Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

この世の悪を忍耐と超自然的な精神とで耐え忍ぶための十字架の道行き

2024年03月29日 | お説教・霊的講話

この世の悪を忍耐と超自然的な精神とで耐え忍ぶための十字架の道行き

準備の祈り

イエズスよ、御身は、我らの霊魂を贖うため、また、天主の正義を満たし我らに永遠の救いを与えるために、苦しまれ、苦難を捧げられ給うた。我らに対するなんと偉大な愛たるか我らは心に深く感じ奉る!

イエズスよ、我らは、三位一体のいのちを永遠に享受せんがために召され、この世での人生の目的は、永遠に続く憐れみを受けることなり。

天主の愛は、天主なるイエズスの聖心に、我らの完全な自己放棄を求め給う。故に、主は御受難にあたりて、我らに模範を残すことを欲し給えり。そは我らを支えんがためなり。しかるに、我らが十字架に出あうとき、我らはもはや独りではありえず。御身は我らと共にましまし給う。

我がこの十字架の道を行うは、この心を得んがため、かつ、試練を受けるすべてのキリスト者らがこの超自然的な精神を得んがためなり。

第1留イエズス、死刑の宣告を受け給う

ピラトはこう叫んだ。その答えは明らかな中傷であったが、イエズスは苦しみながら死ぬよう宣告された。無実の人が不当にも、極めて非道なことを宣告されるのは恐ろしいことだ!このようなことが起こると、人は、少なくとも内面的には反発し、それに付きまとわれる。私たちは、常に自分を正当化し、他人の悪い点を見ようとする。しかし、イエズスは、罪の不正を償うためにすべてを捧げ給うた。主は平安を保ちたもう。イエズスは、自分が受ける不正ではなく、善なる天主が罪人から受ける不正をこそ考え給う。

この世の生活で、評判や職場において、残酷な不正を経験する人がいる。そのような時、平和を保つ唯一の方法は、断罪されたイエズスを見つめ、主とともに、主を通して、この試練を生き抜くことである。イエズスよ、私たちにこの大きな恵みを与え給え。

第2留 イエズス、十字架を担い給う

アダムが罪を犯して以来、死は人間の生に入り、その一部となった。私たちは、若者は死なず、年を取った時に初めて、死が一瞬にして私たちを優しく襲うと考えている。

しかし主は、人生の最盛期に、周囲に多くの善を施すことができる年齢のときに、耐え難い苦痛の中でゆっくりとした死を宣告され給うた。イエズスはこれを安らかに受け入れ、それを捧げ給う。それは、無数の霊魂が永遠に生きることができるためだった。

今日、まだ幼い子供や配偶者の死によって痛ましい試練を受ける人々、愛する人の数時間に及ぶ辛い死を目の当たりにする人々がいる。彼らの心は血が流れるように苦しみ、反乱の閃光が浮かぶかもしれない。

イエズスよ、十字架の受入れによって得られた御身の功徳によって、これらの霊魂が御身と一致し、この試練を超自然的に生き抜くことができるよう助け給え。

第3留 イエズス、初めて倒れ給う

イエズスは疲れ果て、体は傷つき、十字架の重みは耐えがたいものとなった。イエズスは倒れ、十字架は主を押しつぶす。茨の冠は頭に食い込み、耐え難い首の痛みを引き起こした。しかし、主は誰にも不平を言わず、呪いもしない。イエズスは、あらゆる形の高慢を癒すために、この鋭い痛みを耐え忍んでいる。傲慢により、人は、自分が他の者より優れていると思わせ、天主から独立していると信じ込ませている。現代人は、ますます傲慢に膨れ上がっている。そのため激しい頭痛を繰り返す人に出会うのは、最近では珍しいことではない。これは、大変な試練である。願わくは、彼らが、自分の苦しみを御身の苦しみと一つにする恵みを与え給え。

イエズスよ、人類のおごり・傲慢を償うために、御身が茨の冠を戴く功徳の分け前を彼らに与えておられることを悟る恵みを、これらの人々に与え給え。

第4留 イエズス、聖母に会い給う

試練のときにこそ、私たちはだれが忠実な友であるかが分かる。なぜなら、忠実な友は自分を友のために犠牲にすることができるから、私たちを救うために、自由に犠牲となることができるからだ。

聖母は、イエズスが一人であることを悲しみつつご覧になる。3年間も犠牲を顧みずに自分を捧げてきた天主の御子を、聖母は、ご覧になり、御子の悲しみを察し給う。感謝のかわりに主がお受けしたのは、卑怯と臆病だった。主はこの裏切りを、ものともせず、天主に対する人間の無関心と冷淡を償うために、この苦しみを捧げ給う。今日、多くの人は、天主に対して何の負い目もないかのように生きている!年老いた両親や教師、その他の多くの人々が、多大な犠牲を払いながら、自分を捧げてきたにもかかわらず、時には、消息もなく、評価もされず、孤独である。辛い、不公平な待遇を受けている。利己主義の勝利である。

イエズスよ、これらの霊魂が、試練を受け入れるように助け給え。彼らが、真の自己離脱によって、また、天主へのより大きな愛によって、平安と聖化を見い出すことができるように導き給え。天主の愛は、私たちを愛し、決して見捨てない、たとえ私たちがその愛に気づいていなくても。

第5留 キレネのシモンは、主を助け奉る

御摂理は、十字架の道行きでキレネのシモンとイエズスを結びつけた。それは救い主にとって大きな救いであった。聖ルカは、シモンがイエズスの後ろで十字架を担(かつ)いだと記している。それからは、道が狭かったため、二人は互いに邪魔し合わなければならなかった。イエズスは、シモンの助けを容易にするために、心の中で沈黙しておられる。結婚生活において、キリスト者の配偶者らは、聖化において共に進まなければならない。主は、彼らの互いの反感を癒すために、このような煩わしさを――おそらくキレネのシモンの十字架の梁から放たれた打撃を――耐え忍びたもう。

イエズスよ、御身は家庭における共同生活が、衝突や傷や不満のないものではないことを知っておられます。十字架の道行きに沿って与え給う功徳と模範によって、それぞれの配偶者を支え給え。

第6留 ヴェロニカは、主の御顔を拭い奉る

十字架の道すがら、イエズスは、あざけりや冒涜、暴言などを耳にする。絶え間ない騒音の中で、黙想し、霊魂を高めることは非常に難しい。ある聖なる女性は、その騒ぎに乗じて、賢明なやり方で、救い主の顔を拭き、励ましの言葉をかけた。ヴェロニカである。イエズスは、人間の喧騒から逃れる術を知っておられた。主は、聖女ヴェロニカのこの単純な言葉をお聞きになる。イエズスは、人の邪悪な言葉や軽率な言葉をすべて償うために、喧騒の雰囲気、抑制のきかない言葉を耐え忍ばれる。聖ヴェロニカの優しい言葉を受け入れ、その言葉に報いてくださる。今日、多くの人々が、音楽、騒音、喧騒のせいで隣人が迷惑だと不満を漏らしている。彼らは自分の霊魂を天主に捧げることが難しく感じている。

イエズスよ、彼らが雑音の上に立ち、聖霊の優しいつぶやきを聞くことができるように助け給え。

第7留 イエズス、再び倒れ給う

イエズスは十字架の重さの苦しみが和らげられた。群衆が密集し、押しつぶされるかのように、再び倒れ給うた。再び起き上がるのは試練だった。何度も何度もそれを繰り返さなければならなかった。イエズスは、奇形や病気で疲れ果てた人々に対する周囲の人々の憐れみの欠如を補うために、この苦しみを耐え忍び給う。現代では、ダウン症や身体的・精神的な障害を持つ子供によって、深い影響を受けている家族が実際にいる。それは毎日背負う重い十字架であり、将来への不安でもある。しかも、彼らは好奇の目で詮索され、傷つける言葉を受けている。

イエズスよ、これらの家族、これらの子供たちが、御身の十字架の道行きの間、主の倒れたことを思い、御身と一体とならんことを。真の不幸とは自発的な意志によること、つまり本当の悪とは罪であることを思い起こすことができるよう助け給え。

第8留 イエズス、エルサレムの婦人たちを慰め給う

イエズスは間もなく、救い主の苦しみを嘆き悲しむ女性たちとすれ違う。イエズスは彼女たちを叱責しているかのようにも聞こえる! 「自分のため、自分の子供たちのために泣け!」この言葉は、あたかも身分上の務めを果たすには、誰でも努力と犠牲が必要だと仰せられているかのようである。私にとって、私の務めとは、人々の罪の贖いのために働くこと、霊魂を罪のない状態に導くこと、つまり霊的に子供を生むことである。しかし、霊魂が霊的に生まれるためには最大の苦痛を伴う。自分の子供たちの聖化と教育のためには、多くの犠牲が要求される。イエズスは、御父の御旨を行うために、絶え間ない苦しみを捧げられる。それは、人々の身分上の義務を遂行する上で、怠惰や臆病などのあらゆる形の罪を償うためである。

イエズスよ、仕事や家庭の務め・義務がしばしば新たな犠牲を求めるのは事実です。御身の模範と恵みによって、職務を全うするために求められる犠牲を怠ったり、落胆したりしがちな人々を支え給え。

第9留 イエズス、三度、倒れ給う

疲れ果てて、イエズスは三度倒れ給うた。イエズスはいく度も倒れ給うたが、すべての努力を傾注して、ようやく立ち上がることができた。イエズスは、誘惑を避けるための努力をほとんどしなかったり、怠惰から始まる罪の機会を避けようとする平凡な意志を持つある種の霊魂の度重なる過ちを補うために、このような努力と苦しみを耐え忍ばれる。救い主の苦しみは長く辛いものだが、それは平凡な霊魂を縛り付けている罪の鎖を断ち切る強力な恵みを得るためである。深刻な過ちを犯したために苦しむ霊魂もいる。そのような霊魂は、イエズスがご自分の道を進むために行っておられる超人的な努力に目を向け、落胆したり、キリスト教的な生活は今日では不可能だと考えたりするのではなく、寛大さ、慎重さ、祈りを倍加させるだろう。

イエズスよ、これらの弱い霊魂を支え給え。

第10留 イエズスは服を脱がされ給う

イエズスは死を前にして、この上なく貧しくなられた。これは、教えと美徳のすべてを豊かに捧げた彼にとって、大きな試練であった。イエズスは、人々のすべての感謝を表すような、最も豊かな装飾品に包まれて死ぬべきであった。イエズスは、この世の富や名誉に対する人々の執着を償うために、この自己否定を耐え忍ばれる。多くの個人や家族が、自分のせいでもないのに貧困に直面している!それは心配事であり、悩みであり、時には家族から非難されることもある。そのような人は、自分の貧しさを救い主の貧しさと一致させ、救い主の霊的な豊かさで満たし、日々の糧を得ることができるよう、確信をもって救い主に願わなければならない。

イエズスよ、我らを憐れみ給え。

第11留 イエズスは十字架に釘付けにされ給う

イエズスは大きな釘で十字架に固定されておられる。体を拭くために手を動かすことも、けいれんをほぐすために足を動かすこともできなくなった。彼は十字架上で麻痺している。この完全なはりつけは、主に何時間もの苦しみを与えた!イエズスがこの長い殉教を捧げたのは、半身不随になり、生活必需品のすべてを他人に依存する人々の反乱の心を償うためである。この依存から逃れるために、自ら命を絶とうとする者もいる。

イエズスよ、すべてを他者の善意に依存し続けることは、人々にとって非常につらい試練です。御身の十字架の功徳によって、彼らに忍耐と謙遜の豊かな恵みを与え給え。彼らが自分の十字架を定め、彼らの道徳的、肉体的支えを御身のものと一致させることができるように助け給え。

第12留 イエズスは十字架上で死し給う

十字架の上で、イエズスはすべての人のことを考えておられた!イエズスは、信仰と悔い改め、希望と憐れみ、謙遜と純潔、強さと憐れみの恵みを彼らのために得るために、この目的のために、あらゆる瞬間に、ご自分の功徳と苦しみのすべてを捧げられる。霊的に、彼はすべての心の扉をノックし、こう言い給う。「心の扉を開きなさい、私はおまえを罪の奴隷から解放し、天国にふさわしい者にすることができる」。一人一人がどのように聖寵に協力するかは、私たちの品位、熱意、祈りと犠牲、良い模範と言葉にかかっている。ある者は信仰を失い、またある者は道徳的な生活を失っている。

イエズスよ、御身は彼らのために苦しみ、彼らのために祈られ給う。彼らの回心と救いの恵みを得るために、私は自分の悲しみ、犠牲、祈りを、御身と一つにすることを望む。主はこう言われ給う。「わたしの名によって父に願い求めるものは何でも、父はおまえたちにお与えになる」(ヨハネ16:23)と。

第13留 イエズスは母親の腕の中に戻され給う

イエズスは死に給い、贖いの業は成し遂げられた。しかし悪魔は世の終わりまで、霊魂を命の源から遠ざけようとし続けるだろう。サタンは、イエズスがすべての恵みの分配者として指名された聖母の気をそらそうとし、使徒たちが見捨てたことを聖母に見せて、聖母に落胆の思いを抱かせ、また、祈りさえすれば十分であったはずの御子をこのような苦しみに引き渡された御父に対する反逆の思いさえ抱かせた。聖母マリアは天主なるいけにえを慕い、全てを御子と共に捧げ、奉献を御子の奉献に重ね合わせ給うた...すると悪魔は逃げ去った。今日でさえ、悪魔は、霊魂たちを攻撃して、正しい道から逸脱させ、反乱を起こさせたり、修道生活を放棄させたりしている。まるで救い主が眠っていて、私たちの祈りや痛悔を無視しているかのようだ。だから、自分の殻に閉じこもるのか、それとも他の人たちと同じように人生を楽しむのか。

聖母よ、私たちがこれらの悪魔の攻撃に勝利し、十字架の神秘に忠実であり続けることができるよう、いつも助け給え。

第14留 イエズスは墓に葬られ給う

イエズスは墓に横たわり、もはや苦しむことはない。マリアは、復活の勝利まで受難を追体験する。マリアは、天主の御子の殉教を、時には何年も続くキリスト教徒たちのすべての苦しみと結びつけようとされる。聖母は、体の痛みに苦しむ人たち、ガンやその他の重い病気に苦しむ人たち、十字架の前に長い道のりを歩む人たちのことを考えておられる。信仰のために、家族の中で、あるいは社会の中や国で、迫害を受けるすべての人々のことを思っておられる。聖母は、すべての子供たちに差し伸べられている十字架の神秘を思っておられ、試されているすべての霊魂のために、力、忍耐、愛の恵みをすでに主に求めておられる。

イエズスよ、私たちあわれな罪人が贖いの業に参加できることは計り知れない恵みなり。イエズスよ、決して私たちを見捨て給うなかれ。

最後の祈り

イエズスよ、御身は私たちの人生から苦しみを取り除くために、あるいは苦しみを説明するために来られたのではありません。残念なことに、私たちはしばしば御身の模範を忘れ、この神秘をあまりにも人間的な方法で生きているのです。

イエズスよ、わたしはこの十字架の道行きの功徳を通して、苦しんでいるすべての人のために力強い恵みを与え給え。彼らがしばしば救い主の受難に目を向け、その受難に一致し、贖いのわざ、聖なる教会の勝利、愛する人の救いのために苦しみをささげることができますように。

憐れみの聖母よ、御身は受難の全期間を生き抜かれました。身も心も苦しんでいる人々を決して見捨てられず、御身の御心を、世界を救う御身の聖なる御子へと向け給え。


この主日、教会は、イエズスのご受難の黙想に自らを完全に明け渡します。

2024年03月27日 | お説教・霊的講話

御受難の主日―キリストの御苦しみ(大阪2024)

ワリエ神父 2024年3月17日

この主日、教会は、イエズスのご受難の黙想に自らを完全に明け渡します。キリストは私たちのためにご苦難を耐え忍んでくださったのですから、そのご受難の黙想によって、私たちがその同じご苦難にあずかり、償(つぐな)いを全(まっと)うするようにさせるためです。それゆえ、この主日は御受難の主日と呼ばれています。教会のすべての儀式は、このことを指し示しています。

今日、磔刑像(たっけいぞう)には覆(おお)いがかけられていますが、それは、この時からエルザレム入城まで、イエズスがもうユダヤ人の間を公(おおやけ)に巡(めぐ)られなかったこと(ヨハネ11章54節)を思い起こすためです。今日から、ミサでは「グロリア・パトリ」(願わくは父と子と…)が省かれます。なぜなら、イエズス・キリストのペルソナにおいて、至聖なる三位一体が不名誉をこうむったからです。

最後に、今日、教会は、イエズス・キリストという、罪も汚れもない大司祭を私たちの前に置き、私たちが彼を観想することによって、より熱心な償(つぐな)いをするようにさせるのです。そのために教会は、ミサの入祭誦(にゅうさいしょう)で、苦難のイエズスの御名(みな)において、次の詩篇作者の言葉を唱(とな)えます。

