私たちには、祈りに応じて約束された限りない恩寵があります。すべては、私たちが恩寵に協力するかどうかにかかっています。いとも忠実なる童貞であるマリアは、あらゆる恩寵に忠実にお応えすることによって、その崇高な段階の栄光に到達されました。
親愛なる母マリア、私たちのために天国でお声を上げてください。あなたの足跡をたどりつつ、いつの日か、私たちもあなたの栄光に共にあずかり、あなたとともに、父と子と聖霊を永遠に賛美することができますように。アーメン。


聖母の地上のご生涯は天国の先取りだった

2024年08月16日 | お説教・霊的講話

2024年8月12日 大阪でのミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2024年8月12日、聖クララの童貞女の祝日を祝っています。
来たる木曜日、8月15日の聖母の被昇天には、本当ならばここでしたかった聖母行列や御聖体降福式、また聖母の汚れなきへ御心の奉献などを行いたかったのですが、その当日15日には今年はできません。
そこで、その代わりに、一足先に、今日このミサが終わりましたら、簡単な聖体降福式を行い、また聖母の連祷などをお捧げして、そして奉献を更新致しましょう。

【聖母の偉大さの理由】
昨日は、聖母の尊厳と栄光の理由を黙想しました。
マリア様はそのご謙遜ゆえに、すべてにまさって、天主以外のすべてのものにまさる遥かに高い、最高の威厳にまで、栄光にまで、高められました。
また、ご謙遜ゆえに、マリア様は、天主への愛の生活を送られました。これゆえに、マリア様はいと高いところに挙げられました。聖母こそ、すべての心、すべての霊、すべての力、すべての知恵をあげて、主なる天主をお愛しになった方です。
だからこそ、この世のありとあらゆる栄華、栄光、権力をも、マリア様の栄光と比べるならば、チリ紙やあるいはゴミ箱同然に思わせるようなほど高いところへと挙げられました。極限までの喜びと偉大さをお受けになりました。

いったい、ここまでの高みをお受けになられたマリア様のご生涯、それはいったいどのようなものだったんでしょうか。今日はそれを黙想することを提案します。

【聖母の地上での御生涯:天国の先取り】
一言でいうとマリアさまの地上のご生涯は天国の先取りではなかったかと、いうことができると思います。御昇天のその瞬間、聖母の霊魂は、燃える竈(かまど)のように、もはや肉体にとどまることができないほど、愛に燃えていました。この愛の原理というのは、天主の聖寵です、お恵みです。マリア様は、聖寵に満ち満ちているお方で、そのご生涯の間に聖寵に聖寵を加え、ますます聖寵を増加された方です。聖寵というのは、ラテン語でgratiaといいますが、同時にこれは将来の栄光の種ともいわれています、semen gloriae 。何故かというと、いまわたしたちが持っている聖寵と将来の栄光との間には密接な対応関係があるからです。

私たちは生きている間に聖寵をますます増加させることができます。そして私たちが死んだときのその聖寵の程度が、将来の栄光の程度に匹敵します。

ですから、ヴィアンネ神父様――アルスの聖司祭は「この世で生きている間だけ将来の栄光を増加させることができる。だから、いわば天国の聖人たちは「年金」生活をしているようだ。裏返して言うと、いまこそ、その年金をたくさん貯めることができるから、今のうちにたくさん天主を愛しなさい。」と聖ヴィアンネ神父様は仰っていました。
この世と天国との違いは、これです。この世では、罪を犯してしまう。つまり、天主以外の被造物を天主よりも愛してしまう危険がある。そうすることによって、聖寵 gratia を失ってしまう危険があります。

でも天国に行くと、至福直感を受けます。これはどういうことかというと、私たちは天主を目の当たりにするということです。つまり天主を見て、その時に、信仰は消え失せます。何故かというと主を見るから、もはや信じる必要はなくなってしまうからです。信じるのではなく見るからです。天主を見て、天主の真理、天主の善、天主の美しさをそのまま見ます。すると、その時、ありとあらゆる被造物の虚しさ・儚さ・愚かさというものを深く理解してそれを確信します。天主以外のものをすべてまったく無に等しいとはっきりとわかります。天主こそ最高の善であり、最高の美であり、真理そのものであるということを確信します。それをまさにまざまざと見ます。そうすると、天主以外のものを選ぶなどということはあまりにもばかばかしくて、考えられなくなります。至福直観のうちに、私たちは、すべてに越えて天主を自由にそして喜んで、この方こそ!これこそが!と選んで、お愛しするのです。聖寵において固められて、そしてもう天主と一体化します。マリア様はこの地上におけるあいだ至福直感以外はすべてを尽くして天主をお愛ししました。天主への愛には限度がありません。どういうことかというと、目的を追求する欲求には際限がないということです。天主を愛すれば愛するほど、私たちの愛は完成させられます。天主を愛する原因は、その理由は天主である;だから天主を愛する限度は、限度なしに愛することである、causa diligendi Deum Deus est; modus, sine modo diligere.、聖ベルナルドは言っています。

マリア様はまさに、御生涯の間、天主だけを愛しました。天主だけを望み、すべてのことにおいて天主を喜ばせることだけを求めていました。ですから、言ってみれば、至福直感のない天国の生活をしていた、天国の生活を先取りしていた、ということができます。

そう考えると、天主が終生童貞であられたという信仰箇条はその深い意味も垣間見ることができるといえます。マリア様が童貞であられたということは、ただ単に、アダムとエワが原初にもっていた地上の楽園(エデンの園)での完全性を保っていただけではありません。つまりさらには、地上の生活の送るうちから、永遠の生命の生活を先取りしていたと言うことがいえるということです。

マリア様は確かに、自己犠牲やイエズス様への愛の奉仕の生活で、イエズス様の苦しみの生涯に与っておられました。しかし、マリア様は童貞を守ることによって、すでに天の凱旋の生活をも送っていたということがいえます。何故かというと、肉体において“この世の自然の生活に死す”ばかりでなく、童貞の生活を送ることによって“天国の選ばれた人の生活をもはじめていた”と言えるからです。何故かというと、天国では、娶(めと)りも嫁(とつ)ぎもしないからです。

結婚と言うのは、この地上での死すべき生命を伝達するために存在するものだからです。結婚というのは死で解消します。それと同じように婚姻という制度も、この世が過ぎると消え去るものとしてつくられました。たしかに婚姻による一致というのは、キリスト教信者にとって、特にイエズス・キリストとキリストの教会との一致という深い美しい意味があります。が、それにしても、それであっても、結婚というのは、復活をもって、ついには消滅してしまうものです。何故かというと婚姻というのは、死に対する一時的な回答にしかすぎないからです。死が死ぬとき、つまり死が存在しなくなると、婚姻も存在しなくなります。

ですからイエズス様は、童貞を守る人々のことを「復活の子」と言っていました。イエズスの言葉を聖ルカの福音から引用します。「この世の子らは、めとったり、とついだりするが、しかし、来世をうけ、死者の中からの復活にふさわしいものとされた人々は、めとりもとつぎもしない。かれらにはもう死ぬことがないからである。かれらは、天使に似た復活の子らであり、天主の子らである。」(ルカ20:34-36)引用を終わります。

マリア様は、すでに将来の栄光の生命に属している特徴を、御自分の霊魂にそして御体にお持ちでした。ご自分の霊魂に持っていたのは、天主を際限なくお愛しされたからです。常にたゆまなく愛されたからです。天国の栄光の生命に属する特徴を御体にお持ちだったのは、それは、マリア様が童貞をお守りになっていたからです。天主の無限の愛、無限の純潔さ、そして天主の不死――死ぬことがない――という特徴を深くマリア様の御体は受けていました。

ですから、マリア様にとっては、終生童貞であったということは、嫌々ながらお捧げしていたとか、これを放棄した、というのではなくて、天主のために生きておられた霊魂がした、この地上における完璧な愛の表現の一つだったといえます。

聖パウロはこういいます。「キリストにおいて死んだものは、永久に罪に死に、生きるものは、天主のために生きる。」(ローマ6:10)マリア様はまさに天主のために生き、そして童貞でありながら、天主の生命の復活の生命の現実そのままを示しておられたのでした。

【選善の決心】
ではこのような復活の生活をすでに生きておられたマリア様が天に挙げられたこと、そしてわたしたちを天から見守ってくださっていることを感謝いたしましょう。どれほど素晴らしいよき母を持ったか、わたしたちはどれほど幸せでしょうか。マリア様の最後を黙想すればするほど、わたしたちは、聖なる死を迎えるために聖なる生き方をしなければならないと、熱烈な願望を持たざるを得ません。わたしたちはマリア様のように愛によって死ぬということを期待はできませんが、しかし、少なくとも天主を愛するうちに、成聖の恩寵の状態のうちに死ぬことを、希望しなければなりません。

マリア様のように完璧な童貞性、貞潔を守ることはできないかもしれませんが、しかし復活の子にふさわしい肉体を持つことができるようにお祈りいたしましょう。

わたしたちはマリア様に祈るだけで満足せずに、マリア様の聖徳に真似るようにいたしましょう。天主への愛・貞潔・あわれみ・忍耐・祈りに真似る恵みをこい求めましょう。

では、今日は、このミサののちに御聖体降福式を捧げながら、マリア様を賛美して、マリア様からの特別の祈りと保護をこい願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母被昇天:聖母の偉大さを黙想する。聖母は何を思ってこのような栄光の座に着いたのか?

2024年08月13日 | お説教・霊的講話

2024年8月11日 東京 10時30分のミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さま、今日は聖霊降臨後第十二主日です。
来たる木曜日は、マリアさまの被昇天の大祝日ですから、この祝日を一緒に準備するために、マリアさまの被昇天について一緒に黙想いたしましょう。

もしも私たちが、金メダルを獲得した選手たち、とくに日本の選手たちをよくやったと褒め讃えるのが当然であるならば、この地上での人生を最高のやり方で走り抜いた、そして天の最高の王冠を受けとったマリアさまこそ褒め讃えなければなりません。今日の集祷文にあるように、マリアさまこそ、(promissiones tuas sine offensione cucurrit) 間違いなく約束されたところに走りぬいた方であるからです。

もしも私たちが、祖国のために自分の命を捧げた軍人たちの尊い命を追悼して感謝しなければならないとしたら、私たち人類すべてが天の祖国に戻ることができるために、天のわたしたちの本当の祖国のために、最高の犠牲を捧げた天主の御母マリアさまに、私たちの母にこそ、私たちがこぞって感謝と賛美を捧げなければならないはずです。

【聖母の威厳の理由】
マリアさまは、霊魂も肉体も ともに天の最も高い所まで挙げられました。被造物が挙げられることができる最高の、天主イエズス・キリストのすぐ下の最高のところまで挙げられました。いったいなぜ?すべてにまさって、天主以外のすべてにまさって、マリアさまは、遥か高く最高の威厳にまで高められたのでしょうか?

