Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

自己否定とは、本質的に言えば、天主への愛の行為。イエズスに「私はあなたを愛しています」と告白すること。

2024年02月25日 | お説教・霊的講話

幼きイエズスの聖テレジアによる自己否定についての説教

ドモルネ神父 2024年2月18日

はじめに

先週の水曜日から四旬節が始まりました。この40日間は償いの期間であり、聖週間と復活祭に備える期間でもあります。四旬節の間、常に行われてきた償いは大斎と小斎です。1983年以来、教会法はカトリック信者に、灰の水曜日と聖金曜日のみ大斎と小斎を義務づけています。私たちの霊魂の霊的な善のために、主日と義務のある聖日を除く四旬節の毎日大斎をするという教会の賢明な習慣に従うことを強くお勧めします。健康や仕事の関係で毎日大斎をすることが不可能な場合は、四旬節の間小斎をし、時々、例えば毎週金曜日や土曜日に大斎をするように努力しましょう。

これらの四旬節の償い、そして一般的に言えば、キリスト教生活の一部であるあらゆる自己否定に対する、間違った見方があります。すなわち、償いを、苦痛を伴い、疲れ、悲しくなるような拘束や苦行として見ることです。これらの自己否定に対する正しい見方は、幼きイエズスの聖テレジアによって示されています。今日、四旬節の始まりにあたって、私がお話しするのはこのことについてです。

1.自己否定の必要性

私たちの人生の目的は、天国の幸福に到達することです。しかし、私たちを天国に導く道は、私たちの主イエズス・キリストです。主は、「私は、道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)と言われました。ですから、天国に行くためには、私たちは私たちの主に従わなくてはなりません。しかし、イエズスはこうも言われました。「私のあとに従おうと思うなら、自分を否定し、自分の十字架をになって、私に従え」(マテオ16章24節)。

「自分を否定する」とはどういう意味でしょうか。大聖グレゴリオは、自分を否定するとは、原罪が私たちのうちに引き起こした悪い傾きに従わないこと、自分の行いを改めること、そして自分の高慢をすべて取り除くことを意味する、と説明しています。アダムとエワの罪は高慢の罪であり、不従順の罪であり、それゆえに創造主である天主から独立するという罪でした。この罪は全人類に影響を及ぼし、そのため、私たちの意志には、「自己意志」と呼ばれる悪い傾きがあります。自己意志とは、天主のご意志と対立する私たちの意志、天主に背くことを選ぶ私たちの意志を意味し、それゆえに、私たちのすべての罪の根源なのです。自己を否定するとは、天主のご意志に従うために、進んで自己意志を犠牲にすることです。したがって、自己否定とは、本質的に言えば、天主への愛の行為です。それは私たちの天主への愛から生まれ、私たちの天主への愛の表現なのです。福音の中で、私たちの主イエズスはまず、「私のあとに従おうと思うなら」、つまり「私を愛そうと思うなら」と言われ、その後に、「自分を否定せよ」と付け加えられます。自分を否定するとは、自分の注意を自分自身からそらし、その注意を、愛をもって天主に向けることです。イエズスを愛するために自己否定をすること、あるいは自己否定を受け入れることは、イエズスに、「私はあなたを愛しています」と告白することと同じなのです。

2.幼きイエズスの聖テレジアと自己否定

幼きイエズスの聖テレジアは、このことを完璧に理解していました。彼女は、私たちの主イエズスを絶対的に愛することを選んだのですから、自分の愛を証明するために、いつも、どこでも、すべてにおいて自分を否定することを選びました。自己否定には2種類あります。私たちがイエズスに捧げる自己否定と、イエズスが私たちの生きる状況を通して私たちに負わせるために与えられる自己否定です。

第一の種類の自己否定について、聖テレジアは、それが、私たちが私たちの主に捧げる愛の証しであるとします。彼女はこう言います。「私がそれに値しないにもかかわらず、イエズスは、おやさしくも私を小さな花嫁として迎えてくださいました。今、私は、主に対する私の愛の証しを捧げなければなりません」(手紙121)。聖テレジアは、毎日訪れるあらゆる自己否定の機会をすべて、イエズスに、「私はあなたを愛しており、あなたにそれを示します」と告げる好機と受け止めていました。聖テレジアは、このような自己否定の実践において寛大さを奨励し、素朴で光り輝くように、こう言いました。「私たちの人生には、イエズスを愛するための時間はほんの少ししかありません。悪魔はそれをよく知っているため、私たちに自分の人生を無益な行いに費やさせるように努力するのです」(手紙92)。「私はどんな小さな犠牲の機会であっても見過ごしたくありません」(自叙伝:ある霊魂の物語11)。彼女はまた、イエズスは、私たちの犠牲に対する報いとして、天国での大きな幸福を私たちに与えたいと望んでおられるが、しかし、私たちが主のために何もしなかったとしたら、どうして主は私たちに報いをくださるだろうか、とも言いました。聖テレジアの日々の自己否定は、例えば、節度を欠いた望みや好奇心、あるいは嫌悪感を抑えたり、何も言いたくなかったり退屈そうに見える時にほほ笑んで親切な言葉をかけたり、誰かを助けようと思わなかった時に、助けてあげたりすることなどでした。

第二の種類の自己否定は、私たちの人生の状況や私たちの長上を通して、イエズスが私たちに与えられる自己否定であり、私たちがそれを選ぶのではないため、通常、もっと難しいものです。しかし、それは私たちの聖化にとって、最も効果のあるものです。これらの自己否定が、私たちへのイエズスの愛の証しであることを理解することが不可欠です。受け入れるべき自己否定を私たちに提示することによって、イエズスが私たちへの愛を示されるということが、どうしてあり得るのでしょうか。なぜなら、イエズスはこのようにして私たちを聖化し、霊魂の救いのみわざに私たちをあずからせてくださるからです。聖テレジアはこう書いています。「イエズスは私たちを苦しみで満たすことで苦しまれますが、それが、イエズスが御自身を知っておられるように私たちがイエズスを知って、私たち自身が神々となるように準備させるための唯一の方法であることを知っておられるのです」(手紙57)。彼女はこうも書いています。「イエズスは、霊魂の救いが私たちの犠牲と愛に依存することを望んでおられます。イエズスは霊魂たちのために、私たちに乞い求めておられるのです」(手紙96)。イエズスが私たちに負わせるために与えられる自己否定は、私たちへのイエズスの愛の証しですから、聖テレジアは、私たちがそれを受け入れるように、素朴かつ見事に、私たちを励ましています。聖テレジアはこう書いています。「受けるよりも与える方がずっと甘美だと言われますが、それは本当です。ですから、イエズスが、私たちに与えるという甘美さをご自分のものにすることを望まれるとき、それを遠慮することは、見苦しいことです…」(手紙142)。彼女はこうも言っています。「私たちは、イエズスが望まれるすべてのこと、例えそれが霊的な悲しみ、荒廃、苦悩、表面的には冷淡な態度であっても、イエズスのために耐え忍べるほど強く、イエズスを愛しましょう…イエズスへの愛の甘美さを感じることなくイエズスを愛することは、間違いなく偉大な愛です」(手紙94)。

3.自己否定と愛

キリスト教の自己否定は、絶え間ない自己吟味や、私たちの体と霊魂のすべての動きを制御するための激しく頻繁に繰り返される努力から成っているのではありません。キリスト教の自己否定は、普通の生き方に反して押し付けられる冷酷な自制ではありません。キリスト教の自己否定は、人間の本性に反するものではありません。キリスト教の自己否定は、イエズスと私たちの間の愛の交換なのです。聖テレジアはこう書いています。「イエズスという私の指導司祭は、自分の行動を数えることは教えられません。主が私に教えてくださるのは、すべてのことを主への愛から行うこと、主に対して何も拒まないこと、私が主を愛していることを証しする機会を主が与えてくださるたびに喜ぶことで、これらのことすべては、平安と自己放棄において行うのです」(手紙142)。

テレジアの姉は、人生の終わりのころ、テレジアにこう言いました。「確かに、これほど完璧に自己を否定するのに、あなたはずいぶん苦労したことでしょう」。姉は、テレジアにとって自己否定の実践はおそらく、激しく、苦しく、骨の折れる、悲しみに満ちたものだっただろうという意味で言ったのです。しかし、テレジアは深遠な表情でこう答えました。「いいえ、そんなことはありません…」。彼女が言いたかったのは、こういうことでした。「激しい自制の問題ではありません。私は愛して、たくさん愛しました! それだけです」。愛は、どんな苦難であろうとも、すべてのものを簡単で甘美なものにするのです。

結論

聖テレジアに学びましょう。この四旬節の間、教会が求めている大斎と小斎を行い、イエズスへの愛の証しとして、すべての個人的な自己否定を捧げましょう。また、イエズスが私たちに与えてくださるすべての自己否定を受け入れましょう。そうすることによって、私たちは実りある四旬節を過ごす、つまり天主への愛において本当に進歩することになるのです。

今日が私の最後の説教です。そこで、皆さん全員に、最後の推薦をさせてください。それは、幼きイエズスの聖テレジアの著作、特に彼女の自叙伝と手紙を読むことです。これらは日本語で読むことができます。そこには、誰にとっても理解しやすく、実践しやすい、非常にしっかりした教理が書かれています。皆さんはこれらの著作から、福音、イエズスの聖心、マリアの汚れなき御心についての理解を深められることでしょう。皆さんはその著作の中に、確実で素朴な聖性への道を見つけられることでしょう。


マリア様は、本当に軍隊を持っているのか?敵とは誰か?なぜ戦いがあるのか?どんな戦いを行っているか?その戦場とはどこか?私たちにとって一番大切な行動の仕方は何か?何が武器であり戦闘服なのか?

2024年02月16日 | お説教・霊的講話

2024年2月11日(主日)ミサのお説教 ファイファー神父

【小野田神父】愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年2月11日五旬節の主日です。
今日、アジア管区の管区長からの特別のミッションで、ファイファー神父様M.I.の無原罪の聖母の騎士会の特別講話会に来てくださいました。ですから今日はファイファー神父様にお説教をお願いします。
神父様のお説教を聞く前に、主日のお知らせがあります。来たる水曜日2月14日は灰の水曜日です。カトリック教会の掟によれば、満18歳から59歳までのすべての健康な男女の信者はこの日に大小斎を守らなければなりません。また成人に達しない人でも、14歳以上の健康な信者は小斎を守る義務があります。また教会の掟によると、少なくとも年に一度はご復活祭のころに御聖体を拝領するという掟もあります。ご復活祭の義務です。御復活祭のころというのは日本では、四旬節第一主日から三位一体の主日までと規定されています。
2月14日灰の水曜日は、守るべき義務の日ではありませんが、しかしこの大宮のお御堂では朝の7時とそれから夕方の6時30分から、灰の儀式とミサが予定されています。
では、ファイファー神父様のお説教を聴きましょう。

【ファイファー神父】
私はアジア管区のシュテーリン神父様のアシスタントとして、アジア管区で無原罪聖母の騎士会の指導の役割をしています。今回は日本に始めて来て、この役割を果たそうとしています。

多くの皆さんはすでに無原罪聖母の騎士会の会員となっておられると思いますが、皆さんの精神をまたもう一度また活性化させて、そして多くの方をまた、この会員に招くことができるようにするために、いま話をしています。

マリア様は優しい御母であってあわれみの御母であるのですけれども、本当に軍隊というものを持っているのでしょうか?

聖書によると、特に旧約聖書そして新約聖書によっても、天主はしばしば万軍の主、つまり軍隊の主と呼ばれています。イザヤの第六章によれば「ビジョンを見た」と、イザヤによると「天の玉座に座る万軍の主なる天主が、天使たちによって讃美され礼拝されているのです。天使たちが地を見ると、地は主の栄光で満ちている」とあります。特にイザヤは、わたしたちがいつもミサでいうように"聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主なる天主!”と、万軍の主なる天主が 天使によって讃美されていることを話しています。そして地に向かっては、「主の栄光に満ちている」と言っているのです。
聖ルカの福音によると同じようなビジョンがあります。主が生まれたときには、天が開けて天使たちの軍勢が見え、そして「天使たちは天のいと高き所に天主に栄光あれ」といいます。これはイザヤと全く同じです。そして地については、栄光にみちているとはいわずに、「地には善意の人々に平和あれ」といいます。全ては、この天の究極のところ、この完全性に、聖性の頂点に根差している――そして平和というのは、天主の栄光と喜び、幸福にあります。天を見ると主の栄光に満たされており、そして地を見ても天主の栄光に満たされていますが、なぜ地が栄光に満たされているのかというと、主のものすべては主のほうへと向かって行かなければならないからです。
ではこのような美しい描写になんで”軍隊”が入ってくるのでしょうか。その理由というのはどこにあるのでしょうか。”軍隊”というのは守るためにあるのではないでしょうか。敵を倒すためにあるのではないでしょうか。敵とは誰でしょうか。――敵があります。なぜかというと、聖書によると「敵の悪魔の妬みによってこの世に罪が入り、罪によってこの世に死が入った」とあるからです。

そしてなぜこの美しい計画に“戦い”があるのでしょうか。なぜかというと、天主の力によってすべてが上にあがらなければならないところを、ルチフェルが、その別の力がこれを妨害しようとするからです。天の軍勢の中でその主将であったルチフェルは特別な能力を持っていたのでしょう、その天主の計画を知りながらも、ルチフェルは悪魔は非常に賢く、天使たちの3/1を自分のほうに引き寄せて、その計画を破壊しようとすることに成功しました。

ルチフェルは天使たちを使って天主に対して戦いを挑みます。そして「その戦いの後でルチフェルは地上に投げ捨てられた」とありますが、しかし彼らは人類の1/3ではなく、大部分を自分のほうに引入れてしまいました。わたしたちの太祖アダムとエワを自分のほうに引入れ、人類のほとんどを自分の味方につけてしまいました。ですから聖書では主は「だれでも罪を犯す者は罪の奴隷である。」と言っています。そしてイエズスさまはファリザイ人たちに対しては、「お前たちの父は悪魔であって、そして悪魔は嘘の父である。」と言っています。
こうしてルチフェルは、天使たちの3/1を、人間たちはその大部分を、自分のほうへ引き寄せて、そして天主の栄光にたどり着かせないようにしています。大天使聖ミカエルに引入れられる天主のほうにつく天使たちと、ルチフェルにつく1/3の天主に逆らう天使たち!この戦いです。

ではいったいどんな“戦い”を行っているかを見てみましょう。
どのような戦いかというと、天主の聖性に向かって登りあがろうとする者を誰かがそれを引きずり降ろそうとする、その戦いです。霊的なものに上昇しようとするその力とそしてそれを物質的なものに引きずり降ろそうとするその戦いです。純潔に潔いものへと上がっていこうとするか、あるいは不潔で汚いものへと下げようとする者との戦いです。

またこれは義と不義との戦いともいえるでしょう。義というのは、天主をすべてのものの上に置いてそれに天主の御旨に従うこと、しかし不義というのはそれに逆らって天主に不従順であること、です。天主は、この戦いを見捨てることなくこの戦いに戦いを挑みます。罪と不義に対して戦いを挑みます。

智慧の書によると、「天主は不義があれば、義を置く。罪があれば聖なるものを置く。」とあります。ソロモンは不義に対して義があると言っています。罪人に対して、そして悪魔に対して、その対立するものとして天主は人となって天から地上に降りて来られました。イエズス・キリストが置かれました。イエズス・キリストは悪に対する対立として、そして征服者として来られます。

聖ヨハネ・ユードによると詩篇73の表現をとても面白い解釈をしています。その73章12節には「御身は地のど真ん中において救いをもたらされた」とあります。聖ヨハネ・ユードによると、この悪魔によって征服され汚されたこの地上のど真ん中に、敵の陣地の真ん中に、特別に汚されなかったものを置いて、そこから救いをだされた。これは何かというと、無原罪の御孕(やど)りであって、マリア様のことだと言います。

さらに創世記3章15節によれば、天主は、マリア様についてすでに予告をしていました。それにはどう書いてあるかというと「わたしはお前つまり蛇・悪魔と女との間に、お前の蛇の種と女の種との間に、敵対を置く」と。そして蛇には「お前はこの女の踵を噛むであろうが、しかし彼女はお前の頭を踏み砕くだろう。」と言ったことが書かれてあります。

そこで天主はサタンにたいしても戦いを挑みます。不義の頭であるルチフェルに対して、義を置きます。その義というのは、御子であって、御子が十字架につけられることであって、そして不義に対して対立します。敵が動くならば天主も行動します。もしも敵がアダムとエワを奪ってしまうのならば、天主は新しいアダムと新しいエワを対立として置きます。

天主はすべてを予見していて、すべての戦いにおいてどのようにすればよいかを予見しました。そしてすべての不義の人々に対立するものとして無原罪の御孕(やど)りを置きました。