「天主よ、私を弁護し、私の訴えを、不敬の人の訴えと分け、不正で邪(よこし)まな人々より、私を解き放ち給え。なぜなら、主こそが私の力であるから」。

ピラトは、私たちの主を無罪だと何度も宣言した後、死刑の宣告を行いました。

教会は、今日の書簡を私たちに提案していますが、それは、私たちがキリストのご受難と死を黙想し、贖(あがな)いという偉大なあわれみを天主に感謝し、天主を愛し、賛美して、断食、祈り、悔悛(かいしゅん)の業(わざ)によって、キリストの御苦しみを分かち合うよう励ますためです。

次に、詠誦(えいしょう)で、私たちは詩篇作者がこう歌うのを聞きます。

「彼らは、私の若い時から、絶えず私に対して戦い続けた。…しかし、彼らは私に勝つことができなかった。罪人は私の肩を打ち、長らくその悪を続けた。しかし、正義なる主は、罪人の首を落とし給うた」。

福音では、主のご受難の数日前の雰囲気が、いかに緊迫したものであったかが描かれています。

「あなたたちは彼が自分の天主であると称するが、あなたたちは彼を知らない。しかし、私は彼を知っている。もし彼を知らないと言えば、私はあなたたちと同じく偽(いつわ)り者になる。しかし、私は彼を知り、そのみ言葉を守る」(ヨハネ8章46-59節)。

締めくくり

来週の主日と聖週間の間は、長い儀式のために説教をすることができません。
私たちの主のご受難のすべての恩寵から恩恵(おんけい)を得るために、ミサ典書中のご受難とこれらの美しい儀式を読みましょう。


主の御受難をよく黙想することによって、わたしたちの罪を深く痛悔する:十字架上のイエズスは全ての人々から捨てられた

2024年03月27日 | お説教・霊的講話

2024年3月17日 東京での8時30分のミサの説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月17日、御受難の第一主日です。

【1:御受難の神秘】
母なる教会は、主の御受難をよりよく黙想するために、またよく黙想することによって、わたしたちの罪を深く痛悔するようにと、招いています。ですから今日は教会の招きに従って、主の御受難を一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音では、イエズス様は、ご自分が約束されたメシアであり、天主であることを断言します。「まことにまことに私はいう。アブラハムが存在する以前に、私はある」と。ラテン語によると、アブラハムがつくられる前に、わたしは在ると、なっています。そのときユダヤ人たちは、イエズス様がまことの天主であるということを主張されたということを理解しました。彼らは残念ながら主を信じようとはせずに、石をとって主に投げつけようとします。しかしイエズス様は、ひそかに神殿を立ち去られ、そして人の目から隠れます。
まことの天主にしてまことの人なるイエズス・キリストは、こうやって御受難の荘厳な神秘のなかに入っていかれます。イエズス様が隠れたように、聖堂における十字架の像は紫の布でおおわれました。聖金曜日まで十字架の本当の姿が隠されます。そして隠された栄光の主にしたがうかのように、諸聖人の姿も隠されています。

では、わたしたちはこの受難の神秘の中に深く入り、苦しみを受けるのはいったいどなたなのか、考えてみます。苦しまれるのは永遠の天主御父の御一人子です。ご自分は奇跡を行ってどのような人の苦しみでもいつでもどこでもお望みのままにそれを和らげて取り除くことができるお方、この方が、苦しまれます。
では、何のために、誰のために、主は苦しまれようとするのでしょうか?それは私のためです。皆さんとわたしのためです。皆さんとわたしが、天国の永遠の至福を得ることができるため、でした。皆さんと私を地獄の火から救うためでした。皆さんと私を永遠の苦しみから免れさせるために、御自分があえて苦しみを受けられたのです。
では、主は、皆さんと私のために、どのような苦しみを受けたのでしょうか?肉体においても、霊魂においても、想像を絶するような拷問を受けられました。御父は、正義の怒りの重みで御子を容赦なく押しつぶされました。苦しみを和らげるようないかなる慰めもありませんでした。主の受けた たった一人でお受けになった御受難を少し見てみましょう。

【2:主の御受難:十字架上のイエズスは全ての人々から捨てられた】
主は人々から捨てられました。ふつう人が死のうとする時に、この死のうとする人を愛した人々、あるいはこの人から恩恵を受けた人々、つまり友人や家族などは、この苦しみに同情したり、その死を惜しがったり、涙を流して、そしてなんとかこの死のうとする人を苦しみを慰めようとします。しかしイエズス様の敏感な聖心に対してはそのような慰めはいっさいゆるされませんでした。

イエズス様はまったく無罪でした。裁判官であるポンシオ・ピラトが、罪がないと、何度も宣言したにもかかわらず、群衆の叫び声によって、主は十字架の磔の死刑を受けます。まったくの冤罪でした。釘付けにせられて、磔にさせられます。愛する兄弟の皆様も、もしもわたしたちが、テレビや新聞やインターネットのニュースで、世界中でわたしたちのことが騒がれて、真理の声は掻(か)き消されて、無罪の罪を負わされて、家族や友人からあるいは社会から、捨てられてしまったと想像してみてください。

十字架につけられた主の周りは、見渡せば、あざける人々、反対する人々、陥れようとする人々、冒涜する人々でいっぱいでした。ユダヤの指導的な立場にいた、司祭長・長老などは、かれらは人民から尊敬を受けて、その言葉に従っていましたが、イエズス様がこうやって屈辱と不名誉な最期を遂げるのを喜んで見ていました。主の苦しみを見て、これで邪魔者が消えると、楽しんでさえいました。大群衆といえば、数日前は主がエルサレムで凱旋するのを歓迎していましたが、今や態度をすっかり変えて、主をあざ笑っています。奇跡を受けて癒された人々も、あるいは奇跡的に食べ物を受けて満たされた人、教えや指導を受けた人々、光によって照らされた人々、これらの人々はあるいは主を捨て去ってしまったか、あるいは主を迫害する側のほうに回りました。

あれだけ恩義を受けたにもかかわらず、もう役に立たないと捨てられてしまったかのようです。主に選ばれて、三年も主と親密に生活をした人々も、卑怯にもそして臆病にも、逃げ隠れました。最後の晩餐の時には、「たとい、みながあなたについてつまずいたとしても、私は決してつまずきません」とか「私は、あなたといっしょに死ぬようなことになっても、あなたをいなみません」などといった弟子たちは、死の危険を察知してあっという間に主を見捨ててしまいました。その数時間後に。もしも最後までイエズス様のおそばを離れなかったとしたら、イエズス様の最期をお慰めすることができたかもしれません。一緒に最期の御言葉を聞くこともできたかもしれません。しかし、十字架の元にとどまったのは、マリア様と、二・三人の女性、そして使徒たちの中ではたった一人ヨハネだけでした。聖ヨハネだけでした。イエズス様の友だったのは、忠実に残ったのはたったそれだけでした。また主は御父からも棄てられたかのようになりました。

【3:主の御受難:十字架上のイエズスは天使と御父から捨てられた】
ゲッセマネの園で、主が祈っている時には、「天からの使いがあらわれて、イエズスを力づけた」(ルカ22:)と聖ルカは記録しています。しかし、十字架上にいるイエズス様には天使たちは力づけようとしたり近づいたりしようともしませんでした。イエズス様はたった一人で、ぶどうの実を踏まなければなりませんでした。たった一人で悪魔という敵を打ち倒さなければなりませんでした。主の戦いに助けに来る人々は誰もいませんでした。お一人で、御自分の御血と命をお捧げになろうとします。御体は鞭打ちで傷だらけ、釘の傷口はどんどん広がるばかりです。茨の冠で頭全体は棘(とげ)が刺さり、主は頭を休めるところさえもありません。しかし、天使たちは、自分たちの王を助けようとさえもしませんでした。

主が洗礼を受けたとき、また御変容のときには、御父は「これは私が愛する子である」と宣言されました。しかしその御父でさえも、イエズス様の苦しみを和らげようとは一切されません。御父は、かえって厳格で容赦のない正義の重みで
御子を押しつぶします。御父は、イエズス様を支えようとさえもされませんでした。少しの休みも、緩和も、容赦もありませんでした。ほんのちょっとだけでも軽くしてあげたいということもなく、苦い杯を最後まで主は飲み干さなければなりませんでした。あまりにも巨大な苦しみ、限度を超えるような苦悩、御父からも見捨てられたようなこの悲痛、これは全て、愛する兄弟の皆さんとわたくしを愛するがために、あまりにも強く愛するがために、心から喜んでお受けになった苦しみでした。たったひとりで十字架の祭壇に上られたイエズス様、このイエズス様に今日は近寄る御恵みを請い求めましょう。

【たった一人の十字架上のイエズス】
私たちの五感を働かせて、マリア様とともに、一人捨てられたイエズス様を黙想いたしましょう。
●みてください、イエズスの足は、十字架に固く釘付けにされています。あたかも、私たちをお待ちのようです。場所を決して離れない。待っている。
イエズス様の両手は、広がって十字架に釘付けにされています。あたかも、私たちを抱きかかえようとお待ちのようです。さあ早くわたしのもとに来い。
イエズス様の御顔は垂れ下がっています。あたかも、私たちの祈りをよーく聞こうとお待ちになっているかのようです。さあわたしのもとに来るがよい。祈りをするがよい。
●よく聴いてください。イエズス様の耳は、主に反対する恐ろしい冒涜でそれを聞かされて飽き飽きしています。あたかも、私たちから愛の言葉を聞きたいとお待ちになっているかのようです。どうぞイエズス様の近くにさえ近づいて愛の言葉を、祈りを囁(ささや)きましょう。
イエズス様の口からは、赦しの言葉が漏れています。よく聴いてください。「父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているか知らないからです」と。あたかもずっーと私たちのことを思っておられるかのようです。
わたしたちのことだけを思っておられるかのようです。マリア様のすすり泣き、この声を聞いてください。マリア様の御悲しみを見聞きして、なぜ私の心はそんなに石のように乾いて冷たいままなのでしょうか?
●香りをかいでください。人が聖なる人が亡くなるときに、聖徳の香りがするといいます。イエズス様の御体からは聖徳のとても良い香りが立ち上っています。天に上がっています。あたかも、この世の毒で汚染された悪臭から私たちを守ろうとするかのようです。
●味わってください。マリア様の汚れなき御心、つらい苦さでいっぱいです。悲しみの御母、憐れみの御母、愛の御母の涙の味、残酷に捨てられた苦さ辛さ、悲痛の苦渋、これを私たちが少しでも味わうことができるなら、私たちはどれほど罪を忌み憎むことができるでしょうか!もしもマリア様のこの苦さをわたしが少しでも味わったならば、どれほど自分の罪に泣くことができるでしょうか!
●触ってください。たった一人ではりつけにされた主の十字架の木に触れてみてください。主の御血が流れてその御血は十字架の足元まで垂れ流れて真っ赤く血で染まっています。この十字架に接吻いたしましょう。その荒々しいごつごつした木に触れてみてください。そして、私たちにも流れる御血で、私たちの罪の汚れを清めてくださるように祈りましょう。

【4:遷善の決心】
では最後に選善の決心をいたしましょう。主は恐ろしい御苦難に入ろうとされます。主を打ち捨てて逃げた人々をわたしたちは真似て良いのでしょうか?
イエズス・キリストやその教会が嘲られるとき、私たちは主の敵と一緒になってイエズス様をあざけ笑ったり攻撃して良いのでしょうか?知らないと無関心を装ってよいのでしょうか。
私たちが罪を犯す時、主は苦しまれます。もしも私たちが主をお愛しして苦しみを捧げるならば、主の苦しみはすこしでも和らぎます。私たちは平気で罪を犯し続けていて良いのでしょうか?
罪の機会から遠ざかる恵みを請い求めるべきではないでしょうか。罪の機会となると知りながら、ケータイやパソコンやゲーム機でそのまま平気で時間を浪費して良いのでしょうか?テレビやYouTubeに浸っていて良いのでしょうか?

十字架上のイエズス様に心から祈りをお捧げいたしましょう。わたしたちの愛を申し上げましょう。イエズス様はこうおっしゃったことがあります。「私は十字架からあげられたとき、すべての人を、私のもとに引きよせる」(ヨハネ12:32)。すべての人をわたしのもとに引き寄せる。お約束の通り、私たちの心を主のもとに引き寄せてくださるように祈りましょう。主を愛する恵み、罪を忌み嫌う恵みを祈りましょう。十字架上のイエズスと一緒にいることができるようにわたしたちも日常の苦しみを受け入れる力と勇気を請い求めましょう。イエズス様への愛のために、イエズス様と一致して、私たちの身分上の義務を果たすお恵みを請い求めましょう。
最後に悲しみのマリア様に祈りましょう。マリア様の悲しみの御功徳によって、マリア様の母なる愛によって、わたしたちが罪を忌み憎む恵みを得ることができますように。イエズス様をますます愛することができる恵みを受けることができるように、マリア様の御取り次ぎを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


御聖体の前兆であり前触れ:パンの増加の奇跡の神秘的な意味とは?

2024年03月14日 | お説教・霊的講話

2024年3月10日四旬節第四主日 大阪でのミサ

トマス小野田圭志神父 2024年3月10日

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月10日、四旬節第四主日です。

キリストは霊的に新たに生まれた人々に命を与えます。さらに主は、天主の命に生まれた人々を霊的糧で、つまり御聖体で養われることをお望みになります。その現実が、私たちによく理解することができるように、主は、まず目に見える奇跡を行われて、そして肉体のために食べ物をお与えになります。

今日の福音では、この奇跡が語られています。これは霊的な糧、つまり御聖体の前兆であり前触れでした。今日の福音の奇跡の神秘的な意味を聖トマス・アクィナスの教えに従って考察しながら一緒に黙想して、残る四旬節の遷善の決心を新たにいたしましょう。

【いつどこで?】
まず、いつどこで誰を主が養ったのでしょうか? それはユダヤ人の祭であるすぎこしが近い時、ガリラヤ湖の向こう岸の山でのことでした。主は、大人の数だけで五千人ぐらいの大群衆を養います。
主は、海のように波立つガリラヤ湖をお渡りになります。神秘的な意味では、ガリラヤの湖は、不安定なこの世を象徴しています。主はこの世に生まれて御死去することによってこの世つまりガリラヤ湖を渡り、復活することによって向こう岸つまり栄光にうつります。この「移り渡り」については、聖ヨハネは聖木曜日のことを記録しながら、こう書いています。「イエズスは、この世から父のもとにうつる時が来た」(ヨハネ13:1)と。
奇跡が行われたのは山でした。主は弟子たちを高いところに導きます。それはこの地上の物事では私たちは満足されえないからです。しかし霊的なことなら私たちが満足されることができるということを教えるためでした。主はこう言われます。サマリアの婦人にこう言われました。「この水をのんでもまたかわきをおぼえるが、私の与える水をのむ者はいつまでもかわきを知らないだろう。」(ヨハネ4:13)
時は過ぎ越しの近くでした。過ぎ越しというのは「移る」とか「主が過ぎ越される」という意味です。これによって、主の御言葉によって養われて、主の御体と御血によって養われようとする人々は、罪から聖徳に移らなければならない、ということを教えています。聖パウロもこう言います。「私たちのすぎこしであるキリストはすでに屠られた。古いパン種ではなく、悪意とよこしまのパン種でもなく、清さと真実との種なしパンを用いて祭りをおこなおう。」(コリント前5:7)と。

【1:奇跡】
ではいったいどんな奇跡だったのでしょうか? 主は「目をあげて、大群衆が来るのをごらんに」なります。憐れみの眼差しを向けます。そして主は彼らを養うこと・かれらに食べ物を与えることをお望みなります。主は、これによって、教えるものは、霊的に人々を養う手段を持たなければならないということも教えています。

■フィリッポとアンドレアの二人の弟子が来ます。フィリッポはこれから主が奇跡を起こなおうとすることにまったく気が付いていなかったようです。お金で買うことを考えました。「二百デナリオのパンでは、各自少しずつとってもたりますまい」と言います。
これに反して、アンドレアは奇跡のことを考えていたようです。なぜかと言うとすでに、旧約時代、預言者エリゼオが大麦のパン二十個で百人の男たちを養った奇跡(列王下4:42)があったからです。ですからアンドレアはこう言います。「大麦のパン五つと魚二匹をもっている子どもがここに一人います」。でも、エリゼオの奇跡よりももっと偉大な奇跡をキリストが行うとは考えていなかったようです。「こんなに大勢の人ですからパンが五つではなんのたしにもなりません」と言い加えているからです。パンの数が足りないので、たとえエリゼオのような奇跡を行ったとしても養うことができる人の数は限られているだろうと想像したのです。しかしイエズス様にとっては、奇跡を行うために物質的なものは必要ではありません。

ところでこの二人の弟子について、使徒たちについて、聖トマス・アクィナスはこんな神秘的な意味だということを説明しています。キリストは律法を完成させることを暗示させているということを教えている、と。何故かというと、知恵というのは霊的な糧と言えるからです。そしてイエズス・キリストによって真の知恵があたえられたからです。聖パウロは言っています。キリストは「天主の力、天主の知恵である」(コリント前1:24)と。

