Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

レネー神父様のお説教 4月11日金曜日―大阪―聖母の七つの悲しみ:共贖

2014年04月19日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖土曜日です。レネー神父様がなさってくださった受難の金曜日のお説教をご紹介します。(ご紹介が遅れてしまい、大変申し訳ありません。)

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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4月11日金曜日―大阪―聖母の七つの悲しみ:共贖

親愛なる信者の皆さん

日本は聖母の汚れなき御心に奉献されています。聖母は汚れなきお方です。これは教会の古くからの信仰です。聖母が汚れなきお方であるということは天使の証言に基づいています。即ち、聖母は「恩寵にみちたお方―ギリシャ語では『κεχαριτωμένη(ケハリトーメネー)』、恩寵において完全であるという意味」(ルカ1章28節)です。聖母こそがイザヤが預言(7章14節)した完全なる、即ち罪に犯されていない処女なのです。また初期の教会はアダムとエバのかたどりからもこれを証明します。即ち、キリストは新しいアダムですが、アダムが天主の手によって、手つかずの、つまり童貞である土から直接造られたように、新しいアダムであるキリストは童貞マリアから聖霊の働きによって生まれました。ところで、アダムが造られた土はまだ罪のない土でしたから、新しいアダムが生まれた童貞マリアも罪のない人であったのです。

私たちの聖母は天主の母、即ち天主の御子であるイエズスの母としてふさわしい母となるため、汚れなきお方です。それだけではありません。私たちの主イエズス・キリストが私たちを救うために人となってくださったように、私たちの聖母は贖罪の神秘に参加するために汚れなきお方なのです。実際、聖書で「汚れのない」という言葉を探してみれば、生け贄の条件として使われているのがほとんどです。旧約では、いろいろな種類の生け贄が捧げられました:子羊、子牛、山羊、などです。しかし捧げられる子羊は汚れのないもの、子牛も汚れのないもの、山羊も汚れのないものでなくてはなりません。新約においてさえ、汚れのないという言葉が使われているのはヘブライ人への手紙の中で私たちの主イエズス・キリストについて書かれているところのみで、それは聖パウロがキリストの生け贄に関して述べているところです。「山羊と雄牛の血、牝牛の灰などを、汚れた人々にそそいでその肉体をきよめるのなら、ましてや永遠の[聖]霊によって、汚れのないご自分を神に捧げられたキリストのおん血が、私たちの良心を死の業(わざ)からきよめて、生きる神に奉仕させ得ないことがあろうか。」(ヘブライ人9章13-14節)また聖ペトロもこういっています。「あなたたちが、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたのは、金銀などの朽ちるものによるのではなく、きずもなく汚点(しみ)もない子羊のような、キリストの尊いおん血によるのであることを、あなたたちは知っている。」(ペトロの前の手紙1章18-19節)

汚れのないことが生け贄の第一のそして最も重要な性質であるならば、聖母マリアはイエズスと共に生け贄となり、十字架の下でイエズスと一致するために汚れなきものであったのです。

実際、天主がアダムにエバを「彼に似合った助け手」(創世記2章18節)としてお与えになったのは、新しいアダムにも、また「彼に似合った助け手」であるあたらしいエバ、即ち、彼とともに汚れなき生け贄として贖罪の神秘に参加する聖母マリアがいるためであったのです。

大天使ガブリエルがマリアが天主の御子の母になることを告げた時、マリアは「主のはしため」(ルカ1章38節)としてご自分をお捧げになりました。聖母こそ、はじめにおいてばかりではなく、イエズスのこの世でのご生活のすべてにおいて、そしてイエズスが十字架にかけられた最後の日まで、はしためであり、助け手であったのです。聖母は十字架の下でイエズスと共に自らをお捧げになっておられました。

私たちの主イエズス・キリストも、聖母も、全く罪のない、汚れのない方でしたから、ご自分たちのために苦しむ必要はありませんでした。天主はお二人を理由なく苦しめるような不正義な方ではありません!罪人である私たちこそ苦しむべきなのです!お二人の苦しみはお二人を益することはありませんから、その効果は贖罪であり、キリストが贖い主、聖母が共贖者となられたのです。天主は水の一杯でも与える人に必ず報いをくださる(マテオ10章42節)ほどのお優しいお方ですから、十字架の下でキリストとキリストの母が受けられた沢山の深いお苦しみを、贖罪、無数の罪の赦し、数多くの聖人達の聖化など数えきれないお恵みをもって報いてくださらないことがあるでしょうか!実際私たちの主の御受難はアダムから始まる全ての人間一人一人の罪を贖って余りあるものですから、もしだれかが贖われないのであれば、それは私たち自身の過ち、私たち大人の個人的な過ちのためなのです。「その審判というのは、次のようなことである。光は世に来たが、人々は、その悪いおこないのために、光よりもやみを好んだ。悪をおこなう人は光を憎み、そのおこないがあらわれることをおそれ[る。]」(ヨハネ3章19節)光を拒むということ、私たちの主イエズス・キリストの愛を拒むこと、私たちの聖母の母としての愛を拒むことはなんと恐ろしいことでしょうか!