それは、マリアさまのご謙遜のためです。それはマリアさまがご謙遜ゆえに、天主への愛にみちた生活をおくられたがためです。それは、マリアさまがご謙遜のゆえに、ありとあらゆる聖寵をマリアさまの霊魂に受け取ることができたためです。

マリアさまを、ありとあらゆるものにまさる威厳にまで高めてくださったのはいったい誰でしょうか?それは、地上の王様でも権力者でも偉人でもありませんでした。それはこの全宇宙を無から創造されたまことの天主、三位一体の天主御自身でした。

マリアさまのご謙遜を嘉(よみ)された至聖なる三位一体が、マリアさまをこの栄光の玉座に座らせたのです。そして天主は、聖母を天と地の元后・女王であると宣言して、マリアさまに王冠を被らせて、無限の天の宝の尽きせぬ宝庫の管理者と委ねたのでした。すべての被造物で、マリアさまはもっとも偉大で、もっともすぐれた、天主の最高の傑作、聖徳の驚異、愛の驚異でした。

マリアさまの燦然と輝く栄光は、地上の全ての栄華あるいは栄光をあたかもガラクタであるかのように、おもちゃであるかのように見なさせます。私たちがマリアさまの偉大さ、そして御子イエズス・キリストが聖母に与えたその力を理解しようとしますが、完全に理解することは決してできないでしょう。なぜならばあまりにも偉大であるからです。

ですからマリアさまについては全てが計り知れなくて、私たちが理解することがたとえほんの少しであったとしても、私たちが見たことを見る目は、なんとしあわせでしょうか。私たちがマリアさまについて聞くことができる耳は何と恵まれていることでしょうか!なぜかというと、マリアさまという母がわたしたちに与えられたということは、私たちにとって驚くべき幸せなことであって、わたしたちの救いにとって、きわめてすばらしいことであるからです。そしてわたしたちがそれを垣間見ることができるからです。

では聖母の被昇天を準備するために、今日はマリアさまの偉大さを黙想しましょう。そして、その次に、このようなマリアさまを賛美して“そのマリアさまの保護のなかに入るために、わたしたちが一体その何をすべきなのか”を考えて、選善の決心を立てましょう。

【聖母の偉大さ】
マリアさまの偉大さについては語り尽くせません。これはさきほども申し上げた通りです。これはわたしの意見ではありません。聖アンブロジオがたとえばこう言っています。「聖母は天使たちでさえも理解できないような最高度の栄光、名誉、力を受けて、高められておられる。聖母の栄光を知り尽くすことができるのは、ただ天主だけだ」と言っています。ですから聖アンブロジオは、こう言葉を続けるんです。「私たちが聖母に関してどれほど深い神秘を聞こうとも、天主の目から見た聖母の本当の姿に比べれば、それはほとんど無に等しいものである。」
 
では私たちができるかぎり限られた力を使ってマリアさまを讃えるとしたら、どうすればよいのでしょうか。教会がわたしたちに教えるマリアさまに関する最も美しい賛美は、この三つの言葉があります。
「聖母は、永遠の御父から最高に愛された娘である。」
また、「マリアさまは、私たちの救い主である天主御子の御母である。」「天主の御母である。」
また次に、「マリアさまは聖霊の浄配…聖霊と婚姻では結ばれなかった…しかし、清い花嫁である。」ということです。

もしも永遠の御父が、マリアさまを最愛の娘としてお選びになって愛されたのであるならば、御父は聖母の霊魂にどれほどのお恵みをその奔流を注ぎ込まれたことでしょうか。永遠の御父は、聖母が為すべき使命の偉大さに比例して、天の賜物でマリアさまを豊かに、恵まれました。言いかえると、天主御父は、被造物のためにできる最高のことを、マリアさまのためにすべて行いました。マリアさまのためにできることでしなかったことは一切ありませんでした。

もしも天主御子が、マリアさまをご自分の母として選ばれたならば、御子はどれほどの愛と聖寵のあふれをマリアさまに注がれたことでしょうか。もしも聖霊が、マリアさまをご自分の浄配としてされたならば、どれほどの聖霊の賜物・聖霊の祝福・愛の祝福で満たされたことでしょうか。マリアさまが存在し始めたその最初の瞬間・受胎の最初の瞬間から、三位一体の特別の祝福を受けるように、すべての霊的な賜物でマリアさまの霊魂を飾られました。聖母はすべての天使やすべての聖人たちを合わせたよりもより多くの恵みを受けた、と教父たちは口をそろえて言っています。

【無原罪の御やどり】
マリアさまはその最初の瞬間からお恵みで飾られたと申しあげましたが、それは無原罪の御やどりと言われています。これは聖母だけに与えられた特別なお恵みで、天主はマリアさまを原罪の汚れから守ることをお望みになりました。そしてこの聖寵の恵みを決して一瞬たりとも失うことがないように、完全な保護・保証をもって、マリアさまを聖寵において固められたのでした。こうして、マリアさまは、聖三位一体の生ける最高の御聖櫃となられたのでした。

天主が、悪の帝国を打ち倒して破壊させるために用いられた道具は、聖母でした。三位一体が、贖い主をこの世に与えること、そしてこの世を救うことを、そのために使われた道具が、マリアさまでした。マリアさま以外の何者でもありません。聖母こそが、このような偉大さ・力・そして愛の深い淵源であるのです。マリアさまのご生涯はすべて愛に満たされたものでした。

【聖母の被昇天】
天におけるマリアさまの勝利、つまり被昇天――今度祝う祝日――被昇天は、マリアさまのすべての功徳と愛の頂点であると言うことができます。天と地のいとも高い元后…天主の母にして比類ない尊厳の最終的な栄光を受けたのは、この被昇天の瞬間でした。

マリアさまはしばらくの間、たとえイエズス様が天に昇られても、この地上に残って人生のいろいろな多くの苦しみと屈辱を苦しまなければなりませんでした。しかしそれは――イエズス様がこの地上に残しておかれたその理由は――こうして天国に入ることを遅らせることで、聖母により大きな栄光を得させようとされたためでした。また、使徒たちが聖母の慰めと導きを必要としているということをよく御存じだったので、聖母はあえてマリアさまを地上にしばらくの間とどめられておかれたのでした。

もしも、わたしたちがイエズス・キリストの隠された生涯の最大の秘密を知るようになったのは、これはマリアさまが使徒たちに教えてくださったからです。もしもわたしたちが童貞というものがどれほど美しいもので輝きに満ちているかということを知っているならば、またイエズス・キリストを愛する者に与えられる計り知れない報いがなんであるかということを知ることができるならば、これはマリアさまが使徒たちを通して私たちに教えてくださったからです。

【聖母の最期】
しかし時は来ました。マリアさまは、ついにこの地上を離れなければならないときが来ました。なぜかというと、マリアさまは、ご自分の霊魂がゴーゴーと燃える竈(かまど)のように燃え立ってしまって、愛に燃え立ち、すべてを超えて、すべての力を尽くし、すべての霊魂を尽くし、すべての精神を尽くし、天主を愛していたので、もはや、その霊魂は肉体に留まることができなかったのです…‥それほど天主への愛に燃えていました、なんという幸せな霊魂でしょうか。

マリアさまの被昇天は、イエズス・キリストが悪魔から霊魂を奪い取ったすべての勝利の中で、最大の勝利でした。これ以上のものはあり得ませんでした。また、天主の御母が死ななければならないとしたら、聖母は愛の情熱によってのみしか死ぬことができませんでした。

天主を愛するというのは、罪の真逆のことを云います。なぜかというと、罪とは被造物に対する愛着であるからです。天主に反する愛着であるからです。しかし、マリアさまは天主への愛に燃え立っていたので、罪を知りませんでした。ですからマリアさまは、死も恐れませんし、なにも恐れませんでした。なぜかというと聖母はいつも主を愛しておられたからです。

もしもわたしたちが、死を怖れたくない、あるいは、怖れずに安らかな死を迎えようと望むのならば、聖なる死を望むのならば、マリアさまのように罪を避けて、罪から逃れて生活しなければなりません。罪というのは、時と永遠とにとって、わたしたちすべての最大の不幸です。もしもマリアさまのように悲しみのない死を望むのならば、平和のうちの死を望むならば、マリアさまのように被造物に愛着することなく生活しなければなりません。聖母がしたように天主だけをお愛しし、天主だけを望み、すべてのことにおいて主を喜ばせるようにしなければなりません。マリアさまはすべてを見いだすために、すべてである天主を見いだすために、すべての被造物を棄てました。なんと幸せな霊魂でしょうか。

こうやって、天の元后が地上を去り、そのマリアさまの霊魂の偉大さによってその功徳と尊厳の偉大さによって天国に入ろうとされます。これほど美しく これほど完成された これほど完全で これほど聖徳に富む霊魂がその中に入るのは、天国はそれまでみたことがありませんでした。

喜びと愛に満たされて、天の門が開かれるのを信仰の眼でご覧ください。天の宮廷・天使たちそして諸聖人たちが、マリアさまの前にひれ伏しているのがわかります。マリアさまをイエズス御自身が導いて、そして天国の最も高い美しい玉座に座らせます。三位一体はマリアさまに輝く王冠を被せます。天国のすべての聖寵の宝の管理者とあわれみの女王と宣言されます。マリアさまはなんとすばらしい栄光をお持ちでしょうか。

【聖母への信頼】
そしてこのマリアさまはいったい何を思ってこのような栄光の座に着いたでしょうか。マリアさまは天のいと高き所に挙げられたマリアさまは、私たちをイエズス・キリストとともに霊的な命に生み出したわたしたちの本当の母です。本当の霊的な母親です。わたしたちがいま成聖の状態にいるのはマリアさまの協力がなければ、できなかったことです。

ですからマリアさまは、母としてわたしたちを愛しておられます。天国のいと高いところから、ものすごい絶大な力を持って、母としてわたしたちを愛しておられます。マリアさまはわたしたちを本当の子どもとして、見守っておられています。そして最高の天国の力を使って、わたしたちの救霊に最も役立つことを祈り求めておられます。

だからこそ、天主から与えられた力をいま喜んでいます。自分のためではなく、わたしたちのために使うことができるから、お喜びです。母として、わたしたちの仲介者として立つために、天の高いところに挙げられたことを喜んでいます。ですから、天の元后わたしたちの母は、私たちの祈り わたしたちの涙 悲しみ 呻き 辛いこと 苦しみ そしてわたしたちの救いに必要なすべての恵みを、わたしたちのために一生懸命に取り次いで祈ってくださっている――それがマリアさまです、それが被昇天の神秘です。

聖ベルナルドは、こういいました。「かつてマリアさまに祈って聞き入れられなかったことは、捨てられた者は、誰一人としていない、そんなことは聞いたことがない。そして将来にわたって、一度も聞くことがないでしょう。」

マリアさまは私たちを決して見捨てることはありません。たとえ、この地上の母親が子供を見捨てることがあったとしても、マリアさまは決してそんなことはありません。このような母、霊魂の救いのために献身してくださる母、しかも力強い母が天に居られるということは、私たちにとって何というしあわせ、なんという特権でしょうか。わたしたちはなんという母をすばらしい母を持った子どもでしょうか。

見てください。世界中は、聖母がわたしたちのためにしてくださった特権を讃え証明する記念碑で 教会で 絵画で 歌で満ち溢れています。もしもわたしたちが聖母に祈りを捧げるなら、愛を捧げるならば、わたしたちはどれほど救いのために大きな恵みを受けることでしょうか。もしもわたしたちが毎日マリアさまのご保護のもとに身をゆだねるなら、奉献するならば、どれほどわたしたちは多くの保護・完璧な保護を受けとることでしょうか。

ここにいらっしゃるお父さんとお母さんたち、どうぞ毎日ご自分のお子さんたち、愛する息子や娘たちをマリアさまの保護のもとにおいてください。マリアさまにお祈りなさってください。聖母はわたしたちのために、わたしたちの聖母の保護のもとにある者のために、すべてを尽くして守ってくださいます。そして、わたしたちをも守ってくださいます。悪魔はマリアさまに奉献された霊魂を非常に恐れています。なぜかというと太刀打ちができないからです。

悲しみの、そして苦しみのこの世に生きている私たちにとって、聖母という偉大な母親がわたしたちを天から祈り助けて見守ってくださるということを知るのは、なんという喜び、なんという慰めでしょうか。マリアさまに大きな信頼を寄せるという幸せに恵まれた人は、わたしたちの救いを自分の救いを保証しているということができます。

では私たちはマリアさまを模範として、マリアさまの祈りに助けられながら、天国への道をしっかりと歩むようにいたしましょう。マリアさまのご謙遜、マリアさまの貞潔・純潔、マリアさまのあわれみ深さ、またマリアさまが持っていたこの地上の栄華に対する軽蔑、天主御子に対する愛、そして霊魂の救いに対する熱意を、毎日黙想いたしましょう。そして、特に聖母の被昇天を準備して、聖母に自分を奉献して委ねましょう。マリアさまの御保護の下に生活いたしましょう。マリアさまの御保護の下に生き、そして死ぬ者はどれほど幸せでしょうか!

