Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

■ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励はいいアイデアか

2007年07月05日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ミサ聖祭はラテン語でなければならないのか?濱尾枢機卿様は、ベネディクト十六世教皇のラテン語奨励を”いいアイデアではない”とおっしゃっているそうだ。

【答え】天主の礼拝のために司祭が作業服ではなく特別の祭服を着るように、聖なる典礼の言語も俗の言語ではないことが極めてふさわしいと言えます。何故なら、俗っぽい言葉づかいは聖なる行為にふさわしくないからです。ローマ典礼ではラテン語がほぼ二千年の間、典礼の言語でした。宗教儀式のために俗言語以外の「聖なる言語」を使用すると言うことは、東方教会でも、多くの非キリスト教の宗教でも見られることです。
 歴代の教皇様たちはラテン語をいいアイデアであるとおっしゃっています。


◆非カトリックの諸団体も自分たちの儀式用の「聖なる言語」を使っているのか?

【答え】日常会話の言語が流動し変動していくにも関わらず、宗教儀式に関する言語は固定化するということは全人類にどこでも見られることです。ギリシア離教教会では、古ギリシア語を典礼に使いますし、ロシア離教教会でも古スラブ語を使います。イエズス・キリストの時代ではユダヤ人たちが既に古ヘブライ語を典礼に使っていました。そしてこの古ヘブライ語は、日常生活の言語ではありませんでしたが、それについて私たちの主イエズス・キリストも使徒達も非難したことはありませんでした。イスラム教では祈りの言葉として文語体のアラビア語を使います。この文語体は必ずしも一般大衆に理解されているわけではありません。日本でも仏教のお祈りをお坊さんは普通、日本語では唱えません。一般の日本人はそれを当然のこととしています。異教のローマ人たちも、その神々への儀式を執行する時には、普通の人には理解不可能の古代の言い方を持っていました。


◆宗教儀式のために聖なる言語を使うというのはどうして世界中で認められるのか?

【答え】宗教儀式のために聖なる言語を使うというのは、人間には自然的に聖なるものに対する感覚を持っているからです。人間は、自然と、宗教儀式は自分の思う通りにするものではないと本能的に理解するからです。つまり人間は受け嗣いだものを尊重してそのまま伝えなければならない、それを歪めてはならない、と理解するからです。何故なら、神聖なことがらは変わらないと理解するからです。宗教において聖なる変わらない言葉を使うということは、人間の心理に極めて合っていることだからです。実際、永遠で完全な天主の本性の現実は不変であります。

■各国語でミサをした方が信徒らが理解しやすいのではないか?

【答え】ミサ聖祭では、いかなる人間も完全に理解できない絶妙な玄義がなされます。天主の玄義のこの神秘的な性格は、全ての人間に完全に理解されるわけではないからです。従って、ミサ聖祭の或る部分は一般の人々には聞けないような司祭の囁くような声で唱えられます。東方典礼では、イコノスタシス(聖画をおいて至聖所と一般会衆とを分ける壁)でその神秘を表現します。天主に対する宗教儀式であるミサ聖祭は、その神秘の部分が必ずしも全ての人々に理解されるとは限らないラテン語で表現されていると言えます。
 それに引き替え、日常生活の言語でミサをした場合、ミサ聖祭をあたかも理解してしまったかのような表面的印象を与えますが、聖なるものを俗化してしまうだけで、ミサ聖祭が一体何か、その本質は何かについて、またミサ聖祭が聖なるものであることについてさえも人々は一般的によく分からなくなってしまいました。

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■ 現在、教会に危機は存在するか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?
■ 教会における現代の危機の責任は、司教様たちなのか?(つづき)
■ イエズス・キリストは、市民社会の王であるか?
■ イエズスは「自分の王国はこの世からのものではない」と言われたのではないか?
■ 第二バチカン公会議はどこが特別なのか?
■ 新しいミサの第二奉献文(Prex eucharistica II)は、極めて古代のものではないのか?
■ どのように御聖体拝領をすべきか?
■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?

現在手による聖体拝領を拒むことは、進歩への跳躍と発展をも拒むことであるか?

2007年07月05日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ 現在手による聖体拝領を拒むことは、教会のもっている進歩への跳躍と発展をも拒むことであると言えないか?

【答え】「進歩」「発展」という言葉は、見方によっていかなる変化をも形容することができます。たとえばある生命体において無秩序に細胞が増殖してしまった場合、癌の病状が進展した、と言うことができます。ただし生命体の生命の進歩ではありません。御聖体拝領のやり方をはかる基準とは、私たちの主イエズス・キリストに対する信仰と尊敬です。その基準から見ると、手による聖体拝領は進歩ではなく退歩・後退です。更に言えることは、このやり方は教会の中に革命的で反乱的なやり方で導入されました。従って、そのように導入されたものを進歩と言うことはできません。

◆手による聖体拝領は教会の中に革命的で反乱的なやり方で導入されたと何故言うことができるのか?

【答え】何故なら、手による聖体拝領は、最初に許可無く実践されてしまったからです。聖なる教会の明確な規律と規則に反して、極めて「進歩」主義的なグループの中に導入されました。1969年5月29日教書『メモリアーレ・ドミニ』(パウロ六世の名前でグート枢機卿(Cardinal Gut)とアンニバル・ブニーニ(Annibal Bugnini)とによって書かれた)は、この不従順を注意し、口による聖体拝領の利点を詳細に説明しました(Documentation Catholique du 29 juillet 1969, p. 669-671)。教書『メモリアーレ・ドミニ』はラテン典礼様式の司教たちのもとでなされたアンケートによれば極めて大きな大多数の司教たちが手による聖体拝領の導入に反対していることを明らかにしています。それによれば、2115の有効な回答のうち、1233名の司教たちが手による聖体拝領の導入に絶対反対であり、567名のみが賛成でした。教書『メモリアーレ・ドミニ』は、聖伝に基づく口による聖体拝領を維持しなければならないと結論し、そして司教・司祭・平信徒らが注意深くこの規律を守るように勧告しています。


◆手による聖体拝領は、どうやって排斥されたにも関わらずその後で教会に広がったのか?

【答え】手による聖体拝領は、この教書『メモリアーレ・ドミニ』がリベラルな書き方をしていたので全教会に広がってしまいました。聖伝に基づく習慣をそのまま守らなければならないという全ての理由を列挙した後に、教皇様がこれを守ることを望んでおられると断言し、最後にその反対をする許可を与えていたからです。手による聖体拝領はいけないという理由を述べて、伝統的習慣を守れというところで全ての問題は解決されていたのに、教書は手による聖体拝領が既に導入されたところは(つまり、教会の規律に不従順であったところは)、もしも平信徒らがそれを望むのなら、司教評議会は、条件付きで、この新しいやり方を許可することができると付け加えたからです。


◆この教書『メモリアレ・ドミニ』の後はどうなったのか?

【答え】教書『メモリアーレ・ドミニ』は、手による聖体拝領を禁止するかのようなふりをしながら、事実上それを許可してしまいました。西欧と北米では、教書『メモリアーレ・ドミニ』の結果はすぐに実行されました。この新しいやり方は、教皇様が平信徒らからの執拗な要求のために、仕方なく容認しただけという意味で許可したに過ぎなかったものですが、「教皇様への従順」の名前によって、それを要求したことが全くない平信徒にまでもどこでも強制させられたのです。


■手による聖体拝領の結果は?

【答え】手による聖体拝領は、御聖体に対する涜聖を増長させるのみならず、立ったまま手で御聖体を摘んで食し、破片にも不注意であることにより、御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存に対する信仰を弱める機会になります。少なくとも多くの信徒の方々の御聖体に対する信仰を失わせてしまった責任の一つを担っています。何故なら、人間となった真の天主を御聖体拝領によって受けることを真剣に真面目に信じている信者は、愛の天主に対する崇敬と尊敬とを表明せずにこの秘蹟に近づくことはできないからです。従って、手による御聖体拝領は、まず信仰生活における冷淡と生ぬるさへと導き、次に無関心へ、そしてついには信仰の喪失へと導く責任を担っていると言えます。

◆御聖体における私たちの主イエズス・キリストの現存に対する信仰の喪失の責は手による聖体拝領の導入だと本当に言えるのか?

【答え】手による聖体拝領だけが信仰喪失の全ての原因だとは言いきれません。公教要理の不足、公教要理での間違いを教えられてしまうこと、主日のミサの説教の内容などにも責任があるでしょう。何故なら、御聖体の現存は単なるシンボルであるかのように説明されるからです。しかし、手による聖体拝領は、そのような説明を受け入れることができるように条件付け・信徒の方々を準備し、そしてその説明を再確認させるために役立っていると言えます。何故なら、聖別されたホスチアがキリストのシンボルでしかないのなら、聖像や清雅と同じくとりわけ崇敬を持って受け取らなくとも驚くべきことではないからです。

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教皇グレゴリオ十六世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日
教皇福者ピオ九世 現代社会の誤謬表『シラブス』 1864年12月8日
教皇福者ピオ九世 現代の誤謬の排斥『クヮンタ・クラ』 1864年12月8日
教皇レオ十三世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日
教皇聖ピオ十世 聖楽に関する自発教令『Inter Pastoralis Officii』(MOTU PROPRIO "TRA LE SOLLECITUDINI" SULLA MUSICA SACRA)1903年11月22日
教皇聖ピオ十世 近代主義の誤りについて『パッシェンディ』1907年9月8日
教皇聖ピオ十世 司祭叙階金祝にあたって、カトリック聖職者への教皇ピオ十世聖下の勧告『ヘレント・アニモ』1908年8月4日
教皇聖ピオ十世 シヨン運動に関する書簡『私の使徒的責務』1910年8月25日
教皇聖ピオ十世 近代主義に反対する誓い『サクロールム・アンティスティトゥム』1910年9月1日
教皇ピオ十一世 真実の宗教の一致について『モルタリウム・アニモス』1928年1月6日
教皇ピオ十一世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日
教皇ピオ十二世 福者ピオ十世の列福式に於けるピオ十二世の説教 1950年6月3日
教皇ピオ十二世 進化論及びその他の誤謬について『フマニ・ジネリス』1950年8月12日
教皇ピオ十二世 支那の国民に対し『アド・シナールム・ジェンテム』1954年10月7日
教皇ピオ十二世 日本国民に対するメッセージ 1952年4月13日
教皇ピオ十二世 童貞聖マリアの無原罪の教義宣言の百年祭 回勅『フルジェンス・コロナ・グロリエ(輝く栄光の冠)』 1953年9月8日

手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?

2007年07月04日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

兄弟姉妹の皆様、手による御聖体拝領についてです。

■どのように御聖体拝領をすべきなのか?

【答え】御聖体は、敬意をもって拝領しなければなりません。何故なら御聖体には私たちの主イエズス・キリストがその御体、御血、御霊魂、天主性と共に現存されるからです。この敬意を表明する最善のやり方は、御聖体を司祭の手から跪いて口に受けることです。


◆私たちの主イエズス・キリストは、ご自身が御聖体において真に現存しておられることを言われたのか?

【答え】はい。私たちの主イエズス・キリストは御聖体において真に現存されていることを言われ、御聖体がイエズス・キリストの本当の体であることを断言されました。

「私の肉はまことの食物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。」(ヨハネ6:56ー57)
caro enim mea vere est cibus et sanguis meus vere est potus. qui manducat meam carnem et bibit meum sanguinem in me manet et ego in illo.

◆私たちの主イエズス・キリストはこの真理を他の時にも言われたか?

【答え】私たちの主イエズス・キリストは、最後の晩餐の時、最初のミサ聖祭を捧げながら、聖体を制定しながら御聖体が何かをはっきりと宣言されました。
「食事の間、イエズスは、パンをとって、祝して、さき、それを弟子たちに与えて、「とって食べよ。これは私の休である」とおおせられた。また、さかずきをとって感謝し、かれらに与えて、「みな、このさかずきから飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるため流す契約の私の血である。」と仰せられた。」(マテオ26:26)

cenantibus autem eis accepit Iesus panem et benedixit ac fregit deditque discipulis suis et ait accipite et comedite hoc est corpus meum. et accipiens calicem gratias egit et dedit illis dicens bibite ex hoc omnes. hic est enim sanguis meus novi testamenti qui pro multis effunditur in remissionem peccatorum.


■手による聖体拝領は、ふさわしいやり方なのか?

【答え】手による聖体拝領は今日なされているやり方では、御聖体に真にましましたもう私たちの主イエズス・キリストに敬意を払っていません。このやり方は、私たちの主イエズス・キリストの真の現存の信仰を弱めるものであり、捨て去らなければなりません。このような形では、教会において過去かつてあったことがありません。


◆手による聖体拝領は、初代教会になされていたことではなかったのか?

【答え】確かに初代教会の一部の地方で手に御聖体が配られていたことがありました。ただしそれは現在なされているのとは全く別のやり方でした。初代教会では御聖体拝領をする信徒の方々は深々と頭を下げて御聖体を受け取り、少なくともある地方では手にベールを被せて受け取っていました。司祭は御聖体を右手に置き、平信徒は別の手でそれを取らずにそのまま口に運んでいました。

◆これらの違いは本当に重要なのか?