まずルチフェルはエワを誘惑します。天主はそれに対抗して無原罪の御孕(やど)りを立てます。ルチフェルは天使たちを取り込むとすると、天主は大天使聖ガブリエルを置いてそしてお告げを御子のご托身を対立として置きました。天主はいいました。天主がこのような言い方をするのは非常に珍しいのですけれども、「わたしはお前つまり蛇・悪魔と女との間に、お前の蛇の種と女の種との間に、敵対を置く対立を置く、憎しみを置く。」
(このように)聖書の言葉によると、この種という言葉を使います。種というのは多くあるということです。しかし勝利をおさめるのは唯一の方であるキリストですけれども、しかしその勝利は多くあります。悪魔たちの種、多くの者たちがともに戦うという意味で、種があります。

天主は、「悪があるところに善を置く」というそのやり方をどこでもつかいます。エワが敵にとられたならば、新しいエワつまりマリア様を置きます。そして、もしもエワを悪魔が堕落した天使が誘惑するならば、聖なる天使ガブリエルを送ってマリア様にお告げをさせます。そして悪魔の種が出るのならば、女の種つまり種というのはキリストのことですけれども、しかし同時に種というのはたくさんあるものですから、キリストに一致する多くの人々のことを意味しています。

そこでこうして私たちは、天主が女の種を使って、つまりキリスト、そしてキリストと一致している多くの人たちを使って、多くのことつまり軍隊を使って蛇の頭(かしら)を踏み砕くという計画を見ました。そしてこの軍隊はキャンペーンをします。つまり地上から天に昇って主を讃美します。そしてこれは、この罪に対して戦うキャンペーンの軍隊です。

わたしたちは信仰を得て洗礼を受けたことによって、キリストと一致しています。キリストと一致することによって、女の種と一致することになります。つまり軍隊に組み込まれたものとなります。わたしたちは不義と闘わなければなりません。そして不義と不義の人というのは何かというと、それは無信仰のことであり信仰のない者たちです。これは何を意味するかというと、私たちはかれらを信仰へと導いて霊魂を救うようにしてあげなければなりません。わたしたちは、隣人の霊魂を救うのみならず、わたしたち自身の霊魂をも救わねばなりません。ところで今現代カトリック信者たちは、霊魂を救うということを、考えることさえしなくなっています。

もしもわたしたちが救霊ということを考えたら、そしてその現実に立つのならば、そして自分の霊魂を救ってしかもそれを聖なるものとしようとするならば、わたしたちはどうしても戦いに入らなければなりません。

ではこのわたしたちが戦いに入るその戦場とはいったいどこでしょうか。それは東京ではなくて、私たちの霊魂に、その戦いの場所があります。天主によってつくられた私たちの霊魂を守ることです。

皆さん、今日もう少し、マリア様・私たちの元后・私たちの母であるマリア様について、考察する時間を取りましょう。そして、どうしたら私たちはもっと勇敢にそして効果的に霊魂を救い、そして聖化することができるか、戦うことができるか、ということを考察いたしましょう。

そこで今日講話がいくつかありますが、そのときにもしも皆さんが参加出来たらぜひ参加なさってください。わたしたちはこの女の種に加わり、この悪魔の種と女の種との戦いに参与しようとしています。それに皆さんが加わってくださればよいと思います。

皆さんのなかにはすでに無原罪聖母の騎士会の会員になっている方があって、そしてこの戦いに参加している方がいらっしゃると思います。今日の予定は、午後に二つの講話があります。それからそのあとで、もしも会員であれば会員の更新をいたします。無原罪の聖母の騎士会の更新があるのです。なぜかというと、この会員になるのは非常に簡単なのですけれども、その会員になったことを忘れるのはもっと簡単なのです。そして会員としてなすべきお祈りをしないのも、非常に簡単なのです。ですから私たちは更新をします。そしてなぜかというと私たちが会員になって一番大切なのは、そのマリア様のものとして行動することであるからです。

わたしたちの最も必要な本質的なものは私たちがマリア様に自分を奉献すること、そしてマリア様のものとなる――マリア様の道具となることです。マリア様に属することです。が、これを一度奉献しただけでなく そのままほったらかしにしておくのではなくて、その奉献を生き続けなければなりません。それを実践しなければなりません。

そこで、二つ皆さんにご質問したいと思います。これはその核心にかかわることですけれども、皆さんは不思議のメダイを身に着けていらっしゃいますか?…

第二の質問は、皆さんは聖母の騎士会の祈りを毎日少なくとも一回唱えていますか?…

私がフィリッピンでの統計を取ったところ、聖伝ではない方々にも聖母の騎士会に入会するように勧めているのですけれども、聖伝でない方々については不思議のメダイを身に着けてそしてその無原罪聖母の騎士会のお祈りをするという二つをしていらっしゃる方々いる人は1%から9%にすぎません。しかし聖伝のチャペルにいる信者さんたちにおいては、およそ40%から90%はちゃんと身に着けて無原罪聖母の騎士会のお祈りをしています。

皆さんが持っているその戦いの武器というのは、普通の武器ではなくて皆さんの制服つまり不思議のメダイです。
ですから不思議のメダイをいつも身に付けていてください。これは皆さんの戦いの中にいるというイメージであって、マリア様が皆さんの戦いにおいて助けてくださるという約束です。マリア様はけっして約束を破らない、その約束です。

それからもう一つ聖母の騎士会の祈りがあります。大阪では皆さんと一緒に唱えたとき、18秒かかりました。この小さい祈りですが、しかしこの祈りは悪魔のサタンの頭を踏み砕く祈りです。ですから皆さんがその祈りを言うたびにその蛇の頭を打ち砕いています。皆さんがたとえ18秒だったとしても、それを毎日一年365日唱えるならば、それは一時間の祈りとなって、一時間の間、悪魔の頭を踏み砕くことになります。そしてマリア様はさらにそれを多くの恵みを皆さんのもとに送ることができるようになります。もしも皆さんが365人の方々がこの祈りを一日一回18秒唱えるならば、毎日一時間の祈りが悪魔の頭をたたきます。もしも聖なる人がお祈りをするなら力がありますけれども、365人の人々が一緒に祈るというのは、特別の力があります。

わたしたちは今戦いの中にいますけれども、戦いというのは皆さんの霊魂と天主の間にあります。悪魔は皆さんを探してくるので、皆さんが悪魔を探す必要はありません。しかし悪魔が探しに来たとしてもマリア様が皆さんの助けになってくださいます。

ですからマリア様のほうに向いて、そしてマリア様の助けを求めましょう。マリア様はわたしたちを聖化してくださいます。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


ルルドでの童貞聖マリアのご出現についての考察を通して天の母に対してより大きな愛と信心を持つようにしよう

2024年02月14日 | お説教・霊的講話

ルルドの聖母のご出現についての説教

ドモルネ神父 2024年2月11日

はじめに

今日、私たちは、1858年のルルドでの童貞聖マリアのご出現をお祝いしています。この説教では、これらのご出現についてのいくつかの考察を通して、私たちが天の母に対してより大きな愛と信心を持つように、またその教えをより寛大に実行するように、私たちの心を奮い立たせたいと思います。ルルドにおいて、聖母は聖ベルナデッタに18回ご出現になりました。これらのご出現は、論理的で指導的な順序に従っています。

1.聖母との出会い

最初の2回のご出現は、聖母と聖ベルナデッタの出会いです。ベルナデッタは13歳の少女で、健康状態が悪く、喘息に苦しみ、教育も受けていませんでした。彼女とその家族はひどい貧しさの中で暮らしていました。世間の目から見れば、ベルナデッタは何の考慮にも値しない者でした。しかし、1858年2月11日、ルルドのマッサビエルの洞窟で聖母がご出現になったのは、彼女に対してでした。聖母は大いなる優しさと愛をもって彼女にほほ笑みかけられ、もっと近くに来てロザリオを唱えるように招かれ、優しく挨拶なさってから姿を消されました。

これらの最初のご出現から、聖母が私たち一人一人を深く知り、愛しておられることを思い起こしましょう。聖母は愛をもって私たちにほほ笑みかけられ、私たちがどんなにちっぽけで惨めであっても、ご自分の近くに来るように私たちを招いてくださるのです。この現実を思い起こしましょう。私たちの肉体の目では、マリアが私たちにほほ笑んでおられるのを見ることはできませんが、信仰の目でなら見ることができます。ですから、私たちの心の中で、マリアを見つめ、自信をもってマリアに近づきましょう。しかし、私たちはマリアにどう話しかければよいでしょうか。めでたしのお祈りです。マリアとベルナデッタの特別な関係は、この美しい祈りによって始まり、発展しました。それは私たちにとっても同じです。

2.私たちに対する聖母の意向

3回目と4回目のご出現で、聖母はベルナデッタに、何度も洞窟に戻ってくるように招かれました。聖母はまた、ベルナデッタに対して、ベルナデッタのご自分への意向について警告なさいます。「私があなたを幸せにすることを約束するのは、この世でではなく、次の世でです」。

この招きと警告は私たちにも当てはまります。もし私たちが聖母との愛の一致を深めたいのであれば、思いと心の中で、しばしば聖母とともにいる必要があります。聖母は私たちに無理強いはなさいません。聖母は私たちにほほ笑みかけ、私たちを招き、私たちを待っておられます。私たちが聖母のもとに行きさえすれば、聖母は私たちのために、聖母がしようと望んでおられるすべての善を行うことがおできになるのです。

マリアが私たちのために望んでおられる善について、誤解してはなりません。マリアは私たちの真の幸福、永遠の幸福を望んでおられます。しかし、苦しみが私たちの霊的清めに必要な手段であることを完全にご存じです。ですから、私たちは、私たちの地上での生活の間、マリアがすべての苦しみから私たちを解放してくださると期待しないようにしましょう。マリアは私たちのために苦難を望んでおられますが、それはちょうど、最も優しい母親でさえ、病気の子どもの癒やしのために苦い薬を望むのと同じです。しかし、マリアは私たちに同伴してくださり、苦しみの中にいる私たちを助けてくださることを約束しておられますから、恐れてはなりません。

3.聖母との一致を深める

病人は、医者を信頼している場合にのみ、医者の痛みを伴う処方に従います。同じように、私たちは、聖母の私たちへの愛に絶対的な信頼がある場合にのみ、霊的清めの苦しみの中でも聖母に忠実であり続けることができるのです。この理由で、5回目、6回目、7回目のご出現において、霊的清めのみわざを始められる前に、聖母はベルナデッタとの愛の一致を深められたのです。聖母はベルナデッタに、自然に、親密に、簡素に祈る方法を教えられました。聖母は彼女に秘密を託され、二人の関係の親密さを深められました。

これこそ、私たちが童貞聖マリアとの愛の一致を強めるために行わねばならないことです。頻繁に、親密に、素朴な心で、聖母と語りましょう。私たちの秘密、喜びと悲しみ、希望と失望、迷いと決断を、聖母に語りましょう。決断を下す前に、しばしば聖母に助言を求めましょう。幼きイエズスの聖テレジアはこう言っています。「聖母に対しては、私は何も隠さず、すべてを告げます」。

4.私たちにおける聖母のみわざ:悔い改めと愛徳の進歩

8回目から12回目までのご出現において、聖母はベルナデッタを完全な愛徳の道に導かれました。これらのご出現の中で、聖母はベルナデッタに、膝で歩くこと、地面に接吻すること、泥水を飲むこと、泥で顔を汚(よご)すこと、草を食べることを求められました。聖母はなぜ、このような屈辱的で不快なしぐさを求められたのでしょうか。第一の理由は、私たちが罪によっていかに汚(けが)されているかを、私たちがよりよく理解するのを助けるためです。永遠の物よりもこの世の物や快楽を愛することは、自分自身を地面に引き倒すようなものです。この世の物や快楽に溺れることによって幸福を求めるのは、泥水や草の葉で自分自身を養うようなものです。罪を犯すことは、私たちの霊魂を汚(けが)すことです。ご出現のとき、ベルナデッタがこのような様々なしぐさをしているのを見ていた人々は、彼女の気が狂ったのだと思いました。実際には、ベルナデッタは狂っていませんでしたが、私たちは、罪を犯すたびに、本当の愚か者になるのです。

聖母がベルナデッタにこのような屈辱的で不快なしぐさをするよう求められた第二の理由は、完全な愛徳への道、すなわち償いの実践を、私たちに教えられるためです。償いとは何でしょうか。償いとは、私たちが自分自身よりも天主を愛していることを天主に証明するという意向をもって、自分の愛するものを諦めること、あるいは愛さないものを受け入れることです。ですから、償いとは天主に対する愛徳の行いを意味するのであり、その結果、私たちの罪を償うことを意味します。ベルナデッタにとって、泥水を飲んだり、膝で歩いたりするなどのことは明らかに不快なことでした。しかし、聖母の求めにお応えして、それを行ったのです。このようにして、彼女は、自分自身よりも天主を愛していることを示したのです。

償いをするとは、隣人に対する愛徳の行いをすることも意味します。童貞聖マリアは聖ベルナデッタに、罪人の回心のためにこれらの償いの行いをするよう求められました。しかし、私たちの償いの行いが、罪人の回心のためにどのように役立つのでしょうか。この二つにはどのような関係があるのでしょうか。私たちの主イエズスは、ご自身でこの質問に答えられました。私たちの主イエズスは、聖マルガリタ・マリアにこう言われました。「義人の霊魂は、千人の罪人の赦しを得ることができるほど、私の聖心に対する大きな力を持っている」。私たちがイエズスに一つの償いを捧げるたびに、イエズスは罪人たちの回心のために多くの恩寵を与えてくださいます。主がそのようにすることを決められたのです。

ベルナデッタの勇気ある償いの行いの後、聖母は洞窟内に清らかな水を豊富に湧き出させられました。この水は、私たちが償いを行うときに聖母が私たちに与えてくださる、清めと聖性というすべての恩寵を象徴しています。

5.聖所と巡礼のための聖母の要求

13回目、14回目、15回目のご出現の間、聖母は、ご自分のメッセージが忘れ去られることなく、確実に実践されるための措置を講じられました。聖母は人々に、ご出現の洞窟に巡礼に来るように、そしてそこに礼拝堂を建てるように求められました。礼拝堂は、ご出現の記念碑となるだけでなく、人々がご聖体におけるイエズスのもとに行き、司祭がミサを捧げて、秘跡を授けるために必要なものでした。

他方、巡礼は、償いを実践し、生ぬるい信者を熱心にさせ、信仰と天主への愛を公に証しし、罪人が回心するよう引きつけるための優れた手段です。

6.聖母への信心の実り

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりとして、最後の3回のご出現について簡単に触れたいと思います。これらのご出現は、聖母への信心が私たちの霊魂にもたらす実りを示しています。

16回目のご出現で、聖母はベルナデッタに、ご自分が何者であるかを明らかにされました。「私は無原罪の宿りです」。同様に、聖母は、聖母への信心を行うすべての人を、天主の不思議へと導かれます。

17回目のご出現のとき、童貞聖マリアを見ていたベルナデッタは、彼女の手を15分間焼いていたろうそくから、なんの傷も受けませんでした。同様に、聖母は、聖母への信心を持つ者を、この世の誘惑から守ってくださいます。

18回目にして最後のご出現は、カルメル山の聖母の祝日である7月16日にありました。このことは、カルメル山の聖母の約束を思い起こさせます。聖母は、生涯にわたって敬虔に聖母のスカプラリオを身につける者に永遠の救いを約束されました。ルルドでのベルナデッタへの聖母の最後のご出現は、その日にありました。それは、聖母への信心を持ち、聖母が教えられた通りに償いを行う者は、確実に天国に行けるという約束のようなものなのです。


主は割礼という屈辱と苦しみのうちにイエズスという御名を受けたのだから、私たちも屈辱と苦しみを耐え忍ぶこと【霊的割礼】によってキリスト者という名にふさわしいものとなるべき

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」(ルカ2:24)

イエズスという名前に対する愛と信心の恵みをこい求めましょう。

キリスト者と言う名前にふさわしくなるために、霊的な割礼の価値を知りこれを実践する力を求めましょう。

【1:主は屈辱と苦しみのうちに、イエズスという御名を受けた。】
キリストは、イエズスつまり救い主という名前を、屈辱と苦しみのうちに受けました。
私たちの主は、私たちを救うために、御自分が屈辱と苦しみを受けることによって私たちを救うために、この世に来られました。主がイエズスという聖なる名前を受けたのも、屈辱と苦しみにおいてでした。
割礼は、イエズスにとって屈辱的でした。何故なら、罪人の子供たちと同じ扱いを受けたからです。
割礼は、苦しみに満ちたものでした。主はもっとも繊細で敏感で完成されたお体をお持ちだったので、普通の人よりも良く痛みを感じました。主は、最初の御血を捧げることで、その後の十字架のいけにえの全ての苦痛をすでに予見し、受け入れ、捧げておられたからです。
幼き赤子となった天主が、生まれるや否やすぐに私たちのいけにえとなろうとされたその深い愛に、私たちは思いをはせましょう。私たちをこれほど愛する救い主は、苦しむことを厭わず、喜んで御血をながし、屈辱と苦しみを捧げられました。
イエズスは「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。それは、イエズスのみ名のまえに、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみな膝をかがめるためである。」Donavit illi nomen quod est super omne nomen, ut in nomine Jesu omne genu flectatur cœlestium, terrestrium et infernorum.(フィリッピ2:9-10)
この今から代々に至るまで、主の皆は祝せられさせ給え!日野昇るところから日の沈むところまで、主の御名は賛美されるべきなり。Sit nomen Domini benedictum, ex hoc nunc et usque in seculum. A solis ortu usque ad occasum, laudabile nomen Domini. (詩篇112:2)