聖トマス・アクィナスによると、キリストが来る前には二つの教えがありました。一つは人間の哲学者たちの教えで、二番目は律法の教えでした。
●フィリッポが「二百デナリオのパン」と言ったときには、この二つのキリストの前にあった二つの教えのうちの最初のひとつ、人間的な知恵のことを神秘的に意味したと言います。100というのは完成を暗示するので、人間の知恵を得るには二重の完成が必要だ、つまり体験による完成とあと思索による知恵だといいます。そして200デナリオは、思索と体験による二重の知恵のことを意味している、と。しかし、それにもかかわらずそれでは足りない。いくら人間の知恵が理性が知識を経験してまた観想して思索しても、私たちの欲求を完全に満たせることはできないからです。実際、過去、哲学者たちは多くの人々を誤りに導いてきました。
●ところでアンドレアが出てきます。アンドレアは聖トマス・アクィナスによると、二つの教えのうちの第二の教えを暗示していました。なぜかというと、パンを買うのではなく、すでに持っていたパンで大群衆を養おうとしたからです。「大麦のパン五つと魚二匹をもっている子ども」というのは、モーゼをあるいはユダヤ人民族を暗示している象徴していると聖トマス・アクィナスはいいます。子供であったというのは、なぜかというと、律法の状態は未完成だったからです。聖パウロは言います。「律法は、何事も完成させなかった」(ヘブレオ7:19)と。あるいはユダヤ民族を表しています。なぜかというと、「この世の要素のもとにあった」(ガラチア4:3)からです。

「パンを五つ」を持っていたのは、聖トマス・アクィナスによると、モーゼの五つの本に含まれた律法の教えを暗示しているといいます。なぜかというと、「律法はモイゼを通じて与えられた」(ヨハネ1:17)からです。あるいは別の理由として、世の要素というのは五感を通して知られて、人々はそのとりこになっていたからです。「大麦のパン」だったというのは、なぜかというと、大麦というのは固い殻に包まれていたように、命を与えるべきものが律法という物質的な固いしるしのもとに与えられていたからです。ですからユダヤ人たちは「先祖も私たち自身も負いきれなかったくび木」(使徒行録15:10)という儀式の固い規定のために、外的な行動様式を持っていて、あたかもそれが、固い殻のようだったからです。また聖パウロは「かれらの心にはおおいが垂れている」(コリント後3:15)と、固い殻のことを暗示しています。

「魚」というのは、おかずとしてパンに味を付けるので「魚二匹」というのはちょうど律法に味をつける詩篇と預言者たちを意味している、と聖トマス・アクィナスは言います。旧約聖書は三つの部分に分けられていて、モーゼの五書に書かれている律法とそれから詩篇と預言書です。主は復活後エンマウスの弟子たちにこういいます。「モイゼからはじめて、(律法)、すべての預言者にわたり、聖書のすべての本の中で、自分について書かれたことをかれらに説明された」(ルカ24:44)と、三つの部分からなる聖書について説明したと言っています。

■ところで、福音の話に元に戻すと、主は、使徒たちに「みなを座らせよ」とおおせられます。神秘的な意味では、知恵の完成のためには休息が必要であるということを意味しています。何故かというと、外的に働いてばかりいるということは、知恵を受けるのには妨害になるからです。外的な活動が少ない時、わたしたちは知恵を受けやすくなるからです。そして、使徒たちを通して人は真理の知識を受ける準備がなされます。「座らせよ」。
「そこには多くの草が生えていた。」といいます。神秘的な意味では、ある意味では、草は人のことをあらわします。ユダヤ書によると、「全ての人は草である」(イザヤ40:6)というからです。この草というのは、旧約の教えを意味しているとも考えられます。あるいは、真の知恵を受ける人を意味しているとも考えられます。なぜかというと、真の知恵は肉のことをまず放棄しなければ得ることができないからです。聖パウロはこういいます、「この世にならうな。」(ローマ12:2)と。
ところで、福音史家は、律法の習慣に従ってモーゼがした(民数1:3)ように、大人の男の数だけを数えています。なぜかというと、聖パウロが言うように「私たちも完成した人の間で知恵を話している」(コリント前2:6)からで、「固い食物は完成した人のもの」(ヘブレオ5:14)だからです。

【感謝】
その次に主は謙遜に「パンをとって感謝をとなえ」ます。キリストはもちろん無からパンを奇跡的に作り出して大群衆を養うことができました。しかし、二つの理由でパンを使いました。なぜかというと一つの理由は(1)物質的なものが悪魔から来たものではないことを示すためでした。また第二には(2)旧約の教えが天主から由来するということを示すためでした。つまり、新約の教えは、旧約においてすでに前兆として示されていたこと、含まれていたことを示すために、すでにあったパンを増やしたのです。これはイエズス様こそが律法を完成させて、成就させる方であるということを示すためでもありました。イエズス様はこう言います。「わたしは律法を廃しようとしたのではなくて、完成させるためにきた」(マテオ5:17)と。

主はパンを取って「感謝をとなえ」ます。ご自分がお持ちのものは全て御父から来たということを示すためでした。私たちも同じようにするように模範を示されました。私たちも食事の前に食前の祈りをすることを教えています。聖パウロの言うように「天主が創られたものはすべて善いものであり、感謝して受けるときには棄てるものはない」(ティモテオ前4:4)からです。奇跡を行う前にまず感謝をささげて、イエズス様はすべて御父の御旨に従って行っていることを示されようとします。
そして主は「座っている人々に分け与え」ます。イエズス・キリストだけが内的にわたしたちを養い、そして主は使徒たちを使って外的に養われます。お望みのままにおあたえになって、人々にじゅうぶんに食べさせます。イエズス様だけが飢え渇く霊魂に良いものを満たすことができる力をお持ちです。イエズス様には無限の力があるからです。

それから食べ残りが集められます。こうすることによって、イエズス様がなさった奇跡が単なる想像の産物ではないということが示されます。また残り物を他の人々に与えるためでもありました。残りの量は、正確に主が計画されたとおりでした。何故ならば、イエズス様はどれほど残るだろうかということを知りながらそれに必要な数を奇跡的に増やすことができたからです。使徒たちのそれぞれのかごがいっぱいになりました。神秘的な意味では、「十二のかご」は、十二使徒たちとそして使徒たちをまねる人たちのことを意味しています。かごにものを集めるというのは身分の低い人の仕事でした。農夫の仕事でした。ですから使徒の仕事は、現世においては軽蔑されるかもしれません。しかし、霊的な秘跡の豊かさでいっぱいになっています。使徒たちは、三位一体の信仰を世界の四方に宣教するべきものなので、三位一体を四方に広げるという意味で、十二のかごがいっぱいになったと、聖トマス・アクィナスは言っています。

【御聖体】
では今日のこの奇跡はわたしたちに何を教えているでしょうか。愛の天主は私たちに今日の奇跡よりも遥かに素晴らしい奇跡を私たちに日々行ってくださっています。私たちの祭壇の上で日ごとに起こっている大奇跡です。主は、荒波に荒れ狂うようなこの世にお生まれになって、御死去し、御復活することによって、この世から御父のもとにおうつりになりました。そしてわたしたちを高い山のような霊的な命に導いておられます。十字架の高みへと引き寄せておられます。罪から聖徳に移り渡るようにと招いておられます。イエズス様を見て、歴史上何億、そして何十億という大群衆がイエズス様に付き従いました。そして、この世の終わりまで無数の人々が主に従うことでしょう。主は彼らを全て養うことを欲しておられますし、それがおできになります。

では、それならば、私たちはこの今日の福音の奇跡を遥かに超越する御聖体の秘蹟を理解して、御聖体に養われているのならば、イエズス様に対してどのようにすべきでしょうか?
わたしたちは、礼拝と賛美と従順と敬愛、思慕、孝愛、償い、感謝、また感謝、そして感謝、また感謝、の念を起すべきではないでしょうか。

最後に残る四旬節の決心を新たにいたしましょう。あと、もうすぐ三週間ですでに復活祭がやって来ます。ますます主の御受難を黙想いたしましょう。御受難の十字架の木になる実りが御聖体ですから、主の御受難を黙想いたしましょう。

最後にマリア様にお祈りいたしましょう。今日の福音の目に見える奇跡を通して、これを遥かに超える目に見えない超自然の愛の奇跡、御聖体の神秘をより深く理解する恵みをこい求めましょう。


「喜べ、エルザレムよ、すべて集まれ。悲しみにしずめる者よ、ともに喜びおどれ。」悲しみのただ中の喜び

2024年03月12日 | お説教・霊的講話

四旬節第四主日―悲しみのただ中の喜び(東京2024)

ワリエ神父 2024年3月10日

「喜べ、エルザレムよ、これを愛する者よ、すべて集まれ。悲しみにしずめる者よ、ともに喜びおどれ。みな喜び、慰めの乳(ちち)に満たされよ」(イザヤ66章10-11節)「『主の家に行こう』と言われて、私は喜んだ」(詩篇121篇1節)

喜べ? 本当に?!

私たちが周りを見渡せば、この世においても教会においても、多くの問題や無秩序を目にします。

旧約のユダヤ人たちは、バビロンで捕囚となり、こう歌っていたものでした。

バビロンの川岸に座(ざ)し、シオンを思いつつ、われらは泣き、
そのあたりのポプラに、竪琴(たてごと)をかけた。
われらを捕(つか)まえた者たちが、…「シオンの歌を歌え」と言った。
どうして主の歌を歌えよう、異国の地にあって。
エルザレムよ、もし私があなたを忘れたら、私の右手がきかなくなり、
私の舌があごについてよい。
あなたを思い出さず、まず初めの歌として、エルザレムを私がたたえなかったら。(詩篇138篇1-6節)
私たちはどうすれば喜べるというのでしょうか? 悲しみのただ中で、喜びを感じることができるのでしょうか?

それは、聖パウロがテサロニケ人にこう語ったようにです。「希望のないほかの人のように、悲しみにおぼれてはならない」(テサロニケ前書4章13節)。

「私たちの国籍は天にあり、そこから来られる救い主、主イエズス・キリストを待っている」(フィリッピ3章20節)。

天主のお優しい心を見てください。

天主は、(女性や子供を除いて)五千人にも達する群衆に食事を与えられました。

キリストは、ご自分に従い、ご自分に耳を傾ける者を養(やしな)ってくださいます。

    • 飢饉(ききん)の時、天主は太祖(たいそ)ヤコブの子ヨゼフを、前もってエジプトに遣(つか)わされました。
    • 天主は40年間、砂漠でイスラエルの子らを、天からのパンで養われました。
    • 預言者エリアを、カラスによって養われました。
    • 天主は、ライオンの穴の中のダニエルを見捨てられませんでした。
    • 私たちの主の40日40夜にわたる断食ののちには、天使たちが主に仕(つか)えました。

「天主は正しい人を見捨てられない。私はかつて若かったが、今は老いた。だが、正しい人が見捨てられ、その子孫がパンを乞(こ)うのを見たことはない」(詩篇36篇25節)。

この四旬節の間、私たちの救い主である天主に、慰めと喜び、安楽と力を見いだしましょう。


2週間前に主の砂漠での誘惑について黙想しましたが、悪魔の戦術のうち、覚えておくべきもう一つの教訓があります。

2024年03月07日 | お説教・霊的講話

四旬節第三主日―再発の危険性(大阪2024)

ワリエ神父 2024年3月3日

悪魔が戻ってきています。悪魔は決して遠くには行かないでしょう…。
2週間前の主日に、私たちの主の砂漠での誘惑について黙想しましたが、悪魔の戦術のうち、覚えておくべきもう一つの教訓があります。

1.天主に立ち返る時である四旬節

昨日の福音は、放蕩息子(ほうとうむすこ)の話でした…彼の人生の中での罪深い時期のあと、父のもとに戻ってきました。
私たちは、自分の罪を「痛悔」する必要があります。天主の御怒(おいか)りを招いたことに対する、深い超自然的な悲しみと、自分の生き方を改めるという固い決意です。

2.霊的な癒やしの時である四旬節

聖マテオによれば、この男は以下のような人物でした。
・口がきけない(つまり、話すことができない)
・目が見えない(つまり、見ることができない)
・悪魔に憑かれている

私たちの主はここで、三重の治癒をされました。主は、その男が真理を見、真理を認めることを妨げていた悪魔から、その男を解放されました。
四旬節の良い「告解」(つまり、自分の罪を告発すること)が、復活節の戒律を果たすために必要です。

3.再発の危険性

悪魔は戻ってくるでしょう。きっと四旬節の後に。もっと早くかもしれません…。
再発とは、今日の書簡で語られている、罪の闇のことです。

4.天主に向かって具体的に踏み出す時期である四旬節

私たちは、善を行うという固い決心をしなければなりません。
・真実を語り、嘘や中傷を避けること。
・天主を見つめること。

詩篇作者はこう言います。
「私は天に住み給う御身(おんみ)に目を上げ奉る。主人の手に目をとめるしもべのように、女主人の手に目を注ぐはしためのように、主があわれみ給うまで、われらの目を、天主なる主に向け奉る」【詩篇122篇1節】。

・サタンとその悪しき誘惑から離れること。

結論

悪魔が戻ってきています。悪魔は決して遠くには行かないでしょう…。
聖ペトロが、私たちに次のように警告したようにです。「あなたたちの敵である悪魔は、吠(ほ)える獅子のように、食い荒らす者を探して、あなたたちの周りを回っている」【ペトロ前書5章8節】。
私たちの良き母、大天使聖ミカエル、そして私たちの守護の天使が、私たちを安全に守ってくださいますように。


貞潔に反する罪:淫行、全ての穢れ、強欲、これらのことは口にさえもするな。…淫行の者、汚れた者、強欲の者は…、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。

2024年03月06日 | お説教・霊的講話

貞潔に反する罪:淫行、全ての穢れ、強欲、これらのことは口にさえもするな。…淫行の者、汚れた者、強欲の者は…、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。

2024年3月3日 四旬節第三主日 大宮での10時半のミサ 

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年3月3日、四旬節第三主日です。
主日のお知らせがあります。来たる復活の徹夜祭では、東京では二人の男性が、大阪では一人の女性が、洗礼を受ける予定です。どうぞこの洗礼志願者三人の方々のためにお祈りください。

さて、四旬節もますます深く入ってまいりました。今日の福音では、私たちの主は悪魔つまり「汚れた霊」のはたらきについて警告されています。「汚れた霊は、人から出ると、休みを求めて荒れ地をさまようが、それを見つけないので、"私が出てきた元の家に帰ろう"といって、帰ってくる。」汚れた霊が帰ってくる。今日、聖パウロも書簡のなかで不潔の罪、汚れの罪について警告しています。

ファチマの聖ヤシンタは、多くの霊魂たちが地獄の火に落ちているのを見て、どんな罪を犯すと地獄に行ってしまうのか、どうしたら落ちないようにすることができるのか、多くの人を助けることができるのか、知りたがりました。そこで、マリア様にお祈りの中で聞くと、聖母はこう答えました。「最も多くの霊魂たちを地獄に引き落とすのは、肉の罪です。」(第三手記)

まだインターネットもYouTubeも携帯もなかった1917年、今から百年以上の前の話でした。現代では、残念なことに、特にインターネットなどのせいで、多くの人びとが不潔の罪のその奴隷になってしまっています。なかには、依存症とか中毒という程度にまで、侵されている人々もいます。

ですから、今日は、聖なる公教会の精神に従って、四旬節の決心を新たにするために、貞潔に反する罪について一緒に黙想いたしましょう。そして四旬節の決心を新たにいたしましょう。

【不潔を避ける】
聖パウロはエフェゾ人たちに「古い人を脱ぎすてて、霊的な思いによって自分を新たにして、正義とまことの聖徳において、新しい人を着なければならない」と言っています。そして今日の書簡で、肉の罪の不潔を避ける、そしてその肉の罪による結果について話しています。今日は聖パウロの書簡に従ってこの二点について、黙想いたしましょう。

聖パウロが挙げている主要な不潔の罪というのは、淫行、全ての穢れ、強欲です。
(1)「淫行」というは姦淫のことで、結婚の枠の外で犯される不潔の罪です。子供の出産という自然なことを必ずしも妨害するものではないかも知れません。が、しかし合法的な結婚の外で犯される不潔の罪です。これに対して、旧約の義人のヨブは乙女のことをあまり考えないように自分の目と契約を結んだといいます。そして、女性を不必要に見ないようにしたとあります。
(2)聖パウロが挙げる第二の罪は、「全ての穢れ」です。これは、子供の出産という目的以外のためになされるすべての不潔の罪です。聖パウロはべつのところでもこう言っています。「肉のおこないは明白である。すなわち、淫行、不潔、猥褻、云々」(ガラチア5:19)ガラチア人への手紙の中にあります。
(3)第三に挙げているのは強欲です。「強欲」というのは、物質的なものをみだりに望むことで、それの中に肉の罪をみだりに望むことも入っていますが、これは物質的な罪と、精神的な罪の中間に位置しています。罪の対象が物質的肉体的なので、ここでは肉の罪のなかに聖パウロは入れています。しかし満足は精神的です。

聖パウロが注意して言うのは、これらについては「口にさえもするな」と言うことです。何故かというと、霊的な戦いにおいては、まず肉の罪が征服されなければならないからです。聖人たちは、肉の罪に関する行動や考えや言葉をすべて控えなければならないからです。聖パウロはこうも言っています。「すべてにおいて私たちは、天主のしもべとしての自分を主張する」(コリント後6:4)。