八月十五日にはぜひできる限り、マリアさまのミサに与ってください。被昇天のミサに与り聖母行列をしてマリアさまを讃えましょう。どれほど素晴らしい母親を持っているかということを感謝いたしましょう。

ではマリアさまに賛美をしつつ、このミサを続けていきましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


フランス革命で頂点に達したキリスト教文明に対する戦争:革命とは何か?聖寵の無限の全能の力

2024年08月08日 | お説教・霊的講話

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第三日目)

2024年8月4日(主日)東京 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
一昨日の8月2日から今日までの三日間は、特別に7月26日の金曜日にパリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために、ミサが捧げられています。今日はこの償いについて一緒に黙想いたしましょう。

【1:イエズス・キリストの御業への侮辱】
オリンピックの開会式では、全世界の人々の目前で、イエズス様の愛の業を冒涜するパフォーマンスが行われました。つまり、最後の晩餐、言い換えると最初のミサ聖祭、御聖体と司祭職の制定の御業が侮辱されました。
御聖体の制定というのは、人となった天主ご自身が、パンをご自分の御体に、ブドウ酒をご自分の御血に聖変化させて、私たちに与えられた愛の業です。

司祭職の制定というのは、この聖変化の権能を人間に与えるために、使徒たちを新約の司祭として叙階したその瞬間のことです。
オリンピックでは、この愛の御業が、嘲笑と軽蔑と侮辱の対象となりました。
これはイエズス様のなさった核心・その究極の御業に対する侮辱であって、いわばイエズス様の教えのすべてを否定しようとすることの現れです。冒涜です。"荒らすもののいとわしいもの"といわなければなりません。

イタリアの歴史学者であるロベルト・マテイという人は、これについて単なる「悪趣味」や「挑発」ではないといいます。これは、キリスト教に対するキリスト教のうち立てた西洋文明に対する「戦争」であると言っています。
イエズス・キリストへの信仰とカトリック教会の名のもとに立てられた西洋文明を、異教のディオニュシオスの旗の下に従属させよう、革命の旗の下に従属させようとする戦争であるといいます。彼はこんなことを言います。引用します。「単に悪趣味なショーや文化的挑発として片付けることはできません。 それは、フランス革命において歴史的なピークを迎えたキリスト教文明に対する最も新しい戦争の行為である」と言っています。 
ですから、キリスト教の最も核心的な神秘を、御聖体を、ミサ聖祭を、ディオニュシウスという異教的な乱痴気騒ぎ・放埓と奔放の官能に置き換えようとするのです。
ですから、ギロチンにかけられて殉教した王妃マリー・アントワネットが、自分の首を両手で抱えて、革命の賛歌 Ça iraを歌うような冒涜的なパフォーマンスもありました。何故でしょうか?何故かというと、フランス国王は、イエズス・キリストの社会的な統治権、イエズス・キリストの王権の原理を体現していたからです。

ピオ六世教皇は、1793年、勅令で、ルイ16世を殉教者だと呼んでいます。同じ言葉が、マリー・アントワネット王妃にも当てはまります。なぜかというと、この二人はキリストに対する革命的な憎しみによって殺害された殉教者だからであります。カトリック王をギロチンにかけ、カトリック王国を破壊するということは、すなわちキリストの社会統治という原理を攻撃し破壊しようとすることでした。キリスト教を否定したうえに共和国が建国されたのです。ですから、王のそして王妃の殺害は、革命の精神の表現であり、共和国の建設を意味する行為でした。
去年の3月、マクロン大統領は、フランス共和国が世界で初めて中絶を憲法に盛り込んだということで誇りに思っていました。この中絶という罪のない赤ちゃんたちをお母さんのお腹の中で殺害するということが憲法で合法化されたということは、国家による王の殺害の合法化、殺人の合法化という、象徴的な連続を表しています。

では、私たちは、このようなキリスト教の文明に対する戦争に対して、それを目前にして、一体何をするべきでしょうか?この悪を前にして、「怒り」を表明するだけでよいのでしょうか?それとも悪を目の前に、悪が多すぎるのでこれは勝てない、そして「逃亡」すればよいのでしょうか?
それとも「私には、なんのことだかわからない」「そんなのは知らない!」(マテオ26:70-74)「関係ない!」と言って、「無関心」を装っていればよいのでしょうか?
イエズス様は私たちがそうやって逃げてしまうのをお喜びになるのでしょうか?私たちはいったい何をすることができるでしょうか?イエズス・キリストは、わたしたちが何をすることを期待しておられるのでしょうか?

それに対する答えは、今日のミサに書かれています。主は、私たちに聖寵を信じること、主のお恵みを信じることを求めています。そして、聖寵に協力して、償いをすることを求めています。

【2:聖パウロ:聖寵による大回心】
説明します。今日の書簡を見てください。キリスト教文明は、革命のイデオロギーに敗北して、このまま姿を消すことはできません。イエズス・キリストが公然と侮辱されたまま馬鹿にされたまま、キリストの敵が勝利をうたっているかと見えますが、これは長く続きません。イエズス・キリストは十字架につけられて三日後、復活しました。キリストの神秘体もカトリック教会も、御受難の後、栄光ある姿に復活します。実際にフランス革命の後、カトリック教会は瓦礫の中から燦然と美しい姿を輝きだして、世界中に宣教師を送り、改宗者を出しました。同じことが起こります。

今日の書簡では、聖パウロは、復活した主イエズス・キリストがご自分に現れたということをこう言っています。引用します。
「すべての使徒たちに、最後には、月足らずのような私にもおあらわれになった。私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さい者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。」

これは何を意味するでしょうか。たしかに聖パウロは「天主の教会を迫害した者」でした。キリストの敵でした。別のところでも自責の念をこめて述べています。ガラチアの書には、「私は、きわめてはげしく天主の教会を迫害し、荒らしていた」(ガラチア1:13)、と言います。ティモテオ書には、「私は先には冒涜者、迫害者、暴力者であった」(ティモテオ前1:13)と自責の念を込めて書いています。
しかし、このキリスト教を最も迫害していた敵・罪人だった私は天主から受けた恩寵によって回心した、というのです。ティモテオの書簡の中にはこうもあります、「その罪人の中で私は頭である。私があわれみを受けたのは、イエズス・キリストが、かれを信じて永遠の命を受けようとする者の模範として、まず私に、その寛容をことごとく示されたがためである。」(ティモテオ前1:15-16)
イエズス様の寛容のあわれみの力を見せしめるために、まず聖パウロが回心しました。しかも、キリストの計り知れない富を異邦人に告げるために特別の異邦人の使徒と選ばれました。ですからどのようなおそるべき教会の公然の敵であったとしても、悪魔の手先のような人々であったとしても、聖寵によるならば回心が可能です。
聖パウロの書簡は私たちに今日その希望を伝えています。聖寵の無限の全能の力を教えています。
では、その回心はいつ、どのようにして実現するのでしょうか?私たちはそのためにいったい何をすればよいのでしょうか? 福音をご覧ください。

【3:どもりで耳の聞こえない人】
主はどもりで耳の聞こえない人を癒されます。なぜでしょうか? なぜかというと、主がガリラヤの海辺におられるとき、人々が、どもりで耳の聞こえない人々をつれてきて、按手してくださいと願ったからです。祈ったからです。懇願したからです。

尊者ベーダは、これを私たちに適応しています。この話すことも耳の聞こえることもできない人とは、天主の御言葉を聞くことも、また口を開いてみことばを話すこともできないような人々を意味している。このような人々は、癒されるために、主の御許に連れてこられなければならない、と。

オリンピックの開会式は、あるいはオリンピックを主催した人は、この主の御許に運ばれて癒されなければならない人々でした。そしてその人々のパフォーマンスでした。何故でしょうか?何故かというと、彼らは残念ながらイエズス・キリストの福音に耳をふさいでいるからです。そのかわりに、革命という「嘘の帝国」を作り上げるのに協力しているからです。「死の文化」を合法化しようとしているからです。

革命というのはいったいなんなのでしょうか?革命というのはその定義上、既成の秩序を破壊することです。では秩序を破壊するためには、なにをしたらよいのでしょうか?区別を破壊します。上も下もない、ということです。右も左もない。社会全体のあらゆる区別を破壊します。そうすることによって、秩序を破壊します。
ところで、最初の革命は、天主と自分との区別を受け入れなかったルチフェルから始まりました。「私は従わない。」「嫌だ。」この区別を最初に拒否したのはサタンです。そしてこの革命に人間たちをも巻き込もうともします。「おまえたちも神々のようになる」と。そうして革命は天主と人間という間にある、つまり、創造主と被造物という絶対的な区別、最も根本的な区別を否定しようとします。

するとどうなるでしょうか?超自然と自然の区別も破壊されます。人間の良心があたかも絶対の基準であるかのように神聖化されます。これはどういうことかというと、人間は善と悪の区別がわからなくなる。真理と偽りの区別がわからなくなる。何が美しいのか何が醜いのかわからなくなる。そうではなくて、自分で決める。自分が、何が真理、何が誤り、何が美しい、何が醜い、何が善、何が悪か、わたしが決める。わたしが決めたら、そうだ。

そこからさらには混乱が始まります。お父さんとお母さん、お父さんと子ども、この区別がわからなくなります。親と子ども、あるいは先生と弟子、先生と生徒、この区別も分からなくなる。生徒が先生を評価し、先生の成績をつける。あるいは司祭と信徒の区別がわからなくなる。あるいはいろいろな国の違いがわからなくなる。いろいろな宗教の違いがわからなくなる。エキュメニズムだ。など。革命の原理を受け入れてしまった新しいミサは、まさにこれの表明かもしれません。信徒が司祭の代わりに御聖体を配ったり、あるいはその他の行いをしています。宗教の区別がわからなくなりつつあります。
これだけではありません。革命の原理はさらに行きます。人間と人間以外の動物の区別もわからなくなる。男と女も何が違うのかわからない。すべての区別がわからない。秩序が崩壊する。男と女がわからないというのはジェンダー理論といわれています。自分で男か女を決めることができる「性自認」といわれています。今日は男になる、男のような感じがするから、男湯に入る。でも明日は女のような感じがするから、女湯に入る。
聖パウロはすでに現代について私たちにこう警告しています。引用します。
「人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」(ティモテオ後4章3-4)

【4:遷善の決心】
ではそのような、言葉も話すことができず、耳も聞くことができず、なにもわからない、右も左もわからない、何が良いのか悪もわからない、男も女もわからないというような人々にいったい私たちは何をすることができるでしょうか。

わたしたちは主の聖寵の恩寵の力を信頼して彼らのために祈ります。彼らに按手してください、と主に懇願します。聖パウロが回心の恵みを得たのは、殉教者聖ステファノが自分を迫害する人々のために祈ったからだと言われます。石殺しを受けながら、聖ステファノは「主よ、彼らにこの罪を負わせないでください。」と祈りながら、殉教していきました。主がわたしたちに望んでいるのはこの祈りです。償いです。憐れみを主に請い求めることです。ですから、私たちはこの三日間、償いのミサと聖体降福式を捧げています。

愛する兄弟姉妹の皆さま、パリのこの冒涜を機会に、全世界が回心するか否かは、皆さんのこの懇願・祈りにかかっています。イエズス様を知らないこの世の回心のために心を合わせて祈りましょう。

ミサ聖祭が侮辱されました。ですから、私たちはその反対に、愛と礼拝をこめて、ミサ聖祭に与りましょう。聖伝のミサに与っています。冒涜の罪を償いましょう。

御聖体の制定が侮辱されました。ですからわたしたちはその反対に、跪いて、口で、舌で、敬虔に、礼拝と感謝を込めて、愛をこめて、御聖体拝領をいたしましょう。

また特に、御聖体に対してファチマの天使が教えてくださった2つの祈りをお祈りいたしましょう。

主の御恵みによって、また聖母の御取次によって、世界の国々の人々が、またフランスと日本の国民が主に回心するように、お祈りいたしましょう。

「私は天主の教会を迫害した者であって、使徒と呼ばれる値打ちのない、使徒のうちでもっとも小さな者である。しかし、天主の恩寵によって、私は今の私になった。そして私が受けた恩寵は空しくならなかった。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母の被昇天を黙想する:初土の信心:マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために

2024年08月06日 | お説教・霊的講話

2024年8月3日(初土)御聖体降福の黙想

聖母の汚れなき御心への信心として、ロザリオの十五の玄義のうちの一つを 15分間 黙想いたしましょう。

マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために、この黙想をお捧げいたしましょう。
8月15日は聖母の被昇天です。8月の初土の黙想は、聖母の被昇天を黙想することを提案します。

マリア様の生涯の最後は…イエズス・キリスト様に対する愛のおわりに…霊魂は主のましまし給う天国をあまりにも熱望するあまり、肉体のうちにとどまることはもはやできませんでした。いつも主のことを考え、主のことを愛し、主と共にいるのでなければ居ても立っても居られない、愛に燃える霊魂をお持ちでした。

天主の御言葉が人類をどれほどお愛しされたかを考えれば考えるほど、黙想すれば黙想するほど、どれほど苦しまれたかを黙想すれば黙想するほど、主がわたしたちにくださった途轍もないお恵みを黙想すれば黙想するほど、マリア様の汚れなき御心は感謝と讃美と礼拝で、ますます愛に燃えたつばかりでした。