【2:私たちは屈辱と苦しみを耐え忍ぶことによって、キリスト者という名にふさわしいものとなるべき】
割礼を通して、天主の御子がイエズス(救い主)という名前をお受けになったように、私たちが、口先だけではなく本当に、キリスト者、あるいは、イエズスの弟子、イエズスを信じる者という名前にふさわしくなるためには、霊的な「割礼」、心の「割礼」を受けなればなりません。
肉の割礼は、何の意味も価値もありません。しかし霊的な割礼には意味があります。霊的な割礼とは、私たちの自然な悪への傾きを切り取ってしまうことにあります。これを一生に一回だけではなく、何度も何度も、毎日、一生涯行います。私たちの罪の根源は、私たちが生きている間は消えないからです。取り去ったと思っても、抜き取ったと思っても、次から生えてくるからです。私たちの中の古い人を脱ぎ、新しい人を着なければなりません。私たちが、イエズスへの愛のために、霊的な「割礼」を行えば行うほど、ますますイエズスとの一致が深くなります。

【遷善の決心】
主の割礼の神秘は、あまい神秘であり、同時につらい神秘でもあります。
あまいのは、割礼と共に、イエズスという甘美な名前を付けられたからです。
つらいのは、イエズスという聖なる名前には、屈辱と苦しみと言う高い代価が支払われたからです。
私たちがイエズスという名前を聞くとき、感謝と愛と、礼拝と賛美の念が起こります。
イエズス・キリストという主の名前をいだく主の真似をし、主を慕って、イエズス・キリストの通られた道を歩もうという決心をたてましょう。キリスト者とは、なんと栄光ある名前でしょうか!イエズスと同じ栄光を受けるべき名前なのですから。
「私のあとに従おうと思うなら、自分をすて、自分の十字架をになって、私に従え。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それをうけるのである。よし、全世界をもうけても、自分の命を失ったら、それが何の役にたつだろう。また、人は、命の代りになにを与えることができよう。人の子は、父の光栄のうちに、その天使たちとともに来て、その日、めいめいの行ないによって、むくいを与えるだろう。」(マテオ16:24)

私たちはキリスト者という名前にますますふさわしくなるように、今年、どのような霊的な割礼を行うべきでしょうか?

一つ提案します。ケータイとかスマートフォンと言われている機械です。ひと昔、ふた昔でしたらテレビでしたが、最近はそのポケット版です。
朝起きてすぐ、祈りをする最中、仕事を始めようとする時、仕事や勉強の最中、家族だんらんの食事の時、就寝しようとする時、私たちの生活を邪魔する小さなスクリーンです。
歩きながら、運転しながら、夜寝ながら、片時も手放すことができないという程、まだ中毒にはなっていないかもしれません。しかし、私たちの心は雑念と好奇心と情念とで、ケータイをいじってどれほど多くの時間を過ごしていることでしょうか?
分からない言葉の意味を検索するとあっという間に教えてくれます。世界中のニュースを瞬時に知ることができます。ありとあらゆることについての情報をいとも簡単に手に入れることができます。しかし、スマートフォンのために、私たちは深くものを考えたり、心を静めて祈ったり、一つのことに集中することがますます難しくなってしまって、私たちはスマートではなくなってしまっています。
人は好奇心から、表面的で一時的なニュースで知性と記憶をいっぱいにしています。しかしそれは人類の将来に何も深刻な影響も与えないような無益な情報で、日ごとに入ってきては忘れ去られています。しかし、私たちを満足させることはできません。情報の大洪水に飲み込まれつつ、しかし知性にはむしろ大きな虚無ができます。
ケータイをチェックしたい、ブログの記事を読みたい、YouTubeを視聴したい、この言葉を検索したい、という時、それを霊的割礼としてお捧げするのはどうでしょうか?

聖母よ、われらのために祈り給え!


すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何か?イエズス・キリストの教えとは何か?本当の愚か者とは?

2024年02月08日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2024年1月1日、主の御降誕後のミサの説教をご紹介いたします。その日の書簡は使徒聖パウロのティトへの書簡(2:11-15)からです。
「いと愛する者よ、すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた。それは、不敬虔と世俗の欲望をすてて、この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつあれと私たちに教える。イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった。それは私たちを全ての邪悪からあがない、善業に熱心に従い、受け入れられる民としてご自身のためにきよめるためであった。このことを、私たちの主イエズス・キリストにおいて、話し、勧めよ。」


愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、私たちの主は割礼を受け、イエズスという聖なる名前をつけられました。イエズスとは、ヤーウェは救うという意味です。

イエズス・キリストのおかげで、多くの聖人たち義人たちは、この世の命の後に、至福の王国で不死の命を生きることができるようになりました。シメオンは言います。「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。」イエズス・キリストのおかげて、立ち上がる義人・聖人たちがでました。

しかし、この世の儚いあっという間に終わってしまう哀れな快楽に目を奪われて、刹那的に自分のやりたいことを追求して罪を犯す人々は、残念にも、不幸なことにも、永遠の滅びを受けることになってしまいます。

何故なら、「すべての人々に、私たちの救い主、天主の恩寵があらわれた」にもかかわらず、それを無視したからです。聖人たちの生活を見て、彼らの清貧や謙遜を見て、自分にそんなことはできない、それは愚か者のすることだと考えたからです。

すべての人々にあらわれた天主の恩寵、イエズス・キリストの恩寵とは何でしょうか?イエズス・キリストの教えとは何でしょうか?本当の愚か者とは、どのような人でしょうか?
今日は、聖パウロの書簡を読みながら一緒に黙想しましょう。

【1:イエズス・キリストの聖寵】
聖寵とは、天主から私たちに憐れみによって与えられる聖なる寵愛です。なぜ憐れみによって与えられるかというと無償に与えられるからです。

キリストの来臨以前には、どれほど聖なる義人であれ、天国に行くことはできませんでした。しかし天主の御子が人間となり、天主の聖寵である私たちの救い主が私たちに現れました。これが聖パウロのいう偉大な「敬虔の奥義」です。「キリストは肉体にあらわれ、霊において義とされ、天使たちに見られ、異邦人に伝えられ、この世に信じられ、光栄にあげられた」(ティモテ3:16)。
寵愛は、それを与える人が偉大であれば偉大であるほど、人はそれを受けることを欲します。ですから天主が私たちに与える寵愛こそ、もっとも願わしいもの、望まれるべきものです。イエズス・キリストこそ天主の聖寵、人々が最高度に欲すべきものです。イエズス・キリストは私たちの救いのために与えられました。イザヤの預言によれば「地の果ては全て私たちの天主の救いを見るだろう」(イザヤ52:10)の通りです。「天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。・・・ かれは、すべての人をあがなうために、ご自身を与えられた。」(ティモテオ前2:4)

キリストのご誕生によって、この聖寵が二つの仕方で現れました。キリストは、聖寵真理とに満ちて(ヨハネ1:14)いたからです。
まず、聖寵・恵みとして、天主からの最大の贈り物として私たちに与えらました。
次に、キリストは真理として、人類に教えるために現れました。キリストの来られるの世は無知と誤謬と異端に苦しんでいました。しかし闇を歩く人々は偉大な光を見ました。(イザヤ9:2)キリストは真理を教えつつ、良い業を行うこと、また、正しい意向を持つことを教えてくれました。

【2:イエズス・キリストの教え】
良いわざについて、聖パウロは「不敬虔と世俗の欲望をすて」ることを教えています。
何故なら、良いわざを行うためにまず罪を捨てなければならないからです。罪とは、あるいは、天主に直接反することです。つまり、敬虔さに反していることです。ですから聖パウロは不敬虔をすてるようにと言います。
罪とは、あるいは、この世のものごとを乱用することです。そのような罪は世俗の欲望と言われています。全ての罪は、私たちの隣人に反対して、あるい、世俗のあるべき秩序に反対して犯されます。ですから続いて世俗の欲望もすてるようにと言います。
罪のわざをすてたのち、私たちがなすべき善に関することを言います。「思慮と正義と敬虔とをもって生きる」と。
思慮:これは私たち自身・自分自身に関すること。あるべき限度を守って、思慮が命じる限度にしたがって物事を使ったり情念をコントロールして生活することです。自己克己と賢明、正義と勇気による生活です。
正義:これは隣人との関係についてです。
敬虔:これは天主との関係についてです。

「幸福な希望」を待つように書いて、目的について教えてます。死の直後の霊魂の栄光、またキリストの再臨の時の肉体の栄光です。
「墓にいる人々がみな、そのみ声の呼びかけをきいて、墓を出る時が来る。善をおこなった人は命のために、悪をおこなった人は永遠の罰のために、よみがえる。」(ヨハネ5:28)
人間の目的は「幸福な希望」です。この世で徳のある生活をすることではたりません。たとえ「思慮と正義と敬虔とをもって生き」たとしても、何か別のものを待ち望んでいます。真の幸福を希望するから、または、私たちが真に幸福となることを待ち望んでいるからです。

「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」を待てと聖パウロは言います。【友を愛するものは、この友を待ち望みますが、自分のためだけでなく、彼の現れを愛する全ての人々のために望みます。】
「偉大な天主」何故なら、イエズス・キリストは「キリストは万物の上にあって、世々に賛美せられる天主である」(ローマ9:5)からです。「私たちはそのみ子イエズス・キリストによって、真実のお方のうちにいるのである。それは真実の天主であって、永遠の命である。」(1ヨハネ5:20)
「救い主」何故なら、イエズス・キリストは救い主だからです。「それはよいことであり、救い主なる天主のみまえによろこばれることである。天主は、すべての人が救われて、真理を深く知ることをのぞまれる。」(1ティモテオ2:3)天使はヨゼフにこう言います。「かれは、み民をその罪から救うお方だからである」(マテオ1:21)
「光栄のあらわれ」何故なら、イエズス・キリストは最初は謙遜のうちに来られました。「死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。」(フィリッピ2:8)「私は、心の柔和な、謙遜な者である」(マテオ11:29)しかし、キリストの再臨においては天主の本性が誰にも認識されるからです。「そのとき人々は、人の子が勢力と大いなる栄光とをおびて、雲にのってくだるのを見るだろう。」(ルカ21:27)

キリストは救い主ですが、どのようにして救い主となったのでしょうか?それは「イエズスは、私たちのためにご自分をお与えになった」からです。「私たちを愛し、私たちのために、香ばしいかおりの生贄として天主にご自分をわたされたキリストの模範に従って、愛のうちに歩め。」(エフェゾ5:2)御自分をお与えになって、つまり、御受難によってです。
御受難の実り、その効果は、私たちが邪悪から解放されることです。「それは私たちを全ての邪悪からあがない」、私たちは罪の奴隷状態から解放されました。
「受け入れられる民としてご自身のためにきよめる」とは、民を聖化して、御自分の民、ご自分のために聖別された民とするということです。天主の民は、善業に熱心に従わなければなりません。「善をおこなえ。そうすれば、かれから賞せられる。」(ローマ13:3)「善をおこないつづけて倦んではならない。」(ガラチア6:9)

【3:罪人のおろかさ】
栄光をもって再臨される「偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリスト」の友人となる力をもちながら、主の敵となることを欲するほど、おろかなことがあるでしょうか?

「不敬虔と世俗の欲望」にまみれて、罪の中を生きること、天主の敵として生きることは、この世では不幸となり、あの世では永遠にみじめになることです。
聖アウグスチヌスによると、ローマ皇帝の宮廷に仕えていた二人の臣下が隠遁生活をするために修道生活に入ったそうです。その内の一人は聖アントニオの伝記を読み、この世の虚しさをますます理解して、もう一人にこう語ったそうです。「皇帝の友人になることは、私たちが希望することができる最高のことだ。しかし、皇帝の友となるためにはどれほど多くの危険や戦いがあることだろうか!たとえ皇帝の友となっても、それがどれほど長く続くというのだろうか?たとえ多くの危険を乗り越えて皇帝の友となっても、私たちが永遠の滅びの危険に身をさらすなら、何の利益があるだろうか?しかし、もしもそう望むなら、私はあっという間に、天主の友となることができる。聖寵という天主からの無限の宝を受け取ることができる。
キリスト教を信じない人々は、被造物である人間が天主の友となることができるとは不可能だと思うでしょう。何故なら、友情とは、友を等しくさせるからです。しかしイエズス・キリストは言われました。「私の命じることをまもれば、あなたたちは私の友人である。」(ヨハネ15:4)

私たちが創造された目的を忘れて、刹那的にこの世のことだけしか考えないのは、おろかなことです。思慮のないことです。この世の全てを儲けても、究極の目的を失ったら、それが一体なんのためになるでしょうか?私たちの本当の最終目的だけが、私たちを本当に幸せにすることができます。「心要なことは少ない。いやむしろただ一つである。」(ルカ10:42)それは、永遠の命です。「幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれ」です。

それを見失ってしまっては、目的地を知らないで船を運行させる船長のようです。遭難するか、座礁するか、難船するか、です。船長がたとえ船の操縦の仕方を最高度に知っていたとしても、どのような豪華船であっても、どれほど大きなスピードで移動することができても、どの港にどうやって行くのかを死ならなければ、それが何の役に立つでしょうか?

この世の知恵者も、富と名誉を持つ人々も、愉快な生活とあらゆる娯楽を楽しんでいたとしても、霊魂を救うためにどうすればよいかを死ならなければ、何のためにこの世に生まれてきたのかを知らないならば、死後には地獄が待つだけだからです。この世の物事は、全てうずたかくかき集めても、人の心を満足させることはできません。何故なら、私たちは天主を愛するために作られているからです。天主以外のものでは、本当の平和も幸せも見出すことができないからです。

【4:遷善の決心】
新しい2024年の始めに、遷善の決心をたてましょう。
イエズス・キリストの恩寵を受けて、イエズス・キリストの教えをうけいれましょう。
私たちの人生の究極の目的は、イエズス・キリストによって与えられる永遠の命です。

聖母に御取次を祈りましょう。私たちが聖母にならい、「この世において、思慮と正義と敬虔とをもって生きるために、幸福な希望と、偉大な天主であり救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれを待ちつつ」生活することができますように。

「そのとき、幼児が割礼をうける八日目になったので、胎内にやどる前に天使によって呼ばれたように、その子の名をイエズスと名づけた。」


イエズス・キリストの精神、考え、生き方を受けるか否かによって、復活して永遠の命に導かれるか否かが分かれる。イエズスは識別のさからいのしるしとして立つ

2024年02月07日 | お説教・霊的講話

2024年2月3日(土)お説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日はミサの後の感謝の祈りのすぐあとに、聖ブラジニオのろうそくによる喉の祝別をします。ご希望の方は祝福を受けてください。

昨日はマリア様の御潔めの祝日で、シメオンがマリア様に預言をいったことを黙想いたしました。
「この子は、イスラエルの多くの人が、あるいはたおれ、あるいは立ちあがるために、さからいのしるしとして立つ人です。そうして、多くの人のひそかな思いが明らかにされるのです。あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」

シメオンのこのことばを聞いて、イエズス様がさからいのしるしとして立たれるということを私たちは知ります。

イエズス・キリストの精神を、イエズス・キリストのお考えを、イエズス・キリストの生き方を、受けるかあるいは拒否するか、によって、復活して永遠の命に導かれるか、あるいは永遠に滅びてしまうか、その識別のさからいのしるしとして立つ、とシメオンは私たちに言います。

わたしたちがいつもイエズス様の生き方に、イエズス様の精神に満たされますように、お祈りいたしましょう。

イエズス様の精神というのはいったい何なのでしょうか。イエズス様の何を受けるか受けないかによって、わたしたちは決定的に違いが出てくるのでしょうか。それは、十字架の友となるか、あるいは十字架の敵となるかです。