これ等の三つの罪の次に聖パウロはさらにそれにかかわるそれに付属するものも続けています。「汚行、愚かな話、下品な冗談さえもいうな」。
「汚行」というのは、猥褻な行為のことで、不純な接触や不純に触れることあるいは抱擁すること、あるいは接吻などです。
「愚かな話」というのは、人を悪へと罪へと挑発するような会話のことです。
「下品な冗談」というのは、まさにその通りで、他人を笑わせようとする品のない言葉です。わたしたちの主はこう警告します。「私はいう。人が話したむだごとは、すべて審判の日にさばかれるであろう」(マテオ12:36)と。

これらの聖パウロの挙げた三つのものは、もしもそれが人々を大罪へと犯させるようなものであるならば、その限りにおいて、重大な罪となります。聖パウロは、そんなことではなくて、その反対をすすめています。その反対は何かというと、天主に対する感謝です。むしろ感謝せよ。

【天主の怒り】
では第二に聖パウロはこれらの肉の罪の結果、いったい何が待っているのかということを話します。どのような罰があるかを示しています。「淫行の者、汚れた者、強欲の者は・・・これは偶像崇拝と同じである・・・、キリストと天主との国において遺産を嗣がない。」天の国に入ることができない。そこから、排除される。何と恐ろしいことでしょうか。

ところで、強欲の人が偶像崇拝と同じだというのは、どういうことでしょうか。聖トマス・アクィナスはこのように説明しています。偶像崇拝というのは、天主だけにふさわしい崇敬を被造物にしてしまうことです。ところで、天主のみにふさわしい崇敬というのは、二つがあります。一つは天主を私たちの人生の究極の目的とすることです。第二はその究極の目的に達することができると信頼することです。しかしもしも天主の代わりに、なにか被造物を目的としたり、あるいは被造物に究極の目的に達することができると信頼したりするならば、それが偶像崇拝と呼ばれます。強欲な人というのは、物質的なものを望んで、それを自分の究極の目的としたり、あるいはこの物質的な被造物に全ての信頼をおいてしまいます。ですから、聖パウロは、強欲な人は偶像崇拝者と同じだと言っています。

これらの人々は、遺産を相続しません。何故かというと、父の遺産を相続するのは子供だからです。聖パウロはローマ人への手紙にこう書いています。「私たちが子であるのなら、世つぎでもある。」(ローマ8:17)ところが肉欲の人、血肉の人は、純粋な霊である御父の子とは言えなくなってしまうからです。聖パウロはこう言っています。「兄弟たちよ、私はこう宣言する。「血肉は天主の国を継ぐことができない。朽ちるものは朽ちないものを継げない」と。」(コリント前15:50)

【遷善の決心】
では最後に私たちは、選善の決心をたてましょう。四旬節の中に深く入ってください。主は、肉体において苦しめられました。それは私たちの肉の罪を償うためでもありました。私たちに天の遺産を与えるためでした。わたしたちが贖われた霊魂の価値がどれほど高価であったか、わたしたちの遺産はどれほど高価な値を支払って贖われたのかということを、黙想いたしましょう。肉の罪がそれをすべて失わせてしまう、この罪を忌み憎む恵みをこい求めましょう。罪を忌み憎むということは、罪を痛悔するということです。痛悔の恵みを請い求めましょう。
聖トマス・アクィナスはこうも言っています。"「痛悔をすると言いながら」、痛悔をしているはずのその罪を犯すなら、あるいは以前犯したことをもう一度行うつもりで痛悔すると言っているのならば、あるいは痛悔すると言いながらもその罪を犯しているのならば、これは痛快をしているというよりも、天主を馬鹿にしている、嘲っている、と同じだ"と。

汚れた霊は、もう一度帰ってくると言います。七つの他のもっと悪い霊を連れて戻ってくると言います。もしもわたしたちが罪を忌み憎み、罪を避けようとするならば、貞潔を守ろうとするならば、その目的にふさわしい手段をも取らなければなりません
天主の御助けをもって、罪の機会をあるいは「機械」を、電子機器やあるいは携帯やコンピューターをも、遠ざかるようにしなければなりません。
それと同時に、わたしたちの努力を払うと同時に、天主の聖寵をも信じてください。わたしたちの力だけではかなわない、しかし天主の聖寵があるならばわたしたちにはそれができる、と信じてください。誘惑が強すぎるとか、自分の聖寵の助けは十分ではないなどと絶望しないでください。あるいは自分はまったく無力だまったくみじめだと、だから罪を避けることができない、もう無駄だ、捨てられた、捨てられるべきだなどと、絶望しないでください。その誘惑に負けないでください。イエズスさまの御受難の功力、無限の功徳、十字架から来る聖寵の無限の助け、聖心の私たちへの愛、その憐れみの無限、それを信頼してください。

わたしたちは、四旬節の決心を新たにいたしましょう。携帯やインターネットの使用を制限いたしましょう。夜は早く寝て、早く起きるようにいたしましょう。規則的な祈りの生活、あるいは特別な信心業、十字架の道行きやロザリオの祈り、あるいは霊的読書に励むお恵みを請い求めましょう。
ファチマのマリア様、聖母の汚れなき御心に祈りましょう。特にこの時代において、私たちが身も心も清く守られますようにマリア様にお祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


四旬節は、わたしたちの主の聖心の愛が、わたしたちにますます明らかになる季節

2024年03月02日 | お説教・霊的講話

2024年3月1日初金のミサ 説教

トマス小野田圭志神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

四旬節は、わたしたちの主の聖心の愛が、わたしたちにますます明らかになる季節です。

主が、なぜこれほどの苦しみを喜んで受けられたのか。なぜ罪がなかったにもかかわらず、ポンシオ・ピラトが「わたしはこれに罪を見いださない、何も見いださない」何度も言ったにもかかわらず、鞭打たれそして茨の冠を被せられ、さらには十字架の死刑を受けなければならなかったのか、無罪なのに…。

なぜイエズス・キリストがその重い十字架を喜んで担われたのか。なぜイエズス・キリストが、柔和にして寛仁にして、道にて会う人を自分の苦しみを忘れて慰めたのか。なぜ喜んで手足を延ばして釘付けにせられたのか。その釘はイエズス様の神経を撃って、どれほど激痛が走ったことか。体が倒れたとき、重い十字架が身体をどれほど打ち付けたか、茨の冠がどれほど痛かったことでしょうか。

なぜイエズス・キリストはこれらを受けたのでしょうか。

理由はたった一つしかありません。
それは愛する兄弟の皆さんと私を愛するためでした。わたしたちを地獄の火から救い出して、天国の歓びを与えるためというたったそれだけの理由で、そうすることで御父に栄光を帰するという理由のために、喜んで苦しみを受けられました。

聖トマス・アクィナスによると、御変容の時に御父は、「これこそ私の愛する子である、わたしの心に適うものである」と宣言しました。なぜ心に適うかというと、御父が与えたすべての愛・善をイエズス・キリストはそれをすべて最高に使って、それをもって御父に愛し返したからです。与えた善がすべて最高に使われたので、御父にとってイエズス・キリストは自分の心に適うものとなったわけです。

聖トマス・アクィナスによると、愛というのは、相互の交流だといいます。一方的ではなくて、愛し愛されるところに愛が成立する、イエズス・キリストはわたしたちに御血のすべてを流し尽くして愛を尽くされましたが、わたしたちはいったい何をお返ししたらよいのでしょうか。わたしたちがイエズス・キリストの心に適うものとなるためには、イエズス様に何をして差し上げたらよいのでしょうか。どうやったらイエズス様の愛に、愛を返すことができるのでしょうか。

それは皆さんが今日なさった十字架の御受難を黙想すること、ミサ聖祭に与ること、十字架の生け贄の再現に与ること、御聖体を拝領すること、そしてイエズス様の聖心が貫かれた聖心の愛を黙想することです。

今日皆さんがミサ聖祭に与り、十字架の道行きをされたことで、そして御聖体降福式に与ることで、主の聖心はどれほど喜びにあふれて、そして皆様にますますのお恵みをお返ししようとされることでしょうか。

よい四旬節を、残りの四旬節を、過ごすことができますように、マリア様の御取次をも請い願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


主の御変容:イエズス様の御受難を実り豊かによく黙想するためには、イエズス・キリストが全知全能の天主であることをよく知らなければならない。天主がなぜ苦しまれたのかを知る必要がある。

2024年03月01日 | お説教・霊的講話

2024年2月25日名古屋ミサ 説教

トマス小野田圭志神父 

【上の動画は大阪でのものです】

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年2月25日、四旬節第二主日のミサをしています。

ひとつだけお知らせがあります。次のここでのミサは復活祭の主日です。ここです。復活祭のミサには、多くのお友達の方を誘ってミサに与るようになさってください。ぜひ聖伝のミサのお恵みを皆さんに伝えるようになさってください。

それからもしもできたら、三月、復活祭の前にも、もう一度主日にここでミサができるように、いま計画しています。詳しいことが決まりましたらお知らせします。

わたしたちは、満21歳から満59歳までの健康な成人の男女は、大小斎の義務があります。今過ぎた灰の水曜日と今度の来たる聖金曜日の二日は、カトリック教会は大小斎を守るべき掟の日ですので、寛大に大小斎を守ることにいたしましょう。聖ピオ十世会の司祭たちは、これに付け加えて、すべての金曜日も大小斎を守っています。もしも皆さんもできるならば一緒に加わってください。

さて、四旬節は、わたしたちは教会から特別に、イエズス様の御受難を黙想するようにと招かれています。イエズス様の御受難を黙想するというのは、特に十字架の道行きをしたり、特にイエズス様の十字架の御像の前でイエズス様がどれほどお苦しみになられたのかということを考えて、イエズス様に感謝したり、あるいはお慰めを申し上げたりするときです。ところで教会はこの黙想がよくできるため、四旬節の中にふかく入るために、いったいこの苦しみを受けられたのはどんな方だったのか、その本当の姿はどうなのか、いったいどなたが苦しまれたのか、イエズス・キリストとはいったい誰なのかということを、わたしたちがはっきりと知ることを望んでいます。

今日、四旬節第二主日においては、イエズス様が本当の天主、この世の造り主、全能の永遠の、全知全能の天主であるということを、その姿を、わたしたちの前に知らせようとします。この天主が苦しまれたからこそ、わたしたちの四旬節の黙想もますます利益を受けて、ますます実のあるものとなるからです。なぜかというと、苦しまれたのは、栄光の天主であること、罪のない聖なるお方が苦しまれた、またわたしたちの罪のために苦しまれた、わたしたちを愛するために苦しまれたということを、深く理解できるためです。ですから今日は教会で一緒に、イエズス様の御変容の神秘を垣間見てみましょう。

まず、御変容でイエズス様が輝きだした、これはいったいどんなことだったのか。
それからイエズス様が誰かということを証言する声が――天主御父がそれをした――そしてイエズス様がこれから苦しみの中に入るけれども、いったい何のためだったのか。
これを黙想して、それから四旬節のよい決心を立てましょう。

イエズス様は、まことの天主、まことの人です。特に十二人の人たちの中から三人を選んで、ペトロ・ヤコブ・その兄弟ヨハネ、この三人を連れて高い山に登りました。聖書学者はこれをタボル山だと言っています。その山の山頂で主は突然、身体を、姿を変えました。その御顔は太陽のように燦然と輝きました。なぜ太陽のようにと言ったかというと、もうこの地上で太陽以上に輝くものはないからです。そのように輝いたというのは、人間の言葉を超えるものすごい輝きがイエズス・キリストのお顔から出た、ということです。想像してください。これはイエズス様が天主しか持っていない栄光の御稜威の輝きです。イエズス様は、もちろん、天主の生ける御言葉で、人間となられた方ですから、人間となられたその瞬間から、霊魂のなかには天主の栄光が満ち満ち溢れていました。しかし、御摂理によって、主のご計画によって、イエズス様が苦しみを受けることができるように、死を受けることができるように、私たちのために贖いの業を果たすことができるように、あえてこの栄光が霊魂から出ないようにされていました。恒常的にずーとそれが出ずに、苦しむことができるように、死を迎えることができるような状態として、生活されました。しかしもちろん、天主ですから、自分の全能の力を使って、この本当なら出ないはずの栄光が身体からにじみ出るようにすることも、できました。そして御変容の時には、これをそのまま出して、本当のお姿、天主としての姿を見せたのです。

聖パウロはこう言っています。コロサイ人の手紙のところです。「キリストにおいては、神性のみちみちたものが、すべて、体の形をとってやどっている。In ipso inhabitat omnis plenitudo divinitatis corporaliter.」(コロサイ2:9)と。

また言葉を続けて聖パウロはこうも書いています。コロサイ人の手紙です。「子(キリスト)は、目に見えない天主の姿であって Qui est imago Dei invisibilis」(コロサイ1:15)「すべての被造物の長子である。万物はかれによって創られた。天にあるもの、地にあるもの、目に見えるもの、目に見えないもの、玉座も、主権も、権勢も、能力も、みなかれによって、かれのために創られた。子は万物の先に存在し、万物はかれによって存在する。」(コロサイ1:16-17)

つまり、この光輝くお顔を見せているイエズス・キリストが、すべて全宇宙を支配しておられて、このすべてを創造されて、イエズス・キリストのために万物は創られたということです。そればかりか、わたしたち一人一人皆さん一人一人の運命を、この手に握っておられる方です。すべてをご存じです。私たちが、いったいいつどうやって生まれるのか、またわたしたちがいつどうやってどのようにこの地上から姿を消していくのか、わたしたちの人生の日数をすべてご存じです。どんなに権力あるものも、どんなに貧しいものも、すべてはイエズス様の御手の中にあるからです。

聖ヨハネは、福音書のその最初に、こう書いています。「私たちは、その栄光を見た。それは、御ひとり子として御父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1:14)

この輝きについて一言付け加えると、要はイエズスさまが復活されると復活体として輝くのと、御変容の輝きとは、どのように違うのかということを、一つだけ申し上げます。

御変容の輝きというのは、天主の本性から来る輝きで、復活されたのちの復活体の輝きとは、少し違いがあります。本質としては同じです。天主の栄光から由来するからです。でも、ありかたは、全く同じではありません。なぜかというと、イエズス様の御体は、復活の前は、苦しむことができ死ぬことができるのであって、恒常的な、恒(つね)なる栄光をうけてはまだおられなかったからです。ちょうど聖トマス・アクィナスは、空と似ていると言います。天空と似ていると言います。太陽が昇ると、太陽の光に輝かされて、大気も明るくなります。天地を照らすことができます。しかし太陽が沈んでしまうと、真っ暗になってしまって、星や月が見えます。それと同じように、御変容も、主が自分の天主の本性をいま出そうと思われたので、一時的に変えられたものですが、しかし、それを出そうと思わなければ、そのまま消えてしまうものです。ちょうど天主の力を使って、イエズス様が水の上を歩いたと同じような、天主の力を直接介入させた一時的なものでした。

これに反して、復活したのちの復活体の輝きというのは、恒常的です。つまり、恒にあって普通のことなんです。ちょうど大気が光っているのは普通のことではありませんけれども、太陽があるからこそ光る、一時的なものですけれども、しかし、炎が光を出し輝くというのは、これは普通のことです。恒常的です。ちょうど復活したイエズス様、あるいは、この世で復活した義人たちの復活体が輝きでるのも、栄光に満ちた霊魂からそのまま恒常的に普通に輝きでる炎のようなもので、天主の栄光を霊魂が受けて、それが自然に肉体に滲み出て、それが輝きでる、のと同じです。

では話を元に戻します。この最高の主権者、全能の御言葉、永遠の智慧が、その本当の姿を弟子たちの前に見せた――するとそれのみならず、旧約の律法を代表するモーゼ、それから旧約の預言を代表するエリヤも、姿を現します。

御変容の時にモーゼは、古聖所から現れました。エリヤは、天に生きたまま火の馬車に乗って天に挙げられたエリヤが、天からまた戻って、イエズス・キリストこそがわたしたちが預言したものだ、と指し示します。モーゼも イエズス・キリストこそが律法の完成であり、律法の究極の目的だ、と示すために現れます。全聖書は、イエズス・キリストを指し示しているのです。イエズス・キリストとは、なんという権威のある方でしょうか。

そればかりではありません。いきなり光り輝く雲が、しかもイエズス・キリストとモーゼそしてエリヤそして三人の人たちを取り囲み、その雲の中から厳かな声が‥‥‥よく聴いてください‥‥‥「これは私の愛する子、私の心にかなったものである。これに聞け!」‥‥‥これは、天主御父からの、荘厳な命令でした。

