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問題の第二バチカン公会議 パリの神学シンポジウム(1)問題提起

2012年08月03日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今年は、第二バチカン公会議開催五〇周年です。聖ピオ十世会の総会をきっかけに、第二バチカン公会議について深く考える機会となりました。

 第二バチカン公会議をどう考えるべきか、これについては、第2バチカン公会議とは --第2バチカン公会議の権威-- (ドミニコ会ペトロ・マリ神父の論文)の訳を発表したことがあります。その後も、2005年パリで第二バチカン公会議に関するシンポジウムが開かれて発言されました。それは2005年に、二冊の互いに主張の対立する、第二バチカン公会議に関する本がイタリアで出版されたからです。
 一つは、マルケット大司教の本、もう一つは、アルベリゴ教授の本です。
 マルケット大司教は、第二バチカン公会議が聖伝と連続している(はずだ)と主張し、アルベリゴ教授は、第二バチカン公会議は聖伝と断絶している(べきだ)と主張します。
 聖ピオ十世会はこのシンポジウムで、特にマルケット大司教の主張を吟味しながら、第二バチカン公会議が聖伝と断絶している現実を指摘します。

 このシンポジウムの内容を日本語に訳して下さった方がおられますので、心から感謝しつつ愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第二バチカン公文書の価値考察 (2005年10月)

問題の第二バチカン公会議
パリの神学シンポジウム---2005年10月


第一章:問題提起(Status Quaestionis)

公会議を巡る討論:マルケット(Marchetto)大司教とアルベリゴ(Alberigo)教授

 ここ数ヶ月の間、イタリアでは、二つの重要な出版物のお陰により、第二バチカン公会議とその解釈に関する討論が再び突如として現れるのが見られた。この二冊の出版物は対立的立場を取り入れている。つまり、現在移民者及び住居不定者の為の教皇庁立司牧評議会の秘書、アゴスティノ・マルケット(Agostino Marchetto)大司教がした発言をまとめている公会議文書の解釈の著作『第二バチカン世界教会会議。その歴史の対立点』[1]と、ボローニャの宗教学研究所の所長ジュゼッペ・アルベリゴ(Giuseppe Alberigo)教授の五部から成る、第二バチカン公会議の有名な歴史に関する概史、『第二バチカン公会議の短い歴史』[2]との事である

 第二バチカン公会議に関してはもう数え切れないほど出されたが、何故この出版物に関心を払うのか? 我々は先ほどこう言った。この二冊の出版物は対立的立場を取り入れている、つまり第二バチカン公会議について相互批判を投げつける事を躊躇ないことを両著者自身が公然と承認している対立の、一種の宣言を構成している、と。

 カトリック及び非カトリック世界の至る所で幅を利かせたボローニャのドセッティ≪学派≫[3]の方針は良く知られている。このボローニャ学派は、この公会議の中に、カトリック教会の為の新しい聖霊降臨、つまりカトリック教会にそれが数世紀の間に紛失してしまった、キリスト教メッセージの真正さを再発見させた、聖霊の新たなる通過だと、言う。[4] この視点に於いて、公会議は、革新、近代化(アッジョルナメント:現代世界への適応)、以前には決して見られなかった世俗に対する開放という、カトリック教会の現代世界に反対する反啓蒙主義的な対立の年月を忘れさせる程のプロセスを開始した、とされる。従ってそれは、過去との非連続性に於ける、根本的新しさを持ち込んだ出来事であり、また同時に公会議教令の適用だけに限られるべきではなく、むしろ公会議時に開始された近代化のプロセスを継続するよう励まさねばならない、刷新のプロセスの始まりを印した出来事だった。これこそが有名な≪公会議の精神≫への忠実、つまり継続的アッジョルナメントという理想への忠実なのである。<要するに当公会議に於ける聖伝との断絶のこと>

 アルベリゴ教授の主張は非常に明確である:「二千人以上の司教たちから成る集会を招集した出来事としての≪公会議≫という事実は、冷やかなかつ抽象的な規則として読まれるというよりは、この出来事それ自体の表現並びに延長として読まれ得る公会議の諸決定との関連でさえ、いっそう強烈に優先するものとして現れてくる。」[5]

 カトリック教会に於ける新しい始まりというこの理論は、当然の事ながらマルケット大司教から非難されている。「カトリック教会に於いて、この≪出来事≫が、断絶、絶対的新しさ、いわゆる新しい教会の誕生、コペルニクス的革命、要するに、もう一つ別のカトリック教義への移行などと同じ程の重要な出来事でないのか否か、...この見地は、まさしくカトリック的特徴を理由に、承認され得ないし、承認されるべきではないであろう。」[6] 

 ちょうどレランの聖ヴァンサン(St.Vincent de Lérins)が見事に教えているように、カトリック教会は「古の教えに対する賢明な忠実に於いて、最高の熱意を以って、これ、即ち草案の形で先達方から受けたものを完成かつ洗練する事、そして前以て明確に言い表されたものを強化及び補強する事、さらには既に批准されかつ定義された事柄を守る事以外は試みない」という理由により、我々はカトリック教会の教えに於いて、現実に新しいものは何一つ存在し得ないという原理を承認する事しか出来ないのだ。ただし、ルイニ(Ruini)枢機卿から熱狂的に歓迎され、さらにヨハネ・パウロ二世と現在の教皇<ベネディクト十六世> --- この御二方は≪聖伝の光に基づいた≫公会議の読み取りの信奉者であるが --- とによって共有されたマルケットの立場に対面して、我々には少なくとも正確な批判を放つ必要がある。