【答え】これらの違いは、現行の手による聖体拝領とは全く別の精神・心構えを明らかにしているので極めて重要です。何故なら、現行の左の手に御聖体を受けて右の手で掴むというやり方は、御体を所有し支配するというキリストの御体に対して全くあるべきではないしぐさであるからです。

◆初代教会にしていたことと、現在していることとの心持ちの違いは別のやり方でも表されているか?

【答え】この全く違った精神は、御聖体の破片に対してなされる注意と気づかいにも表されています。エルサレムの聖チリロは御聖体のいかなる破片をも地面に落とさないように細心の注意を払わなければならないことを勧告しています。
「何も地面に落とさないように気を付けなさい。あなたが落す破片は、自分の体の肢体を失ったかのように考えなさい。私に答えなさい。もしも誰かがあなたに黄金の金粉を与えたとしたら、あなたは注意深くそれを集めるのではないだろうか?あなたの利益のために一つもそれを失うことがないように。黄金よりもダイアモンドよりも遙かに貴重なもののいかなる破片さえも失うことがないようにあなたはもっと注意深くなるべきではないだろうか?」
(Sanctus Cyrillus Alexandrinus, catechesis quintus mystagogica, 21; PG 33, 1126)

◆聖チリロのこの勧告は何を表しているか?

【答え】ここでは全てが御聖体に対する尊敬に満ちています。現在、このような勧告をどこで聞くことができるでしょうか?手による聖体拝領により、御聖体の多くの破片が地面に落ちているにも関わらず誰もそれに注意を払おうとしません。それは、キリストの御体に対する客観的な尊敬の欠如です。

◆しかし、もしも手による聖体拝領が教会ですでに実施されていたなら、現在、何故拒否することができるのか?

【答え】この古代になされていたことの復活ということは、典礼革命の主要な詭弁の一つです。この「考古学主義」の詭弁は、既にピオ十二世によって告発され、排斥されています。

「62.精神と愛情とにおいて、聖なる典礼の起源にまでさかのぼることは、賢明なこと、ほむべきことである。この分野の研究のために、その起源にまで遡ることによって、祝日の意味や、それらの祝日に用いられる式文の意味、教会儀式の意味を、より完全でより注意深い調査をすることができる。しかし、何から何までもすべてを古代の状況にもどそうとするのは、賢明でもないし、称賛すべきことでもない。従って、少し例を挙げてみると、祭壇の原始的なテーブルの形に戻そうとする者、典礼色として、祭服にはけっして黒色を排除しようとする人々、教会に聖画や聖像を禁止しようという人々、天主なる贖い主が受けた残酷な苦しみを一切見せない私たちの主の御体を付けてデザインされた十字架像を注文する人々、そして聖座から与えられた規定に合っているのにも関わらず合唱を非難したり否定したりする人々は、正しい道からはずれている。」
(ピオ十二世教皇 回勅『メディアトル・デイ』 1947年11月20日)

62. Assuredly it is a wise and most laudable thing to return in spirit and affection to the sources of the sacred liturgy. For research in this field of study, by tracing it back to its origins, contributes valuable assistance towards a more thorough and careful investigation of the significance of feast-days, and of the meaning of the texts and sacred ceremonies employed on their occasion. But it is neither wise nor laudable to reduce everything to antiquity by every possible device. Thus, to cite some instances, one would be straying from the straight path were he to wish the altar restored to its primitive tableform; were he to want black excluded as a color for the liturgical vestments; were he to forbid the use of sacred images and statues in Churches; were he to order the crucifix so designed that the divine Redeemer's body shows no trace of His cruel sufferings; and lastly were he to disdain and reject polyphonic music or singing in parts, even where it conforms to regulations issued by the Holy See.
MEDIATOR DEI

◆何故、手による聖体拝領を支持する人々の議論は詭弁なのか?

【答え】何故ならこの議論は、キリスト教の古代において良かったことは、現在でも必ずより良いことである、従って、数世紀の間にかけて教会が制定してきたことよりも古代のやり方をしなければならない、ということを前提としているからです。これは明らかに間違っています。何故なら、古代は初代の熱心のおかげで、まだ御聖体における主の現存に反対する異端説がまた存在していなかったために、元来は危険がなかったことでも、全実体変化を否定するプロテスタント主義の誕生以来、危険となりうるからです。更に、御聖体に対するきめ細やかな愛徳は御聖体に対するきめ細やかな注意を生み出しました。何故なら教会が時と共に御聖体に対する信仰と尊敬の表現をますますきめ細やかに発展させていったことは愛の当然の結果であったからです。ただ形式だけ古代のやり方に戻すということは、現実としては教会のきめ細やかな愛の精神を裏切ることになります。何故なら、教会が芽として持っていたことを成長させて展開させることを拒否することになるからです。

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【推薦図書】
聖骸布の男 あなたはイエス・キリスト、ですか?
脳内汚染からの脱出

新しいミサの第二奉献文について

2007年06月08日 | ミサ聖祭
アヴェ・マリア!

■ 第二奉献文について

 1969年に新しいミサが現れ「歴史的に成立してきたものに対して、新しい家を対立させ、これを禁止したということ、典礼を生きたもの、成長するものとしてではなく、学者たちの仕事、法律家の権限によってつくりだされたものとした」。「これによって、典礼は人間に先立って天主から与えられたものではなく、つくられたもの、人間の裁量の領域のうちにあるものであるという印象ができあがってしまった」(ラッツィンガー枢機卿)。

 新しい三つの「奉献文」(preces eucharisticae)の共通の特徴は、新しい神学に基づき、机上で学者が何から何まで捏造したものであり、それ以前の数世紀もの典礼のやり方と典礼精神を突如として断絶させるものだった。

 たとえ「第三奉献文」「第四奉献文」の中に、sacrificium (犠牲) 或いは victima (いけにえ)という言葉は存在するとしても、ミサ聖祭が罪の償いのために捧げられるという目的は言及されていない。私たちの主イエズス・キリストのいけにえの前兆であるアベルのいけにえ、アブラハムのいけにえ、メルキセデクのいけにえについては姿を消した。天主の御母聖マリアは、終生童貞とは言われなくなった。諸聖人の功徳は無視されている。聖ペトロの名前さえも消えた。地獄についても語らない。


■ オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とはパウロ六世教皇にこう報告している

 「第二奉献文はそのあまりの短さに信者達にすぐに躓きを与えた。この第二奉献文に関しては、全実体変化やミサの犠牲の性格のどちらももはや信じていないような司祭が良心の呵責を全く持たずにこれを捧げることが出来ること、また、プロテスタントの牧師が自分の典礼サービスのためにこの奉献文を十分に使い得ることが鋭く指摘されてきた。

 様々な位階の天使達も「第二奉献文」の新しい序唱から消え失せてしまった。(これは以前にはなかったことである。)


■ 第二奉献文は「ヒッポリトのカノン」(三世紀)と言われているのではないか?

 第二奉献文は昔の「ヒッポリトのカノン」と主張する人がいるが、実際はいくつかの言葉が使われているだけで、何も残ってはいない。

Hippolyte de Rome, La Tradition apostolique, texte latin, introduction et notes de Dome Botte O.S.B., Paris, Cerf, "Sources chretiennes", 1946, p. 32.

 ヒッポリトは、2番目の対立教皇であった。カトリック教会でこの「カノン」が実際に使われていたかどうかは確かでは全くない。


■ 聖ヒッポリトゥス 217-235 は聖人ではないか?

 新しいミサの促進者であるロゲ神父(Pere Aimon-Marie Roguet O.P.)は、こう説明している。

「ヒッポリトは典文としてこの文章を掲載したのではない。典文としてとは、固定されて義務である祈りの形式としてという意味である。そうではなく、自由創作のモデルとしてこれを載せた。彼の文章は決してこのまま使われたのではないだろう。最後に、彼は極めて反動的な人物であり、自らを対立教皇として立てたほどローマ位階制度に反対していた(そしてこれを自分の殉教で贖った)。従って、多分に彼は、このアナフォラ(=ミサ聖祭の祈り)をローマでその当時使われていたミサ聖祭の祈りに対立するものとして提示したのだろう。」
(Aimon-Marie Roguet O.P. Pourquoi le conon de la messe en francais?, Paris, Cerf, 1967, p. 23)


【参考資料 その1】

◆ オッタヴィアーニ枢機卿はパウロ六世に「第三奉献文」について、こう報告している

 「第三奉献文*84」(Vere sanctus, p.123)に於いては、次の言葉が主に対して発せられる。「御身はご自分のために民を集めることを絶えず続け給う。そは日の昇るところから沈むとことまで御身の御名に清き捧げものが捧げられん為なり。*85」ここで、「そは、~が為なり」(ut)という言葉のために、ミサを捧げるために必要かくべからざる要素として司祭よりも民が全面にでている。そして、ここでは誰が捧げるのかが明らかではない*86ために、会衆は司祭を必要とせず、独立の司祭職を行使する権能を持っているかのように見える。この段階から、それほど長くない間に平信徒が司祭と共に聖変化の言葉を発するのが許されるようになったとしても(このことは既にあちらこちらで見受けられているが)、それは驚くに値しないだろう。

*84 Prex eucharistica III
*85 "populum tibi congregare non desinis ut a solis ortu usque occasum oblatio munda offeratur nomini tuo"
*86 原注17: ルター派とカルヴィン派は全てのキリスト者が司祭であり、全てのキリスト者が晩餐を捧げると主張している。しかし、トリエント公会議に従えば(第22総会Canon 2 DS1752)、「全ての司祭は、そして司祭だけが、ミサのいけにえの二次的な司式者である。キリストがミサの第1の司式者である。信者も捧げるが、それは厳密な意味におけるのではなく、司祭を通して、間接的に捧げるのである。」(A. Tanquerey, Synopsis thologiae dogmaticae Desclee 1930, t. III)

 新しく作られた3つの「奉献文」のうちどれも死んだ人々の苦しんでいる状態を言及するものがない。特定の死者の記念の可能性さえない。これら全てはまたしてもミサのいけにえの罪を償い贖う性質についての信仰を破壊してしまうことだろう。

 式次第の全てから、新しい3つの「奉献文」を含めて、ローマの教会の創立者である使徒聖ペトロと聖パウロ、そして唯一の普遍の教会の基礎かつ印であるその他の使徒達の名前を全く省略されてしまったのは耐えることが出来ない。唯一それが残っているのはローマ・カノンのコムニカンテスの中でだけである。これによって教会の一致は非常にゆゆしく弱められるだろう。


【参考資料 その2】
■ 新しいミサの結果

 たとえばカトリック大学の神学講座では十字架のいけにえ、というよりもプロテスタントの概念に従った「聖餐の秘跡」が教えられるようになった。

國 井 健 宏
●授業の目的・内容・進め方・履修上の条件等
ミサの基本構造である「ことば」と「食卓」がどのように誕生したか。特にミサの後半,主の食卓を囲んでの「感謝の典礼」は,最後の晩餐の主のことばと動作が儀式化されたものである。奉納(パンを取る)-奉献文(感謝をささげる)-拝領(裂いて与える)という3部構造の研究。奉献文の起源と構造,各部の意味について調べる。また日本での適応や創作の可能性について考える。
●評価方法
授業への積極的な参加態度と,レポート,発表など。学期末の試験ないしレポートによる評価。
●参 考 書
J. F.ホワイト『キリスト教の礼拝』日本基督教団出版局,J. Kodell 'The Eucharist in the NT' The Liturgical Press

2002年度上智大学大学院 神学研究科 神学専攻/組織神学より

■ 召命の危機
われわれは衰微する教会を見ている



【参考資料 その3】第二奉献文のラテン語原文

Prex Eucharistica II

Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis. Haec ergo dona, quaesumus, Spiritus tui rore sanctifica, ut nobis Corpus et + Sanguis fiant Domini nostri Iesu Christi.
Qui cum Passioni voluntarie traderetur, accepit panem et gratias agens fregit, detitque discipulis suis, dicens :

"Accipite et manducate ex hoc omnes: Hoc est enim Corpus meum quod pro vobis tradetur"

Simili modo, postquam cenatum est, accipiens et calicem, iterum gratias agens dedit discipulis suis, dicens :

"Accipite et bibite ex eo omnes: Hic est enim calix Sanguinis mei, novi et aeterni testamenti, qui pro vobis et pro multis effundetur in remissionem peccatorum. Hoc facite in meam conmemorationem."

Mysterium fidei :

Mortem tuam annuntiamus, Domine, et tuam resurrectionem confitemur, donec venias.

Memores igitur mortis et resurrectionis eius, tibi, Domine, panem vitae et calicem salutis offerimus, gratias agentes quia nos dignos habuisti astare coram te et tibi ministrare.

Et supplices deprecamur ut Corporis et Sanguinis Christi participes a Spiritu Sancto congregemur in unum.

Recordare, Domine, Ecclesiae tuae toto orbe diffusae, ut eam in caritate perficias una cum Papa nostro N. et Episcopo nostro N. et universo clero.

Memento etiam fratrum nostrorum, qui in spe resurrectionis dormierunt, omniumque in tua miseratione defunctorum, et eos in lumen vultus tui admitte.

