Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

キリストはペトロに、名誉の首位権だけではなく、全教会の統治の権能を持つ首位権を与えた。この首位権は世の終末まで続く。

2024年07月16日 | お説教・霊的講話

 

2024年6月30日大阪ミサ説教

トマス小野田圭志神父 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖霊降臨後の第六主日です。
ところで昨日は使徒聖ペトロと聖パウロの祝日でした。キリストは、聖ペトロの上にご自分の唯一の教会をおたてになりました。

キリストの教会というのは、聖ペトロとその後継者を目に見える頭(かしら)としてたてられた教会で、使徒信経にもあるように、四つのしるしを持っています。つまり、一、聖、公、使徒継承の教会です。これは、愛する兄弟の皆様と私が属している教会、カトリック教会のことです。

カトリック教会は、私たちが永遠の栄光にたどり着くために必要な真理を、明確に、そして確実に、疑いもなく、誤りなく教え、そして必要な聖寵お恵みを私たちに与えることができるためにつくられた教会です。

まことのキリストの教会は、信仰と秘跡と統治における一致を保ち、そして、真理を誤りなく教え続けることができます。

いったい何故そのようなことが可能なのでしょうか? 何故ならば、まず第一に、全教会を統治し教導し教え導く至上の権限を、つまり首位権を聖ペトロに与えた、聖ペトロの上に立てたからです。天主の定めによって、このペトロの首位権を――単に、名誉上の首位権だけではなく――統治の権能を持つ首位権を、頭の上(ペトロの上)に与え、ご自分の教会を立てたからです。天主の定めによってペトロの首位権は、連綿不断の後継者――すなわち歴代のローマ教皇――を持ちます。
第二にこのペトロの後継者は、不可謬の権利を行使することができると主は定めました。

今日は、特に第一の点、キリストはペトロの上に「首位権」を与えたということについて黙想いたしましょう。

【1:キリストは約束をする:あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。】

まず第一に、イエズス様は約束されます。「あなたはペトロである。私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。」

マテオによる福音にはイエズス様が聖ペトロの上に自分の教会をたてようとする約束が記されています。イエズス様はこうおっしゃいます。「おまえはペトロ、岩(いわお)である。」そして言葉を続けてこう言います。「私はこの岩(いわお)の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。」

イエズス様はご自分の教会を堅固な岩(いわお)の上にたてられた家にたとえています。永遠の智恵であるイエズス様は、岩(いわお)の上にご自分の家をたてます。なぜかというと、「雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当るけれども、その家は倒れない。岩(いわお)の上に土台をおいてあるからである。」(マテオ7:25)

イエズス様が創立する教会は、ペトロという岩(いわお)の上にたって、地獄の門もこれにうち勝つことはありえません。地獄の門が勝てないということは、つまり、いかなる誤謬も嘘も異端も悪意の攻撃も、キリストの教会を征服することはないということです。たしかに攻撃は受けるでしょう、この世の憎しみの対象となるでしょう、しかし、キリストの教会は主のたてた構造を保ちながら、たとえ数は少なくなったとしても、必ず健康で生き生きとした部分が存在し続ける、世の終わりまで存在し続け、そして勝ち残る、という約束を受けています。

聖ペトロにはこうも約束します。
「私は天国の国の鍵をあなたに与えよう。」

人間の社会においては、団体の組織を固くし秩序を保つために必要なものは、その指導者です。指導者がどのように素晴らしいかにかかっています。教会という団体においてもまさにペトロの位置はこれにあたります。鍵というのは、所有権やあるいは主権を象徴しています。鍵を持っている人が、その家の主人であり支配者であるからです。ペトロは、そしてペトロとその後継者は、地上において目に見える全教会の最高の支配者、最高の権威者として、その鍵を委ねられました。

ペトロの役割というのは何かというと、イエズス・キリストの代理者として、教会における真の教師としてキリストの教えを授けて、教会を異端と離教の禍(わざわい)から守ることです。ペトロは、異端と離教を排斥して、信仰と、そしてペトロの聖座への忠誠における一致を保持しなければなりません。そして、キリストからゆだねられた群(むれ)を牧する使命があります。

しかもイエズス様は、さらにこうも約束します。
「あなたが地上でつなぐものはみな天でもつながれ、あなたが地上でとくものは、天でもとかれるだろう。」
これは法を制定して、解釈して、判決して、断罪し、そして赦す権利が約束されたということです。たしかに、この権能は他の使徒たちにも授与されています。マテオの18章18節に書かれています。しかし、教会の礎石(きそ)として最高の支配権が鍵の保持者である、鍵を持っているペトロに約束されているので、その他の使徒たちはすべてペトロを通じてその権能を行使しなければならなくなっています。

【2:キリストは約束を果たす:「私の小羊を牧せよ!」】

イエズス様は、確かに復活する前に御受難の前にペトロにこう約束されましたが、その約束を復活後に果たします。それは、ペトロがイエズス様に対する愛を三度宣言した時でした。その時、主はペトロに三度言われます。
「私の小羊を牧せよ!」「私の小羊を牧せよ!」「私の羊を牧せよ」――これはヨハネの福音の 21章(15-17)に書かれています。こうして、司牧の全権限を聖ペトロに委ねました。

イエズス様はかつて自分のことをよき牧者であると言われたことがありますが、イエズス様の小羊というのは、主を信じている全ての信者たちのことです。ではイエズスがわたしの羊を牧せよと言ったその羊とは誰のことでしょうか、それは使徒たち、つまり、司教たちのことです。つまりイエズス様は、ご自分の代理者としてペトロを、すべての羊と子羔(こひつじ)の牧者として任ぜられたのです。つまり信者のみならず使徒の後継者である全世界の司教たちをも指導せよ、ペトロの教導と支配を仰ぐべきものとして定めました。

このようなペトロの首位権は、使徒たちによってすべて受け入れられました。ペトロは最初に召命をうけた最初に弟子となった者ではありませんでしたが、使徒たちの名前が列挙されるときには常にペトロの名前が第一番目に挙げられています。

これは名誉だけの首位権ではありません。聖書を見ると、ペトロに教導の教え導く首位権があったということがわかります。いくつか例をあげます。これはすべてではありません。
たとえば、ユダが7:28主を裏切ったとき、ユダに代わる者を選ぶことを提案したのはペトロでした。(使徒行録1:22)
聖霊降臨の日に最初に皆の前に立って説教をしたのはペトロでした。(使徒行録2:14)
イエズスの名前によって使徒として最初の奇跡を行ったのもペトロでした。(使徒行録3:6-8)
アナニアとサフィラが使徒たちを欺いた事件がありましたが、そのとき裁判官の役割をしたのはペトロでした。(使徒行録5:3-4)
異邦人を最初に教会にうけ入れたのもペトロでした。(使徒行録11:4-17)
ペトロは、エルザレムの公会議を指導して、そして救いは全ての人類に及ぶと宣言して、論争に決着をつけ、その後異論をゆるしませんでした。(使徒行録15:5-11)

【3:ペトロの首位権は世の終末まで続く】

ではこのペトロの首位権はペトロで終わったのでしょうか、いえペトロの首位権は世の終りまで続きます。なぜかというと、キリストを信じる者たち、つまりキリストの羊と小羔(こひつじ)にとって、自分たちを狼から異端から誤謬から守り、そして豊かな牧場、一つの牧舎(まきや)に導いてくれる牧者が常に必ず必要であるからです。ですからペトロは、正当な後継者を通じて世の終りまで信徒を導き、そして教会の土台として世の終わりまでその後継者を持ち続けなければなりません。このペトロの後継者としての教皇の首位権は、教会の全歴史を通じて認められてきました。

現代にいたるまで使徒の時代から認められ続けられてきました。その例はたくさんあります。が、今回はいくつか挙げるのをゆるしてください。

たとえば、一世紀のローマ、聖ペトロが殉教しました。昨日その祝日を祝いました。その後継者は、聖リノでした。聖リノも殉教しました。その次の後継者は、聖クレトでした。聖クレトも殉教しました。その次は聖クレメンテでした。聖クレメンテ(91-100年)は第四代教皇です。その当時、エフェゾではまだキリストの最愛の弟子だった使徒聖ヨハネが生きていて、まだ存命していました。ところでちょうどまだ聖ヨハネが生きていた時代に、エフェゾのすぐ近くの町コリントで大きな信仰に関する軋轢が起こりました。大論争が起こりました。そのときにコリントの人々は、この問題を解決しなければなりませんでしたが、エフェゾのすぐ近くにいたエフェゾの聖ヨハネではなくて、ローマにいた教皇聖クレメンテの元に、問題解決を願ったのでした。
考えても見てください。聖ヨハネは、キリストと三年間生活をともにした最初に選ばれた弟子です。最後の晩餐の時にはイエズス様の胸に頭をおいてイエズス様から特別に愛された愛弟子(まなでし)です。十字架の足元に一人残った弟子です。聖ペトロはイエズス様を否んだ弟子です。聖ヨハネはマリア様を御自分の家に受け取ったその弟子です。ところが、この問題が起こったときにはコリントの人々は、聖ヨハネではなくて聖ペトロの後継者に、教皇クレメンテに、問題の解決を願ったのです。すると教皇が、聖クレメンテが、コリントの教会に書簡を送って、教会の平和を乱す者を懲らしめて、そして、不従順を戒めたのでした。何故でしょうか。なぜかというと、ローマにいるペトロの後継者こそが使徒たちの頭であって、Pater Patrum (父たちの父)つまりPapa 教皇であったからです。

これは一世紀だけのことではありません。そののちもずっとそうでした。

たとえば、聖バジリオは、聖ダマソ教皇(366-384年)に小アジアにおける憂慮すべき大論争と紛糾があるときにそのことを告げて、教皇にぜひ問題解決をお願いしますとお願いしました。そのような干渉をすることが当然であるということをいったその理由の一つに、前任者であるデオニジウス(259-269年)教皇がすでに紛争の解決のために干渉したということが例にとって聖ダマソに訴えています。

あるいは東方教会の中で最も優れていたといわれる首座司教アレキサンドリアの聖チリロ(444年死亡)は、「教皇チェレスチノは全世界の司教たちの頭である」とも言っています。

このような教父たちの引用を列挙すると、このお説教は終わりがありません。ですからこのような例をいくつか挙げることに満足してこのような結論をとりたいと思います。つまりキリストがたてた教会は使徒の時代から全教会にわたって常に現代に至るまで、ペトロとその後継者を最高の指導者として来ました。
キリスト教の全司教たちの中で、ローマの教皇司教だけが常に聖ペトロの正当な後継者として主張していて、他にはそのような主張をする者は誰もおりません。つまり、キリストの教会は、ローマの司教、教皇を頭とする教会であるということです。

【4:教皇の「限界」】

では、この教会は、聖ペトロが全権を持っていて、自分の思う通りに何でもすることができるのでしょうか。いえ、教皇様には限界があります。これについては、詳しい話はまた別の機会にすることにして、一つだけ述べることにします。

たしかに 教皇はキリストの代理者として立てられましたが、後継者として立てられたのではありません。つまり、教皇様は自分の思う通りに教会を変えることができるわけではありません。教皇は、現実を教えるためにその役割を与えられました。現実というのは、頭の中で、考えたイデオロギーではなくて、わたしたちがどう考えても変えることができないその世界のことを、現実と言います。リアリティーといいます。この現実を教えるために立てられました。

そのリアリティー――現実――というのが何かというと、天主が在(ましま)すということです。三位一体の天主がまことにまします、そして永遠の命があるということ、超自然の世界がある、お恵みがある、聖寵の世界があるということ、罪があるということ、真理というものが、私たちの避けることができない現実があるということです。天国そして地獄という現実を教えるためです。

つまり信仰という、私たちが変えることができない真理の現実を教えるために立てられました。

ですからこの現実、天主の啓示・信仰を全てにまさってイデオロギーに勝って最優先にしなければならないということを教皇は教えるために、立てられました。

たとえば現実とはどんなことかというと、天主は男と女を作ったということです。それ以外のものを作りませんでした。婚姻は一人の男と一人の女が排他的に結合することだと、それが現実です。それ以外のことはありえません。それを教えるために教皇は立てられました。ですから教皇様は、教皇様といえどもイエズス様がたてられた教会をその制度を変えることはできません。現実を、真理を変えることはできません。

ですから教皇様は、たとえ教皇様といえども、使徒信経や、ニケア公会議の信仰宣言を否定したりとか禁止したりすることはできません。

同じように、教皇様といえども、教会が二千年間行って愛し信じ実行してきた聖伝のミサを禁止することはできません。教皇様の役割は、信仰を正しく伝えることにあるからです。

【5:遷善の決心】

では最後に選善の決心をたてましょう。キリストは、わたしたちに永遠の命を与えるために、目に見える指導者を与えました。信仰の一致と秘跡の一致と統治の一致をわたしたちに確実にするために、世の終わりまで確実にするために、私たちに教皇様という特別な役割を与えてくれました。それが聖ペトロの後継者です。

キリストが聖ペトロの上にたてた教会は、いまでも続いています。ローマカトリック教会です。一、聖、公、使徒継承の教会です。そしてこの教会に、愛する兄弟の皆さんと私は所属しています。この事実は疑う余地がありません。私たちがなすべきことはただ一つです。イエズス様の聖心の真理を、そして愛のプレゼントをそのまま受け入れて感謝して讃美することです。

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。教会の母であるマリア様にお祈りしましょう。私たちが受けたこの聖心の愛のプレゼントを感謝しそして讃美するとともに、多くの方々がこの教会の懐に入ることができますように、そして永遠の命まで導かれますように、真理を知ることができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