わが霊魂は主を讃美し、
わが精神は主を崇め奉る。
そは、わが卑しきを見給えたればなり。

天主は……
聖母の御霊魂が天主イエズス・キリストを愛するがあまりに肉体を離れますが
御子は、御母の肉体がこのまま腐敗するのをお許しになりませんでした。
マリア様の肉体も霊魂とともに天国に挙げられます。
イエズス・キリストは、罪なく死を受けられた方なので、マリア様も死を避けることはありませんでした。
しかし、イエズス様は死の屈辱・腐敗をお許しにはなりませんでした。

天の最も高くイエズス・キリストのすぐそばに、
マリア様の霊魂が 御体が高く挙げられ
わたしたちのためにとりなしてくださっています。

マリア様がこれほど高く肉体も霊魂も挙げられたのは、
イエズス・キリストをお愛ししたから、
罪を憎んだから、
天主に仕えたから、
イエズス・キリストのみ旨を完全に果たしたから、
贖いの業に協力したからです。
十字架の下に佇むとともに、イエズス・キリストとともに、贖いの業を果たされました。

マリア様はわたしたちをも、この業に協力するように招いておられます。
聖なる死をわたしたちも遂げるようにと、招いておられます。
罪を避けて、一生を汚れなく送ることを、マリア様はわたしたちのために祈っておられます。


創造主である天主を侮辱することの意味、地獄の特徴

2024年08月06日 | お説教・霊的講話

パリのオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いの三日間(第二日目)

創造主である天主を侮辱することの意味、地獄の特徴

2024年8月3日初土 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

昨日からの三日間のミサは、パリオリンピックの開会式でおこなわれた冒涜の償いのために捧げられています。このミサと、御聖体降福式がそうです。

特に今日は初土でもありますから、この信心のためにもこのミサと御聖体拝領を、そしてご聖体降福式を捧げてください。

【冒涜:最悪の罪】
ところで、冒涜は最大で最悪の罪ということを昨日黙想しました。それについてもう少し黙想を致しましょう。

冒涜というのは、もっとも恐るべき重大な罪です。何故かというと、創造主である天主を被造物が冒涜する、侮辱するからです。

このことについて二つ、今日は見てみます。

第一点は、もしも誰かが非常に苦しんでいて悲しんでいて、私たちがその方を可哀そうに思って、近寄ってその方を助けだしたとします。そのために一生懸命努力しました。でもその人は、その私の親切に感謝しなかったばかりか私の親切を踏みにじって侮辱したとしたら、私はいったいどのような反応をしたらよいのでしょうか? “ああ、そんならもうわかりました、もうしません、もう親切は一切しません”と言って、打ち切るべきでしょうか。それとも、この方をもっと助けてあげるために、“そのような態度はよくなかった、非常識だ″ということを伝えてあげるべきなのでしょうか。若しもそうだとしたら、どうやって伝えたらよいでしょうか。

もしもある王様が、臣下である私を愛してくださって、私に全てを下さり、私はいろんなプロモーションを受けて、そして寵愛を受けて、お恵みを受けて、全てを受けながら、この恩人である王様にこの親切を国民の前で皆の前であざ笑って、馬鹿にして、王様の面前で屈辱したとしたら、この王様は私に何をすべきでしょうか?

王様は、非常に悲しんで、もう知らないよ、といって親切を止めるだけで十分なのでしょうか?もしも王様が国全体の秩序や善や正義の秩序を守るために、また他の国民たちの悪しき模範とならないように、私を悪いしもべだと見せしめに正義の罰を下したとしたら、王様は、これは悪いことをしたことになるのでしょうか?

イエズス・キリストは、私たち人間を永遠の昔から愛し、天主でありながら人となられました。わたしたちのために罪人の私たちのために十字架でご自分の命を渡されました。至聖なる天主が、最も聖なる御方天主が、罪人である私たちために死を受けました、わたしたちが命を受けるために。本当ならば、主に感謝するために、被造物である私たちが命を捧げても、それでも足りません。天主の“死”に被造物の命がどれだけの価値があるでしょうか。もしもその分際である人間が、天主を公然と侮辱するなら、主は私たちにいったい何をすべきなのでしょうか?何をして当然でしょうか?とくに主の最大の愛の業である御聖体の制定が、公然と全世界の前で侮辱されたならば、主はそのような私たちに何をなさるべきなのでしょうか?

【冒涜:地獄のもの】
第二の点は、天主に対する侮辱・冒涜は、地獄の特徴を持っているということです。聖霊は、聖人たちを通して行動し、そして聖人たちの口を通して天主に賛美を語ります。聖人たちを通して聖なる業を行います。しかし悪魔は、冒涜者を通して悪しき業を行い、冒涜の口を通して地獄の言葉を話すかのようです。

もちろん地獄にいる悪魔たちそして滅ぼされた罪人たちは、天主からたくさんの恵みを受けていたこと、しかしそれにもかかわらず自分のせいでその愛を無視して、地獄に進んで落ちてしまったことを知っています。しかしそれにもかかわらず、この愛の天主を逆恨みして、主を思いのまま冒涜します。あたかも地獄に落ちているのは、天主のせいであるかのように、呪い、恨みます。

ユダヤ人たちはペトロに「あなたもたしかにあのかれらの一人だ。おまえの方言でわかる」(マテオ26:73)と言いました。この言葉を解説して聖アントニノという聖人は、「天主を冒涜する人は、地獄に属する人…つまりサタンの弟子だ。呪われた者の言葉づかいで、そのしぐさでわかる、と言わなければならない。」と解説しました。さらに聖アントニノは、こうも言っています。「冒涜を行う者は、すでに地獄に属しているので、地獄の業を行っているのだ」と。

【償い】
では、わたしたちは、冒涜が恐ろしい天主に対する侮辱であるということ、そしてこれは地獄の業の延長であるということを黙想しました。私たちは、ですから、昨日から三日間、償いのミサと御聖体降福式を行っています。ミサ聖祭が侮辱され、御聖体が侮辱されたからです。

愛する兄弟姉妹の皆様、愛と礼拝をもって今日このミサ聖祭に与ってください。冒涜の罪を償いましょう。主は正義を要求されます。償いを要求されます。わたしたちが代ってその償いをお捧げしましょう。マリア様とともに十字架のもとに留まり、イエズス様の犠牲を罪の償いとして、御父天主にお捧げ致しましょう。

特に今日、跪いて口で舌で敬虔に御聖体を礼拝しながら、感謝をこめて礼拝しつつ御聖体拝領をなさって下さい。また、御聖体に対して、特にファチマの天使が教えてくれた祈りを心から唱えましょう。主を信ぜざる者 礼拝せざる者 希望しない人 愛さない人々に代って、わたしたちが主を信じ 礼拝し 希望し 愛することができますように。そして、世界中のすべてのご聖櫃にましまし給うイエズス・キリストの御体を、わたしたちは心から礼拝いたしましょう。

Deus propitius esto nobis peccatoribus!
天主よ、罪人である私たちを憐れみ給え!

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


税吏は胸を打ちながら"天主よ、罪人の私をおあわれみください"と祈った。

2024年08月01日 | お説教・霊的講話

2024年7月28日大阪 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日の福音では、「自分を義人と信じ、他人をさげすむ人々」について、主がたとえをお話になりました。今日は一緒にこのたとえを黙想いたしましょう。まず第一に今日の福音を考察します。

【1:今日の福音】
登場するのは二人の男です。一人はファリザイ人、もう一人は税吏です。当時の人の気持ちになってみてください。
ファリザイ人というのは、律法を守ろうと、書かれていた通りに厳しく守ろうとした人々です。その守り方があまりにも厳しくて、文字通りに縛られていたので、そして、律法の精神を忘れていったので、イエズス様からは非難されますが、しかし、律法を学んで律法を守って、そうすることによって、外国のギリシアやローマからの異教の影響から切り離されて――この切り離されてということの語源がファリザイで、そこからファイリザイという言葉がくるのですけれども――それから外国の影響から切り離されて異教を離れて、ヤーウェを中心とするユダヤの国粋主義を貫こうとした人々です。ですから、ファリザイたちは司祭階級ではなかったとしても、民衆からは非常に莫大な尊敬を集めていました。そしてファリザイ人たちが神殿にやって来てお祈りするのです。

それに引き換え、税吏は、植民地を支配していたローマ帝国のしもべでした。手先でした。異教の支配者のためにあたかも裏切り者のように考えられていました。税吏の中には、自分の懐に入れるために、公務員という立場を悪用して、乱用して、不正な取り立てをしていた税吏も多数あったと伝えられています。貪欲で悪徳な役人たちもたくさんいたとのことです。ですから税吏は民衆から軽蔑され、憎まれていました。

この二人が神殿に祈るためにやってきます。祈ります。ところが、ファリザイ人の祈りは何の意味も効果もなく、彼はそのまま家に帰ります。しかし税吏の祈りは聞き入れられて、彼は義とされます。(つまり罪を赦されて聖なるものとなって)家に帰っていくのです。いったい何故なんでしょうか?主はその結論に言われます。「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる」からだと。

では、いったいファリザイ人の祈りのどこが悪かったのでしょうか?税吏の祈りのいったいどこが良かったのでしょうか?主はその譬えを通して私たちにいったい何を教えたいと思っておられるのでしょうか?

【2:ファリザイ人の祈り】
まずファリザイ人の祈りを見てみましょう。ファリザイ人はこう祈りました。「天主よ、私が、他の人のように、貪欲な人でもなければ、不正な人でもなければ、姦通者でもない、またこの税吏のような人間でないことを、あなたに感謝いたします。私は、週に二回断食して、全所得の十分の一をささげています。」

たしかにこのファリザイ人は貪欲でもなければ、不正でもなければ、姦通者でもなかった、これは確かです。また税吏のように敵国ローマの手先として働いていなかったこと、これも確かです。断食をしたこと、二回も断食したこと、ちゃんと全所得の十分の一の税を払っている、これも確実でした、事実でした。
でも主はこの祈りには効果がなかったということを警告しています。イエズス様はファリザイ人が祈ったということが悪いとはいっていません。もしかしたら祈りではなったのかもしれませんが、しかし、神殿に来たことを悪いとは言っていません。またファリザイ人が自分の税をちゃんと払っている、断食をしていることを悪いと言っているのではありません。

ただ祈り方がよくなかったことを指摘しているのです。おそらくいつも思っていることを、主よと呼びかけて「祈り」にしたのでしょう。何が悪かったかというとイエズス様は言います。自分を義人と信じて、他人をさげすんでいた(in se confidébant tamquam iusti et aspernabántur céteros)からだと。何を意味しているかというと、ファリザイ人は善行を自分に帰していました、自分だけの手柄にしていました。自分があまりにも素晴らしいということを感謝していました。しかし、実際は、当然なことをしていただけです。電気料を払った、水道料を払った、だからと言って特にえらいというわけではないでしょう。

もっと正確に言うと、主のお恵みによって、罪を避けて生活できている、主のお恵みによって善行を行うことができている、ということを認めなかった、認識していなかったのです。今日書簡で聖パウロが言う通りです。「聖霊によらなければ、だれも「イエズスは主である」ということができない」のです。

【3:傲慢】
ではいったいなぜ認識できなかったのでしょうか。これは傲慢のせいです。
「高ぶる人は下げられ、へりくだる人は上げられる。」では、傲慢、高ぶるとは何でしょうか?高ぶるというのは、本当の自分よりも高ぶって見せかけていること、人間が本当よりも不正に高くあろうとすること、これを傲慢とか高ぶりと言います。

聖アウグスチヌスは、傲慢ということを分析して、見境もなく高揚を望むこと (De Civ. Dei xiv, 13)であるといっています。あるいは、また別のところではこうも言っています。傲慢というのは天主を真似ようとする秩序のない望みである (De Civ. Dei xiv, 13; xix, 12)、。もちろん天主のようになる、ということはできないと分かっているので、天主を真似ようとして、事実上天主の地位を奪ってしまうことです。つまりどういうことかというと、天主のもとにある被造物、天主のもとに従うのではなくて、天主が被造物に対して持っている絶対の支配権を自分のものとして横取りしようすること、それが傲慢です。