Omnium nostrum, qaesumus, miserere, ut cum beata Dei Genetrice Virgine Maria, beatis Apostolis et omnibus Sanctis, qui tibi a saeculo placuerunt, aeternae vitae mereamur esse consortes, et te laudemus et glorificemus per Filium tuum Iesum Christum.

Per ipsum, et cum ipso, et in ipso, est tibi Deo Patri omnipotenti, in unitate Spiritus sancti, omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum.

Amen.


【参考資料】

PREX EUCHARISTICA II

PREX EUCHARISTICA II

Eucharistic Prayer II Prex Eucharistica II

Ordinarium Missae

Ordinarium Missae


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■ 自由についての一般的考察 「自由」の3つの意味
■ 法とは何か? 法は自由にとって敵なのか?
■ 良心とは何か。行為の実効的規範とは客観的真実のみ。
■ 良心および強制に関する一般的考察:良心を侵すことになるか。法律上の強制についてどう考えるべきか
■ 基本的諸権利とは何か。その限界は?誤謬または道徳的悪に対する権利は存在するか
■ 誤謬または悪に対する消極的権利は存在するか?また、寛容に対する権利は?
■ 本来の意味での「信教の自由」:人間人格の尊厳は、真理を考慮に入れない自由には存しない。
■ 19世紀の教皇たちはこぞって、いわゆる「良心と諸信教の自由」を排斥した
■ 諸教皇は、何故「良心ならびに信教の自由」を排斥したのか、理由は?
■ 信教の自由とその新たな「根拠」:およびそれへの反駁
■ 真理探求の自由は宗教的自由の根拠となり得るか
■ 宗教無差別主義について確認しておくべき点
■ 信教の自由は人間人格の基本的権利なのか、歴代の教皇様は何と言っているか?
■ 聖書の歴史に見られる、宗教的事柄においての強制
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非
■ 「宗教的事柄における一切の拘束からの免除」としての宗教的自由の是非 (つづき)
■ 世俗の共通善、カトリック宗教とその他の諸宗教



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聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

教宗額我略十六世 <<論自由主義>> (Mirari Vos) 通諭 懲斥自由主義謬論 1832年8月15日
教皇グレゴリオ16世 自由主義と宗教無差別主義について『ミラリ・ヴォス』1832年8月15日

教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月20日
教皇レオ13世 自由について『リベルタス・プレスタンティッシムム』1888年6月20日

教宗庇護十一世通諭“Quas Primas”基督君王 1925年12月11日
教皇ピオ11世 王たるキリストについて『クワス・プリマス』1925年12月11日


新しいミサでは「王であるキリストの祭日が、終末を表す年間最終主日に定められている

2006年11月24日 | ミサ聖祭


アヴェ・マリア!


新しいミサでは「王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることも意義深いものです」。


兄弟姉妹の皆様、
 何故王たるキリストの祝日が、10月の最終主日から、典礼暦の最終主日に移動したのでしょうか?


 これには「王たるキリスト」という概念の根本的変化という意味があります。



■ 聖伝によれば、キリストは創造主であり贖い主だから万物の王、全ての人間の王です。私たちの主イエズス・キリストを王として認めない人間、家庭、社会は、継続することができないでしょう。亡びるしかありません。「人間のための人間による人間の社会」はその根本原理からしてその滅亡が決定づけられています。全てはキリストの元に集められなければなりません。何故なら、イエズス・キリストは第2のアダムであり、贖われた人々の頭だからです。キリストは「私たちを悪の支配から解放し、まことのいのちへ導く」だけの王でありません。全被造物を天主の掟において指導し、立法、行政、司法の頂点に立つ王なのです。


 ピオ11世教皇様はそう教えました。
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/quasprimasjp.html


 教皇様は「人類が味わっている様々な困難の主な原因がどこにあるか指摘し」、

 「人類の大部分が、個人生活からも家庭や国家からも、イエズス・キリストとその貴い掟を閉め出してしまったために、これ程多くの不幸が世界に広がった」と言います。


「個人と国家が救い主の支配に背き、これを拒み続ける限り、諸国民の間に永続的な平和が打ち立てられる見通しは全くありません。私達が追求しなければならないのは、「キリストの国におけるキリストの平和」なのです。」


「キリストの主権の意味と本質を簡潔に説明しておきましょう。今さら言うまでもないことですが、主権には3つの権能[立法・司法・行政権]が必要です。これを持っていないとその王権は無意味になります。」


 「イエズスが人間の贖い主であるのみでなく、(1)人々が服従すべき立法者でもあるということは信仰箇条として認めなければなりません(トリエント公会議VI-21)。」



 「(2)裁判権も御父から与えられたことをイエズスはおん自ら言明されました。例えば安息日に奇跡で病人をいやしたと言ってユデア人たちがイエズスを訴えたとき「父は裁判なさらず、子に審判のことを全くお任せになった」(ヨハネ5:22)と言われたのです。この権能と一体となって全ての人々に対しても賞罰を与える権利があります。」


 「(3)行政権もキリストに属しています。それは違反者が避けることのできない制裁を命ずるキリストに誰もが従わなければならないからです。」



 「キリストの王国は何よりもまず精神的なものであり、精神的な事柄に関するのです。・・・
 しかしキリストの王職がそうであるからと言ってこの世の事柄について人たるキリストが何の権威もないと考えるのは大きな誤りです。」


 「贖い主の主権は全ての人々に及ぶのです。レオ13世のお言葉によれば「キリストの支配権はカトリック信者ばかりでなく、異端によって脇道に逸れたもの、或いは離教によって愛の絆を切って離れた派のものであっても、正しい洗礼によって清められ、法の上から見てやはり教会に属している人々にまで及びます。しかしそれのみならず、その支配権はキリスト信者以外の全ての人々をも包括するものでありますから、全人類がイエズス・キリストの権力のものに」あるのです(回勅「アンヌム・サクルム」1899年5月25日)。


 この点では個人も家庭もまた国家も何の相違もありません。なぜなら人間は社会を構成しても、個人の場合と同じようにキリストの主権のもとに服しているからです。


 キリストは個人の救霊の泉であると同時に社会の救いの源でもあります。「救いは主以外のものによっては得られません。全世界に私達が救われる名はこれ以外には人間に与えられませんでした」(使徒行録4:12)。


 キリストはまた国民一人一人や国家全体の繁栄と真の幸福をもたらす御者です。「国家と国民は別々に幸福になるのではありません。何故かと言えば国家とは多数の人々が一緒に生きていく集まりだからです」(聖アウグスチヌスのマケドニアへの書簡)。


 従って、国の為政者は自分の権威を保ち、国の繁栄を望むなら、自分がキリストの支配に対して公に尊敬と従順を表すのみでなく、国民にもそれをおろそかにさせてはなりません。


 教皇位について私は法的権威の失墜と権威に対する尊敬が一般的に欠けてきたことについて話しましたが、それは今でも変わらぬ事実です。


「天主とイエズス・キリストが法と国家から除外され、権威が天主からではなく、人間に由来するように考えられてきたため、ついに権威の基礎そのものが取り去られることになりました。これは支配権と服従の義務の本質を無視したからです。その結果当然人間社会全体がぐらつくことになりました。なぜなら、その社会はもはや堅固な基礎も保護も持っていないからです」(回勅ウビ・アルカノ)。


もしキリストの王国が権利として及ぶと同じく実際にも全ての国民に及ぶようになれば、王たるキリストがこの世にお与えになった平和について失望する理由は全くなくなります。この平和の王は「全ての者を和睦させ」るために「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」ました。そして全ての者の主であられたのに、自ら謙遜の模範を示し、愛の掟に加えて謙遜の徳を自分の国の第一の法と定められたのです。しかも「私のくびきは快く、私の荷は軽い」といわれました。もし個人や家庭や国家が全てその支配をキリストに委ねるなら、非常に大きな幸福を得ることが出来るでしょう。先任者教皇レオ13世も、25年前、全教会の司教に宛てて次のようにいわれました。


「万民がキリストの支配権を喜んで受け入れ、それに服し、また『全ての舌が主イエズス・キリストは父なる天主の光栄のうちにましますことを公言する』(フィリッピ2:11)時のみ、私達はこの多くの傷を癒すことが出来ましょう。その時こそ、一切の法は昔の権威を取り戻し平和が回復して剣と武器は手放されるでしょう」(回勅アンヌム・サクルム1899年5月25日)。

 

現代の病、それは、いわゆる世俗主義、その誤りと悪質な策動です。尊敬する皆様、皆様もご存じの通り、この悪は一日でできあがったものではありません。それはもう長い間いろいろな国のうちに隠れていたのです。


 そしていつの間にかキリストの全人類に対する支配が拒まれ、教会がキリストご自身から受けた権利さえも否定されてしまったではありませんか。そのため教会がその権利を持って人類を教え、法を制定し、永遠の救いに導くために人々を治めることが認められなくなったのです。


 そして、ついにキリストは誤った宗教と同列に扱われ、それと同等の地位にまで落とされるようになりました。(=王として退位させられた)


 その上、教会は国家の権力のもとにおかれ元首や為政者が多かれ少なかれ意のままに扱っています。ある人たちは、更に進んで天主が啓示された宗教を捨てて自然宗教、つまり自然的な心情をその代わりにしなければならないとさえ考えてきました。


 また国家のうちにも、天主なしにやっていけると考えているものがあるのです。その国では邪悪と天主とを疎んずる思想を自分たちの宗教観と思っているのです。


 このような個人および国家のキリストに対する反逆はたびたび嘆かわしい結果を生んできました。既に回勅「ウビ・アルカノ」で遺憾の意を表しましたが、今再びそれについて新たに考えたいと思います。


 つまり、このような人々と国々の反逆の結果、広範囲にわたる国家観の激しい敵意や憎しみの不和の種を生じ、あらゆる和合と平和を阻害してきました。また共通善とか愛国心とかの美名に隠れた飽くことを知らない欲望やそれによる個人間の争い、或いは過度の盲目的自己愛などを生じ、人々は自分の安楽と利益のみを求め、全ての物事をそれで測るようになってしまいました。そしてまた、義務を忘れたり軽んずることから家庭の不和を生じ、家庭の一致も安定も弛みました。こうして一言でいえば人間社会は揺らぎ、正に滅びに向かっているのです。


 しかし、私はこれから毎年行われる王たるキリストの祝日が社会をして、愛する救い主に立ち戻らせるだろうと言う希望を抱いております。


 そこでカトリック信者は様々の活動や自らの業によって、この復帰を早め準備させるように務めるのが義務でありますが、実際に多くの信者は社会に真理の光を掲げるために当然持つべき地位も権威も持っていません。こういう悪条件は恐らく善良な人々の持つ一種の弱さと臆病によるものでしょう。これらの人たちは、反対するのを断念するか、抵抗はしても余り強くはしないのです。従ってこの当然の結果として教会の敵の厚かましさや大胆な計画は更に力をふるうのです。


 ですから信者が一般に王たるキリストの旗のもとに勇ましく戦い続けねばならないことを悟るなら、使徒的熱意に燃え上がり、主に背いたり或いは主を知らない人々を主と和解させるように努め、主の権利を守るために努力するに違いありません。


 確かに、王たるキリストの祝日を毎年全教会で行うことは世俗主義によりもたらされた社会の諸悪を責め、何らかの方法でそれを癒すのに大いに役立つことでしょう。贖い主のいとも甘美な御名が、国際会議や国会において不当に黙殺されていますから私達はそれに対し一層声を大にして主の御名を称え、王としてのキリストの尊厳と権能を広く確認するように努めなければならないのです。・・・



 そこで、私はここに王である私達の主イエズス・キリストの祝日を設け、毎年、十月の最後の日曜日、すなわち諸聖人の祝日のすぐ前の主日に、全世界でこの祝日が祝われるように定めます。・・・


 十月の最終の日曜日はこの目的のために最も適した日だと思います。なぜならその日が典礼暦の終わりに近いので、その一年を通じて記念されたキリストの御生涯の数々の玄義の上に、あたかも光栄の冠を戴かせるのがこの王たるキリストの祝日ということになるからです。それにまた、諸聖人の光栄を祝う前に、聖人として選ばれた全ての人々のうちに勝利を占めるキリストの光栄を宣言し称揚することにもなるからです。

聖年の1925年12月11日
ローマ、ヴァチカン宮殿において 教皇在位四年目
ピオ11世教皇

 



■ しかし、典礼暦の最終主日に移すことによって、キリストが王であるのは、「天国でのことでありこの地上でのことではない、この地上は多元性を保つべきで、キリストの王国は終末に起こること、再臨の時、栄光の輝きのうちに完成されること」というメッセージを送ることになるからだ。だから今現在は、この世界はキリストを王として認める必要がない、ただ、世の終わりにキリストが適当にそうなさるだろうから、というメッセージです。

 つまり、新しい神学、新しいミサの暦によれば、私たちの主イエズス・キリストは今現代のこの世の王ではないのです。

 だから、王であるキリストの祭日が終末を表す年間最後の主日に定められていることは、新しいミサの「新しいクリスト教」の方針に沿った極めて意義深いものなのです。

http://www.oriens.or.jp/ST061126.htm

 

 


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ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明

