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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「一人の人が、全ての民が滅びない為に命を捨てるべきだ。」

2017年04月14日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2017年4月7日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2017年4月7日(初金) 受難節の平日のミサ
小野田神父 説教

聖母の汚れなき御心教会にようこそ。

今日は2017年4月7日、受難の主日の後の金曜日です。また初金曜日でもあり、そしてマリア様の七つの御悲しみの記念も行っています。今日は初金曜ですので、いつものようにこのミサの後には聖時間をお捧げ致しましょう。明日は10時30分からミサがあります。

主日は枝の主日で、夕方の18時からミサがあります。月曜日も朝6時30分からミサがあります。明日の土曜日には大阪での初めての枝の主日の準備も兼ねて、枝の主日の歌の練習や、枝の主日とはどういうものなのか、の黙想などを一緒にする事を提案したいと思っています、ぜひ明日も来て下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「一人の人が、全ての民が滅びない為に命を捨てるべきだ。」

こうその年の大司祭カイファは預言をしました。司祭として、天主の代理者として、たとえ相応しい者ではなかったにもかかわらず、しかし天主の制定した大司祭の立場の公式の発言として、「イエズス・キリスト様がこれから、全ての人が失われないように、その代わりにいけにえとなられる」という事を預言しました。それはユダヤ人のみならず、この世に散らばっている天主の御子が1つにまとまる為、イエズス・キリストの御頭のもとに1つの体となる為に、栄光のキリストの神秘体となる為に、その預言をしたのでした。聖ヨハネは福音書の中でそう書いてあります。

そこで今日は、イエズス様の御受難の中に深く入る為に、このミサを3つの点で黙想致しましょう。今日の指定巡礼教会と、それから今日の書簡、今日の福音、一体私たちに何を共通して伝えているのか、それを黙想して、最後にマリア様の七つの御悲しみを通して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。

第1のポイントは、今日の指定巡礼教会です。それは最初の殉教者、助祭聖ステファノの為に建てられた教会で、特にその美しいモザイクの十字架は有名です。モザイクの十字架には宝石が飾られていて、典型的な勝利と栄光の十字架です。そしてその上にイエズス様の上半身の姿がモザイクで描かれていて、「まさに今日、イエズス様が十字架をもって勝利される」という事を意味すると同時に、最初の、「イエズス様の苦しみに従った最初の殉教者、聖ステファノに私たちも倣わなければならない」という事を訴えています。

指定巡礼教会に教皇様或いは聖職者が、求道者や公の罪人と共に行列で入って行くと、聖歌隊が言うのは最初に歌うのは、「“Miserere mihi”私を憐れみ給え。」そして聖歌隊が歌う歌は、イエズス様の声を、詩篇を通して私たちに聞かせる歌です、「これからイエズス様は私たちの為に受難に入り、その敵に渡される」という声を響かせます。「これらは全て、私たちの罪が赦される為、そして私たちが1つと集まる為に」という事を私たちに聞かせています。

第2のポイントで、エレミヤの預言書も全く同じです。エレミヤというのはイエズス様の、「苦しむメシア」の象りでした。何故かというと、民が、ユダヤの民がヤーウェをあまりにも無視して、いい加減な罪の生活を送るので、エレミヤが送られて、「回心するように」と呼びかけるのですけれども、しかし罪を痛悔するどころか、そのエレミヤに対して忘恩と無関心とを以ってユダヤ人たちが対応したからです。今日の書簡書の中にもエレミヤがその事を言います。

第3の福音では、ちょうど1週間前に私たちは、この前の金曜日にラザロの預言の事を復活の事を見ましたけれども、このラザロの話の結果、大司祭たちが遂にイエズス様を「殺害しよう、亡き者にしよう」という決意を立てる事を読みます。あと1週間の後には、本当にイエズス様を十字架に付けてしまうという事が決定されます。8日後には、イエズス様が本当に十字架に付けられる事になってしまいます。

大司祭たちは、一体どうやって、いつ、具体的に殺害しようかという事はまだ様子を見ていたのですけれども、時を伺っていたのですけれども、しかしイエズス様の死はもはや決定的に決断されました。あとは時とやり方を探るだけでした。

聖ヨハネはこの大司祭の言葉をはっきりと、「天主の御摂理によって大司祭としての預言であった」と言います。使徒聖ヨハネはよく知っていました。「たとえ人々の悪意であったとしても、意地悪から来るものであったとしても、妬みから来るものであったとしても、憎しみから来るものであったとしても、そして相手がたとえ害を加える事のみを考えたとしても、地獄の勢力が全て計らったとしても、しかし全ては天主様の御摂理の下にあって、主の聖なる御旨を果たす為の道具として結局は、 善の為に善意の人々の善の為に使われる事になる」という事を知っていました。「天主の子らが1つに集まる為に、救われる為に、この預言をしたのだ」と。

私たちはイエズス様の流されるべき尊き御血の祝福を受ける事ができる。そしてそのそれを最初に実践したのは聖ステファノでした。ユダヤ人でしたけれども、そのイエズス様と同じく罪の赦しを願いつつ、自分の血を流していきました。

イエズス様はこれからエフレムという砂漠に姿を隠して、時が来るのを待っていました。聖父によって定められた時が来るのを待っていました。

今日御聖体拝領をする時に、是非イエズス様のその御悲しみと、イエズス様の私たちに対する愛のその深さを黙想しながら御聖体拝領をなさって下さい。

イエズス様の御悲しみがどれほどだったのか、それを私たちがよく理解する事ができるように、聖体拝領の時には詩篇を引用させます、特に「偽りの証言が、偽証人たちがイエズス様に対して立ち上がった」という事が語られます。もしも私たちが全く無実であるにもかかわらず、偽証人が私たちの前に立ち上がって私たちを陥れようとしたら、私たちは一体どのように考えるでしょうか。詩篇の声を響かせて、イエズス様の御悲しみはどれほどだったのか、という事を聖体拝領した私たちに考えるようにと教会は招いています。

では最後に、イエズス様の聖心のこの悲しみの中に深く入る為に、どのような遷善の決心したら良いでしょうか?

教会は、七つの御悲しみのマリア様の記念をさせる事によって、「マリア様を通してイエズス様の心の悲しみを、私たちに対する愛と、そしてその苦しみをよく知っていたマリア様を通して、その中に深く入るように」と招いています。あと1週間後に、マリア様はイエズス様の十字架の御下に立ち留まり、そしてイエズス様と共にその御苦しみを捧げようとされます。

マリア様の心は心臓は、どれほど張り裂けるように痛く、胸を痛めておられた事でしょうか。イエズス様に対してなされる偽証人たちの声、或いはイエズス様に対してなされる冒瀆の数々、イエズス様の汚れない御体に対してなされる残酷な仕打ち、暴力、全く罪が無いにもかかわらず立てられた罪状の札、釘打ちのその手、足、茨の冠、その嘲りの人々、マリア様の心はどれほど痛み、苦しまれた事でしょうか。

しかしイエズス様とマリア様は、私たちの為にそれを御捧げされようとされます。マリア様の御悲しみと、イエズス様の至聖なる聖心の無限の功徳を通して、私たちもその聖心の中に深く入る事ができますように、そして罪人である私たちが、求道者と公の罪人と共に本当の回心の恵みを受ける事ができますように、イエズス様を決して金輪際裏切る事がない御恵みを受ける事できますように、 そして私たちの日常の生活と苦しみを、マリア様とイエズス様と共に捧げる事ができますように、その御恵みを乞い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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