イエズス様の十字架は本当のキリストの弟子を識別させます。総てがうまく行っているときには、あるいは聖徳が敬われている時には、人々はたとえそれが自分を愛する自己愛からでも、あるいは機械的であったとしても、周りの人のよい模範に助けられて、多くの人が信仰生活を送ることが容易にできています。しかしもしも反対や迫害や十字架に直面すると、そのときにいままで機械的に形だけでやっていた人、あるいは偽善的にやっていた人、あるいは実は冷淡だった人は、それにひるんでしまいます。そして十字架に直面すると、主をほんとうに愛した人だけが残ります。十字架の下でも、聖金曜日にそうでした。その時に多くの人々の秘かな思いが明らかにされます。

わたしたちの信仰生活は何に基づいているのでしょうか。わたしたちの動機は何でしょうか。人の称賛を受けること、だけを熱心にしているのでしょうか。それとも隠れたことや卑しいことをわたしたちは熱心に行うでしょうか。それともおろそかに行うでしょうか。わたしたちがもしもよいことをしてもそれが評価されないと、やる気をなくしてしまうのでしょうか、それともイエズス様のためにおこなったので、それでもやり続けようと思うのでしょうか。

わたしたちは、わたしたちの聖徳はイエズス様への信仰と愛のうえに基づいているのでしょうか。それとも自分を愛するという砂の上に立っているだけなのでしょうか。わたしたちはすべてを、イエズス様をお喜ばせするために行っているのでしょうか。それとも、自分のやりたいことなのでしょうか。わたしたちが軽蔑を受けたり、失敗した時にわたしたちはそれでも主を讃美し主に感謝するでしょうか。十字架はイエズス様の本当の弟子か否かを識別させてくれます。

またシメオンは言葉を続けてこういいます。
「あなたの心も、剣で貫かれるでしょう」
イエズス様に属する者は苦しみを受けなければなりません。

マリア様はいつもイエズス様に従いました。だから、シメオンはマリア様の心も剣で貫かれると預言しました。天主の友は、十字架の友で、イエズス・キリストのように苦しみを受けて、キリストとともに苦しみを分かち合う友です。イエズス様をお愛しすればお愛しするほど、わたしたちには友として、苦しみの杯になみなみと酒が苦しみの盃に注がれます。でもイエズス様から送られた苦しみは、十字架は、私たちを清めます。功徳を積ませます。主とますます一致させます。そして天国の栄冠を準備し、イエズス様とますます似通ったものとさせてくれます。私たちは、ともすると、十字架の価値、苦しみの本当の価値を忘れがちです。

最後に日本の殉教者たちに祈りましょう。この御御堂は日本の聖なる殉教者たちに捧げられています。ふさわしくない私たちですけれども、マリア様の御取次によって、本当の苦しみの価値を理解することができますように。そして、マリア様の御取次と殉教者たちの模範に従って、苦しみを受けいれる勇気と力が与えられますようにお祈りましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖シメオンと同じように、同じような心構えでロウソクの式にあずかろう

2024年02月07日 | お説教・霊的講話

聖シメオンと同じように、同じような心構えでロウソクの式にあずかろう

2024年2月2日 お潔(きよ)めのミサの前に、儀式の説明

愛する兄弟姉妹の皆様
ロウソクの祝別の儀式の始まる前に少しお話しさせてください。この儀式にどのような心構えで与るかということをお話しいたします。
今日のお潔めのミサの前には、ロウソクの祝別と、祝別されたロウソクの配布、それから受けたロウソクに火をともしてのロウソク行列があります。わたしたちはこれを持って一階に降りてこの駐車場のところをまわってロウソク行列を行います。その行列が終わりましたら、すぐにミサが始まります。
今日もしもロウソクを祝別したいという方がいらっしゃいましたら、この祭壇の近くの机の上に置いてください。今日の特別のお祈りで祝別いたします。

ではいったいどのような心構えでわたしたちはこのロウソクの行列の式に与るとよいのでしょうか。それは、私たちは聖シメオンと同じように、その聖シメオンがイエズス様と出会った、その時と同じような心構えです。その心でロウソクの式に与りましょう。

祝別されるロウソクは、世の光であるイエズス・キリストを象徴しています。私たちがロウソクを受けるというのは、ちょうどシメオンが主に会いたい、救い主が来ることを心待ちにしていた、あるいは一生かけて待ち望んでいたということです。

約束の救い主が、ちょうどマリア様がお潔めの式に神殿に昇られる時に、マリア様は普通の一般の女性のように見えるけれど、イエズスさまは普通の赤ちゃんのように見えるけれども、シメオンは聖霊によって、この方こそが、預言されていたメシアだと理解しました。

シメオンは、群衆の中をかき分けてマリア様に会いに行きました。おそらくマリア様にどうぞこの赤ちゃんを抱かして下さいとお願いしたに違いありません。待ちに待った救い主はこの方です、と。マリア様はおそらく少しは驚いたでしょうけれども、すぐに理解されて、救い主イエズス様をシメオンにお渡しします。シメオンと同じように、マリア様の手からロウソクを受けてください。

世の光がわたしたちについに与えられた。この赤子こそ異邦人を照らす光、またイスラエルの栄光である、とシメオンは歌います。
この子は、真理の光、誤りと罪の暗闇を追い払う光からの光、正義の太陽です。
この幼子こそ、本当の永遠の栄光です。この世が私たちに約束するはかないうつろな栄光ではなく、陰りのない果てしなき栄光です。

シメオンが歌ったように、わたしの目は主の救いを見たから、もうすぐにこの世を去ってもよい、という思いでこのロウソクを受けてください。そのあとではロウソクに本当に火をつける…世の光であるイエズス・キリストをわたしたちは受けます。真理の光を受けます。そしてその愛の熱を受けます。

ただ光を受けただけではなりません。教会はどうしてもこの世の光を教会の外に出して、行列を行って、多くの人にすべて人に、イエズス・キリストの光を受けるように、この光で照らされるように、愛によって暖められるように、と、望んでいます。

でもそのためにはわたしたちがキリストと一緒に外に出て、キリストの光をもたらさなければなりません。ですから、私たちはイエズス様と一緒にいるということを何もおそれないでください。イエズス・キリストこそが唯一の世の光であって、そしてイスラエルの栄光である。このほかには救いはありません。この光を世界にもたらすために、どうぞイエズス様に協力なさってください。

そして、わたしたちはこのお御堂に戻ってきて、ミサに与ります。考えても見てください。世の光、まことの救いをうけるお恵みが与えられたという特別のお恵みを、考えてください。全人類が何千年も待っていたその救い主がわたしたちに与えられました。そしてわたしたちはその光によって、道を照らされ、それからイエズス・キリストの御体さえも受けることができます。御聖体拝領、教えを受け、お恵みを受け、イエズス・キリストのそのすべてを受けることができます。この恵みに感謝いたしましょう。

このイエズス・キリストこそがわたしたちの栄光のもとであって、イスラエルの本当のわたしたちの栄光です。もしも人々の前で私のことを宣言するなら、わたしもお前たちのことを御父の前で宣言する。しかしもしもわたしのことを恥じるなら、わたしもお前たちのことを恥じる。わたしたちは栄光を誇りに思うことにいたしましょう。主が私たちに与える本当の栄光は、この世の栄光を受けるようなやり方では得ることができません。何故なら、イエズスの精神とこの世の精神は正反対だからです。

シメオンはイエズス様をマリア様に預言しました。この子どもは多くの人の救いと滅びのために立てられる逆らいのしるしなのだ、このイエズス・キリストによって、イエズス・キリストを受けとることによって多くの人は救われる。しかし、イエズス・キリストを拒否することで、キリストに反対することによって、人々は滅びてしまう。その逆らいの印となる。わたしたちは、わたしたちの愛する人々がイエズス・キリストを受け取ることができますように、お祈りいたしましょう。

マリア様にも仰います。あなたの心も剣(つるぎ)で貫かれるだろう、イエズス・キリストを愛すれば愛するほど、イエズス・キリストの苦しみにますます参与しなければならない。イエズス・キリストと似通ったものにならなければならない。マリア様は一番苦しむだろう。心は剣でグサグサに痛めつけられるだろう。

わたしたちも、このミサ、祈りをささげてマリア様の心をお慰めいたしましょう。

今日は初金曜日ですから、マリア様の御心を通してイエズス様の聖心に、今日のミサ・御聖体拝領をお捧げいたしましょう。ではいまから聖なる儀式が始まります。


この世の普通の生活で独身を貫く召命はあるのか?

2024年02月06日 | お説教・霊的講話

独身の召命についての説教

ドモルネ神父 2024年2月4日

はじめに

天主が人を召される身分はさまざまです。天主は人類の増加のために結婚を定められました。したがって、結婚への召命があるのです。つまり、天主は、一部の男女をこの身分に召されるのです。天主は、ご自身の恩寵を人類に伝えるために、イエズス・キリストにおける司祭職を打ち立てられました。ですから、司祭職への召命があり、天主はそれに一部の男性を召されるのです。天主は私たちの創造主であり、人が完全に天主に奉仕し、完全に天主を賛美することを期待する権利をお持ちです。ですから、天主は、清貧、貞潔、従順の三つの誓願を通して自らを完全にご自分に奉献するよう、一部の男女を召されるのです。

私が前回フランスに行ったとき、ある若い女性から、この世の普通の生活で独身を貫く召命はあるかどうか聞かれました。これは興味深い質問で、私たちの時代において、より重要な意味を持つようになりました。そこで今日、私はそれに答えたいと思います。

1.独身への召命の存在

天主が私たちを創造されたのは、天主の永遠の命と無限の幸福を私たちに分け与えてくださるという目的のためです。私たちは、私たち自身の人間の力ではこの目標に到達できませんから、天主ご自身が私たち一人一人のために、この目標を達成するための計画を立ててくださいます。天主は、私たち一人一人を、私たちに最も適した方法によって、天主への完全な愛、天主における私たち自身と隣人への愛へと導いてくださるのです。私たち一人一人に対する天主の計画は、愛の計画です。この重要な真理を、特に苦しみの時に、決して忘れないことが大切です。天主は私たち一人一人に、永遠の命への道をさまざまな方法で明らかにしてくださいます。その方法とは、教会の教え、内的霊感、長上が命令すること、そしてもっとも多くの場合、人生の状況を通してです。

結婚にも、司祭職や修道生活にも魅力を感じない人もいます。このような人は、利己的でもなく、結婚の義務を恐れているわけでもありません。結婚したくても、そう望むにもかかわらず、適当な相手が見つからなかったり、生活の事情で独身を貫かざるを得なかったりする人もいます。そのような人たちの生活の状況によって、彼らを、天主は独身という道に導かれます。天主は、彼らが聖性を獲得するためには、このような身分で生きることによってであるように計画されたのです。教皇ピオ十二世は1945年にこう述べています。「自分の望みにもかかわらず未婚のままでいるものの、父なる天主の御摂理を固く信じている若いキリスト教徒の女性は、(…)人生で誠実な伴侶を望んだり、家庭を築きたいという望みを犠牲にするようになります。そして、結婚が不可能であることに直面して、自分の召命を垣間見るようになるのです。その後、いささか失意のうちに、しかし、天主のご意志に従順に、多くの愛徳のわざに完全に専念します」(女性へのメッセージ、1945年10月21日)。

ですから、修道生活における奉献された独身という召命とは異なる、この世における独身という召命が存在するのです。

2.独身の召命と母性の召命

特に女性の独身という召命に関する疑問があります。天主が女性を男性とは異なる存在として創造されたのは、女性には母性という特別な使命を与えられたからです。肉体的にも霊的にも、女性は母性のために造られています。では、女性の独身への召命を語ることとは矛盾しないのでしょうか。いいえ、なぜなら、肉体的な母性と、霊的な母性が存在するからです。

霊的な母性とは、霊魂たちが天主の子となり、天主の子として霊的に成長するように世話をすることにあります。自分の使命に忠実なカトリックの母親においては、肉体的な母性と霊的な母性が一体となっています。子どもに肉体的な命を与え、子どもが肉体的に必要とするものを提供するだけでなく、洗礼と健全なカトリック教育を通して、子どもたちが天主の子となるように気を配るのです。しかし、霊的な母性は、肉体的な母性と必ずしも一緒にあるわけではありません。それ以上に、天主がそのような犠牲をお求めになるならば、肉体的な母性を進んで犠牲にすることによって、霊的な母性はもっと広がるのです。天主が私たちに肉体的な豊穣さを犠牲にするようお求めになるとき、それは私たちを不妊にとどめるためではなく、天主の霊的な豊穣さに私たちをより密接に結びつけるためなのです。天主は本質的に豊穣です。実際、聖三位一体における天主の親密な生活は、三つのペルソナの間の友情の完全な愛の生活です。しかし、友情の愛は、他人に善を行うよう促します。ですから、天主は本質的に豊饒なお方であり、ご自身の天主の命を私たちに伝えたいと願っておられるのです。私たちが進んで天主のご意志を受け入れて天主に一致するとき、私たちは必然的に天主の霊的豊穣の協力者となります。あるドミニコ会の神父は、かつてこう言いました。「天主のご意志を受け入れることは、常に偉大な豊饒の法である」(カレ神父)。

今申し上げたことは、男性と、霊的な父性にも当てはまります。

ですから、この世における独身という召命は、女性の母性への召命や男性の父性への召命と矛盾するものではありません。

3.この世における独身への召命の目的

次の疑問は、この世での独身への召命の目的は何か、ということです。聖パウロはコリント人への書簡の中で、この問いに答えています。「妻のない者は、どうして主を喜ばせようかと主に属するもののことを気遣う。しかし、妻がいる者は、どうして妻を喜ばせようかと、この世のことを気遣い、心が二つに分かれる。結婚していない女と処女は、体と心を聖とするために、主のことを考える。しかし、結婚している者は、どうして夫を喜ばせるようかと世のことを考える」(コリント前書7章32-34節)。独身でいる理由は、天主のことをもっと思うためです。言い換えれば、肉体的な豊穣を放棄するということは、一部の人々が天主の求めておられる完徳を達成するために、天主が設けられた手段なのです。

天主が誰かに独身の道を歩ませられるとき、それは、天主がその人をご自分とさらに親密になるように召されることを意味します。天主はその人の愛の能力をご自分のために確保されます。ですから、その人は自分の人生において天主を中心に据えるべきなのです。天主なき独身は無意味です。それでは真っ当に生きることはできませんし、それに耐えることさえできません。天主なしでは、孤独は耐え難い重荷となります。ですから、自分の人生で天主を中心に据えない独身者は、自分のための天主のご計画にそぐわず、必然的に何らかの感情的、心理的不安定さに陥ることになります。この世の独身者は、修道者ではありません。天主は、独身者が聖務日課を唱え、修道者のすべての霊性修練を毎日行うことを期待なさってはいません。しかし、祈り、福音の黙想、霊的読書、秘跡を受けることをしなければなりません。それらは独身者のすべての活動の霊的な源であり、独身者の平静を保証するものだからです。

天主が誰かに独身の道を歩ませられるとき、それはまた、天主がその人に、他人に対する特別な霊的豊穣をお求めになることを意味します。申し上げたように、天主は豊穣です。私たちが天主と一致すればするほど、私たちは天主の霊的豊穣にあずかることになります。天主のご意志に従って家庭を築くという犠牲を自発的に受け入れることは、内向性や利己主義につながるものではありません。それどころか、それによって独身者は、自分の家族よりも多くの人々に関心と愛徳を向けることができるようになるのです。独身への召命においては、その人の本性、気質、知性、情緒というすべての資源が霊的豊穣のために動員されます。天主は独身者に、自分の愛の能力を最大限に発揮して、他者において天主を愛するよう求めておられるのです。ですから、私たちの主の次のみ言葉は、司祭や修道者だけでなく、この世に生きる独身者にも、あてはまるのです。「私の名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子、土地を捨てた者はみな、その百倍のものを受け、永遠の命を得る」(マテオ19章29節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、この世で独身であることは、一部の人々が考えているのとは逆に、自分の召命を逃したとか、人生に失敗したということを意味しません。この世における独身という召命は、天主のご計画に従って存在するのです。教皇ピオ十二世は、私たちの時代において、天主はより多くの人々をこの召命に召しておられる、と言うことをためらいませんでした。実際、教会は、世界の脱キリスト教化と闘い、霊魂の救いのために働くために、これまで以上にこのような召命を必要としているのです。


救霊の大切さ:何故なら霊魂を失ってしまうならばすべてがパーになってしまうから。 もしも一回失ってしまったらもう二度取り返しがつかないから

2024年02月01日 | お説教・霊的講話

­2024年1月28日(主日)名古屋でのミサでの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年1月28日、七旬節の主日です。