天主のために働く支配人としての私たちの使命:私たちは所有物を善き支配人として使用しなければならない

2024年07月15日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第八の主日の説教 2024年7月14日
イヴォン・フィルベン神父(Fr Yvon Fillebeen)

このたとえ話は、天主の支配人としての私たちの使命を説明しています。私たちは、自分のものであるのが当然だと思っている所有物を持っていますが、このたとえ話は、私たちがその所有物を、支配人として、さらには善き支配人として、使用しなければならないことを教えています。

1)天主の支配人

「ある金持ちに一人の支配人がいた」。このたとえ話の背景を理解する必要があります。私たちの主の時代には、自分の土地のおかげで裕福だった金持ちがいて、土地を持つことは重要な富の源泉でした。そして、そのような財産を十分に持っていた人は、自分自身が働く必要はありませんでした。その人の土地が、その人の生活と家族のための十分な収入源であり、その人の財産の管理を担当する人、つまり支配人を雇うにも十分でした。つまり、その人は、自分の土地からの収入を受け取る以外には、何もする必要がなかったのです。支配人がその人のために働いていたのです。

 これが、このたとえ話の背景です。また、これは、私たちの人生も表すものです。天主は、この土地の所有者のようなものであり、私たちはこの支配人のようなものです。私たちは、天主の富を管理するために、天主から使命を受けました。それが、創世記に書かれていることです。天主は宇宙を創造されたあと、アダムとエワ【「エワ」とはラテン語による発音による】にこう命じられました。「天主は人間を祝福して仰せられた、『生めよ、ふえよ、地に満ちて、地を支配せよ』」(創世記1章28節)。また、次の章にはこうあります。「主なる天主は人間をとらえてエデンの園に置き、そこを耕させ、守らせられた」(創世記2章15節)。

ですから、私たちの所有物は、天主によって与えられた富だと考え、私たちは善き支配人だと考えなければなりません。

2)天主はご自分の栄光を現すために私たちの協力を望んでおられる

天主はなぜ、そのように行動されるのでしょうか。天主はなぜ、支配人として天主に協力しなければならない私たちに頼られるのでしょうか。天主はご自分だけで、すべてを行うことがおできにならなかったのでしょうか、天主はこんなに貧弱な道具に頼らざるを得なかったのでしょうか。もちろん、天主はそうせざるを得なかったのではなく、そのように行動しようと決心されたのです。天主が怠惰で働きたくなかったからではなく、その方法が私たちのためにも、天主の栄光のためにも、最善のものだったからなのです。

そうです、天主の栄光のためには、人類と協力する方が良かったのです。しかし、はっきりしていることは、いずれにせよ、天主は私たちの協力をいささかも必要とされていない、ということです。天主は完全であり、ご自身の中にすべての完全性を備えておられます。私たちは、天主のその栄光を、「内的栄光」と呼んでいます。この栄光は、私たちとは何の関係もなく、私たちがそれを変えることはできません。しかし、神学が「天主の外的栄光」と呼ぶものもあり、それは天主の栄光そのものではなく、その現れなのです。人間の協力によって、この栄光、天主の栄光の輝きは、さらに良く、さらに明白に、さらに輝くようになることが可能になるのです。天主がすべてを創造されたのは、ご自分の栄光を表明し、現すためであり、また、この現れに協力する人間に幸福をもたらすためだったのです。

ですから、もちろん、天主の栄光は私たちの行動によって変わるものではありませんが、私たちの行動が天主の栄光をさらに明白にし、輝かせ、あるいは逆に、あまり輝かなくさせているのです。例えば、欧州のキリスト教世界は、現実の欧州の国々よりも、天主の栄光をよく表しました。今ではもう、美しいゴシック建築もなく、聖トマス・アクィナスもおらず、あるのは無神論的な建築、無神論的な政府です。それによって天主ご自身が害を受けられるわけではありませんが、天主の栄光は、その地域ではもはやあまり明白ではなくなっています。それは、その外的な栄光にとって悲しいことですが、祖先よりもずっと暗い時代を生きているこれらの国の人々にとっては、さらにずっと悲しいことです。

しかし、どうすれば私たちは天主の善き支配人になれるのでしょうか。それが、このたとえ話の教えです。

3)善き支配人は物質的な富を霊的な目的で使用する

善き支配人と悪しき支配人がいて、使命を果たす支配人と果たさない支配人がいます。私たちのミサの福音の支配人は、その両方です。たとえ話の冒頭では、彼は後者に当てはまります。彼は主人の財産を「使い込んでいた」。彼は主人の財産を自分の楽しみのために、物質主義的な生き方のために使っていたのです。天主のことをまったく考慮せずに生きている人々や国々も同じです。彼らは、天主によって与えられた富を、ただ自分の好きなように使っています。私たちも、しばしばそのような状況に陥り、何も考慮せずに自分の楽しみのためだけに財産を使っているのです。

そしてこの人は、裁きが迫っていることを理解したため、突然行動を変えました。「おまえの会計の報告を出せ」。私たちは皆、悪しき支配人も善き支配人も裁かれるのです。この人はそのことを理解し、善き支配人になりました。この人は今、何をしようとしているところでしょうか。

この人は行動を改め、今では主人の財産を使って他人の負債を減らしています。それは、霊的な目的のため、つまり善を行うため、他人を助けるため、という意味です。そして主人は、それを喜びました。「主人は、この不正な支配人を褒めた」。天主は、私たちが託された富を霊的な目的のために使うとき、たとえその富がある程度減少したとしても、喜んでくださいます。物質的な富を霊的な目的のために使う人、それが善き支配人なのです。

天主は、多かれ少なかれ私たちの状況に応じて、物質的な財産を私たちに託されましたが、それは、純粋に物質主義的に使うためではなく、霊的な目的のために使うためです。その条件で、私たちは天主の支配人としての仕事を果たし、天主に協力し、天主の栄光を現すのです。逆に、純粋に物質主義的に使用すれば、天主の栄光の光はさえぎられるのです。

私たちは、本当に物質主義的な社会にいるため、自分の財産をどのように使うかを識別しなければなりません。それは、本当に霊的な目的のためだろうか、と。


真の喜び、多様な多くの喜び、永遠の喜び、境界も限界もない喜びである至福直観がえられる、真の故郷にたどり着きたいと願望する:天主にお会いしたい!

2024年07月15日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第七の主日 ― 永遠の至福(2024年、大宮および大阪)

ワリエ神父 2024年7月7日

「罪の払う報酬は死である。しかし、天主の賜物は、われらの主キリスト・イエズスにおける永遠の命である」(書簡より)。
「子らよ、来て、私の言うことを聞け。私は、[子として]主をおそれることを、あなたたちに教えよう。主を見つめよ、そうすればあなたたちは喜びで輝き、あなたたちの顔は恥で赤らむことはないであろう」(昇階誦より)。
「すべての民よ、手を打って、天主に喜びの叫びを上げよ」(アレルヤ誦より)。

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親愛なる兄弟の皆さま、

至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱きますが、それは次の三つの理由からです。

1.真の喜びという理由からです。「あなたたちは見るであろう。そうすれば、あなたたちの心は、甘く楽しい光のゆえに喜ぶであろう」(イザヤ書より)

聖母を見た後の聖ベルナデッタや、ラ・サレットのメラニーの例を挙げてみましょう。それはまるで、一目で恋に落ちるようなものでした。

2.(至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱くのは、)多様あるいは多くの喜びからです。「そのとき、おまえは見て、豊かになり、おまえの心は高鳴り、数々の海がおまえに集まるとき、お前の心はひろがるであろう」(イザヤ書より)。

なぜなら、「私たちは天主をそのまま見る」【ヨハネ第一書3章2節】のであり、天主はすべての人にとってすべてのものとなられるからです。実際、天主は、「知性」に対しては満ちる光となられ、「意志」に対しては豊かな喜びとなられ、「記憶」に対しては継続する永遠となられるのです。

美を観想することは、絵画、建物、自然、物理的な美、道徳的な美など、実に多様です。

3.(至福直観のことを思うと、私たちは、真の故郷に到達したいという願いを抱くのは、)私たちがそこに到着したときに私たちを待っている喜びが永遠であるからです。「しもべたちは天主に仕え、天主の御顔を仰ぎ、天主とともに永遠に君臨する」(黙示録より)。

ここ地上では、私たちは、愛や繁栄…が永遠に続くという地上の楽園を夢見ます。

天国では、至福の人々は、永遠に幸福を享受することが完全に保証されています。天国のすべての聖人の霊魂を満たす思いは、何と魅惑的なことでしょうか。彼らの幸福を妨げるものは何一つないのです。永遠に、一瞬たりとも!

私たちは、永遠について、【それが何であるという】肯定的な考えを抱くことはできませんが、【何でないという】否定的な考えと呼ばれる考えを持つことはできます。永遠とは、海のように私たちの前に広がる持続する期間ですが、境界も限界もないのです。

天主の創造物を見てみましょう。

地球から月までの距離は約385,000キロです。
地球から太陽までの距離:約1億5千万キロ(地球から月の395倍以上)です。
地球から火星までの距離:約1億7500万キロです。
太陽や火星に到達するには何年もかかります。私たちは、これらの計算に驚きます。数には限界があり、宇宙には限界があります。しかし、永遠には限界がありません。

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黙示録で、聖ヨハネはこう述べています。「それから私は新しい天と地を見た。最初の天と地は過ぎ去り、海ももうない。私は、聖なる町、新しいエルサレムが、花婿のために装った花嫁のように整えられ、天主のみもとから天より下るのを見た。そのとき私は、玉座から出る大声がこう言うのを聞いた。『見よ、人とともにある天主の家がこれである。天主は、人の天主として、人とともに住まわれる。人は天主の民となり、天主ご自身が人とともにいて、人の目から涙をことごとくぬぐわれる。死はもうなく、悲しみも叫びも苦労もなくなる。最初のものが過ぎ去ったからである』」。

「父よ、あなたが私に与え給うた人々が、私のいる所に、私とともにいることを望みます。それは、あなたが私に与え給うた栄光を、彼らに見せるためであります」(聖ヨハネ福音書より)。

親愛なる兄弟の皆さま、

アヴィラの聖テレジアは、幼い子どもだったときすでに、「天主にお会いしたい」というただ一つの願いしか持っていませんでした。

聖アウグスティヌスはこう宣言します。「すべての顔が太陽のように輝くとき、聖人たちの喜びはいかに大きいことだろうか![シナイ山から下りてきたモイゼのことを考えよ!] 主が、御父の王国でご自分の民を調べ始められ、各人の功績に応じて、約束された報いを与えられるときである。主が、ご自分の聖人たちを御父の栄光の幻視へと導き、その聖人たちに天の住まいにあるそれぞれの場所を割り当てられるとき、ああ、実に、それは至高の幸福であろう。天主が永遠に、彼ら全員にとっての、すべてにおけるすべてとなられるのだから」。アーメン。


天主のあわれみを得るための条件:悔い改めを促し罪を放棄させること?それとも、罪深い状況の中で安心させ慰めること?

2024年07月06日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第六の主日 ― 真のあわれみと偽りのあわれみ

ワリエ神父 2024年6月30日

「Misereor super turbam」――「私は群衆があわれでならぬ」【マルコ8章2節】。

あわれみを意味するラテン語の言葉は、「MISERI/CORDIA」、つまり、「みじめさ」と「心」という二つの単語に由来します。これは、他人のみじめさを心からあわれむことです。
私たちは天主のあわれみについてよく耳にします。「天主のあわれみ」という表現はどこにでもあります。

しかし、私たちはそれを正しく理解しているでしょうか。

エリヒ・プリープケは、有罪判決を受けた第二次世界大戦のナチス戦犯で、335人のイタリア民間人の死に責任があり、また自らが二人を射殺したことを認めていました。
しかし、彼はカトリックに改宗し、自分の罪を告白してそれを後悔し、牢獄でその罪を償いました。
2013年10月、彼は秘跡を受けた後に亡くなりました。
バチカンは、彼の葬儀を、いかなるカトリック教会でも執り行うことを禁ずるという前例のない措置を発表しました。

その数カ月前、教皇フランシスコは同性愛者について語り、こう宣言していました。「わたしが裁くことなど、できるでしょうか」。

それにもかかわらず、一人の悔い改めた戦犯はカトリックの葬儀を拒否されました。
聖ピオ十世会は、メディアからの攻撃にもかかわらず、彼の葬儀を挙行しました。

あわれみについてずいぶん多くのことを語る教皇と、あわれみのわざの一つである「死者を葬ること」を行った聖ピオ十世会とでは、どちらが真にあわれみ深かったのでしょうか。

教皇フランシスコは、常にあわれみについて語っています。しかし、教会はこれまであわれみを、そのように理解したことは決してありませんでした。そのことについて、私たちの総長は以下の一節で説明しています。」

「あわれみは、もはや、悔い改めた罪人を両手を広げて迎え入れ、その罪人を再生させ、成聖の恩寵の生活に戻すという、愛の天主の対応ではありません。あわれみは、今や、現代人の緊急の要請を満たすために必要となった、運命的なあわれみとなってしまったのです。それ以来、人は、自然法さえも尊重することができないと見なされ、そのため、このようなあわれみを受ける厳格な権利を持つこととされるのです。そのあわれみとは、もはや歴史を支配せず、自らを歴史に適応させるような天主からの、見下した恩赦のようなものになってしまっているのです。」