2006年11月19日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


ミサ聖祭とは何か。1952年の「公教要理」による説明と今の流行の説明



● 昭和27(1952)年3月5日発行、昭和33(1958)年7月25日第6版、カトリック中央協議会編集、中央出版社発行の「公教要理」によると、次のようにある。



◎ミサ聖祭


427* ミサ聖祭とは何でありますか。
  ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に献げる祭であります。
   犠牲とは天主を最高の主として礼拝するために献物(ささげもの)をなすことであります。旧約の犠牲は牛、羊などを屠(ほふ)って之を献げることで、すべて新約の犠牲のかたどりでありました。
新約の犠牲はイエズス・キリストが、十字架上に於て、御自ら御生命を献げ給うたことであります。ミサ聖祭はこの犠牲の継続であります。
 ミサ聖祭は司祭によって献げられますが、実はイエズス・キリストの御手を以て、直(じか)に之をお献げになるのであります。



428* ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは同じでありますか。
ミサ聖祭と十字架上の犠牲とは、献げ方が違いますが、その実体に於ては全く同じであります。



429 ミサ聖祭と十字架上の犠牲とがその実体に於て全く同じであるとは、どういう意味でありますか。
それは、イエズス・キリストが十字架上でなされたように、ミサ聖祭でも自ら御自身をお献げになるからであります。


430 ミサ聖祭と十字架上の犠牲と献げ方が違うとは、どういう意味でありますか。
  それは十字架上の犠牲と異り、ミサ聖祭では、イエズス・キリストは目に見えては御血を流さず、御死去にならず、司祭の手をもって御自身をお献げになるからであります。


431 信者は、ミサ聖祭に対してどういう役割をもっておりますか。
  信者は、司祭を総代としてミサ聖祭を献げ、又、主を頭とする神秘体の一部分として、キリストと共に己をも献げるのであります。



432* ミサ聖祭を献げる目的は何でありますか。
  ミサ聖祭を献げるのは、
一、天主を礼拝し、
二、其の御恩を謝し、
三、罪を贖い、
四、御恵を求めるためにであります。



433* ミサ聖祭にはどのような功力(くりき)がありますか。
 ミサ聖祭は、聖父に無限の光栄を帰し、且、十字架上の犠牲の功徳を、此の世の人と煉獄の霊魂とに施すもので、その功力には限がありません。



434* 信者は、どのような心構で、ミサ聖祭に与らねばなりませんか。
  ミサ聖祭に与る時には、キリストの御受難、御死去を思い出し、司祭と心を合せて之を献げ、成可(なるべく)聖体を拝領するよう心がけねばなりません。


http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm

 



● あるいは、「要理の友」第25課「ミサ聖祭」によれば、


 イエズスは「パンを取り、感謝してさき、でしたちに与えて、”これは、あなたたちのために与えられる私の体である。私の記念としてこれを行いなさい”とおおせられた」(ルカ22の19 )
 
--------------------------------------

ミサ聖祭とは何ですか。
ミサ聖祭とは、救いの犠牲であるイエズス・キリストの御からだと御血とが、司祭の手をとおして神にささげられる教会の祭りです。



   キリストは、ご自分を霊的なかてとして、でしたちに与えるために聖体をお定めになりましたが、もう一つの理由は、それを通じてでしたちがみなご自分の犠牲にあずかることができるようにとのお心からです。                


   犠牲とは目に見える供え物を神にささげることによって、神への人の心の奉献を表わすことです。イエズスは幼いころからご自身や全生活を救いの犠牲と考えられ、聖木曜日の晩、パンとぶどう酒の外観のもとにそれを御父にささげられ、あくる日十字架の上で御血を流されてそれを完成なさったのであります。その後、聖体が聖変化されるたびごとにキリストは祭壇の上においでになって、パンとぶどう酒の外観のもとにご自身をいけにえとしておささげになります。この聖体のよってささげられる犠牲がミサ聖祭です。

   ミサ聖祭の間にイエズスはお苦しみもなくご死去にもなりませんが、十字架上でなさったようにご自身を人類の救いのためにおささげになります。ミサ聖祭と十字架上と犠牲のささげ方は違っても実体において同じです。            


   ミサ聖祭はこのように十字架上の犠牲と同じものですから、司祭と信者はそれをささげることによって、キリストの十字架の犠牲にあずかることができます。信者は成聖の恩恵によってキリストと一致することをよく考え、ミサ聖祭にあずかるときに、自分をキリストとともにいけにえとして神にささげるのです。イエズスがその全生活を十字架の上でおささげになったように、カトリック信者は自分の生活を犠牲と考え、いつも神のために力をつくし、ミサ聖祭にあずかるときに自分の考え、言葉、行ない、苦しみ、喜びなどをすべてささげるのです。


   イエズスの十字架上の犠牲が歴史上最もすぐれた行ないでありその中心であるように、ミサ聖祭はカトリック教会と信者ひとりひとりの生活の中心です。また、犠牲によって神を最もふさわしく礼拝いたしますから、それは祈りでもあります。ミサ聖祭は完全な犠牲ですから、最もすぐれた祈りでもあるわけです。ミサ聖祭の間にすべての罪を償われた犠牲が繰り返されるのですから、信者は特にミサ聖祭の間罪を痛悔し、罪のゆるしを受けるべきです。イエズスはいつも代祷者であり、ご自分を御父にささげるたびごとに、私たちのために恵みをお頼みになってくださることを考え、信者はミサ聖祭の間にキリストと声を合わせて祈願するのであります。


心のともしび-カトリック要理の友:第25課 ミサ聖祭
http://www.tomoshibi.or.jp/tushin/yori/yori25.html



●公教会祈祷文でもこう祈らせていた。


ミサ聖祭に与る前の祈り


 主イエズス・キリスト、我らもし、カルワリオにて主の御苦難を見奉りしならば、我らの腸(はらわた)悲しみのために断たれたるべし。

 ▲今この祭壇にて行われんとする祭りは、十字架の上にて献げ給いしいけにえと異ならざる者なれば、我らをしてこれに適うべき思いを起し、罪の赦しを蒙り、御旨に従う事を得しめ給え。且つ、主の我らに向いて茲にまた新たに示し給う御苦難、御死去の功徳をこうむらしめ給わんことをひたすら願い奉る。

 



● これを見ると分かるように、ミサ聖祭とは、パンと葡萄酒との外観の下に在し給うイエズス・キリストの御体と御血とを、聖父に犠牲として献げた十字架の犠牲の継続だ


● まず、ミサ聖祭とは会食ではない。私たちの主イエズス・キリストは、「私の記念として、これを行え」と言ったのであって、「私の記念を行いなさい」とも「私を思い出すために、このようにして食べなさい」とも言ったのではなかった。


● ミサ聖祭において最も大事なのは、パンとぶどう酒を共に食することでもなければ、会食することによって信者の一人一人がキリストの体につらなり、ひとつの共同体として交わりの中に入れられていることを確認することでもない


● また、私たちの主イエズス・キリストは、パンと葡萄酒との「外観の下に」在し給うのであり、パンとぶどう酒の「中に」おられるのではない。聖変化により全実体変化(「実態変化」ではない)が起こり、パンとぶどう酒との実体は無くなり、イエズス・キリストの実体に変わるからだ。


● ミサ聖祭では、「感謝」をするだけではない。ミサ聖祭を献げるのは、天主を礼拝し、その御恩を謝し、罪を贖い、御恵を求めるためだ。

 


今の流行の説明


■ ところが、今はやりの新しいミサの説明はどうだろうか?


 インターネットで検索してご自分でご覧になってみていただきたい。特に公の性格を持っていると思われるウェッブ・サイトを見てみて頂きたい。勿論、中には信徒有志が作成しており、教会の公式見解ではないものもあるだろう。カトリック教会について全く知らない方々を対象にしているために、難しいことを省いて優しい言葉遣いになっていることもあろう。


 しかし、これを見ることによって、今の流行の説明が分かるだろう。私たちは、これらのウェッブ・サイトを一生懸命作られた方々を非難するつもりは全くない。何故なら、新しいミサの公式の定義が、オッタヴィアーニ枢機卿たちによれば、カトリック信仰を大きく離れているからだ。日本のウェッブ・サイト制作者がその影響をうけて剰りにも当然だからだ。いや、問題は一般のカトリック信徒の方々が、徐々に、ミサ聖祭とは何かを知らなくなり、誤解し、別のものを信じるようになってしまう危険があることだ。



■ 新しい説明によれば、ミサとは、食事であり会食であり、キリストの死と復活の記念である。また最後の晩餐に行われたことの記念とされている。残念であるが、ミサが十字架の犠牲の再現であり現実化であるという説明は一切されていない。犠牲という概念すらない。このようなミサにかんするる概念の変化こそが、新しいミサの実りだ。 ・・・ インターネットだけではなく、信徒の方々のミサに関する概念そのものさえも、影響を受けているのだ・・・。

 



 天主の御母聖マリアよ、我らを憐れみ給え!


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聖伝のミサの自由化のニュース:リベラルな司教様たちは反対、何故か?

2006年11月16日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


聖伝のミサの自由化のニュース:リベラルな司教様たちは反対、何故か?


■伝統的なラテン語ミサの執行を原則的に認める自発教令(モトゥ・プロプリオ)を教皇ベネディクト十六世が準備している、との報道がある。これに対して反対の意思表明をしている司教団がある。何故か? 何故反対をしているのか?


 それは、ミサ聖祭と新しいミサとが全く異なる神学を背景にしているからだ。


 そのことは、既に新しいミサが出た直後からオッタヴィアーニ枢機卿たちがハッキリ断言していたことだ。


「新しい司式は、トレント公会議で宣言されたカトリック神学から逸脱しています。」 (検邪聖省教皇代理長官オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html



 詳しくは次の報告書に書かれている。



新しい「ミサ司式」の批判的研究
検邪聖省教皇代理長官オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿のパウロ6世への報告書 【日本語訳】

http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


【イタリア語原文】
Il Breve esame critico della Nuova Messa,
dei Cardd. Ottaviani e Bacci
http://www.sanpiox.it/messa/messa.html


【フランス語訳】
Bref examen critique de la nouvelle messe
par les cardinaux Ottaviani et Bacci
http://www.fsspx.org/fran/buts/messe/1969-Ottaviani-BrefExamen.htm


【スペイン語訳】
Breve Examen Critico del "Novus Ordo Missae"
http://www.statveritas.com.ar/Liturgia/Breve%20Examen%20Critico.htm



【英語訳】
CRITICAL STUDY of the New Order of Mass
http://www.sspx.org/miscellaneous/critical_study_of_the_new_mass.htm



【付録】
 伝統的なカトリック神学と現代神学とで、司祭職のあり方などがいかに異なっているかを分かり易く示したフライヤーがあります。下のアドレスからダウンロードできます。
http://homepage3.nifty.com/mir/lib/liturgy.pdf

 




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ダブルスタンダード?! 聖伝主義に対する態度とエキュメニズム

2006年11月03日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!



▼ これはダブルスタンダードではないか? 


 カトリック教会は、御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体だと信じている。御聖体はたんなるパンではない。御聖体は天地の創造主だ、私たちの天主だ、私たちの贖い主イエズス・キリストだ。だから、カトリック信徒たちに御聖体を礼拝させてきた。これはカトリック信仰が私たちをして跪かせた。その核心は信仰だ。聖伝の信仰だ。


 私に洗礼を授けて下さったヨゼフ・マリ・ジャック神父様は、私たちに必ず跪いて御聖体を拝領するように、必ず口で御聖体拝領するようにと教えていくださった。何故なら、御聖体は天主の御体だからだ。神父様は、教会の聖伝の信仰を大切にしておられた。


 しかしおよそ今から25年前、地元の教会に新しい神父様が赴任されてから全ては変わった。新しい神父様は新しいことを信徒たちに押しつけた。私たちは立って聖体拝領をしなければならなくなった。立たなければ「一致を乱す」と非難された。私は小教区の教会では御聖体拝領が出来なかった。私たちの主イエズス・キリストを礼拝したいと望んだ、という理由のためにだ。


 それは日本のほとんど全てのカトリック教会で同じことが言えるだろう。


 私はつい最近、韓国の学生のキム・ニコラ君(仮名)からメールをもらった。彼はソウルからかなり離れた地方に住んでいる中学生だ。それによると、地元の小教区で新しい司祭が赴任になり、キム・ニコラ君が跪いて口で聖体拝領をするので御聖体拝領を禁止したとのことだ。


 一体何故? 何故ここまでするのか? しかも全世界で?



 第二バチカン公会議では「信教の自由」を高らかに歌っているのではないか? 新しいミサではいろいろなことをするオプションが数多くあるではないか。何故跪くことなどの聖伝の信仰に適ったことはここまで強く禁止されなければならないのか?? 平信徒の声を聞く、開かれた教会、今までの権威主義ではない信徒のための信徒による信徒の教会手作りの教会、草の根の教会を目ざしているはずではないのか??