二つお知らせがあります。一つは、来る2月の14日水曜日は、灰の水曜日です。公教会の規定によると、灰の水曜日には健康な成人の男女は、満十八歳から五十九歳までの健康な成年男女は大小斎を守らなければなりません。大斎というのは一日に一回充分な食事をとることです。そして小斎というのは肉を食べないことです。教会には、現在のところ二回――以前は多くの大小斎がありましたが――現在ではたった二回の大小斎が残っていて、それが灰の水曜日と聖金曜日です。灰の水曜日には寛大に犠牲をお捧げください。
二つ目は、2月の名古屋の予定です。二月も最終の主日にまたおこなわれます。たくさんのお友達を連れていらしてください。心からお願い申し上げます。

七旬節の主日、この七旬節というのは、四旬節の前にすでに教会が私たちの少なくとも心の準備をするように、と招いています。そして特に七旬節には「私たちには今からとっても大切な大仕事がある」ということを思い出させます。それは何かというと「救霊の大切さ」です。私たちの霊魂がどれほどの価値があるものか、これから私たちがやろうとしている大事業はどれほど重大でものすごく莫大な利益をもたらすものであるか、ということを教会は思い出させようとしています。ですから今日はそのことを一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音では、イエズス様がおっしゃった言葉があります。そこからなぜいったいなぜ救霊が重要なのか、2つの点を見てみましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」主はこうたとえを出します。この主人、“ぶどう畑ではたらく人をやとうこの主人”というのは、天主のことです。“ぶどう畑ではたらく人”というのは、私たち人間のことです。

「ぶどう畑ではたらく」というのは、聖クリゾストモによると、わたしたちが聖徳を身につけるようにすることです。聖グレゴリオによると、「ぶどう畑」とは、カトリック教会のことです。なぜかというと、イザヤの預言に「万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のことである」(イザヤ5:7)とあるからです。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ぶどうの畑に植えられている木の一つ一つは、私たちの霊魂のことです。主が私たちに与えた霊魂、それがぶどうの木にたとえられています。

ぶどうの畑ではたらいた人々は、夕方つまりこの世の終わりに、また人生の終わりに、報いを受けるということを意味しています。私たちは永遠の命という報酬を受けるために、この地上ではたらいています。

イエズス・キリストの教えというのは、ほかでもない超自然の天国の幸せを受けるということを教えています。「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。(…)正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。私のために、あなたたちをののしり、あるいは責め、人々が、数数のざん言をいうとき、あなたたちはしあわせである。よろこびによろこべ。あなたたちは、天において大きなむくいをうけるであろう。」

イエズス・キリストの教えは、商売繁盛・試験合格・交通安全・家内安全などではありません。天国の、永遠の朽ちることのない尽きることのない無限の天主と同じしあわせを私たちも受ける、ということでした。超自然のよろこびです。イエズス・キリストが教会を制定したのは、私たちが永遠の命を受けるためでした。教会の創立の目的は、永遠の命だからです。

私たちが洗礼を受けるときに、教会は私たちにこう尋ねます。
「あなたは天主の教会に何を求めますか?」 
「信仰を求めます。」
「信仰はあなたに何を与えますか?」 
「永遠の命です。」
私たちが使徒信経を唱えるとき、その最後はもっとも美しい言葉で終わります。
「永遠の命を信じ奉る、アーメン」。

教会は、私たちに人生の終わりに起こる四つの真理を、何度も何度も繰り返し教えています。死・審判・地獄・天国、これはどうしてもわたしたちが避けることができない現実だからです。好きでも嫌いでもこれが真理であるからです。人々は残念ながらこの真理をまったく知らないであるいは忘れて生活しています。

今日たとえば 名古屋駅からここまで歩いてくるときに 多くの人たちが駅で美しい服装できれいにお化粧して楽しそうに若い人も大人も歩いていました。しかしどれほどの人が、とても大切な救霊のために生きているということを生活しているということを、知っているでしょうか。あたかもわたしたちはこの死ぬことがないかのように、この世界に永遠に生き続けるかのように、この世の生活だけがすべてであるかのように、生活しています。カトリック信仰を持っているという人であっても、私たちが一生の終わりにすべてを天主に報告しなければならない、裁きがあるということを考えていないかのように生活しています。永遠の命という人生の究極の目的について、知らずに、あるいはすっかり忘れて、あるいは無関心に、この世のことだけにおぼれて、この世のことだけがすべてであるかのように思い違いして生活している人がどれほど多いでしょうか。

ですから、そうではなくて、教会は、「ちょっと待て!すごい大切なものを忘れている。私たちは今一生懸命働いているかもしれない。しかしもっとものすごいもののために私たちはいま生きているんだ。」ということを教えようとしています。

もしかしたら、名古屋の駅にいる人達は私たちに言うかもしれません。
「わたしはね、数億円のビジネスをやっているんだよ。おくりびとだよ。神父様ね、儲かったからちょっと教会を買ってあげるね、でもそれまでは忙しいの」と。  
そんな方に教会はこう言います。「でもね、私たちは、いくらお金を積んでも何百億円でも何兆円でも何京円でも決して買うことができない、ものすごい永遠の命のためにいま働いているんだよ。お金じゃ絶対買えないんだ。永遠の命というのは。」教会はそれを私たちに言おうとしています。

ではなぜ救霊というのが大切なのでしょうか。
なぜかというと、もしも私たちが霊魂を失ってしまうならば、つまり地獄に落ちてしまうならば、すべてがパーになってしまう、もう全部失ってしまうからなんです。
もう一つの理由は、もしも一回これを失ってしまったら、もう二度取り返しがつかない、もうそれっきり、チャンスはもう二度とない、一発勝負、これで最初で最後、これを逃したらもうない、だから今! だからなんです。

ではまず第一に、もしもいまこの救霊を失敗したら、霊魂を失ったら、すべてがパーになってしまうということを考えてみます。
わたしたちは、わたしたちの持っているこの霊魂の貴重さ、救霊の大切さを知らないかもしれません。でも、天主はわたしたちをご自分の似姿に肖像に似せて創造されました。ご自分の命に与る者として創られました。わたしたちを愛して、そしてこの私たちを天国に連れて行くために御自分の命を天主の命を与えるために人間となって、そして十字架につけられてご自分の天主としての血潮をすべて流して、罪を贖われました。天主にとって私たちの霊魂は、命に代えてすべてに勝(まさ)って大切なものだったのです。聖ペトロはわたしたちにこう言っています。「あなたたちは、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたというのは、金銀など朽ちるものによるのではない。きずもない汚点もない小羊のように、キリストの尊いおん血によって贖われた、それほど貴重な霊魂だ」(ペトロ前1:18-19)と言っています。

三位一体の天主だけではありません。悪魔でさえもわたしたちの霊魂がどれほど貴いかということを知っています。人間の霊魂を奪うために、悪魔は日夜、眠らずにわたしたちの霊魂を狙っています。地獄に引きずり降ろそうとしています。聖ペトロはこうも言っています。「節制し警戒せよ。敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食いあらすものをさがしながら、あなたたちのまわりを回っている。」(ペトロ前5:8)

聖パウロは、わたしたちが落ち着いてそれぞれの仕事について手ずから働くように努めよ、と言っています。そして、それを誇りにしろ、と言っています。つまりわたしたちは一生懸命仕事をしなければなりません。(テサロニケ前4:10)この世の人々は、もちろんそうです。ビジネスの成功のために一生懸命働いています。顧客の満足のために、あるいは利益がどうやったら生まれるだろうか、いろいろ計算して、コストカットして、あるいは夜も寝ずにエクセルシートを計算して、あるいは設計図を書いて、あるいは電話をしてEメールを書いて、食べるまもないほど一生懸命汗を流して働いています。またある人は自分の健康のためにはすべてを尽くしています。
どんな遠い病院であろうと、どんなに汽車賃がかかろうと新幹線代がかかろうと、健康のためならいい先生を見つけて移動します。何時間のどんなにつらい手術であろうと、どんなに長い待ち時間があろうと、高い薬であろうと、健康のためであればなんでもやります。

ところで光の子である私たちは、霊魂の救いという途轍もないビジネスのために大利益のためにどれほど熱心に働いているでしょうか。またわたしたちの霊魂の救いという健康のために、どれほど熱心にこの霊魂が病に罹らないように注意しているでしょうか。どんなに遠くてもミサに通う、どんなに辛くてもする、という覚悟はどれほどあるでしょうか。イエズス様はこう言われます。「よし、全世界をもうけても、自分の霊魂を失ったら、それがいったい何の役にたつのか。」(マテオ16:26)

もしも私たちが天国に行くのであるならば、霊魂を救うことができれば、この世のすべてが失われてもたいしたことはありません。なんの困ったこともありません。重要でもありません。なぜかというとこの世のものはいつかは終わることですし、そして今では、完全なしあわせを尽きることなく終わることなくよろこぶことができるからです。なんの悲しみも辛いこともない歓びに満たされるからです。

しかしもしも霊魂を失ってしまうのならば、つまり、地獄に堕ちてしまうようになってしまったとしたら、今この世でどれほどの大成功、莫大な富、名声、快楽を楽しんだとしても、車が何十台あったとしても、プライベート・ジェット機を持っていたとしても、それがいったい何の役にたつのでしょう。地獄で苦しんで、終わりなく苦しむのであれば、それがいったい何になるのでしょうか。イエズス様が言います。「よし、全世界を設けても、自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つのだろう。」

ロヨラの聖イグナチオという人は、パリで、フランシスコ・ザベリオと会いました。フランシスコ・ザベリオはその時は法学を勉強して将来は大成功をなして貴族にのし上がろうとしていた男でした。するとそのときに、イグナチオはこう言いました。「フランシスコ、おまえはいったい誰に仕えているのか? おまえはこの世に仕えている。でもこの世は裏切り者だ。なぜかというと、この世は、約束はするけれども約束は守らないからだ。たとえ約束を全て守ったとしても、それがいつまで続くのか? おまえの生きているよりももっと長く約束を守るのか? いや おまえが死ぬとすべてそれで終わりだ。お前が死んだあと、もしもおまえの霊魂が失われるのなら、その約束がいったいどんな役に立つのか? 全世界をもうけても自分の霊魂を失ったらそれがいったい何の役にたつのか?」

イエズス様は聖マルタにこう言いました。「マルタ、マルタ、心要なことは少ない。いやむしろただ一つだ。」(ルカ10:42)必要なことはたった一つ、私たちの霊魂を救うことです。天国に行くことです。これだけが、私たちにとって最も必要です。絶対に必要なことです。何故かというと、私たちは天国という永遠の栄光を得るために、この世に生まれてきたのです。私たちが天国の栄光という喜びを得るために、天主は人となったからです。私たちが天国を得るために、イエズス様はすべての血を流されて、十字架の苦しみを甘んじて受けたからです。私たちがいまここに生きているのは、天国のためだからです。もしもこの世で、皇帝のように、全世界を支配して、全てのよろこびとしあわせを掻き集めて、そしてもうこれ以上楽しむことができないというほど楽しんだとしても、死の瞬間はそれがどうなってしまうのでしょうか。死の瞬間、ちょうど夢から覚めたように、ハッ永遠という現実に目覚めます。永遠の世界が始まります。その時、今までのこの地上のことはアッという間に消えて、虚(うつ)ろに無くなってしまいます。過去世界中にいろいろな皇帝、専制君主、王、君、大名、いろいろな人々がいました。豪奢な生活を送って羽振りがよく、この道路を肩で風を切って歩いていました。へへぇーと跪いて土下座して迎えたような人々がいます。ちょっといえばなんでも、何万という家来が動いた、動かせた人がいます。そのような人たちにいま聴いてみます。
「いま昔持っていた権力や富・力はどこにあるのですか?」
「何にもない、何にも残っていない。」

ですから、聖フランシスコ・ザベリオは私たちにこう言っています。この世には一つの善と一つの悪しかない。善というのは霊魂を救うこと、悪というのは霊魂を失うことだ、と。私たちにとって、求めなければならないひとつのことがあります。それは「主の家に住まう」、「天国に行くこと」、それです。

また、第二の点は、霊魂が一度失われてしまうとこれは永久に失われるということです。

すべてがパァーになるのみならず、もうそれっきりだということです。わたしたちの人生はたった一回しかありません。わたしたちは一度死にます。一度だけです。そしてその死の瞬間に永遠が決まってしまう。永遠は二つしかありません。永遠のしあわせ、天国。あるいは永遠の不幸、地獄。――これだけです。わたしたちが死の瞬間、それが決定します。もしも大罪の状態で死んでしまうのなら、永遠に不幸になってしまうのです。永遠に失われてしまう…。もしもわたしたちが成聖の状態で天主の友として死ぬならば、天国に行くことができます。霊魂は一つ、永遠も一つです。

もしもこの世で失敗したならば、家を火事で焼いてしまった、交通事故で車が潰れてしまった、怪我をして骨を折ってしまった。やり直しができます。事業を新しくすることもできます。開拓することもできます。再生することができます。でも霊魂を一度失ってしまうと、それっきりです。二度と恢復(かいふく)はできません。やり直しもできません。ああすればよかった、とわかっても、もう後の祭りです。天国に行くのはどれほど簡単だったのか、あの被造物、あれを選ばなければよかった、天主の言うとおりにすればよかった、儚い煙のようなあのために、あの嘘、あのお金、アレのためにすべてが失われた。もしもわたしたちがビジネスで間違った注文をしてしまった、間違った設計をしてしまった、損害があった、何百万円パーになってしまった、ああもったいなかった、ああ―、悔やんで 悔やんで 悔やんで、残念に思うかもしれない。しかし、霊魂を失って、天主を失うならば、永遠に永久に取り返しがつかなかったら、わたしたちは悔やんでも悔みきれません。
ああ、なんであんな馬鹿なことをしたのか、すべては自分の落ち度だ。あの時、あれさえしなければ、あんな簡単なことがなぜできなかったのか。‥‥‥。この地上のものはすべていつか終わりを遂げます。この世からわたしたちはいつの日か立ち去らなければなりません。しかし、天国を失うということは、地獄の永遠の苦しみというのは、私たちにとって消えることのない永遠の問題です。

では最後に遷善の決心をたてましょう。
ですから、今日は、教会は声を大にして聖パウロの言葉を繰り返して言います。
「兄弟たちよ、賞を受けるために走れ。競技で戦う力士はみな、万事をひかえ慎む。彼らは朽ちる栄冠を受けた。しかし、私たちは朽ちない栄冠のために生きている。」
ですからちょうど私たちは、この世という競技場で悪と罪とに対して戦う力士のようです。永遠の命という褒賞(ほうしょう)を受けるために戦っているアスリートです。この世のアスリートたちが、金メダルを得るために、どれほどの苦しい訓練を朝から晩まで毎日毎日毎日やって、食べ物を節制して、走って、そして練習して、走って、練習して、そして、特訓を受けて…どれほど犠牲の生活をしているか、私たちはよく知っています。プロの選手もそうです。いい体に一番いいものを食べて、云々…私たちもその真似をしなければなりません。

私たちも罪の機会を避け、誘惑に抵抗して、被造物を天主より愛することがないように機会を慎んで、そして頻繁に最高の栄養つまりお恵み――天主の与えた秘跡に与らなければなりません。聖伝のミサ聖祭に与らなければなりません。イエズス様は言いました。「天の国は暴力で攻められ、暴力の人がそれを奪う」(マテオ11:12)一生懸命そのために勝ち取ろうとする人が天国に入るのだ、と言っています。日本のキリシタンたちもそうでした。日本にいた無数の何百万という殉教者たちがそうでした。永遠の救霊を確保するために朽ちることのない栄冠のために、キリストのためにすべてを放棄しました。この世のことは、いつかは終わってしまうのです。ですからいま、永遠の殉教と命の冠をいただいて、よろこんで選善の決心を立てましょう。たとえ世の人々が自分の救霊・霊魂について全く無関心冷淡であったとしても、わたしたちはこのものすごい莫大な宝を得るか得ないかというこの大事業、失敗が許されない大事業のために全力を尽くすという決心を立てましょう。この救霊のためにイエズス様は命さえも惜しみませんでした。多くの人々が世間体を気にしてこの世の精神に流されていたとしても、テレビを見てユーチューブを選んで、私たちを見てへらへら笑っていたとしても、私たちはもっと大切なことがあると理解いたしましょう。イエズス・キリストの精神に従うという決心を固めましょう。

四旬節の決心のことを考えてください。スマホやケータイの使用を制限するという決心はいかがでしょうか。眼の慎みをするという決心はどうでしょうか。祈るために時間を確保するという計画をたてるのはどうでしょうか。マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は私たちの霊魂がどれほど価値があるか、どれほど大切であるか、永遠の命とはいったい何かということをよーく御存じです。ほかのものと決して交換することができない、ものすごいものです。私たちはそのために生きているんです。天主の御血が流されて、そして贖われて、買い求めて、それほど貴重なものです。そのイエズス様の御血が無駄にならないように、私たちの救霊が「ああ~なんだ、あんなために…」と後で悔いることがないように、天主のお恵みにいつも忠実であるように、マリア様にお祈りいたしましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖体十字軍とは何か、その発端、発展、復活