「(教会が)聖体拝領について、現代人が耐え難い不寛容とみなす、以前と同じ条件をもはや人に課すことができないとすれば、この論理に従うならば、唯一の現実的かつ真にキリスト教的な対処法は、この状況に適応して、聖体拝領の必要条件を再定義することになってしまうのです。カトリック信者は今、この世の道徳を採用するか、あるいは、少なくとも場合に応じて、離婚して「再婚した」カップル、そして同性カップルさえも含む現在の道徳に、道徳律を適応させることとされているのです。
このようにして、危機に瀕した霊魂は、自分の信仰の中で、励まされ、強められる代わりに、自らの罪深い状況の中で、安心させられ、慰められているのです。そうすることで、信仰の守護者は、自然の秩序さえ廃止してしまうのです。つまり、まったく何も残らないのです」(パリャラーニ神父)。

教皇フランシスコのインタビュー本「神の名はいつくしみ」(The Name of God is Mercy)を読むと、雄弁な沈黙がいくつかあるのが衝撃的です。以下のことには、一言も触れていないのです。

  • 悔悛者には、罪の償いが必要であること。
  • 聖年の贖宥で、有限の罰が赦されること。
  • 罪の機会に近づくのを避けること。
  • 死の時、天主の審判を受けること。

悔悛の秘跡のあわれみについてこれほど頻繁に扱っている本ならば、悔悛者の義務について、特に行動を改めるという固い決心の必要性や、あるいはキリストのいくつかの厳しい発言を思い起こさせることによって、厳格さに欠ける解釈を排除するような境界線についての明確な説明があることを、読者は期待していたことでしょう。

(教皇がよく使う)ユダの例を見てみましょう。ユダはただ自分を恥じていただけで、天主に対して罪を犯したことを、超自然的に悔いていたわけではありません。

悔い改めた罪人であることが、天主のあわれみを得るための条件なのです。

教皇フランシスコのあわれみの概念は、行動を改める、あるいは痛悔するという固い決心とは関係なく、赦しを得るためには信仰のみが必要だとする、プロテスタントのあわれみの概念に似ています。したがって、このインタビューを読むと、自分が罪人であることを認める人のうち、いったい誰が地獄に落ち得るのか、私たちには分かりません。ちなみに、地獄については、明示的にも暗黙にも、まったく言及されていません。(フランソワ=マリー・ショタール神父)

「もう罪を犯すな」と、キリストは福音書の中で繰り返し言われました。
ですから、私たちは痛悔の祈りでこう唱えるのです。「われ、聖寵の助けをもって、わが罪を告白し、償いをなし、生活を改めんと決心し奉る」【公教会祈祷文では、「われ、聖寵の助けをもって今より心を改め、再び罪を犯して、御心に背くことあるまじと決心し奉る」】。

福音書中の崇高な場面(例えば、姦淫の女や放蕩息子など)での救い主の無限のあわれみを強調することは重要ですが、他のすべてのより厳格な箇所を体系的に無視することは、罪や贖い、したがってさらにはあわれみについての教理において、バランスを欠いたものになってしまいます。

童貞聖マリアは、「あわれみの御母」と呼ばれています。聖母のあわれみ深い厳しさを見てください!
悔い改めの重要性について、ルルド、ポンマン、ファチマで聖母がしばしば繰り返された訴え。
・ファチマで子どもたちに示された地獄の幻視。
このすべては、「われらを地獄の火より守る」という天主のあわれみ深い計画の一部なのです。

ですから、親愛なる兄弟の皆さま、謙遜と熱意をもって、御血の連祷の次の祈りを繰り返しましょう。

われらの救霊の代価なるキリストの御血、われらを救い給え。
罪の赦しの条件なるキリストの御血、われらを救い給え。
悔い改むるものの希望なるキリストの御血、われらを救い給え。

世の罪を除き給う天主の小羊、主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらをあわれみ給え。


聖霊降臨後第五の主日のミサ:天主への愛、すべてにおいてすべてにまさって天主を愛する。心を一つにして、互いにあわれみを示す。

2024年07月06日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第五の主日 ― 今日のミサにおける「愛」

ワリエ神父 2024年6月23日

今日のミサの中で、母なる教会は、キリスト教の徳の中で最も尊いものである愛――天主への愛と隣人への愛――を育み、大切にするよう私たちに勧めています。

この私たちの兄弟に対する愛の土台は、天主への愛です。

ですから、集祷文の中で、私たちはこう祈ります。「天主が私たちの心にこの天主への愛の火を増やしてくださり、私たちがすべてにおいて、またすべてにまさって、天主を愛することができますように」。他者への愛徳は、天主への私たちの愛の現れにほかなりません。

今日の書簡の最初の言葉は、キリストのように生きる共同生活のための計画全体を示しています。「あなたたちはみな、心を一つにせよ。互いにあわれみを示せ」。

私たちが孤立した個人としてではなく、教会という大家族との交わりの中で救いを実現することが、キリストの御旨です。私たちは一つの体を形作っており、この体の肢体として、互いに助け合います。しかし、私たちが形作っているのは、カトリック教会という一つの大きな共同体だけではありません。私たちはまた、自分たちが小教区というもっと小さな単位の一部であることも感じなければなりません。そのような意識から、個人的な徳と社会的な徳の両方に対する最高の刺激が生まれ得るのです。私たちキリスト信者は、共に祈り、共に犠牲を捧げるべきであり、互いに思いやり、互いに気遣うことで、互いに啓発し合うべきです。

また書簡の中で、聖ペトロは心の中でキリストに賛美を捧げるようにと語っています。これは隣人に対する真の愛がなければ不可能なことです。実際、私たちが天主に捧げることのできる最高の賛美は、たとえ他人が私たちに危害を加えたとしても、その他人の中におられる天主を愛することです。なぜなら、私たちは皆、キリストにおいて洗礼を受けたのであり、キリストは体全体の共通のかしらであるからです。

福音の中で、キリストは隣人愛について真剣に語っておられます。キリスト教共同体では、兄弟を憎むことは殺人に等しいものであり、天の御父は悪意を抱く子どもからは供え物を受け取られません。

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「姦淫者や冒涜者が聖なる食卓にあずかることができるとは想像できないように、敵がいて悪意を抱く者がご聖体を受けることは不可能である。(中略)私は、すべての人がこれを聞くように、警告し、証言し、宣言する。敵がいる者には、聖なる食卓に近づかせることも、主の御体を受けさせることもあってはならない。あなたには敵がいるか。では、近づくな。あなたは近づきたいか。では、和解してから近づけ。聖なる捧げ物に触れるのは、そのあとでなければならない」。

私たちは、祭壇に捧げ物をする前に、兄弟が私たちに対して犯したすべての罪を赦さなければならないと言われています。

この愛を得る手段は、聖体拝領誦に暗示されています。「私は、一つのことを主に願い、何よりもそれを望んだ。それは、生涯、主の家に住むことである」。天主の近くに、すなわち天主の家にとどまる者は、常に天主への愛のうちに歩み、それゆえキリストにおける兄弟たちを愛するのです。

親愛なる兄弟の皆さま、天主と隣人への愛は、キリスト教に特有のものです。私たちが住んでいる異教的な環境の中で、私たちの模範を通してそれを宣べ伝えましょう。アーメン。


教会はイエズスの聖心の愛のプレゼント:確実に、正確に、疑いなく、真理を教える権威を持った組織:聖書だけでは足りない

2024年06月22日 | お説教・霊的講話

2024年6月16日 聖霊降臨後第四主日 東京10時30分ミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、先週、私たちは、イエズス様の聖心の愛の神秘について黙想しました。
今日は、イエズス様の聖心の私たちへのプレゼント、教会について、一緒に黙想いたしましょう。
イエズスの聖心は、私たちに対する愛によって、私たちが永遠の栄光にたどり着くための真理を、確実に、そして正確に間違いなく、疑いなく、教える権威を持った組織を作りました。これが、教会です。イエズス・キリストの愛する花嫁、神秘体である教会です。

【1:聖書だけで十分か?】
これについて、ある人は教会を否定しようとします。キリストの教えについて正確で十分な知識を得るには、最も優れた安全で確実な手段は聖書だというのです。聖書だけが、キリストの教えを説明する手段であって、教師であって、キリストの代理だと主張します。

でも、イエズス様は本当にそのことをお望みだったのでしょうか。イエズス・キリストは、私たちが自分の思うところに従って聖書を読みさえすれば、そしてそれを自分の思うように解釈すれば、永遠の命に到達することができると教えたのでしょうか?

いいえ、そうではありませんでした。何故かというと、まず聖書はキリストの真理を明瞭に教えていないからです。たしかに、一部の真理は平易に誰にもわかるように書かれています。例えば地獄とか。しかし、その他の部分は、曖昧で難しい表現で書かれている部分が多くあります。

天才的な頭脳を持っていた聖アウグスチヌスでさえも、長い間聖書の研究をした結果、自分が理解することができたことよりも、理解できなかったことの方が遥かに多い、と晩年に公言しています。
聖ペトロは聖書の解釈がむずかしいことについてこういいます。「聖書のどんな預言も、自分勝手に解釈してはならないことを知らなければならない。」(ペトロ後1:20)そしてその少し後に、こうも書いています。「無学な人や心の定まらない人々は、…その意味をまげて、自分自身の亡びを招いてしまう。」(ペトロ後3:16)

たしかに聖パウロはこう言います。「聖書はみな天主の霊感を受けたものであって、教えのために、いましめのために、矯め直すために、正義を教えるために、有益である」(ティモテオ後3:16)。
でも、聖書が唯一の手段である、とはいえません。

なぜでしょうか?なぜかというと、聖書は自分自身で自分こそが正真正銘の天主の御言葉だと保証することができないからです。なぜかというと、もしもそうであるならば、現在までいろいろなでてきた聖書のどの版が純粋な天主の御言葉であって、どの翻訳にあるいは写本に誤りがないと誰がわかることができるでしょうか。

またイエズス様御自身も、聖書については、お命じになっていません。
もしも聖書だけが唯一のキリストの真理を教えるための手段だったとしたならば、なぜイエズス様はご自分で聖書を書かなかったのでしょうか?聖書のどこにもイエズス様が聖書を書けと弟子たちに命じたところはありませんでした。使徒たちの中で福音を書いたのはたった二人です。聖マテオと聖ヨハネです。聖ヨハネの福音は、イエズス様の復活の60年以上も経ったあとから書かれました。そして、福音の最後にはこうも言っています。「イエズスが行われたことは、この他にも多いけれども、一つ一つ記していたら、その書かれた本を入れるためには、全世界でさえもたりないと思う。」(ヨハネ21:25)つまり聖ヨハネはイエズス様のすべてを書いたわけではなかった、というのです。使徒たちの中で 書簡を書いたのは たった五人です。もしも、キリストが使徒たちに聖書がそれほど大切だとしたならば、なぜ他の使徒たちは説教をしただけで満足したのでしょうか。使徒でなかった聖ルカは、他の人びとに書いたというよりは、多くの人々というよりは、自分の知っていた改宗者の友人に宛てて、テオフィロに宛てて、書かれたものです。

しかし聖書が書かれる以前に、新約聖書が一言も書かれていないその前に、聖ペトロは何千人もの人々に洗礼を授けて、すでに教会が成立しています。

なぜ、聖書だけでは足りないのでしょうか。なぜかというと、聖書を研究した多くの人々のなかでも、いろいろな解釈をする人々があり、それだけでは、意見の一致を見ることはまったく不可能であるからです。つい最近私は40年以上、プロテスタントの牧師を努めていた方のお見舞いに行ってきました。その方がつい最近書かれた一節には「教会史における論争は、聖書から直ちに解決を見出すことができないから起こるのである。聖書によってキリスト教が一致できるのならばどうして教会の分裂がおこるのだろうか。異端でさえ、聖書を根拠にするのである。」とあって、そして、聖書だけではだめだとおっしゃっています。そうではない…自分だけで聖書の深い意味を知る、というほど、私たちは思いあがることができません。エティオピアの女王のカンダケの高官が助祭のフィリッポに、この聖書の意味がわかるかと尋ねられて、こう答えました。「だれかが導いてくれなければ、どうしてわかりましょう」…「教えてください」(使徒行録8:31)。そうです。私たちは、誰かが教えてくださらなければ、その聖書の意味の深い意味がわからないのです。

【カトリック教会】
では、いったいどこにおいて、いったい誰に聞けば、イエズス様ご自身の権威と確実性をもって、確かに、キリストの教えを受けることができるでしょうか?イエズス様はわたしたちに何を求めていたのでしょうか。誰に聞けと言ったのでしょうか。イエズス様は私たちのために教会を残してくださいました。これがイエズスの聖心の愛のプレゼントです。

天主は人間となって、全人類にこの世の終わりまでの人々に、永遠の救いの道を教えました。霊魂の救い、これという崇高な事業をするための教え、永遠の至福に至るという崇高な真理、この真理の伝達は一冊の本ではまったくできません。キリストの愛は、私たちに、生きている、目に見える、そして教え導く母親のような組織体を通して、人類を教え導くことを良しとしました。それこそが、最適であると考えました。イエズス様はこの組織体の頭であって、その王です。イエズス様は公生活をはじめるや否や、最初にしたのはこの特別の弟子たちを作るということでした。かれらを使徒と名付けました。この使徒には十二人いますが、そのうちの一人シモン・バルヨナを選び、彼にはペトロという名前を特別につけて頭とします。イエズス様はこう言います。「私はあなたにいう。あなたはペトロである。岩(いわお)である。私はこの岩の上に、私の教会をたてよう。地獄の門もこれに勝てないだろう。私は天の国の鍵をあなたに与えよう。」(マテオ16:18)

この言葉は決定的です。イエズス様は御昇天の時、天に昇られるときには、イスカリオトのユダをのぞいた十一人の弟子たちを集めてかれらにこう言われました。「私には、天と地の一切の権力が与えられている。だからあなたたちは諸国に弟子たちをつくりにいき、聖父と聖子と聖霊との御名によって洗礼をさずけ、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ。私は、世の終わりまで、常にあなたたちとともにいる。」(マテオ28:20)と。