 これはダブルスタンダードではないか? 自己矛盾ではないのか?
何故なら、一方で自由を歌いながら、聖伝のままを実践する自由を与えていないからだ。

 

▼今までダブルスタンダードだと思っていた

 私は最初これらを素直にダブルスタンダードだったと思っていた。しかし良く考えると、一貫した論理があるように思えてきた

 何故なら、跪くというのは礼拝の印であり、カトリック信仰の生き生きとした表明であるからだ。御聖体が私たちの主イエズス・キリストの真の御体であるという信仰ゆえにこそ、私たちは跪いて礼拝しつつ御聖体拝領をするからだ。聖伝のミサでは、私たちが全て天主を中心に生きるように、天主に向かって全てが秩序づけられていた。


 しかし、


 カトリック教会の聖職者が、もはや聖伝を信じておらず、新しい教えを新しい信仰を信じているなら、・・・


 ミサ聖祭が、ミサの聖なるいけにえではなく、聖餐だと信じているなら、・・・


 司祭が単なる座長で、ミサが信徒を中心とする集会であるなら、・・・


 ミサで「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」からこそ、キリストが現存していると信じているなら、・・・


 御聖体は、兄弟姉妹たちと分かち合う食事になり、食事は食べ物と飲み物があり、手で取って立って食べるのが当然だから。だから、立つことが原則なのでそれに従うことを強制させられるのだ。


 新しいミサの定義はこうだ。

「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)


 だから、新しいミサでは、聖書の朗読台と感謝の食卓という二つの「食卓」と二つの「霊的糧」が「食され」、その中心は人間になる。


 だから、新しいミサでは新しい実験・革新・試みはどんなことをしても良いのだけれども、聖伝の信仰の表明だけは許されないのだ。


 つまり、新しいミサでは全く新しい「信仰」が表明されており、そこでは聖伝の信仰は相容れないのだ。


 だから、新しいミサの新しい「信仰」を信じる人は、聖伝の信仰を憎しみ排除しようとするのではないか。聖伝の信仰の表れを粉々につぶそうとするのではないか。


 だから、新しいミサで跪いて御聖体拝領をする人は、受け入れられないのだ。なぜなら、信仰が違うからだ。


 何故なら、第二バチカン公会議の新しいミサと新しい信仰は全てを人間に秩序づけようとするからだ。「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3)であり、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」(『現代世界憲章』 12)からだ。 第二バチカン公会議はこれに反対するものに対して戦いを挑み、これに反対するものを完全に破壊し尽くすまで闘おうとしているからだ。


 それに対して、聖伝は全てを天主のために秩序づけようとし、それに反対するものに対して抵抗し闘っている。私たちは聖伝が勝利することを知っている。だからといって何もしないでよいわけではない。傍観していて良いわけではない。使徒継承のカトリック教会の聖伝にますます忠実でなければならない。


 だから、ここに生きるか死ぬかの戦いがあるのだ。カトリック聖伝が生き残るか、第二バチカン公会議が生き残るか、悪魔の最後の戦いが繰り広げられているのだろう

 そして、これはラテン語と日本語の問題ではなく、グレゴリオ聖歌か日本語聖歌かの問題でもなく、カトリック信仰の核心の問題なのだ

 このごろこう思えてならない。




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 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について

2006年10月26日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


 第二ヴァチカン公会議の「洗礼の秘跡による信徒の祭司職」について



 第2バチカン公会議の文脈の中での司祭像は、トリエント公会議の司祭像と180度観点を転換させたものだ、と言うことは誰の目にも明らかです。


 アルバロ・デル・ポルティーリョ師(Mgr del Portillo, 1914年マドリード生 ― 1994年ローマ没、オプス・デイ創立者エスクリバー師の片腕として働き、その後はその後継者としてオプス・デイを指導)は、『司祭の召命と使命(Vocation et mission du Prestre)』 Editions Le Laurier, Paris, 1991で、その問題を指摘しています。



 ローマの国際神学委員会が提示した『司祭的役務』は、第二バチカン公会議の司祭像とトリエント公会議の司祭像とは対立があると指摘しています。


 第二バチカン公会議の時に神学顧問であったレキュイェ神父(Pere Lecuyer)はこう言います。

「この出発点そのものからして、聖トマス・アクィナスが叙階の秘蹟の神学を取り扱ったやり方との根本的な相違を、私たちは強調するのが重要であると思われる。第2バチカン公会議は、新約聖書の与件に忠実に従いながら、使徒的役務を、教え・秘蹟と礼拝を司り、民を指導する三重の役割を含めた一つの全体として考察する。他方で聖トマス・アクィナスは、出発点として、秘蹟の執行者、特に御聖体の執行者としての権能からのみ考察している。」



 では第二バチカン公会議によるあたらしい司祭像とは何でしょうか?



 ◎ すでに第二バチカン公会議の中で、新しいミサの原点となる「信徒の共通司祭職」が全ての司祭職の出発点と考えられています。


(私は、新しい神学の流行である「祭司職」と「司祭職」との言葉を区別せずに、同じ「司祭職」で統一してあります。何故ならその区別の必要がないと思われるからです。その理由は、「マニラの eそよ風」167号をごらん下さい。
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila167.html



 他方で、聖トマス・アクィナスやトリエント公会議では、「いけにえを捧げる」ということが司祭職(司祭の司祭職もそうですが、信者の「司祭職」も)の基礎です。



 そして第二バチカン公会議によれば、信者の共通司祭職を基礎として、政治的な必要性から司祭の職務的司祭職が生まれてくる、と言うのです。


 こうして、信徒の共通司祭職を出発点として職位的司祭職を確立させるのです。この結果、司祭とはまず上に立つもの、座長なのです。


 司祭は、信徒たちとの関わりのうえに成立したものであるが故に、「御聖体を聖変化する者」というよりは、何よりもまず、座長という存在になるのです。


 従って司祭は、いけにえを捧げるもの、といわれるより以前に、第一に「牧者」なのです。

 


 ◎ では、信者の共通司祭職は何をするためにあるのでしょうか? 何故、司祭職が必要なのでしょうか? 


 司祭職とは、第二バチカン公会議によれば「宣教」のためにあります。司祭職の目的は宣教(mission)です。


 そして第二バチカン公会議によれば、司祭の専門職的司祭職は、信者の宣教という司祭職を助けるためにあります。


 『教会憲章』もそう言います。ヨハネ・パウロ2世も回勅『女性の尊厳について De dignitate mulieris』において「職位的司祭職は本性によって奉仕である」と言っています。



 トリエント公会議やカトリック聖伝によれば、司祭の司祭職は御聖体というイエズス・キリストの真の御体を取り扱うために、御聖体を聖変化させるために、ミサ聖祭のいけにえを捧げえるためにあります。


 しかし第二バチカン公会議は、司祭の司祭職は、キリストの神秘体である信徒を取り扱うために存在する、というのです。これは根本的で本質的な違いです。



 ◎ だから、『典礼憲章』はキリストがミサ聖祭において無流血のやり方で真の意味で屠られることを言わずに「十字架の犠牲」と「死と復活の記念」を語り、「キリストが食される復活の祝宴」を強調します。


 第二バチカン公会議によれば、ミサ聖祭は、秘跡的に現実化される十字架上の罪の償いのための贖いというよりも、ライトモチーフとしての過越(復活)の祝宴、過越(復活)の秘義へと結びつくのです。


 新しいミサで復活が強調されていることは、年がら年中「復活のロウソク」が飾られていることでも象徴されています。



 だからこそ、第2バチカン公会議後に出来た、新しいミサ典書では「神の民」という唯一の典礼の執行者しか認めないのです。


 司祭は、神の民の座長としての存在であるが、主役はあくまでも信徒であるから、また、ミサは何よりもまず、神の民の集会であり、信徒がミサを捧げるのであるから、彼らがみことばを読み、聖体を授けることを、司祭は座長として司会する役務を持つだけなのです。信徒が主体的に行為させなければならないとされるのです。



 「参列者が能動的に参加する事」は、新しいミサにおいては、ミサをささげるのが司祭ではなく、会衆(神の民)であるとして理解されています。良く読んで下さい。


「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)


 これは単なる強調点の違いではありません。本質的な違いです。


 従って、司祭は神の民のために存在しするのだから、神の民の方に向けられていなければならないのです。


 だから、ミサは、人間を天主へと結びつけると言うよりも、むしろ人間と人間とを結びつけるものであり、会衆へ、人間へと向かうものになってしまったのです。「人間こそ、われわれの全叙述の中心点」(『現代世界憲章』3)であり、「地上に存在するあらゆるものは、その中心および頂点である人間に秩序づけられなければならない」(『現代世界憲章』 12)からです。


 だから、司教様や司祭たちは、司牧上においても、社会正義・人間の尊厳・この世との対話について、信徒らを指導し、それを率先して実践しなければならない、とされたのです。従って、日本カトリック正義と平和協議会(正平協)などに積極的に活動するようになってこそ、第二バチカン公会議の理想的司祭像なのです。



 しかし、歴代の教皇様はじめ、トリエント公会議、カトリック教会の聖伝は、司祭職はいけにえにその起源を持つといっています。ここに相互に本質的に対立矛盾する司祭職の違いがあるのです。



 聖伝のミサと新しいミサとの本質的な違いは、ラテン語や司祭がどちらを向くかの違いではありません。信仰の違いです。



 新しいミサが出た直後、これらの大きな違いをプロテスタントの牧師たちにはすぐに分かりました。プロテスタントの牧師たちは、新しいミサならば神学上の問題なく自分たちも捧げることが出来ると言っています。



 残念ながら多くのカトリック信者にはこの本質的違いが理解できませんでした。しかし少数のカトリック高位聖職者達には明らかなことでした。



■オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下への手紙(1969年9月25日)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/rappot.html


「もし暗になされた、或いは当然なされた改革を私たちが考察するとき、この改革は様々な仕方で評価できるかもしれませんが、新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。



■新しい「ミサ司式」の批判的研究
(オッタヴィアーニ・バッチ両枢機卿のパウロ6世教皇聖下へ提出した書類)
http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html


「聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式(modus significandi)が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っているからである。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」



■ルフェーブル大司教(1976年6月29日)
http://fsspxjapan.fc2web.com/ser/lefebvre3.html


新しい典礼様式は、知っているか知らないかに関わらず、カトリックの宗教とは別の概念を、ある別の宗教を前提としています。つまり、ミサ聖祭を捧げるのは、もはや司祭ではありません。それは会衆です。このことのために、全てはプログラムされています。金輪際、教会の権威に取って代わるのは、会衆です。司教たちの個人的な権力に取って代わるのは、司教団です。教区のなかの司教の権力に取って代わるのは、司祭たちが集ってつくる司祭諮問会です。今後、教会を動かすのは、数です。そして、そのことはミサのなかで明らかに表明されています。ミサでは、会衆が司祭の代わりになっているからです。それは、今では多くの司祭が会衆のない時にはもはやミサを捧げようともしないと言うところまでいっています。徐々に、聖なる教会のなかに、ミサに関するプロテスタントの考え方が導入されています。」



 くわしくは、拙文をお読み下さい。


第1部 原理
[1] 『司祭の役務と生活に関する教令』の序文(「マニラの eそよ風」283号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila283.html


[2] 『司祭の役務と生活に関する教令』の2番(「マニラの eそよ風」284号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila284.html


[3] 『司祭の役務と生活に関する教令』の論理構造(「マニラの eそよ風」285号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila285.html



第2部 論理的結論

[4] 第2バチカン公会議の新しい司祭が捧げる「いけにえ」とは何か?(「マニラの eそよ風」286号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila286.html


[5] 典礼上の論理的結論(「マニラの eそよ風」287号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila287.html


[6] 結論(「マニラの eそよ風」288号)
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila288.html

 




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新しいミサの神学的な問題点: 新しいミサの基礎になっている考えとは何か?

2006年10月21日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


 新しい神学は「ミサ」についてこう教える。


【ミサの定義】 ミサとはまず「集会」。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)


【復活の神秘(=過越の神秘)】 ミサではキリストの復活が祝われる。(十字架像のイエズス・キリストよりも、復活のキリストが飾られる。)


【罪の概念】 罪は人間共同体に対する悪であり、自分自身を苦しめるもの。(罪は、天主に対する侮辱という次元はほとんど語られない。)


 従って、私たち人間は罪故に当然受けることになった苦しみの赦しを天主に願い求めることもなく、天主が罪人たちに対してお怒りにならないようにと宥める必要はない。


【新しい「贖い」の概念】
「贖い」とは、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示すること。
聖子(キリスト)ではなく、聖父が愛によって普遍的な贖いを行った。キリストは聖父の愛を示す人間にすぎない。


 従って、典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえない。



 他方で、トリエント公会議は、こう教えている。


「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか
「捧げられるというのは、キリストが・・・私たちに与えられることに他ならない」とかと言う者は排斥される。


 また、

「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない」と言う者は排斥される。


 そこで、聖伝のミサは、古典的な神学の観点に立ち、キリストの死の償いの価値を贖いの業にとって本質的なものと捉えている。



 従って、新しいミサとは、新しい「贖い」の概念の上に成り立って作られているものだ。



【何故??】
 では、何故、新しいミサは、新しい「贖い」の概念の上に成り立ちえるのか。一体新しい神学の基礎になっている考えとは何なのだろうか? なぜ新しい神学・新しい考え方が生じてきたのか? 