2024年01月31日 | お説教・霊的講話

聖体十字軍についての説教

ドモルネ神父 2024年1月28日

はじめに

昨日は、聖体十字軍への参加を更新した子どもたちも、初めて参加した子どもたちもいました。今日は聖体十字軍についてお話したいと思います。

1.聖体十字軍の発端;Quam Singulari

聖体十字軍は、1910年に書かれた教皇聖ピオ十世の教令「クアム・シングラーリ」(Quam Singulari)が結実したものです。この教令の中で教皇は、子どもたちが分別のつく年齢に達したらすぐ、告解とご聖体を受けさせることが必要であることを、すべての人に強く思い起こさせました。この必要性は、第一に、私たちの主イエズス・キリストが幼い子どもたちに示された愛に基づいています。教皇は次のように書いています。イエズスは「子どもたちに手を置かれるのが常であり、子どもたちを抱きしめられ、子どもたちを祝福されました。同時に、子どもたちが弟子たちによって追い払われるのを喜ばれず、次のような言葉で、弟子たちを厳しく叱られました。『子どもたちを私のところに来させよ。止めてはならぬ。天主の国を受け入れるのは、このような者たちである』(マルコ10章13-16節)。一人の子どもをご自分のもとに呼んで、弟子たちに『まことに私は言う。あなたたちが立ち戻って子どものようにならないなら、天の国には入れぬ。…私のために、こういう子どもを受け入れる者は、私を受け入れる』(マテオ18章3-5節)と言われたそのとき、主が子どもたちの無垢さとその霊魂の素朴さをいかに高く評価しておられたかが、はっきりと分かります」(「クアム・シングラーリ」1番)。幼い子どもたちの聖体拝領の必要性は、第二に、子どもたちが小罪を清められ、大罪から守られるために、ご聖体を必要とすることに基づいています。

この教皇の教令は、イエズスの子どもたちに対する愛を思い起こさせることで、イエズスの聖心に対する子どもたちの力を思い起こさせました。実際、私たちがだれかを愛すれば愛するほど、私たちはその人の願いをより簡単に、より早く、聞くのです。聖体拝領は、子どもたちが自分自身と他人のために恩寵を願って得ることのできる特権的な時なのです。

2.聖体十字軍の歴史的始まり

1914年、第一次世界大戦が勃発しました。フランスのあちこちにいた敬虔な人々は、「兵士が戦い、天主が勝利を与え給う」という聖ジャンヌ・ダルクの言葉を思い出しました。彼らはまた、イエズスの聖心に対する子どもたちの力も思い出しました。そこで彼らは、子どもたちが祈りと犠牲、そして何よりも聖体拝領を通して、イエズスから勝利と平和という恩寵を得ることができるように、子どもたちを霊的に動員することに決めました。この動員は、「子ども十字軍」と呼ばれました。

その敬虔な人々の中に、シスター・マリー・ド・ラ・プレザンタシオンという修道女がいました。彼女はフランスのボルドーの女子校の教師でした。彼女の指導の下、またイエズス会の神父たち、特にアルベール・ベシエール神父の指導の下、その子どもたちは小さな霊的軍隊のような組織を作りました。子どもたちは聖心と童貞聖マリアのご像を立て、その下に、自分たちがイエズスとマリアに捧げる祈り、犠牲、聖体拝領を記録する板を置きました。また軍隊のように、兵士、伍長、軍曹、将校という階級を設けました。子どもは、毎朝イエズスに自分の一日を捧げることを誓うことで兵士となります。次に、聖体拝領をより頻繁にすることを誓うことで、階級が上がっていきます。週に1回聖体拝領をすることを誓うことで伍長、週に3回の聖体拝領で軍曹、そして毎日の聖体拝領で将校となります。子どもたちはまた、戦争の最前線の地図に、その場所と各軍の名前を記し、戦争が進むにつれて、この軍やあの軍に霊的な支援の意向を立てて、そのことを知らせる手紙を各軍に送りました。戦争中、最前線で担架の担ぎ手をしていたベシエール神父は、定期的に手紙を送り、子どもたちの努力を励ましました。

3.聖体十字軍の発展

子ども十字軍は、司教たちによって、そして教皇ベネディクト十五世によって承認され、奨励されました。それはもはや一部の敬虔な人々の私的な取り組みではなく、教会の活動となりました。瞬く間に、この霊的な軍隊に加わる子どもたちの数は、フランスだけでなく、第一次世界大戦中にフランスと同盟を結んでいた国々、ベルギー、英国、イタリア、米国で急増しました。1916年、運営のための事務局が設立され、1917年には、十字軍の指導者たちを養成するために「ホスティア」と呼ばれる雑誌が定期的に発行され、また、子どもたちを励ますためのニュースレターも発行されました。

1918年の戦争終結は、子ども十字軍の終了を意味しませんでした。なぜなら、その主な目的は、第一次世界大戦の終結ではなく、霊魂と社会における私たちの主の王権の復興だったからです。1922年以降、子ども十字軍は、「聖体十字軍」と呼ばれるようになりました。この十字軍の活動は、「祈り、聖体拝領、犠牲、使徒職」というモットーに集約されていました。十字軍には、その誓いの段階によって、見習い、兵士、騎士の三つの階級がありました。階級が高ければ高いほど、ご聖体におけるイエズスへの献身が大きなものとなります。教皇ベネディクト十五世とピオ十一世の奨励の下、1935年までに全世界で300万人の子どもたちが聖体十字軍に登録されました。残念ながら、十字軍は1962年に、教皇ヨハネ二十三世によって打ち切られました。聖体十字軍の霊的征服の精神は、この教皇の対話とエキュメニズムの精神とは相容れなかったのです。

4.聖ピオ十世会が復活させた聖体十字軍

1979年、パリで、ルフェーブル大司教は司祭職50周年を祝いました。その際、ルフェーブル大司教は、聖なるミサと、霊魂と社会を回復させるミサの力について美しく感動的な説教を行いました。この説教の最後に、大司教はすべての善意のカトリック信者に、近代主義と自由主義に対抗して、キリスト教の信仰と文明を守るための霊的な十字軍を結成するよう呼びかけました。大司教はすべてのカトリック信者に、聖なるミサの重要性と素晴らしい豊かさを再発見し、再び聖なるミサを自分たちの生活の中心に置き、私たちの社会に私たちの主イエズスの統治を復興させるために、聖なるミサを頼りとするように呼びかけました。

ルフェーブル大司教の呼びかけに従って、聖ピオ十世会の司祭たちや神学生たちは、イエズスの聖心に多くの喜びと慰めを捧げ、イエズスから多くの恩寵を得ることのできる子どもたちも動員することに決めました。そこで、このエコンの司祭たちや神学生たちは、聖体十字軍を復活させました。今日では、聖ピオ十世会の聖堂から、約700人の子どもたちが聖体十字軍に登録されています。こどもたちの国はフランス、ドイツ、米国、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、英国、イタリア、アイルランド、ポーランド、スイス、アフリカ、ベルギー、そして…日本です。

結論

親愛なる信者の皆さん、私はこの説教の締めくくりとして、親御さんたちにご自分のお子さんたちを聖体十字軍に参加させられることを、ただお勧めしたいと思います。なぜそうすべきなのでしょうか。なぜなら、この十字軍は、イエズスとマリアをお喜ばせし、聖性において進歩し、霊魂を救い、教会を敵から守り、私たちの国々、そしてここ日本で、私たちの主イエズスの王権を拡大するための、素朴で効果的な方法を子どもたちに提供するからです。

【関連記事】


聖パウロの回心の祝日:全ての方々がイエズス・キリストの信仰を得ることができるように祈ろう。

2024年01月31日 | お説教・霊的講話

2024年1月25日ミサ 説教

今日は聖パウロの回心の祝日です。
ガマリエルという有名なラビの弟子で秀才であったサウロは、今日、イエズス様の特別のお恵みによって、キリスト教を迫害していた立場から、イエズス・キリストを信じる大転換をして大回心をしました。聖パウロの回心のお恵みは、最初の殉教者聖ステファノの祈りによるものだと言われています。

「日本の聖なる殉教者聖堂」の近くにある大宮の小教区の教会は、使徒聖パウロに捧げられています。この聖パウロに捧げられた小教区、ここに住んでいる方々が、聖伝のカトリック信仰に導かれるようにお祈りいたしましょう。日本の流された最初の殉教者たちの血の、その祈りの御取り次ぎによって、回心のお恵みを請い願いましょう。

新しいミサに与るカトリック信者の方々のみならず、イエズス様を知らない方すべての人たちが、この私たちの日本の聖なる殉教者教会の周りに住んでいる多くの方々、全ての方々が、イエズス・キリストの信仰を得ることができますようにお祈りいたしましょう。

「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ1:)

聖父と聖子と聖霊との御名により

Photo Credit


権威と従順についての講話:権威および従順という概念、両者の関係、そして両者の制限について

2024年01月30日 | お説教・霊的講話

権威と従順についての講話

ドモルネ神父 2024年1月8日(札幌)

はじめに

60年にわたって、カトリック教会は、自らの歴史の中でも最も深刻な危機の一つによって揺さぶられています。教皇パウロ六世が、1972年に、「どこかの裂け目を通ってサタンの煙が天主の教会に入り込みました」と言ったほどでした。その裂け目とは、実際には教皇パウロ六世自身の自由主義でした。彼は第二バチカン公会議の間に、致命的な教理が教会に浸透するのを許しました。次に、自分の権威を利用して、これらの教理を教会全体に広めたのです。そして、いわゆる従順の名の下に、カトリックの聖職者と信者のほとんどが、これらの教理を受け入れました。ルフェーブル大司教とブラジルのデ・カストロ・マイヤー司教だけが、これらの致命的な教理に公然と反対した司教でした。二人は教皇に不従順だと非難されました。今日に至るまで、これらの教理を拒否するすべてのカトリック信者は、教皇に不従順だとして、つまりは「悪い」カトリック信者であるとして非難されているのです。

今日はまず、権威および従順という概念、両者の関係、そして両者の制限についてお話しします。現在の教会の危機の中で混乱しないためには、また、この危機の真っただ中における聖ピオ十世会の立場を理解するためには、これらの概念を正しく理解することが不可欠です。

1.権威という概念

権威とは、他の人々に命令し、その人々を従わせる権利です。

次の質問をしてみましょう。「そのような命令する権利を、人はどのようにして得るのでしょうか」。それには、二つの方法しかありません。所有権という理由によるものと、受けた使命という理由によるものです。

最初の方法は、所有権という理由によるものです。人は自分の所有物に対して権威を持っています。例えば、皆さんが車を買ったとしたら、皆さんはその車に対する所有権を持っており、そのため、皆さんにはその車を好きなように使う権利があります。別の例では、異教の文明において、人が奴隷を買えば、その奴隷はその人の所有物となり、その人はその奴隷に好きなように命令することができます。全世界と人類を創造なさったのは、天主だけでした。ですから、それらの所有者は天主だけであり、それらに対する完全な権威を持っておられるのも天主だけなのです。

命令する権利を得る第二の方法は、天主から受けた使命という理由によるものです。実際のところ、天主は被造物全体を御自ら直接に統治なさることはありません。もちろん天主はそうすることもおできになりますが、具体的に言えば、天主は天使と人間を、ご自分の世界統治に参加させることに決められたのです。言い換えれば、天主は、天使と人間に何らかの使命をお与えになり、それゆえに、天使と人間にその使命を実行する権威を委任されるのです。

例えば、天主は、私たちの守護の天使に、私たちの地上での生活の間、私たちを見守って、私たちが天国に行くのを助けるという使命を与えておられます。ですから、天主は、私たちを見守って、天主の御旨に従って私たちを導くという目的のために、守護の天使に自らの権威を委任しておられるのです。このため、聖書の出エジプト記には、次のように書かれています。「天主なる主はこう言われる。私は、おまえたちの前に天使を送り、道で守らせ、そして私の備えた所に導こう。彼を尊び、その言いつけを聞き、彼に反抗するな。私の権威は彼とともにあるから、彼は、その反抗を許さないであろう。もしおまえたちが、彼の声を忠実に聞き、私の言いつけをすべて守り行うなら、おまえの敵は私の敵となり、おまえの仇は私の仇となる。私の天使は、おまえたちの前を歩むであろう」(出エジプト23章20-23節、守護の天使の祝日のミサの書簡)。

別の例があります。天主はご自身で直接、最初の男と最初の女を創造されました。しかし、人類を存続させるために、天主は人間を、人類を増やすことに参加させようと決められました。天主は、結婚している人々に、子どもを生んで教育する使命を与えられます。その結果、天主は、結婚しているカップルが天主の御旨に従って自分たちの子どもを教育するために、自分たちの子どもに対する権威を委任されたのです。

さらに別の例があります。天主は人間を、社会で共に生きなければならないように創造されました。人間は、一人では人間としての完成に到達することができず、他人の助けを必要とします。石工、大工、配管工、教師、医者、弁護士、漁師、公務員、司祭などに同時になることは、誰にもできません。人間は、組織化された社会で共に生き、互いに助け合う必要があります。しかし、指導者、つまり人々の行動を調整し、人々を共通の目標に向かわせる人がいなければ、組織化された社会は存在しません。ですから天主は、人間が誰かの指導の下で共に生きることを望んでおられるのです。天主はその指導者に、人々の物質的・霊的な福祉の面倒を見るという使命を与えられ、その目的のための彼に権威を委任されるのです。

私が申し上げたことを要約します。権威とは、他人に命令する権利です。そのような権利の起源は所有権です。全宇宙と人類の創造主は天主だけであり、ですから、天主だけが全宇宙と人類に対する権威を持っておられます。しかし天主は、天使や人間に使命を委託されることで、彼らを世界統治に参加させておられます。その結果、天主は、これらの天使や人間に、彼らの使命を果たす権威を委任されるのです。このため、聖パウロはローマ人にこう述べているのです。「天主から出ない権威はなく、存在する権威者は天主によって立てられた。それゆえ、権威に逆らう者は、天主の定めに逆らう」。


2.権威の制限

さて、次の質問をしてみましょう。「権威の制限とは何でしょうか」。天主について言えば、天主の世界に対する支配権は絶対かつ永遠であるため、制限はありません。天使や人間について言えば、彼らの権威の制限は、彼らが天主から受けた使命の制限です。

一家の父親を例に取ってみましょう。父親は妻と子どもたちの物質的・霊的な福祉を提供するという使命を受けています。この父親は、隣人の妻と子どもたちの面倒を見るという使命は受けていません。ですから、この父親の権威が及ぶのは、妻と子どもたちだけに制限されます。さらに、この父親には、妻と子どもたちの物質的・霊的な福祉に反することを命じる権威は、天主から与えられていません。例えば、父親には、妻が主日にミサに出席することを禁じる権威はありません。

同じ原則が国家の指導者にも当てはまります。彼は、他国の国民に対する使命を受けていませんから、他国の国民に命令する権威はありません。また、彼の使命は国民の物質的・霊的な福祉を提供することですから、彼には、国民の物質的・霊的な福祉に反することを命じる権威はありません。

同じ原則が教皇とカトリック教会の司教たちにも当てはまります。聖ペトロと彼の後継者たちは、私たちの主イエズス・キリストから「諸国の民に教え、聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授け、私が命じたことをすべて守るように教えよ」(マテオ28章19-20節)という使命を受けました。ですから、私たちの主イエズスは、ご自分の権威を彼らに委任されたのです。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを軽んじる人は、私を軽んじる人である。そして、私を軽んじる人は、私を遣わされたお方を軽んじるのである」(ルカ10章16節)。教皇や司教には、イエズスの教えや掟を変更する権威はありません。それゆえ、聖パウロはガラツィア人に、強い言葉でこう語ったのです。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ。私は前に言ったことを今また繰り返す。あなたたちが受けたのとは異なる福音を告げる者にはのろいあれ」(ガラツィア1章8-9節)。

権威の制限は、天主から受けた使命の制限によって定められます。自分が受けた使命に反すること、あるいはその使命を超えることを命じるために、自分の権威を行使する指導者は、自分の権威を悪用しているのです。つまり、彼は自分が持っていない権威を自分に与えているのです。

3.従順の義務と制限

権威とはどこから来たもので、権威の制限とは何かを理解すれば、従順の義務と制限を理解することは簡単です。

天主は、ご自身の権威を指導者に委任されると同時に、人々に指導者に従うよう命じられます。そして、天主が指導者の権威を、指導者の使命に関わるものに制限されると同時に、天主は人々の従順の義務を、その使命に関わるものに制限されます。

例えば、アメリカ政府がお酒を飲むことを禁じている場合、日本に住む人々も同様にお酒を飲んではならないのでしょうか。いいえ、アメリカ政府は日本の人々に対して何の権威も持っていないため、日本の人々はお酒を飲むのを控える義務はありません。