【カトリック教会の教導権】
ですから使徒たちはイエズス・キリストのみ教えの通り、これを実践しました。教会は、初代から永遠の救いにたどるのには何が必要であるかを教え続けました。説教し続けました。聖パウロもこういうではないでしょうか。「私はイエズス・キリストを、十字架につけられたイエズス・キリストのみを説教する。」と。

たとえば聖パウロは、聖霊降臨後直後、数千人の異邦人たち、つまりユダヤ教ではない人たちにも、洗礼を授けていました。でもその直後には問題が起こりました。福音には書かれていない問題です。「割礼を受けていないなら救いを受けることができるかできないか」という問題でした。使徒たちはエルサレムに集まって論議をして、話し合い、そして、ペトロが代表に立って言います。「聖霊と私たちは、必要なこと以外はどんな荷も(重荷も)あなたたちに負わせないほうがよいと考えました。」割礼を受ける必要はありません。(使徒行録15:28)

四世紀には アリウスという男が、おかしなことを主張したがために人々の信仰が動揺しました。彼は、キリストは天主の子ではあるが被造物で、永遠からのものではない、と言ったのです。聖書だけでは解決になりませんでした。しかし教会はニケア公会議を開催して、いや、アリウスは間違っていると、イエズス・キリストは天主御父と同じ本質をもつ、ホモウシオスである、と宣言して、アリウスは異端であると排斥されました。

実際、聖書が私たちにあたえられたのも、教会を通してでした。実は、初代、私たちが知っている聖書以外の福音あるいは書簡というものも、出現しました。中には非常に敬虔に満ちて書かれていたので『もしかしたら本物かもしれない』と『聖霊の霊感を受けて書かれたものかもしれない』と思わせるようなものもありました。しかし教会はキリストから与えられた権威をもって、聖霊の導きによって、本物の聖書正真正銘の聖書と偽物の聖書を識別しました。天主の物と人間の物を区別しました。そして新約聖書のリスト――これをカノンと言いますけど――これを発表しました。これは、教皇聖ダマススの指導のもとで行われました。つまり、新約聖書がいったいどれだというのは、教皇とまたカトリックの司教様たちによって人類に与えられたのです。言いかえるとカトリック教会が私たちに聖書というプレゼントを与えたのであって、聖書から教会が生まれたのではないということです。

【今日の福音】
今日の福音は、まさにこれを暗示しています。イエズス様は、二せきの舟があるなかでそのうちのシモン・ペトロの舟にのられます。ペトロを選ぶのです。将来イエズス・キリストがペトロを選んで、自分の教会つまり新約のノエの方舟、これにお入りにならなければ、救われることができないという箱舟を建てることを前兆しました。
そして、シモンの舟に乗って、その中から、人々にお教えになります。言葉でお教えになります。これはイエズス様が「世の終わりまで、私はあなたとともにいる」とシモン・ペトロにいったその約束でなくてなんでしょうか。
また、教えたのちに、シモンに命じて、「沖にのり出して、あみをおろして漁をせよ」といいます。これはイエズス様が「諸国に弟子をつくりにいけ、洗礼をさずけよ、教えよ」という前兆でなくて何でしょうか。
その通りにすると、あみが破れそうになるほどの大漁になります。二艘の舟が沈みそうでした。これは将来ペトロの上にたてられたカトリック教会が全世界に広がって、莫大な数の人々を救うということを暗示しています。聖ペトロの上に立ったイエズス・キリストの教会。まさにこれこそが、人類に与えられた聖心の愛のプレゼントです。聖パウロはこうも言っています。「これは真理の柱であり、基礎であり、生きる天主の教会である」(ティモテオ前3:14)と。

では最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は、天主の御母であり、またキリストの神秘体である教会の母でもあります。全ての人々が、イエズスの聖心が打ち立てた教会に入り、そして安全な救霊の港まで到達することができますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズス様の聖心の愛の神秘:忘恩の私たちにイエズスはさらなる愛を示した。それがイエズスの聖心の約束

2024年06月21日 | お説教・霊的講話

2024年6月9日(主日)イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭 東京での10時30分のミサ説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
一昨日の金曜日は、イエズス様の聖心の大祝日でした。ですから私たちは、今日、聖心の荘厳祭を祝いつつ、聖心の神秘を一緒に黙想いたしましょう。

【天主の愛】
あたかも四週間連続で、毎週のように教会は私たちに対する天主の愛を確認させようとしていたかのようです。なぜかというと、聖霊降臨の主日では、愛である聖霊が私たちに与えられたことを祝いました。またその次の三位一体の主日では、愛である聖三位一体が私たちの霊魂にお住まいである、という神秘を祝いました。そしてその次の御聖体の荘厳祭では、愛の秘蹟である御聖体が私たちに与えられてイエズス様がすっかり全てわたしたちのものになった、ということを祝いました。そして今日は、イエズス様の聖心、愛の炎で燃える聖心を祝っているからです。

天主はまさに愛です。イエズス・キリストは天主として永遠の昔から私たちを愛しておられます。今日の入祭唱はまさにこのことを歌っていました。
四つの場所が特に主の愛を明示しているといわれています。すべてが主の愛を示していますが、この四つが特にそうです。
まず、馬小屋:聖ヨハネは言います、「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。」(ヨハネ3:16)
次は十字架:聖パウロは言います、「キリストが私たちの為に死去されたことによって、天主は私たちへの愛を示された。」(ローマ5:8)
その次に御聖櫃にまします御聖体:聖ヨハネはこうも言います、「イエズスは、…この世にいるご自分の人々を愛し、限りなくかれらに愛をお示しになった。」(ヨハネ13:1)
では第四は何でしょうか。イエズスの聖心です:聖ヨハネはこうも言っています、「私がいないと、あなたたちにはなに一つできない。…父が私を愛しておられるように、私はあなたたちを愛した。私の愛にとどまれ。」(ヨハネ15:5-9)

イエズスの愛の聖心、これは天主の愛がすべて凝縮されて含まれています。この世を創造された愛、わたしたちに御言葉を告げられた啓示の愛、そしてご托身の愛、贖いの御業の愛、聖霊を渡してくださった愛、そして御聖体における愛、そしてわたしたちが天国で永遠に幸せになるその愛、すべてこの聖心に詰まっています。

【私たちの忘恩】
いったいなぜこれほどわたしたちを主は愛してくださるのでしょうか。
私たちにいったいどんないいところがあったんでしょうか。いいえ、天主は、全ての至福をお持ちのお方で、私たちを一切必要としていません。私たちがもっているものは全て主から頂いたもので、私たちが自分のものだといえるのは、罪しかありません。

ではいったいなぜ主はわたしたちをこれほどまで愛してくださるのでしょうか。それはただ単に主があまりにも良い方であり、憐れみの愛を持ちの方であるからです。わたしたちはここにして、主の愛に狂ったような聖心を垣間見ます。そのようなものを見ると私たちはどうしても、愛に、愛を以って返したいと思わざるを得ません。もしも私たちが友達から、愛を受けたら御礼をしたいと思う、それが人情です。もしもそれが友達よりももっと高貴な人から恩人からたくさんの恩を得たとしたら、もっとそう思います、御礼をしたいと。王様から、天皇陛下からもしかしたら、特別の寵愛を得たとしたら、そのような王様のためには特別に献身したい、報いたいと思って当然です。

ところが、残念ながら、天主の愛は、愛されていません。あまりにも愛されていないので、イエズス様は、ついに、フランスのパレ・ル・モニアルというところで、聖マルガリタ・マリア・アラコックという修道女にあらわれて、御自分の聖心を見せてお嘆きになりました。(1673-1675)悲痛を聞いてください。どれほど辛いかということをイエズス様はわたしたちに訴えています。
「この聖心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまなかった。愛を証するためには、いさぎよくすべてを犠牲にして燃えつくした。それなのにこの返礼として、私は、多数の人がこの愛の秘跡――つまり御聖体に対して見せる彼らの不敬と冒瀆、冷淡と軽蔑によって、忘恩以外の何ものをも受けていない。」

もしも私たちが誰かに善を施して親切をしたら、そのかわりになにもなかったとしたら、あるいは忘恩…悪口が返ってきたとしたら、いったい私はどのように思うでしょうか。

【聖心の約束】
イエズス様の聖心は、氷のようにつめたいわたしたちに愛想をつかして、当然でした。「あっそう。ならいいよ。ああおまえ何様だよ。えっ、知らんよ。」と、おっしゃって、当然です。

しかし、イエズス様はこの忘恩の私たちにさらなる愛を示してくださったのです。
それがイエズスの聖心の極み、限りない愛でした。わたしたちをも招いて、この忘恩をわたしと一緒に償ってほしいとおっしゃったのです。もしもそうしたらわたしはおまえに特別の祝福を与えると約束する、それがイエズス様の聖心の約束といわれているものです。これにはたくさんあります。祝福の約束がたとえなかったとしても、当然このような恩をわたしたちは愛するべきです。しかしわたしたちがあまりにも冷淡で忘恩で利己的なので、主はその愛のあまり、約束さえも付けてくださいました。たくさんある約束の中で今日は三つをご紹介します。

●聖心の御影が崇敬される家庭のため
一つは ほんの小さなことなんですけれども、イエズス様の御影が崇敬される家庭のためには特別の約束をされました。聖マリア・マルガリタ・アラコックの言葉を聞いてください。
「主は、御自分が聖心に満たされておられるすべての聖寵の宝を、イエズスの聖心の御影を崇敬するすべての人の心に豊かに注ぐと私に約束されました。この御影が特別の崇敬のために飾られるところはどこでも、ありとあらゆる祝福を呼び下すでしょう。」(I, 244.)また別のところではこうも言っています。
「主はすべての祝福の源ですから、この愛すべき聖心の御影が、愛され、尊ばれるために飾られるすべての場所に、主は祝福を豊かに注ぐでしょう。」(II, 296, 300, 532.)

For Homes in Which His Image is Revered
“He promised me that He will abundantly pour out all the treasures of grace with which He Himself is filled on the hearts of all who revere it (i.e. the image of the Heart of Jesus); wherever this image is displayed for particular honor, it will call down all sorts of blessings.”(I, 244.)
“Since He is the source of all blessings, He will pour them out abundantly upon all places where this image of His lovable Heart is displayed to be loved and honored.”(II, 296, 300, 532.)

●イエズスの聖心の祝日を祝う人々のために
また第二に、イエズス様の聖心の祝日を祝う人々のためにこんな約束をされました。「私は、聖体の祝日の八日後の金曜日が、私の聖心を崇敬するための特別の祝日と指定されることをおまえに求める。その日には、聖体拝領をして、荘厳な行為によって聖体に対して償いをなし、御聖体が祭壇に顕示される間に受ける冒辱(ぼうじょく)をつぐなうためである。私は、このように聖心を崇敬する人々、また聖心を崇敬させる人々に、私の聖心が天主の愛の影響を豊かに広く与えることを約束する。」(II, 103.)
また別のところでは、
「この祝日は、謙遜で誠実な心で、名誉をもって祝うすべての人にとって、救いと永遠の祝福の日である。」(II, 444, 439.)とも仰せられました。

For Those who Celebrate the Feast of the Heart of Jesus
“I ask you that the first Friday after the Octave of Corpus Christi be dedicated to a special feast to honor My Heart.... I promise you, that My Heart will expand so as to pour out abundantly the influence of its divine love on those who pay it this honor and work to promote it.”(II, 103. The promise concerns first all who institute the feast and then those who celebrate it.)
“The day of this feast is a day of salvation and eternal blessing for all who celebrate it with honor, with a humble, sincere heart.”(II, 444, 439.)

●「九つの初金曜日 」
また、最後に、今日の最後は九つの初金曜日の約束です。イエズス様の言葉を引用します。
「私の聖心の憐れみの溢れにおいて、私は、9ヶ月間連続して毎月、初金曜日――つまり月の最初の金曜日――に聖体拝領するすべての人に、最後まで堅忍する恵みを約束する。彼らは私の侮辱・面汚しとして死ぬことはなく、秘跡を受け、私の聖心は臨終の時に彼らの確かな避難所となるだろう。」

For The Practice of the “Nine First Fridays”
“In the abundance of the mercy of My Heart I promise the grace of final perseverance to all those who, during nine consecutive months, will receive Holy Communion on the first Friday of every month; they will not die in My disgrace, but will receive the Sacraments, and My Heart will be a sure shelter for them in their final hour.”