 これを見るためにカトリックの聖伝の教えをまず見よう。


 キリスト教において、何が最も本質的に啓示されたことがら、キリスト教が創立以来、キリスト教がキリスト教となさしめている最も本質的な啓示、信仰をもって受け入れられるべきこととは、「天主の聖子が人の子になった filius Dei filius hominis factus est」ことである。


 これこそが、天主から人間に啓示され、人間がそれを信仰をもって受け入れるべき事柄の核心であるからだ。


 だからこそ、公教要理はこう説明しているのだ。

106 天主の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは天主であると同時に人間である必要がありましたか。


 苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に天主でなければなりませんでした。


 ここにキリスト教の核心がある。これがなければキリスト教は本当のキリスト教ではなくなってしまう。

 


【新しい教え】


 では、今、教会内部で流行している新しい神学は何と言っているだろうか?


 たとえば百瀬文晃著『イエス・キリストを学ぶ』(サンパウロ1989年)によると、ヴィーダーケアを引用して「イエスは神の子になるという在りかたで神の子である」(219ページ)と言い、パネンベルクを引用し「イエスの復活というできごとは、ただ単に認識の餓えでのみならず、真に存在それ自体においてイエスを神の子とし、いわば遡及的に、生前のイエスの生の全体を神の子のそれとするのだ」(220ページ)という。


 つまり『イエス・キリストを学ぶ』の「下からのキリスト論」によれば、復活というできごとによって「人の子は神の子となった」としている。


 つまり「下からのキリスト論」は、「天主の聖子が人の子になった 」ことのではなく、復活というできごとによって「人の子は神の子となった」とするのだ。だから「下からのキリスト論」は、私たちの信じているキリスト教ではない。


 しかし、新しいミサでは、まさにこの「下からのキリスト論」に従って、復活が強調されている。


「『神の子』の意味は、イエスにおいて神が現在し、イエスを通して神が働き、イエスの生と死と復活を通して神がご自身を表現されるといういみである。」(上掲書219ページ)


 「贖い」とは、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示すること。聖子(キリスト)ではなく、聖父が愛によって普遍的な贖いを行った。キリストは聖父の愛を示すにすぎない


 「下からのキリスト論」はこう言う。「新約聖書の根本的な確信、そしてキリスト教信仰の神髄は、神がナザレのイエスをとおしてご自身を最終的、決定的な形で啓示された、という信仰である。」(上掲書221ページ)


 従って、典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえない。


 だから、新しいミサの定義において、ミサはまず「集会」であり、十字架の犠牲ということは重要な要素ではないのだ。


 曰く「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」(新しいミサの総則の第7条)



【結論】


 私たちは既に、新しいミサと新しい神学が密接に関係していることを見てきた。従って、私たちは次のように言うことが出来るのではないだろうか。



聖伝のミサは、
「天主の聖子が人の子になった」ということの上に成立している。
従って、「人の子になった天主の聖子」イエズス・キリストは、真の意味で私たちの贖い主である。
だから、聖伝のミサにおいて、真実の固有のいけにえが天主に捧げられ、罪の償いのいけにえである。

 



新しいミサ(現行のミサ、1969年から始まったミサ)は、
復活というできごとによって「人の子は神の子となった」ということの上に成り立っている。

従って、復活というできごとによって「人の子を神の子とした」父なる神が、私たちを救った
だから新しいミサによれば、捧げられるというのは、キリストが私たちに与えられることに他ならない、だから、私たちは天主から与えられたことを賛美し感謝し受けるだけである。これが「過越の神秘」である。


聖伝のミサと新しいミサとでは、こんなにも違うのだ!!


 では、一体何故、新しいミサを成立させた新しい神学が生まれてきたのか? 一体どこで道を間違えたのか? 新しい神学はどこからおかしくなったのか? 何故か? そのために新しいミサはどこがおかしくなってしまっているのか? 




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何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?

2006年09月16日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!



 今回は「贖い」について、何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのか?? ということを考えてみます。

 


 何故、新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのかといえば、1969年の現れたこの新しいミサの総則の第7条は、次のようにミサを定義したからではないだろうか。


「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」



 つまり、新しいミサにおいては、

● 新しいミサの定義において、ミサはまず「集会」だからではないだろうか。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)


● そして復活の神秘(=過越の神秘)ということが強調され、十字架像のイエズス・キリストというよりも、復活のキリストが飾られたりしているからではないだろうか?



 また新しいミサでは、新しい教義上の観点からほとんど全ての典礼様式はそれに合わせて変更されているからではないだろうか。

 つまり、
● 新しい教えによれば、天主は、罪をもはや天主に対する正義を欠くことであるとは考えにならず、人が罪を犯しても天主の側からは決して人との契りを放棄し給わない。

 従って、私たち人間は罪故に当然受けることになった苦しみの赦しを天主に願い求めることもなく、天主が罪人たちに対してお怒りにならないようにと宥めることもなくない。

 従って、典礼改革はこれらの苦しみや天主を恐れると言うことを示すものをすべて取り除いた。


● 新しい神学によれば「贖い」は、聖父が私たちに持つ無償の溢れるばかりの愛を十全に啓示することである。

 従って、典礼儀式は、感謝とお願い以外の何ものでもありえない。

 従って、キリストが代理として天主の正義を満足させること、或いは、キリストの祈りにおける仲介は、特に必要ないものとなる。

 従って、それらに関することは大部分が新しいミサ典書、特に「奉献の祈り」から削除されている。

 


例えば、

聖伝のミサ典書では
「私たちの主イエズス・キリストのいとも尊き御血の祝日」(ピオ9世による制定、ピオ11世により1933年に1級祝日に昇格)の「集祷文」にはこうある。

「全能永遠の天主よ、御身は御身の聖子を唯一のこの世の贖い主とし、我らの贖いの値である、聖子の御血によって宥められることを望み給うた・・・」

つまり、天主聖父は、聖子の贖う御血によって正義がなだめられると言っている。



新しいミサ典書では、
「私たちの主イエズス・キリストのいとも尊き御血の随意ミサ」(1969年改革された典礼暦年のカレンダーでは削除されたが、その後多くの懇願により随意ミサとして再導入)の「集祷文」

主よ、御身は、御身の聖子のいとも尊き御血により全ての人々を贖い給うた。我らの救いの神秘を常に思い起こし、その実りを得んがため、我らのうちに御身の愛の業を保ち給え。」


つまり、聖子ではなく、聖父が愛によって普遍的な贖いを行ったことになっている。

 つまり、新しいミサの新しい概念は、贖いという古典的な概念の上になりたっている。

 従って、私たちは聖伝のミサと新しいミサとの2つのミサ典書の違いは、2つの異なった教義が典礼において反映された違いであるということが出来る。

 一方の聖伝のミサは、古典的な神学の観点に立ち、キリストの死の償いの価値を贖いの業にとって本質的なものと捉えている。

 他方で新しいミサは、新しい神学の観点で、キリストの死の償いの価値は、神学上の一意見であり、天主の善性と相容れないものであると考えている。


 新しいミサが、新しい神学を生みだし育てる土壌となったのだろうか? そして、新しいミサのために、伝統的な「贖い」の概念が風化していってしまったのだろうか?それとも、新しい神学が新しいミサを生み出したのか?



 何はともあれ、トリエント公会議は、こう教えている。
「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか「捧げられるというのは、キリストが・・・私たちに与えられることに他ならない」と言う者は排斥される。
 また、
「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない」と言う者は排斥される。



 だから、正しいカトリックの「贖い」の概念を守るためにも、私たちは聖伝のミサを守らなければならない。



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「ふぅーん、新しいミサの背後にある神学は、昔の公教要理のおしえを否定していたんだなぁ」と思われた方もクリックをお願いいたします。↓↓↓
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 では一体新しい神学の基礎になっている考えとは何なのだろうか? 新しい神学・新しい考え方がよって立つそれは何のか? 

 


「贖い」ということについて公教要理をみてみます

2006年09月13日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


今回は「贖い」ということについて公教要理をみてみます。



イエズス・キリストは十字架上で何をされましたか。


イエズス・キリストは、十字架上で、敵のために赦しを乞い願い、聖母マリアを弟子ヨハネに母として与えヨハネを通して私たちにも聖マリアを母としてお与えになりました。さらに、御自分の死を犠牲としてささげ、天主に対する人間の罪のあがないを成就されました


私たちの罪をあがなうためには、天使をおつかわしになるだけで充分ではなかったのですか。


私たちの罪を購うために天使をおつかわしになるだけでは充分ではなかったのです。それは、人間が罪によって天主に加えた侮辱は、ある意味で無限ですから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方が必要だったのです


天主の正義にふさわしいつぐないをするために、イエズス・キリストは天主であると同時に人間である必要がありましたか。


苦しみ死去するためにイエズス・キリストは人間でなくてはならず、この苦しみが無限の価値を有するためには同時に天主でなければなりませんでした。


何故、イエズス・キリストの功徳が無限の価値あるものでなければなりませんか。


人間が罪によって侮辱を与えた天主は無限に偉大を御方ですから、イエズス・キリストの功徳も無限の価値あるものでなければならなかったのです。


イエズスにはあれほどひどい苦しみを受ける必要があったのですか。


イエズスには必ずしもあれほどひどい苦しみを受ける必要はなかったのです。イエズスの行ないはすべて無限の価値を有するものですから、わずかな苦しみだけでも私たちの罪をあがなうには充分であったのです。


では、何故イエズスはそのような苦しみを受けられたのですか。


イエズスがそのような苦しみを受けられたのは、

天主の正義に対してよりゆたかなつぐないを望まれ、

人間には、天主の愛をさらに印象づけ、徹底的に罪を忌みきらう気持を植えつけようとされたからです。



十字架上の犠牲は、新約唯一の犠牲ですか。


この犠牲によって主が天主の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さったという点から見れば、十字架上の犠牲は新約唯一の犠牲です。そして、このようにして得られた功徳は、天主が教会の中に制定された手段を通して実際に私たちに与えられるのであり、ミサ聖祭もこの手段のひとつなのです。


ミサ聖祭をささげる目的は何ですか。


ミサ聖祭をささげる目的は、
1ふさわしい方法で天主を礼拝し(崇拝)、
2そのご恩に感謝し(感謝)、
3天主をなだめるために罪のつぐないをし、練獄の霊魂のために代願し(贖罪)、
4必要とする聖寵を乞い求める(懇願)
ことです。


▼△▼△


 これをみると、天主の正義を満足させる「贖い」ということが教えられていることが分かる。


● 人間が罪によって天主に加えた侮辱は、ある意味で無限だから、このつぐないを果すためには、無限の徳を有する御方(天主)が必要だった。

● イエズス・キリストの十字架の犠牲によって、主は天主の正義をおなだめになり、救いに必要な功徳をすべて得られ、人間の罪のあがないを成就して下さった。

● そして、この本当の意味での「贖い」において、罪を忌み憎む天主の正義の厳しさ、そしてそれと同時に、罪人である私たちを贖って下さった、天主の無限の愛が現れる。

● 天主の正義ゆえに、天主の愛が輝いている。これが全聖書とキリスト教の全聖伝の教えだ。

 

◎ だから、例えばロンバルドゥスは、

『命題集』第3巻19区分2章に、「何故、天主は人となり死に給うたか」 Cur Deus homo et mortuus の問題を提起し、次の説明を挙げている。

 それは、天主が死すべき人間となり、その死によって悪魔に克つためであった。けだし、人間は自分の意志によって悪魔に服したのであるから、天主が直接に悪魔から人間を救い出すのは不当であり暴力的である。人間が悪魔に克って解放されるのでなければならない。しかし人間ひとりの力では悪魔に克つことはできない。それゆえ人間でありながら、他の全ての人間と異なり、完全に罪から無汚である人間にして初めて、その死によってすべての人間を悪魔の支配から救い出すことができる。それはただ「人の子」と成った「天主の聖子」によってのみなしうることであった。

(以上は山田晶著『トマス・アクィナスの "レス" 研究』853ページ、「レスとラチオ」の項よりの孫引き)


◎ だから、たとえばピオ12世教皇様はこう言った。

天主の贖いの奥義は、まず、その本性によって愛の奥義です。天のおん父に対するキリストの正義を果たす愛の奥義です。この正義に対して、愛と従順の心をもってお捧げになった十字架の犠牲は、人類の罪のために為されるべきであった溢れるばかりの無限の贖いを提示しています。「キリストは、愛と従順によって苦しみを受け、天主に対して、人類のすべての罪の償いとして要求されていたもの以上を天主にささげる」(神学大全Ⅲ・q・48a・2)。贖いの奥義はさらにすべての人間に対する至聖三位と天主なる贖い主の憐れみ深い愛の奥義です。私たちは罪を贖うために天主の正義を満足させることはできなかったのですが、ご自分のいとも尊き御血を流した結実である、測り知れない功徳の豊かさによって、天主と人との間の友好の契約を回復し、まったく完成することが出来たのです。天主と人間の間の友好の契約は、アダムの嘆かわしい罪によって、地上の楽園で最初に破られ、それに続いて選民の無数の罪によって犯されてきました。天主なる贖い主(キリスト)は私たちに対する燃える愛から、私たちの正当かつ完全な仲介者として、人類の義務および負債と天主の権利とを完全に調停なさいました。キリストは、天主の正義とその慈悲の間の絶妙な和解を成し遂げられた方なのです。ここにこそ、まさしく、私たちの救霊の奥義の絶対的超越性があるのです。」
(ピオ12世、1956年5月15日回勅『ハウリエーティス・アクヮスHaurietis aquas』)



◎ だからトリエント公会議もこう宣言している。

DzS 1751(948)1条
「ミサにおいて真実の固有のいけにえが天主に捧げられない」とか「捧げられるというのは、キリストが食されるために私たちに与えられることに他ならない」と言う者は排斥される。


DzS 1753(950)3条
「ミサのいけにえはただ賛美と感謝のいけにえである、あるいは、十字架上で行われたいけにえの単なる記念であって、罪の償いのいけにえではない、あるいは、御聖体拝領する者だけにとって利益となるものである、また、生存者と死者のため、罪、罰、償い及びその他の必要のために捧げられるべきではない」と言う者は排斥される(DzS1743参照)。



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 では何故「カトリック新聞」では、こう書かれているのだろうか??