聖トマス・アクィナスは傲慢というのは「自分の優れていることを、見境もなく(秩序もなく)望むこと」だと言いますし。

タンクレ(Tanquerey)神父さまという倫理神学者の司祭は、さらにこうも言っています。聖トマス・アクィナスのそれを説明するかのようです。「傲慢というは、秩序のない自己愛であって、これによって暗黙のうちにあるいは明白に自分のことを第一であって究極の目的だと考える、これが傲慢だ。」何を言いたいかというと、傲慢だと、(1)自分にある良いことはみーんな自分の努力で得た、自分のおかげだとする、「自分」だ。あるいは、(2)たとえ自分の持っている良いものが天主からいただいたと思っていても、でも、それは自分の功徳だ、自分が良いから天主が当然の報いとして与えたのだと、見做しているのです。
さらには、傲慢によって、自分が持っている善いもの、自分が行った善いことを、あたかもそれ以上であるかのようにみせようと自慢してしまいます。また自分がより高くなるために、他人をわざと低めて軽蔑しようとします。

まさにファリザイ人がいった祈りはこのことでした。タンクレ神父様によれば、傲慢のために、人は自分のために、生きます。どういうことかというと、「自己実現」のために生活するということです。自分を究極の目的にするということです。つまり、傲慢な人は、自分の良いところが自分に由来して、善を自分の力だけでできるし、自分のために行いますし、全ては自分に向かうように。もしかしたら、ファリザイ人の「週に二回の断食」や「十分の一の献金」も、自分の高ぶりのためにやっていたのかもしれません。

でも、本当は、全ての善徳、全ての善行は、天主のお恵みによってなされますし、天主から由来します。私たちが持っているすべてのものは、天主から受けたものであるからです。自然のお恵みも超自然のお恵みもすべて主から頂いたものです。私たちが持っているもので主から頂かなかったものはひとつもありません。ですから全ては主の憐れみによって主の力によって行われて、主のために主へと向かっています。まさに、天主こそが、はじめであり終わりです。主はご自分の善さと優しさと憐みによって、私たちに全てをくださいました。これを認めるのが謙遜です。しかも、天主が下さった超自然の恵みを人間が罪によって乱用して拒否したにもかかわらず、罪を犯した人間に超自然の恵みをまたもう一回与えるために、主は人間となって、死の苦しみさえも受けられました。

しかし傲慢は天主に帰さなければならないものを、自分に帰属させます。自分のおかげだ、自分の善さのためだとうぬぼれさせてしまうのです。
そうすると、傲慢というのは、他の罪へといろいろな影響を及ぼします。直接的にあるいは間接的に影響を及ぼす危険があります。
直接的にはどういうことかというと、傲慢によって「自分の優れているものを、見境もなく望む」ので、それを求めてそれを目的として別の罪を犯させてしまう危険があるのです。
間接的にも人間は天主の掟によって罪を犯すことが禁じられています。でも、傲慢によって、そんなものがあると邪魔だ、掟は邪魔だと考えてしまって、自分がより高ぶるためには、高くなるためには、その掟を取り除こう、邪魔ものを除こうとしてしまいます。つまり「私は従わない」(エレミア2:20)という悪魔と同じ叫びへと導かれてしまう危険があります。
ですから、聖ヤコボはこう書いています。「天主は驕る者にさからい、へりくだるものを恵まれる」(ヤコボ4:6)と。なぜかというと、傲慢というのは天主のやり方と対立するからです。悪魔のやり方であるからです。

聖トマス・アクィナスはさらにこうも言っています。傲慢があまりにも悪しき悪徳なので、傲慢を克服させるために、またつまり謙遜へと導くために、天主は時にしてある人々を、傲慢な人々を、傲慢よりも罪が重くはないけれども極めて恥ずかしい肉の罪に陥ることを許すことがある、といいます。

どういうことかというと、傲慢というのは、全ての悪徳の中で最も悪い最悪のものなので、……なぜ最悪かというと、最も高い地位に人あるいは最善の地位にある人々でさえも傲慢になってしまう危険がある、あるいは、最も聖なる行為・あるいは有徳な行為からも傲慢が生じてしまう危険があるが、しかしその傲慢はあまりよく察知されていない、人が傲慢になっていることをあまりよく知らないでいるので、……ちょうど 賢い医者が、悪い病気を治すために、患者があまり危険でない病気に陥るのを許すことがある、そうすることによって、より危険な病から癒そうとすることがあるといいます。そのような賢い医者のように天主は、傲慢を癒す薬として、他の様々な罪に陥ることを許される、そうすることによって、あっ、自分はなんと愚かで惨めな者だということがわかるように謙遜となるように、と説明しています。(II, II, Q.162, art 4. ad 3)

【4:税吏の祈り】
では、税吏はどのように祈ったのでしょうか。税吏は遠く離れて、目を天に向けることさえもせずに、胸を打ちながら、"主よ、天主よ、罪人の私をおあわれみください"とだけ祈ります。税吏は、罪を心から悔い改める、悔悛の心をもって、天主の憐みをひたすらこい求めます。「罪びとのわたしを憐れんでください。」
主はこう言います。「私はいう。この人は義とされて家に帰ったが、さきの人はそうではなかった。」と。
税吏は、自分の罪を単純に素直に認めました。自分が無に等しい、主にすべて依存している、委ねているということを認めました。つまり、遜(へりくだ)りあるいは謙遜というのは、天主の御前において自分の立ち位置・分際を単純に素直に認めることです。全ては主に由来しますし、全ては主の栄光のためだ、と。もしも私が何か良いことができたとしたら、それは主のおかげだ、この謙遜がある時に、天主は最高度に全能を発揮して、わたしたちを憐れみます。これが今日の集祷文の祈りです。つまり、罪人を義として、人間を天国の栄光まで上げられます。
「高ぶる人は下げられて、遜(へりくだ)る人は上げられます。」

【5:私たちの祈り】

ではわたしたちは最後にどのような結論をとったらよいでしょうか、どのように祈りをしたらよいでしょうか。わたしたちはファリザイ人の真似をして、「ああ主よ、私はあなたのために、金曜日には小斎をやって、ミサには与るし…聖伝のミサですよ…それなのにあなたはなにもしてくれない」などと、祈るのでしょうか。
それとも、あるいは告解の時に「ああ、私はちゃんとこれをしました、こんなよいことをしました、こんなこともしました、こんなこともしました、でもあの人はああです、こうです」というのでしょうか。いえ、そうではありません。

聖ヨハネ・クリソストモスはこう言います。「たとえ私たちに偉大な善徳による何千のよい行為があったとしても、私たちの祈りが聞き入れられるという信頼は、天主の憐れみと主の人間に対する愛による。たとえ私たちが善徳の頂点に立っているとしても、私たちが救われるのは天主のあわれみによる。」

マリア様はどのように祈ったでしょうか。マリア様は罪を一つも犯しませんでした。ですから、罪人のわたしを憐れみ給え、とは祈ることができません。しかし、聖母はこう祈りました。

わが霊魂は主を崇め(あがめ)奉り(たてまつり)、
 わが精神はわが救い主なる天主によりて喜びに堪(た)えず。
 そは御召使い(おんめしつかい)のいやしきを顧み(かえりみ)給いたればなり。
見よ、今よりよろずよにいたるまで、人われを幸いなる者ととなえん。
 けだし全能なる御者(おんもの)、われに偉大なことをなし給いたればなり。
 聖なるかな、その御名(みな)。云々・・・。
 
では最後にマリア様の御取次によって、わたしたちもマリア様に倣って、謙遜な祈りを行うことができますように、このミサで祈り続けましょう。

「主よ、罪人である私を憐れんでください。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖霊は、癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として教会の中に現存しておられる

2024年07月31日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

親愛なる信者の皆さま、

先週の主日の福音を覚えておられますか。私たちの主が、エルザレムの町と神殿が崩壊することを予言しておられました。それは、ユダヤの民の中心となる人々が、主を受け入れるのを拒否したためでした。

それは実に悲しいことでしたが、天主は偉大なお方ですから、エルザレムの神殿よりもはるかに良いもの、すなわち聖なる教会を与えてくださいました。教会は聖霊の住まわれる場所ですから、新しく、より良い神殿なのです。

また、教会の一員として、皆さまも神殿なのです。聖パウロは、そのことをたいへんはっきりと、こう言っています。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はあなたたちの中に住み給うことを知らないのか」(コリント前書3章16節)。私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちの霊魂は聖霊の神殿です。しかし、聖霊は、私たちの中で、どのように働いておられるのでしょうか。その点について、今日の書簡を注意深く見てみましょう。

1)コリントの共同体

聖パウロは、コリントの教会で当時起こっていたことを描写しています。知恵の言葉、知識の言葉(コリント前書12章8節)、癒やし(同9節)、奇跡(同10節)、預言、異語による祈り(同10節)など、確実に明らかな聖霊の現れがたくさんあった珍しい場面でした。私たちにとって、これはかなり珍しい状況であり、これらは、教会であまり見られないものです。しかし、私たちが心に留めておかなければならないのは、これらのことは、カトリック教会の始まりに起きた現実であり、カトリック教会の歴史の始まりにおいては、聖霊がこのように働いておられたということです。コリント人への書簡で、聖パウロは、第一世代のカトリック信者に向けて書いており、彼らはまったくの異教出身だった人々です。聖パウロはこう述べています。「あなたたちが異教徒であったとき、夢中になっておしの偶像のもとに行っていたが、身に覚えがあろう」(同2節)。

これらの第一世代のカトリック信者に対して、天主は、教会の中に聖霊が現存しておられることを示す数多くの力強いしるしを与えられました。それは、教会の始まりのために与えられた恩寵だったのです。なぜなら、異教徒やユダヤ人の中で少数派のカトリック信者にとって、始まりは困難なものだったからです。これらは天主から与えられた本当の恩寵でしたが、始まりのためだけのものでした。その始まりの後も、もちろん聖霊の現存は教会の中で続きましたが、その方法は異なっていました。この書簡にあることは、私たちが今、聖霊に期待しなければならないことを描写しているのではありません。

2)カリスマ運動

いわゆる「カリスマ運動」に引っかからないようにしてください。私たちは初代教会で起こったことのまねをしなければならないと、この人たちは考えているのです。カリスマ運動はプロテスタントの運動ですが、今や教会に侵入しています。私が行ったアジアの多くの国々、中国、台湾、フィリピンなどで、この運動の重大性を目にしてきました。多くのカトリック信者が、この運動によって信仰を失っています。この運動のメンバーは一般的に、20世紀まで、カリスマ運動が始まるまで、聖霊は教会から忘れられていたと言うのです! 彼らは、カトリック教会のまさに始まりに存在したすべての実践を復興させたいと思っており、彼らの集会では、多くの奇妙なことを行っています。それは、意味のない言葉による祈り、失神する人たち、いわゆる奇跡などです。

どうして、聖霊が教会から忘れ去られてしまったなどということがあり得るのでしょうか。聖霊の現れは教会の歴史とともに変化してきましたが、聖霊はずっと教会の中におられました。私たちは、コリントのカトリック共同体で起こったことを再現する必要はなく、むしろ今日、聖霊が教会の中でどのように働いておられるかを理解する必要があります。

3)聖霊の賜物

では、聖霊は、教会の中でどのように働いておられるのでしょうか。聖霊は、おもに癒やしや奇妙な異語などを通してではなく、聖霊の賜物として、つまり上智、聡明、賢慮、剛毅、知識、孝愛、敬畏の賜物として教会の中に現存しておられるのです。この賜物は七つあり、洗礼の秘跡によって与えられ、堅振の秘跡によって強められます。それとは別の特別な儀式は必要ありません。なぜなら、聖霊の賜物は私たちの洗礼の構成要素であり、洗礼とともに与えられるからであり、私たちが成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちには七つの賜物があり、その賜物は、私たちの霊的生活の通常の構成要素だからです。

しかし、多くのカトリック信者は、その賜物を無視しています。それは悲しいことです。なぜなら、その賜物は私たちの救いの構成要素であり、救われるためには聖霊の賜物が必要だからです。その賜物は、特別に「霊的な」人たちにのみ特別に与えられるものではありません。そうではなく、その賜物は、私たちが天主に近づき、聖化されるための、私たち、普通の人々のためのものなのです。

なぜなら、私たちは、徳と賜物という二種類の道具の助けによって天主に近づくからです。超自然の徳とは、洗礼によって与えられる天主に向かって行動する能力のことであり、成聖の恩寵の状態にある霊魂のうちに保たれています。この徳は、天主に向かって行動する能力を、私たちに与えます。この徳は、信仰、希望、愛、超自然的な賢明さなどです。

私たちは、徳がなければ救われることはあり得ませんが、徳だけでは十分ではありません。天主は私たちを超えておられ、私たちのすべての行動能力を超えておられます。私たちが天主に近づくためには、天主に導かれなければなりません。「天主の霊によって導かれている人は、すべて天主の子らである」(ローマ8章14節)。

もちろん、霊的生活は、ミサに行くこと、ロザリオを唱えること、祈りを唱えることなど、多くの行動や徳からなっています。それらの行動は、徳のうちの不可欠な部分です。しかし、それは同時に受動的なものでもあります。天主は私のうちに働いておられ、私を導いておられます。天主はそれを、七つの賜物を通してなさっており、その賜物は、私たちが天主に導かれるのを助けてくれます。しかし、そのためには、私たちには沈黙の祈りが必要です(主日のミサの後、5分間行っているようにです)。

親愛なる信者の皆さま、聖パウロが「私たちは天主の神殿である」と言うように、聖霊は教会の中で、また私たちの霊魂の中で働いておられますが、それは、カリスマ運動の人たちの奇妙な祈りによってではなく、その賜物を通してです。そして、これらの賜物を「活動的」に保つためには、沈黙が、沈黙の祈りが必要です。皆さまは、その沈黙と黙想の祈りの時間を、しばしば天主に捧げておられるでしょうか。


自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸い!