この最後のイエズス様のみ言葉を少し説明します。
最後まで堅忍する恵み、というのはわたしたちが成聖の恩寵の状態で臨終を迎えることができる、つまり天国に行くことができるという約束です。
初金の信心はたったこれだけです。毎月、月の最初の金曜日に連続して9回、聖体拝領を受けることです。これだけを条件にしました。この聖体拝領はイエズス様の聖心を敬い、約束された効果を受けたいという意向を持ってなされれば それで充分です。そしてこの意向は撤回しない限り、九か月間その時その時思い出す必要はなくて、一度そのために九か月間行うという意向を立てればそれで十分とされています。いいかえれば習慣的な意向だけで、十分だということです。そしてこの九か月の連続した聖体拝領というのは、何度でも繰り返すことができます。

【遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てましょう。昔、ローマ帝国は、非常に危機の時がありました。その時に、コンスタンティヌスという軍人に十字架のしるしを見せて、そしてこうそこには書かれていました。
In Hoc Signo Vinces! この印によって勝て!これによって勝利をおさめろ!
彼はローマ皇帝となってキリスト教に自由を与えます。キリスト教は迫害を終えました。

現代、イエズス様は、聖心のしるしをもって勝て!悪魔に勝て!罪に勝て!天国に入れ!と、招いておられます。この聖心の御影(ごえい)を このこれがどれほど愛と尊敬と名誉と崇敬と信頼との対象であるかということを、イエズス様は望まれておられます。この聖心の御影は天主御父の正義の怒りを宥めるに非常に効果があるからです。

では私たちは遷善の決心をして、イエズス様の聖心の御影を家に飾り、そしてこれを愛し、崇敬することにいたしましょう。もしもまだ飾られていない家庭がありましたら、ぜひ、この六月に飾るのはいかがでしょうか。イエズス様がそのような家庭にどれほど大きな恵みをもたらしてくださることでしょうか。

また第二にイエズス様の聖心の祝日は年に一回だけです。この前の金曜日だけです。しかし、初金曜日には、教会はこれと同じミサを随意ミサとして捧げることを許しています。このミサに与ることによってわたしたちは同じ効果を受けることができます。そうすることによって、初金のミサに与ることによって、「救いと永遠の祝福の日」とすることができます。しかも9ヵ月間連続して御聖体拝領をするならば、聖心は永遠の救いをわたしたちに約束さえしてくださっています。

わたしたちが最後の審判の時に、あるいは私審判の時に、主から何と言われるでしょうか。忠実な僕よ、さあこの世の初めからお前たちのために準備された永遠の国に入れ。といわれるのでしょうか。それとも、イエズス様は、お前は私が家に入った時にも足を水で洗ってもくれなかったし、髪を洗ってもくれなかったし、何もしてくれなかった。と、仰るのでしょうか。

マリア様はイエズスの聖心を最も愛されました。汚れなき御心をもって愛されました。ですから最後に、マリア様にイエズスの聖心を愛する恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


イエズスの聖心は聖母を御父のつぎにすべての天使たちや人間に勝ってお愛しされた

2024年06月20日 | お説教・霊的講話

2024年6月8日(土)東京 御聖体降福式での黙想

昨日はイエズスの聖心の祝日でした。
愛熱の燃えるかまどである聖心の愛を黙想しましょう。
イエズスの聖心は、マリア様を、御父のつぎに、すべての天使たちや人間に勝って、お愛しされました。
イエズスの聖心は、マリア様のためには、人類のすべてを覆っていた原罪の法則を特別に免除されました。
イエズスの聖心はすべての被造物のなかから聖母の霊魂を選ばれました。マリア様は天主の御母に選ばれました。
イエズス様が御住みになる生ける御聖櫃となるにふさわしいマリア様は、いつもイエズス様への愛に燃えていました。「心を尽くし力を尽くし霊魂を尽くし精神を尽くしすべてを超えて天主を愛する」、この掟を完璧に守ろうと、聖母は生涯これを貫き通しました。
天主の御子の聖心は、マリア様の子どもとなることをお望みになったのみならず、マリア様と一緒に三十年間一緒にご生活されることを望みました。あたかもマリア様のために、地上に天国を運んできたかのようです。
天主の御子は、マリア様の命令に従順に従いました。

イエズスの聖心の愛を見て、聖母はイエズスを愛します。
マリア様は、ご自分が天主から心から愛されていることをよく御存じで、天主の愛を、愛で返答しようとされました。
マリア様の御心に燃える愛の火は、イエズス様の聖心にある燃える愛の火と、まったく一心同体であったのです。
マリア様の御心は、イエズスの聖心の愛を持って、天主御父の栄光と霊魂の救いのために、愛の炎を轟々(ごうごう)と燃やしておられました。

イエズス様の聖心は、わたしたちをも愛しておられます。
マリア様のご胎内には一度だけお孕(やど)りになりましたが、御聖体拝領によってわたしたちの心には何度も本当にいらっしゃろうとされます。
マリア様は一度無原罪の御孕(やど)りによって原罪の汚れなくすべての罪・汚れなく孕(やど)られましたが、わたしたちも洗礼の秘跡で罪と罰を赦されました。しかも告解の秘跡を何度も何度も繰り返そうとされます。罪の赦しを与えようとされます。
マリア様は三十年間イエズス様と生活を共にしましたが、イエズス様は御聖櫃のうちに留まることによって、わたしたちと世の終わりまで、生活を共にされるのです。
マリアさまは、イエズス様の聖心から愛されていることをよく御存じです。すべてを愛によって返そうとします。残念ながら私たちは、愛されていることを知ろうともせず、あるいは知っていてもあまりにも冷淡な心で、それに返答していません。
マリア様は、イエズス様をお愛しするがあまり十字架の下(もと)まで立ち留まりましたが、わたしたちは十字架を避けようとします。
マリア様は、イエズス様をお喜ばせするために罪を一切犯しませんでした、全てに超えて天主をお愛しなさいましたが、残念ながらわたしたちはいつも自分ばかり愛しています………。

しかし、イエズス様は、わたしたちの弱さをよく御存じでしたので、わたしたちにマリア様をくださいました。汚れなき御心をわたしたちにくださいました。
ですからわたしたちの足りないところはマリア様が補ってくださるようにしてくださいました。
イエズス様の聖心の愛に感謝いたしましょう。


イエズスの聖心の嘆きを聞いてください。聖心をお慰めしなければなりません。

2024年06月10日 | お説教・霊的講話

2024年6月7日東京 イエズスの聖心の大祝日のミサ

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日はイエズスの至聖なる聖心の祝日です。天主なる主が、その御稜威を愛をもって座したもう玉座のみ前に跪(ひざまず)き礼拝いたしましょう。

イエズス様の聖心は、十七世紀(1673-1675)にフランスのパレ・ル・モニアルという修道院で、聖女マルガリタ・マリア・アラコックに御自分の聖心をお見せになってこう言われました。イエズス様の言葉を引用します。
「この聖心を見よ。この心は人々を愛して何ものをも惜しまず、愛を証するためには、いさぎよく万事を犠牲にして燃えつくした。それなのにこの返礼として、私は、多数の人がこの愛の秘跡――すなわち御聖体に対して見せる彼らの不敬と冒瀆、冷淡と軽蔑によって、忘恩以外の何ものも受けていない。しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が、私をそのように取り扱うことだ。」

イエズス様は言葉を続けてこう仰います。
「だから、私は、御聖体の祝日の八日目の後の金曜日が――つまり今日です――私の聖心を崇敬するための特別の祝日とされることをおまえに求める。その日には、聖体拝領をして、荘厳な行為によって御聖体に対して償いをして、御聖体が祭壇に顕示される間に受ける冒涜をつぐなうためである。私は、このように聖心を崇敬し、また聖心を崇敬させる人々に、私の聖心の恵みが広く与えられることを約束する。」

そこで、教会の望みによって、今日聖心の祝日が制定されました。そして今日、皆さんと一緒にミサの後に御聖体降福式を行いたいと思います。そうすることによって、イエズス様の聖心のお望みの通り、聖心に対してなされる冒涜・冒辱(ぼうじょく)また御聖体に対してなされる忘恩、これを皆さんと一緒に償いたいと思います。

イエズス様は、わたしたちに対する愛を証しするために、証明するために、何も惜しみませんでした。すべてを犠牲にしました。その極みが御聖体の秘跡です。すべてを与えてくださったにもかかわらず、わたしたちはなぜ主に対する感謝をすることができないのでしょうか。
私たちは最少限・最低限を満たすだけでなく、すすんでそれ以上のことをすべきではないでしょうか。すべてを捧げて、すべてを捨てることほど、幸福であることをわたしたちはどうして知ろうとしないのでしょうか。

何故かというと、本当のしあわせというのは、愛する方のために全てを与えて、何ものをも惜しまないところにあるからです。イエズス様はまさにご生涯を通じて、わたしたちを愛するがために、天主御父を愛するがために、ご自分を無とされました。十字架の上においてご自分を極限まで無にされました。そしてご聖体の中においては、まさにパンとなって、ご自分をすべて、御父と、私たちの救霊のために、お捧げになっています。この極みのない限りのない愛に対する感謝として、私たちは当然、感謝と奉献とそして礼拝を尽くして、主の愛に報いようとすることをして、あまりにも当然です。

わたしたちがもしもご聖体の愛と祝福を理解するならばするほど、わたしたちはどうしてもご聖体を讃美したい、御聖体を礼拝したいと、思わざるを得ません。ですからわたしたちはどうしても聖体降福式に与りたい、御聖体をなるべく荘厳に礼拝したいと、思わざるを得ません。それはわたしたちにとってこのうえのない慰めとなります。なぜかというと、こうすることによって、私たちは主に感謝の負債を感謝の義務を果たすことができるようになるからです。

考えても見てください。わたしたちのために何をも惜しまなかった主と、主のために努力や苦しむことを恐れているわたしたち、どれほど大きな違いがあることでしょうか。
イエズス様は、わたしたちにこう訴えます。「多くの人々」が主に忘恩で返礼していると。
イエズス様はいいます、不敬と冒涜、冷淡と軽蔑を受けていると。

「冷淡」というのは、御聖体に関する無関心、愛のなさです。どうでもいいよという態度です。
「軽蔑」というのは、さらにこれよりもひどいことです。御聖体を軽んじることです。御聖体をそんなにありがたがらなくていいんじゃないの、という態度です。
「不敬」というのは、御聖体の前で、礼拝や感謝や賛美することをしないことです。
「冒涜」というのは、さらに御聖体を侵すことです。たとえば手による聖体拝領、あるいは罪の状態での涜聖の聖体拝領などです。

イエズス様は言います。「これらのことは、受難の時に感じたすべての苦しみよりももっと大きな苦しみだ」と。このことを聞いて、私たちはそのまま冷たい心でいることができるでしょうか?
私たちは、不敬のかわりに「敬意」を、冒涜のかわりにこころのこもった「礼拝」を、冷淡の代わりに「熱烈な愛」を、軽蔑の代わりに「賛美」「感謝」をお捧げしたいと思います。
特に新しいミサで主が受けている冒涜を、冷淡を償いましょう。

イエズス様はこうも仰いました。
「しかも、私がもっとも敏感に感じるのは、私に捧げられた聖職者たちの心が、私をそのように取り扱うことだ。」
今日、御聖体降福式で、特に新しいミサで受ける冒涜を償うことにいたしましょう。

【秋田の聖母の要求】
秋田のマリア様の言葉を最後に聞いてください。特に日本にいるわたしたちにマリア様は直々に天から来られてこう訴えられました、「今、御子と共に、御父の御怒りを宥める霊魂を求めております。御父の怒りの手を何とか抑えようとしています。犠牲の霊魂が必要です。祈りと犠牲を捧げて下さい。」
マリア様は涙をこめて訴えます、「先程も申しましたように、御父はこの地上を、ノアの洪水よりも更に恐ろしい罰で罰しようとしています、この世の罪の為に。もしこれ以上人類が罪を犯し続けるならば、罪の赦しが無くなってしまうでしょう。」
「教会の祭壇は荒らされるでしょう。枢機卿と枢機卿は対立し合うでしょう。司教と司教は対立するでしょう。私に聖別された霊魂は失われるでしょう。私を敬う司祭たちは軽蔑されるでしょう。」
いったい何のために何について枢機卿たちは対立するのでしょうか。御聖体をどのように敬うか、聖伝のミサを捧げ続けるか、捧げ続けないか、これではないでしょうか。

21世紀の私たちは、目を覚まさなければなりません。わたしたちはいま危機の時代におります。御聖体を礼拝し、大切にし続けなければなりません。
イエズスの聖心をお慰めしなければなりません。聖心の嘆きを聞いてください。
聖母の涙の訴えを聞いてください。

【遷善の決心】
今日、初金でもあります。イエズスの聖心の初金です。ですからわたしたちは今日遷善の決心を立てましょう。
初金の信心を行って、そして九か月間、月の最初の金曜日にミサに与り、御聖体拝領をし、そして御聖体降福式をして、イエズスの聖心をお慰めする。そして罪を償う。そしてわたしたちのできる最も最高の讃美と感謝をイエズスの聖心にお捧げしよう、という良い決心を立てましょう。マリア様はわたしたちをみてどれほどお喜びになることでしょうか。
今日わたしたちはイエズスの聖心を讃美しつつこの決心をお捧げいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「愛である」天主は人々から愛されていません。「愛である」天主をまことに愛しましょう

2024年06月05日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第二の主日 ― ご聖体にまします天主への愛

ワリエ神父 2024年6月2日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

親愛なる兄弟の皆さま、

アッシジの聖フランシスコは、イエズスがこの世のために命を捧げられたその愛を体験できるようにと天主に願いました。聖フランシスコが十字架刑について観想したとき、「愛が愛されていない」と嘆いて泣いたものでした。13世紀、アッシジの聖フランシスコはカトリック信者に囲まれていました。今日も同様に、「愛である」天主は、カトリック信者にもカトリック信者でない人にも愛されていません。

そうです、私たちはカトリック信者として、ご聖体への信仰を持っています。言い換えれば、私たちは、ミサのいけにえの間、私たちの主がご聖体に本当に現存しておられ、そして聖体拝領のときに私たちは主をお受けしている、と信じています。私たちの主が「これは私の体である」、また「私は命のパンである。私が世の命のために与えるパンは、私の肉である。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物である」(ヨハネ6章)と断言して言われたことを、私たちは信じています。

異教徒だけでなくプロテスタントも、私たちの主が本当に現存しておられることを信じていません。ですから、ご聖体の神秘に対する私たちの信仰は良いものであり、称賛に値するものであるのは確かです。