★ 私たちは、聖体祭儀【御聖体ではなく「聖体祭儀」】のうちにキリストが私たちと共にいることを信じています。私たちは【聖体祭儀が】キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ、体現していくため【のもの】であることを信じています。


 この全文を読みたい方は次をご覧下さい。
http://www.cwjpn.com/kiji/hikari/hikariold/hikari3871b.htm

 

★ これをみると、天主の正義を満足させる「贖い」ということが全く無視されている。「イエズス・キリストの十字架の犠牲」、「天主の正義をおなだめになったこと」、「人間の罪のあがない給うたこと」は無視されている。

★ イエズス・キリストの功徳でも愛でもなく、ただ単にミサが「世界のための神の愛を告げ知らせ体現していく」ためのものとなっている。

★ 私たちがイエズス・キリストとともに贖罪のいけにえを捧げるのではなく、私たちが何かを捧げると言うよりも、ミサは、天主の愛を告げ知らせる賛美と感謝であって、キリストが共にいるということを受け取ってそのことを告げ知らせるための祭儀だと教えている。

 


何故だろうか??? 何故「天主の正義」が省かれているのだろう?



 私たちはここで、日本で出版された『イエス・キリストを学ぶ』(サンパウロ1986年)の記述を思い出す。


「『あがないの代価』という表象は、ヘレニズム世界では譬喩にとどまらず、現実的に理解され、そこからテルトゥリアヌス、オリゲネス、アウグスティヌスにもみられるように、この代価が悪魔に対して支払われたというような、様々な思弁が展開されるに至った。しかし、そのような神話的な想像(!!)は、十字架の死に至る史実のイエスの姿からも、イエスの復活によって基礎づけられた神の国の福音からも遠ざかっている。現代に至るまで、通俗的な(!! 聖ピオ十世の公教要理も?)教理の理解に継承されている、カンタベリーのアンセルムスに端を発するいわゆる「贖罪論」に対しても、私たちは批判的でなければならない。すなわちアンセルムスは、『なぜ神は人となったか』という著作の中で、人間がつみによって神を侮辱したこと、この神は無限であるゆえ罪は無限であり、有限な人間には償うことができないこと、したがって無限の神の御子がこれを償わねばならなかったことを説明する。・・・だが、新約の使信はそもそも、ご自身を遠ざかった人間を呼び戻そうとされる父なる神の救いのわざを告げるものではなかったろうか。イエスの十字架の死は、イエスの功徳としてではなく、まず神の創意による救いのわざとして理解されたのではなかったろうか。神の怒りがなだめられるのではなく、神の愛が悲惨に沈む人間を回復しようとするのではなかったろうか。とりわけアンセルムスの贖罪論には、復活のケリュグマが欠けている。」(254ページ)

 


 私たちは更に、チュービンゲン大学の神学講義案から成り立った有名な『キリスト教入門 Einfuehrung in das Christentum』の記述を思い出す。


「このことがらについての、一般のキリスト教意識は、先にだいたい述べた非常に粗大化されたカンタベリーのアンセルムスの贖罪神学の考えによって定められている。非常に多数の信者にとって、ことに信仰をかなりはるかからしか知らない人々にとって(!!)、十字架は、傷つけられ、また回復された権利の機構の中で解すべきもののように見える。それは無限に傷つけられた神の義を、無限の贖いで和らげる形式のように見える。こうしてそれは人々には負債と債権との正確な均衡を主張する態度の表現として映ずる。・・・神の主張する『無限の贖い』は、二重の不吉な光をあびる。実際多くの信心書は、あたかも十字架のキリスト教信仰は、容赦なき正義で、人身御供、己の息子の犠牲をさえ望んだ神の姿を示すかのように思わせ、・・・。ひろまってはいるがこの考えは間違っている。聖書の中で十字架は、傷つけられた権利の機構の中の経過として現れてはこない。・・・ほとんどすべての宗教が、贖罪という問題を中心にしている。神の前で己の罪深さを知り、この罪の感じをのぞき、神にささげる償いの行為によって罪を克服しようとするのである。新約聖書では事態は、ほとんど逆になっている。・・・十字架は、人が怒れる神にささげる償いの業としてそこに立っているのではなく、・・・神の愚かしき愛の表現として立っている。・・・ 贖罪観、つまりあらゆる宗教の枢軸におけるこの転回によって、キリスト教の中で、礼拝や全実在も、新しい方向をえる。キリスト教では、礼拝はまず神の救いの業の感謝を込めての受容となっておこなわれる。従って、キリスト教礼拝の本質的形式は、ただしくエウカリスチア(感謝)とよばれる。この礼拝においては、人間の所業が神の前にもちだされるのではなく、むしろ人間が贈り物を甘受することなのである。・・・キリスト教の捧げものは、・・・贈与ではなく、むしろわれわれが全く授与者とな(る)・・・ことなのである。


「新約聖書を初めから終わりまで読む人は、そこではイエズスの贖罪行為が天父へのささげものとして描かれ、十字架はキリスト教が天父に従順にささげる犠牲として描かれているではないかという疑問を押さえきれないであろう。一連のテキストの中で、十字架は人間から神への上昇的運動として現れ、さきにわれわれが斥けたものが、再び前面に躍り出てくるように見える。・・・彼ら(=弟子たち)は、旧約で考えられたことはすべてイエズスにおいて成就されたと信じ、逆に旧約の事柄の真意は、イエズスからしてはじめて把握できると信じて、旧約の典礼テキストや規定を引き出した。かくして、新約聖書における十字架は、その他もののと混じって旧約聖書の礼拝神学の考えで解釈されたわけである。」
(『キリスト教入門』小林珍雄訳 エンデルレ書店 1973年)



 つまり『キリスト教入門』の著者は「無限に傷つけられた天主の正義を、無限の贖いでなだめる」という、トリエント公会議の主張し、公教要理にも教えられるほどの公式の教えは、「ひろまってはいるが、この考えは間違っている」と言う。



 つづけて著者はこう教える。

「十字架は、正義を損なわれて義憤に怒れる天主にささげる償いの業ではなく、天主の単純な愛の表現のみ」、

「キリスト教では、礼拝は、天主の救いの業を感謝を込めての受容すること」

「キリスト教礼拝の本質的形式は、エウカリスチア(感謝)」

「この礼拝においては、人間の所業が神の前にもちだされるのではなく、むしろ人間が贈り物を甘受すること」

「キリスト教の捧げものは、贈与ではなく、授与」



 つまり新しい神学の観点から言うと、「贖い」とは「天主に何かを返却するのではなく、天主を人間へと返すことを目的とする。」


 「贖い」はもはやキリストによってなされた天主の正義を満足させることではなく、天主が人類にした永遠の契約の最終的な「啓示」となる。


 キリストの「贖い」の業は、人々の罪に対し天主の正義を満足させることを目的とするのではなく、聖父の愛を完全に啓示することであるとすると「贖い」に関する古典的な神学を変更している。


(1)「贖い」の業は、人としてのキリストにと言うよりも、むしろ天主聖父に帰されなければならない


(2)イエズス・キリストは、固有の意味でもはや贖い主ではない。むしろ天主聖父がそこ(=キリスト)において救う場所になる。何故ならキリストという場所において聖父の愛とその名前が私たちに啓示されるから。


(3)「贖い」の主要な行為は、もはやキリストの死ではない。そうではなく、キリストの復活・御昇天である。十字架の死よりも復活・御昇天こそが「贖い」のもっと重要な行為となる。 何故か? 何故なら、新しい神学によれば、復活は啓示の充満であって、この啓示のためにキリストは人となったから。



 だから、この新しい神学を真にうけて「カトリック新聞」では、上のように、天主の正義を満足させる「贖い」ということが全く無視され、ミサは単に「世界のための神の愛を告げ知らせ体現していく」ためのものとしてのみ書かれたのではなかろうか。



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「なるほど新しい神学は、昔の公教要理のおしえを否定していたんだなぁ」と思われた方もクリックをお願いいたします。↓↓↓
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 でも、なぜ? なぜ新しい神学が過去の公教要理の教えを否定してまでも新しい教理を教えているのでしょうか??

 


私たちはカトリック新聞編集長が、公教要理とは離れた説明をしても、驚くべきではなかった

2006年09月02日 | ミサ聖祭


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 私たちは、この前「カトリック新聞」の記事をびっくりながら読んだ。



体を食べ、血を飲む


 中世以来、カトリックでは「実体変化」と呼ばれる理論が支持されてきた。しかしこの説明も、古代ギリシャの物理学に基づいた理論に頼っていたところがあったため、説得力を失った。


 究極的には、重要なのは聖体がどうであるかではなく、主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実


 聖書では、何かを「思い起こすということ」はそのことを「再現すること」、「現存させること」。「救いの歴史のある出来事を思い起こそうとする」なら、それで「実際に現在のことになる」。


 私たちは、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることを信じている。私たちは、キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ、体現していくためであることを信じている。


全文を読みたい方は次をご覧下さい。
http://www.cwjpn.com/kiji/hikari/hikariold/hikari3871b.htm



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 何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いたんだろうか?



 私たちは、この説明を読んで新しいミサの総則を思い出した。1969年の現れたこの新しいミサはその341条の総則の中で、一度も「全実体変化 transsubstantiatio」という単語が使われなかった。


 多くの批判を受けて、1970年にこの語は一度だけ総則に付け加えられた


 2000年に出された新総則にでも、次のように、一度だけ言及されたにすぎないことはそのままだ。次のように加えられただけだ。


3 両形態の聖体に主が現存されるという素晴らしい神秘は、トリエント公会議が信じるべきこととして提起したものと同じ意味と同じ文で、第二バチカン公会議および教会の教導権のその他の公文書によって確認されたが、そのことは、ミサの祭儀においては、キリストが実体変化を通して現存することを表す聖別のことば自体によるばかりでなく、感謝の典礼の中で行われる最高の尊敬と礼拝の内容と表現によっても宣言される。



 ここで注意したいのは、御聖体のうちに主が現存することは、本当にそうあるかどうかということよりも、「聖別の言葉によって表され(表現され)」、「感謝の典礼の内容と表現によっても宣言される」という「表現」のレベルに限られていることだ。しかも、御聖体のうちの現存と、ミサ(聖体祭儀)における主の現存とが同レベルに置かれている。もう一度良く読んで、ほしい。


「ミサの祭儀においては、キリストが「全実体変化」を通して現存することを表す聖別のことば自体によるばかりでなく(!!)、感謝の典礼の中で行われる最高の尊敬と礼拝の内容と表現によっても宣言される。



 ではいったい何故、御聖体のうちに主が「現存」することは、ミサ(聖体祭儀)における主の霊的現存とが同レベルに置かれているのだろうか?