イエズス・キリストがなぜこれほど燦然に輝き全旧約聖書が指し示すメシアであるかといえば、その尊厳高貴さその尊さの根源は何かというと、天主の御ひとり子である、そこにかかっています。天主御父が愛する御ひとり子、本性による天主の御子、であるからです。天主の愛というのはわたしたちの愛とは違っています。どのように違うかというと、わたしたちが愛するというのは何かが良いから愛するのであって、わたしたちが愛するからこれが良くなるのではありません。その反対です。なにか良いから愛する、これがいいなぁと思うから好きになる。ところが、天主の愛というのは、良さの原因なのです。天主が愛すると、これが全部、良いものとなる。良さを、天主の愛が伝えるのです。天主御父は、御子を限りない愛で愛されました。そして、ご自分の持てる無限の善を、御子にすべて与え尽くしました。被造物がもしも天主の良さの一部に与るとしたら、参与するとしたら、そのちょっとだけをもらうものだけだとしたら、天主御子はそのすべてを完璧にその充満を受け満ち満ちていました。善さに満ち満ちていました。善に溢れていました。 

聖ヨハネは福音書の中でこう書いています。「御父は御子を愛し、その手に全てをゆだねられた。」(ヨハネ3:35)御子は、御父と全く同じ本性による、天主です。そしてこの御父から受けたすべての善を、すべてよく使うので、天主御父はこれを非常にこころよく思いました。もしもわたしたちが、誰かからよいものをプレゼントされたとすると、それをよく使ってくれてこそ、贈り主は、使ってくれた!と喜びます。もしもそれが台無しになってしまえば、せっかくあげたのに無駄になってしまった‥‥。御子は、御父からうけたすべての善を、最高にそれを善として使うので、御子は御父の心に適ったものとなります。

ですから、その御子にむかって、御子について、宣言します。
「かれに聞け!」「これに聞け!」
もうモイゼではない、もうエリアでもない。イエズス・キリストの教えに従え!これに聞け!これに倣え!と。これほどの、全能の聖なる永遠の天主なる御父の御子が、わたしたちに教えようとされる、これが四旬節です。特にわたしたちに、ご自分の御受難を通して教えようとされること、これを学ぶことが四旬節です。

ではいったい、わたしたちに何を教えようとされるのでしょうか。ピラトの前で、御受難の真っ最中に、イエズス様はこう宣言します。
「私は真理を証明するために生まれ、そのためにこの世に来た。真理につく者は私の声を聞く」(ヨハネ18:37)またある時はこうもいいます。
「私は、道であり、真理であり、命である。私によらずには、だれ一人も父のみもとにはいけない。」(ヨハネ14:6)

では、御受難を通してどんな真理を証明しようとするのでしょうか?いったいその真理とは何でしょうか。それは、「御父がどれほど聖なる方であって、どれほど愛すべきお方であって、どれほどわたしたちが従順でなければならないか」ということを、イエズス様がご自分の御受難を持って、証ししようとする。また、「罪が、どれほど御父の御稜威をその威光をその栄光を侮辱し傷つけるか」「罪がどれほど醜いのか、罪がどれほど忌むべきものなのか、罪の結果どれほどの償いが待っているか」「その聖なるイエズス・キリストでさえもこれほどにぐちゃぐちゃになるまで罪の償いを果たさなければならなかったとしたら、どれほど罪が恐ろしいのか、醜いのか、忌むべきか、捨てられるべきものか」ということを、わたしたちに教えたいと思ったからです。

主を、この十字架につけたのは、わたしたちの罪です。栄光の、燦然と輝く主を、十字架の奴隷のように、悪人としてつけたのは、罪でした。また、わたしたちが、本当ならば罪のために地獄に落ちなければならなかったところを贖ってくださった、その聖寵のお恵みの価値の貴さ、わたしたちの霊魂がどれほどイエズス様の目にとって尊いものであるか、ということを教えるためでした。栄光の天主が、屈辱を受けるのを厭わずに、喜んで血を流されて、わたしたちの霊魂を救おうとされた――それほどの価値があると思っておられるからです。天主の栄光をすべて投げ打ってまで救いたいと思った――これは、主がわたしたちを同時にどれほど愛されているかというその愛の大きさをも現わしています。わたしたちを愛するためにすべてを投げ打ちました。わたしたちを愛するために苦しまれました。ですから、これこそ、わたしたちが必ず知らなければならない、四旬節の間によーく黙想しなければならない真理です。

それだけではありません。この栄光を、燦然と輝く栄光を隠し持って、自分の霊魂に隠し、そして敢えて苦しみと死に臨んだのは、ご自分に信頼するようにと思う心からでした。たとえわたしたちが罪を犯したとしても、わたしたちは、主が燦然と輝く方だから畏れ多く、この今日の福音の使徒たちのように畏れ多くておののいて遠くに逃げてしまう必要はありません。そうではなくて、たとえ罪を犯して主の御稜威に侮辱を加えたとしても、ご自分の十字架のもとに引き寄せようとしてくださいます。

十字架の上で何とおっしゃったかというと、御子として、御父の本性による子として、燦然と輝く栄光を持つ子として、「父よ、かれらを赦し給え。」とおっしゃったではないでしょうか。また痛悔した盗賊にも、「汝、今日われとともに楽園にあらん。」と約束されたではないでしょうか。イエズス様の御血は、復讐ではなくて憐れみを与える御血だということをわたしたちに教えようとしています。また最後に、イエズス様は、御受難を通してわたしたちに模範を示されます。柔和・けんそん・忍耐・従順・剛毅・貞潔・敵を赦す・あわれみなど。

もしも罪のない天主が、栄光の主が、これほど苦しまれたのなら、罪を犯したわたしたちが、少しぐらい苦しんで当然ではないでしょうか。もしも聖にして聖にして聖なる方が、反逆された、十字架だ、と汚名を着せられて、そして冤罪をかけられたのならば、わたしたちが他人から屈辱を受けてそれをなんと正当化することばかりを考えることができるでしょうか。

イエズス様はこういわれます。「自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。」(マテオ16:24)
私たちはこの人生において、どうしても苦しみを避けることができません。自分の全て思い通りにするということはできません。イエズス様でもできません。イエズス様は私たちの先頭を歩んで、わたしたちに「俺の後を従え。ついてこい。」とおっしゃいます。わたしたちの将軍、リーダーです。わたしたちがその御跡を慕って従うように、手本を残されたのです。

では、今日、四旬節の選善の決心を立てましょう。イエズス様はこういわれます。「友のために命を与える程大きな愛はない」。イエズス様はわたしたちに対して、わたしたちを友として、ご自分の命を棄ててしまいました。わたしたちは何と偉大な友を持っていることでしょう。全能全知の栄光の天主を友として、その友が友人が親友がわたしたちのためにこれほど苦しまれた、ということです。愛する友です。

子どもはお父さんが亡くなったというと、涙を流します。妻は、夫が病気だ、苦しんでいる、事故にあった、と聞けば、オロオロして夫のために心配して悲しみます。友人は親友が不幸にあったといえば、嘆きます。

イエズス様が私たちのためにこれほどの苦難を受けようとされることを黙想するこの四旬節、わたしたちは、いったいなぜ石ころのように冷たいこころのままでいることができるでしょうか。なぜ、わたしたちの目は岩のようにカラッと乾ききって、涙の一つも一滴も出ないのでしょう。ペトロは、イエズス様を否んでしまいました。女中の声を恐れて三回も。しかし、イエズス様の目をちらりと見て、そのとき「外に出てはげしく泣いた」と福音書には書かれています。わたしたちも聖ペトロのように、イエズス様の眼差しを見て、激しく泣くことができるように、罪を痛悔することができるように、この四旬節のお恵みを求めましょう。

聖パウロはこう言っています。「主のみ旨はまさにこれだ、あなたたちが聖となること。」つまり、イエズス・キリストと似通ったものとなることです。

ではわたしたちは、具体的に、四旬節の犠牲の決心をたてましょう。痛悔の心を捧げましょう。特別の祈りを捧げる、という決心を立てましょう。毎日時間を決めて十字架の道行きをする――すばらしい四旬節の決心です。大小斎を捧げる、毎日大小斎を捧げる――素晴らしい決心です。施しをする、犠牲をする――とてもよい決心です。携帯を使わない、あるいは最小限にする、動画を見るのを断食する、ユーチューブはもう放棄する――なんとイエズス様の聖心にかなう四旬節の決心でしょうか!

ますますわたしたちが世俗から離れて、イエズス様の御受難を黙想する時間を作ることができますように、マリア様に特別のお祈りをいたしましょう。マリア様と共に、四旬節の聖なる時を過ごすことができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


2024年2月12日無原罪聖母の騎士会霊的講話3:マリア様がわたしたちの母であるということの結論:尊敬、愛

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月12日無原罪聖母の騎士会霊的講話3(ファイファー神父様)

アリストテレスによると、軍隊の一番大切なポイントというのは、兵士たちがその指揮官と一致しているということです。

ところでわたしたちの指揮官は、マリア様です、無原罪の御孕(やど)りです。そしてマリア様とわたしたちは一致していますが、その理由はマリア様がわたしたちの母親であるからです。

ですからこの今日いまのお話の内容は、マリア様がわたしたちの母であるということの結果、具体的にいったい何が、どういうことが起こっているのか、ということを黙想します。

【尊敬】
まずマリア様がわたしたちの母親であるということの最初の結論は、天主の十戒の第4戒、つまり母親に対する親に対する尊敬です。

このマリア様にはどのような尊敬がなされているかということは聖書を見るとわかります。大天使聖ガブリエルは、マリア様の前で頭を下げ、そして聖寵に満ち満ちているお方、と申し上げました。

また聖ルカによると、イエズス様が御降誕されたときには、天が開いて天の天使たちが、贖い主がお生まれになったことを賛美して、そして、このベトレヘムの貧しい家族に尊敬を払いました。

また、それのみならず、天使だけでなく、羊飼いたちもそして東の国の博士たちも、マリア様の前に行って、お生まれになった王の前に跪いて礼拝しますが、もちろんこの王をわたしたちに産んでくだったお母様であるマリア様の前にも、特別の尊敬を払いました。

でもこの尊敬というのはたんなる尊敬ではなくて、宗教に基づく宗教的な尊敬で、つまり天主に向けられた尊敬の一部でした。

なぜかというと、この母と子どもに対する尊敬というのは、天主がこの子どもを送られたのであり、天主がその子供を産むようにこの母親を送ったのであって、天主がわたしたちの救いのためにこの子どもを送ったのであって、わたしたちの霊魂のために天主がこの子どもを送ったのだから、この子どもと母親に対する尊敬というのは、究極には天主に向かうものであって、天主に対する尊敬にたどり着くからです。

そこで、ところがプロテスタントの異端者の人たちは、カトリック信者がマリア様の前で跪いて尊敬を表すと、服を引き裂いて、「あー、スキャンダルだ!」「冒涜だ」「偶像崇拝だ」といいます。でも、プロテスタントは、天主とマリア様を引き離そうとしているからです。

しかし、マリア様をもしもわたしたちが尊敬するとしたら、それは実はマリア様が私たちにキリストをもたらしてくださったからです。それ以外の何物も理由はありません。ですからこのキリストをわたしたちにもたらしてくださったマリア様こそ、すべての代々はわたしを幸せなものと呼ぶだろう、とおっしゃった通りに、幸せなものと呼んでいるのです。

また“めでたし”も同じです。「御身は女のうちにて祝せられ、またご胎内の御子イエズスも祝せられ給う。」マリア様は祝せられたイエズス様をくださったからこそ、祝せられたといわれます。

【愛】
第一は、マリア様の母であるということの第一の結果は、わたしたちが宗教的な天主にかかわる尊敬をマリア様に捧げるということですけども、第二は愛です。まず母と子どもの間には愛があります。

この母と子どもの間の愛は、特に、マリア様の汚れなき御心が持っているイエズス様の聖心に対する愛、そしてイエズスの聖心が持っているマリア様への愛、これ以上のものはありません。特に、イエズス様は、マリア様との愛は愛で一致しているので、このすべての玄義を神秘をマリア様と分かち合いました。

聖ピオ十世教皇様は、無原罪の御孕(やど)りに関する回勅の中で、こう仰っています。「天主の御子がマリア様によってご托身した時に、新しい超自然の秩序、新しい超自然の世界がはじまった、と。そして救われる人は、すべてこの新しい秩序に、この世界に組み込まれなければならない。」

でも、この新しい超自然の秩序、新しい世界は、まずその最初は、二人のみこころ――イエズス様の聖心とマリア様の汚れなき御心――の愛の中で、確立しました。この愛がはじめとなって、この新しい世界の秩序が確立しました。

では、もしもわたしたちがその新しい秩序の中に入り込むにはどうしたらよいでしょうか。愛さなければなりません。もちろん天主はわたしたちを愛してくださって、その愛のおかげで洗礼を受けることができました。ですからそのお返しのためにも、その愛を返さなければなりません。ではだれを愛するのですか? 天主を、そして、イエズス・キリストとマリア様を愛さなければなりません。ですからプロテスタントのいうように、イエズス様だけを愛してマリア様を愛さないということはできないのです。なぜかというと、互いに愛するみこころは一致していて、もう分かちがたく離れがたくひとつになっているからです。愛は一つにまとめますが、誤謬は分裂させます。

ですから、わたしたちは、イエズス様とマリア様が互いに愛しあったように、わたしたちも愛さなければなりません。このわたしたちの宗教は、ここに基礎を持っています。では、どうしてわたしたちがそんなことができるのでしょう。なぜかというと、わたしたちは聖霊を受けていて、それで霊に導かれた者として「アッバ!父よ!」と呼ぶことができるからです。わたしたちは天主の子どもたちとなったからです。ちょうどマリア様を聖霊の陰がおおったように、聖霊がわたしたちに宿って天主を「父よ!」と呼ばせてくれるようになったからです。そしてその聖霊によってわたしたちは愛することができるようになるのです。

わたしたちがこどもである、養子である、ということをよく考えると、どれほど感謝しなければならないでしょうか。なぜかというと、聖パウロは「わたしたちが相続人となった」といいます。子どもとなったということは、つまり相続人となったということです。つまりイエズス・キリストにおいてのすべての富の財産が、天の宝が、わたしたちのものとなるということであるからです。つまり、「子どものなかでも二級のこどもとか三級の子どもとかがあり、本物の子どもはここにいるからこの子だけは特別だけれども、あとはもうどうでもよい」というのではないんです。そうではなくて、天主と全く同じ権利を持つ、すべての権利をわたしたちが同等に持つ、それが現実なんです。ですから、たとえこの地上で、病気とか辛いこととか悲しいこととか…があったとしても、それは大したことではありません。なぜかというと、この短い生涯の後に、永遠の現実が、わたしたちに待っているからです。ものすごい富を、相続することになっているからです。ですから、わたしたちは子どもとして、天主を愛さなければなりません。その現実を愛さなければなりません。

マリア様が母であるということの結果として愛がありますけれども、そのなぜ愛するかというその理由のさらに理由は、ただ単に相続人であるからだけではありません。つまり、わたしが相続人だから、チケットがここにあるから、そのお金をくれ、というのではなくて、実はわたしたちは、キリストの神秘体の一部に組み込まれるので、キリストはわたしたちをご自分の身体として愛されている。たとえばわたしたちが病気だとかいうときにはいつも、自分の身体を憎まずに自分の身体を大切にして、この病気を癒すようにしますが、それと同じように、わたしたちを自分の一部として愛されています。たとえば、結婚のときに聖パウロはこう言います。「夫よ、妻を愛せ。妻はお前の身体の一部だ。妻よ、夫に従え。夫はお前の頭(かしら)だ。一つの身体だ」というように、私たちはキリストの体の一部となったという非常にパーソナルな理由によって、愛されているので、わたしたちはキリストの身体を、神秘体を愛さなければなりません。

【貞潔を愛する】
もしもわたしたちがキリストの神秘体の一部であるとしたならば、天主が純潔を愛されるようにわたしたちも純潔を愛さなければなりません。不潔は、天主の神殿を汚します。ですから私たちの身体も、純潔のまま貞潔のまま守らなければなりません。天主は昨日も今日も将来も変わることがありません。天主はマリア様を童貞の母として愛されました。今日もその純潔を、貞潔を、天主は愛されています。でもいま現代は、非常に不潔の時代となって、しかもこの不潔を祝福しようと試みる教皇様さえいる時代になってしまいました。しかし天主は不潔を愛しません。聖パウロによると、不潔なものは天の国に入らない、と書いてあります。なぜかというと、不潔は神秘体の一部となることができないからです。また、「これは私の身体じゃない」と天主が拒否するからです。ですから、天の国に入ることはできません。もしもわたしたちが超自然の神秘体に組み込まれるのならば、その結果わたしたちは貞潔を、純潔をも守らなければなりません。

どれほど貞潔が重要かということを、ちょっと描写してみますと、童貞殉教者たちがそうです。殉教したというのは、まず信仰を守るため、そしてじぶんの身体の貞潔を守るために、彼女たちは、あるいは鼻を削がれ、あるいは目を引き抜かれ、あるいは胸を切りとられ、あるいはいろいろな拷問をうけて、身体は引き裂かれてボロボロになったにもかかわらず、そして宣伝のためには見た目にはもしかしたらそんなにきれいではないかもしれませんけれども、非常に美しい殉教童貞者です。ところでよくどっかの雑誌を飾るような女性は、もしかしたらお化粧もして綺麗な身体をしているかもしれませんけれども、しかし霊魂は不潔で、そして宣伝のためにはいいかもしれませんけれども、しかし永遠の命のためには何の益もありません。殉教者は、信仰の純潔のため、そして体の純潔のためにその命を落としました。