私たちは、私たちの主、イエズス・キリストの無限の功徳、そして十字架の下での私たちの聖母の数えきれない功徳を大いに信頼し、自分自身をお二人に、イエズスの聖心に、聖母マリアの汚れなき、悲しみの御心にお捧げしなくてはなりません。私たちはまた、私たちの全ての友人、親戚、その他私たちの大切にする人たち、私たちの国、大陸、そして全世界をお捧げしなければなりません。

今日悪がはびこっています。イエズスとマリアの犠牲に一致して自分自身を捧げ生け贄となる霊魂が大変必要とされています。このようなあらゆる悪を目の当たりにして、これを止めるためには私たちは何をすることができるのでしょうか?私たちはイエズスとマリアを見て、お二人が何をなさったかを学ばなくてはなりません。お二人は私たちの救いのためにご自分をお捧げになりました。ですから、私たちも、私たちの救いのため、他の多くの霊魂の救いのためにイエズスとマリアに一致して自分自身を捧げなければなりません。私たち自身をお捧げするというのは、天主が私たちに既に送ってくださったあるいはこれから送ってくださる十字架や苦しみを受け入れるだけではありません。それはまた、大罪だけではなく(それは全く問題外ですが)、あらゆる罪を避け、小罪や熱意のなさをも避け、私たちの隣人に喜んで与え、私たちの隣人を赦すというしっかりした努力をすることにあります。

私たちの捧げものが天主に喜んでいただけるものであるためには、汚れなき童貞と汚れなき子羊である私たちの主イエズス・キリストの例にならい、キリストのお恵みによって、私たち自身の霊魂をできるだけ純粋に、できるだけ汚れなきものとしておかなければなりません。私たちの苦しみを私たち自身の罪のためにお捧げしなくてはならない分が増えれば増える程、私たちの隣人や友人のためにお捧げする分が減ってしまいます。もし私たちが一方で犠牲を行い、他方で私たちの隣人を非難したり無分別に裁いたりしていれば、「一人が建て、他が打ち壊す、苦労以外のどんな利益があるのか?」(集会の書34章28節)

実際、十字架の下がもっとも安全な場所、悪魔が来ようとしない場所です。そこでは、私たちは自分の霊魂をキリストの血で何度も何度も洗う事ができます:「深い憐憫によって、私のとがを消したまえ。」(詩編50篇2節)そこでは、「私を守り、翼のかげに、[隠したまえ。]」(詩編16篇8節)翼は鳥が空に飛び上がるときに広げる腕の延長であるように、十字架の上に広げられたキリストの腕は、「すべての人を、[主]のもとに引きよせる。」(ヨハネ12章32節)「私は御手に魂をゆだねる。真実の神よ、あなたはすでに私を救われた。」(詩編30篇6節)私たちの精神はしばしば、いいえ常に、この十字架の下に戻って、黙想の内にそこに留まらねばなりません、とりわけ聖週間の間においては。

十字架の下では、私たちの聖母が私たちの大いなる助け手です。聖ヨハネと聖なる女達は、聖母への崇敬のゆえに、聖母と共に十字架の下にいるお恵みを受けました。もしキリストのお苦しみを黙想するのが難しければ、十字架の下で私たちの聖母が何を感じられたかを考えてみましょう。聖母がファリサイ人たちの冒涜を聞かれた時、ご自分の息子の両手が十字架に打ち付けられた時、ご自分の息子の体が鞭打たれた時、ご自分の息子の頭にいばらの冠がかぶせられた時、ご自分の息子の心臓が貫かれた時。聖母は何をお考えになったでしょうか?聖母は何をお感じになったでしょうか?どんなにお苦しみになったでしょうか?



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聖ピオ十世会日本は、毎年恒例の公式秋田巡礼を5月2日から6日まで行います。特に今年の巡礼に、多くの兄弟姉妹の皆様を巡礼にご招待いたします。

今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。



この聖週間の間、贖いの神秘に深く入り、常により深く罪に死に、私たちの主イエズス・キリストと共に永遠の命に復活することができるよう、私たちの汚れなき聖母、私たちの共贖者である聖母が私たちを助けてくださいますように。

アーメン。


苦しみの玄義 第三玄義、イエズス・キリスト、茨の冠を被らせたもう

2014年04月19日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

十字架の道行きの十四留の中にはありませんが、ロザリオの苦しみの玄義 第三玄義、イエズス・キリスト、茨の冠を被らせたもうを黙想をすることを提案します。

特に、茨の冠は、上からの正式な命令なしに、部下らが勝手に課した拷問でした。(マテオ27:27-30)