別の例を挙げましょう。日本政府が日本国民に、健康に危険であることが証明されているワクチン接種を受けるように命じた場合、日本人はその命令に従わなければならないのでしょうか。いいえ、日本政府は、国民の物質的な福祉を提供するという自らの使命に反することを命じていますから、国民はその特定の点に従う義務はありません。

また別の例を挙げましょう。ある一家の父親が息子に、隣の家に行ってお金を盗んでくるよう命じるならば、息子は父親に従わなければならないのでしょうか。いいえ、父親は、息子の霊的な福祉を提供するという自分の使命に反することを命じているのですから、息子はその特定の点について従う義務がないだけでなく、そのような命令には逆らわなければなりません。

さらに別の例を挙げましょう。教皇が同性カップルの祝福を要求した場合、司祭は教皇に従わなければならないのでしょうか。いいえ、教皇はイエズス・キリストの教えを教えるという使命に反することを要求しているのですから、司祭には従う義務がないだけでなく、そのような命令には逆らわなければなりません。

自分の指導者が天主から受けた権威を悪用するという理由で、指導者に逆らう者は不従順に見えますが、そうではありません。彼には従う義務はありません。罪を犯しているのは、自分の使命を裏切り、自分の権威を悪用した指導者なのです。

4.聖ピオ十世会の状況

カトリック教会は第二バチカン公会議以来、深刻な危機に下にあります。教皇は、私たちの主イエズスの教えに反する有毒な教理が教会に広まるのを許しました。そして、これらの教理は権威によってカトリック信者に強制的に押し付けられました。司教たちの中で、ルフェーブル大司教とデ・カストロ・マイヤー司教だけが、これらの教理に反対する勇気を持っていました。二人は不従順だと非難されましたが、実際にはそうではありませんでした。二人は過去20世紀にわたる教皇たちの不変の教えに完全に従順だったのに対して、これらの有毒な教理の推進者たちは、傲慢にもその教えを拒否したのです。

聖ピオ十世会は、ルフェーブル大司教がたどった路線を守っています。私たちは、教皇フランシスコをカトリック教会の教皇と認め、教会全体に対する彼の権威に疑問を呈することはありません。しかし、彼の権威には制限がないわけではありません。彼の権威は、私たちの主イエズスから受けた使命によって制限されているのです。ですから、彼がその権威を悪用して、過去20世紀にわたって受け継がれてきたイエズスの教えに明らかに反する教理を押し付けるたびに、私たちには従う義務がないだけでなく、私たちは彼に反対しなければならないのです。聖パウロが、かつて聖ペトロに反対した(ガラツィア2章11節参照)ように、敬意をもって、しかし断固として、です。

聖ピオ十世会は教皇に従順ではないように見えますが、実際にはそうではないのです。

結論

結論として、次の各点を覚えておきましょう。人は天主から使命を受けたから権威を持つのであって、その人の使命の制限がその人の権威の制限を決定します。指導者の下にいる人々には、天主の代理人であるその指導者に従う義務があります。人々の従順の義務は、指導者の権威の制限に従って制限されるのです。


コンピューター・スクリーン、スマホの弊害:依存症、孤立化という病の現象:癒しを求めてイエズス・キリストに近づく

2024年01月23日 | お説教・霊的講話

2024年1月21日御公現後第三主日のミサ(8時30分) 大宮 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は御公現後第三主日のミサをしています。

【1:今日の福音】
教会は、御公現後の主日のいろいろな福音を通してイエズス様がまことの天主であることを私たちに明らかにしようとしています。

今日の福音は、主が天主であるということを証明するために行われた二つの奇跡があります。ひとつはらい病の患者を癒すもので、もう一つは百夫長のしもべに対するものです。
一つはユダヤ人に対するもの、もうひとつは異邦人に対するものでした。両方とも、イエズス様は権威をもって癒しました。たとえ不在の者であっても、すぐに、治しました。この治癒が起こったときに、そのどちらの場合でも、イエズス様の神性を深く信じていました。
「主よ、あなたがおのぞみなら、私をお治しくださることができます。」
「あなたが一言おっしゃれば、私のしもべはなおります。」

彼らの非常に深い信仰は、私たちに多くのことを教えています。また百夫長の愛徳もすばらしいと思います。自分のためではなく、わざわざイエズス様のところにやって来て、しもべのために懇願しました。ですから教会は御聖体拝領の前には、百夫長に倣って、ほぼ同じ言葉でイエズス様に祈らせます。「ドミネ・ノン・スム … イエズス様、私はあなたを、私の屋根の下におむかえするには値しない者です。ただ一言おっしゃれば、わたしの霊魂は癒されます」と。

ところで、今日私たちは、同じ態度で、私たちの霊魂を癒してくださるように、そして私たちの愛する人々を癒してくださるように、イエズス様に近づきましょう。

もしかしたら私たちは気づいていないかもしれませんが、しかし多くの人は病にかかっています。スマホ、あるいは携帯というものを何度も使うことによって、多くの人がそれの中毒になっています。そして社会からますます孤立しています。今日は、私たちの霊魂の状態を振り返って、癒しを求めてイエズス・キリストに近づきましょう。

【2:いろいろな段階を経た】
このような状況になるには、いろいろな段階が踏まれました。まずテレビが入りました。第二に、コンピューターが家の中に来ました。ケータイがポケットに入りました。次には「キャプトロジー」というテクノロジーが、私たちを中毒化される技術が編み出されました。努力をせずにほんのちょっとでも「見たい」という欲求を起させて、ついにはそれにずるずると引きずられてスクリーンの上に留まるようにさせる技術です。何時間もスクロールしているという状況を生み出す技術がもたらされました。

それを、何度も何度も繰り返させることで、私たちがそれを習慣にしてしまっています。さらに、ランキングが高くなる、メンバーがフォロワーが多くなる、そして評判が高くなる、そうするとますますそこにのめりこんでしまっています。

将来的には、現実の世界ではなくて、バーチャル・リアリティと呼ばれる三次元の世界に呼び込もうとしています。

【3:コンピューター・スクリーンの弊害:中毒、孤立化】
私たちは、携帯のためにいったいどんな弊害が起こっているのか、この病を振り返ります。特に中毒、それから孤立化という非常に危険な弊害を見ましょう。それを知ったのちにイエズス様に近づいて、「癒してください」と近づきましょう。

第一の弊害は依存症・中毒です。中毒というのは、ユーザーをつまり私たちを、依存症にするように、中毒にするように、わざわざ設計されているからです。これはフェイスブックやあるいはその他の作った人々がそのように言っているから、それは本当です。

依存症とか中毒というのは何かというと、快楽が生み出される活動を止めることができない、そして止めたくてもそれなしにはどうしてもいられない、という、それに依存してしまうという現象です。特に、今若い人たちは青少年は、この携帯がなくては空白を埋めることができない、どうしても不安になってしまう、というほど中毒になっています。

第二の弊害は孤立化です。どういうことかというと、あたかもスクリーンを通してわたしたちは他の人とつながっている、コミュニケーションができているというというように思えるんです。でも、本当の友達というのは どこにいるのでしょうか? 家に帰っても学校でもどこでも、確かにここに体はいるけれども、半分不在、心は上の空、という人々があまりにも多くいます。携帯の世界に没頭してしまっているのです。ですから、わたしたちは、友人でも家族でも、そうやって半分不在の偽(にせ)の存在に慣れっこになってしまっています。本当の家族生活、夫婦生活、親子生活が犠牲になっています。特に今の若い人たちはあまりにも孤立化が進んでしまって、現実の生活は退屈だ、もっと仮想の世界に入りたい、戻りたいと願っています。あるいは学校や仕事から帰るや否や、この仮想世界の中に入りたい、ゲームに没頭したい、インターネットの誰かとチャットがしたいと、思っています。

本物の世界・現実世界にいるというよりは、睡眠術にかけられているかのような、個人がただ隣にいるという状態がいま目の前に現れています。

もしも、私たちが孤立化してしまうと、本当の社会生活をおくることができなくなるといったいどうなってしまうのでしょうか。そうすると、私はアイデンティティ、わたしがいったい何かということが失われてしまいます。どういうことかというと、私たちが一個となって、ただの砂の一粒になってしまうのです。たとえば、どこかの教会を作る一つの部分ではなくて、粉々に砕かれたただの砂の一粒になってしまうのです。自分が、いったい何なのか、わからなくなってしまう。

たとえば、私はカトリック教会に属して、聖ピオ十世会に属して、小野田家の一員で、それで日本人で、などとということがだんだん明らかになります。でも、孤立化してしまうと、ひとりぼっちになってしまうと、それがありません。

でも人は、自分が何かであることを確立しなければ、安心できません。ではどうするかというと、ソーシャルネットワークを通じて、「いいね」がたくさん押されたとか、フォロワーの数が多くなったとか、ランキングが上に上がったとか、それが人生で最も大切であるかのように錯覚してしまって、それを現実だと混同してしまって、それを中心に人生を設計してしまいます。つまり、自分の虚栄とか自己愛のイメージを他の人に見せて、それが自分だと思い込んでしまうのです。

そうすると、ますます自分が孤独になることを恐怖します。ますます、ネットでつながっていたいと思います。そうすると、IoT(アイオーテイ)と言われている、インターネットがモノとモノとをつなげてコントロールする、人間もそれの一つのモノとなってしまいます。つまり、天主の子供という最も高い尊厳が、ただのインターネットでつながっているモノ、に成り下がるということです。

私たちはその高貴な身分を失って、無になってしまい、錯覚に陥る危険があります。仮想の世界を現実だと錯覚してしまう恐れがあります。アイデンティティが喪失する、本当の自分が何かということがわからなくなってしまう、という危険です。

そうなると、私たちはいま世界で見ているように、うつが広まります。不安とうつ病が、非常にいま広まっています。

もう携帯というのは、コミュニケーションの道具とかおしゃべりするための道具ではありません。「すべての中心にある」のです。学校の先生のレポートによると、生徒たちは携帯を失うと虚無感に苛まされているという。静かにひとりで考えるということができなくなっています。

【4:道徳・霊的生活における悪影響】
スマホによって孤立化すると、社会の生活は崩壊し、知性は失われ、意志も無気力になってしまいます。さらにこれについてはもっと深いたくさんのお話がありますが、さらには、道徳的なあるいは霊的生活の2つの分野において、非常に悪い影響を与えます。

少しだけ垣間見ると、まず、道徳の崩壊があります。世界的な統計によると、大人も子供も閲覧の30%、あるいはダウンロードの50%がわいせつなものに関するものだという報告があります。子供さえもそれを免れることができません。特に幼い子供たちは、耐えられる限度を超えた見るに耐えられない画像の洪水によって攻撃を受けているといわれています。特に若い子どもが受けるショックは、非常に大きい、心理的なショックは計り知れないほど大きいと言われています。

道徳的な崩壊のみならず、さらには霊的生活においても大きな悪い影響を与えます。先ほども申しましたようにスマホは、若い人も老人も男も女も人々を催眠術にかけさせたように中毒にさせてます、依存させています。いつでもだれでも携帯を手に取って、いつでも使うことができるように準備して歩いています。帰宅の途中でも、電車のなかでも、家に帰っても、すぐさま、携帯です。

そうするとどうなるかというと、沈黙ということが失われてしまいます。私たちが考えなければならない人生にとっての重大な問題について、考えることができなくなってしまいます。祈ることも、祈ろうとすることさえも、興奮してしまってできません。精神がもしも機能しなくなってしまうと、霊魂は天主に耳を傾けようと、天主に向かおうとすることも、しなくなってしまいます。雑音、あるいは興奮に囲まれて落ち着いてどうやって心を静めることができるでしょうか。

瞬時に全てのことを知りたい、インターネットのコミュニケーションにつながりたい、現実の世界から逃げたい、逃避したい、今の仕事よりも、イイネのクリックを押すのほうが簡単、ということが、霊的生活のかわりに取って代わっています。

では私たちはどうしたらよいのでしょうか。ちょうど私たちの乗っている飛行機の隣で火が燃えているかのようです。すぐさま私たちは脱出しなければなりません。あたかも大地震があって、津波がわたしたちの霊魂を飲み込もうとしているかのようです。私たちの家族を飲み込もうとしています。ですから、百夫長のように、イエズス様のところに行きましょう。

百夫長は自分の家を離れて、イエズス様のところまで行きました。私たちもそのような環境を離れて、イエズス様のほうに近寄る努力をしましょう。イエズス様は私たちの協力を求めています。私たちが聖寵を得るには、私たちがそれを受けようとする努力と、準備が必要です。そして主に言いましょう。「私はふさわしくありません。」「ただ一言おっしゃってください。」

私は携帯をほんとうに実用的な目的のためだけに使っているのでしょうか?それとももう、それがなくてはならない「私の心の中心」になって、そのとりこになってしまっているのでしょうか。

私たちの愛する子どもたちはどうでしょうか。自分の子供たちはスマートフォンを持っているのでしょうか。もしも持っているとしたらいったいどんな何のサイトを閲覧しているのでしょうか。私たちはそれを知っているのでしょうか。ああ、たとえ子供がまだ幼くて、純粋だ、まじめだと見えたとしても、私たちは気をつけなければなりません。統計によると、多くの子どもたちがすでに汚染されています。ですからわたしたちはそのようなチェックを頻繁に行う必要があります。もしも子どもたちのスマホの内容を知るという権利を親が持っているということを放棄してしまうならば、私たちは重大な責任を放棄してしまったことになります。天主は私たちにそのことをその責任を問われることでしょう。

【遷善の決心】

ですから、私たちは遷善の決心をたてましょう。この世の精神と戦わなければなりません。私たちの真のアイデンティティーは、カトリック信者であって、天主の子どもであって、愛された永遠の命のために生きているこの地上にいる者です。

キリスト教の精神は、私たちに「レコンキスタ」ということを、つまり、領土を回復させるということを教えてくれます。スペインはそのことを成功しました。キリスト教信仰によってそれを成功しました。ですから、私たちもたとえそのような悪習があったとしても、霊魂を取り戻すことができます。「レコンキスタ」ができます。そのために確固とした信仰生活を送ろうという決心をたてましょう。私たちの世俗の欲望あるいは愛着を取り除くことができるのは、カトリックの教え、この信仰しかありません。

「心の貧しい人は幸いである」。と主は言われました。この地上のものをあたかも使っていないかのように、使うように、聖パウロは言います。私たちが天主へと心を開いて、霊魂の偉大さを取り戻すことができますように、主に近づきましょう。

そのために主は、私たちに手段を与えてくれました。秘跡を与えてくださいました。告解の秘跡、御聖体の秘跡です。そうすることによって、私たちは守られることができます。

聖パウロはこう警告しています。「悪の者は不義の惑わしを世の終わりに行うだろう。そのために惑わしを彼らのなかに働かせる。こうして彼らは誤りを信じるようになる。それは 真理を信ぜず、不義を好んだものが裁かれるためである。」(2テサ2:10-11)。と警告しています。また聖パウロは、「立っているとおもう人は、倒れないように注意せよ」(コリント前10:12)とも警告しています。

マリア様の子どもとして、毎日マリア様にお祈りしましょう。今日マリア様の御取り次ぎで、私たちの病が癒されるようにお祈りしましょう。聖母が私たちにとっての百夫長になってくださいますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

photo credit


新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレトでのイエズス・キリストの従順

2024年01月23日 | お説教・霊的講話

新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレト

「そしてイエズスは、彼らと共にナザレトに下り、彼らに従われた。」(ルカ2:51)

私たちの主をもっと良く知り、もっと熱心に愛し、もっと忠実に従うために、主の私生活の神秘を理解するお恵みを求めましょう。

【1:「イエズスは、彼らと共にナザレトに下られた」】

イエズス様が十二才のとき、エルサレムの神殿で博士たちに教えておられるのを両親が見つけたという出来事の後、直ちにナザレトに下ったと、聖ルカは書いています。イエズス様はその後少なくとも十八年間はナザレトにおとどまりになったはずです。私たちが青春時代と呼ぶ時を、ナザレトでお過ごしになりました。主の私生活と公生活の比は、少なくとも、十八年対三年、つまり六対一でした。一年の仕事に対して六年の隠れた生活です。【天地創造のとき天主様は6日働き1日休まれました。それと逆ですね。】

「天主の道は私たちの道ではない」。キリストの私生活がなぜ公生活と不釣り合いなのかという理由は、私たちにもわかると思います。キリストは「道であり、真理であり、生命」でした。もしもキリストが公けに人に教えることに全ての時をあてられたなら、「道」であることは、ほとんどできなかったでしょう。

キリストに従う人々の九十九パーセントは純粋な私生活を営んでいます。キリストは誰もが真似のできる模範をお示しにはなりませんでした。ご自分に従う人々に向かって、普通の家庭生活を送る価値を示そうと望まれたのです。内的生活のために、完徳の達成のために、世間から退いた生活が絶対に必要だと示されました。

福音書の聖マルタのように実際的な仕事にたずさわっている私たちは、「天主は孤独の中にすみたもう」こと、天主が人間の心にもっとも親しくご自身をおしめしになるのは孤独の中であることを忘れがちです。「人々の間にいたたびに、私は人間らしくなくなって帰って来た。」(Quoties inter homines fui, minor homo redii)と、イエズスの死の何十年かのち、理論と生活とがあまり一致していなかった一人のローマ人の哲学者(セネカ)は語りました。キリストに倣いて第一巻 20 章もセネカの言葉を繰り返してこうあります。2. Dixit quidam: Quoties inter homines fui, minor homo redii. Hoc sæpius experimur, quando diu confabulamur.