貞潔を守るために一番よいやり方は御聖体拝領です。よい、最も完全なやり方で、御聖体拝領をすることです。でもわたしたちは原罪を持っているので、わたしたちはどうしてもその貞潔を守ることができません。つまり不潔の臭いがします、ですから体に香水をつけて臭いを消すように、わたしたちの霊魂の臭いにおいを、香水をつけて消さなければなりません。そして霊的な香水というのがあります。それがマリア様です。マリア様は霊的にわたしたちといらっしゃるときに、わたしたちの臭いが取れてしまうからです。なぜかというと、例えばイエズス様はそのお生まれになったとき、あるいは最初の奇跡をされた時、あるいは十字架の下で、いろんな重要な時に必ずマリア様とともにおられたからです。それと同じようにわたしたちもマリア様と共にいる時に一番よいことができます。

【聖母と共に行う聖体拝領】
ですから、聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様がなさったようにマリア様と一緒にマリア様の隣にいて御聖体拝領をするのが一番よい御聖体拝領ができるやり方だと言っています。ですからマリア様と一緒にミサに与り、マリア様と一緒に御聖体拝領に並んで跪いて、そしてマリア様と一緒に御聖体拝領をしてそしてマリア様と一緒に自分の席に戻る。そしてマリア様に「どうやってお祈りしたらよいですか?」と聞いてください。なぜかというと「私は ほんとうにこう頭がカラッカラでスカーッとまるで何もわかってないので…」と、マリア様に私の代わりにお願いしますと、マリア様に話しかけてください。マリア様と一緒に祈るのが最高の御聖体拝領ができるやり方だ、とグリニョン・ド・モンフォールは勧めています。

「御聖体拝領をマリア様と一緒にする」――この御聖体拝領は、わたしたちの全生涯のパターンでなければなりません。この御聖体拝領のように生活しなければなりません。イエズス様と一致して生活しなければなりません。わたしたちの霊的生活の目標であるべきです。ですから、もしも御聖体拝領をマリア様と共にするのならば、今度はミサの外でも、仕事をするにも朝起きるにもご飯を食べるにも、マリア様と一緒に起きてマリア様と一緒に仕事をしてマリア様と一緒にご飯を食べてマリア様と一緒になんでもする。これが「マリア様の聖なる御手の中で生きる」ということで、これこそがM.I.がその奉献を通して目標とすることです。

【イエズスは常に聖母と共に行った】
プロテスタントの人は、こう言うかもしれません。あるいはプロテスタントに影響されたカトリック信者は、こういうかも知れません。「あれっ、イエズス様はどこにもいるんじゃないですか。イエズス様と生活するのはとってもいいことだけれど、でも、なんでマリア様が必要なんですか。なぜマリア様が巻き込まれなければならないのですか。マリア様なしでもイエズス様と一緒にやることができるんじゃないですか。」

しかし、イエズス様は一人ではなにもなさらなかったんです。なにもなさりません。たとえば、イエズス様は三位一体の第二のペルソナで、常に、父と子と聖霊のその三位が働きます。そしてイエズス様は一人で人間になったのではありません。というか、バッと降りて来て人間になってババーンと降りてこられたのではなくて、マリア様のご胎内におられて、マリア様を通してわたしたちのところに人間としてお生まれになられて来られました。ですから、イエズス様はもしもわたしたちの霊魂を救うとしたら、一人でやるのではなくて、どうしてもマリア様とともにやるしかありません。

これが、イエズス様の「協力の法則」です。そして、すべてにおいて、わたしたちの協力を求めておられる、マリア様と一緒になされる、ということです。特に聖パウロは、ギリシャ語を作って、協力者と言う言葉を作って、イエズス様の協力者となるということを求めました。

聖パウロは、新しいギリシャ語の言葉を作り出して、共同行動者、共同に働く者、あるいは共同のパートナー、あるいは共同の身体を持つ者、という単語を作って、一緒にやるということを強調しますが、ではいったいマリア様はなんなんでしょうか。

では、もちろんわたしたちは、協力者、一緒に共同して働く者となりますが、ところでマリア様は、わたしたちの共同・協力のレベルをはるかに超えています。なぜかというと、マリア様は天主のすべての神秘に参与して、イエズス様と一緒にそれをおこなったからです。

マリア様が最も高いレベルにおいて協力してご一緒に働らかれた・人となった御言葉の御母となられた、ということなのですが、これはわたしたちM.I.にとってこのことを理解することが非常に大切なのですけれども、「マリア様は最も普遍的なレベルにまでその協力をなさった」ということです。わたしたちが協力するというのは、個別のところにおいてですけれども、マリア様はすべてにわたって普遍的な協力をイエズス様にされたということです。

【マリア様はわたしたちの協力を必要とする】
このことから導き出される結果は何かというと、このマリア様は絶対的に必ず必要条件として、この個別の協力者を必要とするということです。個別の働き手あるいは兵士たちを必要としていて、このことが天主の御摂理のご計画なんです。

では、マリア様はわたしたちの協力を必要とするというのは、いったいなぜなんでしょうか。そしてどのようにしようとしているのでしょうか。なぜかというと、これは天主の正義がこれを要求するわけです。なぜかというと、たとえば、もしもわたしたちの先祖のキリシタンが…おじいさん…立派な方でとても聖徳の高い方で、今は天国で栄冠を被っているとしたら、だからわたしたちはおじいさんがいるから何もしなくいいというのではなくて、もしもそのような偉大な祖先をもっているのならばわたしたちもそのような祖先のように行動しなければなりません。マリア様も、わたしたちのために貞潔を守ることはできません。もちろんマリア様が私たちのために、わたしたちが貞潔を守ることができるように、祈りそして助けることはできますけれども、マリア様はわたしのするべきことを代わりにしてくださることはできません。それはわたしたちがしなければなりません。ですから、私たちが協力することを必要とされているのです。

では私たちがやるべき協力とはなんでしょうか。わたしたちは何をすることができるでしょうか。それは、わたしたちが罪に対して戦うことです。コルベ神父様は、わたしたちは毎日わたしたちの罪をなるべく少なくするように、罪に対して罪を征服しなければならない、罪に打ち勝たなくてはならない、と言っていました。

ですから、私たちは、罪に対して戦って、罪の王国に対して戦いを挑んで、その罪の王国のテリトリーを小さくしなければなりません。私たちの霊魂にその戦いがあります。

もしも皆さんが親御さんであれば、子どもたちが今後罪を犯さないように、手伝ってあげなければなりません。

もしもみなさんが、お父さんお母さんでいらっしゃるならば、家庭という要塞を、敵に対して守らなければなりません。ですから、もしもこどもたちが罪の機会に自由にアクセスできたりするのならば、お父さんお母さんはつまり軍隊の指揮官として、作戦が失敗したということです。ですから携帯あるいはその他が、いったいどのように使われているかを、厳しくコントロールしなければなりません。

それは、もちろん簡単なことではありません。でも、目標があります。このような戦いをマリア様となさってください。もしかしたら、わたしたちは罪にたいして戦いを挑むがために、屈辱を受けるかしれません。辛い思いをするかもしれません。長い戦いをするかもしれません。でももしも、マリア様と共に行うならば、マリア様は私たちをサポートしてくれますし、マリア様はその戦いに報いを与えてくださいます。

また、自分の要塞を守る・家庭を守るという防御のみならず、攻撃も考えなければなりません。つまり、わたしたちの霊魂あるいは家庭のみならず、この世界において、マリア様の支配を確立させるということです。つまり政治においてあるいは病院あるいは間違った宗教を信じている人に対して、そのようなところからその間違いから真理へと、導き出してあげなければならないということです。これがM.I.の目標の一つでもあります。もちろんこれは難しい仕事ですけれども、マリア様と一緒にならばマリア様の助けを持っているならば、必ずこれはできます。

わたしたちは、M.I.の単純な義務を、よく実行するようにしましょう。M.I.の毎日の祈りを毎日唱えてください。もしもこれを暗記することができなかったら、おやつはないと思ってください。それから毎日不思議のメダイを身に着けてください。それができたら、そしてその次には、こんどは愛徳を持って、友だちにあるいは友達でないひとでもメダイを差し上げてください。そしてマリア様のもとに連れてきてあげてください。もちろん難しいケースがあります。でも難しいケースであればあるほど、それが回心した時には、天においてはマリア様にものすごい喜びがあることでしょう。

では、これで今回のお話はおわりますけれども、最後にM.I.の祈りを皆さんで唱えます。

三回このお祈りを唱えますけれども、まず最初に一回目は男性がこの祈りを唱えてください、二回目のお祈りは女性だけでこれを唱えてください、最後の三回目は男性も女性も声を合わせてこれを唱えて、これを終わります。

聖父と聖子と聖霊との御名において、アーメン。

(三回のM.I.の祈り)ああ原罪なくして宿り給いし聖マリアよ、御身に依り頼むわれらのために祈り給え。また御身に依り頼まざるすべての人々、特にフリーメイソン会員のため、また御身に委ねられ奉りしすべて人々のために祈り給え。


無原罪聖母の騎士会霊的講話2:聖母が使徒の元后であり、すべての人の元后であること

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日無原罪聖母の騎士会霊的講話2(ファイファー神父様)

【講話2】聖母が使徒の元后であり、すべての人の元后であること

たとえ聖伝の信者さんでなかったとしても、あるいはカトリック信者でなかったとしても、カトリックの精神をM.I.のお祈りによって教えてあげてください。
(神父様たちがお祈りのカードを信者の方々に配ってくださった。)

では、マリア様が使徒の元后すべての人の元后であることを、黙想いたしましょう。

マリア様の霊的な子どもたちはみな使徒たちでした。最初の子どもたちはみな使徒たちでした。洗者聖ヨハネも使徒だと考えることができます。

マリア様の御子であるキリストは父から使わされたものでした。そして使徒というのは、使わされた者という意味です。ですからイエズスさまもこうおっしゃいました。わたしが父から使わされたように、わたしもお前たちを使わす。そしてみなさんも、マリア様によって使わされた者たち、使徒たちとなります。

マリア様は、特に聖霊降臨の時に、特別の役割をしました。

聖ルカは、使徒行録の中で、聖霊降臨の時にこう描写しています。
「使徒たちは婦人たちと、そしてイエズスの御母マリアとともに、祈りに専念していた。」
ところで、イエズスの御母マリアという言葉を特別に出していますが、これがなぜかというと、マリア様が聖霊降臨の中でも特別な道具であったからです。

もちろん聖ペトロ、聖ヨハネ、そのほかの聖なる人たちもいましたが、マリア様が最も聖なる御方でした。教父たちは、ちょうど聖霊が降臨するために必要だった避雷針のように、聖霊の火がマリア様を避雷針として降りてきた、と言っています。

ところで、福音書を読むと、聖霊降臨には二つあります。一つはお告げの時に、聖務日課によると、「聖霊はマリア様の上に降ってマリア様を聖霊の力が覆った」とあります。そして聖霊が降って、マリア様を聖霊の陰が覆ったときに、マリア様を道具としてマリア様の身体を使って、イエズス・キリストの御体が形つくられました。ところで第二の聖霊降臨の時には、マリア様の祈りを通じて聖霊が降って、そしてマリア様の祈りを通じて聖霊の力によってキリストの神秘体が形つくられて、神秘体が生れ出ました。ですからマリア様は、聖霊降臨の特別の道具と言えます。

ところで、カトリック教会が生まれたときに何をしたかというと、まず聖ペトロが外に出て説教をして、そして4000人が洗礼を受けます。そしてそののちに使徒たちが世界中に行って、宣教使徒職を行うのですけれども、その背後にはマリア様の祈りがありました。

主を愛した聖ヨハネは、十字架のもとに立ち止まりました。聖ペトロも、復活後イエズスさまから尋ねられました「お前はわたしを愛するか」と。ペトロは答えます「はい私は愛します。」と。そして愛の使徒たちの元后がマリア様でした。また主を愛する人々は、主を愛するがゆえに、キリストを伝えますが、その主を愛する人々の女王・元后もマリア様です。

わたしたちが天主を愛すれば愛するほど、その愛は隣人に対する愛に及びます。そしてその隣人の救いを求めるようになります。ところでマリア様は、天主を最も最高に愛した方でした。ですからマリア様こそ、最も隣人のすべての人々の救いをお望みになられています。ところで、イエズス様が天国に挙げられたのちにマリア様は地上に残りました。マリア様のまわりには12人の使徒たちがいました。そして12人の使徒たちが宣教に生きそして説教をし、洗礼を授けるのですけれども、いったいマリア様はかれらのために何をすることができたのでしょうか。どうしてサポートすることができたでしょうか。マリア様はもちろん、もしも説教をしようとするとすれば、12使徒たちよりもどれほど上手い説教ができたことでしょう。また洗礼を授けたら、マリア様ほどうまく洗礼を授ける人はいなかったでしょう。しかしマリア様はそれらのことを一切なさらずに、12使徒たちの使徒職の心となって、そして聖寵のお恵みの道具となって、かれらのために祈っていました。そしてマリア様は教会の愛となって、愛の道具となって、そしてすべてのお恵みを自分のところに留めておくいわば倉庫のようになっていて、その倉庫から使徒たちがいろいろなお恵みを取りたいだけ取ることが、配りたいだけ配ることができるような、教会の愛になりました。マリア様のこころは、天主への愛に満ち満ちていたからです。

ところで、マリア様の活動は、祈りの活動・愛の活動であって、隠れた活動でした。家庭のお母さんが家の中にいながら偉大な業をするように、マリア様も隠れて愛の業をしました。M.I.の無原罪の聖母の騎士の後ろには、この愛の業があります。愛の業には、ふたつの要素があります。一つは、教会法に従った愛のあらわれであって、これが司祭やシスターたちをどこかに送る、司祭を派遣する、シスターたちを派遣する、修道会を派遣する、という教会の公式の法的な愛の業です。しかし、もう一つの愛の側面は、自発的に全く自由に、たとえば子供が、「僕司祭になりたい」、「お父さん私は司祭になりたい」、「自分をイエズス様にお捧げしたい」などというまったく自発的な愛の業です。

偉大な愛を持てば持つほど、より多くの偉大な愛の業をすることができます。たとえば聖ヨハネ・ユードという方は、フランスのとても偉大なマリア様への愛を持っている汚れなき御心への信心をもった方ですが、その聖ヨハネ・ユードは貧しい人にもあるいはフランスの王にも同じように説教し、そして多くの人々に感銘を与えました。あるいは、聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様の最も偉大なマリア様のしもべとして説教をして活動された方です。愛を持てば持つほど、偉大な業をすることができます。いま現代に無いのが、この愛です。

ところでもう一つの側面を見てみます。マリア様に対する愛の使徒たちがいる一方、他方で異端者やセクトあるいはフリーメイソンとかの活動家も存在します。敵の活動家も存在します。かれらは非常に活動好きで非常に熱心で、普通の一般的なカトリック信者たちよりももっと熱心に働いているかもしれませんが、いったい彼らはどのような特徴を持っているでしょうか。

かれらの第一の特徴は、かれらが非常に人間的な手段に頼んでいる、ということです。例えばいろいろなメディアに依ったもの、あるいは強力な有事なコネがあるとか、あるいは優れたビジネスの戦術があって世界中に広がるようなビジネスの繋がり、あるいは心理学に基づいた作戦を立てている、など。

第二の特徴は、従順というものを憎んでいる、嫌っているということであって、権威に服従するということができない、あるいは軽蔑する、ということです。なぜかというと、自分の意志を否定することを、自分の意志を誰かに従わせるということができないからです。そのようなことは考えにもないし、そのような霊性もないし、そのようなつもりもないからです。ですからかれらは 自分たちで一つにまとまることができずにいろいろな分派に分かれて相互いに戦っています。

第三は、かれらは本当の祈りを無視している。もしかしたらビジネスの一部として祈りがあるかもしれませんけれども、使徒職のために絶対必要なエッセンシャルなものとしては祈りを信じていない。そうでなくて、かれらはむしろ人間的な手段を頼みにして、祈りが必ず必要だとは思いもしない、ということです。

第四は、十字架を恐れている、十字架を避けている、そして十字架の結果の屈辱・死を恐れている。キリストはもしかしたら十字架につけられてかつて亡くなったかもしれませんが、しかしだからといって私たちがそれに参与するとかそれを続けるとかということは考えもしないし、それへの愛もないし、それへの信頼もない。「十字架を恐れる」、これは非常に悪魔的であって、もしかしたら今現代カトリック信者もこれのその恐れがほとんどの人が持っています。

では「本当の使徒」の持つ愛というのは何でしょうか、どんな特徴があるのでしょうか。その「偽の使徒職」と、どのように違うでしょうか。見てみましょう。

本当の使徒職というのは、使徒職が何かということを理解することから始まりますが、使徒職とは何かというと、天主への愛です。愛であって、活動ではありません。ですから愛――イエズス・キリストへの愛――十字架につけられたイエズス・キリストへの愛が、大事になります。