 マルケット大司教は、ボローニャ学派による解釈方針を≪観念学的(イデオロギー的)≫であると告発している。言い換えれば、過去との断絶及び非連続性状態にある出来事という先入観的基準により公会議を読むことを何度も繰り返し非難している。アルベリオとその協力者たちは、新しさの時期を最も多く強調している公会議の諸文書を故意に重要視して立ち止まっている。その代わりに聖伝との継続性を表明する命題らを忘れさっている、と。[7]この見方に対立して、マルケット大司教は、公会議を全体で一つのものだと考える解釈方針---彼の意見によれば、公会議教父たち自身の意向に最も忠実な解釈---を対峙させている。[8] この見方により、公会議文書の中には「結局アッジョルナメントがあった。...公会議で承認された諸文書、つまり全公文書がそれを示している様に、新しき物と古き物との共存、さらに<聖伝に対する>忠実と<この世への>開放との共存が、存在していた」[9]と理解されるだろう。

 この様な主張は、それ自体で問題を含んでいる。何故なら、まさに新しい事柄について、疑問が生じるからである。幾つかの公会議文章が、常なる教義との継続性にある事を証明しても何の役にも立たない。(そんなことは、これまで誰も問題としなかった。)問題は、depositum fidei<信仰の遺産>を深めたというよりは、既に何度も繰り返し排斥された現代思想に由来する、新しく非合法的な要素が存在していることである。しかしこの問題は、それだけで個別に扱われる値打ちがあり、既に相当数の調査の対象となった。

 マルケット大司教は、ボローニャ学派を観念主義だと非難していると私たちは既に述べた。しかしある意味に於いて、今度、自分が一種の観念主義に陥っているのは、まさにこのマルケット大司教である。何故なら、彼は「従って、この出来事は全教会的司教会議であり、...カトリック信仰の為のものということを出発点とすると、他の世界教会会議が定義した事柄に反し得ない固有の性質を伴うものとして、これをその様な<世界教会会議の様な>ものとして分析するという事実を偏見と見做してはならない。」[10]と主張しているからだ。

 この主張を通じて、いわゆる第二バチカン公会議がそれに先立つ世界教会会議を特徴付けた不可謬性を有しており、その結果、この公会議は他の公会議の定義のみならず、以前の全通常教導権とも矛盾するものを何も含む事が出来ないと言う事を、証明しなければならなかったはずの事柄をマルケット大司教は、その反対に前提としているのだ。

 これは決定的論点であり、全ての論証を支える要である。
 この疑問は大きな重要性を孕んでおり、はぐらかされる事を許さない。第二バチカン公会議への忠実を良心の問題とし、公会議文書の中で異論の余地がある要素の存在は、殆ど教皇の不可謬性というドグマを根底から覆すか、カトリック教会の教えの継続性を疑問に付させるだろう、と考察している多くのカトリック教徒の良心を悩ませている。この問題は敏感に感じ取られたことは、マルケット大司教の著書が、その初版から数ヶ月して早くも再出版の対象になったという事実に於いて示されている。

 中心になる疑問が、公会議文書の価値に関する疑問である事は明らかである。我々の発言の意向とは、最も広まっている疑問に答える事である。つまり世界教会会議(ここでは第二バチカン公会議)の諸々の教えはipso facto<自動的に>不可謬性を有するのか? ある教えが不可謬である為の諸条件とは何か? カトリックの聖職位階の公式な教えを討議にかける事は許されるのか?という疑問である。
 私たちが辿り着き、提示しようと試みる結論とは次の通りである。
第二バチカン公会議は:
1)諸公文書の価値に関して:討議に掛けられ得る;
2)諸公文書の内容に関して:討議に掛けられなければならない;
3)公会議の成立条件に関して:括弧で括らなければならない。

注釈
[1]アゴスティノ・マルケット著、Il Concilio Ecumenico Vaticano II. Contrappunto per la sua storia, Cité du Vatican <第二バチカン世界教会会議。その歴史の対立点>, Libreria Editrice Vaticana, 2005。
[2]ジュゼッペ・アルベリゴ著、Breve sioria del Concilio Vaticano II<第二バチカン公会議の短い歴史>, Il Mulino, 2005。
[3]イタリア人司祭ジュゼッペ・ドセッティ---Giuseppe Dossetti---神父の学派。
[4]G.アルベリゴ著、第二バチカン公会議の短い歴史 参照, p.163の引用文。
[5]同書、p.12。この本の結びに置かれており、それ故により思い意味を持った当著者の主張も御覧下さい:≪公会議の推進力の内向は、非常に大きな幻滅を意味すると共に、本当の歴史的なチャンスである、期待と自由の例外的な機運を台無しにしてしまうだろう。≫(p.176)。
[6]A.マルケット著、第二バチカン世界教会会議、p. 381の引用文。
[7]同書、p. 359参照。
[8]同書、p.315 参照。
[9]同書、p. 386。
[10]同書.

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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