しかし、それで十分なのでしょうか。なぜ私たちは、私たちの主に対してしばしば冷淡なのでしょうか。私たちは、主に対する尊敬を欠いていないかもしれませんが、主が私たちに求めておられるのは尊敬だけでしょうか、それとも尊敬と愛の両方でしょうか。私たちは、ただ主のしもべにすぎないのでしょうか、それとも主のしもべであると同時に主が愛される子どもなのでしょうか。「愛が愛されていない」。私たちは、少し、(祭壇の上にあるような)聖人の遺物を扱うように、主を扱っているのです。聖遺物とはラテン語でいわゆる「遺物」を意味し、通常は聖人の衣服か骨です。私たちは聖遺物を敬い、接吻したり、香をたいたりします。聖遺物は私たちのために恩寵や奇跡さえ、もたらしてくれるかもしれませんが、聖人たちは天にいるのであって、ここ地上にはいないという意味で、言ってみれば、これらは死んだもの、あるいは、静物です。ご聖体は単なる聖遺物でしょうか。そうではありません! 私たちの主は生きておられ、私たちの間に住んでおられます! 私たちの主は、二千年前にパレスチナにおられ、今天におられるのと同じように、祭壇の上に存在しておられます。主がこの愛の秘跡をおつくりになったのは、「私たちを孤児(みなしご)にしないため」ばかりではなく、最後の晩餐での聖ヨハネのように、私たちが主の胸に憩うことができるようにするためでした。主は、私たちが「途中で倒れること」を望まない良き父のようなお方であり、そのため主は私たちに「日用の糧」を与えてくださるのです。

私たちはこのことについて真剣に考え、黙想することがあるでしょうか。私たちは天主を愛することに時間を費やしているでしょうか。まことに愛すべき天主を…。それとも、私たちの宗教は単なる形だけのものなのでしょうか。「今日は主日だ。私はミサに行く必要がある。そうしたら、するべきことを一つ終えることができる。完了だ!」

親愛なる兄弟の皆さま、ご聖体は、何かではなく何者かなのです。

ご聖体の祝日を機会に、私たちの聖体拝領の質を高めましょう。私たちの天主である「愛」と親密になるその瞬間のために、より良い準備をしましょう。

「愛である」天主をまことに愛しましょう。アーメン。


聖体行列とは、御聖体が本当にイエズス・キリストの御体であることについての論理的な結論

2024年06月04日 | お説教・霊的講話

2024年6月2日 東京 10時30分のミサ 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は聖体の荘厳祭を祝っています。
先週の木曜日は、御聖体の秘跡を祝う祝日でした。これは十三世紀に制定されて、この祝日のミサそのテキスト聖務日課のテキストは、聖トマス・アクィナスによってつくられました。特にさきほど歌われた続誦というのは内容が非常に深くとても美しいものです。そこではこう歌っていました。「おまえの出来るかぎり、それだけ大胆になれ。全ての賛美に優るお方であるがゆえに、単なる賞賛では足りない。」
そこで、聖体の秘跡を祝う祝日が制定されて、祝われてからすぐに御聖体の祝日には聖体行列を行うことが教会の古くからの聖なる習慣となっています。ですから今日は、一緒に聖体行列について黙想いたしましょう。

【典礼としての行列】
最初に典礼としての行列を垣間見ます。
旧約というのは、新約という本物を予告する影にすぎないものでした。旧約時代には、御聖体を予告するいろいろな前兆がありました。たとえばアブラハムが屠ろうとした自分の子どもイザク、あるいは大司祭メルキセデクの捧げたパンとブドウ酒、あるいは過ぎ越しの小羊、あるいは天からふったマンナ、などです。
行列についていえば、旧約時代から特にエルサレムの神殿では典礼による行列がありました。
イエズスさまが枝の主日にエルサレムに入城したときの行列も、典礼によって世界中に行われるようになりました。司祭がミサを始める時に入堂するときも、もともとは典礼による行列でした。
行列というのは、私たちが天の国を目指して歩む旅人であるということを示しています。これは旧約時代にモーゼが砂漠を聖なる土地…約束の土地まで歩いてさまよったことに前兆されています。
ですから聖トマス・アクィナスは今日の続誦ではこう歌っています。「見よ、天使達のパンを。旅人の糧となったパンを。これは正に子どもたちのパンであり、犬へ投げやってはならない。」

【聖体はイエズス・キリストの御体】
まさに天主の子どもたちの食するパン、なぜかといいますと、御聖体は三位一体の第二のペルソナ、天主の御一人子ご自身だからです。イエズスさまは、はっきりと予告されました。今日の福音にそう書いています。その予告がしるされています。「私の肉はまことの食物(たべもの)であり、私の血はまことの飲み物である。私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。私を食べる人も、私によって生きる。天からくだったパン、これは、先祖が食べてなお死んだそのようなものではない。このパンを食べる人は永遠に生きる」と。

この御聖体の予告を聞いた時、人々の態度は二つに一つでした。光を拒否するかあるいはこれを信じるかです。光を拒否した人は、立ち去りました。主は、そのときに、「ああ、私が言ったのはたとえだ。だから、象徴だ。」とは言いませんでした。そうして人々を引き留めようとはしませんでした。言い換えると、人々が、イエズス様がどのようにしてご自分の血と肉を与えるのかということは正確に理解したわけではなかったのですが、たとえ人々が人食い人種の宴会でもやるんじゃないかと思ったかもしれませんが、イエズス様は、けっして取り消しはしませんでした。一歩も譲ろうとはしませんでした。
最後の晩餐のときには、つまり最初のミサ聖祭で、使徒たちは御聖体を制定するのを見て、イエズス様がかつて言われた命のパンの意味をはっきり理解しました。聖変化の言葉によって、パンがほんとうにキリストの体となって、ブドウ酒がキリストの御血となるのだ、と理解しました。

聖パウロははっきり言っています。「私たちが祝する祝聖の杯は、キリストのおん血にあずかることではないか。私たちが裂くパンは、キリストのおん体にあずかることではないか。」(コリント前10:16)
今日の書簡にもこうあります。「ふさわしい心を持たずに、主のパンを食べ、その杯を飲む者は、主のおん体とおん血とを犯す。」と。

一世紀から教会の初代から六世紀の間だけでも、数えても、少なくとも63人の教父たちが、御聖体はまさにイエズス・キリストのほんとうの体であると断言しています。63人の名前をすべて挙げるのは時間が足りないのですが、例をあげれば、一世紀にはアンティオキアの聖イグナチオ、二世紀には殉教者聖ユスティヌス、三世紀にはオリゲネス、四世紀にはエルサレムの聖チリロ、五世紀には聖アウグスチヌス、などなどがいます。

プロテスタントの聖書の自由解釈というものが生まれるまで1500年のあいだ、教会は明確に御聖体におけるイエズス・キリストの現存を現実の存在を、その通りに理解し続け信じ続けてきました。世界はそれに対する疑いさえも聞いたことはありません。

【なぜ御聖体が制定されたのか】
なぜ御聖体が制定されたのでしょうか。聖トマス・アクィナスはこの祝日の聖体の祝日に唱えられる聖務日課のなかでこう言っています。御托身の目的は、人間天主が、つまり、天主が人間となったことの目的は、私たち人間を天主のするようにすることだ、と。聖トマス・アクィナスの言葉を引用します。
「天主の御一人子は、私たちがご自分の天主の本性の参与者となることを望んで、私たちの人間の本性を受け給うた。それは天主が人となって、人々が天主となるためである。」
【Immensa divinae largitatis beneficia exhibita populo Christiano inaestimabilem ei conferunt dignitatem. Neque enim est aut fuit aliquando tam grandis natio quae habeat deos appropinquantes sibi sicut adest nobis Deus noster. Unigenitus siquidem Dei filius, suae divinitatis volens nos esse participes, nostram naturam assumpsit ut homines deos faceret factus homo. Et hoc insuper quod de nostro assumpsit, totum nobis contulit ad salutem. Corpus namque suum pro nostra reconciliatione in ara crucis hostiam obtulit Deo patri, sanguinem suum fudit in pretium simul et lavacrum, ut redempti a miserabili servitute a peccatis omnibus mundaremur.】

天主の命を受ける、私たちの想像を絶する至福の命を受ける…このためでした。そのためにイエズス様は、ご自分の体で私たちを養おうとすることを望まれたのです。「まことに、私はいう。人の子の肉を食べずに、その血をのまなければ、あなたたちの中に命がない。私の肉を食べ、私の血をのむ者は永遠の命を有し、終りの日にその人々を私は復活させる。…このパンを食べる人は永遠に生きる。」
これがイエズス様のご計画です。

【聖体行列】
聖体行列に話を戻すと、聖体行列というのは、御聖体が本当にイエズス・キリストの御体であることについての論理的な結論です。プロテスタントの人々が「ああ、それはむずかしい話だ、誰がそんな話に耳をかせようか」と、昔イエズス様の聖体の予告のことを聞いたユダヤ人たちと同じようなことを言いだしたとき、パンはイエズス様の体の象徴だ、譬えだ、パンというものの意味が変わるのだ、などと言い出したとき、カトリック教会はノーと言いました。違う。そうじゃない。イエズス・キリストの本当の体だ。トリエント公会議、第13総会で1551年10月11日に次のように宣言しました。
「聖なる公教会は、次のように宣言する。この崇高で尊敬すべき聖体の秘跡が毎年定められたた祝日においてつまり御聖体の祝日において、特別の崇敬をもって荘厳に祝われる習慣、つまり、御聖体がうやうやしくかつ名誉ある仕方で道や公けの場所を行列で奉持される習慣は、極めて敬虔で宗教的に天主の教会に導入されたのである。全てのキリスト者たちが特別の方法で、普通のやり方ではないやり方で、彼らの心が救い主であり贖い主に対して、主が死に勝利し凱旋したことが明らかに分かる、言葉で言い尽くせない天主の恵みについて感謝していることを、そしてそれに記憶していることを証しするために聖なる日としてこの記念日を設けることは極めて合理的である。…」

もしも聖体拝領でイエズス様は、王として、私たちの心にわたしたちを祝福されるためにいらっしゃるとしたら、御聖体行列とは、イエズス様が天主として、私たちの住んでいる街を共同体を、社会を、祝福して、恵みで満たされるために、歩まれる、行幸される、巡幸行列されるということなのです。たとえこの行列を見て何も分からない人がいたとしても、主は必ずお恵みをくださいます。

ルルドで病気の人が癒されるのも、非常に多くの間、聖体行列の間、聖体の祝福を受けたときです。

【日本と御聖体】
私たちの祖国では、キリシタンの時代から特に盛んな信心が二つありました。それは御聖体への信心とマリア様への信心でした。
日本で最古のカトリックの宗教画は、マリア様と御聖体への信仰を表す「ご聖体の連祷と黙想の図」というものです。これは今でも現存しています。そこには「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」と言う言葉があります。それは、キリシタンたちの合言葉でもありました。
1627年に雲仙の拷問で熱湯の地獄に雲仙の地獄に突き落とされて殉教していった16人がいます。みな最後の言葉は「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え」でした。
国の重要文化財「天草四郎陣中旗」――これは十字軍の旗や、聖ジャンヌ・ダルクの旗とともに世界三大聖旗、聖なる旗と言われていますが――これは、「ご聖体の組」という御聖体の信心会の旗でした。ここにも同じ合言葉が書かれています。「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!」

【遷善の決心】
では最後にわたしたちは遷善の決心を立てましょう。
残念ながら新しいミサによって、カトリックの教会がいつもやり続けてきた御聖体に対する信心、そして大和魂が大切にしてきた御聖体に対する信心が、非常に軽視され、御聖体が粗末に扱われるようになってしまいました。特に手による立ったままの聖体拝領によって、人々の間には無関心冷淡が広がり、イエズス様の御聖体に対して愛の秘跡に対して忘恩と冒涜でお返ししているかのようです。今残念ながら、イエズス様は多くの場所で、無視と嘲り不信仰を受けています。ですから、すくなくとも私たちは、今日、イエズス様の愛に愛で応えて、御聖体を礼拝いたしましょう。

私たちの先祖がいつも口ずさんでいたように、「至聖なる御聖体は賛美せられさせ給え!」といつも口ずさむことができますように。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。マリア様こそイエズスさまを最初に御胎内に宿された方、わたしたちもマリア様のように、イエズス様を礼拝してそして賛美し続けることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


三位一体の神秘:いったいなぜこのような深淵な神秘を主はわたしたちに教えてくださったのか

2024年05月30日 | お説教・霊的講話

2024年5月26日 名古屋 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年5月26日、三位一体の主日です。今日、一緒に三位一体の神秘を黙想いたしましょう。
唯一の天主に三つのペルソナがまします聖父と聖子と聖霊、この神秘を黙想して、いったいなぜ私たちはこの玄義を知らなければならないのか、その意味は何なのかを黙想しましょう。最後に遷善の決心を立てましょう。

【天主は唯一なる実体】
三位一体の天主、この神秘をまず垣間見ましょう。皆さんよくご存じですけれど、もう一度黙想してみます。

わたしたちは、いまこの世に生きています。こうやって生活しています。もしもこれが嘘だと思ったら、頬を摘んでみてください。あるいは頭を引っ叩いてください。わたしたちがここにいまこうして存在しているのは確かです。嘘だと思ったらご飯を食べないでください。あるいは――壁に向かって歩いてください。頭をゴチンとぶつけたりします。……あるいはわたしたちはお腹が空いてどうしても食べねばならない……生きていることがわかります。

なぜ私たちはこうやって生きているのでしょうか。こうして私たちが生きていることの究極の原因というのは、何なのでしょうか。何がわたしたちをこうやっていま生きるようにさせたのでしょうか。その原因は何なのでしょうか。

わたしたちがいまここにいるということを説明するには、どうしても、究極の原因というものがなければなりません。そうしなければ、ここにすべてがいまここにあることが説明できないからです。この原因をずーっと究極の原因を突きとめて突きとめて突きとめて行くと、どうしても第一の原因…原因されずにただ原因する…ものがなければならない、としなければなりません。そしてわたしたちはこれを天主と呼んでいます。では、この「究極の原因」、天主と呼ばれる方はいったいどのような方なのでしょうか。これがわたしたちの問題です。