十字架の力というのはイエズス様に対する愛、十字架に近寄る、イエズス様に似通ったものになる、これこそがマリア様のなさったことではないでしょうか。十字架のもとに佇まれて、そして苦しまれました。今日はルルドの祝日でありましたが、聖ベルナデッタがルルドのマリア様をご覧になったときに、マリア様のすぐ近くで何か大喧騒がありました、大きな騒ぎがありました。悪魔のような騒ぎだったのですけれども、そのとき、現れたマリア様はそのほうをゆっくりと眺めるとあっという間にこれがピタリと止まって、終わってしまいました。マリア様のただ一目が、すべてを終わらせました。悪魔の大喧騒も終わってしまいました。つまり、もしも皆さんが苦しんでおられるのなら、特にマリア様を愛するがために困難なことがあったり苦しんでいるのであるならば、マリア様はわたしたちのすぐそばにいるということです。

第二の特徴は、十字架に対する愛の結果、わたしたちはけんそんと屈辱をも愛するということです。マリア様がそうでした。マリア様は われは主のはしためなり、仰せのごとくわれになれかし。従順であってけんそんでありました。けんそんな人というのは、主の必要としていることをよく自覚している人でした。イエズス様御自身もそうでした。自分も死に至るまでの従順!十字架の死に至るまでご自分を従順にされました。

第三の特徴は、どんな手段よりも祈りこそが最も本質的で最も必要な手段であるということを確信しています。マリア様の使徒職は祈りの使徒職でした。無原罪の聖母の騎士会もこれを知っています。わたしたちにとってもっとも必要なのはこの祈りです。「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身により頼み奉る我らのために祈り給え。また、御身により頼まざるすべての人々、特にフリーメイソン会員のため、また 御身に委ねられ奉りしすべての人々のために祈り給え。」

第四の特徴は、教会の権威に喜んで服従して従順であるということ、ここに天主のみ旨を見るということです。マリア様はそうでした。天主のみ旨こそを、自分のやりたいことよりももっと優先させるということです。自分のことは一番最後に…です。聖ペトロがアンチオキアに教会の司教座を作ったときには、マリア様はそれに従いました。なぜかというと聖霊が教会において働いていることを知っているからです。

M.I.無原罪聖母の騎士会はマリア様の御心から生まれました。コルベ神父様はこれを軍隊と言いましたけれども、それをマリア様の御心から生まれたものとしてとらえました。マリア様の御心からうまれたこのM.I.は、キリストの神秘体の多くのメンバーやその自分の体の機能を良く果たすことにあります。眼が口になり、口が手になることではなくて、眼は眼として手は手として自分の身分上のつとめを良く果たすことによって、マリア様の使徒職を行うことにあります。

そうすることによって、マリアさまの愛とマリア様の精神によって生きることになります。たとえわたしたちが使徒でなかったとしても、わたしたちが誰かに積極的に論争したりする人でなかったとしても、わたしたちすべてが使徒的な精神を持たなければなりません。もしもそのような使徒的な精神がなければ何の役にもたちません。もしもでも、そのような使徒的な精神を持っているのならば、一般の家庭のお母さんでも、子どもを養っているお母さんでも、あるいは大工さんでも、あるいはどのような労働者でも、神秘体の働きすべてに信じられないほどの力を提供することができます。そのような精神を持って日常生活を送る人は、天主から私たちの心に多くの光を受けることになり、人々の心を回心させるのは、その紙きれのパンフレットあるいはチラシではなくて、心です。心は心からしか行きません。ですから霊的なものであって、神秘的な働きがなければ、人の心は回心することができません。でもマリア様は使徒の元后であり使徒職の元后でありすべてのこころの元后・女王であるので、マリア様の道具として使徒的な精神を持ってお捧げする一般の人たちはマリア様に多くの協力をすることになり、またマリア様の汚れなき御心からわたしたちに特別な光をいただいて、そしてわたしたちの周りに大きな影響を与えることができるようになります。

M.I.の無原罪聖母の騎士会の目的は、わたしたちをマリア様の道具として奉献することです。ただ、どのような道具かというと、使徒職の目的のために、その使徒職ということのために、道具として捧げることです。そしてこの使徒職ということは何かというと、すべての人々の回心のため、またすべての人々の聖化のため、そういう使徒職のためです。ちょうど告解の時に司祭が罪の赦しの祈りを唱えるときに、その中の一つに痛悔した人に対して「あなたが行うすべてのことはどのようなことであれすべてのことが罪の赦しのためになりますように」という祈りがありますが、それと同じように、わたしたちの行うすべてのことがマリア様の使徒職のために、回心と聖化のために役立ちますように、という意向で奉献して、捧げるのです。

四つの義務があります。一つは、わたしたちは、マリア様の道具として奉献することです、「わたし」を奉献すること。第二は、この奉献のしるしとして不思議のメダイを身に着けること。第三はわたしたちができる限りのことをマリア様の名誉のためにすること。たとえば私がいまから提案するのは、皆さんが更新の式のときに3つの不思議のメダイを皆さんにプレゼントしたいということです。このマリア様の名誉のための使徒職としてこの三つのメダイを使ってください。どうやって使うかというと、これは皆さんのボーイフレンドあるいはガールフレンドのためにプレゼントするのではなくて、そうではなくて、まずカトリック信者でない方がカトリック信仰をもってカトリック信者になることができるようにするために、これをさしあげてください。でもそれのためにはうまーくやらなければなりません。そしてもしもカトリック信者にこのメダイを挙げようとするときには、それはカトリック信者がM.I.無原罪聖母の騎士会に入会するために、差し上げてください。あげてください。どのようにするかというと、非常に簡単です。聖ピオ十世会に入会するのではなくて、聖母の騎士会に入会するのであって、これは、
「あなたはマリア様を愛していますか?」
「もちろん、マリア様を大好きです。」
「マリア様がすべての人が回心するのを望んでいるのを知っていますか?」
「もちろん、マリア様が お母さんが 回心するのを望んでいるのを知っています。」
「でもアリア様は、でも回心のためにあなたの助けが必要なんですけれども、あなたはマリアさまのために何かしてあげたいと思いませんか?」
「はい。なんでもしてあげたい。」
「じゃあM.I.に入ってください。M.I.の会員です。」
そうして、その人が会員になるときには、このようにここに連れてきて、会員の入会式をするようにしてください。そして会員になったら、皆さんこの会員になった方のフォローアップをされて、ちゃんと不思議のメダイを身に着けているかあるいはちゃんとこのM.I.のお祈りをしているかどうかを確かめて、もしもしていなかったらするように励ましてあげてください。もしも6人の人がM.I.になったらば、そして一日一回そのお祈りをするならば、マリア様に1分の祈りの武器をあたえることができるようになります。それが多くなればなるほど、マリア様にますます武器を与えることができます。大変力強いものとなります。

今から更新式あるいは入会式を、行います。入会式も更新式もまったく同じことをするのですけれども、入会されたいということのためには入会の請願書を、そして更新されたい方は皆さんのお名前とそして更新という文字を書いて、そして提出してください。そうするとそれを見てデーターのところに登録することできます。

M.I.のメンバーの方は、カルメル山のスカプラリオも持っていなければなりませんけれども、皆さんお持ちですか。

不思議のメダイはマリア様の兵士であるというしるしで、スカプラリオはマリア様の家に属する子どもであるというしるしです。M.I.に入る方は、自動的にマリア様の子どもとして、スカプラリオも身に着けてください。ではいまから更新式と入会式の準備をしますので、用紙を配ります。

 


無原罪聖母の騎士会霊的講話1:聖母マリア様がわたしたちの御母であることの理由:イエズスの御母、キリストの神秘体の御母

2024年02月28日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日無原罪聖母の騎士会霊的講話1(ファイファー神父様)

【講話1:マリアは私たちの母】

わたしは日本に来てとてもうれしく思います。初めて日本にまいりました。子どもの頃日本の映画を見たことがあるのですけれども、来たことがありませんでした。日本語が話せなくて申し訳ございません。日本語を勉強するには長い時間がかかりそうです。

無原罪の聖母の騎士会、Militia Immaculatae、この霊的な戦いにおいて最も大切なのは、わたしたちの指揮者であるマリア様に一致していることです。

この指揮者であるマリア様は、わたしたちの御母であります。ですから、今のこのお話は「マリア様はわたしたちの母である」ということについて考察いたしましょう。なぜマリア様は私たちのお母様であって、それと軍隊とどういう関係があるのでしょうか。

マリア様がわたしたちの御母であるというのは、まずイエズス様を肉体的にお産みになったお母様であるからです。そしてそのイエズス様がこの世界にお生まれになられたその理由はたった一つであって、それは私の霊魂のそして皆さんの霊魂の救い主・贖い主となるためであった、ということです。

大天使聖ガブリエルはマリア様にこういいました。:「見よ、あなたは胎内に子を宿すだろう。そして、男の子を産むだろう。そして、この彼はいと高きものの子と呼ばれる。そしてそののちに、聖霊があなたの上に臨んで、そしていと高き者の力があなたを覆う。あなたから生まれる者は 聖なる者、天主の子と呼ばれる。」その“子ども”と言う言葉が、子を宿す、子を産む、天主の子と呼ばれる…などとその“子ども”という言葉が、(三回)出てきます。

あなたの胎内の子ども、そして、いと高き者の子・天主の子、その二つがあるのです。“あなたの子は聖なる者であって、そしてダビデの子であって、ヤコブの家を永遠に治める"という預言の言葉が出てきます。“この王国には終わりがない”とも言います。

ですから、王国のために来るのですけれども、イエズス様は征服するためにこの世に入りました。そしてその最初の勝利の者はマリア様でした。

イザヤはイエズス様についてたくさんのことを預言しているのですけれども、イザヤの預言によると「キリストの御前に常におきてがあって、そしてそのキリストの御手にはその報いがある」と。

もちろん、イエズス様のおきてが御前にあったというのは、つまり十字架のふもとにおいて死を迎えなければならないというおきてが御前にあったのであって、その報いというのは多くの霊魂たちを贖うという報いなのですけれども、しかしそのもっとも根本的なおきてと最も根本的な報いはすでにマリア様において成就されました。つまり、マリア様はイエズス様のおきてとして常に御前にあって、30年間マリア様のいう通りに(かれらに)イエズス様は従われたのであって、そしてマリア様は最初の贖いの実りとして――贖いの実りを先取りしたものとして――無原罪の御孕りとして――報いとしてできました。ですから、マリア様においてこのイザヤの預言が完璧に成就した、と言えます。

このマリア様が実は大勝利だったということは、サタンにとっては隠されていました。サタンはすでに負けたということを知りませんでした。しかしマリアさまにおいてイエズス様の贖いのすべての功徳が適応されていたので、その勝利は最初の勝利であって、完全な勝利であって、最終的な勝利でした。ですから、マリア様が今後お持ちになるすべての聖徳・愛徳、それらはすでにイエズス様の功徳によって贖われてきたものであって、そしてマリア様のその聖徳や愛徳その他すべての徳などは、わたしたち(に適応されるそ)の贖いの予告であります。

もしもわたしたちが洗礼を受けるならば、それはマリア様の無原罪の御孕りを真似することです。マリア様のような完璧なまったく罪のない者となりきることは――もしもできないかもしれませんが、しかしそれの真似を始めるわけです。またわたしたちが死後天国に行くことは、それはマリア様の被昇天を真似することです。それと同じように、わたしたちの霊魂の一人ひとりの悪魔に対する勝利あるいは贖いはマリア様の勝利の真似であって、イエズス様がマリア様の霊魂になさったことをわたしたちも真似するわけです。

マリア様はイエズス様の母でありわたしたちの母となりますが、それはただ主がそうだ!と定めたから自動的になったというだけではなく、マリア様がそのために協力されました。マリア様が信仰とそして自由意思と愛をもって、主の玄義にハイと答え、それに同意したからです。ですから、もしもわたしたちの母になるという時も、ただイエズス様がそうだと決められたのではなくて、マリア様の同意があったからこそ、母になることができました。

イエズス様は、わたしたちを贖ったのみならず、主が造ったすべての被造物を回復するためにも来られました。そのすべての天主の栄光とすべての御業をイエズス様が回復するのですけれども、それがマリア様のうちに最も完璧になされました。ですからマリア様は教会の母と言われていて、そのすべてのものを回復させる最も素晴らしい原型となっているからです。

マリア様が完璧にわたしたちの母となったのは、イエズス様がお生まれになったときです。なぜかというとイエズス・キリストとわたしたちはキリストの神秘体を作っているからです。イエズス様は神秘体の頭(かしら)であって、わたしたちはその体の一部です。でもマリア様は頭だけの怪物をお産みになったのではなくて、すべてのキリストの神秘体をお産みになったのですから、キリストの御母となるときにキリストと将来一致するべきわたしたちをもお産みになって、その母となりました。

聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールは、多くの聖人たちの言葉を引用して、マリア様は頭(かしら)を産むと同時に体の肢体もいろいろな部分も産み出したのだから、マリア様の子どもであるということをしないで誰もキリストの神秘体の一員となることはできない、と言っています。

またマリア様は、イエズス様の御母となられたその瞬間にキリストの生涯のすべての神秘と一致して、それに協力しました。贖いのすべての業に協力しました。同意しました。それなので、イエズス様の勝ち取ったすべての功徳というのは、マリア様の協力とともに勝ち取ったものなのです。ですからマリア様がイエズス様と共にイエズス様に協力してこの地上に生きておられているあいだに積極的に協力したそのやりかたを、イエズス様はいま永遠のなかで21世紀のわたしたちにそれを適応させようとするのですけれども、マリア様も同時に1世紀にいたと同じように21世紀のわたしたちにも、積極的にそして臨在してわたしたちにそれを適用させようとしています。

マリア様がまたわたしたちの母であるというのは、苦しみの神秘の中においても明らかにされます。もちろんこの地上のお母さんたちは子供を産むときに陣痛の苦しみがありますが、イエズス様は私たちを贖うために極めて高い最高の程度の苦しみをわたしたちのために受けました。そして、マリア様も非常に高い程度の苦しみを、わたしたちの贖いに協力するために苦しみました。ところで聖パウロは、イエズス様が苦しんでいたその1世紀にはまだ生まれていなかった21世紀のわたしたちのことをさえも「キリストはわたしたちの罪のために苦しんだ」と言います。つまり、時間を超えて超越して、のちに来るわたしたちの罪のためにイエズス様は苦しんだとあるので、イエズス様の苦しみの神秘は時を超えているということがわかります。ですから、マリア様もわたしたちを聖寵に産み出すためにイエズス様と共に苦しんだといえます。ところで、キリストにふさわしい御母となるためにマリア様は無原罪の御孕りでなければなりませんでした。無原罪の御孕りになるためには、苦しみは全くありませんでした。キリストの御母となるためには苦しみは必要ではありませんでしたが、わたしたちの母となるためには、恐ろしい陣痛の苦しみをキリストとともに受けなければなりませんでした。

またマリア様は、わたしたちを代表しています。どういうことかというと、マリア様においてすべての旧約聖書と新約聖書の最も高い天主に対する愛が代表されています。たとえば、皆さんがキリストのためにやりたい・捧げたいと思われること、あるいは思わなければならないこと、あるいは聖ベルナルドあるいは聖ドミニコその他の聖人たちがキリストのためにしたこと、それらすべてはすでにマリア様において最も完全なやり方でなされています。つまりマリア様はすべての新約の聖人たち旧約の義人たちの代表であって、かれらがやったことを最も完璧な形でなされた代表と言えます。

このマリア様をご覧になると、マリア様は悲しげな御顔をしています。汚れなき御心は悲しみに満ちておられます。マリア様は天国にいるはずではないでしょうか。天主の栄光に、そして至福を楽しんでいらっしゃるはずではないでしょうか。なぜそんなに悲しそうな顔をしているのですか。なぜかというと、マリア様は私たちの永遠の救いのことを心配されているからです。なぜかというと、わたしたちが永遠の至福をいとも簡単に失うことができるからです。わたしたちがいとも簡単に大罪を犯してしまうことができるし、信仰を失ってしまうこともできるし、地獄に落ちてしまうことが簡単にできるからです。ですからマリア様は、わたしたちの救いのことを思って悲しげな御顔で心配をしているのです。

マリア様のことを考えるにおいて、聖霊の働きを見てみます。なぜかというと、聖霊の働きはわたしたちを聖化することであり、わたしたちの霊魂を聖なるものとすることです。ところで聖マリ・グリニョン・ド・モンフォールによると、天主の働きにはパターンがあって これを変えることはない、といいます。キリストは聖霊によってマリア様の胎内に形作られました。おなじように、わたしたちをキリストのようにキリストのものとして形成させるためには、聖霊の働きが必要です。その聖霊が働くのはマリア様の胎内だからです。キリストは聖霊によって、砂漠に導かれそこで断食をしました。また聖霊降臨の時にマリア様の祈りをもって聖霊は降臨しました。聖霊の働きのためにはいつもマリア様がいらっしゃるということを、マリア様によるということを、お望みだからです。それがパターンだからです。行動のパターンだからです。