2024年07月31日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第十の主日 ― 軽率な判断 アルスの聖なる司祭(2024年、札幌)

ワリエ神父 2024年7月28日

「天主よ、私は、他の人のように、貪欲な人、不正な人、姦通する者ではなく、またこの徴税人のような人間でもないことを、あなたに感謝します」(ルカ18章11節)

親愛なる兄弟の皆さま、

これは、高慢な人間の言葉です。自分が重要な人間だという思いに満ちており、隣人を軽蔑し、隣人の行動を批判し、非難するのです。

1.見た目

このファリザイ人は、徴税人の心構えを知ることすらせず、徴税人のことを悪く思い、軽率に判断して、非難するのです。アルスの聖なる司祭によれば、このような意見は、ただ臆測のみに基づくものです。私たちが判断し、批判するのは、どのような根拠に基づくのでしょうか。見た目だけであり、さらに、多くの場合、「そう言われている」からだけに過ぎません。

もし、美しいユディットが喪服を脱ぎ、自然や芸術が提供するあらゆるもので身を包み、その並外れた美しさを増すのを皆さんがご覧になったなら、彼女が敵の居室に入り、見た目には敵に好かれようと努力するのを見て、「なんて悪い女なんだ!」と叫んだことでしょう。その反対に、旧約聖書にあるように、彼女は敬虔なやもめであり、貞淑で天主をお喜ばせする女性であり、このようにして、自分の民のためにみずからの命を危険にさらしたのでした。

2.高慢とねたみ

このファリザイ人は、その高慢と悪意から、徴税人を自分と比較します。
実際、軽率な判断は、高慢とねたみに満ちた悪しき心からしか出てきません。高慢でねたみ深い人は、自分だけを高く評価し、隣人のすることはすべて悪しき動機のせいだとします。彼らが隣人の中に見る善は、彼らを怒らせ、いらいらさせるのです。

聖書は、この実例を、カインにおいて示しています。カインは、弟の行動をすべて悪いものと解釈したのです。弟が天主に気に入られているのを見て、カインは弟を殺そうと決心しました。

3.痛悔

最後に、このファリザイ人は徴税人のことを判断し、非難しますが、一方、この徴税人は神殿の隅に引き下がって、胸を打ち、天主の御赦しを懇願します。
軽率に判断すれば、私たちは、このファリザイ人の悪意のまねをすることになります。このファリザイ人は、マグダラの聖マリアが泣き、罪を告白し、救い主の足もとにひれ伏すのを見たにもかかわらず、彼女が自分の罪から離れているかどうかを尋ねることなく、悪名高い罪人としか見なかったのです。

聖アウグスティヌスはこう言います。「あなたは、ほんのわずかな口実に基づいて、あえて兄弟のことを判断し、その兄弟がすでに自分の過ちを悔い改めなかったかどうか、再び天主の友の数の中に属しているかどうかを知らない。彼があなたの場所を奪わないように気をつけよ。あなたは、自分の高慢によって、その場所を失うという大いに危険な状態にある」。

結論

隣人を軽率に判断するのは悪しき心だけです。時がたって、またよくよく調べてみて、隣人について言われてきたことが間違っていると分かったとき、私たちが他人を判断したり、他人に厳しいことを言ったりしたことを、しばしば、いえ実際いつも、私たちは反省しなければならないのではないでしょうか。軽率な判断という罪は、批判する者を食い尽くして地獄に導く虫なのです。

親愛なる兄弟の皆さま、

自分に責任のない隣人の行いに関わることなく、自分のことだけを考え、自分の過ちを認め、力を尽くしてその過ちを改めようとする人は幸いです! 天主を恐れることだけに心や精神を尽くし、天主の御赦しをこいねがうことだけに舌を使い、自分の罪に涙することだけに目を使う人は幸いです。


当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながった

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日の説教

イヴォン・フィルベン神父

伝達の義務

はじめに

 イスラエルの死海の近く、砂漠の真ん中にある山の頂上に、マサダ要塞があります。それはとても印象的な場所です。この山の頂上から下を見れば、ローマ軍団の陣営の模様を見ることができます。それは、二千年前に起こった戦争の痕跡です。

 西暦70年、ローマ人とユダヤ人の戦争で、エルザレムの神殿とエルザレムの街全体が破壊されました。マサダは、ユダヤ人の最後の抵抗の場だったのです。恐ろしい戦争でしたが、土はその出来事の記憶を保ち続け、二千年後の今でも、それを目にすることができます。現在エルザレムに行くと、考古学の発掘現場に行って、その戦争で焼かれた家々を見ることができます。焼けた家屋が発掘され、その家屋の中に木製の内装を見ることができます。そしてそれは、黒く焦げています。エルザレム焼き討ちの火の勢いはすさまじく、その痕跡は今も残っています。この戦争がいかに激しいものだったかお分かりでしょう。大戦闘、大火災だったのです。

 過去の他の戦闘とは違って、忘れ去られてはいません。それはなぜでしょうか。それは、他のローマ人の戦争とは違って、私たちの主イエズス・キリストを迎えることを拒んだエルザレムに対する天主の罰だったからです。教会の聖伝は、1世紀にユダヤの民に起こったことを、今日の福音にある私たちの主の預言の成就とみなしてきました。当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながったのです。それは私たちの主イエズス・キリストによって預言されたことであり、この出来事は私たちに対する教えなのです。

1)神殿の喪失

 「おまえの敵が周りに塁を築き、取り囲み、四方から迫り、おまえとその内に住む人々を地に倒し、石の上に一つの石さえ残さぬ日が来る。それは、おまえが訪れの時を知らなかったからである」【ルカ19章43-44節】。

 その罰とは何だったでしょうか。それはユダヤの民の滅亡ではなく、エルザレムの神殿を中心とするユダヤ国家の喪失でした。現在、その国には近代イスラエル国家がありますが、それはイスラエル王国の復活ではなく、同じ場所に近代国家があるだけで、神殿は今でも破壊されたままであり、永遠に破壊されたままでしょう。神殿の破壊は、天主の民の歴史の特別な段階の決定的な終焉であり、天主と神殿での天主の現存を中心とする国の終焉なのです。これは二度と回復することはないでしょう。

 これは、とても残酷だと思えませんか。すべてのユダヤ人が、私たちの主を拒否したのでしょうか。いいえ。拒否したすべての人が、同じレベルの罪の責任を負っているのでしょうか。いいえ、なぜなら知識のレベルが異なるからです。ですから、この人たちの罪の責任の重さは異なっていたのです。しかし、罰は集団的なものであり、彼らのうちの何人かが不忠実だったために、神殿は皆にとって、そして永遠に、失われたのです。

2)伝達の失敗

 これは、私たちが教会で「罪」と呼んでいるものと矛盾しないでしょうか。はい、ある意味ではそうです、罪は個人の現実だからです。告解の秘跡で、罪を犯したのは自分に責任がある場合だけであることはご存じでしょう。もし、不可抗的無知から何かをしたとしても、その行為は悪いことですが、罰は課されません。暴力の影響で自分の自由意思を取り去られた場合も同じです。

 しかし、他の世代に受け継がれるために所有されている現実があり、誰かがこの現実を破壊すれば、それはすべての子孫にとっても破壊されます。もし遺産を破壊すれば、それは他の世代にも失われることになります。神殿が失われたのは、私たちの主イエズス・キリストを拒否したユダヤの民の一部の悪い行いのせいですが、その瞬間から、神殿はユダヤの民全員にとって失われたのです。私たちの主は、その理由から、エルザレムのために泣いておられるのです。

 原罪も同じことです。私たちにはそれについての責任はなく、それはアダムの個人の罪であり、私たちは誰もその罪を犯してはいません。しかし、人間の本性は共通善であり、アダムはそれを自分だけのために所有していたのではなく、全人類に伝達しなければならなかったものとして所有していたのです。私たちの人間の本性は、皆さんのものも私のものも、アダムから受け継いだものであり、アダムがそれに害を与えてしまったので、私たちは傷ついた人間の本性を相続するのです。私たちにはそれについての責任はなく、私たちの人生の終わりには、私たちは他人の罪ではなく、私たち個人の罪について天主に裁かれますが、今、私たちは、私たちの救いを困難にする、傷ついた人間の本性を持って生きているのです。集団的な罰はありませんが、いくつかの罪には集団的な結果があるのです。

 ユダヤの民に起きたことは、一部の人々の不忠実のせいで彼らが自分たちの神殿を失ったということです。

3)伝達という重大な義務

 このように、信仰に関連する現実は、真摯に受け止めず、伝達していかなければ、他の人にとっても失われてしまいます。それは私にとっての現実であるだけではなく、他の人にとっての現実でもあるのです。

 このことは、ルフェーブル大司教の行動を説明します。大司教にとって、聖伝のミサは教会の共通善であり、何としても他の世代に伝えるべきものであることは明らかでした。それは大司教自身のためではなく、教会のため、そして教会の次の世代のためでした。そして、もし大司教が、行ったことを行わなかったとすれば、今頃、聖伝のラテン語ミサは教会から消え、それは決定的かつ悲劇的な喪失であったという可能性が高いのです。このような信仰の現実は、伝達しなければなりませんし、伝達しなければ失われてしまいます。たとえ教皇に不従順であるように見えるという代償を払っても、伝達することは義務なのです。

 私たち個人のカトリック信仰も同じで、それは私たち個人の救いのためだけに与えられた個人の現実ではなく、私たちが伝達しなければならないものであり、伝達することは、私たち全員が持つ非常に重大な義務なのです。私たちが親であれば、子どもたちに対するその伝達の義務があります。司祭に、信者に対する伝達の義務があるのと同じです。しかし、それはただ教えるという問題だけではなく、私たちの信仰を大切にし、真剣に受け止め、祈りと学びによってますます深く知ろうとするという問題なのです。愛徳に導かれた信仰だけが伝達可能なのです。

 エルザレムの神殿に起こったことは、伝達することが私たち全員の持つ義務だということを思い起こさせるものだと考えましょう。私たちの信仰を伝達するために、私たちは善き信者でなければならないのです。


エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったから。どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かない。

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日―恩寵の時

ワリエ神父 2024年7月21日

「エルザレムよ、おまえは、おまえの訪れの時を知らなかった」(今日の福音より)。
エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったからです。

******

それについて、大聖グレゴリオは、こう述べています。

「肉の奴隷として生きてきた霊魂には、これらの壮大なことがすべて起こる。なぜなら、そのとき、悪魔たちが霊魂を四方から取り囲み、誘惑し、動けないようにし、地獄に連れ去るからである。そのとき、石を積み上げたものすべて、つまり彼らの思いは、転覆してしまうのだ。

なぜなら、天主の説教者や聴罪司祭、教師たち、そして天主による内的な霊感によって、自らの生活を改め、自らの救いのためによくよく考えるよう天主が彼らに警告されたその訪れの時を、彼らは知らなかったからである。

天主は、教えをもって、時には鞭を、時には奇跡をもって、悪しき霊魂を訪れるのをおやめにならない。それは、その霊魂が知らなかった真理を聞けるようにし、また、未だにその真理を軽んじてはいても、悲しみに心を刺されて立ち戻れるようにするためであり、あるいは、御あわれみに圧倒されて、自分の行った悪を恥じるようになるためである。しかし、その霊魂は、その訪れの時を知らないがゆえに、人生の終わりには敵に渡され、敵とともに永遠の滅びの枷につながれるのである」。