究極の原因は一です。天主というのは唯一の御方です。天主が唯一である、一(いつ)であるというときには、わたしたちが 林檎がひとつとか、柱が一本、二本というふうに数える単位としての一(いち)というよりも もっと深い意味を持っています。

それはどういうことかというと、私たちがいまこうして存在しているのは、実は天主が究極の原因として今も私たちをあらしめてくださっているからです。かといって天主はこの世の一部でもありません。部分ではありません。この世を超越したお方です。被造の世界にいかなるやり方でも、組み込まれてはいません。天主は私たちをいまあらしめて生かしてこうして動かし支えておられますけれども、この被造物をすべて超越する方で、はじめもなくおわりもない永遠の御方でいかなる変化もない方です。

なぜかというと、主は最高に完成させられた方で、そして無限の善であるからです。最高に完成させられて無限の善・最高の善ということはもうこれに並ぶものは二つとないということなのです。また、もうこれは最高の完成なのでこれ以上変わることがない、ということなのです。もしもこれが変わってしまったら、最高でもなくなるし完成でもなくなってしまうからです。ですから天主は分割されるという可能性さえもありません。天主は、この地上をこの被造をはるかに超えた聖なる方であって、分割されることができない一(いつ)なるかたであるということです。最高なので複数はありません、ただ一つしかないということです。この一なる方が、天主、最高にほんとうに一なる方です。それ以上わたしたちはもう言葉がない…そのような御方が天主です。

【三位】
ところでカトリックの教えによると、イエズス・キリストの教えによると、この唯一の天主は三つのペルソナがあると教えています。

天主が一なる方である、ということを、ラテン語の人々は、一なる実体だといっていました。ラテン語で実体というのは、substantiaです。ギリシア語ではウシア、と言います。ウシアとはどういう意味かというと「ある」という意味です。substantiaもウシアも、わたしたちが「ある」と言わなければならないものです。日本語では実体と言います。実体と物体は、言葉が似ているので、間違えないようにしてください。実体というのは必ずしも物のように目に見えるとは限りません。とにかく「ある」というものが、実体です。

確かに天主の実体、その本質、本性は唯一ですけれども、この一つの天主の本性には三つのペルソナがあります。

ペルソナというのは、ラテン語です。ギリシア語では「ヒポスタシス」といいます。この二つはどういう意味かというと、知性や意志を持った自分で存在する個別、という意味です。この天主のペルソナが三つあるというのは、御存じのとおり聖父と聖子と聖霊です。

御父というのは、唯一の天主の本質をもっている第一のペルソナです。なぜ第一のペルソナかというと、生まれずに御子を生む方であるからです。ほかの何者からもお生まれにならない方を御父と言います。そして永遠の昔からお生まれになる方を御子といいます。御父と御子とから発出する方を聖霊と言います。

御子は、御父によって「作られる」のではありません。これは異端です。御子は御父の実体から「お生まれ」になります。聖書は 特に聖ヨハネの福音は、御子のことを御言葉と言います。御子だけが、天主の本性による唯一の子“御ひとり子”です。聖ヨハネはこう言います。「天主を見た人は一人もいない。御父のふところにおいでになる御ひとり子の天主が、これをお示しになった。」(ヨハネ1:18)

なぜ「子」と呼ぶのでしょうか。なぜかというと、子を生むというのは本性を伝えるときにそういうような表現をするからです、人間が人間を生むと。でも、人間と天主では違いがあります。人間が生まれるときには子どもに親のすべてが与えられ尽くすわけではなくて、親の一部が与えられるだけです。しかし、天主は分割できないので、御父はご自分のすべてを御子に与えつくします。伝えつくします。ですから御父と御子は全く同じものを共有するのですが、しかし、違いがあります。御父は生まれないという、御子は生まれるという違いがあります、ただそれだけの区別しかありません。しかし御父と御子は、御父は御子ではありませんし、御子は御父でもありません。

聖父と聖子を一つの原理として、そこから聖霊が発出します。なぜかというと、御父と御子とは、互いに愛し合って、この愛の交流が生じるからです。聖霊は「造られる」のでもなければ、「生まれる」のでもありません。御父と御子とから「発出」します。このことを、聖霊が息吹かれる(inspiratio)ともいいます。

聖父と聖子と聖霊は、一つのペルソナではなく、一つの本性を持った三つのペルソナです。この三つのペルソナの間にはどんな違いも不平等もありません。前も後もなければ、大小の違いもありません。まったく同じ永遠、まったく同じ栄光をもっておられます。唯一の天主にこの三つのペルソナがある、いわば唯一の天主には愛し合うという愛の構造を持っている、愛による唯一の天主である、と言わざるを得ません。

これがわたしたちを愛して無から創造していま私たちを生かしてくださっている、天主の愛の昔からの――永遠の昔からの――天主の愛の命の構造です。まことの天主の神秘です。主が天主である限り、三位一体の構造をしています。三位一体以外のまことの天主はありません。この三位一体こそ、聖父と聖子と聖霊の唯一の天主こそが、わたしたちを救い 生かし愛しておられる本当の天主で、それ以外にはありません。わたしたちはこの唯一のまことの天主を礼拝して、そして知り礼拝し愛して、それに仕えているのです。

【三位一体の知識】
イエズス・キリストご自身は、私たちがこのことを知るように望んで、教えてくださいました。ヘブレオ人への手紙にはこうあります。「天主は、何度も、いろいろな方法で、昔、預言者を通じて、先祖に語られたけれど、この終わりの日には、すべてをつくられた御子を通じてわたしたちに語られた。」(ヘブレオ1:)そしてその語られたことが、秘密が、天主三位一体の命の秘密でした。

考えてもみてください、御父の懐にまします御ひとり子がわたしたちにその秘密を語ったのです。聖父と一なる御子が、できるかぎり私たちにも理解することができるように言葉をもって御業をもって昔からの閉ざされていた秘密をわたしたちに明かしてくださったのです。それを理解できるように、わたしたちに聖霊さえも送りました。

いったいなぜ、このような深淵な神秘を、主はわたしたちに教えたのでしょうか。ただ単に唯一の天主ということのみならず、“唯一の天主には三つのペルソナがあること、天主が三位一体であられる”ということを教えてくださったのでしょうか。なぜこのような高い把握しきれない神秘をわたしたちに伝える必要があったのでしょうか。なぜこれを知らせなければならなかったのでしょうか。

なぜかというと、私たちは三位一体の天主ご自身の至福に招かれているからです。天主の命に与るために創造されたからです。たとえ、わたしたちが三位一体の神秘を深く理解できなかったとしても、あるいは垣間見ることはできるけれども把握することができなかったとしても、わたしたちにはそれよりもさらに深い天主の至福に与るということのために召されているからです。

御子は、聖父の懐から来られて、御父と全く等しい天主の御言葉、御ひとり子はわたしたちのような人間となって、三位一体の神秘を教えてくださいました。主は、聖父と聖子と聖霊の御名によって人々に洗礼を授けよと命じました。わたしには全地と天と地にあるすべての権力が与えられている、行って教えよ、と。「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。」

なぜかというと、そうすることによって、わたしたちの生きているあいだにすでに、わたしたちの霊魂そして身体が、三位一体の神殿になることができるためです。三位一体がわたしたちのなかに住みそしてわたしたちが三位一体の命に与ることができるためです。

なぜでしょうか。なぜかというと、なぜそれがおのぞみかというと、わたしたちがこのあっという間に過ぎ去る地上での生命が終わったのち、この命が尽き果てたのちには、天の国に行って、まことの天主三位一体をそのままありのままに見て知りその真理と愛の交わりのなかに入ることができるためです。三位一体と同じ無限の最高度のしあわせ・最高の善を、わたしたちが受けるためです。天の遺産を天主の子どもとして受けるためです。

御ひとり子、天主御ひとり子、イエズス・キリストと同じ、そしてイエズス・キリストの兄弟になって、天主の養子となって、その三位一体の本性にあずかることができるように、わたしたちが天主のように幸せになることができるように、天主の命を生きるために、あえて三位一体の秘密をわたしたちに教えようと、できる限りのことをして教えようと、伝えようとされました。もちろん私たちの限られた言葉・限られた知性・限られたものでは、それを知り尽くすことも把握することもできません。しかし、わたしたちが将来永遠の無限のしあわせという計り知れない喜びを受けることができるようにするというためには、どうしてもこの神秘を三位一体の神秘をわたしたちに知らせて今日すでにこの地上でその命を生かす必要があったからです。

わたしたちはどれほど恵まれていることでしょうか。
御父の計り知れぬ豊かな愛に、わたしたちは、そのどれほどの愛であったかをその時に知って、感謝に絶えず、永遠に感謝してもまだ足りないと思うことでしょう。
御子イエズス・キリストがわたしたちのために人となってわたしたちが天主となることができるようにしてくださったこと、十字架の生け贄のこと、御聖体の神秘、その愛の深さにそのとき何と感謝していいかわからない、無限の時間を無限の能力でも足りないほどだと思うことでしょう。
そのとき、御父と御子から発する愛である聖霊がわたしたちに与えられたこと、御父と御子を結びつける愛のきずな聖霊、それを永遠に礼拝して、その愛をもってわたしたちは感謝することでしょう。

【遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てることにいたしましょう。
三位一体‥‥非常に深淵で深い崇高な神秘ですけれども、この本当の三位一体の天主まことの天主をわたしたちが知ることができたというお恵みを深く感謝いたしましょう。そしてわたしたちの心もからだもすでに三位一体の生ける神殿となったということ、三位一体の天主の子どもと養子相続された身分であるということを、そして特別の愛を降り注がれて溢れるばかり受けている愛される子どもであるということを、確認いたしましょう。

三位一体のほんとうのことを知れば知るほど、わたしたちはかたじけなく感謝に絶えません。主三位一体の本当の天主の愛を知れば知るほど今流行のエキュメニズムなどあまりにも欺瞞であって人を騙すものであることがわかります。

秋田のシスター笹川は、すでに迫害の夢のなかで、この三位一体の天主からわたしたちをそらすエキュメニズムについて警告をしています。(1974年6月10日月曜日)。

日本が生み出した何十万という数多くの、おそらく何百万という殉教者たちがいます。記録に残っていない殉教者も合わせればもう数を数えることができません。そのような殉教者たちは、この三位一体の天主--イエズス・キリストの教えた天主を信じて、血を流して、いま天の国にいてその喜びに入っています。この殉教者たちは、日本におけるわたしたちカトリック信者の歴史的な使命について訴えています。私たちも、同じ信仰を、同じ真理を、守り通さなければなりません。

残念ながら、多くの方々は、現代、カトリック信者であっても、わたしたちが大きな戦いの中にいるということを、それに気がついていません。そのことを知りません。「え?日本は平和ボケをしているといわれるほど平和のなかにいるんじゃないんですか?」とおっしゃるかもしれません。

いえ、わたしたちは、真理と嘘、善と悪という巨大な戦いの中にいま生きています。アダムとエワの時代から続く蛇が、わたしたちに嘘をついて騙そうとする、あるいは真理を信じるかどうかの戦いの中です。わたしたちは超自然の命をどうしても守り通さなければなりません。天の国にどうしてもたどりつかなければなりません。そのためにわたしたちのために特別に準備された永遠のしあわせのために、わたしたちはたたかいをしなければなりません。

世界中でいま多くの人々がそのことに目覚めています。とくに聖伝のカトリックの信仰は世界中で大きなうねりとなっています。特に若い人々が目覚めています。
 
ファチマのマリア様はわたしたちにこの三位一体の信仰に対する危機があるということをすでに警告されたようです。天使がまず三位一体を礼拝するようにと模範を示してくださいました。天使が額を地面につけて、「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る」、どうやって祈ればよいか教えてくださいました。あるいはファチマのマリア様は、トゥイというところで、シスター・ルチアに、三位一体のヴィジョンを示してくださいました。主がどれほどわたしたちに憐れみとそしてお恵みをくださっているかをこうして教えています。

ぜひ今日この三位一体の祝日にわたしたちの信仰を新たにいたしましょう。これ以外に天主はいません。

そしてマリア様に日本の殉教者たちに、わたしたちがこの信仰を守り通すことができるお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


ミサ全体を通じて、私たちは三位一体を繰り返し告白し礼拝する

2024年05月30日 | お説教・霊的講話

三位一体の主日―ミサにおいて

ワリエ神父 2024年5月26日

典礼は聖書の勉強の場ではありませんが、まぎれもなく「神学的場所」(locus theologicus)、つまり教義的真理の源泉です。皆さまお分かりのように、私たちは、三位一体を、ミサ全体を通じて繰り返し告白し、礼拝します。

I.十字架のしるし
唯一の天主、唯一の本性。「(天主の)御名によりて」
三つのペルソナ。「聖父と聖子と聖霊」

II.グローリア・パトリ(願わくは、聖父と聖子と聖霊とに…)
三つのペルソナ。「聖父と聖子と聖霊」

III.キリエ(主、あわれみたまえ)
キリエ―聖父
クリステ―聖子
キリエ―聖霊
同じ願い:「エレイソン―ミゼレーレ・ノビス―われらをあわれみ給え」―御稜威を三回強調します。
IV.グローリア(栄光頌)
(ルカ2章14節)→  →  →  礼拝/感謝
いと高きところには天主に栄光あれ、地上にては善意の人々に平安あれ。
われら御身をほめたたえ、御身を祝し、御身を礼拝し、御身に栄光を帰し奉る。/われら御身の偉大なる栄光のために感謝し奉る。天主なる主よ、天の王よ、全能の御父なる天主よ。
なだめ →  →  → 祈願
御独り子なる主イエズス・キリスト、天主なる主、天主の小羊、聖父の聖子よ。世の罪を除き給う御者、われらをあわれみ給え。世の罪を除き給う御者、われらの願いを聞き給え。御父の右に座し給う御者、われらをあわれみ給え。
御身は唯一の聖なる御者、唯一の主、唯一のいと高き御者、イエズス・キリストにてまします。
聖霊とともに、
聖父なる天主の栄光において。アーメン。