イエズス様は御受難の前に「私はかれらのためにこれを捧げる……」と御父に祈られ、そしてマリア様は天国でキリストと一致してわたしたちの聖化のために祈っておられます。ところで皆さんが隣人のためにお祈りをされた時のことを思ってください。わたしたちが彼の回心のためにお祈りするというのにお祈りすればするほど実は回心どころかますますひどくなっているのを見ると、どれほど心が痛むでしょうか。あるいは彼が聖なるものとなるようにとお祈りしているにもかかわらず、全然そうでないのを見るとどれほど辛い思いをするでしょうか。マリア様も同じようにわたしたちのために、私たちの救いと聖化のためにお祈りされています。

聖霊は、マリア様の祈りとともにわたしたちの聖化をします。これは戦いの場所です。肉の欲望と霊の望みが対立しあっているからです。大きな巨大な戦いが行われています。

では、このものすごい恐ろしい戦いが続いているときに、わたしたちはどうすればよいでしょうか。ある態度はフランシスコ教皇様のようにわたしは罪人を祝福して罪に同意する――罪人に同意する、罪を祝福する、と言うべきでしょうか。それとも「ああ、あまりにも戦いが恐ろしいのでわたしには何もできない。いやっ、もうどうでもよい。なるようになればよい」というべきでしょうか。それとも、多くのカトリック信者はこのような態度をとっています…「私は関係ない!」。ところでわたしたちはそうではなくて、少数ですけれども、「いやっ、私はマリア様に協力したい。この霊魂の救いのために協力したい」と思うのでしょうか。

マリア様は、いったいどんなことをわたしたちにおっしゃるでしょうか。マリア様はこうおっしゃいます。「わたしの子どもたち、ああ息子よ、ああ娘よ、お前たちはまだこの母の心を、罪を犯し続けることによって剣で貫き続けるつもりなのですか? 無関心や罪や悪徳を続けて、わたしの心を傷つけ続けるのですか? 私に戦い続けるのですか?」

まだ日本ではそうではないかもしれませんが、しかし時は非常に近づいています。なぜかというと、あまりにもこの世界は悪徳に溺れているからです。ソーシャルメディアその他のものがわたしたちにあって、大罪を侵さないようにする唯一の手段は私たちが聖人となるしかありません。つまり御母であるマリア様を崇敬して、そして聖人になるしかありません。その時がもう来ています。

わたしたちがいま、ものすごい戦いの中に入っているということを、お判りでしょうか。もしもわたしたちがマリア様の子であるならば、マリア様を愛しているならば、それは何を意味するかというと、悪魔はわたしたちを憎むということです。もしもそうでないとしたら、ほんとにわたしたちはマリア様を愛しているのでしょうか。マリア様のように罪のない生活を心がけしているのでしょうか。わたしたちは天の遺産を受ける者であって、そのために戦っております。しかしその戦いのなかにいるということを、わたしたちがよく自覚しなければなりません。M.I.は無原罪の聖母の騎士会はそのことをわたしたちに思い出させて、そして勝利の希望を与えてその勝利の手段を与えてくれます。

わたしはフィリピンでこのMilitia Immaculatae 無原罪聖母の騎士会の指導司祭としてよくお話をするのですけれども、フィリピンの人たちは、一般には貧しい人たちが大部分です。でもそういう人たちに私はたぶん「あなたはおかあさんのために何かをしようと思いませんか。お母さんは皆さんの助けを必要としています。わたしたちのお母さんは多くの人の霊魂の救いを望んでいます。でも皆さんの協力が必要です。」するとフンフンといいます。いったい誰がお母さんからの助けてほしいというのにそれを断ることができるでしょうか。無原罪の聖母の騎士会の目的は二つあります。一つは、すべての霊魂、どのような人であったとしても、すべての人々の霊魂を救うことです。とくにフリーメイソンの霊魂たちを救おうとすることです。そしてもう一つの第二の目的・ゴール・目標は、どのような霊魂たちもそれがより聖なるものとなるようにその聖化のために尽くすということです。

マリア様の軍隊に入るにおいて一番大切なのは、マリア様のお望みのものとなるために自分を奉献することです。マリア様の目的のために奉献することです。そして、霊魂たちの救いと霊魂の聖化のために、道具となることです。ですから私たちが聖人になることを要求されているわけではありません。わたしたちに要求されていることは非常に単純なことであって、それはまず不思議のメダイを身に着けること、それから一日一回、少なくとも一回、全部で18秒しかかからないようなひとつのお祈りを唱えることです。でもこうすることによって、いま世界で約10億人いるといわれているカトリック信者、つまり戦闘の教会に属しているすべての人々が、もしもこれを自覚しているのだとしたら、その小さな協力が巨大な力となって、マリア様の勝利のために大きな貢献をなすことができます。無原罪の聖母の騎士会は、そのすべての人がわたしたちの母のために協力できるということを思い起こすことにあります。

では今から少し休息を入れて、次のお話は二時半からです。その間ここで黙想したり、あるいは外で軽いストレッチしたりして目を覚ますようになさって、次のお話を聞いてください。二回目のお話が終わりましたら、無原罪の聖母の騎士会の更新式あるいは入会式があります。それについてまた次のお話しで詳しく説明いたします。


ベザダの池の水は、洗礼の水の前兆だった。38年来病気になやんでいた男は、私たち人類を表している。イエズスは来て尋ねられる。「治してほしいか?」

2024年02月27日 | お説教・霊的講話

四旬節の四季の金曜日

トマス小野田神父 2024年2月23日

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は四旬節の四季の金曜日です。新しい修道院長のワリエ神父様の司式でミサ聖祭を捧げています。
今日の福音書には、旧約時代にエルサレムにあったベザタ(Bethsáida, Bethesda)という治癒の池のことができてきます。多くの病人やめくらや足なえや中風の人が、この池の水が動くのを待っていました。主の天使がたびたび池に下りて水を動かすので、水が動いて最初に飛びこむと、どんな病気でもなおったからです。

この池の水は、洗礼の水の前兆でした。天からの天使によって力を受けた水が、人々を癒したからです。天主が旧約時代になさった奇跡は、時々、一回にたった一人のユダヤ人のために、目に見える体の健康のために行われました。しかし、天からの天主の御言葉が地上に来られて、ヨルダン川で受洗されることによって、洗礼の水を制定されました。世界中のどこでも、いつでも、何人でも、どのような境遇の人々にでも、霊魂の癒しを与えることができる洗礼の水の池が私たちに与えられています。

福音に出てくる38年来病気になやんでいる男は、罪に凝り固まった私たちを表しています。聖アウグスチヌスによれば40という数は完成を表しています。何故なら、福音の創始者イエズスは40日の断食を行い、律法の代表であるモーゼも40日の断食を行い、預言者の中の預言者であるエリアも40日の断食を行ったからです。人類が病に悩むのは、最も大切なものがないからです。つまり、全てを越えて天主を愛する愛と天主のために隣人をわが身のごとく愛する隣人愛の二つの掟を守っていないからです。聖アウグスチヌスによると、それが38という数で表されています。

しかし彼は、今では癒され颯爽(さっそう)と歩いてきます。何故なら、彼はイエズスに出会ったからです。イエズスから「治してほしいか?」とたずねられ、彼はこう答えたからです。「主よ、私を水に入れてくれる人がいません」と。

この池の周りに、うずくまる多くの病人やめくらや足なえや中風の人々は、現代のキリスト者の姿を示しているともいえます。病人は、病原菌に対する抵抗力を失うように、罪や罪の機会に囲まれて、罪に対する抵抗力を失い、罪を避ける決心ができない生ぬるい信者たちのようです。めくらは、天主からの真理の光を失い、霊魂の目によって自分と周りの霊的な状態を認めることができない信者たち、足なえは、霊魂の救いの道をしっかりと歩くことができない信徒たち、中風は、手足が麻痺して善を行うことができない状態の信者らを暗示しているようだからです。現代のキリスト者は、癒されるべき時を待っています。四旬節は、まさに霊魂の癒しをこい願う時です。

そんな私たちのところに、今日、イエズスは来られ、愛と憐れみにあふれてこう尋ねられます。「治してほしいか?」と。今日は、この金曜日は、御復活祭から遡って数えると、ちょうど38日前の日です。38年の病の悩みを、残る38日の四旬節の祈りと犠牲に比較できるとするなら、安息日に行われた今日の福音の癒しは、復活の徹夜祭の主の御復活の歓びに例えることができるかもしれません。

いまから38日後に、べザタという治癒の池の水に、主の天使がおりて水を動かして病を癒す奇跡をなさってくださるかのように、今日から38日のあと、復活の徹夜祭に、罪を赦す洗礼の水で清められる洗礼志願者の方々がいます。既に洗礼を受けた私たちも、自分の罪を痛悔して、主にその癒しと赦しをもとめて、残る四旬節の日々を過ごしましょう。主は私たちにこう言われるはずです。「起きて、床をとりあげて歩け」と。私たちが霊的に癒された後、こう付け加えられます。
「どうだ、あなたはなおった。さらに悪いことが起らないように、もう二度と罪をおかすな」と。

聖母に祈りましょう。残る四旬節を祈りと痛悔に過ごし、イエズスに癒されるのを待ち望むことができますように。


御変容の神秘の意味:「願わくは、われらが…祝い奉る御子のご変容の聖なる神秘を、…われらに味わわせ給え」

2024年02月26日 | お説教・霊的講話

四旬節第二主日 ― 霊魂の変容(東京―2024年)

ワリエ神父 2024年2月25日

マテオ16章で、イエズスはご自分の受難を預言されます。その後、3人の使徒、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られます。

ご変容の祝日の聖体拝領後の祈りはこう願っています。「願わくは、われらが…祝い奉る御子のご変容の聖なる神秘を、…われらに味わわせ給え」。

では、3人の使徒にとって、この神秘の意味は何だったのでしょうか。

聖レオは、こう言っています。「ご変容の主な目的は、弟子たちの心から十字架のつまずきを取り除くことだった。弟子たちにとって、キリストであるイエズスが屈辱的な死を受けなければならないことを理解するのは非常に困難だった(マテオ16章参照)」。この同じ3人の使徒が、オリーブの園でイエズスと一緒にいたのです。イエズスの神性は、そのご生涯を通して、飢え、渇き、疲労、睡眠、葛藤(かっとう)、逃亡にさらされる、弱い、人間の肉体のベールに包まれていました。今、使徒たちは、キリストがご変容になり、その表情から、また衣服を通して、神性が輝き出るのを見ます(マルコ9章2節参照)。

モーゼとエリアがイエズスとともに現れます。信仰深いユダヤ人にとって、この二人は律法と預言者たちを体現していました。二人はイエズスの前表(ぜんぴょう)であり、イエズスが預言されたキリストであることを証明します。イエズスは律法を尊重し、預言者たちと一致されており、したがってイエズスこそが天主から送られたお方です。

最後のクライマックスの瞬間は、御父の声が聞こえるときです。弟子たちはこの神秘を完全には理解していませんでしたが、十字架のつまずきに対して、彼らの心をあらかじめ準備させるものでした。ペトロ後書(1章16-18節)によれば、ペトロは「私たちが主とともに聖なる山にいたとき、…主は父なる天主から誉れと栄光を受けられた」と証言しています。

しかし、ご変容はまた、この祝日の集祷文(しゅうとうぶん)が述べているように、私たち全員にとっても深い意味を持っています。「御身(おんみ)は、光の雲の中から発せられた御声(おんこえ)によって、不思議にも子らの完全な世継ぎを約束し給うた」。イエズスは、私たちが聖寵によってイエズスの神性にあずかることができるように、私たちの人間性を共有してくださるのです。イエズスは私たちをご自身の体の一部とされ、養子として天主の子とされたのです(ヨハネ第一書3章1節)。

しかし、私たちはこの人生で、完全な天主の子には決してなれません。そこで、この祝日の集祷文(しゅうとうぶん)は、こうも祈ります。「われらを、いつの日か栄光の王の遺産と勝利とにあずからせ給え」。ご変容は、私たちの将来の偉大さの、また私たちのために蓄えられている遺産の啓示です。聖レオはこう言いました。「このご変容の神秘において、天主の御摂理(みせつり)は教会の希望のための堅固な基礎を築いた。それは、キリストの体全体が、その体にどのような変容が与えられるかを知るためであり、また、教会員が、自分たちのかしらにおいて輝いた栄光の共有者となることを確信するためである」。

ご変容は、私たちの聖性がキリストに似たものであること、また天主の命が私たちのうちに流れ出ることであることを示しています。聖性は、洗礼において私たちのうちに始まり、洗礼は私たちをキリストの像に変えました(ローマ8章29節)。私たちが聖霊の働きに忠実であることによって、この像は永遠の命、完全な養子へと成長するのです。私たちの主のご変容は、成聖の恩寵の状態にある霊魂の美しさを私たちに教えてくれます。聖パウロは今日の書簡の中で、「天主の思(おぼ)し召しは、あなたたちの聖徳にある」と述べています。私たちの霊魂の天主の命を守ることは、どんな代価を払っても、私たちの固い決意でなければなりません。

「彼に聞け」。イエズスはすべての人を照らす光であり、御父から聞かれたことをすべて明らかにしてくださいます。イエズスは御父の最後のみ言葉なのです。モーゼとエリアは姿を消し、イエズスだけが残られました。イエズスは、聖書において、教会(教導権と典礼)において、出来事において、ご自身の霊の霊感において、私たちに語りかけてくださいます。よく聞くためには、私たちは、しばしば自分の内で静かに祈ることによって、山に登る必要があります。苦しみや挫折があっても、信仰をもって、行動に移す信仰をもって、耳を傾ける必要があります。そうすれば、試練が私たちに及ばない幕屋を建てる時期はまだだとしても、幸福を見いだすことができます。

キリストは、栄光に入るために苦しまれなければなりませんでした。同じ道を歩む私たちは、自信を持ち続ける必要があります。イエズスは、ご自分がおられるところに私たちがご自分とともにいて、ご自分の栄光を見ることができるようにと祈っておられるのです(ヨハネ17章24節)。


灰の水曜日の意味と精神

2024年02月26日 | お説教・霊的講話

2024年2月14日 灰の水曜日の典礼の前に

トマス小野田神父

教会にはかつて「公けの悔悛者」という人々がいました。4世紀から12世紀ごろまで、教会の習慣によると、公けの大きな罪を犯した人々は誰であっても、四旬節の最初に「公けの償い」を受けなければなりませんでした。
「公けの償い」は、特に、御聖体拝領ができなくなること、また、祈りと苦行などによって罪を償うことにありました。司教は荘厳に「公けの悔悛者」に、償いの服を着せ、頭には灰を被せました。そして、教会の外に連れ出して、正面の門の前に導き出します。罪を犯してしまうと天国から除外される、悔い改めの業をして天主と和解しなければ、天国には入れないということをまざまざと見せつけていました。

後に、教会は悔悛の業を和らげ、公けの償いの代わりに私的な償いを行うようになりました。しかし、中世以降次第に、公けの悔悛者だけでなく、全ての信者が、王も皇帝も、自発的に償いの服を着て、灰を頭にかけてもらうようになります。例えば、シャルルマーニュ(742年? - 814年)は、裸足で他の信者たちと一緒に、灰を受けて四旬節の中に入りました。

灰の祝別の儀式の最初の言葉で主の憐れみと優しさを断言します。「主よ、我らの願いを聴き入れ給え。御身の憐れみは優しいものなればなり。御身の憐れみの多さに従い、主よ、我らを見給え。」
灰の祝別のための4つの祈祷は、祈るたびに短くなっていきます。祈れば祈るほど、厳しさが取れていきます。

祈りの内容は次の四つです。
祝別された灰は、救いの霊薬となり、私たちは、罪の贖いのため、身体の健康と霊魂の保護とをうけること。
灰が象徴するように、私たちは、塵であり、邪悪さの報いとして塵に帰るべき存在であること。
灰を受けた頭が、祝福と痛悔の精神で満たされること。
私たちがニニヴェの人々の悔悛の模範に従うこと。

この灰を信徒たちに付けて祝福することによって、四旬節が始まると言えます。付けるのは昨年の枝の主日に祝別された枝から作られた灰です。「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また、塵に帰るであろう。」(創世記、3ノ19)これは、地上の楽園で人祖アダムとエワが罪を犯した後に、天主が言われた言葉です。人類の悲しい灰の水曜日でした。灰を配る間、聖歌隊は歌います。「衣を替えよ、灰と毛衣とに。断食をしよう、そして主に御前で泣こう。何故なら我ら天主は、我らの罪を赦そうと極めて憐れみ深い方であるが故なり。」

最後に司祭はこう古代からの祈りを唱えます。「主よ、キリスト者の軍隊の隊列が聖なる断食を始めるを得させ給え。そは、悪の霊に反対して戦おうとする我らが節制の助けを装備せんがためなり。我らの主キリストによりて」と。聖ペトロはこう言います。「キリストは肉体において苦しまれたのであるから、あなたたちもその心で武装せよ。」(ペトロ前4:1)

私たちキリスト者は、罪と悪の霊に対して戦う軍隊を作ります。「主はこういい給う、お前たちは、心をつくし、断食と涙と悲嘆とによって私に立ち戻れ。」これは、内的な償いの戦いであり、共同体としての聖化の戦いです。この戦いは同時に、罪の償いと言う宝を天に蓄える時です。祈りと、断食と、施しによって、天に宝を積む時です。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】