ユダと悪しき盗賊という悲しい例があります。

ザカリアはこう宣言します。

「主なるイスラエルの天主をたたえよ。主は、主の民を訪れて救い給うた。…それはわれらの天主の深い御あわれみによる。そのために、朝日は上からわれらを訪れた」(ベネディクトゥス、ルカ1章68、78節)。

すべての霊魂に、このような恩寵の時が与えられます。レビと呼ばれていた使徒(マテオ)、徴税人ザケオ、サマリアの女、罪の女、善き盗賊のようにです。

恩寵に忠実になりましょう。

「ある日、ある瞬間、天主の働きかけに十分お応えできなかったために、聖性に到達しない霊魂がいる。私たちの将来は、時に、二、三の『はい』と、二、三の『いいえ』にかかっている。それは、私たちが言わなければならなかったもの、言わなかったものであり、そのために、数え切れないほどの寛大さや失敗が保留されたのである。もし私たちが常に天主の壮大さと足並みを揃えて歩むことを決心するならば、私たちはいかなる高みに到達するであろうか。

…私たちは、天主の恩寵をもてあそんではならない。天主の恩寵は過ぎ去るものであり、しばしば戻ってくるのは事実だとしても、いつも戻ってくるわけではないのだ。

もし天主の恩寵が戻ってくるなら、また仮に初回と同じような力強さで戻ってくるとすれば、その天主の恩寵は、すでに臆病さで弱っており、それゆえ、その恩寵に応えられるだけの用意がもっとできていない心を見つけるのである。すると、天主は私たちに、わざわざ更なる恩寵を与えようとはなさらないのではなかろうか。前と同じ運命をたどることに何の意味があろうか。この使われなかった恩寵、この軽んじられた霊感、この言いようのない取り残しが、天主の法廷では、嫌な証人となるのである」(R・プリュス神父)。

それは、灰の水曜日の典礼にこうある通りです。「軽率に犯した罪を償うために、よりよい生活を送ろう。われらが、突然、死の日にとらえられ、悔い改めの場を求めても見つけられないことのないように」(灰の水曜日のグレゴリオ聖歌の答誦「Emendemus」)。

かつて米国のある司祭が、死の床にある人のそばに行くよう呼ばれました。何世紀も前のことで、車もありませんでした。その死の床にある人は、何度も回心を先延ばしにしてきた悪しきカトリック信者でした。司祭は終油の秘跡をさずけるために、すぐに行こうと決めました。しかし、長時間馬を探したにもかかわらず、見つけることができませんでした。その人は秘跡を受けずに亡くなりました。まもなく、その司祭に啓示されたのは、天主の恩寵を常に拒み続けたことで、死の床にあるその人を罰するために、天主が馬を隠されたのだということでした。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの永遠が幸せか不幸かは、天主の「訪れ」、すなわち天主の恩寵の時に対する私たちの対応にかかっています。
私たちが受ける多くの恩寵のうち、どれが最も決定的なものかは分かりません。それは説教かもしれませんし、告解かもしれませんし、使命かもしれませんし、何らかの不運かもしれませんし、家族の悲しみかもしれませんし、仕事の問題かもしれません。
また、どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かりません。
聖パウロとともに、私たちも「私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)と繰り返すことができますように。
天主の聖寵の御母、罪人なるわれらのために祈りたまえ!


子どもたちの教育についてどのような報告をしなければならないか?自分の務めが何であるか?子どもたちに信仰を、超自然の命を伝えるために何をしなければならないか?

2024年07月19日 | お説教・霊的講話

2024年7月14日大阪主日ミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

【導入】
今日の福音を読むと、今日の福音の管理人に起こったように、私たちは死の瞬間、イエズス・キリストによって裁かれ、同じことを言われます。「おまえの一生の会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」と。
今日はこの言葉について一緒に黙想いたしましょう。

私たちは全てを主から受けました。私たちの持っているもので、主から受けなかったものは一切ありません。生命、時間、才能、境遇、家族、言語、能力、性別、地位、責任などなど・・・、これら以外にもすべて主から受けたもので、天主からでないものはありません。私たちはこれをどのように使ったのか、受けた恵みにどのように答えたのかについて最後に報告しなければなりません。真理に、イエズス・キリストに忠実だったのかどうか、あるいは善を愛したか、キリストをお愛し申し上げたかどうかについて、私たちは厳格に厳密に報告しなければなりません。

【いろいろな報告の例】
いろいろな報告の例があります。なぜかというと、報告や裁きの内容は、身分や境遇によってさまざまです。わたしが報告しなければならない内容は、愛する兄弟の皆さんが報告しなければならない内容とは異なっています。地位が高ければ高いほど、多くを受けたのであればあるほど、より厳しい裁きを受けます。
たとえば財産についていえば、金持ちは、自分の財産や富があればあるほど、それをどのように良くつかったのか、どれほどキリストのために・本当の善のために使ったのかについて、厳しく裁かれます。地位についていえば、たとえば司祭あるいは司教であれば、受けた司祭職あるいは司教の権能をどのように良くキリストのために使ったのか、ということについて厳格に裁かれます。

【負債】
「報告を出せ」と、これは負債です。
私たちが主から受けたものは、主に返さなければなりません。私たちの受けた時間や才能は、いわば主に返さなければならない負債であって、これはこの世のことだけのために与えられたのではありません。今日の書簡で聖パウロが言っている通りです。「兄弟たちよ、私たちは負債をおっているが、肉にしたがって生きるための、肉に対する負債をおってはいない。」そうではなくて、「天主の霊によって導かれて」生きるために、「天主の子ら」として生きるために、恵みを受けました。ですからこの主のために生きることによって、負債を返さなければなりません。イエズス・キリストのために生きることによって、よく使い、よく負債を返すことができるようになります。このことについて、どのようによく使ったのかについて報告しなければなりません。

【子どもの教育の使命】
では第二のポイントです。7月は子どもたちの学校の夏休みの時ですから、もちろん私たちにはおのおのいろいろな報告内容がありますが、特に今日はとりわけ子どもたちの教育について、私たちがどのような報告をしなければならないかということを黙想することを提案します。特に今日はお父さんやお母さんたちのために、あるいは将来のお父さんお母さんたちのために、黙想を提案しています。

まず第一に、子どもは天主さまからの命の贈り物です。天主は、子どもの出産と教育の力を私たちに委ねました。私たちはこれを天主の助けのもとに行わなければなりません。
天主は私たちに自然の命を伝達することと、さらに超自然の命を伝達することを委ねました。

でも、子どもの本当の目的――命の本当の目的――は、超自然の命のためです。つまり、もしもお父さんとお母さんが、子どもの生命の教育を伝えることを委ねられたとしたら、これは、子どもたちが天国に導かれるために与えられました。

では、子どもの教育、どうしたらよいのでしょうか。天国に導くためにどうしたらよいのでしょうか。子どもの教育のためには、子どものことを良く知らなければなりません。つまり、子どもの弱点や長所をよく知っている、識別する必要があります。では、弱点、長所、どんなものでしょうか。これは、自然な弱点と長所のことだけではありません。子どもは、か弱くもあり、同時に偉大な尊厳をも持っています。どういうことかというと、子どもは、自然本性に従えば、原罪の罪を負って生まれてきた罪人です。しかし、洗礼を受けることによって天主の養子となります。天主の子どもとなります。超自然の命を受けることができる、永遠の栄冠を受ける候補者となるのです。天国の聖人となることができるものすごい存在だということです。別の言葉で言いなおすと、よく私たちが聞くように、人間は性善説だ、性悪説だという二つでは説明できない存在だということです。白か黒かではなくて、さまざまな美しい色とりどりの色によって描かれている存在です。つまり人間というのは罪人でありますが、しかし天主の御血によって贖われた、そして高められた罪人だということです。

もう少し詳しく説明すると、子どもは、自然な目から見ただけでも純粋な天使ではありません。かといって、単なる動物やペットのようなものではありません。たしかに動物のような本能や能力を持っています、が、それと同時に、天使のように知性や自由意志をも持っています。そればかりではなく、 陰を持っています。どのような陰かと言いますと、原罪によって悪に傾いています。無知の傷を負っています。弱さを負っています。しかし、真理を知り、善を選ぶことができます。さらに超自然の光が、洗礼によって与えられて、洗礼の恵みによって、弱さが強められ、超自然の秩序に高められます。また天主が味わっている永遠の至福に与り、そして天国の遺産を相続する天国の世継ぎ、キリストとともに永遠の命をうけることができる共同相続者となるように召されています。子どもはこうやって究極な目的を天国に持っていて、子どもがそれにたどりつく唯一の道はイエズス・キリストだけです。

ではこのような目的を持った色とりどりにきれいに飾られた子どもたち、これは、どのような手段をもって天国に導いてあげることができるでしょうか。

子どもたちは、超自然への命へとたどり着くためにこの世に生まれてきたのですから、子どもたちのお父さんお母さんは、超自然の環境の中で生活することができるように助けてあげなければなりません。ですから愛する兄弟の皆さま、そしてお父さんとお母さんたちは、そして子どもたちがまず何よりもまずキリスト者であるということを自覚なさってください。この子どもたちのこの世での人間の人生の間、この子どもたちが考えること、話す言葉、あるいは歩み、あるいは行い、その他全ては、天主の子どもとして相応しいように、あるいは、キリスト者として天国の永遠の命を受けることにふさわしいようになるように導いてあげなければなりません。導くというのは、ラテン語で ducereと言いますが、このe-ducereということばから、education 教育と言う言葉が生まれました。

天国へと導いてあげる、これこそが本当のカトリックの教育です。そのためにはどうやって導いてあげたらよいでしょうか。

まず自然な徳を身につけるように手伝ってあげなければなりません。なぜかというと、子どもは、謙遜、従順、貞潔、剛毅などなどの徳を身につけなければなりません。徳というのは、英語でVirtueと言いますが、その徳の行為を繰り返して行えば行うほど、徳が身に付きます。そしてそれをより簡単に行うことができるようになります。人間は、徳がある生活をするように有徳の生活をするように創られています。善い行いを繰り返すことによって、より簡単に善を行うことができるばかりか、その善を行うことが楽しくなります。うれしくなります。その善を行いたくなります。こうして善徳を身につけることによって、わたしたちの生命が、人生が豊かになっていきます。

自然の徳だけではありません。超自然の徳についても同じです。超自然の徳というのには、信仰、希望、愛徳があります。これはたしかに洗礼を受けることによってその種を、芽を受けることができますが、それを繰り返し実践して、それを使って、育てていかなければなりません。信仰の知識を深めて、お祈りをして、愛徳を実践して、深めて、育てていかなければなりません。

また同時に、お父さんとお母さんは原罪を負った存在だ、ということを知らなければなりません。私たちすべてに原罪の傷がある、ということを知らなければなりません。ですから、こんなにかわいい子どもでさえも持っている悪しき傾きの芽が伸びるのをうまーく賢明に上手に防いであげて、そして同時に、天主の聖寵の助けとともに、子どもが超自然の聖徳にまた自然の善徳に育つことができるように気を配ってあげなければなりません。もちろん子どもの知性は、この世に関する知識も必要です。しかし、イエズス・キリストに対する深い知識が、公教要理の知識が必要です。祈りの実践も必要です。

お父さんとお母さんは子どもが公教要理を深く学ぶことができるように、気を配ってあげなければなりません。また、最後に、教皇ピオ十二世は、こんなことも言っています。子どもたちは知性も性格も霊的な特徴も同じではない、と指摘しています。ですから子どもたち一人ひとりの違いをよく理解してあげて、褒めたりあるいは注意してあげたりしなければならない。また、家庭と教会そして学校という三つの場所が、同じ精神で同じことを教えて子どもたちを守ってあげるのが理想的だと言われています。少なくとも家庭でやっていることと、そして、教会でのことがおんなじでなければなりません。

【良心の究明】
では良心の糾明をいたしましょう。私たちは子どもに一体何が一番重要であるのかということを、言葉と模範で示しているでしょうか?教会の教えと家での教えはぴったりと一致しているでしょうか?それとも私たちが子どもたちに伝えようとしている最も大切なものはいったい何なのでしょうか?永遠の命なのでしょうか?それともこの世の楽しみのことなのでしょうか?わたしたちが主日にいったい何を選んでいるでしょうか?「なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」これは天主の十戒の第三戒です。これは主日にわたしたちは聖伝のミサに与ることによって聖化しようと、あるいは距離があるのでどうしても与れないので、しかたがないので、ロザリオを唱えることによって主日を聖化しようとしているでしょうか?公教要理を学ぼう、あるいは子どもたちに学ばせようとしているでしょうか?それとも、主日は他のことを選ぶようにしているでしょうか?