キリストはナザレトで、はじめは養父の手助けとして大工の仕事をされ、聖ヨゼフの死後は一人で仕事をされました。自分の手で仕事をされました。少なくとも天主の目には、人の仕事の種類は、仕事をどのような愛をこめてやったかと言うことほど大切ではないことを、お示しになりました。世界中でもっとも偉大な聖性は、二人の大工と一人の主婦のいる普通の家庭にあったのです。私たちが、つまらない仕事をするとき、どういう態度を取るべきかと教えてくれます。

ナザレトにおけるキリストはありふれた少年として、若者としての生活を営まれました。天主であることは隠されていました。ご両親はイエズスが天主であることを信じていました。ただ純粋に信仰によって信じていただけです。奇跡は起こりませんでした。村人の注意を引くようなことは何も起こりません。キリストが公生活を始めたときは、人々は「これは大工の息子ではないか」と驚いたほどです。

キリストの多くの時間は「小さなこと」すなわち、使い走りや仕事場の掃除や皿洗いの手伝いなどに、ついやされていました。キリストは特権をお求めになりませんでした。

キリストは、私生活をどのように過ごされたれたでしょうか。生まれながらに耳が聞こえずにおしの男を癒されたすぐあとで、人々は「彼は何でもよくやった」と言いました(マルコ7:37)。ナザレトにおけるキリストの御生活も、この言葉があてはまることでしょう。キリストのなさったことは何でも、たとえつまらないこと粗末なことであっても、そのなさり方は完全で、優れた行いだった、と。

キリストの生涯がすぐれているのは、またキリストに倣おうとする人々の生涯が優れたものになるのは、偉大なことを行うからではなくて、全てのことを立派に行うからです。

私たちの中で、偉大なことを行う機会のある人は、たとえいるとしても少ないと言えます。しかし私たちは、天主のお恵みによって、たくさんの小さなことを立派に行うという主のお手本に倣うことができます。天国にある私たちの冠は、多くのかがやかしい殉教者たちの冠のように、一つや二つの豪華な宝石でできているのではなく、それぞれ特別な光で輝く、かぞえきれない小さな宝石で作られています。

キリストは洗者ヨハネのように特別な肉体の苦業をなさいませんでした。それにもかかわらずキリストの全ての行動は、天主の本性と人間の本性との位格的結合のために、つねに天の御父の光栄だけを目指した御旨の完全さのために、無限に価値のあるものでした。

私たちの普通の行動もまた非常に素晴らしいものたることができます。成聖の聖寵によって、私たちは天主の本性にあずかることができるからです。私たちは天主の養子だからです。私たちが行うことは、私たちの周りの人々の目にはどんなにつまらないものであっても、天主の御前には特別の意味をもっているからです。

私たちの朝の奉献のとき、また一日中の新しい仕事の始めに当たって、私たちの意向を新たにすることによって、キリストの御旨の純粋さに倣うこともできます。「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにつけ、全て天主の光栄のためにせよ」(コリント前10:31)という使徒聖パウロの忠告を、私たちの生活の中に具体化することができます。

【2:「彼らに従われた」】

誰が誰に従ったのでしょうか。宇宙の創造主が被造物に従ったのです。まことに、「彼はへりくだって、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまでも従順であられた」。

無限の智恵が有限の、限りある、誤りやすい知恵に従ったのです。命じられたことが最も良い方法ではないということが、はっきりおわかりになっていても、またそれでは失敗することが確かであっても、やはりキリストはそれをされました。何故なら聖母とヨゼフに従うことは、天の御父に従うことだったからです。「私は私の意志を行うためではなく、私をつかわされたかたの意志を行うために来た」のです。つまり「盲目の従順」をキリストは実行されました。

キリストは、たとえば大工の仕事場で、どんな手伝いをすべきか、どういう風に家具をつくるか、などなどについて、両親の・目上の「誤り・不完全さ」――罪ではない――をご存じでした。私たちは、自分の目上の「誤り・不完全さ」が分かるのでしょうか。たとえ彼らが最善とは言えないこと――しかし罪ではない――を命じるとしても、従うことによって、天主の御旨を行っているのではないでしょうか。

キリストはこう言いました。「あなたがたのいうことを聞くものは、私のいうことを聞くものであり、あなたがたを軽蔑するものは、私を軽蔑するものである」と。

キリストが確実にご存じであって、私たちが知らないことは、私たち人間の企てる「誤り」でさえも、天にいます私たちの父の御旨を行わせることができることです。これは御摂理の広大な織物の中に織りこまれた一本の特別な糸となっているのです。

キリストはご両親への服従に、何か制限をおつけになったでしょうか。たとえば、キリストの従順は実際に、ご両親の屋根の下においでになるときに、限られていたでしょうか。それとも体や健康の注意についての両親の命令に限られていたでしょうか。あるいは、ご自分が大切とお考えになることだけに限られていたでしょうか。聖ルカはただ「彼らに従われた」と言っています。そこには限定の言葉は何もありません。私たちが推測するのは、キリストの従順が絶対だったということだけです。朝はいつ起きなければならないか、何を食べるのか、何を着るのか。どの友だちと遊ぶのか、家の周りで、何ごとにもキリストはご両親に従われました。

キリストは――あきらめて――「あなたの命令は意味がないが、あなたは親だから従います」という態度で、従われたのでしょうか。自分で解釈して――自分のそのときの都合にあわせて命令を、厳密にあるいは広く解釈して、キリストは従われたのでしょうか。

殉教者のように「私は全ての不快なことを引きうける!」と言いながら、あるいは、「分かりました。そうします。しかし、こう命じないほうがよかったのに!」と言いながら、あるいは、精神分析家のように「何んで私にそれを命じたのだろう!」と言いながら、キリストは従われたでしょうか。完全な従順の価値をはっきりとご存じのキリストは、ただ正確に従われただけでした。

福音書の中に記されているように「彼は知恵も年令も天主と人からの愛も次第にましていかれた」(ルカ2:52)とすれば、これは完全な従順の結果ではなかったでしょうか。

聖イグナチオは、聖グレゴリオを引用してこう言っています。「従順は、それだけで、心の中にほかの全ての徳を植えつけ、ほかのが一度植えつけられたのちには、それらを保存する徳である」と。さらに言葉を続けて、聖イグナチオはこう言います。もしこの徳が花をひらけば、全て他の花をひらく、と。【as St. Gregory says, obedience is a virtue which alone implants all the other virtues in the mind and preserves them once implanted. To the extent that this virtue flourishes, all the other virtues will be seen to flourish and produce in your souls the fruits ... 】


新年小黙想会二日目の黙想 その一 エジプトへの避難

2024年01月22日 | お説教・霊的講話

新年小黙想会二日目の黙想 その一 エジプトへの避難

真夜中、天主のお告げを伝えようとして、静かに眠っている聖ヨゼフのもとに天使がやってきます。

この世の楽しみや世間で大事だと考えられているものを、天主はどうお考えになるかを理解することができる恵みを求めましょう。
私たちがより親しく私たちの主を知り、よりよく天主への愛に燃え、御跡に従うために神秘の奥深くまで達するお恵みを願いましょう。
天主に近づこうとする人に、天主が何をお求めになるのでしょうか?
苦しみと謙遜の価値を私たちが理解することができるように祈りましょう。

【1:天使のお告げ】
「起きよ。御子とその母をつれてエジプトに逃れ、私たちが知らせるまでそこに留まれ。ヘロデが御子を探して殺そうとしている」(マテオ2:13)。

天使は、任された任務を正確に果たす忠実な使者です。天使は、天主の母となることを告げるために、聖母のところにつかわされました。おそらく同じ天使が、聖ヨゼフに聖母の子は聖霊によるものであることを保証しにもこられました。きっと同じ天使が、東の国の博士たちに、ヘロデを避けて違う道を取って帰るようにと警告したと思われます。今また、聖ヨゼフのもとに帰ってきました。

天使は誰に向かって告げているのでしょうか?私たちは、イエズスか聖母に告げてもよさそうにとも思います。何故ならお二人とも品位においても、重要さにおいても、能力においても、聖ヨゼフよりまさっておられるからです。しかし天主は、家長である聖ヨゼフのもとへ天使を遣わします。

これが天主の摂理です。天主が人間を導く普通のやり方です。天主は、私たちがその場合どんな重要な者であっても、私たちひとりひとりに個人的に告げるという方法はとりません。たとえ私たちの目上の人が、生来の能力とか私たちへの思いやりとかにどんなに欠けていたとしても、目上の人の命令を通して私たちにお伝えになるからです。

主キリストのいわれるように「律法学士とファリザイ人は、モイゼの座にすわってきたのだから、かれらの声を聞きなさい。かれらのいうことは、ことごとく守り、おこないなさい。しかしかれらの行為にならってはならない」(マテオ23:2~3)。

この命令について考えると、これを実行するには、多くの困難が伴いました。幼子とその母をつれて、荒地を通って数百キロメートルの長い旅をすることを意味していたからです。エジプトへの道には盗賊が出没しました。私たちの主が後に、よきサマリア人のたとえ話の舞台になさったことによって推定できます。野獣もいました。ひつじ飼いたちがたえずひつじの番をしていたことは、狼などの凶暴な野獣がいたことを示しています。そのような危険な長旅のための食糧をもたずに、聖家族はすぐ出発しなならなかったのです。天使はただこう言うだけです。「起きよ。そして御子とその母をつれて・・・」。

それまで助けてくれた人々に、別れをつげる間もありませんでした。聖母とヨゼフが行ってしまった後で、二人のことを何と思ったでしょうか?「二人は罪人だったのかね」「とにかく礼儀も心得ていない人たちだね」。

この命令は、不合理な命令にも思えます。天使はなぜ朝まで待って、夜中ぐっすり眠った後で、気持よく出発させることができなかったのでしょうか。どうしてエジプトまで行かなければならなかったのでしょうか。どこかもっと近い家に、もっと容易に避難することことはできなかったのでしょうか。たとえば、エリザベトの家に行くこともできたかもしれません。そこには若い洗者聖ヨハネが無事で住んでいました。

主がメシア守ってくださるのではないでしょうか?詩篇にはこうあります。「天主はみ使いに命じて、すべての道であなたを守らせる。み使いたちは、あなたの足が石につまずかないように手であなたをささえるであるであろう」(詩篇90:11~12)。 

何年かののちにゲッセマニの園で、主キリストは聖ペトロにこう断言することがでことができました。「私が私の父に求めることができないと思っているのか。そうすれば父は、すぐに十二軍団の天使を私にくださるだろう」(マテオ26:53)。

ヨゼフはどのように従ったでしょうか?不平をいい、天使に交渉したでしょうか。それとも言われた通りにして、後でその命令が理にかなわないと不平を言ったのでしょうか。福音書にはただこうあります。「彼は起き、幼子とその母をつれて、夜、エジプトに立ち去った」。

聖ヨゼフの従順は敏速かつ無条件で、的確な実行でありました。聖ヨゼフは天使の命令を文字通りに実行したのです。

【2:外国での生活】
聖家族がエジプトで、多くの困難にたち向かわねばならなかったことは、容易に想像できます。聖家族は、外国でした。言葉の問題がありました。誰かが聖家族を待っていて、その家にむかえてくれるような友人がいたなどと考えることができるでしょうか。

信心深いユダヤ人として身のまわりいたるところで見る異教徒の習慣に、聖家族はどう反応したでしょうか。エジプト人たちは、自分たちが軽蔑するユダヤの民族の聖家族にどういう反応を示したでしょうか。もしも私たちが外国でジャップ・ジャップと馬鹿にされたとしたら、私たちはどう思うでしょうか?

聖家族は一文なしでした。どうやって自活したのでしょうか。大いそぎで出発したので、たくさんのものを持って行くわけにはいきませんでした。天使は旅行の準備をしてくれませんでした。天使がエジプトへ行ってからのヨゼフの職の保証をしてくれたわけではありませんでした。

少なくともはじめの数年間は、聖家族はその日暮らしの生活をしなければならなかったと思われます。天主はなぜそれをお求めになったのでしょうか。

それは、キリストのそばにいるものは、キリストと共に苦しまねばならないからです。
それは天主の摂理についての教えを聖ヨゼフに授けるためでした。

イエズスは山上の説教の中で、こういわれます。「私はあなたがたに言う。生命のために何を食い身のために何を着ようかと思いわずらってはならない。これらは結局異邦人の求めるものであって、あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じです。だから、まず天主の国とその義とを求めよ。そうすれば、これらのものは、みなあなたがたに加えられるであろう」(マテオ6:31~33)。

三人がエジプトで異境の生活を続けたのですから、天主は明らかに、ご計画に適う限り彼らに必要な他をお与えになったに違いありません。

聖家族は決して余分なものをもっていませんでしたが、いつも充分なものをもっていました。これは、聖母とヨゼフをいつも天主のおそば近くにいさせるための手段でもありました。何故なら、暇や金をもち過ぎるとしばしば種々の誘惑が起こるからです。

「殉教者の血は教会の種子なり」。聖家族のたえしのんだ苦離は実を結びます。何世紀もたたないうちに、エジプトの隠者によって実行された英雄的徳行もそうです。さらにキリスト教がエジプト全体にわたって、ほとんど奇跡的にひろまりました。

【3:幼児の大虐殺】

「ヘロデは博士たちにあざむかれたのを知って大いに怒り、博士たちから聞いていた時から考えて、ベトレヘム及びその四方の地の二才以下の男子をことごとく殺させた」(マテオ2:26)

キリストとその教えに対して、この世と肉と悪魔が示す反抗の最初の徴候が見えます。
この反抗は、キリストが公生活をおはじめになったとき、キリストのまわりに結晶し、キリストの十字架の死において、最高点に適します。

キリストは当然の遺産として、教会がいつもこれと同じ世間の反抗に対していくことをお望みになっています。「弟子はその師にまさってはいないし、しもべはその主人にまさってはいない。人々が家父をベルゼブブと名づけたのなら、その家族はそれ以上の何であろう」(マテオ10:24~25)。

日本でも、地方の仏教の強力なところでは、今日でも教会は公然と反対されています。仏教の力の比較的弱い大都会では、日本人はキリストの外面的裝飾だけを取り入れて、その精神はしりぞける傾向があります。日本では、教会の影響が増しはじめるときまって種々の反抗が合体します。

教会だけがキリストの迫害の遺産を受けているのではありません。
キリストは、信徒ひとりひとりも、同じようにそれをうけることをお望みになっています。
聖人は、何の苦もなく迫害を天主の聖寵としてうけ取ることができました。聖イグナチオ・ロヨラはかれが創設したイエズス会が迫害からまったく解放されることのないようにと現に祈りました。

不幸にも、追害が私たち自身に加えられると、私たちは、どんなに強い敵がたくらむすべての陰謀であっても、天主がそれをお許しにならなければ起こらないということを、忘れてしまいがちです。

私たちは障害に出合うと、第一原因である天主のことを考えるかわりに、あまりにたやすく二次的原因である人間のほうを考えてしまうのです。私たちはまた、迫害は、それをうける人にとって、祝福となるものであることを忘れがちです。

私たちの主は山上の説教の中で、こうおっしゃっています。
「私のために人々があなたがたをのろい、迫害し、またあなたがたについてあらゆる悪口を放つとき、あなたがたは幸いである。よろこべ。あなたがたは、天において、大いなる報いをうけるであろう」(マテオ5:11~12)。

幼児たちの殉教の結果は、彼らの永遠の栄光となり、そしてその母たちの永遠の栄光ともなったでしょう。
もしこの幼子たちがもっと長く生きていたら、天国へいけたでしょうか。これは、キリストと同じときに生まれた少年たちへのキリストの誕生祝いのおくりものだったと言えます。

信心の品を祝別するとき、司祭はその上に十字を切ります。主は十字架とともに祝福をあたえられるからです。全ての悲しみ・苦しみは、私たちの愛する主の御手によるものです。主を愛する者ためのものです。「主は愛する者を苦しめる」といわれています。

その逆に、もし私たちにいつも苦悩がなかったとしたら、私たちのキリストへの奉仕に何か誤りがあると疑って良いとさえ言われています。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】