天主の計画としては、ユダヤ人たちがイエズスをキリストであり自分たちの王であると宣言することでした。ユダヤ教の存在の目的がまさに真のメシアを宣言することでした。しかしユダヤ人たちはこれに値しませんでした。
しかし真のメシアの王国はこの世からのものではありませんが、イエズス・キリストには真の天主として、王として、最高の司祭として、戴冠式が行われるべきでした。
イエズス・キリストは、大司祭カイファの前で天主の聖子であることを宣誓しました。真の天主は戴冠されるべきでした。また、ピラトの前で自分が王であると宣言しました。王である主の頭には王冠があるべきでした。旧約の大司祭はいけにえを捧げるときに三重冠(ティアラ)を頭に戴きます。十字架上で新約のいけにえを捧げる大司祭イエズス・キリストも王冠を戴かなければなりませんでした。主は言います。「私はこの世に勝った」と(ヨハネ16:33)。凱旋将軍であるイエズス・キリストは王冠を被る権利がありました。ユダヤ人の習慣では花婿は婚姻の式である種の冠を被りました。イエズス・キリストは、真のソロモンとして、自分の聖なる血で、自分の花嫁である教会をあがない、清め、霊的な婚姻のちぎりを結びます。

私たちの主イエズス・キリストは、もっとも純粋な黄金と銀とで出来た、高価な真珠と美しい宝石とダイアモンドとがちりばめられた王冠を被るべきでした。しかし、罪を犯したアダムとエワとのためにこの地が受けた「茨とあざみが生え出る」呪いを取り除くために、この真の王かつ救い主は、この呪いの印を持つことを天主は計画されました。

アブラハムによって屠られるべきだったイサアクの代わりのいけにえは、その角が茨に刺さって動きが取れなくなっていた雄羊でした。あたかもこの雄羊は、頭に茨の冠を被って、もがいているかのようでした。
ローマ軍人たちは、イエズス・キリストに対してあざ笑いながらこう言ったことでしょう。「頭をまっすぐにして動くな、おまえが長い間待ち望んだものを与えよう」と。確かにイエズス・キリストは、この茨の冠をかぶせられる時を待ち焦がれていました。人類が頭で犯す罪を償うことができるために、この時を待っていました。傲慢の罪、虚栄の罪、愛徳に反する考え、世俗的な考え、不潔な不純な考えや想像の罪を償うために。
もしも頭が苦しむのなら、体全体も苦しみます。もしもキリストの神秘体のかしらであるイエズス・キリストが苦しむのにもかかわらず、苦しむことを拒むのなら、快楽の生活と、罪の喜びを望むのなら、頭と一致していることはできません。

ローマ軍人は、私たちの主イエズス・キリストに茨の冠を押し被らせます。あざけりと軽蔑を込めて。茨はイエズス・キリストの頭に突き刺さり、血潮は流れ、顔は赤の血に染まります。聖伝によると茨は私たちの主の目にも刺さったと言われています。イエズス・キリストは全てを私たちの罪の償いのために堪え忍んでいます。

Popule meus, quid feci tibi? Aut in quo contristavi te?
我が民よ、私がおまえにいったい何をしたのか? いったい何においておまえを悲しませたことがあるというのか?
Ego propter te Chananaeorum reges percussi: et tu percussisti arundine caput meum.
私は、おまえのためにカナアンの王たちを打ちやった。しかしおまえは私の頭を葦で打った。
Ego dedi tibi sceptrum regale: et tu dedisti capiti meo spineam coronam.
私はおまえに王の笏を与えた。しかしおまえは私の頭に茨の冠を与えた。
Responde mihi.
私に答えよ。

私たちは時に、間違いを犯して注意されることがあり、叱られることがあります。私たちは頻繁にその間違いを指摘されても、偽りの弁解や、言い訳をしたりするのではないでしょうか。アダムとエワも言い訳をしました。「私の責任ではなかった、エワのせいだ」「蛇のせいだ」と。私たちはどうでしょうか?「病気だったので」?「天気のせいだ」?
私たちは、人から悪口や侮辱を言われたりすることもあります。しかし私たちの主は、どれほどの侮辱を受けたことでしょうか。

主の茨の冠を黙想し、いつも心の平和を保ち、イエズス・キリストともに苦しみを捧げる恩寵を願い求めましょう。悲しみの聖母よ、我らのために祈り給え!


さて、すでに報告しましたが、11月10日の主日にはフィリピンの台風被災者のために22020円の特別献金が自発的に集まりました。12月には東京で JPY48,350 (approx. USD462)が集められました。感謝します。さらに、12月のボーナスミサの時に、大阪で5万円の特別献金が集まりました。
それ以外にも、フィリピン台風募金として、ある方が11月26日に1万円、11月29日には5万円、入金がございました。総計で日本からは、180370円が集まりました。
韓国からも、現金として172万ウォンと200米ドルが集まりました。
これらの合計をフィリピンのペソに換算した161,212ペソが、レイテ島の被災者の復旧作業をしているダニエルス神父様の元に届けられました。
天主様に感謝します!ありがとうございます。

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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今年で8回目になる巡礼ですが、ご参加希望の方々は、聖ピオ十世会日本 秋田巡礼 SSPXJAPAN PILGRIMAGE TO AKITAなどを通してお申し込みください。




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