V.クレド(信経)
われ信ず、唯一の天主、 →  →  → 属性
全能の聖父、天と地、見えるものと見えざるもの、すべての造り主を。

また、われ信ず、唯一の主、天主の御独り子イエズス・キリストを。主はよろず世の先に聖父より生まれ、天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主、造られずして生まれ、聖父と一体なり、すべては主によりて造られたり。→   → →  御托身/贖い

主はわれら人類のため、われらの救いのために、天より下り、聖霊によりて童貞マリアより御体を受け、人となり給えり。われらのために十字架につけられ、ポンシオ・ピラトの下にて苦しみを受け、死して葬られ、聖書にありしごとく三日目によみがえり、天に昇りて聖父の右に座し、生ける人と死せる人を裁かんために再び栄光をもって来り給う。主の国は終わることなし。

  →  →  →  内的聖化
また、われ信ず、主なる聖霊、命の与え主を。聖霊は聖父と聖子より出で、聖父と聖子とともに拝み崇められ、また預言者によりて語り給えり…

VI.スシペ・サンクタ・トリニタス(聖三位一体よ、受け給え)
司祭が手を洗ったあとのこの祈りは、至聖なる三位一体に直接向けられています。

VII.サンクトゥス(聖なるかな)
イザヤ6章3節(「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主! 全地上は主の栄光に満ちあふれる」)
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな → → 万軍の天主なる主
天と地は、主の栄光に満ちあふれる。いと高きところにホザンナ。

VIII.ペル・イプスム(彼によって)
彼(すなわち私たちの主イエズス・キリスト)によって、彼とともに、彼において、
聖霊との一致において、
すべてのほまれと栄光は、永遠に、全能の聖父、御身のもの。アーメン。

IX.プラチェアト・ティビ・サンクタ・トリニタス(聖三位一体よ、嘉し給え)
最後の祝福の直前にある閉祭の祈りは、至聖なる三位一体に直接向けられています。

X.最後の祝福
全能の天主が、あなたたちを祝福し給わんことを、
聖父と、聖子と、聖霊とによりて。

今日のミサの入祭誦の美しい言葉を繰り返しましょう。「聖なる三位一体にして分かちえぬ唯一の御者、祝せられ給え。われら主に感謝し奉る、なぜなら、主はその慈しみをわれらに与え給うたからである」。

 


聖霊は「私たちにあらゆる真理を教えてくださ」り、私たちの主イエズス・キリストを通して御父に導いてくださる

2024年05月25日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨―聡明の賜物

ワリエ神父 2024年5月19日

ヨハネ14章16-17節
私は父に願おう。そうすれば、父はほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる。それは真理の霊である。

ヨハネ14章26節
弁護者、すなわち父が私の名によって送り給う聖霊は、すべてを教え、あなたたちの心に私の話したことをみな思いださせてくださるだろう。

ヨハネ16章7節
私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去ればそれを送る。

ヨハネ16章12-13節
私にはまだあなたたちに話したいことがたくさんあるが、今あなたたちはそれに耐えられぬ。だが、その方、つまり真理の霊の来るとき、霊はあなたたちにあらゆる真理を教えてくださるであろう。

私たちの主が地上におられたとき、使徒たちは「あさはか」だったのです。
  →彼らは、この世の王国と、この世のメシアを期待していました。
  →彼らは、主の御受難に関する私たちの主の預言の意味を理解することができませんでした。

聖霊降臨のとき、使徒たちは「聡明(理解)の賜物」を受けます。
聡明(理解)の賜物は、信仰の神秘についての深い洞察と鋭い直感を与えます。この賜物は、信仰の徳を完徳に至らせます。聖トマスによれば、「まさにこの世において、聡明の賜物によって霊の目が清められるとき、ある意味で、人は天主を見ることができる」(神学大全II-2部、第69問題)。

したがって、この賜物は、それを持つ人に三つの主な効果をもたらします。
1)その人は、啓示された真理について、その意味を完全に理解していなくとも、その核心にまで到達することができるようにされ、
2)啓示された天主の言葉への大きな確信を得ることによって、自分たちの信仰において固められ、
3)啓示された原理から多くの結論を引き出すことによって、さらに多くの真理を知るよう導かれます。

そこで、聖ペトロは、
→私たちの主の使命を「理解します」
(それはもう、「あなたがイスラエルに王国を復興されるのはいつですか?」ではありません。)
聖霊の影響の下で、ペトロは「あなたはキリスト、生ける天主の御子です」(マテオ16章16節)と言うことができたのです。

→預言
使徒行録2章16節 これは預言者ヨエルの言ったことである。(ヨエル2章28節)
2章17節 主はこう仰せられる。末の日になれば、私の霊をすべての人の上に注ごう。すると、おまえたちの息子たちや娘たちは預言するであろう。

使徒行録2章25節 実にダヴィドは彼について言っている。(…)(詩篇15篇10節)
2章27節 あなたは私の霊を死者の所に捨て置かず、あなたの聖なる者の腐敗するのをお許しにならぬ。

使徒行録2章34節 ダヴィドは天に昇りませんでしたが、「主は私の主に言われた。『私の右に座れ、
2章35節 私があなたの敵をあなたの足台にするまで』(詩篇109篇1節)」と言っています。

2章36節 したがって、イスラエルのすべての人は、あなたたちが十字架につけたそのイエズスを、天主が主としキリストとされたことを、しかと知らねばなりません。

私たちは洗礼のときこの賜物を受け、堅振のときにさらに多くを受けました。聖母のように、聖霊に素直になりましょう。そうすれば、聖霊は、「私たちにあらゆる真理を教えてくださ」り、私たちの主イエズス・キリストを通して御父に導いてくださるでしょう。

【この記事では聖霊の七つの賜物の一つ Intellectus (英語:understanding) の日本語の訳語として当てられている「聡明」を使っています。】


四つの救霊予定のしるし:私たちは「涙のうちに震えながら自分の救いをまっとう」しなければならない

2024年05月25日 | お説教・霊的講話

御昇天後の主日―天国― 説教

ワリエ神父 2024年5月12日

「すると、救われるのはどんな人だろう?
人にはできぬが、天主にとってはそうではない。天主にはできないことはない」(マルコ10章26b-27節)

トリエント公会議(デンツィンガー805番)は、特別な啓示がなければ、私たちはこの世において自分の救霊予定を確信することはできないと宣言しています。この特別な啓示を別にすれば、誰も自分が最後まで善い行いを貫き通すかどうかを知ることはできません。
とはいうものの、人が最後まで貫き通す一種の道徳的な確信を与える救霊予定のしるしがあります。

救霊予定のしるし

1.徳のある生活(真福八端の精神による)
「心の貧しい人は幸せである、柔和な人は幸せである、悲しむ人は幸せである、正義に飢え渇く人は幸せである、あわれみのある人は幸せである、心の清い人は幸せである、平和のために励む人は幸せである、正義のために迫害される人は幸せである。天主の国はこれらの人のものである」。

1.謙遜。
2.絶え間ない祈り。「求めよ、そうすれば与えられる」。
3.敵への愛、苦しむ者へのあわれみ。
4.天主への愛のために苦難に耐えること。
「重い十字架を忍耐強く担うことは、救霊予定の大いなるしるしである」(ガリグー・ラグランジュ)。

2.霊魂のための不屈の熱意
「一人の罪人を迷いの道から連れ戻す人は、自分の霊魂を死から救い、多くの罪を消す」(ヤコボ5章20節)。

3.ご聖体
●私たちは、救われるために、ご聖体にまします私たちの主を受けなければなりません。
「人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない」(ヨハネ6章54節)。
すべての人はご聖体を、少なくとも霊的にいただくように(すなわちこの秘跡を受ける願望あるいはあこがれを持つように)義務付けられています。なぜなら、これは、キリストに一体化されることだからです[1](神学大全III部、第80問、第11項)。

●さらに、ご聖体を、敬虔かつ頻繁に拝領することは、救霊予定のしるしです。
この秘跡は、すぐに私たちを栄光に導くのではなく、私たちに栄光に至る力を授けるのです。
これは、「旅路の糧」(Viaticum)と呼ばれ、列王記(上19章8節)に記されたことのかたどりです。「エリアは飲食し、その食べ物の力によって、天主の山ホレブまで四十日四十夜歩いた」(神学大全III部、第79問、第2項)。

O sacrum convivium, in quo Christus sumitur, recolitur memoria passionis ejus, mens impletur gratia, et futurae gloriae nobis pignus datur.
キリストの聖体の祝日の典礼はこう宣言しています。「キリストが受けられ、御受難の記憶を思い起こさせ、霊魂が恩寵で満たされ、われらに将来の命の誓約が与えられる、聖なる宴よ」。
「ふさわしい聖体拝領の主な効果は、ある程度まで天国を前もって味わわせることであり、実際、私たちが将来、至福直観で愛によって天主との一致にあずかることの期待であり、誓約である」(『カトリック百科事典』)。

ご聖体は、「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を有し、終わりの日にその人々を私は復活させる」(ヨハネ6章54節)というキリストの約束によって、「われわれの栄光の復活と永遠の幸福の誓約」(トリエント公会議第13総会第2章)なのです。

●イエズスの聖心をたたえて9回の初金曜日の信心を私たちが行うときは、告解に行き、なおかつご聖体を受けなければなりません。

4.童貞聖マリアへの信心
すべての聖人が、聖母への信心は救霊予定のしるしであることを証言しています。
「マリアへの愛とマリアへの信心は、永遠の救いを得る確実なしるしである」(聖ベルナルド)。
「マリアのしもべのしるしを持つ者は、すでに命の書に書き記されている」(聖ボナヴェントゥーラ)。
「聖母への信心は救いに必要である。
聖なる童貞への敬意と愛を持たないことは、間違いなく天主から見捨てられたしるしであるが、
聖母への全面的かつまことの信心を持つことは、救霊予定の揺るぎないしるしである。」(聖ルイ・マリー・ド・モンフォール)

「聖マリアへのまことの信心は、救霊予定の最も確実なしるしの一つである。
しかし、その信心はまことのものでなければならない。なぜなら、もしそれが偽りのものならば、その目的には役に立たない。それはお金に例えることができる。もし本物でなければ、偽造したものであれば、何の価値もない」(聖アントニオ・マリア・クラレト)。
「マリアへのまことの信心は、効果的に救いに導く。なぜなら、マリアは、最後まで貫き通す恩寵を求めて忠実にご自分に祈るすべての人のために、その恩寵を獲得することがおできになるからである。このため、聖母へのまことの信心は、一般に、救霊予定のしるしの一つと見なされている。
この確固とした希望は、マリアの偉大な取り次ぎの力と、マリアに祈り求める人々に対する特別な愛に基づいている。」
―聖アルフォンソ(『聖母マリアの栄光』第1部、第8章)によれば、自分の生活を改めたいと願い、天主の御母を忠実にたたえ、そのご保護に身を委ねる人々が失われることは、事実上あり得ないことである。
―生活を改めたいという真剣な願望を持たない人々は、もちろん、見かけ上は聖母への一種の信心を守っているという事実を、救霊予定の可能性の高いしるしと見なすことはできない。
―しかし、罪を捨てようとしてマリアに助けを求める罪人は、マリアがその罪人を失望させないことを知るであろう」。      (ガリグー・ラグランジュ)

    • 「私のロザリオの信心は、救霊予定の大きなしるしです」(聖ドミニコと福者アランに与えられた)。
    • カルメル山のスカプラリオ。これを身に着けて死ぬ者は救われるでしょう。
    • マリアの汚れなき御心をたたえて、告解と聖体拝領をする五回連続の初土曜日の信心。

結論
1.救霊予定は神秘です。
成聖の恩寵の状態で死ななければ、誰も天国には行けません。自分の過ち以外からは、誰も地獄に行くことはできません。
2.救いの絶対的な確実性はありませんが、事実上の確実性はあります。四つの救霊予定のしるしです。
3.大人は永遠の命に値する者とならなければいけないのですから、救霊予定は、私たち自身の努力を余計なものにするものではありません。
「ある日、(自分の救いに関して)不安に襲われて、しばしば希望と恐れの間で揺れ動くある人が悲しみに打ちのめされたとき、ある教会の祭壇の前にひざまずいて謙遜に祈った。
これらのことを黙想しながら、彼はこう言った。『ああ、ただ私が終わりまで忍び通すかどうか、知りたいものだ!』。
彼はすぐに心の中で天主のお答えを聞いた。『あなたはそれを知ったら、どうするつもりなのだ。そのときしようと思うことをいま行え、そうすればあなたはまったく安心であろう』」(『キリストにならいて』第1巻第25章)。

私たちは「涙のうちに震えながら自分の救いをまっとう」しなければなりません。
「死ぬまであなたが忠実であれば、私はあなたに命の冠を与えよう」(黙示録2章10節)。
                   +
そして、私たちはしばしば天国を観想し、天国を待ち望まなければなりません。
「いつ私は行って、天主の御顔を仰げようか」(詩篇41篇3節)。
「目がまだ見ず
耳がまだ聞かず
人の心にまだ思い浮かばず
天主がご自分を愛する人々のために準備されたこと」(コリント前書2章9節)。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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