私の知っている方は…私こんなことを聞きました…ある女の子は特別に奇跡的に大好きなミュージシャンのコンサートのチケットが当たったのだそうです。しかし、ミサに与るためにそれを棄てて犠牲にしてミサに与った。あるいは、ある家族は夜行バスに乗って夜も眠らずに何時間も揺らされてミサに与るために来た。私の知っているある中学生は――中学三年生の時からミサに与るようになったのですけれども――彼はそれまで大好きだった日曜日ごとに行っていた空手の道場を辞めてミサに与るようにしました。永遠の命にとって私たちはいったい何が大切なのでしょうか。いったい私たちは何のために生きているのでしょうか。

今日の集祷文にはこうあります。「主よ、願わくは、正しいことを考えかつ行う霊を常に我らに憐れみ深く与え給え。そは、御者なくしては、存在しえないわたしたちが、御身に従って生きるためなり。」


【警告】
ここで本当ならばわたしは、お説教を終えようとしようと思ていました。しかしルフェーブル大司教様のおっしゃっている言葉を少しだけいくつか引用することをゆるしてください。

私たちにとって聖伝のミサを選ぶということが、あるいは超自然の命を選ぶ・信仰を選ぶということがどれほど大切か、そのためにどれほど多くの司祭たちや司教様たちが命がけでそれを守ってきたかという例をいくつかあげたいと思っています。これは、ルフェーブル大司教様が挙げたことばで、警告の言葉です。

ソ連時代、モスクワの支配下にあったポーランドでさえ、――ルフェーブル大司教様によると――カトリック司祭たちは…カトリック司祭でさえも、最も重要な問題はモスクワとの決裂を避けることだったと考えていたそうです。ですから政治的な策略を彼らは第一にしてしまいました。つまり、カトリックの信仰とか霊魂の救いが最も大切だという代わりに、そして信仰のため救霊のためならば生命をもすべて犠牲にしなければならないとは考えなかった、ので、ですからクレムリンは、モスクワは、たいした抵抗も受けることなく、ポーランド国民を完璧な奴隷状態に落としめることができた、と言っています。ルフェーブル大司教様のお言葉です。
(教皇)ピオ九世は、すでに言っていました。共産党とは協力できない、と。もしもだまされて、だまされるがままになって、社会主義や共産主義の体制をつくるために、協力するならば、協力することに同意するならば、それは最後の裁きの日に大きな罰を蓄えるのみならず、その裁きの罰を待っているあいだにも、国民は現世的な利益を何ひとつ得られず、かえって苦痛と災難を加え増し増加するだけだ、と。だまされた!では遅すぎる。」と警告しています。

【模範1】
ルフェーブル大司教様は、ある主任司祭が、こんな手紙を書いたと云うことを私たちに教えてくれます。主任司祭は自分が受け持つ二つの小教区の信徒たちに次のようなお別れの手紙を出したそうです。
「×年○月○日の面会で、教区長の司教様は私に最後通牒を伝えました。」
これは神父様の教区民への手紙です。引用して読んでいます。神父様の引用を続けます。
「新しい宗教を受け入れるか拒否するかの二者選択でした。私はこれを避けて通ることが出来ません。ですから、私は自分の受けた司祭職に忠実に留まるために、永遠の教会に忠実に留まるために、・・・私は自分の意に反して、引退するように要求され強制されました。・・・私は、正にこの天主に関わる重大な問題・・・つまり永遠の聖伝のミサの問題・・・において、誠実である義務を果たしています。・・・これは、私が天主に、そして人々に特に教区の皆さまに与えなければならない忠実と愛の証拠です。この忠実と愛の証拠について、私は最後の審判の日に裁かれるでしょう。それは他方で同じ遺産を委ねられた全ての人々についても言えることです。」

【模範2】
ルフェーブル大司教様は、公開書簡の最後にこうも書いています。自分のことについてこう言っています。
「もしあなたがたが、なぜ私がこれほどにまで(聖伝のミサを守るために)粘り強い態度をとるのかと問うならば、私はこう答えましょう。私がこの地上を去るとき、天主が「お前は司教として何をした? 司教、司祭の恩寵に与ったお前は、どんな働きをしたのだ?」と私にお尋ねになられたとき、私は天主様の口から次の恐ろしい言葉を聞きたくないのです。「お前もまた、他の者たちと一緒になって、教会を破壊する手助けをしていたのではないか。」

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。私たちが自分の務めがいったい何であるか、子どもたちに信仰を伝えるために、超自然の命を伝えるためにいったい何をしなければならないか、最も大切なものは何かをよくわきまえ知り、そしてそれをよく果たすことができるようにマリア様の特別な御取り次ぎを請い求めましょう。

「会計の報告を出しなさい、もうあなたを支配人にしておくわけにはいかないから」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」マーチフォーライフ in TOKYO 2024

2024年07月17日 | お説教・霊的講話

2024年7月15日 東京 カルメル山の聖母の随意ミサ 説教

「人間の生命は天主のみがその絶対の主である」(2024年7月15日 カルメル山の聖母の随意ミサ)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

神父様、
愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2024年7月15日、「マーチフォーライフ2024年」の行事の一環としてカルメル山の聖母の随意ミサを荘厳ミサで行っています。

この世における人間の生命(いのち)は、神聖であってけっして犯すことができません。人間の生命が受精の瞬間から始まるということ、そして人間としての存在の最初の瞬間からこの生命がまもられなければならないということは、真理です。これは誰も変えることができません。この真理をカトリック教会は常に教え続けています。

【最初の瞬間から人間の生命がまもられなければならない理由】
何故なら、人間の生命は、天主だけがその絶対の主であるからです。
ほかには誰も手を付けることができません。
何故ならば、人間の生命(いのち)は、人間すべては、天主の似姿にしたがって天主の肖像によせて作られているからです。
何故ならば、人間は洗礼を受けることによって、天主の養子、子どもとなることができる高貴な存在であるからです。
人間は天主の永遠の至福の栄光の冠を受けるために、そのためにこの地上で生まれてくるのです。

【天主こそが絶対の主】
もしも創造主なる天主の存在を否定したとしたならば、もしも人間が天国での永遠の至福の生命を得るためにこの世に生きるのではないとしたならば、もしも人間のこの世における存在というのがただ偶然のものに過ぎないとしたならば、その論理的な結論は何でしょうか。
その結論は、つまり人間の生命(いのち)の価値などまったくない、です。価値がないと結論づけざるを得なくなります。

もしも天主が人間の生命(いのち)の絶対の主でないならば、天主の十戒は、社会生活において無視されるに違いありません。
もしもそうならば、天主の聖なる掟は、夫婦の生活においても無視されます。
結婚が聖なるものや、家庭生活が尊いということ、これも無視されます。聖なる家庭を築き上げるという理想が、個人主義・利己主義・エゴイズムに取って代わられるに過ぎません。
もしも超自然の生命(いのち)への希望がなくなってしまったならば、キリスト教の理想が失われてしまいます。つまり異教の理想がそれにとって代わるしかありません。言いかえると、人間は、永遠のしあわせのためではなくて、この世の快楽のためにだけ生きていることになってしまいます。

面白おかしい刹那の快楽を追求するために、自分の欲求を全て満足させるために、何が必要でしょうか。お金が必要です、権力が必要です、地位と名声が必要です。これを求めます。
自分のやりたい放題、下等な本能に従って、好きなだけ、制限もなく、ブレーキもなく楽しみたい。そうしたら邪魔者は敵になります。いったい何が邪魔者でしょうか。道徳です、天主です、掟です、家族、家庭、さらには子供たちさえも自分の楽しみの邪魔になるかもしれません。

堕胎・妊娠中絶、これはお母さんの胎内にある子供たちの命を殺害することです。
何故こんなことをしてしまうのでしょうか。こどもがこんなに大切ではないでしょうか。いや、子供が邪魔だからです。自分の健康や、快楽、評判や、キャリア、世間体などにとって邪魔だからです。
それを守るために、自分の快適な生活と言う偶像のために、小さな赤ちゃんを生け贄として人身御供として捧げているのです。自分の面白おかしい生活を、他の人間の死に基づかせているのです。自分の楽しみのほうが、子どもの命よりも絶対的な価値を持っていると主張するからです。これは確かに偶像崇拝と言えるかもしれません。

いえ、天主こそが絶対の主です。天主の掟に従うこと、永遠のいのちの救い、これこそがわたしたちにとって最優先しなければなりません。

【堕胎】
特にわたしたちはマーチ・フォー・ライフを行っていますから、カトリック教会の古代からの声を響かせなければなりません。カトリック教会は、ローマ時代、テルトゥリアンの時代から堕胎を非難してきました。古文書にそう記録されています。

つい最近の話でいえば、ヨハネ・パウロ二世も「いのちの福音」の回勅の中で何度も同じことを繰り返しています。
一つだけそれを引用します。
「キリストがペトロとその後継者たちに与えた権威によって、カトリック教会の全ての司教たちとの交わりにおいて、私はこう断言する。罪のない人間を直接に意図的に殺害することは、常に重大な非倫理的な行為である、と。この教えは、全ての人間が理性の光によってその心に発見する 書かれていない法――掟(おきて)――に基づき、聖書によって再確認され、教会の聖伝によって伝えられ、通常の普遍の教導権によって伝え続けられてきたことである。」
ヨハネ・パウロ二世の引用を終わります。【こんなことを教皇が荘厳に発言しなければならないとは、私たちは何と恐ろしい時代に生きていることでしょうか!】

四年前にはグアダルーペの聖母の祝日に、1人の枢機卿と4人の司教が共同の声明を出しました。
「カトリック教会には、中絶は絶対に拒否されなければならないという真理をはっきりと証しする義務があります。目的が手段を正当化することはできません。私たちは、今まで見たこともない最悪の大虐殺の中で生きています。世界中で何百万人もの赤ちゃんがお母さんの胎内で虐殺され、この隠された大虐殺は、中絶産業、生物医学研究、胎児技術を通じて日々続いているからです」。
(「1人の枢機卿、4人の司教が明確に教える」Catholic Family News, Dec.12, 2020.)

私たちの主イエズス・キリストは、小さな弱々しい子どもたちをご自分自身であると考えています。私たちの主のおっしゃる言葉を聞いてください。「まことにまことに私はあなたたちにいう、これらの私の最も小さな兄弟たちの一人にあなたたちがしたことは、私にしたことである。」

現代、日本では、まだ小さな赤ちゃんたちが、人間の生命が殺され続けています。日本の堕胎の数は年々少なくなっているといわれていますが、しかし、目に見えない型の別の堕胎が行われています。

たとえば、人工授精による不妊治療では、多くの受精した小さな人間が廃棄されています。不妊治療によって、一人の子どもが生まれるために多くの受精卵が凍結され、そしてついには、破棄されます。でもこれらの受精卵はすでに人間なのです。

あるいは、避妊薬は、たとえばモーニング・ピルと呼ばれているものは、受精した人間がお母さんのおなかに着床しないように、わざと妨害する堕胎のくすりなのです。

ですから、計算・統計上には上げられていなくても、それをはるかに上回るものすごい数の子どもたちがいま殺害されているということを私たちは知らなければなりません。これはなにかというと死の文化です。命を大切にしないという文化です。

たった一回の中絶であっても、これは非常に大きな犯罪です。子どもたちのいのちが、罪のない命が、守られなかった、殺害されたからです。

愛する兄弟の皆さん、どうぞカトリック教会の使命のために、生命に対する尊重の立場から、ぜひこの「生命のための行進」マーチ・フォー・ライフに参加なさってください。今日、カトリック教会とすべてのカトリック信者は、私たちの受けた教え、聖伝、そして信仰の実践を行わなければならないからです。そして私たちには、生命の大切さに対する証しを、続けていく義務があります。

現代行われていることは、ちょうどアステカでおこなわれていた人身御供のようです。しかし、マリア様はグアダルーペにお現れになって、この死の文化を「いのちの文化」に変えてくださいました。
今日わたしたちは特にカルメル山の聖母の随意ミサを捧げています。マリア様が私たちの死の文化を「いのちの文化」へと変えてくださいますように。「いのちの文化」はマリア様の御取次によっていま大きな動きとなっています。

マリア様の御取次を今日求めて、このミサを捧げていきましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】