 1969年の現れたこの新しいミサの総則の第7条は、次のようにミサを定義した。


「主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。」



(この新しいミサの定義は第二バチカン公会議の与えたミサの定義と抜本的に変わっていることを指摘しよう。なぜなら、第二バチカン公会議の「司祭の役務と生活に関する教令Presbyterorum Ordinis」(5番)には、「聖体祭儀の集会は信者の集いの中心である」"Est ergo Eucharistuica Synaxis centrum congregationis fidelium"とあるのにもかかわらず、新しいミサの式次第では「中心」という言葉が取り除かれ、「聖体祭儀の集会は、信者の集いである」となっている。)

 


 多くの批判を受けて、1970年に訂正され、2000年に出された新総則にでも、次のようそのまま引き継がれている。



第2章 ミサの構造、要素、各部 ミサの一般的構造


27 主の晩餐、またはミサは、聖なる集会の儀、すなわち「主の記念」を祝うために、キリストを代理する司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会である。したがって、「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)というキリストの約束は、とくに教会が、それぞれの地域で集まる時に実現される。十字架の生贄が続けられるミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。



ローマ・ミサ典礼書の新総則 ―― 2000年7月発行。英文からの翻訳。 ――
http://www.bishop-jp.com/sankou/roma/r-05.html

或いは、
http://goseitai-to-seibo-no-sito.web.infoseek.co.jp/institutio%20generalis%20missalis%20romani.html

 



つまり、新しいミサにおいては、


 ミサはまず「集会」。(十字架の犠牲ということは重要な要素ではない。)
 「主の晩餐」であり「主の記念を祝うために、司祭を座長として、一つに集まった神の民の集会」である。


 キリストの現存とは、集会における霊的現存である。(御聖体における現存ということは重要ではない。)
 「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(マタイ18・20)。


 新しいミサの定義において、キリストの現存は、キリストの霊的現存と混同されている。(御聖体における現存ということは最後に触れられているだけ。)
 ミサの祭儀において、キリストは、その名のもとに集まっている集会の中に、奉仕者の中に、そのことばの中に、現実に、またパンとぶどう酒の形態のもとに本体のまま現存される。

 


 だから、私たちはカトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いたとしても、驚くべきではなかったのだ。

 何故なら、
新しいミサによれば「全実体変化」ということは重要ではないからだ。
新しいミサによれば、重要なのは聖体がどうであるかではなく、主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実なのだから。
新しいミサによれば、聖体祭儀のうちにキリストが私たちと共にいることなのだから。


 だから、トリエント公会議の教えや公教要理の教えはもう古い「理論」として信じない司教様、司祭、カトリック信徒がますます増えても私たちは驚くべきではない。なぜなら、ラテン語であれ日本語であれ何語でなされるものであれ、それが新しいミサが私たちに教えていることなのだから。


 だから、検邪聖省の元長官であったオッタヴィアーニ枢機卿はバッチ枢機卿とともにパウロ六世に「新しい司式(=新しいミサ)はその全体といいまたその詳細といい、トリエント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。・・・聖伝からのこのように重大な逸脱を支持するような司牧上の理由は、たとえそれらの理由が仮に教義上考察した上でも正しいものだと考えられたとしても、私たちには十分だとは思われません。

 また、
「聖別の言葉は、以前のミサにはあった言葉それ自体が意味する様式 (modus significandi) が変えられてしまっているために、それに自体によっては、有効性を失っている。近い将来、聖伝にかなう養成を受けずに叙階される司祭たちが「教会のしていることをする」ために新しい司式に信用しきったとしたら、彼らは有効に聖変化を執行するのだろうか?この有効性に疑いを抱くことは許されている。」
と書いたのだった。




 だから、私たちはカトリックとしてベネディクト十六世教皇様のために霊的花束を捧げ、一刻も早く、聖伝のミサの公式の復活させる勇気を持たれるように祈っている。



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ピストイア教会会議って知っていましたか?

2006年08月27日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!



ピストイア教会会議って知っていましたか?



 1786年、トスカナのピストイアというところで教会会議(シノドゥス)が開かれました。この教会会議ではカトリックの教えが繰り返され、良い部分がたくさんありました。しかし、この教会会議はピオ六世教皇によって悪しきものであると排斥されました。


 何故でしょうか?


 何故なら「あいまいな言葉によってことを定義せずに」命題を主張して(Dz 2604)異端をほのめかしていたからです。


 また「トリエント公会議が信仰箇条として決定して、荘厳な信仰宣言の中に含まれている「全実体変化」という言葉を省略したから」です。「このように不幸なそして疑わしい省略によって、信仰箇条、および教会が異端に対して行う信仰宣言を取り除き、その結果として、この表現を忘れさせ、単なる学問上の問題であるかの印象を与えるから」(Dz 2629)です。


 ピストイア教会会議は、「全実体変化」を否定したわけではありませんでした!


 「全実体変化」を単なる昔の「理論」にすぎない、単なる学問上の問題である、などと主張してこれを否定したわけではありませんでした!


 ただ「全実体変化」という言葉を使わなかった、それだけだったのです!


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カトリック教会は「全実体変化」というドグマを宣言し信じているが、これは理論ではない。

2006年08月26日 | ミサ聖祭

アヴェ・マリア!


 聖ピオ十世の公教要理に従って御聖体の秘蹟について見てみましょう。



【御聖体の秘跡とは何ですか】

 御聖体とは、パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御天主性が、真実に、実体的に、実際にまします秘跡で、私たちの霊的な糧となるものです。



【この地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に現存しておられますか】

 地上において聖母マリアからお生まれになり、今は天においでになるイエズス・キリスト御自身が御聖体に実際に現存しておられます。


【何故イエズス・キリストが実際に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じますか】

 イエズス・キリストが実際に御聖体の秘跡に現存しておられることを信じるのは、イエズス・キリスト御自身がおおせになり、聖なる教会もそのように教えているからです。

 


【聖変化の前のホスチアは何ですか】

 聖変化の前のホスチアは単なるパンです。


【聖変化のあとのホスチアは何ですか】

 聖変化のあとのホスチアは、パンの外観のもとにまします主イエズス・キリストのまことの御体です。


【聖変化の前のカリス(聖杯)の中味は何ですか】

 聖変化の前のカリス(聖杯)には、ぶどう酒と数滴の水が入っています。


【聖変化のあとのカリスには何が入っていますか】

 聖変化のあとのカリスには、ぶどう酒の外観のもとにまします主イエズス・キリストの御血が入っています。


【パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのはいつですか】

 パンとぶどう酒とがそれぞれ御体と御血に聖変化するのは、司祭がミサ聖祭において聖変化のことばを唱えた瞬間です。


【聖変化とは何ですか】

 聖変化とは、イエズス・キリストが最後の晩餐のとき、「これは私の体である」、「これは私の血である」とおおせになり、パンとぶどう酒をそれぞれ尊い御体と御血に奇跡的に変えられたことを司祭を通して再現(現実化)することです。


【パンとぷどう酒がイエズス・キリストの御体と御血に奇跡的に変化することを教会は何と呼びますか】

毎日祭壇で行なわれるこの奇跡的な変化を教会は、全実体変化と呼びます。


【聖変化のことばにこれはどの力をお与えになったのはどなたですか】

 聖変化のことばにこれほどの力をお与えになったのは、全能の天主であるイエズス・キリスト御自身です。


【聖変化のあとにもパンとぶどう酒が残っていますか】

 聖変化のあとには、パンとぶどう酒の外観(「形色」とも言う)しか残っていません。


【パンとぶどう酒との外観とは何ですか】

 パンとぶどう酒との外観とは、形・色・味など五感によって感じられるものをさします。


【どうしてパンとぷどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのですか】

 パンとぶどう酒の外観のみが、その実体なしに残るのはすべて全能の天主の御力によるのです。


【パンの外観のもとにはイエズス・キリストの御体のみ、そしてぶどう酒の外観のもとにはイエズス・キリストの御血のみが現存しますか】

 主イエズス・キリストは、パンとぶどう酒とのいずれの外観(形色)のもとにも、御体・御血・御霊魂・御天主性をもって現存しておられます。


【何故ホスチアにも、カリスの中にも、イエズス・キリスト全体が現存しておられるのですか】

 ホスチアにも、カリスにもイエズス・キリスト全体がおられるのは御聖体のイエズス・キリストは、天国におけると同じように、生きておられ不死だからです。そのために、御体のいますところには、御血・御霊魂・御天主性が共に、また、御血のいますところには、御体・御霊魂・御天主性がともにおられます。イエズス・キリストにおいてはつねに御体・御血・御霊魂・御天主性が共においでになります。


【イエズス・キリストがホスチアに現存しておられるとき、天国にはおいでになりませんか】

 イエズス・キリストはホスチアに現存しておられても、同時に天国にもおいでになります。


【イエズス・キリストは、世界中で聖変化されたすべてのホスチアにおいでになりますか】

 イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアにおいでになります。


【何故イエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのですか】

 全能の天主に不可能なことはありません。この全能の力でイエズス・キリストは聖変化後のすべてのホスチアに現存することがおできになるのです。


【ホスチアをさくとき、イエズス・キリストの御体もさかれますか】

 ホスチアをさくとき、その外観(形色)が割れるだけで、イエズス・キリストの御体はさかれません。


【さいたホスチアのどの部分にイエズス・キリストがおられますか】

 イエズス・キリストの御体全体は、さいたホスチアのどの部分にもおいでになります。


【イエズス・キリストは、大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも同じようにおられますか】

 大きなホスチアにも、ホスチアの一片にも、同じイエズス・キリストがおられます。




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 だから、私たちはカトリック教会とともに大胆に、聖体が本当に主の体であり、血であると公言しているのです。

 私たちは、率直に主の体を食べ、血を飲むことについて話しているのです。

 カトリック教会は「全実体変化」と呼ばれるドグマを宣言し信じてきました。(これは「理論」ではありません!)



トリエント公会議はこう宣言しています。

1651(883)1条
 いとも聖なる御聖体の秘跡において、真に、現実に、そして実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が御霊魂と御神性とともに、すなわちキリスト全部が含まれていることを否定し、この秘跡には、しるしまたは象徴あるいは効力においてのみある、と言う者は排斥される(DzS1636、1640参照)。


1652(884)2条
 至聖なる御聖体の秘跡において、パンとブドー酒の実体が私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とともに残ると言い、パンとブド一酒の形色だけを残し、パンの全実体が御体に、ブドー酒の全実体が御血に変わるかの素晴らしい特異な変化(この変化をカトリック教会は全実体変化という全く適切な表現で呼ぶ)を否定する者は排斥される(DzS1642参照)。


 カトリック教会は、聖変化した御聖体が私たちの主イエズス・キリストの本当の体であるということを極めて重要に考えてきました

 「思い起こすということ」つまり「救いの歴史のある出来事を思い起こそうとする」という意味で「実際に現在のことになる」のではないし、そう言う意味で「再現すること、現存させること」ではありません

 たしかに、イエズス・キリストは「私の名前によって2人、3人が集まっているところに私もいる」とご自分の霊的現存について言われました。しかし御聖体の秘蹟とは、「聖体祭儀のうちに」キリストが私たちと共にいることを信じているのではなく、御聖体のそれ自体の中に、真に、現実に、そして実体的に、私たちの主イエズス・キリストの御体と御血が御霊魂と御神性とともに、すなわちキリスト全部がましますことを信じているのです。


 だから、聖体は「あなたがたの間にいるわたしであるパン」とか、「私たちと共にいるキリスト」というよりも、私たちがいなくても、ミサ以外でも、御聖体の外観のうちに真にましましたもう私たちの主イエズス・キリストなのです。


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 だから私たちは「カトリック新聞」の聖福音の説明を読むとびっくりするのです。 


体を食べ、血を飲む

 しかし明らかに、初代のキリスト者たちは私たちほど控えめではなく、聖体が本当に主の体であり、血であると公言していました。後に私たちが「現存」と呼ぶようになるこのことは、当時の(当時の!)キリスト者にとってあまりに現実的だったため、彼らは率直に主の体を食べ、血を飲むことについて話していたのです。

 キリスト者たちは何世紀にもわたって、どうしてパンとぶどう酒に見えるものが主の体であり血であり得るのかについて説明を試みてきました。中世以来、カトリックでは「実体変化」と呼ばれる理論(理論!)が支持されてきました。しかしこの説明も、古代ギリシャの物理学に基づいた理論に頼っていたところがあったため、説得力を失ってきました(!!)。

 究極的には、重要なのは聖体がどうであるかではなく(!!!)、主がご自分の体と血がまことの食べ物だと言われたこと、聖体のパンとぶどう酒がその体と血であること、そして主の弟子である私たちが聖体を分かち合うことで主を記念しているという事実なのです。

 聖書では、何かを思い起こすということはそのことを再現すること、現存させることです。救いの歴史のある出来事を思い起こそうとするなら、そこに入るのです。それで実際に現在のことになります。

 ですから、イエスが私たちに「わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われる時、イエスは、「わたしと共にいて、わたしと向き合い、あなたがたの間にいるわたしであるパンを食べ、ぶどう酒を飲みなさい」と言われているのです。私たちが分かち合う聖体は、実際に、私たちと共にいるキリストで、私たちを支えてくださるキリストなのです。

 外部の人には理解できないことです。私たちも理解してはいません(!!!)。私たちは信じているのです。私たちは、聖体祭儀(!)のうちにキリストが私たちと共にいることを信じています。私たちは、キリストご自身が私たちのうちにおられ、それは私たちがキリストのように生き、世界のための神の愛を告げ知らせ体現していくためであることを信じています。

 (ウイリアム・グリム=メリノール宣教会司祭)

全文を読みたい方は次をご覧下さい。
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「やっぱり、御聖体とは、パンの全実体がイエズス・キリストの御体に、そしてぶどう酒の全実体がイエズス・キリストの尊い御血にそれぞれ変化することによって、パンとぶどう酒の外観のもとに、主イエズス・キリスト御自身の御体・御血・御霊魂・御天主性が、真実に、実体的に、実際にまします秘跡なんだ!」と思われた方はクリックをお願いいたします。↓↓↓
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「でも何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理やトリエント公会議の排斥文とは離れた説明を書いたんだろうか???」と思われた方もクリックをお願いいたします。↓↓↓
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 ベネディクト十六世教皇様のための霊的花束ですが、たとえ少しであったとしても、数日だけだったとしても大歓迎ですので、是非、メールで私あてに提出なさって下さい。よろしくお願いします。感謝します。



 何故、カトリック新聞編集長ともあろう方が、公教要理とは離れた説明を書いた理由は、これではないかと思うところがあったら是非、コメントに書いて下さい。私も後日、その理由はこうではないか、というその何故に答える理由を書きたいと思っています。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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